式場に向かう車の中、電話越しに彼は言った。
「悪いけど式場には来なくていいよ。さっき本命の彼女と婚姻届を出してきたからさ。」
私は声を失った。8年間、彼の夢を支え続けてきた。タワーマンションの頭金だって、父が払ってくれた。なのに彼は、私の人生をまるごと踏みにじって、別の女のもとへ行くと言う。
「だからさ、タワマンも出て行ってくれ。俺はお前より金も持ってて顔もいい女とこれから暮らすから。」
その言葉で、私の人生は終わった。いや、最初から彼との暮らしは、崩壊する運命だったのかもしれない。
私の名前はナツキ。30代の会社員だ。20代の頃、音楽が大好きで、給料のほとんどをライブやグッズに費やしていた。生活はカツカツだったけど、好きなことに使うお金は幸せだった。
彼と出会ったのは、その頃だ。ファンミーティングで隣に立っていた彼に話しかけられて、意気投合した。背が高くて、笑顔が爽やかな、まさに私のタイプだった。
「このバンド、本当最高だよね。」
「うん。いい曲ばっかりで、飽きないんだよね。」
ミニライブの後も話し足りなくて、二人で居酒屋に入った。そこで彼がバンドのボーカルをしていると知り、私は一気に惹かれた。ステージで歌う彼の姿は眩しくて、気づけば夢中になっていた。私から告白して、付き合い始めた。
同棲を始めた頃は、夢のような幸せだった。だけど、次第に彼の行動が怪しくなっていった。酔っ払って帰ってきた夜、高額な飲み代の請求書が届いた。彼は「バンドマンには付き合いがあるんだよ」と笑って流した。シャツの襟に長い髪の毛が付いていても、問い詰めても「ファンが勝手に」と言うばかり。悔しくて、毎日こっそり泣いた。
そんな生活が3年続いた頃、彼は突然会社を辞めた。
「これからは音楽一本で食っていくんだ。」
私は驚いた。
「そんな急に辞めてどうするの?」
「生活はお前の給料で回せばいいだろ。俺はバンドで一発当てるからさ。」
そう言ってのける彼を、私は信じたかった。支えればいつか彼も真剣になってくれると。だけど現実は厳しく、彼のライブには客が数人しかいない。生活はどんどん苦しくなっていった。
どうにかしたくて、親戚を頼って彼に正社員の仕事を紹介した。最初は嫌がったけど、「別れる」と伝えると、しぶしぶ働き始めた。それでも、彼の心は音楽のままだ。時間だけが過ぎ、同棲生活も8年目に入ったある日、彼が言い出した。
「なあ、タワマンに引っ越さないか?」
贅沢すぎると思った。
「私たちには無理だよ。ローンだって組まなきゃいけないし。」
「大丈夫だって。それに、これを機に結婚しようぜ。ナツの次の誕生日に。」
結婚。長年待ち望んだ言葉だった。彼が本気で考えてくれたのなら、タワマンも悪くない。そう思い始めた私は、父に頭金を出してもらい、35年のローンを組んでタワーマンションに引っ越した。
しかし、彼の金遣いはどんどん荒くなった。
「ちょっとお小遣いくれよ。」
何度も求められるうちに、私は心配になって通帳を覗いてしまった。そこには、会社からの入金はなく、代わりにライブハウスからの振り込みが6万円だけ。彼はまた会社を辞めていた。
「なんでまた会社やめたの?」
声が震えた。
「本当にごめん。でも、俺は音楽で成功したいんだ。あと少しだけ時間をくれないか。頼む、もうちょっとだけ支えてくれ。」
優しい甘い言葉だった。でも、それはもう真実ではないと分かっていた。それでも私は、彼を信じたかった。
結婚式当日。私は実家から式場に向かう準備をしていた。心の奥で、何かが引っかかっている。彼に電話をしても、出なかった。何か嫌な予感がする。式場が近づいた時、携帯が震えた。
「なあ。悪いけど式場には来なくていいよ。」
その言葉の続きを聞いて、私は現実を飲み込んだ。彼は、本命の女と婚姻届を出したと言う。そして、私にタワマンから出て行けと言った。
時間が止まったような気がした。驚きよりも、どこかで「やっぱり」と思っている自分がいた。
「分かった。」
それだけ言って、私は電話を切った。涙は出なかった。ただ、何もかも終わったのだと理解した。
私は実家に戻り、少しずつ日常を取り戻していた。10日後、職場に彼が現れた。
「ナツ、ちょっと話があるんだけど。」
「何の用?」
「実はさ、ちょっと金が必要なんだよ。100万くらい貸してくれない?」
あんぐりと口を開けてしまった。結婚式を台無しにした男が、10日も経たないうちに金を借りに来るなんて。
「100万?何に使うつもり?」
「色々あってさ、生活費が足りなくて。今月乗り切れば何とかなるんだ。頼むよ。」
私は睨みつけた。
「キラリちゃんでしょ?結婚した子。その子に頼めばいいじゃない。」
彼の顔が一瞬で強張った。
「なんでお前が… 」
「キラリちゃんてさ、キャバクラで社長令嬢って名乗ってたんだってね。お客さん全員に。」
私は追い詰めたかった。彼が私を捨てて選んだ女が、実は大嘘つきだったと知った時の衝撃を。
彼の顔が青ざめ、震え始めた。
「俺は騙されたんだ。あの女、家が社長だって言ってたけど、全部嘘だった。実際は中古CDショップの雇われ店長で、俺は結婚すれば安泰だと思ってたのに。」
彼は自分のミスを認めようとせず、被害者のふりを続けた。
「お願いだ、ナツ。お前しかいないんだ。助けてくれ。」
「あの女にだって、私にだって、あなたは嘘をつき続けた。それがあなたの限界なのよ。」
私は彼とキラリを喫茶店に呼び出した。私の目的は、彼にお金を貸すことじゃない。二人の嘘を暴くことだった。キラリは遅れて現れ、不機嫌そうに椅子に座ると、私を見下すように言った。
「で、何なの?わざわざ呼び出されて、めんどくさいんだけど。」
「私はタケトの元カノよ。結婚まで決まってたの。つい最近までね。」
キラリは鼻で笑った。
「へえ、そうなんだ。それが何?もう過去の人でしょ?」
「関係あるから呼んだのよ。このバカ男とあなたのせいで、私がどんなに辛い思いをしたか。教えてあげたくて。」
「何?仕返しってわけ?それってダサくない?」
彼女の傲慢な態度に、私は冷静さを保つのに必死だった。深呼吸をして、彼女に伝えた。
「タケトはタワマンのローンすら払えないのよ。彼の手取りは、たったの6万円。ライブハウスのバイト代だけなの。」
その瞬間、キラリの顔色が変わった。
「6万?嘘でしょ?」
「ええ、本当よ。彼はライブハウスでバイトしてるだけ。ローンの支払いなんて、とてもじゃないけどできない状況。あなた、何も知らないまま勝った気でいたんでしょうけど、現実はそうじゃないのよ。」
キラリは完全に動揺した。血の気が引いていくのが分かる。
「そんなの嘘!タワマンに住んでるって言ってたじゃない!」
彼女はタケトを問い詰め始めた。
「ねえ、この話本当なの?あんた、バカじゃないの?6万しか稼げない男と私が暮らせると思ってたわけ?」
彼は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「ふざけんな!お前だって社長令嬢なんて嘘ついてたじゃないか!」
「騙されたあんたが悪いんでしょ?タワマンに住める男だと思ったから付き合ってやったのよ。6万の男に未来なんてないわ。」
キラリはそう言い放つと、立ち上がって店を出て行こうとした。最後に彼を振り返り、冷たい笑みを浮かべた。
「じゃあさようなら。貧乏人とはもう関わりたくないから。」
喫茶店に残されたタケトは、ただ呆然と座っていた。肩を震わせ、完全に打ちのめされていた。やがて、彼は顔を上げて私を見た。
「ナツキ。頼む。もう一度俺とやり直してくれないか。お前しかいないんだ。」
「やり直す?無理よ。」
「頼むよ。俺ちゃんと働くから。今度こそ本気で頑張るからさ。」
「もう遅いの。私に頼らずに、自分でなんとかしなさい。」
私は立ち上がり、彼を見下ろした。
「それより、私が受けた精神的な苦痛に対する慰謝料を請求するわ。あなたの浮気、無責任な行動、全ての責任を取ってもらうから。」
「え、慰謝料?俺たち、籍も入れてないじゃないか!」
「籍を入れてなくても、長年一緒に暮らしていたら内縁関係が認められるのよ。だから慰謝料の請求もできる。弁護士から正式に通知が届くから、楽しみにしていて。」
彼は完全に凍りついていた。何も言い返せず、ただ俯くだけだった。私は会計を済ませ、振り返らずに店を出た。外の冷たい風が、私の頬をなでていく。ようやく、あの重荷から解放された気がした。
それからしばらくして、彼の近況を耳にした。ローンが払えなくなった彼はタワマンを追い出され、物件も競売にかけられた。収入のない彼は新しい部屋も借りられず、結局、家賃1万円の幽霊物件に住む羽目になったらしい。彼のバンド活動も完全に崩壊し、ライブハウスからは出入り禁止を言い渡された。過去の女性たちが彼の悪評を暴露し、世間からの信用は地に落ちた。
彼が自信満々に語っていたタワマン生活は、あっけなく崩れ去った。自業自得という言葉が、これほど似合う状況はない。私はその話を聞いて、思わず笑みがこぼれた。
8年間の尽くしは、今思えば信じられないほど馬鹿らしい。彼に捧げた時間は戻ってこないけれど、代わりに彼が没落していく様子を見届けるという、さやかな喜びを手に入れた。今の私は、仕事も順調で、彼に使っていたお金もすべて自分の好きなことに回している。もう彼に振り回されることもない。
これからは、自分のために生きるんだ。そう決意して、私は新たな一歩を踏み出した。



