高級寿司屋で酒を飲んでいた俺の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おい、もしかして菊池か?」
振り返ると、そこには安西が立っていた。かつて同じ営業部で働き、俺を地獄へ突き落とした男だ。
「よう、久しぶりだな。何してんだよ、こんなところで」
安西は酔っているのか、声がやけに大きい。そして遠慮なく俺の隣に腰を下ろした。
「お前、こんな高い店に来るなんてどうかしてるぞ。会社から転がり落ちた人間だろうが」
そう言って大笑いする安西に、俺はかつての日々を思い出していた。
俺と安西は同期だった。明るい性格で、体育会系で、営業職を志望した。建設会社に入社してからも、俺たちは若手コンビとして期待され、重要な仕事を任されるようになった。
入社して1年が過ぎた頃、俺たちは大口取引先の子会社の営業センター新設に関する契約を任された。成立すれば3億円の利益が見込める大事な案件だった。
「この案件はお前たちに任せる。何でも相談してくれ」
上司にそう言われ、俺たちは毎日必死に取り組んだ。残業しても足りず、休みの日もファミレスで資料を作り続けた。成功を夢見て、夢中だった。
正談当日の朝、先に出社していた安西が言った。
「菊池、先方から正談の日を変更して欲しいって。向こうで急病の人が出たらしい」
俺は相手のことを心配したが、課長が連絡を入れてくれるという。仕切り直しになるというので、俺は外回りに出た。
夕方、上司から電話がかかってきた。声は怒りに震えていた。
「おい、今すぐ戻れ」
会社に駆け込むと、上司が待ち構えていた。
「菊池君はどうして正談をすっぽかしたんだ。安西だけに行かせて何してたんだ」
意味が分からなかった。安西から延期になったと聞いたはずだ。しかし上司の話では、正談は予定通りに行われ、安西がひとりで成立させたという。
事実を話そうとしたが、上司は聞く耳を持たなかった。
「いいか、安西に謝罪しろ」
俺は混乱したまま、安西を探した。休憩室でコーヒーを飲んでいる安西を見つけ、詰め寄った。
「どうなってるんだよ。正談は延期になったって言ったよな?」
安西はあろうことか笑った。
「うるせえな。お前がうまく騙されてくれたからな。俺は大スターだよ」
「何なんだよ。何か言うことないのか?」
「言うこと? ああ、ありがとな。騙されてくれて」
安西は満面の笑みで続けた。
「俺がな、自分の手柄のために嘘ついて行ってきたんだよ。先方が怒ってるって報告もしておいた。俺はそういうストーリーも用意したんだ」
俺は目の前の男が信じられなかった。同じ目標に向かって進んできたはずの同期が、目的のために手段を選ばない畜生になっていた。
「お前、腐ってるな」
「人聞き悪いこと言うなよ。俺はお前と違って賢いんだよ」
安西は俺の肩を叩きながら続けた。
「いいか菊池。営業のエースは俺なんだよ。お前はもう負け組。負け組は静かに消えてくれ」
翌日、さらに追い打ちをかけられた。機密書類を持ち出そうとしたという容疑がかけられたのだ。安西が「保管庫に入ったのを見た」と証言し、俺のデスクに書類が置かれていたという。
確かに俺は資料を探すために保管庫に入った。だが、その資料はPCでも閲覧できるものだった。それを忘れて入ったことが、安西の罠にかかる原因になった。
上司は完全に俺を見放した。停職処分になり、案件は全て安西に渡った。そして俺は解雇された。濡れ衣で、会社を追い出された。
人間不信になった。両親が何とかしてやろうと動いてくれたが、その気持ちさえも疑ってしまった。友人の助けも拒絶した。人と接することをやめ、仕事はアルバイトや派遣で食いつないだ。
それから5年。やっと自分を立て直すことができた。人間不信を克服し、生活も安定した。美味しい食事を楽しめるようになったのも、その頃だ。
ある日、ずっと行きたいと思っていた寿司屋に行った。内の一等地にある超高級寿司店。そこで安西と再会してしまったのだ。
「お前がいなくなってから、俺はトントン出世したんだよ。今はコンサル会社の社長だ」
安西は自慢話を止めない。優秀な人材を集めて評判も高いと得意げに語った。
「ま、俺は勝ち組だからな。明日なんて業界最大手のIT企業と10億の契約を結ぶんだ」
「へえ、そりゃすごいな」
「俺には楽勝だけどな。勝ち組で、勝ち運にも恵まれてるからな」
その言葉を聞いた時、俺は目が覚めた。これだ、と思った。
「そうか。けど、その運ももう続かないかな」
安西の顔色が変わった。
「何言ってんだよ。俺の成功が妬ましいからって適当なこと言ってんじゃねえぞ」
「本当は明日伝える予定だったけどな。その契約はもう、ここで白紙だ」
「は? なんでお前がそんなこと知ってるんだ?」
「ほら、これ」
俺は名刺を安西に握らせた。
「営業部長……? おい、なんでお前が」
「俺は今、お前が明日契約しようと思ってる会社で営業部長をやってるんだよ」
安西は固まった。俺の言葉が信じられないようだった。
人間不信になり、食いつぐだけの日々を過ごした数年。投げやりになっていた時期に、俺を拾ってくれたのが今の会社だった。大学時代の同期が紹介してくれたIT企業だ。社長は俺の過去を知った上で雇ってくれた。初めは裏方から始め、慣れた頃に営業へ配置され、俺は持ち前の力を取り戻した。今では営業部長として全権を任されている。
「俺はな、周りに助けてもらって仕事に戻ったんだ。それでこういう店に来るのは趣味で息抜きだ」
「あ、ああ……そうなのか……」
「分かってくれたところでもう一度言うけど、契約は白紙だからな」
安西の顔は引きつっていた。それでも粘る根性は残っていたようだ。
「あんな話、なかったことにしてくれよ。昔の話は終わりにしようぜ。俺とお前、仲良かったじゃんか」
「悪いけど断る」
「お前、感情に振り回されすぎだろ。仕事の話だろ。市場は分けて考えないとダメだろう」
「市場? そんなのないよ。俺は最初から会社と営業部の判断として、お前の会社との契約はなしと決めてるんだよ」
「どうして……」
「お前の会社、調べさせてもらったんだよ。隅から隅まで」
安西の会社との取引話が持ち込まれたのは数ヶ月前。担当は若手の営業部員だったが、営業部長の俺が通常通りの信用調査を行った。相手が安西だからというわけではなく、いつもやっている調査だ。
すると驚くべきことが分かった。安西の会社は人の出入りが激しく、数ヶ月単位で幹部が変わる。優秀な人材を招き入れても喧嘩別れが続いていた。派手な文句で人材を募集しながら、実際の待遇は悪い。何かと理由をつけて契約違反を突きつける。賢い人たちはどんどん辞めていき、幹部からは安西への批判の声も上がっていた。業界内での評価は目も当てられなかった。
さらに、俺は個人的に安西の過去も調べていた。恨みが入り込んでいたのは確かだ。しかし調べて良かったと思っている。
「お前さ、取引先と競合相手に金を握らせたらしいな」
俺が解雇された後、安西は若手ナンバーワンの営業マンになった。調子に乗るというより、怖いものなしになったのだろう。ライバルになりそうな人間は罠を講じて蹴落とし、上司に取り入って立場を築いた。賄賂まで使うようになった。有能な取引先や競合した会社の担当者に金を握らせて手柄を得ていた。
「そろそろ悪事がバレたんじゃないか? それで前職を辞めさせられたんだろ。自分で辞めるから勘弁してくれって。退職金も支払われなかったらしいじゃないか」
「なんでそんなことまで……!」
「仲の良かった人から聞いたんだよ。世話になった先輩も罠にかけて辞めさせたんだってな」
安西は怒り狂って立ち上がった。椅子を倒すほどの勢いで俺に詰め寄る。
「クソが! お前は負け組、負け犬なんだよ! 調子に乗りやがって! 何が営業部長だ! 何が信用調査だ!」
「こそこそやってたのなら、お前も散々やっただろう」
「うるせえ! 仕返しできていい気分か? お前が俺に勝とうなんて許されるわけがねえんだよ!」
安西は大声で怒鳴ると、俺の胸ぐらを掴もうとした。それを避けると、今度は俺の鞄を掴んで放り投げた。
「くそ野郎許さねえからな!」
その瞬間、大将がカウンターの中から出てきて、安西の前に立ちはだかった。
「お客さん、その辺で。出て行ってくれ。出て行かないなら追い出す」
「おい、なんだよ!」
「2度と来るな」
言ったら実行する寿司屋の大将に、安西は店を追い出された。外でまだ何か叫んでいたが、若い職人たちがどこかへ連れて行ったのか、響きは聞こえなくなった。
大将は言葉少なに俺を気遣ってくれた。寿司を握り直し、帰り際には「また来てください」と声をかけてくれた。とんでもない息抜きになってしまったが、寿司の味は美味かった。
それから1ヶ月も経たないうちに、安西の会社は倒産した。どこまでも無法でやりたい放題の経営が引き金だった。新規事業への投資や企業買収に手を伸ばし、半ば詐欺のような案件にも首を突っ込んで警察から目をつけられた。多額の負債を抱え、オフィスは夜逃げ同然で引き払われた。社員の給料も未払い、リース契約も放置されたまま。そして安西の行方は不明。住んでいたタワーマンションから逃げ出し、海外に逃亡したという噂もある。
人から信用を得るのは難しい。誰かに喜んでもらえる仕事で結果を出す。何が正解か分かりづらいからだ。
ただ、苦い経験をした俺が言えることは一つだけ。自分と人に対して、裏表なく正直に。人と喧嘩はしても、言葉は尽くして理解し合う。それが大事なのだろう。
部下を抱える身になった今、俺はその精神を守ろうと誓っている。誰も不幸にしないように、自分のやれることを精一杯やるだけだ。



