姑の古希祝いのため、義実家へ向かった。私はありえない光景に、思わず手に持っていた鞄を落とした。
はあ、はあ。
真っ赤な顔。荒い呼吸。庭の真ん中で、部屋着のまま姑が横たわっていたのだ。
「お母さん、一体何が」
「む…娘が、私を…」
家の中からは、テレビのバラエティ番組でも流れているのだろう。賑やかな笑い声が聞こえてくる。
実の母親にこんな仕打ちを。自分勝手な人だとは聞いていたけど、まさかここまでするなんて。
怒りに震える拳を抑え、私は震える手でスマホを取り出し、救急車を呼んだ。
数時間後、病院のベッドに横たわる姑がゆっくりと目を開け、私はほっと息をつく。
「お母さん、詳しいことを何も知らずに厚かましい申し出だとは思いますが、うちで一緒に暮らしませんか?」
優しい姑があんな扱いを受けて、黙っていられなかった。
姑は困ったように笑いながら拒否するだろうか。それとも、ありがとうと微笑んでくれるだろうか。
しかし数秒後、私の予想は全て崩れ去った。
「何言ってるのかしら?あなたの家なんて、もうないわよ」
「え?」
彼女は見たこともないほど冷たい表情をしていて、私は一瞬で全身が凍りついた。
話は少し前に遡る。
「おい、靴下がないぞ。何やってんだ?」
「えー、朝飯まだかよ。今日はパン以外食べる気しないんだけど」
「母さん、コンビニ寄ってくから金」
リビングから夫と息子の声がして、私はまたかとため息をつく。毎朝毎朝、よくもまあ次から次へと文句が出てくるものだと、少し感心してしまうほどだ。
早く2人に返事をした方がいいのは分かっているけれど、気が進まず、私は食器を洗い続ける。
私はいわゆる専業主婦だ。夫の大輔さんと、息子の拓也と3人で暮らしている。大輔さんは誰もが知る大企業に務めており、役職までついているやり手の営業マン。息子は某有名私立大学に現役合格したエリート。
そんな中、最終学歴が高校の私は肩身が狭い思いをしていた。正直、大輔さんとはお付き合いの段階で身分が違いすぎるのではと思っていたのだ。
地位も名誉もある彼と、彼の下請け企業で事務として働いていた私。見ている世界が違いすぎる。しかし大輔さんは「学歴も仕事も関係ない。俺は直子と結婚したいんだ」と言ってくれた。結局、私は押し切られるように結婚をしたのだった。
今思えば、大輔さんは何でも言いなりになる奴隷のような妻が欲しかっただけなのだろう。結婚だって、きっと外面を気にしてのことだ。同年代の男性は結婚していなければ格好がつかない。きっとそんなつまらない理由なのだろう。
昔は、大輔さんはなぜこの年まで独身なのだろうと思っていたけれど、きっと彼の本性を見抜いた女性たちは、みんな逃げていったのだ。表向きは穏やかで情熱的な男性だけれど、一歩家の中に入ると暴君で、子供みたいな人。それを見抜くことができず、私は20年以上も過ごしてしまった。
「直子、聞いてんのか?靴下」
「はい、すぐ出します」
大輔さんの靴下を用意すべく、私は急いでクローゼットに向かった。今日は早く家事を片付けて、お母さんのところにお祝いを持っていかなくちゃいけないんだから。
私は義実家に向かうために電車に揺られていた。
結婚して良かった唯一のことは、姑に会えたことだ。姑は私と同じく地味で大人しいタイプの人だ。しかし誰にでも優しく、手先が器用で、私から見たら理想のお母さんだった。私にも本当に親切にしてくれて、料理や編み物を一緒にすることもある。そんな姑が古希を迎えるので、今日はサプライズでお祝いに行くことにしたのだ。
事前に言うと気を使われてしまいそうだからという理由で、何も言わずにおいた。夫と息子を誘ったものの、「老人に構っている暇はない」とすぐに断られてしまった。
義実家につき、チャイムを押すも誰も出てこない。出かけているのかと思ったものの、念のためもう一度鳴らす。義父は数年前に亡くなったため、この家には姑と、義理の姉である佳代さんしかいない。佳代さんはほとんどいつもどこかに出かけているし、この時間なら姑だけに会えると思ったのだけれど。
日を改めようと思ったものの、なんだか胸騒ぎがして、庭の方に向かう。近づいていくうちに、うめき声のようなものが聞こえてきた。まさか不審者がいるんじゃないかと思い、足音を立てないように歩みを進める。すると、
「え…、お母さん!」
庭の真ん中に姑が倒れていた。慌てて呼吸を確認する。息があることに安堵するも、触ると体が熱いし、足に大きな腫れのようなものがある。もしかしたら、倒れた時に怪我をしたのかもしれない。
私は慌ててスマホを取り出し、救急車を呼んだ。幸い救急車はすぐに来てくれた。医師の診察では、風邪による発熱と捻挫ということだった。高齢者のため、念のため1日だけ入院しましょうということになり、私が付き添うことになった。
診察を受けてから1時間後、姑はゆっくりと目を覚ました。
「ここは…」
「お母さん、目が覚めましたか?」
今までにあったことをかいつまんで話すと、姑は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさいね、あなたに迷惑をかけてしまって」
「そんな。すぐに見つけられてよかったです。それより、何があったんですか?」
問いかけると姑は黙り込む。せかすのも申し訳ないと思い、じっと待っていると、観念したように口を開いた。
「『役立たずは外がお似合い』って言われて、娘に締め出されてしまったの。『あんたが風邪を引くのはどうでもいいけど、移されたらたまらない』って」
「え…」
姑は疲れきった様子でそう言った。
40度以上の発熱をした人に。しかも実の親に向かって、そんなことをするなんて。怒りで拳が震えたけれど、姑は言葉を続ける。
「お父さんが亡くなってから、佳代は前よりも私に当たるようになってね。毎日皮肉を言われたり、勝手にお金を抜かれたり。それでも、あの子がかわいそうだからと思ってやってきたのに」
佳代さんと姑は元々うまくいっておらず、義父が亡くなってからはますます関係が悪化したそうだ。佳代さんは最初の結婚を機に義実家を出ていたのだが、離婚して戻ってきた途端、姑をののしるような言動を始めたのだという。彼女はもう何度も離婚していて、理由はいつも佳代さんの自分勝手な態度に夫が愛想を尽かしてしまうかららしい。きっとそのイライラを姑にぶつけていたのだろう。
「私が甘やかしすぎたのかもね」
震える声で言うと、姑はうつむいて泣き始めた。
佳代さんはとにかくわがままで、手のつけようのない人だ。姑はどちらかと言えば大人しい方だし、佳代さんはそこにつけ込んだのだろう。古希を迎えた母親に対して取る態度じゃない。
しかし、そんな彼女たちに対抗する術を、私は持っていない。このままお母さんが辛い目に会うのを見ていることしかできないの?そう思うと悔しくて、私の目からも涙がこぼれ落ちた。
その日は家に帰り、大輔さんに姑と佳代さんのことを相談した。私が必死に説明しても、どこ吹く風で、大輔さんはつまらなそうにスマホを眺めている。
「だから、お母さんを看ながら古希のお祝いをしたいのよ」
「は?たかが熱だろ。ほっといてやれよ、そんなもん」
「でもお母さんは1人なのよ。せめて私くらい…」
大輔さんは不機嫌そうに立ち上がり、寝室へ向かった。また話を切り上げられてしまうのだろうかと思っていたら、1枚の紙を持ってリビングへと戻ってきた。机に叩きつけるように置かれた。
それは、記入済みの離婚届だった。
「専業主婦のくせに、家のこともやらないなんておかしいだろ。俺の分は書いておいたから、役所に出してこい。ああ、戻ってこなくていいから、1時間で支度してここを出ろ」
大輔さんはそう吐き捨てると、また寝室へ戻っていった。2階からは拓也が大音量でゲームをしている声が聞こえてくる。
私に対する仕打ちだけなら、まだ耐えられた。でも、親に対してあんな態度を取るなんて、許せない。私はここを出る決意をして、この地獄から出ていくための準備を始めた。
あの家を出てから1週間後、私は病院とカプセルホテルを行き来する生活を送っていた。なぜかやたら大輔さんから連絡が来ていたけれど、全て無視し、最終的には着信拒否の設定にした。どうせつまらないことで呼びつけているだけなのだ。それに、散々理不尽な目に合わされてきたのだから、これくらいしたって許されるだろう。
貯金を切り崩す生活は、正直言って不安もある。しかし、それで姑を助けられるならと思った。
姑の入院は1日だけのはずだったのだが、検査したところ肺に影響が出ているかもしれないということで、期間が伸びたのだった。姑はそんな状態にも関わらず、いつもこちらの心配をしてくれた。
「直子さんの家は、大丈夫なの?」
何度も聞かれて、さすがに隠しておくわけにもいかないと思い、私は全てを洗いざらい打ち明けた。
「あなたは何も悪くないのに、ごめんなさい」
姑はそう繰り返し、背中を丸めていた。
そして今日も、いつものように姑の元に足を運んだ。椅子に座り、りんごをむいていると、不意に姑が涙をこぼした。どこか痛むのかと思い、慌てて背中をさすると、ゆっくり首を振られる。
「こんなに誰かの温かさに触れたのは、初めてでありがとう。直子さん」
以前よりも小さくなった姑の姿を見ているうちに、私は「この人を守らないと」という気持ちが芽生えた。今までは自分の身を守るのも十分にできていなかったけど、これではダメだと初めて思った。
でも、私が姑を守るには、どうしたらいいのだろう。お金も身寄りもないのに。そう思った時、頭をよぎったのは大輔さんの姿だった。彼は確かにとんでもない人だけれど、お金と家はある。
「お母さん、私が大輔さんに頼みますから、一緒に暮らしませんか?離婚届を叩きつけられたけど、家政婦のような存在はまだ欲しがっているはずです。だから、私が家事をきちんとやれば大丈夫よ」
「直子さん。もうあの家に大輔たちはいないの?」
「え…、いない?」
驚く私に向かって、姑は真実を話し始めた。
私たちが3人で住んでいた家は、元々義父の持ち家であり、義父の死後は姑が相続したそうなのだ。私が追い出されたと聞くと、姑は家を売り払ったのだという。
そこでようやく、大輔さんから繰り返し来ていた電話とメールの理由に気づく。家から追い出され、姑と唯一連絡が取れそうな私に、連絡を取ったのだろう。試しにメールを1通だけ開いてみると、『母さんの入院先はどこだ?話をさせろ』とだけ書いてあった。
姑は一通り話を終えると、疲れてしまったのか眠ってしまった。どうにも落ち着かず、外の空気を吸いたくなって、私は階段を降りる。
そして、待合室の横を通り過ぎようとした時だった。
「え…、佳代さん!?」
なんとテレビの画面に、佳代さんが映っていたのだ。しかも、警察に付き添われて連行されている最中の映像だった。思わず足を止めて、テレビを食い入るように見つめる。すると、姑と仲の良かったご近所さんがインタビューに答えていた。
「いやね、前からあの家から、たまに女の人の怒鳴り声が聞こえてきてたんですよ。もしかしたらお母さんに手を上げてるんじゃないかって話してたんだけど、まさか本当にね」
どうやら、あの一件の後、ご近所さんが通報したらしい。どのタイミングで警察に連絡が行ったのかは分からないが、佳代さんは警察が来たことに驚き、反発して大暴れ。それで連行されることになったようだった。
「ふざけんじゃないわよ。なんで私がこんな目に会わないといけないの?ちょっと、何撮ってんのよ!」
テレビの向こうで髪を振り乱し、吠える佳代さんは、まるで獣のようだった。私はどこか胸がすっとするような心地がして、そこから離れた。
その後、無事姑の体調は持ち直し、退院することになった。それと同時に、私のカプセルホテル生活も終わりを迎えた。今は一時的に姑の家に居候させてもらっているものの、そろそろここを出ていかないといけないだろう。それに、佳代さんの一件以来、近所が騒がしくて仕方ない。テレビのレポーターや野次馬がひっきりなしにうちを覗いていくため、落ち着く暇がなかった。
こんな状況の中、姑を1人残していくのは心苦しい。しかし、このまま姑の家に図々しく転がり込むのは申し訳ない。どうしようかと考えていた矢先のことだった。
「そうだ。大輔ね。部署が移動になったらしいのよ。風の噂だけど」
「そうなんですか」
なんでも、大輔さんは義父のコネで会社に入ったそうだ。姑の一件と佳代さんのニュースが社長の耳に入り、小さな部署に左遷されたらしい。当然役職もなく、平社員に逆戻りして、年収も大幅に下がったという。そのせいで拓也の学費が賄えなくなり、あの子は大学を退学せざるを得なくなったとか。
少しだけかわいそうな気がしたが、進学してからほとんどずっと遊び歩いていたのだ。勉強したいと本気で思っているなら、自力で学費は何とかするだろうと思うと、気持ちも収まった。
その流れで世間話をしていると、不意に姑が真剣な表情になった。
「ねえ、直子さん。あなたさえよければ、一緒に住まない?ここを離れることにはなるけど、隠居用に購入した家があるのよ」
「え…、でも、いいんですか?私はもう、お母さんとは何の関わりもない他人ですし」
「そんなこと、言わないで」
姑の柔らかい手が、私の手を包む。その手は温もりに満ちていて、まるで姑の人柄のようだった。
「まだ離婚届は出していないのよね」
「あ、はい。バタバタしていたので、明日にでも出しに行こうかと」
「じゃあ、私も一緒に行くわ。それで、転居先のことも聞いてきましょう」
姑の優しい顔に、胸が熱くなる。それは、大輔さんの家のことが解決したからではない。姑の無償の愛が伝わってきたからだ。
私は涙をこらえて、返事の代わりに姑の手をぎゅっと握った。
「ババアのガキなんて、欲しくねえよ」
パンッ!
妊娠の報告をすると、夫は大声で怒鳴り、机を叩きつけた。
「気持ち悪いな。とっとと下ろしてこい。それくらいの金、パッと出せるくらい稼いでるだろう」
そう言い放った大輔の顔は、まるで悪魔のようだった。私は頭が真っ白になり、激しい動揺の中で、やっと言葉を紡ぐ。
「で…、でも」
「あれだけ言ったのに、避妊しなかったのは、あなたでしょ。それに、思いがけない形で授かった子供だって…」
「私たち夫婦なのに、喜んでくれると思ったの?」
「はあ?おかしなこと言ってんの?つか、40過ぎて子供産んで育てようとか、頭おかしいんじゃないの?自分の体力も考えられないの?それに、お前には俺を食わせていくっていう大事な仕事があるだろうが。たく、気分悪い。出かけてくる」
大輔は伸びた金髪をかき上げて、うんざりしたように部屋を出ていった。彼が行く場所なんて決まっている。きっと競馬かパチンコだろう。そしていつも通り大負けして、私に金をせびってくるに違いない。
私はこれから、どうすればいいの?この子を生まないなんて、考えられない。
私はその場にうずくまって、お腹に手を当て、大声で泣いた。
私の名前は半田直子。社会人になってから10数年、ほとんど仕事一筋で生きてきた。そのおかげでキャリアを積むことができ、1人でも多少の贅沢が許されるくらいの年収を得て生活をしている。結婚することも、子供を持つことも、いつかできたらなと思っているうちに、適齢期を過ぎてしまっていた。きっとこのまま1人で生きていくんだろうなと、半ば諦めたような気持ちでいた。
転機が訪れたのは40歳の時だ。たまたま訪れたワインバーで、アルバイトとして働いていた大輔と、お酒の話で意気投合した。ちょっとだらしない雰囲気はあったものの、年下だし、人懐っこい笑顔が可愛らしく見えて、お付き合いが始まった。
最初は楽しかった。大輔は料理がうまく、疲れて帰ってきた私に、毎日夕食を振る舞ってくれた。まさか自分がこういうタイプの男性と付き合うとは思っていなかったものの、それなりに楽しい毎日を送っていた。
そのうちに大輔は私の家に転がり込み、そのまま成り行きで結婚した。これでいいのかなという気持ちがよぎったものの、このチャンスを逃したら、もう2度と結婚なんてできないかもしれないという思いもあり、流されてしまったのだ。それが間違いの始まりだった。
結婚後、大輔は勤め先もやめ、夕食もたまにしか作らなくなってしまった。一日中スマートフォンでゲームをするか、パチンコに行くかという日々。たまに知り合いの店の手伝いをしていたらしいが、稼いだお金はギャンブルに消えてしまう。
それから、暴言も増えた。些細なことで怒鳴られたり、嫌なことを言われたりすることが、信じられないほど増えた。しかし夜の営みはしっかり求められ、そちらの要求もどんどんエスカレートしていった。
「ゴム、いらないよな」
「え…、一応着けようよ」
「だってもう、お前妊娠しないだろ。ない方が絶対いいからさ」
その日を境に、避妊をせずに行為に及ぶことになった。
こんなのは良くないと思いながらも、ようやく結婚できたんだし、少しくらい我慢しないと、という気持ちが私を縛りつけていた。
そんな生活を送っていたある日、妊娠が発覚した。まさかこの年で子供を授かるなんてと驚いたものの、嬉しさの方が勝った。きっと大輔も、これをきっかけに変わってくれるだろう。子供ができることで夫婦仲が良くなったという話もよく聞くし、私たちも良い方向に向かっていけるはずだ。
そう思って急いで家に帰り、大輔に報告をした。
「ねえ、大輔、聞いて。妊娠3ヶ月だって」
「は?すまん、冗談やめろって。それよりデリバリー頼むから、カード出して」
「ちょっと、真面目に聞いてよ。今日、産婦人科に行ったの。そしたら『おめでとうございます』って先生から言われたのよ。びっくりしたけど、嬉しいな」
そう言うと、大輔は目をまん丸にして私を見た。信じられないというような表情を浮かべて、私を凝視している。
「え…、マジなの?」
「だから、そう言ってるじゃない。貯金はあるし、3年くらい育休を取ろうかなって思ってるの。今まで仕事第一だったし、いいかなって。なるべく赤ちゃんに寄り添ってあげたいし」
ガーン!と、すごい音を立てて、机が叩かれた。私は驚いて、声が出てしまった。ゆっくりと顔を上げた大輔は、私が見たこともないような顔をしていた。
「ババアのガキなんて、欲しくねえよ」
「気持ち悪いな。とっとと下ろしてこい。それくらいの金、パッと出せるくらい稼いでるだろう」
半笑いでそう言い放った大輔の顔は、まるで悪魔のようだった。思いがけない形で授かった子供とはいえ、喜んでくれると思ったのに。私は頭の中が真っ白になる。何も言い返せずにいた私に向かって、大輔は追い打ちをかけるように叫んだ。
「大体、40過ぎて子供が欲しいなんて、どうかしてるだろう。自分の体力、考えろよな。それにお前には、俺を食わせていくっていう大事な仕事があるだろうが」
「そ…、そんな。避妊してって言ったのに、しなかったのはそっちじゃない」
「ババアが妊娠するなんて、思うわけないだろ。気分悪い。出かける」
大輔は伸びた金髪をかき上げて、うんざりしたように部屋を出ていった。彼が行く場所なんて決まっている。きっと競馬かパチンコだろう。そしていつも通り大負けして、ヘラヘラしながら私に金をせびってくるに違いない。
私はその場にうずくまって、お腹に手を当てた。お腹の中のこの子のためにも、私は負けるわけにはいかない。それに、あんな男とこの子を育てていきたくもない。私は急いで荷物をまとめた。
3年後。
「理恵さん、重くない?」
「大丈夫だよ」
公平さんの腕の中に抱かれた我が子、正志は穏やかな寝息を立てている。
公平さんとは、正志が生まれてから出会った。私と同じく仕事熱心で、真面目な勤務態度で管理職まで登り詰めた人だ。仕事のことも、子供のことも受け入れてくれて、この春ようやく籍を入れた。私の育休のことも快くOKしてくれて、私以上に正志に愛を注いでくれている。
今日は結婚式の下見だ。色々あったけど、ようやく幸せになれるんだ。そう思いながら式場に足を踏み入れた瞬間、見覚えのある金髪が視界に飛び込んできた。
「え…、大輔…」
「どうしたんだ?顔が真っ青だぞ」
「うん、大丈夫。行きましょう」
どうか気づかれませんようにと思いながら、式場の中を進んでいく。ちらっと大輔の方を見ると、私よりも若く、全身をハイブランドで固めた女性の姿があった。あの男、まだヒモ生活を諦めていなかったのね。そう思うと、大輔と目が合ってしまった。獲物を見つけたというような目で、大輔の表情が嫌な笑顔に変わっていく。出会った当初は可愛いと思っていた笑顔にも、もはや恐怖しか感じない。
「おい、お前、直子だよな」
答えるのも嫌で、公平さんの袖を引き、前に進もうとする。しかし大輔はズカズカとこちらに進んできて、私たちにしか聞こえないような声で囁いてきた。バカにしたような笑みを浮かべながら。
「こりゃ傑作だな。ババアの相手は、ジジイがぴったりじゃん。こんな老人が親じゃ、ガキがかわいそうだし。今からでも施設に入れてやればいいんじゃねえの?」
「ちょっと、大輔。受付終わったから行くよ」
「あ、ルミさん、ごめん」
大輔は途端に猫なで声に変えた。ルミと呼ばれた女に気に入られているのは明らかだった。近づいてきたルミは、全身から香水の匂いをさせて、品定めするように私を見ている。そして、私の横に立つ公平さんを見た瞬間、なぜか驚いたような表情を浮かべた。一体、なんでそんな顔をしているんだろう。そう考えていると、すれ違い様に大輔が耳打ちをしてきた。
「式場じゃなくて、老人ホームの方がお似合いだから、ルミも驚いてんだよ。入金はたんまりあるんだし、とっとと行けよな」
言い返そうとしたものの、昔の記憶が蘇ってしまって、動けなくなってしまう。どうしてあんなことを言われなくちゃいけないんだろう。あいつは自分では何もできない、ただのダメ男なのに。
公平さんはそんな私の肩に手を置き、気遣ってくれる。その手の温かさと、目に飛び込んできた正志の寝顔に、私は涙が出そうになってしまった。
「嫌な思いをさせて、ごめんなさい。前に話したと思うけど、あの人が正志の実の父親で…」
「何も言わなくていいし、気にしなくていいよ。理恵さんは悪くないんだから」
でも、と公平さんはそう言うと、なぜかにっこりと笑いかけてくれる。その笑顔は、自信に満ち溢れていた。
「僕にいい考えがある。任せてくれないか?」
結婚式当日。たくさんの参列者の前で、私と公平さんは将来を誓い合う。正志も私の母親の隣で、ニコニコとこちらを見つめている。こっそり手を振ると、小さな手で振り返してくれた。
「綺麗だよ、理恵さん」
「ありがとう」
仕事一筋で生きてきて、散々な男に振り回されて大変な目にあったけど、やっと本当の幸せを手に入れられるんだ。誓いのキスの寸前、式場のドアが勢いよく開いた。
「あー、いるんだろ?出てこい!」
式場スタッフの制止を振り切り、飛び込んできたのは、汚らしい格好をした大輔だった。しっかり染めていた金髪は半分以上黒くなり、服もボロボロ。そこまで距離が近いわけでもないのに、私のところまでアルコールの匂いが届くほどだ。
まさか、結婚式まで台無しにするつもり?そう思った私は、思わず叫んだ。
「どうしてここにいるのよ!」
「どうしてじゃねえよ。俺の幸せをぶち壊しやがって。許せるかよ、クソババア!」
「何の話よ!」
「理恵さん、僕が話そう」
公平さんが一歩前に出て、じっと大輔を見つめる。堂々とした姿勢に気圧されたのか、大輔はやや気まずそうな顔で一歩後ずさった。
「君の自業自得だろう。大輔君」
公平さんの説明はこうだ。公平さんが務める会社は、ルミが経営する会社の取引先だった。1度だけ業界のパーティーで名刺交換をしたらしく、公平さんはルミの顔を覚えていたというのだ。あの時、ルミが驚いたような表情を浮かべていたのは、そのせいだったらしい。そして公平さんは、ルミに大輔の本性を知らせるべく、連絡を取った。その後、私が昔取っていた大輔の暴言の音声を聞かせた。
『悪い。1万円くれない?3倍にして返すからさ』
『ババアは金を運ぶくらいしかできないんだから。それくらいやれよな』
当然、それを聞いたルミは大激怒。ヒモよりも取引先を優先したルミは、その日のうちに大輔を家から追い出したらしい。
「残念だったな」
「おい、ババア、全部お前のせいだろ!何とかしろよ!」
その瞬間、私の中でプチンと何かが切れる音がした。
「うるさい!」
言い返されると思っていなかったらしい。大輔は驚いて、尻もちをついた。私はドレスの裾をぐっと掴むと、大輔に近づいて叫んだ。今まで大輔にされてきた仕打ちを、全部ここでやり返してやる。
「いつまでもあんたに怯えていると思ったら大間違いよ!恥を知りなさい!それに、私のことをババアって言うけど、自分はどうなの?いい年して、人に寄りかかってないで!いい加減、自分の年齢を自覚しなさいよ!」
シーンと一瞬場が静まり返ったが、すぐに参列者から拍手が起きた。拍手はどんどん広がっていき、ものすごい音量になる。大輔はその拍手に気を取られている間に、警察に腕を掴まれて連行されていく。抵抗する気はないようで、大人しく連れて行かれていた。汚れたその背中は、ひどく小さく、かわいそうになるほどだった。
これで全部終わったんだ。私はようやく、肩の荷が下りたような気がしていた。
後日、私は正志と共に、大輔の両親の元を訪れていた。彼はともかく、彼の両親に罪はない。だから、月に1回、正志の顔を見せるために連絡は取り続けていたのだ。大輔とは違い、2人は私にも正志にも丁寧に接してくれる。どうしてこの2人から、大輔のような人間が生まれたのか不思議なほどだ。それとも、彼らが優しすぎるせいで、大輔はあんなモンスターになってしまったのだろうか。今となっては、知るよしもない。
お茶をいただいていると、お母さんが口を開いた。
「この前、大輔がうちに来たのよ」
「え?大丈夫でしたか?」
「ええ、私たちもう面倒を見られないって言って、追い出したんだけどね」
大輔は今、家も住むところもなく、孤独な生活を送っているそうだ。ルミとの結婚が決まってからというもの、定職につかずフラフラと生活をしていたらしい。しかも、結婚すればお金に困らないだろうという考えで借金して高級車を買ったり、ギャンブルをしたりしていたそうで、その借金にも追われているのだとか。あまりの計画性のなさに呆れてしまうが、自業自得と言えば自業自得だった。
「それに、理恵ちゃんの結婚式でのことが、テレビでも出たでしょう」
「そうですね…」
あの日、参列者の中にスマートフォンで動画を撮っていた人がいたらしく、その動画がSNS経由で拡散された。その結果、最終的に全国ネットにまで上がってしまったのだ。私たちの顔は隠されていたものの、大輔の顔はしっかり映っており、そのこともあって、バイトすら見つからない状態なのだという。
「あんなことがあったのに、理恵ちゃんは正志をうちに連れてきてくれて、本当に感謝してるわ」
「いえ、正志も楽しそうですし、こちらこそありがとうございます」
「まだ仕事は続けているの?」
「今は育休中です。ちょっと長めにとって、この子の生活を優先しようと思っています」
「今の夫も本当に素敵ね。すごく幸せそうで」
「はい。…まあ、そうですね」
正志に向かって微笑みかけると、満面の笑顔を返してくれる。その笑顔に、今までの嫌な思い出なんて、全部吹き飛んでしまった。


