来週の結婚記念日には、夫が嬉しそうに2人で食事に行こうと計画を立てていた。私は複雑な気持ちでその話を聞いていた。机の中には離婚届がある。1週間後、私はそれを夫に渡さなければならない。
私の名前はゆみ。26歳の会社員。夫の大和とはお見合い結婚して2年になる。義父が「嫁として家を守れ」と決めた家訓が、すべての始まりだった。
「これはお父さんが決めた家よ。嫁としてきっちり守ってもらうわ。それと、この件でいちいちお父さんに質問しないこと。何かあったら私に言いなさい」
義母はそう言って、コピー用紙に印刷された家訓の束を私に手渡した。気難しそうな義父の顔を思い浮かべ、余計な口を開くのはやめようと思った。
家訓を読んでみると、妙な規則があった。
「嫁の給料は、経理の経験不足を考慮し、現課長の妻に管理の権限を任せること」
自分の給料くらい自分で管理できる。これは例外だよね。そう判断したのだが、給料日の翌日、すぐに義母から指摘が入った。
「ゆみさん、今月のお給料はどうしたの?」
「言い忘れていましたが、自分の給料くらい自分で管理できますので、家訓からは除外でお願いします」
そう答えた私に、義母は明らかに気分を害したようだった。
「なんですって? 嫁の分際で勝手な判断するなんて。今手元にある分だけでもよしなさい」
「でも、うちの家計は大和と相談するので」
夫の名前を出すと、義母は顔色を変えて引き下がった。しかし、その日を境に義母からの嫌がらせが始まった。
「うちの嫁としてきちんとしつけるように、家長たるお父さんから言われているの」
そう言って、私のやることなすことにケチをつけ、ネチネチと叱ってくる。これがいいところのお家に嫁いだ者の定めなのかと、義母の嫌みを受け流すようになった。しかし結婚生活が経つごとに、ある不安が頭をよぎるようになった。
「結婚後2年の間に子が生まれない場合、離婚の要請権を課長とその代理は得る」
つまり、2年経っても子供ができないと離婚になるらしい。
「子供はまだなのかしら。そろそろ急がないと大変なことになるわね」
期限まで半年が迫った頃、義母の嫌みに子供の催促が加わった。
「ゆみさんの体が悪いのよ。きっと見るからに貧相だし、予想通りではあったわね」
不妊は先の見えないトンネルのようなものだった。家事の不出来なら簡単にどうにでもできる。でも、これはどうにもならない。
「どうか妊娠していますように」
そんな気持ちを裏切って、私はとうとうあの日を迎えた。夫が休日出勤で不在の日、義母が離れにやってきて、1枚の紙を手渡してきた。
「はい。離婚届、用意してあげたわ。どうしても離婚が嫌なら、私が頼めば期限が伸びるかもしれないけど、そのためには何が必要か分かるわね」
義母のその言葉は、何度となく聞いてきた。お金を渡せば義父母に口添えするというのだ。無言で離婚届を受け取った私を、義母は勝ち誇ったように睨み去っていった。
夫は結婚記念日が近づくとウキウキと語り出した。
「楽しみだな。今年はどうする? ゆみが行きたがっていたあの店を予約するか」
その日は記念日の1週間前。生理中の私の内心はどん底だった。「行きたいな」と笑って答えたと思う。それからの1週間のことは、よく覚えていない。
結婚記念日の当日、予定通り食事に出かけて帰宅し、リビングでくつろいでいる夫に、私は離婚届を渡した。
「え?」
驚きに目を丸くする夫。
「離婚してほしいの」
涙目になった私の様子に、夫は慌てた。
「お、俺のどこがダメだ? ベタベタしすぎたか? 記念日はやっぱり旅行が良かったか? この前、新しい服に気づかなかったからか?」
自分の悪いところを思いつく限り口に出す夫。
「不満なんて何もない。悪いのは妊娠できない私なのだ」
ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「お母さんが、2年で子供ができないなら離婚だって。離婚届をよこしたの」
そう言う私に、夫は事情を察したのか、ソファーから立ち上がり玄関へと駆け出した。怒りの表情を浮かべた夫の後を、私も慌てて追いかけ、義父母の家の離れへと向かった。
私が到着すると、リビングで義母に詰め寄る夫がいた。義母は私に気づき、小高く叫ぶ。
「ふん。そんなに離婚が嫌なら出ていけばいいのよ。お父さんが決めた家に文句があるなら、2人揃ってさっさと出ていきなさい」
「親父だと? 親父がこんなクソみたいな家訓を作ったのか」
夫は、所悪の根源が義父だと知るや、義父を大声で呼び始めた。軽快そうな顔で現れた義父の胸ぐらを掴み、「クソ親父が」と怒鳴りつける。義父も突然の息子の暴挙に思わず反撃し、とっ組み合いの喧嘩が始まった。
さすが親子と言うべきか、2人とも熱が入ると、私の静止の声も届かなくなってしまった。棚の置き物が落ちて割れ、家具は倒され、テーブルにあったワインがぶちまけられた。異常な事態にテンパった私は、無我夢中で110番通報したのだった。
夫と義父の親子喧嘩は、駆けつけた警察官によって収束した。パトカーが来たせいで、明日からご近所で噂されるだろうけど、2人がひどい怪我を負う前に止められてほっとした。
しかし、夫と義父の本当の対立はここからだった。
「2年子供ができないと離婚って、父が決めたのか」
夫の問いに、義父は一瞬目を見張って不審そうに顔を歪めたが、何も答えなかった。
「くそ、最低だな」
黙り込む義父の様子に、夫は義父の仕業だと結論付けたようだ。再び夫が荒ぶってきたので、私は慌ててその腕を取った。
「ゆみ、子供の件はもう守らなくていいよ」
夫はそう言って、私の頭を撫で、目に浮かんだ涙を拭ってくれた。夫はその後も義父の愚痴を呟いていたが、私はあることが気になっていた。夫が問いかけた時、義父が一瞬目を見開いたのだ。
義母が外出中、私はこっそり義父を尋ねた。
「これを書かれたのは、お父さんですか」
義母から渡された家訓の束を見せる。義父はまた、先日見せたのと同じ驚きの表情を浮かべた。どうやらこの家訓の存在も、子供についての決まりも、義父は知らない様子だった。それどころか、私が義母に嫌がらせをされていると、義父が義母を呼んでさりげなく話題をそらしたこともあった。
「君はこれを実行したのか?」
パラパラと家訓の束をめくり、義父の目があるページで止まる。それは、嫁の給料は義母に預けるという決まりだった。隠しても仕方がないと、例外を適用したことを告げると、義父は突然笑い出した。
張り詰めていたものが切れたような、ぞっとする笑い声。
「はは。そうか。なるほどな」
何に納得したのか私にはさっぱり分からなかったが、義父の顔は、普段のどこか影を帯びた表情から、吹っ切れたような清々しいものに変わっていた。
その数日後の土曜日、私と夫は義父から呼び出しを受けた。義父母の家のリビングには、すでに義母が着席していて、現れた私たちを見るなり、せせら笑った。
「つかの間の結婚生活だったわね。ゆみさんに子供ができないばっかりに、かわいそうな大和。そんな嫁をもらったのが運の尽きね」
先日の喧嘩からずっと義父があの件に何も言及しないため、義母は自分の味方だと判断したのだろう。不甲斐ない嫁に離婚を迫ればいいと思っているに違いない。
ぐっと唇を噛んだ私の肩を抱き、夫は義母を睨みつけた。夫には、この2年間義母に受けたことを伝えてあった。どうして言ってくれなかったのかと叱られ、気づいてやれなくてごめんと泣かれた。義母は巧妙に夫には隠れていびってきたし、私も言わなかったのだから、謝る必要なんてない。
「俺はゆみだから結婚したんだ。子供は授かるものだろ。一生2人でも俺はずっと幸せだ」
義母は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、義父が現れたことで口をつぐんだ。
「離婚について、知らせることがある」
義父はそう切り出すと、きっぱりと断言した。
「あの家訓を作ったのは、私とは別の人間だ」
それは意外な言葉だった。驚いた夫をちらっと見て、義父は淡々と説明する。
「子供は授かりものだ。期限を設けるなどするわけがない。あの時は驚いて言葉にならなかったのもあるが、このくだらない家訓の出所は、誰かしっかりと調べる必要があった。まあ、私でないとするなら、もう君しかいないがな」
義父が義母を振り向く。
「ちょっと何を言い出すのよ。君は家長であるあなたの妻なんだから、私が勝手に作るわけないじゃない」
慌てる義母に、夫は一喝した。
「黙れ、クソ女」
「じゃあ、何か。この女はゆみをいじめただけでなく、嘘の家訓もでっち上げてゆみを苦しめたのか。腐っても母親だぞ、こいつ」
夫は怒りで肩を震わせていたが、誰も注意しなかった。
「まあ、そういうことになる」
義父はうっすら笑った。
「あ、あなた、私のせいにするつもり? 証拠はあるの? 嘘言わないで」
「君のパソコンを調べた。ゴミ箱に捨てたようだが、データは遡って復旧できるんだ。この家訓の元データが、そっくりそのまま出てきたぞ」
義父は机の上に、家訓の束を叩きつける。
「そ、それは……」
一目見るなり顔色を悪くした義母は、私をさっと睨みつけた。
「あ、あんたがこれを渡して、告げ口したのね。役立たずの嫁の分際で、なんてことを。あんたがさっさと出ていかないから、こんなことに」
そう言って平手打ちしようとする義母へ、義父は畳みかける。
「役立たずの嫁は、お前だろ。結婚当初からの散々な行い。私に黙って借金をして、もうしないと約束したのに、我慢できずに息子の嫁の給料を巻き上げようなんてな」
後から夫に聞いた話だが、義母にはギャンブル癖があったようだ。一種の病気だから、周囲が徹底的にお金を管理するしかない。私に執拗にお金を要求したのも、義父に隠れて小遣いが欲しかったのだろう。気の弱い嫁ならうまく金を引き出せたのにと考え、私をさっさと離婚させようと思ったらしい。
ぐっと黙り込んだ義母へ、義父は最後通告をした。
「出ていくのはゆみさんじゃない。君だよ。離婚してくれ」
義父は、家訓の束を見て義母が改心するつもりなどないと悟り、愛想が尽きたらしかった。
「離婚は、私、承諾しないわよ」
ヒステリックにわめく義母。
「法的なことはどうでもいい。君と物理的に離れるまでだ。すでにお前の両親には連絡してある。息子の嫁から金を脅し取ろうとしたと言えば、すぐにでも娘を引き取るとのことだ」
それを聞いた義母の反応は凄まじかった。
「う、嘘でしょ? いや、実家なんか帰りたくない。あんな田舎、1秒だって嫌よ。ごめんなさい、あなた。許してちょうだい」
まるで刑務所に送られるかのような絶望的な顔をする義母。
「謝る相手は、私だけか」
その言葉を聞くや、義母はよたよたと床に四つん這いになり、私のスカートの裾にすがりついてきた。
「ゆみさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。本気じゃなかったの。ちょっとお金が欲しくて、それだけだったのよ。許してちょうだい。本当はゆみさんと仲良くしたかったのよ」
あまりの必死さに恐怖しかなく、何も言えないでいる私の代わりに、夫が吐き捨てるように返事をした。
「今さら白々しくてクソみたいだな。誰が仲良くするか。とっとと消えうせろ」
私には理解できないが、義母の実家は驚くほど田舎だそうで、免許もない義母にとって、そこに住むことは娯楽もなく刑務所に入れられたのと同然らしい。その後、義母は義父が適度に買い物を許していたからか、金を使う快感が忘れられず、厳しい両親の監視を騙しくり、闇金融から借金まで作ってしまったようだ。取り立てに追われ、徹底的に管理される生活を強いられているという。義父に完全に愛想を尽かされたと理解したのか、頑なに拒否した離婚も受け入れたようだ。そう報告してくれた義父の顔は、疲れが取れ、すっきりして見えた。
私と夫は、今でもあの離れに住んでいる。ストレスの原因もなくなった。今は幸せな家庭に、いつか家族が増えるかもしれない。そんなことを楽しみにする毎日を送っている。



