「中卒は明日から来なくていい」――社長に面と向かってそう言われた瞬間、2年4ヶ月分のすべてが紙くずになった。私は黙って解雇通知書を受け取った。14歳で母の看病のため進学を諦め、朝5時から夜11時まで働き続けてきた。一度も欠勤せず、誰より丁寧に仕事をしてきた。でも、学歴というたった一行で、私の存在は否定された。涙を堪えて社長室を出ようとした、その時。内線電話が鳴った。受話器を取った社長の顔から…

「中卒は明日から来なくていい」――社長に面と向かってそう言われた瞬間、2年4ヶ月分のすべてが紙くずになった。私は黙って解雇通知書を受け取った。14歳で母の看病のため進学を諦め、朝5時から夜11時まで働き続けてきた。一度も欠勤せず、誰より丁寧に仕事をしてきた。でも、学歴というたった一行で、私の存在は否定された。涙を堪えて社長室を出ようとした、その時。内線電話が鳴った。受話器を取った社長の顔から...

「お前、中卒が2年も社員ずらしてきてたのか。今すぐ出ていけ。2年間の仕事、どうせ何もできてないだろう。中卒じゃ限界がある。本当誰だよ、こんな底辺採用したの」

「あ、すんません。顔に騙されて中卒を入れちゃいました」

令和の冬、午前10時。本社ビル8階の社長室。重厚な革張りの椅子から立ち上がった男が、目の前に立つ女性を睨み下ろしていた。その隣では人事部長の谷口が、薄ら笑いを浮かべている。

男の名は大塚悟。46歳。技塾大学院でMBAを取得し、外資系コンサルで10年のキャリアを積んだ。前社長の退任を受けて、2ヶ月前に外部から招聘された「改革派」の社長だった。

その前に一人の女性が静かに立っていた。わしお商事、契約社員・鳥井り子、23歳。薄い化粧に、少し年季の入ったスーツ。それでもその目だけは、静かな光を帯びていた。

「はい、鳥井です」

机の上には一枚の書類。「鳥井り子、最終学歴、中学校、契約社員」。その一行だけで、大塚の判断は下されていた。

「お前、何年ここにいる?」
「2年と4ヶ月です」
「2年4ヶ月か。学歴は中学校卒業です」
「ま、どうせ中卒じゃ限界だよな。お疲れ様でした」

声は静かだった。震えも涙も抵抗もなかった。まるで、この日が来ることをずっと前から覚悟していたかのように。

「荷物まとめて出ていけ。今すぐだ」
「ご苦労様でした」

谷口が笑い声を殺しながら肩を震わせていた。

り子は事務所に戻り、自分の席を片付けた。筆記具と手帳、数枚の付箋が全ての持ち物だった。

「社員証をお返しします」

り子は社長室に戻り、大塚の机の前に社員証を置いた。大塚はそれを一瞥し、何も言わなかった。り子は一礼して、ゆっくりとドアに向かった。

り子の手がドアの取っ手にかかった時、卓上の内線電話が鳴った。大塚の手が空中で止まった。谷口の笑みがゆっくりと消えた。

「誰だ? 今は忙しいんだが」

しかし、この朝、誰も知らなかった。あの時、あの雨の日に何が始まっていたのかを。

鳥井り子は東京都あ立区の小さなアパートで育った。父はり子が5歳の時に病気で亡くなった。女手一つで育ててくれた母。その母が倒れたのは、り子が14歳の春だった。

診断は心臓の病気。長期の療養と定期通院が必要だった。中学を卒業したり子は、高校進学を諦めた。行きたいという気持ちはあった。友人たちが制服を着て歩いていく姿を、バス停から見送った。

「お母さんのことは、私が守る。それだけでいい」

その言葉は嘘ではなかった。り子はスーパーと居酒屋を掛け持ちし、朝5時から夜11時まで働いた。稼いだほとんどが医療費と家賃に消え、手元には月に数千円しか残らなかった。それでも母の通院だけは、一度も欠かさなかった。

「りこ、ごめんね。本当にごめんね」
「謝らないで。私がやりたくてやってるんだから」

眠れない夜も、英語の参考書だけはバイトの合間に読み続けた。いつかちゃんとした仕事に着く。その一言が、り子の7年を支えていた。

21歳になった春。り子は求人情報の一枚の広告と出会った。

「わしお商事 契約社員 一般事務 学歴不問」

その四文字が、り子には泣きそうなほど温かかった。

面接は3回行われた。2次面接では、担当の矢吹がり子の話を丁寧に聞いた。

「なぜ中学卒業後すぐに働かれたのですか?」

り子は正直に答えた。

「母が病気で、私が家計を支えなければなりませんでした」

矢吹はメモを取る手を止めて、り子の顔を見た。採用通知が届いたのは3日後だった。

「お母さん、入れたよ。正面玄関から入れる職場に」

母は布団の中で目を細めて笑った。り子は母の手を握った。14歳の春から7年間、守り続けてきた手だった。

初出社の日、り子は30分前に着いた。玄関口で案内係に「会場は8時半からです」と言われた。

「もう来てたんですか? 早すぎませんか?」
「慣れないうちは、早めにいないと不安で」

矢吹はそれ以来のり子の仕事ぶりを、誰より近くで見ていた。り子は来客対応、書類整理、伝票の照合を丁寧にこなした。先輩社員が見落とした請求書のミスを黙って修正し、誰にも言わなかった。

「気づいた人がやればいい。それだけですよ」
「叶わないな」

ある夜、退社前に取引先への契約書の誤記を発見した。り子は30分かけて確認し、上司に報告してから帰った。

「なんで自分のミスでもないのに報告するんですか?」
「気づいたんですから。それだけの話ですよ」

入社から半年が経った頃、深夜にシステムエラーの連絡が来た。担当者は不在だった。り子は一人でマニュアルを読み込み、夜中の2時まで対応した。

「鳥井さん、あの件どうやって解決したんですか?」
「マニュアルに全部書いてありましたよ。読んだだけです」

矢吹は頭を抱えた。誰もマニュアルなど読んでいなかった。

3ヶ月前のこと。雨が続く季節だった。その日の夕方、残業を終えたり子がビルの玄関口を見ると、一人の老紳士が軒下で空を見上げていた。白いコートの肩が、ひんやりと濡れていた。タクシーを呼ぼうとしているようで、なかなか来なかった。

り子はバッグから自分の傘を取り出した。

「あの、よろしければどうぞ」
「いや、君が困るだろう」
「すぐそこのバス停ですから。大丈夫です」

老紳士は少しの間、り子の顔をじっと見つめた。それからゆっくりと傘を受け取り、深く頭を下げた。

「ありがとう。大切に使わせてもらいます」

り子はバス停まで雨の中を走った。傘のことは、翌朝にはもう忘れていた。その老紳士が、会社の創業者・わしお信造だとは知らなかった。

翌朝、見慣れない女性が総務部のフロアに現れた。会長付き秘書の白鳥七海だった。

「昨日は会長がお世話になりました。傘のお礼に参りました」
「え、あの方が会長?」

白鳥は傘を差し出しながら、礼状を手渡し、深く頭を下げて立ち去った。り子の心臓がドクンと揺れた。礼状には「雨の中の温かい心に深く感謝いたします」とあった。り子はしばらくその礼状を手の中で眺めていた。誰かに感謝されたのは久しぶりだった。バイト先でも職場でも、黙々とやるだけだった。

「ちゃんと届いてたんだ」

その日から、わしおの耳には白鳥を通じ、り子の噂が届くようになった。提出書類の正確さ、来客への礼儀、退社前の机の整理。

「今週も鳥井さんは定時の30分前に出社していました」

週に一度の報告を聞いた会長は、一言だけ言った。

「あの子は本物だ」

白鳥は深く頷いた。

「私もそう思います」

大塚悟がわしお商事の社長に就任したのは、2ヶ月ほど前のことだった。前社長の健康上の理由による退任を受け、外部から招聘された人物だった。業界誌が「学歴重視の改革派社長」と紹介した男だった。わしお会長が入院していたこの時期、大塚の権力は無制限に近かった。

「なんか方針が変わりすぎてますよね」

就任早々、大塚は全社員を集めて宣言した。

「人材の質を上げる。それがこの会社に必要な改革だ。学歴はその第一の指標になる。明確な基準を設ける」

会場はざわついた。わしお商事は創業者の理念のもと、長年「学歴不問」を貫いてきた会社だった。

「能力より学歴で人を見る時代か」
「鳥井さん、大丈夫ですかね?」
「とりあえず、仕事をちゃんとやるしかないですよ」

り子の声は穏やかだったが、矢吹には何かが引っかかっていた。

谷口が人事部長に抜擢されたのは、就任1ヶ月後だった。それまで中間管理職として目立たなかった男が、一気に出世した。理由は一つ。「社長の言葉には何でも『おっしゃる通りです』と言えた」ことだった。谷口は大塚の前では徹底的な犬になり、部下の前では徹底的な王になった。

大塚の学歴審査は、まず契約社員の業務見直しから始まった。り子が半年かけて整備した見積書管理システムが、ある日突然移管された。「正社員業務として再整備する」というお達しが一方的に届いた。担当は大塚が採用した有名大学卒の若手社員だった。だが、その若手はり子が積み上げたファイル体系を1日で崩壊させた。

「鳥井さん、本当に申し訳ない。俺には止める力がなくて」
「矢吹さんのせいじゃないですよ。気にしないでください」

り子は笑顔を崩さなかった。だが矢吹には、り子の手がかすかに震えているのが見えた。

翌朝、り子は定時前に出社し、ファイルを黙って整え直した。

「なんであなたがそこまでやるんですか?」
「やらなければ、仕事が回らないですから」

矢吹には何も言い返せなかった。

大塚の嫌がらせは、その後じわじわと続いた。全社メールから名前が消え、会議の資料もり子にだけ届かなかった。

「今日も、やれることをやろう」

ある日、大塚は朝礼で露骨に言った。

「この会社は学歴のある人材だけで回せる。不要な人員は整理する」

その視線が、り子のいる方向に一瞬向いた。フロアの全員が気づいた。だが、誰も何も言わなかった。

矢吹は朝礼後、大塚に直接話を持ちかけた。

「鳥井さんは仕事の実績があります。不当な扱いをするのは…」
「君の役職は何ですか? 総務部員ですよね。口出し無用」

矢吹は廊下で立ち尽くした。悔しさと無力感が交互に押し寄せた。

「鳥井さんが、なんで詰められなきゃいけないんだ」

矢吹はその夜、り子に声をかけた。

「鳥井さん、俺、何もできなくてすみません」
「矢吹さんは十分やってくれてます。ありがとうございます」

り子の目には怒りも諦めもなかった。ただ静かな光があった。

「なんでそんなに落ち着いてられるんですか?」
「怒っても、仕事は変わらないですから。変えるには行動だけです」

それでもり子は毎朝、定時の30分前に出社した。掃除当番でもない日にオフィスの窓を拭き、不在者のデスクを整えた。ある朝、り子のコップが休憩室のラックから消えていた。り子は何も言わず、100円均一で新しいコップを買ってきた。

「物はいつでも買えます。それより今日の仕事をしないと」

矢吹はその言葉に、何も言えなかった。

その姿を、白鳥は会長に毎週報告し続けた。

「あの子は、何も変わっていないか?」
「はい。今朝も一番に来て、窓を拭いていました」
「そうか。それでいい」

その頃、わしお信造は都内の病院に入院していた。心臓の病気が悪化し、大きな手術を終えたばかりだった。医師からは当面の外出は禁じると言われていた。大塚が社内で強引に学歴改革を進められたのも、会長不在があったからだ。社内では誰もが感じていた。今は何も言わない方が賢い、という空気が漂っていた。

「会長は、もう表には出てこられないだろうな」
「そうでしょうね。今がチャンスです」

大塚と谷口は社長室で、契約社員の解雇リストを広げた。中卒・高卒の契約社員、20名の名前が並んでいた。大塚は最初の一行をゆっくりと指でなぞった。

「鳥井り子」の名前が一番上にあった。

「こいつから先に片付けよう。目障りだ」

谷口はペンを手に取り、り子の名前に丸をつけた。

「そうですね。早い方がいいですよ」

前夜、白鳥七海のパソコンに、谷口から一通のメールが届いていた。「明日10時、鳥井り子の契約解除手続きを行います」とあった。白鳥はすぐに会長の病室へ電話を入れた。

「会長、鳥井さんが明日、解雇される予定です」

電話口で、わしお信造の声が静かに変わった。

「白鳥、迎えに来てくれ」
「会長、主治医が外出を禁じています」
「あの子が理不尽に切られるのを、黙ってみていられん」

白鳥は短く「わかりました」と答え、朝の車を手配した。

翌朝、り子のデスクに一枚のメモが置かれていた。「本日10時、社長室にお越しください」とあった。り子はそのメモを手に取り、一度だけ深呼吸をした。矢吹はそのメモを遠くから見ていた。り子はすでに立ち上がり、廊下へと向かっていた。矢吹は拳を握りしめ、その背中を見送るしかなかった。

社長室は本社8階の奥にある。その廊下を歩きながら、り子は自分に言い聞かせた。

「泣くな。何を言われても泣くな」

り子は歩きながら、母のことを思った。お母さん、見ててね。14歳から今日まで、一度も諦めなかった。どんなに笑われても、資料が届かなくても、り子の足は止まらなかった。それが唯一の武器だった。今日もそれだけ持っていく。

エレベーターが8階に着いた。廊下の先に社長室のプレートが見えた。行こう。

重厚なドアの前に立ったり子は、軽くノックをした。「どうぞ」という声に、ドアを開けた。大塚が革張りの椅子に深く腰をかけていた。その隣には谷口が立って腕を組んでいた。谷口の口元がすでに緩んでいた。

「座れ」

椅子を示す手振りすらなかった。り子は立ったまま、まっすぐ前を向いた。

「お前、何年ここにいる?」
「2年と4ヶ月です」
「2年4ヶ月か。で、学歴は?」
「中学校卒業です」
「そうだよな。中卒だよな」

大塚はゆっくりと立ち上がり、机を回り込んできて、り子の正面に立った。威圧するように、視線を上から落とした。

「中卒は、明日から来なくていい。なんでこんな無能なガキ採用したんだよ」
「すみません。顔だけ採用です」

笑い声が二人の間で弾けた。り子の肩がかすかに揺れた。怒りとも悲しみとも判別できない何かが、胸の奥で渦巻いていた。この2年4ヶ月、一度も無断欠勤をしなかった。熱を押して出社した朝もあった。

「お前みたいなのに払う給料は一円もない。今すぐ荷物まとめて出ていけ。以上」

大塚は引き出しから一枚の紙を取り出し、机に叩きつけた。解雇通知書だった。り子の名前と「契約解除」の文字がはっきりと記載されていた。

泣くな、泣くな、泣くな。

り子は書類に目を落とした。誰より早く来て、誰より丁寧に仕事をした。深夜のエラー対応も、誰にも言わず直した請求書も、全部この一枚の紙に集約されている。手が震えそうになったが、り子は強く指先を握った。

14歳から今日まで、やめなかった。それだけを思った。

「わかりました」

「り子」という二文字の重さを、り子はただ手のひらで受け止めた。り子は解雇通知書を静かに受け取り、折りたんだ。一礼して、社長室を出た。

事務所に戻り、ペンと手帳を一つ袋にまとめた。数枚の付箋と、使い古した電子辞書が、2年4ヶ月の全てだった。

「社員証をお返しします」

り子は社長室に戻り、大塚の机の前に社員証を置いた。大塚はそれを一瞥し、何も言わなかった。り子は静かに一礼して、ゆっくりとドアに向かった。

り子の手がドアの取っ手にかかった時、卓上の内線電話が鳴った。大塚が受話器を取った。次の瞬間、大塚の顔から表情が消えた。

「は? 会長が今…」

電話の向こうから、白鳥の落ち着いた声が続いた。

「会長がただいま出社されました。全員、8階会議室へ集合してください」

谷口の口から、くぐもった声が漏れた。

「なんで、今日…」

廊下から、車輪の音が聞こえてきた。社長室のドアが外から静かに開いた。白鳥が車椅子を押して入ってきた。その椅子の上に、白髪の老人が静かに座っていた。今のコートを羽織った姿を、り子は見た瞬間に息を飲んだ。あの雨の日の老紳士だった。

「久しぶりだな、みんな」

わしお信造の声は穏やかだったが、部屋の空気が一変した。大塚は立ったまま言葉を失った。谷口は後ずさりして壁際に寄った。

「会議室はいらない。ここで話す」

会長の視線が、り子の手元の解雇通知書に止まった。白鳥が静かに歩み寄り、その書類を受け取って会長の手に渡した。

「り子さんを切ろうとしているのか」
「は、はい。本日付けで」
「り子さんを、何を理由に切ろうとした?」
「学歴が中卒で、業務の適正が…」

会長が手を上げて、大塚の言葉を遮った。

「会長、申し上げてもよろしいでしょうか?」

白鳥はまっすぐ立って、会長と大塚の両方に向けて話した。

「鳥井さんは入社以来、一度も無断欠勤をしていません。毎朝定時の30分前に出社し、誰よりも丁寧に業務をこなしています。深夜のシステムエラーも、一人でマニュアルを読んで解決しました」

大塚は黙っていた。次に会長は、り子の方を向いた。り子はまっすぐに会長の目を見た。

「君があの雨の日に、傘を貸してくれた人だな」

り子の目が大きく見開かれた。

「あの…それは…」
「当然のことを、当然にできる人間が、どれほどいるか」

会長は解雇通知書をゆっくりと手に取り、一行一行に目を通した。そして静かに、二つに折った。それをゴミ箱に、音もなく落とした。社長室に、誰も声を発しなかった。り子は自分の目が熱くなるのを感じた。

「会長。これは会社の方針として…」
「方針?」

会長の声のトーンが、静かに低くなった。

「私がこの会社を作った時、何を方針にしたと思う?」

大塚は何も言えなかった。

「人は学歴ではなく、行動で評価される。それだけだ。その方針を2ヶ月でひっくり返したのは、誰だ?」

大塚の額に汗が滲んだ。

「わ、私は社長の指示に従っただけで…」
「指示に従うなら、いい指示に従え」

会長の目が、谷口を静かに見据えた。谷口は目をそらした。一言も言い返せなかった。

大塚はここで初めて頭を下げようとした。

「会長、私は会社のためを思って…」
「会社のため?」

会長の声は静かなのに、部屋全体が震えるようだった。

「あなたが2ヶ月でやったことを、私に言ってみろ。数字を見れば、この会社の空洞化が一目で分かる」

大塚は何も言えなかった。この2ヶ月間、大塚が作ったものは何もなかった。壊したものだけが、確かにそこにあった。

「鳥井さん、あなたはここで働き続けたいか?」
「はい、続けたいです」
「分かった」

会長は白鳥に目をやった。

「大塚社長、谷口部長。会長よりお話があります。別室へどうぞ」

大塚は何も言わず、俯いたまま部屋を出た。谷口は一度だけ後ろを振り返り、すぐに目をそらした。二人が出ていった社長室に、静寂が戻った。

「り子さん、少し待っていてくれるか」

会長はそう言って、白鳥に車椅子を押させて廊下に出た。り子は社長室の窓の外を見た。何が起きているんだろう。

別室では、白鳥が一枚の書類を会長の前に置いた。大塚就任後2ヶ月で締結された、工事業務委託契約の一覧だった。

「契約先の代表取締役は、大塚悟の実兄です。稟議書は存在せず、私的な取り決めのまま…」

大塚の顔が紙のように白くなった。

「そ、それは手続き的に問題は…」
「稟議書がないのはなぜだ?」
「谷口、お前が処理をしたのか?」
「社長に言われた通りに…」
「言われた通りに不正をするな」

部屋の空気が固まった。大塚も谷口も、言葉を失った。

「この金額を会社が負担した理由を、説明してみろ」
「それは業務効率化のためで…」
「2ヶ月で数千万円の業務効率化とは、何だ?」

大塚は二度と口を開かなかった。

「法的対応は顧問弁護士に委ねる。明日付けで辞表を書いてもらう」

別室での話は、30分で終わった。入室した大塚と谷口が出てきた時、二人の顔は白かった。大塚は廊下で一度だけ立ち止まり、り子の方を見た。何か言いたげな顔だったが、言葉は出なかった。そのままエレベーターに消えていった。

大塚への怒りが、静かな空白に変わっていった。

「本当に、終わったんだ」

り子は静かにそれを受け止めた。

翌日の臨時取締役会で、大塚悟の代表権は正式に剥奪された。谷口は人事部長から一般社員への降格が通告された。人事部には後日、外部監査が入ることになった。

「学歴で人を切る会社に、未来はない」

会長はその言葉を廊下に残し、白鳥に車椅子を押させた。エレベーターの前で、矢吹が飛び出してきた。

「会長、鳥井さんは本当にずっと頑張ってたんです。俺には何もできなくて、本当にすみませんでした」
「君が謝ることじゃない。これからも、見ていてやれ」

矢吹は深く頭を下げた。頭を上げた時、矢吹の目が赤くなっていた。矢吹はずっとこらえていたものが、ここで溢れた。会長はエレベーターに乗る前に、一度だけ振り返った。

「この会社は、まだ大丈夫だよ」

その言葉は矢吹にも、り子にも届いていた。

会長が去った後、り子は一人、社長室に残った。机の上にはもう、ただのオフィスの机だった。2年4ヶ月分の記憶が走馬灯のように流れた。誰より早い出社も、誰にも見せなかった涙も、全部ここに残してきたんだ。深夜に一人でやり直した書類も、翌朝また笑顔で来られた朝も、全部この場所での出来事だった。

あの朝、ここで守ったものがある。笑われても、資料が届かなくても、コップが消えても、自分が正しいと信じることを曲げなかった。

「終わった。やっと終わった」

り子の頬を、一筋の涙が流れた。この涙は、悲しみではなかった。

翌日、り子は会長室に呼ばれた。わしお信造は窓際のソファーに座り、静かにお茶を飲んでいた。

「座りなさい」

り子が腰を下ろすと、会長は一枚の書類をテーブルに置いた。「正社員登用通知書」と書かれていた。り子はその四文字を、何度も読み返した。「学歴不問」の四文字に救われた日を思い出した。

「あの…私なんかが…」

り子の声がかすかに震えた。7年分の朝が、一枚の紙に報われたような気がした。あ立区のアパート、バス停から見送った友人たちの制服、その全部が今日に繋がっていた。

「72年間、それだけを信じてきたんだよ」

会長は少し目を細めた。

「あの日、君は傘だけでなく、人への敬意を差し出した。その気持ちが、今日を産んだんだ」

り子は深く頭を下げた。何も言葉が出てこなかった。だが、その沈黙が全ての答えだった。

「顔をあげなさい。これからが始まりだよ」

り子は顔を上げ、創業者の目をまっすぐに見た。わしお信造は72年間、ずっとこういう目で人を見てきたのだろう。学歴も肩書きも関係なく、ただその人間を見る目だ。り子はその目に、胸が熱くなった。

「雨の日にもらった傘のことは、一生忘れないよ」
「私こそ、忘れません。ずっと」

二人は少しの間、窓の外を一緒に見た。わしお商事の創業者と、中卒の契約社員だった23歳の女性が、同じ空を黙って見ていた。窓の外には、青い空が広がっていた。

大塚悟の処分は、翌日には公表された。代表権剥奪の後、取締役も解任され、会社を去った。大手企業への再就職を試みたが、解任の経緯が業界に知れ渡っていた。半年後、大塚の名前が業界誌に載ることは二度となかった。後日、顧問弁護士による調査で、不正発注の全容が明らかになった。大塚の実兄の会社に流れた金額は、2ヶ月で数千万円に上っていた。刑事告訴の準備が進み、大塚は弁護士との協議に追われた。

「私は会社のためを思って行動したんだ」

それを信じてくれる人間は、もうどこにもいなかった。かつての部下も、業界の仲間も、誰一人答えなかった。

1年後、大塚は中小企業のコンサルタントとして地方で働いていた。以前のような肩書きも部下もなく、一人で現場に向き合っていた。ある日、担当先の中卒の社員に「なぜ仕事を続けているのか」と聞かれた。

「それが仕事だから」

答えながら、大塚はどこか遠くにいる誰かの言葉を思い出した。仕事に学歴を持ち込んだ日から、大塚は何かを失い続けていた。

谷口はその夜、自分のデスクで手を止めた。「社長に言われた通りに」という言葉が、言い訳だと気づいていた。あの時、一言「それは間違ってます」と言えていれば、その選択肢は確かにあった。

「俺は、何のために仕事をしてたんだろう」

谷口は降格後も、社内での発言力を失い、誰も相手にしなくなった。書類改ざんへの関与が認められ、懲戒解雇も検討されていた。かつて彼にペコペコしていた部下たちは、誰一人近づかなかった。半年後、谷口は自ら辞表を提出していた。辞表を出した日も、誰からも声はかからなかった。1年後、谷口は学歴不問の中小企業で、採用担当として働き始めた。「人を見る目」とは何かを、ようやく問い始めていた。

学歴改革の名の下に不当な扱いを受けた契約社員は、り子だけではなかった。同じリストにいた19名全員の契約が、正式に見直された。その中の一人から、り子に短いメールが届いた。

「あなたが残ってくれたから、私たちも残れました」

「私、何もしてないのに」

り子はそのメールを、何度も読み返した。誰かのためになっていた。それだけで、十分だった。

「人を見る目がなければ、どんな学歴も宝の持ち腐れだ」

その言葉は社内報に掲載され、全社員に伝わった。わしお商事には新しい社長が選任された。今度は学歴ではなく、現場を知る人間が選ばれた。就任会見で、新社長がこう述べた。

「この会社の財産は、現場で働き続けた人間たちです」

「人は学歴ではなく行動で評価する」という方針が、正式に社是に明記された。

り子は正社員として、総務部に正式配属された。初出社の朝、矢吹がコーヒーを差し出した。

「おめでとう、鳥井さん。いや、先輩か?」
「やめてください。後輩ですよ」

ずっと二人は笑い合った。

り子が正社員の名刺を初めて受け取った日、仕事終わりに母の病院に寄った。「わしお商事 総務部」と書かれた名刺を、母の手に握らせた。

「離れてよかった。本当に、良かった」

母はしばらく、その名刺を放さなかった。母の手は以前より、少し温かくなっていた。り子の収入が安定してから、通院のリズムを整えてきていた。

「体の調子が、ずっと良くなってきたんだよ」

り子は母の手をそっと握った。その手が、あの頃より少し強くなっていた。

翌朝、り子はいつも通り30分前に出社した。窓を拭いて、デスクを整えて、コーヒーを一杯飲んだ。り子は窓の外を見た。雨の日に傘を差し出した、あのビルの先が見えた。

「お母さん、私、ちゃんとやれてるよ」

その言葉は声にならなかった。だが、胸の奥にいる母には、きっと届いていた。

「鳥井さん、何か考えてるんですか?」
「いや、ただ良かったなって」

誰かへの小さな親切が、巡り巡って自分に戻ってくることがある。それを偶然と呼ぶ人もいるだろう。でも、り子は知っていた。あの雨の日の老紳士に傘を差し出したのは、見返りのためではなかった。ただ、困っている人がそこにいたから。それだけだった。

人生は時に、その一瞬の選択に答えてくれることがある。誠実に生きてきて、よかった。わしお信造はこう言い残している。

「誠実さは、必ず誰かが見ている」

それが、わしお商事50年の答えだった。

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