コピー室でトナー交換をしていると、背後でわざとらしい靴音が響いた。振り向かなくても誰だか分かる。田島だ。ブランドスーツに高級時計、決めきった髪型。彼はいつものように鼻で笑いながら言った。
「お前、まだそんなことしてんの?人生雑用で終える気か?」
田島は離婚したことを自慢げに話し、近くにいる女性社員に聞かせるように声を張り上げる。「家庭は足かせだよな。やっぱり仕事は遅くまでバリバリやってこそだろ」と。俺は何も言わず、ただ黙ってトナーを交換し続けた。こういう人間に言葉で勝てると思っていない。勝つならいつだって結果だ。俺にはもっと大切な時間がある。
雑用係の肩書きで、俺はやりたくもない仕事を押し付けられていた。でもそれでいい。家には娘のひなたが待っている。俺の机には、ひなたが描いてくれたポポリンの絵が飾ってある。それが俺の誇りだった。
昼休み、会社の裏手にある高架の小さな公園で弁当を広げた。妻を亡くし、両親も事故で失ってから、俺は一人で娘を育ててきた。17時に必ず娘を迎えに行くため、キャリアも捨ててこの会社に来た。ベンチに座り、ひなたが書いてくれた「今日も頑張ってね」のメモを見て、思わず頬が緩む。
その時、風が吹いて手紙が飛ばされた。
「おじちゃん、これ」
振り返ると、小さな女の子がメモ用紙を拾って差し出していた。小学低学年くらいの子で、少し大きめのリュックを背負っている。彼女の指の先には、コンクリートの柱に囲まれた高架の下。ブルーシートとダンボールで囲まれた小さな空間があった。
「あそこが私たちのお家」
俺は息を飲んだ。少し離れた場所に立っていた女性が慌てて駆け寄り、深く頭を下げる。
「すみません。本当にすみません。娘が」
話を聞くと、彼女はみずほと言い、夫の暴力に耐えかねて離婚したばかりだった。アパートは取り壊しになり、貯金も尽きて、ネットカフェも子供連れでは断られ、行き場を失って高架の下で過ごしていたのだという。彼女は最後にこう付け加えた。
「それでも、こだけは一度も泣き顔を見せないようにしてたんです」
俺の胸がぎゅっと締め付けられた。そして、自然と口に出ていた。
「もしよければ、うちの実家を使ってくれませんか?両親はもういなくて、人が住まない家はすぐにダメになるから」
みずほは驚いた顔で俺を見つめた。「でも、私たち赤の他人ですし」と。俺は「お互い様だ。助け合いってそういうもんだと思う」と答えた。どこかで亡き妻の声が聞こえた気がした。「あなたもちゃんと自分の人生を生きて」と。
その日から、みずほとこは俺とひなたの家に住むことになった。最初は家賃の代わりに夕飯を作りに来てくれるだけだったが、ある日俺が「一緒に食べませんか?」と誘うと、自然と食卓は一つになった。こはひなたとすぐに打ち解け、ポポリンの話で盛り上がり、姉妹のように布団を並べて眠るようになった。
ある夜、みずほがぽつりと話し始めた。元夫の部屋に請求書が山のように積まれていて、開けたらポポリンのぬいぐるみの試作品まであったと。引き出しを掃除しようとしたら「触るな」とすごい勢いで止められたとも。
その瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てて繋がった。
翌日、俺は書類棚から発注記録を引っ張り出した。ポポリンぬいぐるみの量産ラインで使われている素材に、ホルムアルデヒドの文字が見えた。安全基準を満たしていない。慌てて品質管理部にデータを送り、簡易検査を依頼した。結果は「検出基準値超え」。ただのミスではない。確実に何かが意図的に操作されていた。
そして数日後、緊急取締役会が開かれた。テーマはポポリンぬいぐるみへの安全基準を満たさない素材使用の内部告発。俺は雑用係としてお茶を配るため、会議室の後ろに立っていた。
田島が問題商品の担当者として重い表情で入ってきた。彼は立ち上がり、声を張った。
「今回の問題は私の責任です。ただ、真実は違うんです。これは岸本の仕業だと私は確信しています」
ざわめく会議室。田島は俺を指さし、言い放った。
「彼は定時上がりの雑用係。シングルで子育てしてて、残業代も出ない。金に困っていて、勝手に発注データを改ざんしたんです」
彼は分厚いファイルを開き、「この通り取引記録もあります。岸本が犯人だと匿名の情報も寄せられています」と続けた。会議室の空気が重く沈む。
「岸本さんは普通の雑用係ですから、どうせ生活は否定できません。無理もない話です」
俺は首筋に冷たい汗を感じながらも、口を挟むタイミングを計っていた。すると天野社長が静かに口を開いた。
「当事者として発言の機会は与える」
その瞬間、俺は一歩前に出た。
「すみません。天野社長、少しお時間をいただけますか?お伝えしたいことがあります」
全員が一斉にこちらを振り返った。俺は用意してきた封筒から資料を取り出し、一人ひとりの前に丁寧に配っていった。
「こちらが今回問題となったポポリンぬいぐるみについて、私が独自に調査した内容です」
まず1点目。安全性試験の記録が存在しない。通常であればホルムアルデヒド試験と色落ち耐久テストの記録が残るはずだが、一切見当たらなかった。さらに使用されていた素材からは、法令で使用禁止とされている濃度のホルムアルデヒドが検出された。第三者機関に検査を依頼した結果だ。
2点目。サーバーに不審な記録があった。深夜、複数回にわたってデータが書き換えられていた。そのIDは田島さんのものだ。削除されたファイルはゴミ箱から一部復元できた。そこには、明らかに単価の合わない見積書、実在しない倉庫の納品書、さらに補助金申請に用いられた架空の新製品開発報告書も含まれていた。
「私は経理部に匿名で補助金申請の調査を依頼しました。申請されたプロジェクトは実際には存在していなかったと断定されています。申請金額、約1200万円。虚偽による不正取得の可能性があります」
会議室の空気が凍りついた。田島は「待ってください!それは捏造だ!俺を嵌めるために仕組まれた罠だ!」と叫ぶが、天野社長は静かに言い放った。
「黙りなさい、田島君。ログの時刻、IP、復元ファイル。ここまでの証拠が揃っていて、否定できるのか?」
俺は重ねて言った。
「私は娘が大好きなポポリンを、こんな形で壊したくなかった。ただそれだけです」
田島は額に汗を滲ませ、声を震わせて俺を見つめた。「なぜ気づいたんだ?」
俺はゆっくりと口を開いた。
「みずほさんが一言話してくれたからです。元夫の部屋に請求書が山積みで、ポポリンの試作品を抱えていたって。引き出しを掃除しようとしたら、全部燃やすって言われたと」
田島の顔から血の気が引いていく。
「紙が燃えたところで痕跡まで燃やしきれない。前の仕事でそう教わりました。見えなくてもログは残る。電子的証拠は償却の代わりにはならない」
俺はさらに続けた。田島は取引先の複数企業に対し、過大または水増し請求を指示し、その差額をキックバックとして親族名義の幽霊会社に振り込ませていた。振込先は実態のないペーパーカンパニーで、代表者は田島の従弟。住所は雑居ビルの一室だった。さらに、子供向け開発支援制度を悪用し、実際には存在しない研究開発費として補助金申請を行い、国と自治体から多額の税金を不正取得していた。
「子供を守るための商品が、子供を傷つけていた。これが田島さんの真実です」
そのタイミングで広報担当が会議室に駆け込んできた。
「すみません!至急の連絡です!今回の件、すでにニュースに!ネットでは『子供に毒を売る会社』という言葉がトレンド入りしています!」
田島の顔が青ざめていく。さっきまでの余裕は一切なくなっていた。
天野社長が椅子を引く音だけが静かに響いた。
「取締役会として、田島の件は背任及び重大な企業倫理違反と認定し、即時の解雇とします」
田島は体を震わせ、怒りを押し殺すことなく俺を睨みつけた。「なぜだ?なぜお前みたいな雑用係が、ここまでのことを?」
俺は淡々と答えた。
「私は前職で企業の内部監査部門にいました。フォレンジック会計士として、不正の兆候を見つけ出すのが仕事でした」
田島の顔から血の気が引く。彼は最後の捨て台詞を吐いた。「女に騙されてヒントでももらったってわけか。あんな路上暮らしの女がきっかけとはな」
その瞬間、俺はまっすぐに田島を見据えた。
「自分の家族も守れない人に、子供向けの商品を扱う資格なんてありません」
田島は言葉を飲み込み、ゆっくりと崩れるように膝をついた。「なんでだよ。俺が間違ってたのか」
誰も返事をしなかった。
その日のうちに田島は会社を去った。誰にも見送られることもなく、ただ一人、後ろ姿だけを残して。
翌日、天野社長は緊急記者会見を開いた。彼は深く頭を下げ、対象商品の全品回収と返金、健康被害の可能性があれば全額保証を約束した。ネットニュースでは「ニコット株式会社、真摯な対応に賞賛の声」という見出しが踊り、SNSでは「ちゃんと向き合ってくれてありがとう」「ぽぽりん、これからも応援してます」といった声が溢れた。
数日後、天野社長が俺のデスクの前に立った。
「君がいてくれて本当に良かったよ」
「いえ、会社を守れたのはみんなの協力があってこそです。でも、一番はやっぱり娘のためです。娘が『パパの会社はすごいね』って言ってくれるような場所にしたかったんです」
天野社長は黙ってから、静かに頷いた。「それが本当の仕事だな」
そして、彼は続けた。「管理部への移動を考えているんだが、どうだ?定時上がりのルールは守らせる」
俺は本音を口にした。「実力と家庭、両方手放したくなかったんです。やっと言えました」
その夜の食卓で、ひなたが唐突に聞いてきた。
「ねえ、みずほさんっていつママになるの?」
「え、な、何?急に」
「運動会にママと出る競技があるんだもん」
こもぽつりと言った。
「今度の保護者リレーは、ゆうまおじさんと出たい。前のパパは来てくれなかったから」
その言葉に、俺は心からの答えを返した。
「じゃあ、俺がパパになってもいい?」
こは恥ずかしそうに頷いた。するとひなたが慌てて叫んだ。
「え、じゃあひなたのママは?ひなたのママはどうなるの?」
俺はみずほの方を向いて、真正面から言った。
「みずほさん、結婚してください。俺と、ひなたと、こちゃんと、家族になってほしい」
みずほは目を見開いた後、涙を浮かべながらそっと頷いた。「はい」
数日後の運動会。みずほと手をつないで走るひなた。その姿を観客席から、こが俺の隣で笑いながら見守っている。ひなたとみずほが笑顔で手を振り合いながら、運動場を駆け回る。
俺たちらしい新しい家族の形が、今ここから始まっていく。もう過去に振り回されることはない。これからは、この手で守っていく。笑顔も、未来も、全部。



