「稲村さん、今すぐお時間いただけませんか?お願いします。会社が潰れてしまいます」
電話の向こうで、かつて私を見下していた社長が、裏返った声で懇願していた。私は静かにこう返した。
「申し訳ございませんが、もう関係ありませんので」
そう言って電話を切った。三ヶ月前まで、まさかこんな展開になるとは、誰も想像していなかっただろう。
私は稲村、三十五歳。大手印刷会社で営業として十年以上働き、部長候補とも言われていた。しかし三ヶ月前、故郷に住む母から連絡が入った。足の調子が悪くなり、一人で生活するのが難しくなったという。幼い頃に父を亡くし、女手一つで私を育ててくれた母だ。今度は私が支える番だと思い、故郷の田舎町に戻ることを決意した。
この町には印刷会社が一社しかない。商工会議所に相談すると、その場で紹介の電話をかけてくれ、面接が始まった。
面接当日、古い建物の事務所を訪れると、鍛原社長が出迎えた。六十代前半の初老の男性だ。
「お忙しい中わざわざありがとうございます。こちらが妻のみよ子と息子の大輔です」
鍛原は丁寧に家族を紹介してくれた。私の履歴書を見ながら、こう言う。
「田村さんのような優秀な人材が来てくれるなんて、まさに渡りに船だよ。うちの会社は家族で細々とやってきたが、営業力が足りなくてね。新規の顧客開拓をお願いしたい。自由に動いてもらって構わないから、とにかく契約を取ってきてほしい」
その口調とは裏腹に、みよ子は私の服装や持ち物を品定めするように観察し、大輔に至っては露骨にため息をついて天井を見上げていた。強い違和感を覚えたが、母のことを考えると選択肢はなかった。提示された給与は前職より大幅に下がる金額だったが、私は承諾した。
翌日、朝八時に出社すると、鍛原社長の態度が面接時とは全く違った。
「前の会社で偉そうにしてたかもしれんが、ここでは新人だからな」
「まあ実際に結果を出してから偉そうにしなさいよ」
みよ子が嫌みたっぷりに口を挟んだ。さらに、新規契約を月に十件取れと言われ、トイレ掃除や工場の清掃といった雑用まで押し付けられた。大輔は仕事もせずパチンコ雑誌を読みながら、こう命令する。
「今村、今日の昼飯買ってこい」
理不尽な扱いだと感じながらも、入社初日ということもあり、私は従うことにした。
就職後、私はみよ子が経理をしている事務所で書類を整理していた。すると机の引き出しの奥から、偶然決算書類を見つけてしまう。そこには驚愕の数字が並んでいた。借金は数千万を超え、毎月の赤字も深刻な状況だった。みよ子に鋭い声で睨まれ、慌てて書類を元に戻したが、私は持ち前の営業力で新規開拓に取り組んだ。地元の病院や市役所、商工会議所を回り、少しずつ契約を獲得していく。しかし、朗報を持ち帰っても、鍛原一家の態度は冷たいままだ。それでも私は毎日耐えながら働き続けた。母の医療費と介護費用のことを考えると、簡単に辞めるわけにはいかなかった。
ある日、営業から戻ると、自分のデスクが倉庫の隅に移されていた。
「狭いからな。お前は隅っこで十分だ」
大輔が薄笑いを浮かべながら言った。それでも私は歯を食いしばって耐え、必ずこの状況を変えてやると心に誓った。
こうして約三ヶ月の努力の末、会社は完全に黒字転換を達成した。月の売上は以前の三倍近くまで伸び、工場の効率化についても提案し、任せてもらうことになった。作業工程を細かく分析し、無駄な手順を削減して効率化を図り、詳細な品質管理を作成してミスを未然に防ぐ仕組みを構築した。その結果、納期遅れはゼロになり、クレームも激減した。鍛原一家は売上が上がったことしか見ておらず、私が現場改善に尽力していることには全く気づいていない。借金の返済も順調に進んでいた。
ところがある日、出社するとなぜか鍛原一家の私への態度がさらに悪化した。挨拶しても、誰も私を見ようとしない。みよ子は完全に私を透明人間扱いで、大輔も同様だった。会社を立て直した私を、なぜか全員が無視する状況になっている。言葉を失った。これまでは必要最低限の会話はあったのに、今はそれすらもない。
すると偶然、鍛原とみよ子が社長室で話している会話が廊下まで聞こえてきた。
「稲村の調子はどうだ?」
「完全に参ってるわ。この調子なら近いうちに辞めるでしょう」
「大手印刷会社からうちを子会社化する話が来てるが、稲村を営業部長に昇格させることが条件だったからな。そんな条件、飲めるわけがない。子会社化されれば経営は安定するし、株式売却で大金も入る。だが稲村を昇進させて給料も上げてやるなんて、真っ平ごめんだ。雑用係には今の給料だってもったいない。あいつを辞めさせるまで、無視は徹底するぞ。大手印刷会社には、あいつの実績は我々の指導があったからだと説明すればいい」
みよ子の満足げな笑い声が聞こえる。
私を営業部長に昇格させるという条件を説明されているにも関わらず、鍛原一家は私を切り捨てて利益を独占しようとしているのだ。私を昇格させたところで、鍛原一家には十分すぎるほど金が入るし、経営権だって鍛原一家のままなのに。彼らは私を今の安月給でこき使いたくて、それができないなら私が自ら辞めるよう仕向けて追い詰めるつもりだったのだ。
この卑劣な計画を知り、私の中で何かが吹っ切れた。呆れを通り越して、笑いさえ浮かんでくる。同時に、復讐方法がふつふつと湧き上がってきた。
午後、私は鍛原に告げた。
「この会社を辞めさせていただきます」
鍛原は表面上は驚いた表情を浮かべるが、その目の奥にほっとした様子が見える。みよ子も同様で、内心では思惑通りだと安心しているのが見て取れた。
「稲村さん、そんな急に」
引き止めるふりをするが、その声には全く説得力がない。鍛原一家が私なしでも子会社化が進むと勘違いしている様子を見て、私は笑いをこらえたまま会社を後にした。
翌日から、私は自分が担当していた主要な取引先を回り、退職することを正直に報告した。最初に訪れた地元の総合病院では、事務が私の話を聞くなり驚愕の表情を浮かべる。
「稲村さんがいなくなるなら、隣町の印刷会社に変更します」
そして市役所でも同様の反応だった。
「稲村さん以外の人では、安心してお任せできません。別の印刷会社に依頼し直します」
私が築いた信頼は、鍛原一家の想像以上に深かった。主要取引先を失った会社は、途端に経営危機に陥るだろう。そして私はもう一つ、やるべきことがあった。
子会社化を打診された大手印刷会社の日田取締役に、直接会いに行くことだ。
実は一週間前、私は安定した受注を確保するため、その大手会社に下請け契約をお願いしに行っていた。初回の打ち合わせで日田は私の営業資料に目を通し、感心したような表情を見せた。
「なるほど、御社の業績改善がこれほど劇的とは。稲村さんが一人でこれだけの契約を獲得されたんですか?」
「はい、地道に回らせていただきました」
三回目の打ち合わせで、日田は予想外の提案をしてきた。
「音社を子会社化することを検討しているのですが、その際に稲村さんを子会社の営業部長に昇格していただいて、経営に参画してもらえませんか?」
私は慎重に答えた。
「ありがたいお話ですが、経営に関わる重大な内容ですので、私には決定権がありません。日田さんから直接、鍛原社長にお話ししていただけませんか?」
日田は承諾し、鍛原に連絡をした。これが、その後鍛原一家が私を無視するようになった原因だったのだろう。
そして今、退職を決めた私は日田に直接会いに行った。事情を全て話すと、日田は眉をひそめた。
「それはひどい話ですね。稲村さんの実力を知っている身としては、信じられません」
そして日田は経営者として明確な判断を下した。
「御社を子会社化する提案は、稲村さんの実績と人柄を前提としたものです。稲村さんがいらっしゃらない上に、そのような経営者では、子会社化の話は白紙にせざるを得ません」
私の狙い通りの反応だった。すると日田は、熱心に私をスカウトしてくる。
「稲村さん、もしよろしければ、是非弊社で働いていただけませんか?」
「実は母の介護が必要でして、田舎に戻らざるを得なかったんです」
「それでしたらなおさらです。前職以上の待遇を約束しますし、お母様の介護についても弊社で全面的にサポートいたしましょう。弊社には介護支援制度もございます」
私は即座に承諾し、深々と頭を下げた。すると日田は、私の目の前で鍛原に電話をかけた。
「先日子会社化の件で連絡した日田です。ご提案させていただいた子会社化の件ですが、所持場により白紙とさせていただきます」
電話の向こうから、鍛原の慌てた声が聞こえてくる。
「稲村さんが退職されたと伺いましたが、お伝えした通り弊社の提案は稲村さんを前提としたものでした。申し訳ございませんが、お話はなかったことにさせていただきます」
日田は冷静に告げる。
「決定事項です。失礼いたします」
電話を切った数時間後、私の携帯電話が鳴り響いた。鍛原からだった。
「稲村さん、お話があります。今すぐお時間いただけませんか?お願いします。会社が潰れてしまいます」
「無理ですね。日田さんは経営判断として決断されました。私にできることは何もありません。失礼いたします」
他に笑みを浮かべてそう告げ、電話を切る。すぐにまた鳴った。今度はみよ子からだった。
「稲村さん、私たちが悪かったの。戻ってきてくれないかしら?お願いよ。家のローンもあるのよ」
「お断りします。自業自得ですね」
その日の夜、玄関のチャイムが鳴る。外を見ると、鍛原夫婦が立っていた。私が玄関を開けると、鍛原が土下座しながら叫んだ。
「稲村さん、どうか戻ってきてください。私たちが全て間違っていました」
みよ子も膝をついて頭を下げながら続ける。
「私たちが悪かったわ。何でもするから、戻ってきてちょうだい」
私は冷静に、そして徹底的に鍛原夫婦を問い詰めた。
「なぜ入社翌日から態度を豹変させたのか、理由を聞かせてください」
鍛原は苦しそうに答える。
「稲村さんが優秀すぎて、いずれ会社を乗っ取られるんじゃないかと不安になったんです。給料を上げたくなかったし、我々より立場が上になられても困るし。それで最初から威圧して、言うことを聞く従業員にしようと思って、家族で話し合って決めたんです」
「会社を立て直してくれる人材を、給料をけちって冷遇したということですか?そして子会社化の話が来たら、今度は私を排除して利益を独占しようとし、私の手柄を自分たちの成果だと偽ろうとした」
鍛原夫婦は言葉につまる。
「あなたたちは人を道具としか見ていない。会社を立て直した恩人を、保身のために平気で切り捨てようとする卑劣な人間です。今更何を言っても信用できません。私はもう日田さんのところで働くことに決めました。皆さんとは違って、日田さんは人を大切にしてくれる方です」
鍛原夫婦の表情が絶望に変わる。
「自業自得ですよ。お引き取りください」
私はそう言い放ち、静かに玄関の扉を閉めた。
それから一ヶ月後、私は日田の会社で営業部長として、前職以上の待遇で働いている。母の介護費用も十分に賄えるようになり、新しい職場では私の実力が正当に評価されている。鍛原一家のその後を、取引先の関係者から聞いた。大口契約を次々と失い、子会社化も破断となった鍛原印刷は、急速に経営が悪化し、当然のごとく倒産した。鍛原は工場で日雇い労働をし、みよ子と大輔はコンビニでアルバイトをしているという。
人を大切にしない者の末路を目の当たりにし、私は改めて人間関係の大切さを実感する。日田のような優れた経営者のもとで働けることに感謝し、私は母と共に、この地で新しい人生を歩んでいく決意を固めるのだった。


