廊下で妻の名前を呼ぶ声が聞こえたのは、三宅の笑い声に混じった、そんなに大きな声じゃなかった。それでも確かに聞こえた。
「あれが佐藤の奥さんか。うん、なんというか地味だな」
「医者の嫁ってもう少しこう、パッとした人が多いだろう」
「もったいねえな。佐藤も」
俺は聞こえないふりをして通り過ぎた。耳の奥が熱くなった。妻・七海は、朝、黙って弁当を作ってくれる。焼き魚と卵焼きと青菜の煮びたし。派手じゃないけれど、味付けは丁寧で、米粒まで艶がある。俺が夜遅くなると言えば「無理はなさらないでくださいね」とだけ言う。それだけの女だと思っていた。
3年前、母の勧めで見合い結婚した。系列病院の看護師で、控えめで飾り気のない女性だった。母は「この子は真面目だから」と言ったきり、何も語らなかった。俺もそれで納得した。派手な女に振り回されるのは性に合わない。そう思っていた。心のどこかで、もう少し見栄えのする妻なら、と思ってしまったことがなかったと言えば嘘になる。その事実が、三宅の言葉にざらりと反応した。
その週の月曜日、看護部から通達が来た。系列病院から数名の看護師が応援勤務として大学病院に来る。名簿の中に七海の名前があった。翌朝、病棟に姿を現した七海を、看護師たちは物珍しそうに眺めていた。髪をきっちり束ね、化粧もほとんどしていない。華やかな職場では確かに目立たない。でも、七海は気にする様子もなく、受け持ちの患者一人ひとりに丁寧に挨拶をして回った。男性患者には膝をつくようにして目線を合わせ、点滴のラインを整えながら静かに話しかけていた。
その姿を、病棟主任の桜場がじっと見ていた。桜場は看護歴20年以上のベテランで、遠慮せず厳しいことで知られている。昼過ぎ、俺が病棟に上がると、桜場が声をかけてきた。
「佐藤先生、奥さんの七海さんでしたか。あの人、少し変わってますね」
「変わってるというか、悪い意味ではないんです。むしろ逆で、患者さんの見方がうちの若い子たちと全然違う。まるで何十年もやってきた人みたいで」
俺は返事に困った。「まあ、真面目な性格だからな。それだけだと思うが」
「そうでしょうか。私にはそう見えないんですけどね」
桜場は含みのある笑みを残して去っていった。その日の夕方、中央エレベーターの前で、委員長の曽根が七海を見て足を止めた。63歳の大学病院委員長。顔から表情が抜け落ち、目だけが大きく見開かれる。何かを言いかけたようにも見えた。だが、七海が気づかないうちに、曽根は視線をそらし、静かにその場を去っていった。
金曜日、救急搬送の連絡が入った。男性、心肺停止。俺が処置室へ向かう途中、ストレッチャーと共に走る七海の姿を見た。七海はすでにモニターの準備を整えていた。除細動機のパドルを胸の位置に置き、酸素の流量を確認し、ラインを2本確保している。まだ俺が指示を出す前のことだった。
「あの、まだ先生の指示が出てませんよ」
「大丈夫です。先生が来られたらすぐ動けるようにしておくだけですから」
その口調は柔らかかったが、迷いがなかった。俺が現場に着いた時には、必要なものは全て揃っていた。血液検査の検体、心電図、点滴、除細動器。まるで俺の指示を先読みしていたようだった。処置は驚くほどスムーズに進んだ。患者の血圧は安定を取り戻し、意識も戻った。若手医師が俺に耳打ちした。
「佐藤先生、あの看護師さんすごいですね。どこの現場から来られたんですか?」
「系列病院だ。うちの妻だよ」
「え、奥さんですか?」
若手医師は目を丸くしていた。処置が終わり、七海は淡々と器具を片付けていた。俺は片付けを手伝いながら聞いてみた。
「七海、今日の動き、随分手慣れてたな。あんな現場、前に何度もやってたのか」
「昔、少し大変な現場を経験しただけです」
七海は微笑んでそう答えた。その笑顔は、いつもの朝と同じ穏やかで飾り気のないものだった。家に帰り、風呂に浸かりながら天井を見上げた。七海のことを、俺は本当に知っているのだろうか。3年間一緒に暮らしてきた妻。その静かな笑顔の奥に、俺の知らない時間が積み重なっている気がした。
午後、病院の空気が明らかに変わった。事務が青い顔で走り、警備員が正面玄関に増員される。藤堂洋次郎。国内有数の企業グループの会長が、急性大動脈解離の疑いで救急搬送されてくるという。俺は循環器内科の当直として待機を命じられた。三宅も呼ばれていた。
「佐藤、こいつは慎重にやらねえと首が飛ぶぞ。上からも問い合わせが来てるらしい」
「分かってる。とにかくいつも通りやるだけだ」
答えながらも、手のひらにはうっすらと汗が滲んでいた。VIP患者というのは、医療的な難しさよりも外部の視線の重さがきつい。1つのミスが病院全体の信頼に関わる。救急搬入口にサイレンが響いた。ストレッチャーに乗せられた藤堂は意識こそあったが、顔色が土色になっていた。付き添いの秘書たちが廊下に押し寄せる中、俺は診察を始めた。その現場に七海もいた。応援勤務のシフトで偶然、救急外来に入っていたのだ。
検査室へ移動する途中、事は起きた。モニターの波形が突然乱れる。藤堂の顔が急に紫色に変わり、呼吸が浅くなった。
「先生、血圧が急激に下がっています」
「なんだこの波形は? 心タンポナーデか?」
現場が一気に騒ついた。秘書たちが廊下の向こうで騒ぎ始め、師長が真っ青な顔で走り寄ってくる。若手医師の一人は指示を求めて俺と三宅の顔を交互に見ていた。その時だった。七海が一歩前に出た。
「先生、急性大動脈解離の可能性があります。心エコーの準備と輸血の手配をお願いします。ここで動かすのは危険です。処置室へ運びましょう」
その声は、俺が今まで聞いたことのない声だった。低く静かで、しかし迷いが一切ない。まるで戦場で指示を取る司令官のようだった。
「あなたはルート確保。あなたは吸引器を持ってきてください。あなたはご家族の対応。秘書の方々には廊下の外へ出ていただいて」
看護師たちが弾かれたように動き出す。七海は藤堂の頭側に回り込み、気道確保しながら俺に目線を送った。
「先生、指示をお願いします」
俺は我に帰った。自分がこの現場の医師であることを、七海の一言が思い出させた。エコーを当てる。心膜に液体が溜まっているか確認する。その時、処置室の扉が開いた。入ってきたのは、委員長の曽根だった。藤堂が搬送されるという一方で、自ら駆けつけたのだろう。額に汗を浮かべ、曽根は現場を見渡した。そして七海の姿を認めた瞬間、曽根の動きが止まった。一瞬、時間が止まったように見えた。曽根は無言のまま、七海に向かって深々と頭を下げた。
処置室にいた全員が息を飲んだ。大学病院の委員長が、応援勤務の看護師に頭を下げている。三宅は口を半開きにしたまま動けなくなっていた。桜場も廊下の入り口で目を見開いている。曽根はゆっくりと顔を上げ、その場にいる全員に向かってはっきりとした声で言った。
「皆さん、聞いてください。今日、この場だけは彼女の判断を信じてください。私が全責任を負います」
誰も何も言えなかった。曽根の目には深い信頼と、それを超えた何かがあった。七海はほんの一瞬だけ曽根を見つめ返し、それからすぐ患者に向き直った。
「先生、心膜内に出血があります。ドレナージを急ぎましょう。血圧維持のための薬剤の準備もお願いします」
「分かった。すぐにやる」
そこからは、七海を中心に現場が一つになって動いた。若手医師もベテラン看護師も、七海の指示に迷わず従った。桜場さえ、道具を運びながら「はい」と短く応じていた。俺は針を進めながら、汗が目に入るのも構わず処置に集中した。心膜に溜まった血液が抜けていくにつれ、モニターの波形が徐々に落ち着いていく。血圧が戻り、藤堂の顔色に赤みが差してきた。
「先生、血圧100まで戻りました。呼吸も安定しています」
「よし、このまま集中治療室へ運べ。心臓外科にも連絡を」
「はい、もう手配してあります」
俺は一瞬笑いそうになった。やはりこの人は先に動いている。藤堂は集中治療室へと運ばれていった。処置室に残された俺たちは、しばらく誰も口を開けなかった。三宅がボソリと呟いた。
「お前の奥さん、一体何者なんだ?」
「俺にも分からない」
その日の夕方、曽根は全職員を大講堂に集めた。緊急の招集だった。何事かと集まってきた医師と看護師たちの前に、曽根は静かに立った。七海の姿はなかった。本人は集中治療室で藤堂の術後管理に付き添っていた。曽根はマイクを持たず、素の声で語り始めた。
「今日、皆さんに話しておかなければならないことがあります。15年前の、あの地震のことです」
大講堂が水を打ったように静まり返った。
「あの日、私は被災地の派遣病院で医師として勤務していました。地震の後、私は倒壊した建物の下敷きになりました。両足を挟まれ、2日間瓦礫の中にいました。もう助からないと、自分でも思っていました」
俺の隣で三宅が息を飲んだ。曽根委員長が被災していたことなど、誰も知らなかった。
「その私を瓦礫の下から引きずり出し、応急処置を施してくれた看護師がいました。災害派遣医療チームの応援で入っていた、20歳そこそこの若い看護師でした。彼女は私を助けた後も、何日も避難所を回り、次から次へと運ばれてくる負傷者に向き合い続けました。私は記録を見たことがあります。彼女が直接命をつないだ人の数は、100人を優に超えていました」
会場の空気が重く沈んでいく。
「現場が落ち着いた後、国から表彰の話が出ました。しかし彼女はそれを辞退し、静かに現場から姿を消しました。ただ一言、こう言い残して『助けられなかった命の方が、ずっと多いですから』と」
曽根は一度目を閉じた。
「その看護師の名前を、私は今日まで誰にも話しませんでした。彼女がそれを望まなかったからです。しかし今日、皆さんは彼女の仕事を目の当たりにしました。だから、これだけは言わせてください。その看護師が、佐藤七海さんです」
大講堂の中で、誰かが小さく声を漏らした。桜場が両手で口を抑えていた。三宅は顔面蒼白のまま、床の一点を見つめて動けずにいる。
「私は生きている限り、彼女への恩を忘れることはできません。今日、皆さんが彼女の判断を信じてくれたことに、私は委員長として、そして一人の生き延びた人間として、心から感謝しています」
曽根は再び深く頭を下げた。会場のあちこちから鼻をすする音が聞こえ始めた。俺は身動きが取れなかった。朝、俺に弁当を渡してくれるあの女性。「行ってらっしゃい」と静かに見送ってくれるあの妻。その手が、かつて何百人もの命をつないできたのだ。三宅が絞り出すように呟いた。
「佐藤、俺はとんでもないことを言っていたんだな」
「いや、悪いのはお前だけじゃない。俺もだ」
自分の妻を、俺自身がどこかで軽く見ていた。その事実が今、胸を焼いていた。
家に着いたのは日付が変わる少し前だった。玄関の明かりが、いつものようについていた。七海は台所で湯のみに茶を注いでいるところだった。まるで今日という日が特別ではなかったかのように。
「お帰りなさい。お風呂湧いていますよ」
「ああ、ただいま」
俺はネクタイを緩めたまま、食卓の椅子に腰を下ろした。七海が湯のみを俺の前に置いてくれる。その手をじっと見つめた。節が少し目立つ細い指。爪は綺麗に整えられている。この手があの日、瓦礫の下から委員長を引きずり出したのだと思うと、湯のみを掴む自分の手が震えそうになった。
「七海、少しだけ話をしてもいいか?」
「はい。何でしょう?」
「今日、委員長が全職員の前で、15年前の震災の話をしたんだ」
七海は少しだけ困ったように微笑んだ。
「そうなんですか。曽根先生、お話になったんですね」
「知ってたのか?」
「先生とはあの日以来、一度もお会いしていませんでした。ただ、この病院に応援で来ることが決まった時から、そういう日が来るかもしれないとは思っていました」
七海は湯のみに視線を落とした。
「あの地震の話は、あまり得意ではないんです。話すと、あの匂いが戻ってくるので」
「匂いって?」
「埃と血と、雨に濡れたコンクリートの匂いです。何日経っても髪の毛に染みついて、取れなくて」
七海は静かに続けた。
「私は確かに何人かの方を助けました。でも、助けられなかった方の方がずっと多かったんです。目の前で手を握ったまま、冷たくなっていく方もいらっしゃいました。子供さんもいました。私はその方たちの顔を、今でも一人ひとり覚えています」
俺はじっと話を聞いた。
「だから表彰は受けられませんでした。私が英雄と呼ばれると、助けられなかった方たちに申し訳が立たない気がして」
七海の目に涙が浮かんでいた。俺は俯いた。自分が今まで何を気にして生きてきたのか。同僚の影口、世間の目、華やかな妻。そんなものに振り回されていた自分が、たまらなく恥ずかしかった。
「七海。俺は君のことを何も分かっていなかった。周りの目ばかり気にして、君のことを心のどこかで軽く見ていた時もあったんだ。すまなかった」
七海はゆっくりと俺を見つめた。そしていつもと同じ穏やかな笑みを浮かべた。
「あなたは毎晩、患者さんのことを考えて帰ってきてくださいます。それだけで、私は十分ですよ」
その一言が、俺の胸の奥に静かに染みていった。
翌日、廊下の空気が昨日までとは違っていた。すれ違う看護師たちが、七海を見かけると皆一様に丁寧に頭を下げる。若手医師たちも緊張した面持ちで七海に挨拶をしていた。ナースステーションでは、桜場が七海の前に立っていた。桜場は深く頭を下げていた。
「七海さん。私、あなたのことを最初は少し軽く見ていました。応援できた地味な看護師さんだと。本当に申し訳ありませんでした」
「桜場さん、頭をあげてください。私は何も特別なことはしていませんから」
「いえ。私は20年以上仕事をしてきましたが、昨日のあなたの動きを見て、まだまだ学ぶことがあると思いました。これから色々教えていただけませんか?」
「教えるなんて。そんな、私こそ桜場さんに教わりたいことがたくさんあります」
桜場は目をうるませて何度も頷いていた。その後ろから、三宅がぎこちない足取りで近づいてきた。
「奥さん……いや、佐藤七海さん。俺はあなたのことを見た目だけで判断して、影でひどいことを言っていました。佐藤にも、あなたにも、本当に申し訳ありませんでした」
「三宅先生、顔をあげてください」
「いえ、顔をあげる資格はありません。俺は医者として、人として、恥ずかしいです」
七海は少しだけ首をかしげ、それから穏やかに微笑んだ。
「三宅先生、私は誰かに責められたことも、責めたいと思ったこともありません。患者さんが元気になってくださるなら、それで十分なんです。先生もこれから患者さんを助けてくださるなら、それで十分ですよ」
三宅は顔を歪めた。絞り出すように「ありがとうございます」とだけ呟いた。その光景を、俺は少し離れた場所から見ていた。七海は誰一人攻めなかった。過去を語ることもなく、恨みを口にすることもなく、ただいつもの笑顔で目の前の同僚に向き合っている。それは、一人の人間としての器の大きさだった。
俺の隣に、いつの間にか曽根委員長が立っていた。
「佐藤先生、あなたはいい方を奥様に迎えられましたね」
「はい。本当にそう思います」
曽根は少しだけ目を細めた。
数日後、俺は新人医師の研修を任された。毎年この時期に行われる講義だ。大講堂には20数名の新人医師が並んでいる。その後方に、七海の姿があった。桜場が「是非一緒に」と七海を誘ってくれたのだ。俺はマイクを手に取り、深く息を吸った。
「今日は少しだけ、私自身の話をさせてください。医師は一人では患者を救えません。どれだけ腕を磨いても、どれだけ知識を積んでも、たった一人では目の前の命を救うことはできないんです」
新人医師たちが真剣な眼差しで俺を見ていた。
「私がこの仕事を続けていられるのは、支えてくれる人がいるからです。看護師、技師、事務職員、そして家族。私が人生で一番尊敬している医療者は、有名な教授でも名医と呼ばれる人でもありません。毎朝笑顔で俺を送り出してくれる、私の妻です」
会場がざわりと静まった。
「妻は『患者さんが元気になればそれで十分だ』と言います。私はその言葉の意味を、ずっと理解できずにいました。でも今は、少しだけ分かる気がします。医療の本当の価値は、名声でも地位でもなく、目の前の一人の命にどれだけ真摯に向き合えるかにあるんです」
講義が終わり、俺は大講堂を出た。廊下で七海が待っていた。
「少し照れくさかったです」
「悪かったな。でも本当のことだ」
「今晩、何か作りますね。何が食べたいですか?」
「君の作るものなら何でもいいよ」
俺たちは廊下を並んで歩いた。窓の外には柔らかな夕日が差し込んでいた。七海の白衣の裾が、光の中で静かに揺れている。俺はこの人の隣を、これからも歩いていく。



