「お母さん、これからこの家では私に従うか、出ていくか、どちらかに決めてください」——夕食の席で、嫁のゆいが私にそう言い放った。その隣で、私が四十年かけて女手一つで育てた息子・亮が、何の躊躇もなく頷いている。家政婦扱いされる日々、老人ホームに入れと言われた夜、そして「あなたはもう必要ない」という言葉。私は何も言わず、静かに荷物をまとめた。翌朝、テーブルに一通の手紙を残して家を出た。タクシーに乗…

「お母さん、これからこの家では私に従うか、出ていくか、どちらかに決めてください」——夕食の席で、嫁のゆいが私にそう言い放った。その隣で、私が四十年かけて女手一つで育てた息子・亮が、何の躊躇もなく頷いている。家政婦扱いされる日々、老人ホームに入れと言われた夜、そして「あなたはもう必要ない」という言葉。私は何も言わず、静かに荷物をまとめた。翌朝、テーブルに一通の手紙を残して家を出た。タクシーに乗...

「お母さん、これからこの家では私に従ってもらうか、それとも出ていくか、どちらかに決めてください。」

夕食後のリビングに、嫁のゆいの冷たい声が響いた。手に持っていた湯飲みを、思わず震わせてしまった。六十八年生きてきて、まさか息子の嫁からこんな最後通告を突きつけられるとは思ってもみなかった。

ゆいは背筋を伸ばし、まるで女王のように私を見下ろしている。その隣で黙って頷く息子の亮。あの子の目は、私を見ようともしない。

「亮、あなたも同じ気持ちなの?」

私の問いかけに、息子はようやく顔を上げた。しかし、その表情は他人のように冷たかった。

「母さん、僕たちにも生活があるんだ。ゆいの言う通りだよ。ここは僕たちの家なんだから、ゆいが決めるのが当然だろう」

胸が締め付けられるような痛みが走った。四十年間、防衛省で働きながら、女手一つで育てた息子が、こんな言葉を口にするなんて。

「明日の朝までに決めてください。私の指示に従うか、この家から出ていくか」

ゆいの宣告が、鋭い刃のように私の心を切り裂いた。リビングの時計が、無情に時を刻む音だけが静寂を破っていた。

部屋に戻った私は、震える手で古いアルバムを開いた。そこには、まだ幼かった亮の写真が並んでいる。夫を病気で亡くしたのは、亮がまだ五歳の時だった。

「お母さん、僕大きくなったら、お母さんを守るから」

あの頃の亮はそう言って、小さな手で私の涙を拭いてくれた。その約束を信じて、私は必死に働いた。防衛省での激務をこなしながら、朝五時に起きて弁当を作り、夜遅くまでの勉強を見た。月収は八万円。大学院までの教育費は総額千三百万円。すべて私一人で工面した。

亮がゆいと結婚する時、私は喜んで結婚資金五百万円を渡した。マイホームの頭金八百万円も、老後のために貯めていた貯金から出した。

「お母さん、今日も洗濯物が溜まってますよ。ちゃんとやってくださいね」

ゆいの言葉が脳裏に蘇える。この三年間、私は家政婦のように扱われてきた。朝六時から夜九時まで、掃除、洗濯、炊事。すべて私の仕事だった。それでも文句の一つも言わなかった。息子夫婦の幸せが私の幸せだと信じていたから。

でも、今夜の出来事で、すべてが崩れ去った。献身的な愛情は、ただの都合のいい存在としか見られていなかった。

窓の外では冷たい雨が降り始め、私の心を映し出すようにガラスを濡らしていく。

思い返せば、ゆいの態度が変わり始めたのは半年前からだった。最初は些細なことから始まった。

「お母さん、この味噌汁、薄すぎませんか? 私の実家ではもっとしっかりした味付けなんですけど」

ゆいの言葉に、私は素直に作り直した。四十年以上作り続けてきた味噌汁を否定されるのは辛かったが、嫁の好みに合わせるのも姑の務めだと思っていた。

しかし、要求は日に日にエスカレートしていった。ある朝、掃除を終えたばかりのリビングで、ゆいが大げさにため息をついた。

「お母さん、掃除の仕方が雑すぎます。ほら、ここにほこりが残ってるじゃないですか」

ゆいは白い手袋をはめた指で、わざわざテレビ台の裏側をなぞって見せた。

「もしかして認知症とか始まってるんじゃないですか? こんな簡単なこともできないなんて」

その言葉に私は凍りついた。六十八歳とはいえ、防衛省の重要な仕事をこなしていた。認知症などあるはずがない。

「ゆいさん、それは言いすぎじゃないかしら」

「お母さん、私は心配して言ってるんです。亮も同じ気持ちよね」

隣にいた息子は、新聞から顔も上げずに答えた。

「母さん、ゆいの言うことも一理あるよ。彼女の方が若いんだから、言うことを聞いた方がいい」

息子の無関心な態度に心臓が痛んだ。あの優しかった亮は、もうどこにもいない。

二ヶ月前の夕食後、ゆいは突然金銭的な要求を始めた。

「お母さん、来月から生活費として月に十万円いただきますね」

「でも、私も生活費は入れていますし」

「それは私も生活費は入れていますし、それとは別です。年金も退職金もあるでしょう。この家に住ませてもらっているんですから、当然じゃないですか」

「でも、それは私の老後の資金として貯めているもので」

ゆいの表情が急に冷たくなった。

「あら、嫌なら出て行ってもらっても構いませんよ。老人ホームならもっとお金がかかるでしょうけど」

「ゆいの言う通りだよ、母さん」

亮がゆいの肩を抱きながら口を挟んだ。

「僕たちだって生活があるんだ。子供も欲しいし、お金は必要なんだよ」

子供。その言葉を聞いて、私は反論できなくなった。孫の顔を見たいという思いが、私を黙らせた。結局、しぶしぶ了承するしかなかった。

四十年間、朝から晩まで働いて貯めた退職金が、みるみる減っていく。通帳の残高を見るたびに、不安が募った。

さらに先月からは、私の行動まで制限されるようになった。ある日の朝、私が外出の準備をしていると、ゆいが玄関に立ちはだかった。

「お母さん、今日はどちらへ?」

「防衛省の同僚と退職祝いのランチの約束があるのだけど」

「聞いていません。勝手に出かけないでください。私の許可が必要です」

「でも、もう三ヶ月前から決まっていた約束で」

「キャンセルしてください。お母さんも年なんですから、家でおとなしくしていた方がいいですよ」

「でも、私はまだ現役で働けるわ」

「それはおかしいですよ。もう退職して家のことに専念しているのに」

ゆいの命令口調に、亮も便乗した。

「母さん、ゆいの言う通りだよ。もう無理しなくていいんだ。家でゆっくりしてた方が、僕たちも安心だし」

結局、その日の約束もキャンセルさせられた。退職祝いのランチも、大学時代の友人との五十年目の同窓会も、すべて断らざるを得なかった。

日を追うごとに、圧迫は強くなっていった。

「お母さん、今日の夕飯は私が決めたメニューで作ってください。勝手なものは作らないでくださいね」

「お母さん、その服、古臭いですね。もう三度も着てるから、捨てた方がいいんじゃないですか」

「お母さん、テレビの音がうるさいです。イヤホンを使ってください。私たちの邪魔になりますから」

朝起きてから夜寝るまで、すべてゆいの指示通りに動かなければならない。まるで飯使いのような扱いだった。

先週、私が大切にしていた亡き夫との思い出の品を整理していると、ゆいが部屋に入ってきた。

「お母さん、こんな古いものを取っておいても仕方ないでしょう。全部捨ててください」

「これは主人との大切な思い出で」

「過去にしがみついているから前に進めないんです。亮も迷惑してますよ」

その瞬間、亮が部屋を覗いた。

「母さん、ゆいの言う通りだ。父さんのことは忘れて、今の生活を大事にしなよ」

息子の言葉に、私は言葉を失った。あなたの父親を忘れろというの。

毎日毎日、人格を否定されるような言葉を浴びせられる。私という人間の存在価値を、少しずつ削り取られていくような日々。まるで、この家に私の居場所はないと言われているようだった。

二日後の土曜日、私にとって決定的な出来事が起きた。ゆいの実家から、彼女の母親が訪ねてきたのだ。

「お母様、いらっしゃい。お待ちしておりました」

ゆいの声は、普段私に向ける冷たい調子とは打って変わって、甘く優しかった。玄関で出迎えるゆいの顔は、まるで少女のように輝いている。

「ゆい、元気にしてた?」

「亮さんも、いつもうちの娘がお世話になって」

ゆいの母親は、上品な肝の姿で現れた。私も挨拶しようと玄関に向かったが、ゆいに静止された。

「お母さんは台所で食事の準備をしていてください。お母様のために特別な料理を用意してもらわないと」

そう言い残して、ゆいは母親をリビングへと案内した。

「お母様、どうぞ。こちらのソファへ。今日は特別なお茶を用意させていただきました」

私が長年座っていた場所に、ゆいの母親を座らせる。そして、亮も満面の笑みで義母を迎えた。

「お母さん、お久しぶりです。今日はゆっくりしていってください」

息子が他人の母親を「お母さん」と呼ぶ声を聞いて、胸が締め付けられた。私には「母さん」としか呼ばないのに。

食事の時間になった。私が朝から準備していた料理を運ぼうとすると、ゆいが冷たく言い放った。

「お母さんは台所で食べてください。今日は大切なお客様がいらっしゃるので」

「え? でも、私も一緒に」

「お母さんがいると、お母様が気を使われるでしょう。空気を読んでください」

亮も当然のように頷いた。

「母さん、今日は向こうで食べてて。ゆいのお母さんに失礼があってはいけないから」

私は一人、薄暗い台所で冷めた味噌汁をすすった。リビングからは、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

「亮さんは本当に優しいわね。ゆいも幸せものよ」

「お母さんこそ、お若くて素敵です。まるでゆいのお姉さんみたいですよ」

楽しげな会話が、私の心を切り刻んでいく。まるで私だけが、この家族から除外されているようだった。

食事が終わると、ゆいが台所にやってきた。

「お母さん。お母様がお帰りになるまで、部屋から出ないでください。あなたがうろうろしていると目障りですから」

その言葉に、さすがに我慢の限界を感じた。

「ゆいさん、いくら何でもそれは」

「何か文句でもあるんですか?」

ゆいの目が冷たく光った。

「正直に言いますけど、お母さんがいると息が詰まるんです。亮も同じ気持ちですよね」

呼ばれた亮が台所を覗いた。その表情は、まるで面倒な問題を見るような目だった。

「母さん、ゆいの言う通りにしてよ。僕たちにも生活があるんだから」

「亮、私はあなたの母親よ。こんな扱いを受ける理由が」

「母さんはもう年なんだ。僕たちの邪魔をしないでほしい」

息子の言葉は鋭い刃となって、私の心を貫いた。邪魔。私が息子の邪魔だというのか。

その夜、ゆいの母親が帰った後、ゆいと亮はさらに残酷な言葉を投げかけてきた。

「お母さん、今日のお母様の振る舞いを見ましたか? あれが本当の品格というものです」

「ゆいの言う通りだよ。母さんももう少し上品になれないの?」

「そうですね。お母さんには無理でしょうけど」

ゆいの嘲笑が部屋に響いた。

「それに、お母さん。そろそろ真剣に考えてもらえませんか? 老人ホームのことを」

「老人ホーム?」

「ええ、この家にいてもお互いストレスが溜まるだけでしょう。お母さんも同年代の方たちといた方が楽しいんじゃないですか」

「でも、この家は」

「この家は亮と私の家です。お母さんはもう必要ないんです」

必要ない。その言葉が私の存在すべてを否定した。亮も妻の隣で冷たく言い放った。

「母さん、正直に言うけど、僕たちは子供が欲しいんだ。でも、母さんがいるとゆいがストレスで妊娠できないかもしれない」

「私のせいだというの?」

「そうとも言えるよね。母さんがいなければ、もっと僕たちは幸せになれる」

幸せ。私を排除することが、息子の幸せだというのか。

そして今夜、ついに最後通告を突きつけられた。ゆいが立ち上がり、冷然と私に告げる。

「お母さん、明日の朝までに決めてください。私に完全に従って、私の言う通りに生きるか。それとも、この家から出ていくか」

「従うって、どういう」

「私の指示通りに動く、ただの家政婦として生きるということです。文句も言わず、私たちの邪魔もせず、必要な時だけ働いて、後は部屋にこもっている。それができないなら、出て行ってください」

亮も冷然と付け加えた。

「母さん、これは僕たちの決定だ。言うだけじゃない。僕もそう思ってる。もう母さんの時代は終わったんだよ」

私の時代が終わった。六十八年間生きてきて、息子にこんな言葉を言われるとは。

「亮、私はあなたを」

「もういいよ、母さん。過去の話はうんざりだ。明日の朝、答えを聞かせて」

そう言い残して、二人は寝室へと消えていった。

リビングに一人残された私は、崩れるように床に座り込んだ。涙も出ない。ただ虚しい気持ちだけが心を支配していた。時計の針が無情にも時を刻んでいく。明日の朝まで、あと数時間。私はどちらを選ぶべきなのか。

いや、もう答えは決まっていた。こんな屈辱的な生活を、これ以上続けることはできない。

深夜、私は自室で一人、膝を抱えて座っていた。窓の外では雨が激しく降り続いている。まるで私の涙を代弁するかのように。

「お母さん、僕大きくなったら、お母さんを守るから」

幼い亮の声が記憶の中から蘇える。あの約束は、一体何だったのだろう。

震える手で書斎の金庫を開けた。そこには、四十年間の防衛省勤務で得た様々な書類が保管されている。その中から、一通の重要な封筒を取り出した。防衛省の紋章が刻まれた、機密レベルの高い文書。まさか、これを使う日が来るとは。

封筒の中身は、私の本当の地位を示す辞令書だった。

防衛事務次官。

日本の防衛行政のトップに立つ、最高位の文官。年収二千五百万円。そして、防衛産業との深いつながり。

私はこの事実を、息子にも誰にも話していなかった。普通の母親として、普通の家庭を築きたかったから。息子には権力や地位ではなく、純粋な愛情で接したかったから。

でも、もう限界だった。

次に取り出したのは、この家の権利書。名義人の欄には、はっきりと「高田くみ子」と記されている。息子夫婦は知らないが、この家は私の名義のままだった。

信じていた私が愚かだったのね。

静かに荷物をまとめ始めた。必要最小限の衣類と、大切な書類だけ。四十年分の思い出は、もうこの家には必要ない。

朝五時。まだ息子夫婦が寝ている時間に、私は玄関に立った。最後にダイニングテーブルに一枚の手紙を残す。

「お望み通り出ていきます。もう二度と会うことはないでしょう。さようなら」

簡潔な文面。もう多くを語る必要はなかった。

玄関のドアを開けると、雨は止んでいた。朝焼けが東の空を染め始めている。新しい一日の始まり。そして、私の新しい人生の始まりでもあった。

タクシーに乗り込む前に、一度だけ振り返った。三十年間暮らした家。息子と過ごした思い出の場所。でも、もうそこは私の家ではない。

「どちらまで?」

運転手の問いかけに、私ははっきりと答えた。

「防衛省本省へ」

車が走り出すと、スマートフォンを取り出した。まず、防衛省の人事部長に電話をかける。

「高田です。お願いしたいことがあります」

「高田事務次官、朝早くからどうされました?」

「個人的な事情で、ある企業との契約見直しが必要になりました。詳細は後ほど」

次に、官房部の責任者へ連絡。

「住居に関する法的手続きを、今すぐに開始してください。詳細は追って連絡します」

最後に、秘書室長へ。

「今日から私の本来の職務に完全復帰します。今まで控えていた権限も、すべて行使します」

「承知いたしました。お待ちしておりました」

秘書室長の声には、安堵の色があった。私が家庭の事情で職務をセーブしていることを知っていたのだろう。

私は退職していない。亮たちには退職したと伝えていたが、実は現役で防衛省に勤務している。

防衛省の建物が見えてきた。荘厳な姿が朝日に照らされて輝いている。

「運転手さん、ありがとう」

料金を支払い、車を降りた。背筋を伸ばし、堂々と正面玄関へ向かう。守衛が直立不動で敬礼した。

「おはようございます。事務次官」

「おはようございます」

久しぶりに、本来の自分に戻った気がした。もう誰かの顔色を伺う必要はない。誰かに服従する必要もない。

エレベーターで最上階へ。事務次官室のドアを開けると、すでに秘書たちが待機していた。

「お帰りなさいませ。事務次官」

「ただいま。さあ、仕事を始めましょう」

窓から見える東京の町並み。どこかで息子夫婦が目を覚ます頃だろう。私の手紙を見て、どんな顔をするのか。でも、もうそれは私には関係ない。

机の上に置かれた書類に目を通し始めた。防衛産業との契約書。その中に、息子の務める会社の名前があった。そして、ゆいの実家が経営する会社も。

これも運命なのかしら。私は静かに微笑んだ。復讐のためではない。ただ、公務はできないというだけのこと。個人的な関係がある企業との契約は、見直さなければならない。それが公務員としての義務だから。

朝日が机を金色に染めていく。新しい一日が始まった。私の本当の人生が始まった。

その日の朝八時、息子夫婦はいつものように優雅に朝食を取っていた。

「やっと静かになったわね。あの人がいないだけで、こんなに空気が軽いなんて」

ゆいは上機嫌でコーヒーを飲んでいた。

「そうだね。母さんも老人ホームの方が幸せだろう」

亮も何の罪悪感もない様子で新聞を読んでいる。母親の手紙には、ただ「出ていきます」とだけ書かれていた。

「これで、私たちだけの生活が始まるのね。子供部屋も作れるし」

「ああ、母さんの部屋を改装すればいい」

その時、亮のスマートフォンが鳴った。会社からの電話だった。

「はい。高田です」

電話の向こうから聞こえてきた言葉に、亮の顔色が変わった。

「えっ、契約解除? どういうことですか?」

「高田さん、申し訳ありませんが、防衛省との契約が本日付けで解除されました。それに伴い、あなたの部署も縮小となります」

「防衛省? なぜ急に?」

「詳細は申し上げられませんが、高田事務次官からの直接指示だそうです」

「高田事務次官……」

亮の手からスマートフォンが滑り落ちた。

「どうしたの? 顔が真っ青よ」

ゆいが心配そうに覗き込んだ時、今度は彼女の電話が鳴った。

「もしもし。ゆいです」

「専務、大変です! 防衛省との取引が、すべて停止されました」

「え?」

「高田事務次官の指示で、当社を含む関連企業との契約が見直されるそうです」

ゆいも電話を取り落とした。

高田事務次官。

二人は顔を見合わせた。まさか、あの高田くみ子が自分たちの母親だというのか。

亮が震える手でインターネットを検索した。

「防衛省 高田くみ子 事務次官」

画面に現れたのは、凛とした表情の母親の写真だった。防衛省のホームページに掲載された正式な肖像写真。その経歴を見て、二人は言葉を失った。

東京大学法学部卒業。防衛省入省。国際安全保障局長、防衛政策局長を経て、現職の事務次官。年収推定二千五百万円。防衛省の文官トップ。

「嘘でしょ? お母さんがこんな」

ゆいの声が震えていた。

「なぜ黙っていたんだ?」

亮も信じられないという表情で画面を見つめている。

その時、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには法律事務所の職員が立っていた。

「高田亮様、高田ゆい様ですね。こちらの書類をお渡しに参りました」

封筒を開けると、そこには住居の明け渡し通知書が入っていた。

「この家は、高田くみ子様の所有物です。一ヶ月以内に退去していただきます」

「そんな、ここは僕たちの家だ」

「いいえ、登記簿を確認させていただきましたが、所有者は高田くみ子様です。あなた方に居住権はありません」

さらに、別の書類が渡された。

「また、高田くみ子様から、今までの家賃相当額として、月額二十万円の三年分、計七百二十万円の請求をさせていただきます」

「家賃? 母親から息子が家賃を取られるなんて」

「法的には正当な請求です。支払いがない場合は、法的措置を取らせていただきます」

職員が去った後、二人は呆然と立ち尽くしていた。亮の電話が再び鳴った。今度は直属の上司からだった。

「高田君、君は本付けで契約解除だ。関連の仕事がなくなった以上、君を雇い続ける理由がない」

「そんな」

「急いで君の母親に話を付けてくれ。我々も被害者だ」

電話は一方的に切られた。ゆいの会社からも、同様の連絡が入った。防衛省との取引が会社の売上の四十パーセントを占めていたため、経営が危機的状況に陥ったという。

「どうしよう。どうしよう」

ゆいは頭を抱えて泣き始めた。亮は震える手で母親に電話をかけた。しかし、何度かけても繋がらない。

「母さん、出てくれ。話があるんだ」

留守番電話にメッセージを残すが、返事はない。防衛省に電話をかけても、「事務次官は重要な会議中です」と取り次いでもらえない。

夕方になって、ようやく母親から電話がかかってきた。しかし、その声は今まで聞いたことがないほど冷たかった。

「何か用ですか?」

「母さん、どういうことなんだ? なぜ黙っていた?」

「黙っていた? 私の職業を聞かれたことがありましたか?」

「それは」

「あなた方は私をお荷物としか見ていなかったでしょう」

「母さん、謝るよ。だから会社のことは」

「行使はできません。個人的な関係がある企業との契約は、適切ではありませんから」

「そんな、僕たちの生活はどうなるんだ?」

「それはあなた方の問題です。私には関係ありません」

「母さん、もう」

「『もう母親ではない』と言われましたよね。『邪魔者』と」

ゆいが電話を奪い取った。

「お母様、私が悪かったです。謝ります。だからお願いです」

「ゆいさん、あなたは私に『従うか、出ていくか』と言いましたね。私は『出ていく』方を選びました。それだけのことです」

「でも」

「この家は私の所有物です。一ヶ月以内に出て行ってください」

「お母様、お願いです。もう一度話し合いを」

「話し合い? 昨日まで、一度でも私と話し合おうとしましたか? 私の意見を聞こうとしましたか?」

ゆいは言葉に詰まった。

「それに、老人ホームに入れと言っていましたよね。でも、私にはまだ仕事があります。国を守るという、重要な仕事が」

「お母様」

「さようなら。もう二度と連絡しないでください」

電話は切れた。二人は崩れるように床に座り込んだ。

「どうして? どうしてこんなことに?」

亮は天を仰いだ。

「母さんがあんな地位にいたなんて」

「私たち、とんでもないことをしてしまったのね」

ゆいの涙が床に落ちていく。

テレビをつけると、ちょうどニュースが流れていた。

「本日、防衛省の高田事務次官が、防衛産業との契約見直しを発表しました。これはより透明性の高い契約を目指すもので」

画面に移る母親は、凛として威厳に満ちていた。記者たちの質問に、的確に答えている。

「高田事務次官は、四十年にわたり防衛省で勤務し、女性として初めて事務次官に就任した、まさに伝説的な人物です」

アナウンサーの言葉が、二人の心に突き刺さった。伝説的な人物。その人を、自分たちは「お荷物」と呼び、「邪魔者」扱いし、「出ていけ」と追い出したのだ。

窓の外では夕日が沈もうとしていた。二人の未来も、その夕日と共に暗闇に沈んでいくようだった。

三ヶ月後、私は港区の高級マンション最上階で、朝のコーヒーを楽しんでいた。大きな窓から見える東京の景色は、まるで私の新しい人生を祝福しているかのようだった。

「おはようございます。事務次官」

秘書が持ってきた長官に目を通す。防衛省の改革が着実に進んでいることが記事になっていた。

「高田事務次官の主導により、防衛産業との癒着が解消され、より透明性の高い契約システムが構築された」

記事を読みながら、私は静かに微笑んだ。これが私の本来の仕事。国を守り、正しい道を示すこと。

スマートフォンを確認すると、息子から何通もメッセージが届いていた。すべて既読無視。もう返事をする必要はない。

先週、防衛省の後輩たちが私の誕生日を祝ってくれた。

「くみ子さんは、私たち職員の誇りです」

「やっと本来のくみ子さんに戻られて、嬉しいです。今まで家庭のことで苦労されていたんですね」

温かい言葉に、涙が溢れそうになった。私を必要としてくれる人たちが、ここにはいる。私の価値を認めてくれる仲間たちが。

「今が人生で一番幸せです」

心からそう答えた。それは偽りのない本心だった。

一方、息子夫婦の状況は悲惨なものだった。友人から聞いた話では、亮は失業後、なかなか次の仕事が見つからないという。防衛省関連の仕事をしていたという経歴が、かえって足かせになっているらしい。ゆいの実家の会社も、倒産寸前まで追い込まれた。防衛省との取引がなくなったことで、資金繰りが悪化したのだ。

二人は、安いアパートに引っ越したと聞いた。あの立派な家から、築四十年の古いアパートへ。まさに天国から地獄への転落だった。

先日、偶然デパートでゆいを見かけた。高級ブランドの店の前を、俯きながら通り過ぎていく姿。かつての傲慢な態度は、どこにもなかった。私を見つけたゆいが、走り寄ってきた。

「お母様、お願いです。話を聞いてください」

「何か用ですか?」

「私が間違っていました。本当に申し訳ありませんでした」

ゆいは一目もはばからず、土下座をした。

「お母様、もう一度だけチャンスをください。亮も反省しています」

「反省? 何を反省したのですか?」

「すべてです。お母様を邪魔者扱いしたこと、従えと命令したこと、出ていけと言ったこと」

「それは、私が事務次官だと分かったからですか?」

ゆいは言葉に詰まった。

「もし私がただの年金暮らしの老人だったら、あなた方は反省しましたか?」

ゆいは答えられなかった。

「答えは明白ですね。あなた方が後悔しているのは、私を失ったことではなく、私の地位と財力を失ったことでしょう」

ゆいは顔を上げることができなかった。

「人を見下したり軽んじたりした報いは、必ず帰ってきます。これはあなた方の当然の結果です」

そう言い残して、私はその場を立ち去った。振り返ることはなかった。

夜、マンションに戻ると、大学時代の友人から電話があった。

「くみ子、今度みんなで温泉旅行に行かない?」

「いいわね。ぜひ参加させて」

「やっと自由になったのね。本当に良かった」

友人との楽しい計画。これも、今の私の幸せの一つだった。

書斎で、亡き夫の写真に語りかけた。

「あなた、私、やっと自分の人生を取り戻したわ。亮のことは残念だけど、あの子が選んだ道だから」

写真の中の夫は、優しく微笑んでいるように見えた。

防衛省での仕事も順調に進んでいる。来月には国際会議で日本代表として演説することになった。私の四十年の経験が、国の役に立つ。それが何より嬉しい。

人生、七十歳近くになっても、新しく始められるものね。

窓の外には美しい夜景が広がっている。きらめく光の一つ一つが、希望の光のように見えた。

私は今、本当に自由で幸せだ。誰かに従う必要もない。誰かの顔色を伺う必要もない。自分の価値を、自分で決められる。

親の愛情は無償だと思われがちだが、それは違う。親にも限界があり、尊厳がある。それを踏みにられた時、親子の絆も切れることがある。

でも、それでいいのだ。自分を大切にしない人のために、自分を犠牲にする必要はない。例えそれが、実の息子であっても。

もし、あなたも理不尽な扱いを受けているなら、我慢し続ける必要はありません。あなたにはあなたの価値があり、それを認めてくれる場所が必ずあります。勇気を出して、一歩踏み出してください。年齢は関係ありません。人生は、いつからでもやり直せるのですから。

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