着任初日、廊下で彼女にこう言われた。 「この病院に来てから、私は一度も手術をしていません」 35歳の優秀な外科医が、2年半ずっと助手に甘んじている。その間、彼女が立てた手術プランは部長の名前で発表され、メスは一度も握らせてもらえなかった。…

着任初日、廊下で彼女にこう言われた。 「この病院に来てから、私は一度も手術をしていません」 35歳の優秀な外科医が、2年半ずっと助手に甘んじている。その間、彼女が立てた手術プランは部長の名前で発表され、メスは一度も握らせてもらえなかった。...

午前10時を回った頃、俺は病棟へ向かうエレベーターを待っていた。後ろから足音が近づき、振り返ると白意を着た男が立っていた。50代後半、がっしりとした体格の人物。

「霧島先生ですね。さ光一です。よろしく」

差し出された手を握ると、強く握り返された。力比べでもするかのような握手だった。

「世界で活躍されてきた先生に、こんな田舎の病院で何をしていただくのか、私には正直検討もつきませんよ」

柔らかい言い回しの中に、冷たいものが混じっていた。

「田舎も都会も関係ありません。患者がいる場所が私の現場です」

「おお、立派なお言葉だ」

彼は唇の端だけで笑った。

「ただ、ここには長年積み上げてきたやり方というものがあります。先生のような若い方には分からない部分もあるでしょう」

俺は何も言わず、ただ頷いた。エレベーターが到着し、彼は乗り込まず廊下の奥へ歩いていく。

「霧島先生、ここは私の城ですので、お間違いなきよう」

その背中を見送りながら、俺は胸ポケットの事例書に触れた。俺は霧島連。42歳の農下科医だ。10年間、世界各地の医療機関で手術をしてきた。そして今、この高度医療センターの再建責任者として日本に戻ってきている。理事長から直接手紙が届いたのは半年前。『この病院を立て直してほしい』と書かれていた。俺は引き受けた。ただそれだけのことだ。

午後、農下科家病棟の見学に出た。ナースステーションで看護師たちと挨拶を交わし、病室の様子を確認しながら廊下を歩く。壁に貼られた手術予定表に目が止まった。助手の欄に、浜辺美という名前がある。不事前に渡された資料に彼女の名前があった。35歳、農下科医。診断能力に優れ、海外の学会でも論文が高く評価されている女性医師。ただ、手術者としての記録がほとんどない。それが引っかかっていた。

手術室前の廊下を曲がった時、白意を着た女性が1人、洗面台の前に立っていた。すっきりとした目元、化粧のない顔、きちんと結い上げた黒髪。浜辺美だと直感した。

「浜辺先生ですね。霧島です」

「はい、伺っております。本日からよろしくお願いいたします」

丁寧だが、距離のある言い方だった。

「これから手術に入られると聞きました」

「はい」

「失礼ですが、浜辺先生は最後に手術されたのはいつですか?」

彼女は一瞬目を伏せた。

「2年半前です。この病院に来てからは、手術をしておりません」

「失礼します。準備がありますので」

彼女は軽く頭を下げて、手術室へ歩いていった。俺は手術予定表の前に戻り、もう一度その名前を見た。診断は任せても、メスは持たせない。そういう扱いが2年半続いているのか。

ふと後ろから声がした。振り返ると、若い医師が立っていた。細身で緊張した面持ちの男だ。

「あの、霧島先生でいらっしゃいますか? 白石優馬と申します。農下科家でお世話になります」

「白石先生、今日はさ山先生の助手に入られるんですね」

「はい。浜辺先生と一緒に」

「浜辺先生は、いつも助手なんですか?」

白石は一瞬答えに詰まった。

「ここではそうなっています。さ山部長の方針で」

「方針ですか?」

「女性医師は手術には向かないと。古い考えだとは思うのですが、誰も逆らえなくて」

その言葉には迷いとわずかな後ろめたさが滲んでいた。

その夜、俺は白石優馬と向かい合って話を聞いた。

「今日の患者さんの手術プランを立てたのは、浜辺先生なんです。画像の読み、血管の走行、すべて浜辺先生が組み立てました。さ山部長はそれを少し変えただけで、自分の手術にされました」

「浜辺先生は何も言いません。プランを取られても、手術を取られても、黙って助手に入る。一度も文句を言うのを聞いたことがありません」

「なぜ彼女は残っているんでしょうね」

白石は首を振った。

「分かりません。やめるんじゃないかと噂が立ったこともあります。他の大学病院から声もかかっているはずです。それでも、ここを離れない」

「さ山部長は、女性医師に大きな手術を任せたことが一度もありません。表向きは適正の問題と言われますが、中身は違う。農下科家は男の仕事だと本気で思っておられる」

俺は窓の外に目をやった。

「霧島先生、私はさ山部長を尊敬してきました。技術もある、経験もある立派な先生です。ですが、今日先生が浜辺先生に声をかけられた時、思ったんです。誰かがおかしいと言わないと、何も変わらないんじゃないかと」

「白石先生、今日聞いた話は忘れません。ただ、すぐには動きません。患者を見て、医者を見て、それから決めます。それが私のやり方です」

翌週の月曜日、農下科家のカンファレンスルームはいつもより人が多かった。俺が着任して初めての症例検討会だ。モニターには若い男の頭部MRIが映し出されている。誰の目にも難しいと分かる場所だった。

司会の白石が症例を読み上げた。

「患者は長谷川孝太さん、22歳、大学生。3ヶ月前から頭痛とめまいを訴え受診。脳深部の巨大腫瘍が判明しました。これまで全国5つの大学病院で診察を受けましたが、いずれも手術困難との診断です」

俺は画像をじっと見た。確かに楽な手術ではない。ただ不可能ではない。俺はこれと似たケースをドイツで2度、アメリカで1度手術したことがあった。

部屋の後ろから低い声が響いた。

「これはうちでやる症例ではないな」

全員の視線がさ山に集まった。

「5つの大学が断った患者だ。うちが引き受けて、もし術中に何かあれば、病院の評判は地に落ちる。お引き取り願うのが筋だろう」

何人かの若手医師が黙って頷いた。俺は浜辺美を見た。彼女は画像をまっすぐに見つめたまま、唇を強く結んでいた。

「さ山先生、1つ伺ってもよろしいですか?」

「何でしょう?」

「この患者さんの主治医はどなたですか?」

白石が小さな声で答えた。「浜辺先生です」

「浜辺先生、ご意見を伺いたい」

部屋の空気が止まった。浜辺は一瞬息を飲み、それからゆっくりと立ち上がった。

「長谷川さんは来月、就職活動の最終面接を控えています。建築の道に進みたいとずっと話されていました。お母様は10年前に亡くなられて、お父様が1人で育てられました」

「私は主治医として、この患者さんを見捨てたくはありません」

「感情論で医療はできんよ、浜辺君」

「論ではありません」

彼女はモニターを指した。

「腫瘍は確かに深部にありますが、被膜は比較的明瞭です。後方アプローチで脳室を経由すれば、主要血管を避けて到達できます。私は手術可能だと考えています」

「私も同じ意見です」

全員の視線が今度は俺に集まった。

「この手術は難しい。それは間違いありません。ただ、適切なアプローチを取れば救える命です。私は引き受けるべきだと思います」

さ山はテーブルを軽く叩いた。

「霧島先生、あなたは着任して1週間も経っていない。うちの事情も設備もまだご存知ない。ここで1人の患者のために、病院全体を危険にさらすおつもりか」

「危険を引き受けるのが、我々の仕事だと思っています」

部屋は静まり返った。浜辺の方に、わずかに赤みが差していた。

その日の午後、俺は再び理事長室に呼ばれた。理事長の傍らには、さ山が立っている。

「霧島先生、長谷川孝太さんの件、伺いました」

「はい」

「率直に申し上げます。私は反対です」

「この病院は開院から2年で、まだ評判が定まっていません。今、5つの大学が断った患者を引き受けて、万が一のことがあれば、私たちは取り返しのつかない傷を負います」

「理事長、1つだけお聞かせください。この病院の理念は何でしょうか?」

理事長の眉がわずかに動いた。

「玄関の額に書かれていました。『最後の砦であれ』と。私はあの言葉を読んで、ここに来る決意をしました」

「霧島先生、5つの大学が断った患者です」

「次に断られたら、長谷川さんに行く場所はありません。最後の砦が引き受けなくて、誰が引き受けるんですか?」

長い沈黙があった。理事長は目を伏せた。

「手術はどなたが?」

「私が手術します。第一助手に、浜辺美先生を希望します」

「何を言うんですか! 浜辺君にあの手術の助手など務まるわけがない!」

「さ山先生、私は世界各地で手術をしてきました。誰が助手に向くかは、自分の目で判断します」

理事長は長く息を吐いた。

「霧島先生、1つだけ約束してください。患者さんとご家族に、丁寧に説明を尽くしてください。納得していただけたなら、やってみてください」

「ありがとうございます」

さ山は何も言わずに部屋を出ていった。

理事長室を出ると、廊下の向こうから浜辺が歩いてきた。俺と目が合うと、彼女は立ち止まった。

「浜辺先生、長谷川さんの手術を引き受けることになりました。第一助手をお願いします」

彼女の目がわずかに見開かれた。

「私でよろしいのですか?」

「あなたが立てたプランです。あなたが最後まで責任を持つべきだと思っています」

浜辺は深く頭を下げた。顔を上げた時、目が潤んでいた。

手術の前夜、俺は長谷川孝太の病室を訪ねた。枕元には開かれたままの建築雑誌が1冊置かれている。

「明日の手術の説明に、もう一度伺いました」

「霧島先生、来てくださってありがとうございます」

一通りの説明をゆっくりと話した。長谷川は黙って聞いていた。

「正直に申し上げます。簡単な手術ではありません。ただ、私と浜辺先生で、最後まで諦めずにやらせていただきます」

「先生、1つだけ聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「5つの病院でもう無理だと言われました。それでもここで引き受けてくださったのは、なぜですか?」

俺はしばらく言葉を選んだ。

「あなたの主治医が、最後まで諦めなかったからです。浜辺先生があなたの夢の話を、私にしてくれました」

彼の目がふっと潤んだ。それからベッドの脇の引き出しを開け、1枚の図面を取り出した。鉛筆で丁寧に描かれた、小さな家のスケッチ。

「これは父のために設計した家です。母が亡くなってから、父は古い借家に1人で住んでいて。いつか自分の手で建ててやりたいと思っていたんです」

俺はその図面を両手で受け取った。

「いい家になりますね。お父様もきっと喜ばれます」

「先生、明日、よろしくお願いします。生きてこの図面を父に渡したいんです」

俺は図面を彼の手にそっと戻した。

「あなた自身の手で、お父様に渡してください」

彼の頬を一筋の涙が伝った。

病室を出ると、廊下で浜辺美が待っていた。

「先生、アプローチの最終確認をもう一度お願いできますか?」

「もちろんです。やりましょう」

彼女の目には、もう迷いがなかった。

翌朝、手術室の自動ドアが開いた。青いスクラブに身を包んだ俺の隣に浜辺美が立つ。反対側には第二助手の白石優馬。看護師総勢12名のチームが長谷川孝太を囲んでいた。

「皆さん、よろしくお願いします」

全員が静かに頭を下げた。浜辺の手がメス台の上の器具を一つ一つ確認していく。その手元を白石は息を飲んで見つめていた。2年半、握ることを許されなかった人の手だ。ただ、迷いのかけらもなかった。

手術が始まったのは午前8時20分だった。深部へとアプローチを進めていく。モニターには巨大な腫瘍の白い影が徐々に近づいてくる。午後1時、被膜に到達した。ここからが本当の勝負だった。1本でも血管を傷つければ、重い後遺症が残る。

「先生、視野確保します」

「ありがとう。入ります」

時間がゆっくりと流れていく。1ミリ、また1ミリ。慎重にメスを入れていく。午後5時、腫瘍が無事に摘出された。手術が終わったのは午後7時20分。11時間の戦いだった。俺は最後の縫合を浜辺に任せた。

「よろしいのですか?」

「あなたの患者です」

彼女は黙って頷き、糸を結んだ。最後の結び目を結び終えた時、彼女の指がほんのわずかに震えた。

手術室を出ると、廊下の長椅子に長谷川の父親が座っていた。俺が「無事に終わりました」と告げた瞬間、父親はその場に崩れ落ちた。俺は彼の肩を支えた。父親の涙が俺の白意の袖に落ちた。浜辺は少し離れた場所で壁に手を付き、声を殺して泣いていた。

3ヶ月後のある朝、俺はいつものように廊下を歩いて出勤した。壁の掲示板には新しい手術予定が貼られている。手術者の欄に、浜辺美の名前があった。

長谷川孝太は先月退院した。後遺症もほとんどなく、来月から建築事務所に就職が決まったという。退院の日、彼は父親と一緒にあの家の図面を持って俺たちに会いに来た。

「先生、この家、必ず建てます」

そう言って深く頭を下げた青年の姿を、俺はずっと忘れないだろう。

医局に入ると、白石が廊下に立っていた。

「霧島先生、今朝の症例検討会、私が司会を務めさせていただきます」

「頼みます。白石先生も随分頼もしくなりましたね」

「先生方の背中を見させていただいていますので」

彼の表情には、半年前にはなかった落ち着きがあった。

さ山部長は先週、退職届を出した。理由は何も語らなかったが、最後の日、廊下で俺とすれ違った時、ぽつりと言った。

「霧島先生、私の時代は終わりましたな」

「さ、長い間、お疲れ様でした」

ただそれだけの短いやり取りだった。

カンファレンスルームに向かう途中、浜辺美とすれ違った。

「霧島先生、おはようございます。今日もよろしくお願いします」

短い挨拶を交わして、彼女は手術室の方へ歩いていった。その背中には、2年半前にはなかった力強さがあった。

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