あの日、僕は上司の命令に背いたという理由だけで、20年以上勤めた会社を首になった。「高卒のお前より、東大卒の俺が行った方が仕事がまとまるんだよ」と、僕が必死に作り上げた商談の資料を横取りした係長にそう言われた。反論したら、笑いながら「お前はもう首だ」と。呆然とする僕に、同僚たちが心配そうな顔を向けていた。なんで僕が……そう思う反面、こんな職場に未練はないと腹を括った。そして翌日、僕はあの商談…

あの日、僕は上司の命令に背いたという理由だけで、20年以上勤めた会社を首になった。「高卒のお前より、東大卒の俺が行った方が仕事がまとまるんだよ」と、僕が必死に作り上げた商談の資料を横取りした係長にそう言われた。反論したら、笑いながら「お前はもう首だ」と。呆然とする僕に、同僚たちが心配そうな顔を向けていた。なんで僕が……そう思う反面、こんな職場に未練はないと腹を括った。そして翌日、僕はあの商談...

「お前はもう首だ。上司の命令に背くような奴は、ここにはいらない」

その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。20年以上、この会社のために尽くしてきた男が、たった一言で切り捨てられたのだ。

東大卒の上司・本田係長に、必死で作り上げた大事な商談を横取りされた。反論すれば首を言い渡された。

「ちょっと待ってください!」
「東大卒の俺が行く方が、仕事がまとまるんだよ。高卒は会社でおとなしくしてな」

「……わかりました」

俺はそれ以上何も言わず、自席に戻った。

俺の名前は田島秀幸。大学を卒業してすぐに入社し、この会社で働いてもう20年以上になる。この20年の間に、取引先の会社で受付をしていた妻と出会い、結婚し、子供も生まれた。家庭にも恵まれ、部下たちもよく慕ってくれている。何より、この会社には尊敬できる上司がいた。部長の平松さんだ。入社当時からよく可愛がってくれて、仕事のいろはを全て教えてくれた。おかげで仕事も順調にこなせている。本当に幸せな人生だと思っていた。

しかし、ある日からその幸せな人生の歯車が狂い始めた。新しい係長が部署にやってきたことから、すべてが始まった。

その新しい係長は本田という男で、俺より4つ年下だった。

「田島君、高卒でしょ? 俺、東大出てるからさ、俺の指示には従ってね」

係長は会うたびに自分が東大出身であることを自慢し、俺が高卒であることを馬鹿にしてきた。

「それに俺は上司だからさ。こっちが年下だからって言って、逆らわないようにね」

「はい」

それから係長は、何かにつけて嫌味を言ったり、雑用を俺に押し付けてくるようになった。

「こんな雑用、考察のお前がやっとけよ。俺みたいに東大出てる人間がやることじゃないからさ」

仕事を押し付ける上に、こんな嫌味まで言われるのだからたまったものじゃない。

「田島さん、大丈夫ですか?」

部下のみんなは心配そうに声をかけてくれる。本当に部下には恵まれている。

「うん、大丈夫、大丈夫。気にしなきゃいいんだから」

部下たちに心配をかけたくないので、そう言って笑って見せた。しかし、実のところ俺のメンタルはかなりのダメージを食らっていた。

あまりにも忙しそうな俺を見かねて、手伝いを申し出てくれた部下もいた。しかし、

「おい、お前にそんな指示出してないだろう。そんなことは高卒のダメ社員にやらせておけ。お前は自分の仕事をちゃんとしろよ」

そう言って、係長は部下が手伝うのを邪魔してしまう。

「すいません」

謝る部下に申し訳なくなってしまう。

「気にしなくていい。君が悪いんじゃないんだから」

そう言うと、部下はもう一度謝って自分の仕事に戻っていった。

片付けるそばから増えていくくだらない雑用。それらに追われ、自分の本来の仕事に遅れが出てきてしまった。やりがいのある仕事ならやる気も出るが、押し付けられたくだらない雑用に時間を取られ、俺は何のためにここで働いているのか、意味が見出せなくなってきた。そして、その遅れを取り戻そうと毎日夜遅くまで残業になる。正直、体も心も限界が来ていた。

「最近、お帰りが遅いですが、大丈夫ですか?」

妻の真美も心配してくれる。

「大丈夫だよ」

妻も家で家事に育児と頑張ってくれている。そんな妻に余計な心配はかけたくない。

「何かあるなら、部長さんに相談してみたらどうですか? あの人なら、何とかしてくれるかもしれませんよ」

「そうだね。今度ちょっと話してみるよ」

そう答えたが、こんなことで部長の手を煩わせたくないというのが本音だった。

「転職した方がいいのかな……」

メンタルにダメージが溜まり、追い詰められた俺はそう考えるようになっていた。

「最近どうした? 元気がないぞ」

ある日、部長からそう声をかけられた。今まで部長に余計な面倒をかけたくないと思って何も言ってこなかったが、係長があまりにも酷いし、妻の助言もあったので相談してみようと思った。

「部長、本田係長のことなんですが……」

「本田君がどうした?」

「ひどい量の仕事を押し付けてこられて、自分の仕事が全くできないんです。なんとかなりませんか?」

「そうか」

「ついでに言うと、会うたびに嫌味を言われて、正直気持ちの方も参ってしまって」

「なるほど」

「俺を助けようとしてくれる部下もいるんです。でも、そうなると係長はその部下に強く当たるので、どうすることもできないんです」

「……わかった」

部長はそう言ってくれた。

「次の人事移動までに、本田君の部署移動も考えてみるから、それまで待ってくれんか」

「はい」

と返事をしたが、正直、次の人事移動の日まで俺のメンタルが持つか自信はなかった。

そして、また係長から嫌がらせを受ける日々が続いた。

「おい、高卒、さっさと見積もり出せよ。低学歴は仕事が遅くてしょうがない」

「すいません」

「あのさ、高卒で低学歴なんだからさ、東大出てる俺の仕事の足を引っ張るなよな。全く」

係長の振る舞いは日を追うごとにエスカレートしていった。

そんな日々が続いたある日。

「田島君、ちょっといいか?」

「はい」

「今度、こういう商談の話が上がってるんだが、田島君やってくれないか?」

ある大口の取引先との商談の日程が組まれた。

「いいんですか?」

「ああ、君が適任だと思う」

その取引先の会社は、うちの会社が昔から付き合いのある大きな会社で、その会社との商談ともなれば、とても大きな仕事となる。久しぶりにやりがいのある仕事をもらい、自然と気合いも入るというものだ。

俺はその商談の資料作りに追われることとなった。

「おい、田島。資料の方はどんな具合だ?」

係長は毎日のようにそう聞いてくる。

「どうしたんですか?」

この商談は係長には関係がない。それに今まで他人の仕事に興味なんて持ったこともないのに、不思議だった。

「いや、田島君が大きな仕事を任されたって聞いてな。ちょっと心配になったんだよ」

部下の仕事の心配なんて今までしたことがなかったくせに、と思う。

「いや、これだけ大きな仕事になれば、会社にとっても大きく影響するからな。気になっちゃったよ」

嫌なやつではあるが、係長も会社の一員であることに変わりはないということなのだろうか。

「ええ、商談の日には間に合わせますよ」

俺は係長の行動を疑問に思いながらも、資料作りに励んだ。

そして、商談の日の前日。

「確認よろしくお願いします」

完成した商談の資料を係長に確認してもらう。なぜ係長の許可がいるんだと思うが、一応上司なので仕方がない。

「うん。いいだろう」

資料に目を通した係長が言う。

「ありがとうございます」

「うん。ご苦労。商談には俺が行ってくるから、お前はもう休んでいいぞ」

そう言って、係長はニヤニヤと笑った。

「ちょっと待ってください。どういうことですか?」

つい少し大きな声を出してしまう。俺が必死に作った資料を横取りし、係長は自分が商談に行くと言い出したのだ。

そんなこと、納得できるはずがない。俺がどれだけこの商談に向けて頑張ってきたと思ってるんだ。

「お前みたいな高卒のダメ社員が行くよりよ、俺みたいな東大卒の優秀な人間が行った方が、先方も話を聞いてくれるだろう。俺が行った方がいいんだよ」

「そんな……あんまりです」

「あのなあ、高卒で頭の悪いお前には分からないだろうが。これを適材適所って言うんだよ。分かったら黙って言うことを聞いとけ」

そう言ってまた笑っている。

「学歴は関係ないでしょう。それに、この資料を作ったのは俺です。横取りするんですか?」

その俺の反論に、係長は苛立ち始めた。

「横取りなんて人聞きの悪い言い方するなよ。お前の作った資料を、俺が最大限に生かしてやるって言ってるんだ。むしろ感謝しろよ」

「そんな滅茶苦茶な話がありますか?」

その後、俺と係長の言い争いはしばらく続いた。普段は反論などしない俺があまりにも食い下がるので、係長はだんだんと怒りを募らせていった。

「しつこいぞ。お前が行くよりも、俺が行った方がいいんだ。いい加減理解しろ」

「この資料の内容を全て理解しているのは、作成した俺です。納得できません」

係長の怒りはついに限界を迎えたようだった。

「うるさい。だったらお前はもう首だ。上司の命令に背くような奴は、ここにはいらない。首だ」

「首」という言葉を聞いた瞬間、俺は驚くと同時に、係長と言い合っていることが馬鹿馬鹿しくなった。自分のわがままが通らないからと言って、社員を首にするような奴を、これ以上相手にする必要はない。

「わかりました」

そして自分のデスクに戻る。

「それでいいんだよ」

係長は満足そうに笑っていた。

周りの部下が心配して集まってきてくれた。部下たちに「大丈夫だよ」と微笑んで見せる。そして、テキパキと自分の荷物をまとめた。

「では、失礼します」

部下たちに「ごめんね」と謝り、俺は会社を出た。

「ただいま」

「お帰りなさい」

妻は普段通り迎えてくれた。

「会社、辞めてきた」

そう言う俺に、妻は優しく微笑んでくれた。

「そうですか。でしたら、少しゆっくりしましょう」

そう言ってくれたことに、俺の心が救われた。

翌日、俺のスマホが鳴った。画面を見ると、首にされた会社からだった。

「もしもし」

電話の主は部長だった。

「田島君か。平松だが、なぜ会社に来ないんだ?」

「俺はもう首になりましたので」

「どういうことだ?」

部長に、昨日の係長とのやり取りを説明する。

「本田係長から、首を言い渡されました」

「本田君が?」

「はい。本田さんの言うことに従えない奴は要らないとのことだったので」

「今日の商談はどうするんだ?」

「それも、本田さんが行くとおっしゃってましたよ」

「ちょっと、このまま待っててくれ」

電話越しに向こうの様子が聞こえてくる。部長は係長を呼び出し、どういうことかと聞いているようだ。

「いや、あんな高卒の社員には、こんな大きな仕事を取りまとめるのは無理でしょう。俺が行った方がいいですよ」

係長は部長にまで、そんな言葉を吐いていた。

「もういい。戻れ」

部長も係長に呆気にとられた様子で、そう言い捨てていた。

「田島君、聞こえてるか?」

「はい」

「事情は分かった。とりあえず話をしよう。会社に来てくれないか?」

「いえ、今日は大事な用事があるので、無理です」

「なんとかならないのか」

「いえ、実は……」

俺はその用事の内容を説明し、部長には納得してもらった。

「それなら、仕方がないな」

「申し訳ありません。ちゃんとご挨拶には伺いますので」

俺はそう言って電話を切った。

「あの高卒、何か言ってましたか?」

係長が馬鹿にした態度で聞く。部長は事態を全く理解していない係長に頭を抱えた。

「うるさい。とにかく、商談の時間が迫っている。行くぞ」

「わかりました」

そして、二人で取引先に向かう。

「失礼します」

部長がノックをし、係長と二人、取引先の部屋に入る。

「なんでお前がここにいるんだ?」

係長は、目の前にいる俺に驚いていたようだった。俺は、その商談相手の会社の社長が隣に座るのを待っていた。

「お前は俺が首にしたはずだろう。何をしてるんだ?」

「黙れ」

騒ぐ係長を、部長が静かに一括する。

「どうぞ、お座りください」

俺の隣に座る父が、二人をそう言って促す。

「失礼いたします」

部長はそう言って、俺たちの前に座る。係長はまだ事態を理解していないようで、驚きに言葉を失ったまま部長の隣に座った。

「この商談には、うちの社員の田島君を同席させることをお許しください」

そう紹介されたので、俺が頭を下げて挨拶する。

「今回の担当をさせていただきます。田島です。よろしくお願いします」

「うちの社員って……。お前はうちの社員だろ」

「先ほど俺が首にしたとおっしゃったのは、そちらじゃないですか」

そう言うと、係長は黙った。

実は、今回の商談相手の会社は、俺の父が社長を務める会社だったのだ。元々、ある程度こちらの会社で経験を積んだ後、父の会社を継ぐことにはなっていたのだが、今回のことを話したら「今来てくれても構わない」と言っていただき、俺は父の会社に入社することになったのだった。

先ほどの電話で部長にはこのことを伝えていたので、何も知らないのは係長だけだった。

係長は驚いて、何も言えなくなっているようだった。

「本田さん。本来なら、あなたみたいな人との取引は即刻中止にしたいところです。ですが、部長にはお世話になりましたし、今回は部長に免じて多めに見ることとします」

係長は悔しさに顔を真っ赤にして、俯いていた。

そこで、社長である父が口を開いた。

「息子から、お話は全て聞かせていただきました」

その一言に、係長は怯えているのか体が震え出した。

「今回は息子の頼みがあったので契約は継続しますが、今後も同じようなことが起こった場合は、すぐに取引を中止させていただきますので、そのつもりで」

部長が黙って頭を下げる。係長は体を震わせるだけで、動けないようだった。

「私は、人材育成こそが会社の未来を守っていくことであり、一番大事なことだと思っています。だから今後も、このような従業員を大事にしない様子が見えたら、その時は容赦いたしません。いいですね」

そして、動かない係長の顔を覗き込む。

「申し訳ありませんでした」

係長は、消えてしまいそうなほど小さな声でそう言った。

そうして商談は終わった。話し合いが終わると、係長はすぐ逃げるように会社を出ていき、部屋には部長だけが残った。

「今回のことは、すまなかったな」

「いえ、部長のせいじゃありませんから」

「こんなことを言えた義理じゃないのは分かってるが、これで、あいつも反省したとは思うんだ。……田島君、うちに戻ってこないか?」

そう言われ、隣に座る父と顔を見合わせる。

「いえ、いずれは父のこの会社を継ぐつもりでしたから。このまま退職させていただこうと思います」

「そうか。残念だが、仕方ないな」

「それから、係長の振る舞いに苦しんでいる社員が、きっと他にもいるはずです。その辺りの調査も、よろしくお願いいたします」

「わかった。しっかりやっておく。安心してくれ」

「よろしくお願いします。部長には本当にお世話になりました。心から感謝しています」

そして、頭を下げる。

「会社としては本当に惜しい人材を失うことになるが、私個人としては、田島君のことはこれからも応援している。頑張りたまえよ」

「はい。ありがとうございます」

「これからは、いい仕事相手としてよろしく頼むよ」

「もちろんです。こちらこそ。これからもよろしくお願いいたします」

「うん」

そして、俺と部長は固く握手を交わした。

これからは部長と、上司と部下ではなく取引相手として、いいパートナーシップを築いていけるだろう。これからも父の元で、部長に恩返しをするべく頑張っていこうと心に決めた。

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