昼休み前のオフィス。部長が全社員の前で私を指差して叫んだ。「高卒の派遣なんか、目障りなんだよ!」母の治療費のため、私は三年間黙々と誰も気づかない仕事を続けてきた。周りの嘲笑を聞きながら、私はただ頭を下げた。でも、最後にこう言ってしまった。「絶対に後悔しますよ。」あの人は笑った。高卒のくせに何を言うか、って。しかし翌週、工場のラインが止まった。誰も復旧できない。その時初めて、私は毎朝一時間やっ…

昼休み前のオフィス。部長が全社員の前で私を指差して叫んだ。「高卒の派遣なんか、目障りなんだよ!」母の治療費のため、私は三年間黙々と誰も気づかない仕事を続けてきた。周りの嘲笑を聞きながら、私はただ頭を下げた。でも、最後にこう言ってしまった。「絶対に後悔しますよ。」あの人は笑った。高卒のくせに何を言うか、って。しかし翌週、工場のラインが止まった。誰も復旧できない。その時初めて、私は毎朝一時間やっ...

「高卒の派遣なんて、目障りなんだよ。フロアにいても邪魔なだけだ。」

昼休み直前、社員全員の視線が集まる中、しの美はただ静かに立っていた。財前部長の声がオフィス全体に響き渡る。

「不良品率がどうのこうのって、お前がいなくても機械が勝手にやってるんだよ。派遣を一人減らせば経費も浮く。ちょうどいい。お前は今月いっぱいでクビだ。」

くすくすと笑い声が漏れる。財前は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「なんか言い返してみろよ。え? ああ、そうか。頭が悪いから言葉も出ないか。そういう家庭に生まれると苦労するよな。」

母のことをまで持ち出された。その一言で、しの美の指先がほんの少しだけ動いた。けれど彼女は、いつものように静かに頭を下げた。

「わかりました。今までお世話になりました。」

そして顔を上げ、こう告げた。

「絶対に後悔しますよ。」

その言葉の意味を、この時の財前はまだ誰一人として知らなかった。

しの美が品質管理サポートに配属されたのは、三年前のことだった。高卒派遣。履歴書に書かれたその二文字だけで、財前部長は面談初日にこう言い放った。

「まあ、掃除と伝票整理くらいはできるだろう。余計なことはするな。」

しの美は「わかりました」とだけ答えた。言い返しもせず、笑いもせず、ただ静かに頭を下げた。その態度を財前は「気の利かない女だ」と鼻で笑った。

けれど、しの美には財前の知らない習慣があった。毎朝、始業の一時間前、まだ誰もいない工場に彼女は一番に足を踏み入れる。検査ラインのパソコンの前に座り、ずらりと並んだ数値を一つ、また一つと指でなぞっていく。時折キーを叩き、微細な数字を打ち替える。それはまるで、巨大な機械の脈を見る医者のような、静かで正確な手つきだった。

「しのさん、今日も早いっすね。」

声をかけてきたのは、入社二年目の桜場健太。しの美の唯一の後輩だ。

「おはよう、桜場君。この工程、昨日より温度が0. 3度高いわ。補正しておくから、午後の検査で気にしておいて。」

「え、0. 3度? そんなの俺、全然気づかなかったっすよ。」

「気づかなくていいのよ。私が見てるから。」

しの美は軽く笑って、また画面に目を戻した。桜場には分からなかった。なぜこの人がただの派遣なのか。なぜこれほどの目を持ちながら、一言も自分を誇らないのか。その理由を、彼女は決して口にしなかった。ロッカーの奥にそっとしまい込んだものと同じように。

だが、静かな日々は、財前の一言で終わりを告げる。

「しの美の野郎、ちょっと来い。お前に話がある。」

その日から、しの美の運命、そしてこの会社の運命も大きく動き始めることになる。

財前に呼び出された会議室で、しの美はある書類を突きつけられた。

「これ、お前が先週出した業務改善の書類だな。検査アルゴリズムの補正がどうのこうのと、ごちゃごちゃ書いてあるやつ。」

「はい。今の検査工程だと、このままだと三ヶ月後に精度が落ちます。早めに設備を更新した方がいいかと。」

財前はその書類を、しの美の目の前でぐしゃりと握りつぶした。

「派遣が経営に口を出すな。設備更新に金がいくらかかると思ってるんだ。大体、不良品率が下がってるのは俺の指導のおかげだよ。お前の書いた落書きなんか必要ないんだよ。」

しの美は、握りつぶされた書類を静かに見つめた。不良品率が下がっているのは、あなたの指導のせいじゃない。毎朝私が一時間かけて補正しているから。それを言えば話は一瞬で終わるけれど、しの美は言わなかった。言ったところで、この人は聞かない。それに彼女には、実績を誇るより大切なものがあった。

その日の夜、しの美は病院にいた。

「お母さん、調子はどう?」

ベッドの上の母が穏やかに微笑む。

「大丈夫よ。それより美、あなた顔色が悪いわ。」

「うん、平気。ねえ、お母さん。人を見下す人って、どうしてあんなに強気でいられるんだろうね。」

千代は少し笑って、娘の手をそっと握った。

「見下してるうちは気づかないのよ。自分が何に支えられているのか。でもね、美。後悔するのは、いつだって人を軽んじた側なのよ。忘れないで。」

その言葉が、しの美の胸の奥に静かに落ちた。母の治療費のために、しの美は残業のない派遣という道を選んだ。誰にも言わず、ただ黙って。静かな覚悟を胸に、しの美はまた次の朝を迎える。だがその朝が、全ての始まりだった。

その週の金曜日、事件は起きた。工場の検査ラインで、突然アラートが鳴り響いたのだ。パネルが赤く点滅し、ベルトコンベアが緊急停止する。若手社員たちが青ざめて騒ぐ中、しの美は静かにパソコンの前に座った。

「桜場君、落ち着いて。第三工程の温度センサーが故障してるだけよ。数値を手動で戻せば、止まらずに済むわ。」

指が迷いなく動く。ずらりと並んだ数値の海から、たった一つの異常値をしの美は一瞬で見抜き、補正値を打ち込んだ。数秒後、アラートが止み、ラインが何事もなかったように再稼働した。

「止まりました。しのさん、止まりましたよ。すげえ。」

桜場が思わず声をあげる。周りの社員もほっと胸を撫で下ろした。そこへ財前が駆け込んできた。

「なんだ、何を騒いでる。ラインを止めたのか。」

「いえ、部長。もう復旧しました。センサーの故障でしたが、しのさんが……」

「どうせ大したことなかったんだろ。派遣が偉そうに機械いじりしやがって。壊したらどう責任取るつもりだ?」

財前は、しの美が重大な事故を防いだことなどまるで理解していなかった。むしろ、しの美が機械に触れたこと自体を咎めた。

「二度と勝手にパソコンに触るな。お前の仕事は掃除だろうが。」

しの美は静かに立ち上がって、頭を下げた。

「わかりました。」

その背中を見送りながら、桜場は初めてはっきりと違和感を抱いた。おかしい。あのアラート、俺には何が起きてるのか全然分からなかった。なのに、しのさんは一瞬で……。あれは掃除係がやれることじゃない。その夜、桜場は一冊のノートを買った。表紙にこう書いた。『しのさんに教わったこと』。それが後に財前を追い詰める決定的な一冊になるとは、この時はまだ誰も知らなかった。

翌週の月曜日、しの美の解雇はあまりにあっけなく決まった。財前は役員会議でこう報告していた。

「うちの部署、不良品率を昨年比で六割も削減しました。私の徹底した現場指導の成果です。」

「ほう、それは見事だ。財前君の手腕だな。」

役員たちが頷く。財前は得意げに胸を張った。その六割削減の正体が、毎朝一時間、たった一人で数値を補正し続けた派遣社員の手仕事だったことを、誰も知らないまま。

会議の後、財前は上司の許可を得て、しの美を呼び出した。

「しの美。話は聞いてるな。今月末でお前との契約は終了だ。経費の見直しでな。」

「はい。」

「まあ、せいぜい次の派遣先を探すんだな。高卒のお前を雇ってくれるところがあればの話だが。」

財前はにやりと笑った。

「言っとくが、辞めた後にうちの機密を漏らすなよ。まあ、お前に理解できるような高度な仕事は何ひとつさせてないがな。」

その侮辱を、しの美は静かに受け止めた。そして最後にもう一度だけ口を開いた。

「部長、一つだけお伝えしておきます。検査ラインの補正、毎朝一時間かけて手動でやっていました。私がいなくなったら、必ず引き継ぎが必要です。マニュアルはデスクに置いてあります。」

「まだそんな作り話してんのか。」

財前はしの美の言葉を鼻で笑って遮った。

「機械が勝手にやってることを、さも自分の手柄みたいに。だからお前はダメなんだよ。いいからさっさと荷物まとめて消えろ。」

しの美はそれ以上何も言わなかった。ただ深く頭を下げた。

「わかりました。お世話になりました。」

その姿を見て、財前は勝ち誇った。だが、しの美が差し出そうとした引き継ぎを拒んだこの瞬間こそが、財前自身の首を絞める最初の一手だったのだ。

しの美の最終出社日は、その週の金曜日だった。彼女はいつも通り、始業の一時間前に工場へ来た。最後の朝も、パソコンの前に座り数値をなぞっていく。

「しのさん。」

桜場が俯いたまま近づいてきた。声が少し震えている。

「本当にやめちゃうんですか? 俺、部長に言い合います。しのさんがどれだけこの現場を支えてるか。」

「桜場君、ありがとう。でもいいの。決まったことだから。」

しの美は分厚いファイルを桜場に手渡した。表紙には『検査補正マニュアル』とある。

「毎朝の補正手順がここに書いてある。私がいなくなっても、これがあれば大丈夫。」

「しのさん、なんでそこまで?」

「私を切った会社だけど、ここで働く人たちに罪はないから。」

その言葉に、桜場は唇を噛んだ。

夕方、しの美は静かに私物をまとめた。最後にロッカーの奥から、そっとあるものを鞄に入れる。それは額に入った一枚の賞状だった。『技術士部門登録 しの美』。その部門で、市場最年少の合格者に送られた栄誉の証。しの美は誰にも見せることなく、静かにロッカーを閉じた。そして三年間働いた工場に、深く一礼した。

見送りに立っていた財前が鼻で笑う。

「なんだ、感傷的になってるのか。せいぜい達者でな、高卒さん。」

しの美は振り返り、財前をまっすぐ見つめた。そして静かに、けれどはっきりと告げた。

「部長、絶対に後悔しますよ。」

その声には、怒りも涙もなかった。ただ静かな確信だけがあった。

しの美が去った次の月曜日。その朝から工場は静かに、しかし確実に狂い始めていた。始業前、誰もいない検査ライン。いつもならしの美が座っているパソコンの前に、その日は誰も座っていなかった。補正されないまま、第三工程の温度がじりじりと上がっていく。0. 3度、0.

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5度、0. 8度。異常値が積み重なっていくが、それに気づける者はもうこの現場にいなかった。

午前十時、事件は起きた。

「アラートが鳴ってます!」

けたたましい警報音が工場中に響き渡る。パネルが真っ赤に染まり、検査ラインが緊急停止した。社員たちが金曜のあの日と同じように慌てふためく。だが今日は、しの美がいない。

「誰か、誰か止め方分かるやつ?」

「分かんない。パソコンの数値が真っ赤だ。」

マニュアルはある。だが引き継ぎ資料は……。現場は完全に混乱に陥った。そこへ財前が血相を変えて駆け込んでくる。

「何をやってる? 早くラインを動かせ。止まってたら生産が間に合わないぞ。」

「む、無理です、部長。誰も補正のやり方が分からなくて。」

「補正だと? そんなもん機械が勝手にやるんだろうが。」

「それが……機械じゃなくて、人が手でやってたみたいで。」

財前の顔から、さっと血の気が引いた。人が手で……。しの美が最後に言っていた言葉が頭をよぎる。『毎朝一時間かけて手動でやっていました。私がいなくなったら、必ず引き継ぎが必要です。』

「まさか……」

財前は震える声でつぶやいた。だが、認めるわけにはいかなかった。

「だ、大したことない。すぐ復旧させろ。あの派遣がいなくても回るんだ。この会社は。」

その強がりが、事態をさらに最悪へと転がしていくことを、財前はまだ知らなかった。

ラインは丸一日経っても復旧しなかった。呼ばれた設備メーカーの技術者ですら首をかしげた。

「これは市販のシステムじゃないですね。独自にカスタマイズされた補正が組み込まれてる。かなりのコード量だ。これを毎日手動で運用してたって……一体誰がやってたんですか?」

その問いに、現場は静まり返った。答えられる者は誰もいなかった。ただ一人を除いて。

「しのさんです。」

声をあげたのは桜場だった。彼はあのノートを握りしめて前に出た。

「しの美さん。先週、部長が解雇した派遣の人です。この補正、全部あの人が一人でやってました。俺、そばで見てたから知ってます。」

技術者が目を見開く。

「派遣の方が……失礼ですが、それは相当な専門知識がないと不可能です。生半可な経験じゃこんなロジック組めない。」

桜場はノートを開いて見せた。そこには几帳面な字で、日付と共にびっしりと書き込まれていた。第三工程の温度補正、異常値の見抜き方、そしてしの美が防いできた不良品の記録が。

「これ見てください。しのさんがいた三年間、重大な不良品の流出はゼロです。全部、あの人が朝のうちに止めてたんです。」

技術者はノートをめくりながら唸った。

「信じられない。もしこの記録が本当なら、この方は一人で品質保証部門一つ分の仕事をしてたことになる。」

その言葉に、周囲がざわめいた。あの地味な派遣が、掃除係と笑われていたあの人が。桜場はまっすぐに顔をあげた。

「もう一つ言わせてください。部長が役員会で報告してた不良品六割削減。あれは部長の指導の成果じゃありません。全部、しのさんの仕事です。」

その一言が、フロアの空気を決定的に変えた。桜場の告発は、その日のうちに役員の耳に届いた。

翌朝、財前は役員室に呼び出された。

「財前君。先週の会議で報告した不良品六割削減。あれは君の指導の成果だと言ったな。」

「あ、はい。もちろんです。」

「では聞くが、なぜ君が解雇した派遣社員が辞めた途端、検査ラインが止まった? なぜ現場の誰一人として、その補正を引き継げない?」

役員の一人が、一枚の資料を机の上に置いた。桜場のノートをそのまま印刷したものだった。財前の額に、じわりと汗が滲む。

「そ、それは……あの派遣が勝手に仕事を属人化させていたせいでして……」

「属人化?」

役員の声が一段低くなった。

「君は今し方、その仕事を自分の指導の成果だと言ったばかりだぞ。自分の成果だと言うなら、なぜ君自身が引き継げないんだ?」

財前は言葉に詰まった。口を開いても、筋の通った言い訳が何ひとつ出てこない。

「しかし、あんな高卒の派遣にできることなど、高が知れて……」

「その高卒の派遣が、三年間この会社の品質をたった一人で守っていた。現場はそう証言している。」

役員は静かに資料を指先で叩いた。

「財前君。これは単なる引き継ぎミスの話じゃない。役員会での虚偽報告、業績と実績の詐称にあたる疑いがある。これは極めて重大だ。」

財前の顔から、完全に血の気が引いた。自分が積み上げてきたはずの実績が、足元から音を立てて崩れていく。しの美が最後に告げた『後悔しますよ』という言葉。その意味が、今ようやく財前自身の身に振りかかろうとしていた。

事態は社内だけでは収まらなかった。検査ラインの停止は丸二日に及んだ。その間に、補正されないまま流れかけた製品。その中には、重大な欠陥を抱えたものが多数含まれていた。そしてよりによって、その製品の納入先が会社最大の取引先だったのだ。

「御社の検査体制は一体どうなってるんですか?」

取引先の品質管理責任者が、電話口で声を荒げた。

「先日納入されたロット、こちらの抜き取り検査で不良が複数見つかりました。過去三年、御社の製品は不良ゼロだった。それがなぜ急に……」

対応に追われた財前は、しどろもどろになった。

「い、いえ、これは一時的なトラブルでして、すぐに……」

「一時的? 我々はその不良ゼロを信頼して、御社と大口契約を続けてきたんです。その信頼が根底から揺らいでいます。」

責任者の声は冷たかった。

「正直に申し上げます。この状態が続くなら、来期の契約は見直させていただきます。」

最大の取引先との契約打ち切り。それは会社の屋台骨を揺るがす一大事だった。役員たちは青ざめた。

「財前君。君は『あの派遣がいなくても回る』と言ったな。この事態を、どう責任を取るつもりだ?」

財前はもう何も言い返せなかった。三年間、不良ゼロという信頼を築いてきたのは財前ではない。毎朝一時間、誰にも知られず数値を補正し続けた、あの静かな派遣社員だった。その一人を会社の恥と切り捨てた瞬間、会社は最も大切な守り神を自ら手放していたのだ。そしてその代償は、あまりにも大きかった。

一方その頃、しの美は静かな日々を過ごしていた。母の病室で、窓の外の空を眺めながらゆっくりと時間を過ごす。

「美、いいの? 仕事やめちゃって。」

千代が心配そうに娘の顔を見た。

「うん。むしろちょうど良かったの。しばらくお母さんのそばにいられるし。」

しの美は穏やかに笑った。その時だった。彼女のスマートフォンが着信を告げる。画面には、見知らぬ番号が表示されていた。

「はい、しのです。」

「突然のお電話、失礼いたします。私、大手精密機器メーカー、青峰テクノロジーの人事部のものです。」

しの美は少し目を見開いた。

「実は業界内で、あなたの噂を耳にしまして。三年間、たった一人で一社の品質保証を支えていた技術者がいると。しかも技術士の資格をお持ちだとか。」

「どうしてそれを……」

「あなたに教わったという若い方が、SNSで発信されていたんです。『この国には正当に評価されるべき技術者がいる』と。それが業界内で静かに話題になっていまして。」

桜場だ、としの美はすぐに分かった。あの後輩が、自分のことを。

「是非、正社員として我が社の品質保証部門を率いていただけないかと。もちろん待遇は最大限に。」

しの美はしばらく黙っていた。そして静かに口を開いた。

「ありがとうございます。ただ、一つだけ条件があります。」

「条件ですか?」

「母の治療を続けたいんです。無理のない働き方をさせていただけるなら、前向きに考えさせてください。」

「もちろんです。むしろ、そういう方にこそ来ていただきたい。」

電話を切ったしの美の目に、静かな光が宿った。見下されていた場所を離れ、正しく認めてくれる場所へ。彼女の本当の物語が、今始まろうとしていた。

捨てた会社は、日ごとに追い詰められていった。最大の取引先はついに契約の縮小を正式通告してきた。それに連動するように、他の取引先からも問い合わせが相次ぐ。御社の品質、大丈夫なんですか? 一度崩れた信頼は、坂道を転がる石のように加速していった。

役員会では連日対策が議論された。

「とにかく、あの検査ラインを復旧させるしかない。しのさんの補正ロジックを、誰かが引き継がないと。」

だがそれができる人材は、社内に一人もいなかった。外部から高額で技術者を招こうにも、しの美が組み上げた独自ロジックは複雑で、解読するだけで数ヶ月かかると言われた。

「一人だけいるじゃないか。」

役員の一人が、絞り出すように言った。

「しの美さんに、戻ってきてもらうんだ。頭を下げてでも。」

その案に、財前は思わず立ち上がった。

「ま、待ってください。あんな派遣に頭を下げるなんて、会社の……」

「会社のなんだ。」

役員が鋭く財前を睨んだ。

「会社の恥か。その言葉、そっくり君に返すよ、財前君。」

財前は言葉を失った。会社はしの美に復帰を要請するため、慌てて連絡を取ろうとした。だが帰ってきたのは、しの美本人ではなく、彼女が新たに所属した会社の代理人からの一言だった。

「しの美はすでに弊社と正式に雇用契約を結んでおります。競合他社である御社への技術提供は、契約上一切お受けできません。」

その回答に、役員室は静まり返った。もう遅かった。会社の守り神は、二度と戻らない場所へ行ってしまっていた。そしてその現実の前で、財前は一人、崩れ落ちるように椅子に沈んだ。

しの美の新天地、青峰テクノロジーでの日々は、これまでとは何もかもが違っていた。初出社の日、彼女を迎えたのは部門を挙げての歓迎だった。

「しのさん、お待ちしていました。あなたの検査ロジックの論文、拝読しました。素晴らしい仕事です。」

技術者たちが目を輝かせてしの美を囲む。誰一人、彼女の学歴を口にする者はいなかった。ただその実力だけを、まっすぐに見ていた。しの美は少し戸惑いながらも、静かに頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

与えられたのは、品質保証部門を統括する責任者のポスト。そして母の治療に合わせた柔軟な勤務体制。全てが前の職場では決して得られなかったものだった。

ある日、しの美の元に一人の若者が訪ねてきた。

「しのさん。」

桜場だった。彼はあの会社を辞め、しの美を追ってこの会社の面接を受けに来たのだという。

「俺、しのさんみたいな技術者になりたいんです。もう一度、あなたのそばで学ばせてください。」

しの美は驚いたように目を見開き、それから優しく微笑んだ。

「あのノート、まだ持ってる?」

「もちろんです。ボロボロになるまで読み返してます。」

桜場があの一冊を掲げて見せる。しの美はそっと頷いた。

「じゃあ、続きを教えるね。今度は堂々と。」

二人は顔を見合わせて笑った。見下され、切り捨てられた場所で、それでも腐らず誠実に仕事を続けた一人の女性。その姿を見ていた一人の若者が、今彼女の隣で新しい一歩を踏み出そうとしていた。正しいものは、いつか必ず正しく報われる。母が教えてくれたその言葉の通りに。

その頃、財前を待っていたのは容赦のない現実だった。社内調査委員会が正式に立ち上げられ、財前の役員会での報告が徹底的に洗い直された。結果は明白だった。不良品六割削減。その実績は、全てしの美の手によるもの。財前は他人の成果を自分のものと偽り、役員会で虚偽の報告を繰り返していた。それだけではない。しの美が提出していた設備更新の提案書を握りつぶし、会社の危機を自らの手で招いていたことも、桜場のノートから明らかになった。

役員会は満場一致で結論を下した。

「財前合造。役員会に対する虚偽報告、及び業務上の重大な背任行為。懲戒解雇とする。」

財前は崩れ落ちた。

「ま、待ってください。私は会社のために……」

「会社のために?」

役員は冷たく言い放った。

「君は会社を支えていた最高の技術者を、会社の恥と切り捨てた。その結果、最大の取引先を失い、会社に甚大な損害を与えた。恥はどちらだ?」

財前は何も言えなかった。懲戒解雇の話は、またたく間に業界中に広まった。他人の手柄を奪い、有能な技術者を潰した部長。その悪名は、財前が次の職を探すことすら不可能にした。どの会社も彼を雇おうとはしなかった。かつて高卒の派遣を見下し、学歴だけを振りかざしていた男は、今その学歴だけを握りしめて、どこにも居場所を失っていた。

財前はガランとした自宅で一人、しの美の最後の言葉を思い出していた。『部長、絶対に後悔しますよ』。あの静かな声が、今耳の奥で何度も響く。後悔していた。取り返しがつかないほど、深く。だがその後悔を届ける相手は、もうどこにもいなかった。

季節が巡った。しの美は青峰テクノロジーの品質保証部門を率いる責任者として、確かな信頼を築いていた。彼女が組み上げた新しい検査システムは、業界の標準になりつつあった。そしてその年の秋、彼女はある賞の表彰式に立っていた。

「品質保証技術優秀技術者の賞。しの美さん。」

壇上でしの美は静かに一礼した。会場の拍手の中に、桜場の姿もあった。彼は今、しの美の右腕として立派に育っていた。そして客席の最前列には、車椅子の母、千代がいた。治療の甲斐あって、少しずつ回復してきた母。その目には涙が光っていた。

式の後、しの美は母のそばに膝をついた。

「お母さん、来てくれてありがとう。」

「美。あなたは私の誇りよ。」

千代は娘の手をそっと握った。

「覚えてる? 私が言ったこと。後悔するのは、いつも人を軽んじた側だって。」

「うん。ずっと忘れてなかったよ。」

しの美は微笑んだ。

「私は誰も見下さなかった。切り捨てられても腐らなかった。お母さんの言葉のおかげ。」

千代は静かに頷いた。

「あなたは何ひとつ間違ってなかった。ちゃんと正しく報われたのね。」

窓の外には、澄んだ秋の空が広がっていた。見下され、会社の恥とされた一人の女性は、何も言い返さず、ただ誠実に自分の仕事を全うした。そしてその静かな強さは、巡り巡って彼女を正しく輝ける場所へと導いた。一方で、人を傷つけたものは全てを失った。因果は巡る。誠実に生きた者の元へ光が、人を見下した者の元へ後悔が。それはこの世界の変わらない道理なのかもしれない。

『絶対に後悔しますよ』。あの日の言葉は、静かに、そして完璧に現実になった。