老人の手が突然、俺の手首を掴んだ。驚くほど強い力だった。
「先生、あんたのお父さんと…」
最後まで聞き取れなかった。意識は再び沈み、機械の音だけが処置室に残った。
俺の名前は神楽優。39歳。この山奥の白峰診療所で、ただの医者として暮らしている。5年前まで都内の大学病院で働き、「診断の神様」と呼ばれていた時期もある。その地位を捨ててここへ来た理由を、誰にも話したことはない。
俺が生まれた神楽家は、代々この国の片隅で医者をしてきた家系だった。ただし、ただの医者ではない。人によっては「神視」と呼ぶ力が、時々現れる。人の体の中の異変が、黒い影のように浮かんで見える力だ。俺は6歳の時、それが見えた。近所のおじさんの腹を指さして「ここに悪いものがある」と言ってしまった。おじさんは半月後に胃を痛め始めた。村の連中の俺を見る目は、それから変わった。「化け物」と影で呼ばれているのも、子供心に分かった。
その時、父が俺をかばった。「優馬には何の力もない。見えているのはこの私だ」と、父は自分が能力者だと名乗り出た。母は俺の手を握って言った。「優馬、あなたは普通のお医者さんになりなさい。力じゃなく、勉強で。手と目と耳で」
俺は頷いた。父も母ももういない。俺はその約束だけを胸に、医学部で人より何倍も勉強した。神視に頼らずに「診断の神様」と呼ばれるところまで行った。それでいいと思っていた。父が背負ってくれたものを、もう一度引っ張り出す必要はない。そう決めていた。
昼休み、診療所の方が騒がしくなった。
「先生、表で人が倒れています」
玄関先の砂利の上に、白髪の男性が倒れていた。見覚えのない顔だ。駆け寄って脈を取る。早い。そして弱い。
「神楽先生…」
掠れた声が俺の名を呼んだ。この老人は俺を知っているのか。処置室に運び込み、胸に聴診器を当てた瞬間、奇妙な感覚が走った。
見えた。胸の奥、心臓の少し裏側に、黒い影。モヤのような、しかし輪郭のはっきりした塊。俺は息を止めた。封じてきたはずの感覚が、何の前触れもなく開いた。見えたものを見えなかったことにする。今までずっとそうしてきた。心電図の波形、聴診器の音。神視で見えた場所と、医学の所見がぴたりと重なる。偶然じゃない。分かっていて、それでも俺は医学の順番で診ようとした。力ではない。あくまで医学だ。
処置を終え、ヘリを呼んで搬送の準備をした時、男性の手が再び俺の手首を掴んだ。搬送員が男性を運び出す時、鞄の名札が見えた。「工藤」と書かれていた。聞いたことのない名前のはずなのに、心の奥がわずかに揺れた。
工藤が中核病院から戻ってきたのは10日後のことだった。どうしてもここへ戻りたいと言って譲らないと、岩代医師が苦渋の連絡を寄越してきた。
「先生、あの時は本当にすみませんでした」
「無理をしないでください。まだ歩くのもしんどいでしょう」
「いや、ここにだけは自分の足で来たかったんです」
工藤は俺の顔をじっと見つめ、突然目を細めた。そして、涙が一筋こぼれた。
「やっと…神楽宗介先生の息子さんに会えました」
俺は手を止めた。何も言えなかった。
「私はお父様と長いお付き合いをさせていただいた者です。あの方に何度も命を救われた一人です」
工藤は震える手で黒い旅鞄を開け、古びた木箱を取り出した。丁寧に布で包まれている。俺の前にそっと置くと、深く頭を下げた。
「これをお預かりしていました。宗介先生から、もう30年も前のことです。息子が自分の意思で医者として歩み始めたと、はっきり分かった時だけ渡して欲しいと」
蓋を開けると、上に一枚の白黒写真があった。7つか8つの俺が、父の白衣の裾を握って診療所の前に立っている。裏に父の字で「優馬 6歳 春」と書かれていた。その下に、分厚い診療記録の束と一通の手紙。記録はどれも父の几帳面な字で書かれている。青森、長野、四国、九州。全国の医者と患者の名前、難しい病名、そして治療。数えれば200人を超える患者の記録だった。
「先生はね、自分の名前をほとんど残さなかったんです。診断だけして、地元の先生に治療を任せて、また別の場所へ。何のお礼も受け取らず」
「父はいつもそうだったんですか?」
「ええ、ずっとそうでした」
その週、来客が続いた。最初に来たのは岩代医師だった。俺の恩師であり、工藤の搬送先の責任者でもある。
「工藤さんの診断、見せてもらったよ。しっかり読み切って、あの状態から戻していた。君以外には無理だったな」
「運が良かっただけです」
「運で人は助からんなあ。もう一度考えてくれ。君のような医者がこんな山奥にいていい人間じゃない。大学に戻ってこい。困っている患者が何百人といる」
俺はすぐに頷けなかった。「逃げているのかもしれない。自分でも分からないんです」
岩代はそれ以上押してこなかった。「答えは急がなくていい」と言い残して去っていった。
翌日、今度は黒塗りの車が上がってきた。大手医療法人の理事長、佐藤だった。丁寧なスーツに磨き上げた革靴。
「神楽先生、単刀直入に申し上げます。うちへ来てください。年俸は専属チーム、望むものは全てご用意します」
「お断りします」
「即答ですか?理由を伺っても?」
「私はここの患者を見ています。それだけです」
佐藤は薄く笑った。「お父様の宗介先生のことは、私もよく存じております。気の毒な方でした。権力者に都合よく使われて、何も残らず亡くなった」
俺は何も言わなかった。「私は先生には同じ道を歩んで欲しくないのですよ」
俺は黙って湯のみを置いた。「お引き取りください。父のことは私が考えます」
佐藤が帰った後、診療所の裏で山を眺めていると、裕子が立っていた。
「先生、さっき集落の佐々木さんが来ていました。胸が苦しいと」
患者の古いカルテを開いた瞬間、あの感覚が来た。カルテの一行の数字の並びの上に、黒い影が滲んで見えた。
「裕子さん、佐々木さんにもう一度来てもらってくれ。明日でいい。腹部のエコをやる」
「胸ではなくお腹ですか?」
「ああ、そうだ」
裕子は不思議そうな顔をしたが、頷いた。
その夜遅く、裕子に呼び止められた。
「先生、昼間あのカルテをご覧になった時、先生は『見えた』んですね」
「何のことだ?」
「分かりません。私には何も。ただ、先生が何かを見たような目をなさっていたので」
俺は答えなかった。
「先生がどんな目をしていても、私は怖くないですよ」
その言葉を、俺は静かに受け取った。
数日後、俺は工藤を招き、木箱を置いた。封をようやく開く気になった。
「父は本当はどんな人だったんですか?」
工藤はしばらく天井を見ていた。
「世間は宗介先生のことを、利用された医者だと言う人もいました。神視の力を誰かに差し出して、振り回された人だと。私もそう思っていた時期がありました。違うんです、先生。あの方は自分から望んで全国を回っていたんです」
工藤はゆっくりと語り始めた。父は医学の手が届かない場所にいる患者のところへ、自分の足で向かっていた。誰にも頼まれず、誰にも報告せず、診断だけしてその土地の医者に治療法を残し、また次の村へ移る。謝礼は受け取らず、宿代も自分で払った。名前を残さなかったのは、神楽家の力を恐れる者から、息子である俺を守るためでもあった。
「優馬にだけは普通の医者として生きてほしい。だから私の名前はできるだけ表に出さないでくれ。先生はいつもそうおっしゃっていました」
「父が…そんなことを」
「ええ、あの方は利用されたんじゃない。誰よりも自由に、誰よりも厳しく、自分の信じる道を歩いていらした」
俺は木箱の手紙に手を伸ばした。冒頭の一行だけ目に入った。
「優馬。お前が医者として歩き始めたなら、これを読みなさい」
その先を読む前に、俺は手紙を閉じた。胸の奥が熱くて、それ以上は今日続けられそうになかった。俺は何のために医者になったのか。窓の外で山の稜線が夕日に染まっていた。
その日の朝、降り始めた雨は昼を過ぎる頃には叩きつけるような豪雨になっていた。村役場から連絡が入る。
「北の沢で土砂崩れが起きたそうです。集落が一つ、半分埋まったそうです。中核病院は道路が寸断されて、ヘリも飛べないと」
俺は白衣の袖をまくり直した。1人の医者と1人の看護師。それで何が受けられるか。最初の軽トラックが砂利を蹴って入ってきたのは、30分後だった。毛布が3枚、その下に3人。村の青年団が次々と運び込んでくる。2台目、3台目。廊下に毛布が並び、待合室の椅子は撤去された。床に横たえられた患者の数は、あっという間に10人を超えた。頭から血を流す中年の男。泥にまみれて泣いている人。俺は順番に脈をとり、瞳孔を見て、呼吸を数えた。だが、間に合わない。全員にきちんと触れている時間はない。
俺は一度だけ目を閉じた。父の手紙を思い出した。読み終わってはいなかった。だが冒頭の一行だけは、もう胸の中に焼きついていた。
「優馬。お前が医者として歩き始めたなら」
俺は目を開けた。封じてきたものを、自分の意思で開く。そう決めた瞬間、視界が変わった。廊下に並んだ患者の体の上に、影の濃淡が浮かんで見えた。
「裕子さん」
「はい、先生」
「奥の母親が一番先だ。緊急だ。左胸、今すぐ脱気する。次が腹部の出血。そこの人だ。頭の男は気道だけ確保して待たせるぞ。子供は後ろの部屋で温めてくれ。命に別状はない」
裕子は一瞬息を飲んだ。俺の指示には検査の根拠がなかった。それでも彼女は何も問い返さなかった。
「はい、わかりました」
たったそれだけだった。彼女は俺の言葉を信じて毛布を運び、シーツを敷き、処置の準備を整えていった。俺は若い母親の胸に針を刺した。シューッと音が抜けて、潰れていた肺が膨らみ始める。顔色がみるみる戻っていく。次から次へと運ばれてくる体の上に、俺は影を見た。見えたものをすぐに医学の言葉に置き換えて口にした。神視と、これまで積み上げてきた診断とが、一つになっていく感覚があった。
雨は夜まで続いた。最後の患者の処置が終わったのは、日付が変わる頃だった。19人全員、命があった。裕子は処置室の隅で丸めたタオルに顔をうめていた。泣いているのが肩の揺れで分かった。俺は見ないふりをして、自分の手を洗った。
朝が明けた診療所は、まるで戦の後のようだった。俺は椅子に深く座って、ようやく茶を一杯飲んだ。そこへ工藤が静かに入ってきた。雨が上がった後も村の宿に滞在して、療養を続けていたのだ。
「先生、昨日私は見ておりました。手伝いにはなれませんでしたが、廊下の隅からずっと」
「来てくださっていたんですか?」
「ええ、あの指示の出し方は、検査の前から見えておられたんでしょう」
工藤はどこか嬉しそうに目を細めていた。「先生も同じでした。最初に『見える』。その後で医学で組み立てる。そうやってたくさんの命を救ってこられた」
「父も同じだったんですか?」
「ええ、先生はね、いつもこうおっしゃっていました。神視は特別な力じゃない。命を救い続ける覚悟を持つ者だけが受け継ぐ責任だと」
力ではなく、責任。父はそう呼んでいたのか。胸の奥にあった楔が、少しだけ形を変えた気がした。
その日の昼、俺はようやく父の手紙を最後まで読んだ。
「優馬。お前が医者として歩き始めたなら、これを読みなさい。父はお前に力を継がせたかったのではない。普通の医者として、人を見る目を持って欲しかった。もしいつかその目に何かが見えてしまったとしても、それを恐れるな。見えるものに振り回されるな。ただ、目の前の一人を最後まで見ろ。父が守ろうとしたのは神楽家の力ではない。人を救おうとする心だ。名前は残さなくていい。命だけ残せ」
俺は手紙を畳んで、額に当てた。しばらくそうしていた。
夕方、工藤は荷物をまとめて宿へ戻る支度を始めた。玄関先で俺は深く頭を下げた。
「工藤さん、父のことを話してくださってありがとうございました。木箱も手紙も、確かに受け取りました」
「いえ、私の役目はこれで終わりです。あとは先生のお仕事です」
工藤はゆっくりと一礼して、雨上がりの坂道を降りていった。その背中が、どこか父の背中に似ている気がした。
それから数ヶ月が過ぎた。俺は相変わらず診療所で働いている。変わったのは、俺の机の上にある仕事の量だった。父の診療記録に残された全国の医者たちへ、俺は一通ずつ手紙を書いた。「神楽宗介の息子です」と名乗り、これからは自分が窓口になりますと伝えた。返事は思っていたよりずっと早く、ずっと多く帰ってきた。父の名前を覚えていた医者が、まだ全国にこれだけいた。彼らから難しい症例の相談が、少しずつ届くようになった。俺はカルテと画像を取り寄せ、村の診療を終えた夜に一つずつ目を通した。見えるものは見える。見えないものは医学で詰める。答えを書いて送り返す。
ある夜、裕子が湯飲みを二つ持って入ってきた。彼女は神視のことを一度も口にしなかった。ただ、俺の隣で当たり前のように仕事を続けてくれていた。
「先生、来週また遠くから患者さんが来るそうです」
「ああ、九州の先生からの紹介だな。来てくれたら、まず一緒に話を聞こう」
「はい、わかりました」
それだけのやり取りだった。彼女は湯飲みを置いて、静かに笑った。窓の外、山の上に細い月が出ていた。



