夫の入院中の病室で、私は姉が夫の上にまたがり、キスをしているのを目撃した。夫も嫌がるどころか、応じている。「ああ、バレちゃったか。覗き見なんて趣味が悪いわよ」と姉は開き直り、夫は「俺とお前は他人になるんだからな」と記入済みの離婚届を投げつけてきた。私は何も言わずに離婚届を提出した。――だが、それから3日後、夫が緊急手術が必要になり、輸血できる適合者が私しかいないと判明する。夫も姉も、泣きなが…

夫の入院中の病室で、私は姉が夫の上にまたがり、キスをしているのを目撃した。夫も嫌がるどころか、応じている。「ああ、バレちゃったか。覗き見なんて趣味が悪いわよ」と姉は開き直り、夫は「俺とお前は他人になるんだからな」と記入済みの離婚届を投げつけてきた。私は何も言わずに離婚届を提出した。――だが、それから3日後、夫が緊急手術が必要になり、輸血できる適合者が私しかいないと判明する。夫も姉も、泣きなが...

「な、何をやってるの?」

入院中の夫の見舞いに来た私は、病室のドアが少し開いていることに気づいた。中から小声が聞こえたので、何気なく覗き込むと――ベッドに座る夫の上に、姉の雪江がまたがっていた。そして、二人はキスをしていた。夫も嫌がる様子など一切なく、姉のキスに応じている。誰がどう見ても、それは浮気現場だった。

「ああ、バレちゃったか。覗き見なんて趣味が悪いわよ」

姉は悪びれる様子もなく、そう言い放った。

「見られちまったか。俺とお前は他人になるんだからな。もう入院中は一切連絡してくるなよ」

夫の浩は、私に離婚を迫った。謝罪の一言もない。

私は床に落ちていた離婚届を拾い上げ、何も言わずに病室を後にした。もうこの二人に話が通じるとは思えなかった。

――だが、それから三日後、私の元に何度も着信が入る。留守番電話には、浩からの必死の伝言がいくつも溜まっていた。

「頼むよ。助けてくれ。このままだと俺は……」

かつて私を散々見下し、馬鹿にしていた夫が、今は私に助けを求めている。しかし、姉との裏切りを許せなかった私は、そのメッセージを全て無視した。

私の名前は美佳子。専業主婦だ。夫の浩とは、元々勤めていた会社の同僚だった。業務上の話をする程度の顔見知りだったが、会社の飲み会でたまたま隣の席になったことがきっかけで付き合い始め、結婚した。

私は元々奥手なタイプで、浩と付き合うのも消極的だった。そんな私の背中を押してくれたのは、姉の雪江だった。姉は私より先に結婚していて、恋愛に悩む私の良き相談相手だった。

そうして始まった新婚生活は、確かに幸せだった。浩は明るく外交的で、私を楽しませるために色々な場所に連れて行ってくれた。高級レストランで食事をし、記念日にはプレゼントをくれる。彼の気遣いに感動したものだ。

だが、だんだんと浩の重大な欠点が浮き彫りになる。それは、金銭感覚だった。

ある日、クレジットカード会社から請求書が届いた。内容を見て驚いた。我が家の月収を超えるような請求額だったからだ。もちろん、私が使った覚えはない。

「ねえ、これ、どういうこと?」

浩に問い詰めると、彼は「そんなに使ったかなあ」と曖昧な反応を返してきた。まさか不正利用かと思い、私はカード会社と警察に相談した。だが、調査の結果、カードを使っていたのは浩本人だと判明した。

「一体どういうこと?なんで聞いた時に正直に答えないのよ!」

嘘をついていたことがショックで、厳しく問い詰めた。だが、浩はヘラヘラと笑って、あまり深刻に考えていない様子だった。

「だって本当のこと言ったらお前怒るだろ。大丈夫だって。その分稼げばいいんだから」

「稼げばって、あなたの収入以上の請求なのよ。このままじゃ貯蓄どころか借金生活だわ」

「うるさいな。自分で稼いだ収入くらい好きに使わせろよ。お前も働けばいいだろうが」

「そんなの前に話し合ったじゃない。子供が欲しいから、私は一度専業主婦になろうって」

「そんなこと言ったっけな。ま、今のままだと金が足りないから働くしかないだろ。自分ばかり楽をして過ごそうったって、そうはいかないからな」

私は結婚して数年後、会社を辞めていた。それは、私たち夫婦が子供を作りにくい体だと判明したからだ。病院で検査をしてもらったが、どちらに原因があるのかまでは分からなかった。だが、子供を望むなら定期的に診察に通った方がいいと言われ、私は退職を決めた。

しかし浩は、そのことも忘れているのか、それとも分かっていて言っているのか、私に再び働くべきだと主張した。そもそも不妊治療に通うのは私だけで、浩は仕事が忙しいと言い訳して通うのをサボりがちだった。

結局、浩との話し合いは平行線のまま、私は再び働きに出ることになった。以前いた会社は人員が足りているらしく、近所のパートの仕事を始めた。その給料で毎月の赤字を補填していたが、不妊治療にもお金がかかる中、何のために働いているのか分からなくなることもあった。

そんな私の気持ちも知らず、浩の浪費癖は治らなかった。出費を抑えてほしいと言っても、「俺のやることに口を出すな」と叱られるだけ。付き合っていた時とは別人のような夫に、戸惑うばかりだった。

問題は他にもあった。田舎に住む浩の両親も、私の悩みの種だった。彼らは事前に連絡もせず何度も家に訪ねてきては、ずけずけと無神経なことを言うのだ。

「ねえ、子供はまだなの?結婚してから随分立ってるのに、よっぽどあなたの体がおかしいのね」

義母は、子供ができない理由を私にあると決めつけ、こんな風にネチネチと嫌みを言ってくる。

「こんなに子供ができない不良品の嫁なら、結婚させるんじゃなかった」

義父も高圧的に私を攻める。

私は「病院では原因不明と言われました」と説明するが、夫の浩は義両親と一緒になって私が悪いと言うのだった。

「パートの仕事を始める暇があるんだったら、ちゃんと子供について考えなさい。年を取ってからでは遅いのよ」

「ちゃんと家計管理をしないからパートに出る必要があるんだろう。まさか浩の給料を無駄遣いしているんじゃないだろうな」

義両親は、私が言い返さないのをいいことに言いたい放題だった。

「あなたが無計画に散財するからでしょ。どうして自分のせいだって言わないのよ」

「そんなこと言ったら父さんも母さんも心配するに決まってるだろ。そんなこと俺にはできない」

浩は反省するどころか、開き直った態度で偉そうに鼻を鳴らした。

「不妊にしたって、私はちゃんと通院しているわ。あなたにも原因があるかもしれないのに、どうして私だけが責められなくちゃいけないのよ」

「俺にだってプライドがあるんだよ。それくらい嫁なら分かるだろ」

私がどれだけ訴えても、浩は分かってくれない。頭の中に「離婚」の二文字がよぎった。

――その時、浩が突然顔を歪めた。

「ぐあ……痛い」

浩はお腹を抱えるようにしてうずくまり、脂汗を流しながら苦しみ始めた。

「どうしたの?大丈夫?お腹が痛いの?」

「だ、頼む。救急車を呼んでくれ。早く」

これは一大事だと、私はすぐに119番通報した。

救急車が到着し、痛みで唸る浩はストレッチャーで運び込まれた。私も一緒に救急車に同乗し、病院へ向かう。

診断の結果、浩は日頃の不摂生が祟り、糖質やアルコールの取り過ぎで腎機能が低下していたことが分かった。今回は腎臓が炎症を起こし、急激な痛みを引き起こしていたらしい。

「ひとまず入院してもらいます。薬の副作用で悪化する可能性もあるので、しばらく様子を見ましょう」

夫婦の関係は冷めきっていたとはいえ、夫の容体はさすがに心配だった。私は毎日、病院に様子を見に行くことにした。

――だが、この入院をきっかけに、私はあるおぞましい事実に気づいてしまう。

浩が倒れて数日が経った。仕事が思ったよりも早く終わったため、いつもよりかなり早い時間に病院へ着いた。病室の前に行くと、ドアが少しだけ開いていて、中からひそひそとした話し声が聞こえてくる。

この時間は検査はないはずだから、看護師が何か尋ねているのだろうか。何となく嫌な予感がして、私はドアの隙間から中を覗き込んだ。

――そこには、姉の雪江がいた。

それも信じられないことに、ベッドに座る浩の上にまたがり、キスをしていたのだ。浩も嫌がることなく、姉のキスに応じている。

「な、何をやってるの?」

病室に入り叫ぶと、姉は驚いた顔をして慌てて浩の上から飛びのいた。

「なあ、どうしたんだ美佳子。急に大声を出してびっくりしたじゃないか」

「白を切るつもり?さっきまであなたたちが何をしていたのか、私見たのよ」

「見たって何を?さっぱり分からないわ」

姉は最後まで知らばっくれるつもりだった。だが、私が「姉さんと浩がキスしているところを見た」と言うと、二人は途端に焦った顔をした。言い逃れはできないと悟ったのか、しばらくの沈黙の後、姉が口を開いた。

「ああ、バレちゃったか。覗き見なんて趣味が悪いわよ」

「二人は浮気してたってこと?姉さんにも家庭があるのに、何を考えてるのよ」

「今更気がついたの?本当に愚かね。そうよ。私と浩さんはそういう仲なの。ごめんね」

「浩、本当なの?」

「バレたら仕方ないか。お前には悪いが、初めて会った時から雪江さんに惹かれてたんだ。俺は実は年上が好みでさ」

二人は、こちらを伺うように笑っている。

「一体いつからそういう関係なの?」

「前に、たまたま美佳子がいない時に家を尋ねたことがあったのよ。それで話をしてたら、いい雰囲気になっちゃって」

姉は開き直った態度で、全く悪びれる様子がない。

「浩さんって本当に気が利く人よね。センスのいいプレゼントをくれたり、美味しいお店を知ってたり。あんたみたいな地味な女にはもったいないわ。私がもらってあげるから」

「もしかして、カードの請求が高かったのはそのせい?」

「ああ、まあそういうことだ。俺、ケチケチしたデートとかできないタイプなんだよ。悪いな」

一生懸命家計を助けようと働いてきた。だが、私の稼いだお金は、夫と姉に好き勝手に使われていたのだ。二人して私を騙していた。その事実に、怒りが込み上げてくる。

「そういえば、あなたたちなかなか子供ができないんですって。かわいそう。あなたのせいなんでしょう」

姉はそう言ってニヤニヤと笑った。

「ちょっと待って。そんなことを姉さんに言ったの?信じられない」

私たち夫婦のプライベートな事情を、浩は姉に話していたのだ。義両親だけでなく、姉に対しても私に不妊の原因があると吹聴しているらしい。

「言ったらダメだったか?ごめん、ごめん。でも本当のことだろ?お前のせいで子供ができないのは」

「もういい。信じられないわ、二人とも」

あまりの話の通じなさに、私は意思の疎通を諦めた。

「姉さんだって結婚してるじゃない。浩と浮気してどうするつもりなの?」

「心配しなくても離婚するつもりよ。だって浩さんの方がいい男なんだもん。今の旦那も悪くないんだけど、つまらないのよね」

呆れて物も言えない。妹の旦那に乗り換えたというわけか。

「人聞きの悪いこと言わないでよ。浩さんがあんたより先に出会ってたら、絶対私を選んだわ」

「ま、そういうことだ。実はそろそろ言い出そうと思ってたんだが、いいきっかけになったよ。ほら」

そう言って浩は、私にある物を投げつけてきた。それは、すでに記入済みの離婚届だった。

「それ書いて出しておいてね。もう入院中は一切連絡してくるなよ。俺とお前は他人になるんだからな」

「ええ、分かったわ」

私は床に落ちた離婚届を拾い上げ、それ以上何も言わずに病室を後にした。

病院を後にしたその足で、私は役所に向かい、離婚届を提出した。決して楽しい結婚生活ではなかったが、それでも最初は好きで生活を共にしていたはずだった。その幕が、こんなにもあっけなく終わろうとは。モヤモヤした思いを抱えながら、私は一人、誰もいない自宅へと帰った。

それから三日後、私のスマホに浩から何度も着信が入っていた。入院中に連絡をするなと言っていたのに、どうしたのだろうか。どうせロクなことではないだろうと、私は無視を決め込むことにした。

すると今度は、浩が入院している病院から電話がかかってきた。離婚するとはいえ、病院側からすればまだ私は配偶者だ。何か浩の身にあったのだろう。渋々電話に出ると、相手は病院の看護師で、浩の容態があまり良くないという連絡だった。

治療に使用していた薬の副作用が重く、数日後に手術をするらしい。その際輸血する必要があるのだが、浩は一つ問題を抱えていた。実は浩の血液型は特殊なものだった。一般に手に入りにくく、血液バンクにもストックが少ない。事前に予定していた手術ならともかく、緊急手術となれば輸血用の血液が足りないのだろう。

現状、浩に今すぐ輸血できる人間は、現時点では一人だけだった。――それが、私だった。

実は、浩の入院の際に医師に呼ばれた私は、血液検査を行うように言われていた。浩の血液と適合するかの検査で、なんと偶然にも一致することが判明していたのだ。医師は「これはすごく幸運なことですよ」と喜んでいたが、私がその事実を告げる前に、浩と姉のよからぬ関係を知ってしまい、結局浩には言いそびれてしまった。

輸血できる適合者を今から探すなんて、到底不可能だろう。だから今、私に連絡が来たのだ。

「提供者は奥さんしかいない」

病院からの説明を受けて、浩はようやく自分の過ちに気づいたのだろう。電話は何度も鳴り響き、留守番電話のメッセージが溜まっていく。浩は必死で、私に輸血するよう呼びかけていた。

だが私は、浩から「一切連絡するな」と言われている。病院からは今すぐ来てくださいと言われたが、適当な理由をつけて拒否した。

浩からだろう着信は未だに続いている。加えて、姉からの電話も入るようになった。留守番電話には、二人の罵声が録音されていた。

「おい、なんで電話に出ないんだ?早く病院に来い!」

「何してるのよ。あんたの旦那でしょ。手遅れになってもいいの?」

留守番電話を聞いても、私は病院に行く気などなかった。あれだけこけにされた人間を助けるほど、私は優しくない。もう夫への愛情は、私の心に一片たりとも残っていなかった。

「俺がどうなってもいいのかよ。妻のくせに何を考えてるんだ」

浩は都合よく私を「妻」と呼ぶが、そもそも離婚届を突きつけてきたのは浩の方だ。すでに提出も済ませ、今や他人でしかない私に輸血をしろと迫るのは、筋違いだろう。

「頼むよ。助けてくれ。このままだと俺は……」

留守番電話のメッセージは、どんどん弱気なものになっていく。見下して馬鹿にしていた妻が、まさか自分の命を左右するとは夢にも思わなかったのだろう。泣きながら助けてくれと懇願する声でさえ、私の心は動かなかった。それほど、姉と浮気をした浩の裏切りが許せなかったからだ。どうなっても、私の知ったことではなかった。

今度は田舎の義両親も電話に加わった。最初はこれも無視していたが、義母の聞き捨てならないセリフに、私はついに電話を取った。

「夫を助けるのは嫁の義務です。血液バンクに嫁をもらったのに、恩を仇で返すとは。ろくな収入もないパート従業員のくせに、大黒柱を失ってもいいのか」

「お言葉を返すようですが、あなたたちは何か勘違いをしていませんか?浩が大黒柱ですって?何も知らないからって、よくそんなこと言えましたね」

浩が大黒柱と言われて、私は黙っていられなかった。なぜなら、浩の給料は今や全額を好きに使える小遣いとして与えていて、生活費などの毎月の必要経費は、全て私が支払っていたからだ。

「嘘おっしゃい。そんなわけがあるはずない」

「嘘だと言うなら、毎月のクレジットカードの請求明細を見せましょうか。きっとお二人は驚くと思いますよ」

「高がパートが偉そうに。お前が支払っているなど、見え透いた嘘を言うな」

「お父さんたちには知らせていませんでしたが、私は今は正社員として働いています。そうしなければ毎月の赤字を補填できなかったので。全部、私の負担ですよ」

「正社員、あんたが?」

義両親は結婚当初から私のことを見下していたので、私の収入が家計の中心だったということを信じようとはしなかった。だが、どれだけ信じまいと、これが真実だ。私がパートから死に物狂いで働いて正社員に登用されなければ、我が家は借金に陥っていただろう。

「ちなみに、浩が仕送りって言って送金してましたけど、あれも全部私の稼いだお金ですからね」

浩は見栄を張って義両親に仕送りをしていたが、自分の収入から出していたのは最初だけ。カードの請求が膨らむようになると、私が負担するようになっていた。

義両親は私の話が信じられないのか、それとも自分の息子が甲斐性なしだと知ってショックを受けたのか、それきり黙ってしまった。それ以上話すこともないので、私は電話を切った。

電話がアチコチからひっきりなしにかかってくるので、スマホの電源を切った。誰も彼もが好き勝手なことを言って、私の都合などお構いなしなのが腹立たしかった。

これから考えることはたくさんあるが、今はとりあえず休息を取りたい。自宅は何だか休まらないので、私は実家に向かうことにした。幸い、自宅から実家は車で30分ほどの近さだ。

家の前に到着すると、中から話し声が聞こえてきた。それは私の父と、姉の雪江の声だった。

「お父さん、美佳子を説得してよ。このままだと浩さんが大変なのよ」

父は、なぜ配偶者でもないお前がそんなことを言うのかと困惑していた。

「残念だけど、私は輸血するつもりはないわ」

二人の前に姿を表すと、姉はすぐさま食ってかかってきた。

「あんた何してるのよ。早く病院に行きなさいよ」

「一体何が何だか話が分からない。ちゃんと説明をしなさい」

私は父に、浩の手術のこと、そして姉との浮気のことを洗いざらい話した。

「ちょっと、そこまで言うことないじゃない!」

姉はまさか私が現れて全てをばらされると思っていなかったのか、ヒステリックに叫んだ。

「どういうことだ?お前は夫が生きているのに、妹の夫に手を出したのか?」

父は姉が浩と関係を持っていたことを知って、大激怒した。姉の夫は父の会社の重要取引先の管理職だった。姉は見栄を張って進んで結婚したが、その裏では浩と浮気していたのだ。姉は「簡単に離婚する」と言っていたが、浮気の事実が明るみに出れば、父の会社は大打撃を受けるだろう。

「俺の顔に泥を塗る気か。離婚なんて許さないからな」

「私が誰と結婚しようと勝手でしょう。私は真実の愛を見つけたのよ」

姉は相当、浩のことに浮かれているようだった。

「そこまで言うならもう知らん。お前の好きにしなさい。だが、踏み込み際は間違えるな。俺はお前を勘当する」

父はピシャリと姉に言い放った。だが姉は、自分の主張が認めてもらえたと嬉しそうにしていた。

「言われなくても、もう来ないわよ。私は浩さんと幸せな家庭を築くんだから。じゃあね」

捨て台詞を残して、姉は去っていった。

その後、運良く他の血液提供者が見つかり、手術は無事に終わって、浩は職場に復帰した。その提供者とは浩の叔父だったのだが、この人はかなり面倒な人間だったのが、浩の運の尽きだった。

「誰のおかげで助かった命だ」

叔父は浩の会社の上司で、命の恩人と恩着せがましく、浩に難しい仕事ばかりを振るようになったらしい。初めは仕方なく従っていた浩も、あまりの無茶な要求に耐えられなくなったのか、ついに退職を申し出た。

退職後、浩はすぐに姉の雪江のもとへ転がり込んだらしいが、浩の退職をきっかけに、二人の新婚生活は決して幸せなものにはならなかった。

「会社をやめたって、生活はどうするのよ」

「仕方ないだろ。あのままあの会社にいたら、俺はずっとこき使われてたんだぞ。すぐに他の仕事が見つかるから大丈夫だって」

だが浩の見込みは外れ、最終的には貯金も底を突いてしまう。それは実は、父と、そして姉の元夫の根回しがあったからだ。面接どころか、書類選考の時点で落とされてしまう。さすがの浩も焦っただろう。業種を選ばず手当たり次第に応募するものの、それでもどこにも受かることはなかった。

すっかり意欲を失った浩は、次第に家に引きこもるようになる。初めは夜の仕事を始めた姉がそんな浩を支えていたが、一向に働く様子のない浩とは、言い争いが絶えないらしい。

「ちょっと、あんた一体いつになったら働くのよ」

「仕方ないだろ。どこも雇ってくれないんだから」

「こんなはずじゃなかったわ。これなら離婚しない方が良かった」

浮気などせず、元夫と結婚していた方が楽な暮らしができただろう。一時の感情で安定した生活を棒に振ってしまったことにようやく気がついたのだろうが、もう手遅れだった。「真実の愛を見つけた」と父に啖呵を切った姉だが、今や二人の関係は冷えきっていた。あれほど情熱的だった浩と姉の恋愛は、大喧嘩の末、あっさりと破局してしまう。結婚してからわずか数ヶ月のことだったという。

浩と破局し、行き場がなくなった姉は、父親に泣きつくが門前払いされてしまった。

「うちに娘は一人しかいない。さっさと立ち去れ」

「助けてよ。お父さん、お願い」

姉は泣きじゃくりながら家の前で土下座をして許しを乞うが、父は妹である私の家庭を壊し、勝手に離婚した姉を決して許さなかった。姉は父に取りつく島もないと見て、すごすごと退散せざるを得なかった。

その後、姉はロクでもない男と付き合っては別れるというのを繰り返していたらしい。そんな中、ある時、お金持ちの男性と結婚することになったと、浮かれた電話をかけてきた。

「あんたのせいで人生めちゃくちゃになったけど、これでようやく勝ち組になれるわ。どう?羨ましいでしょう?」

この人は反省などしないのか。呆れたものだ。だが、しばらくして、実は姉の再婚相手は結婚詐欺師だったことが判明した。姉は水商売の仕事で得た収入のほとんどを相手に貢いでいたらしいが、いざ結婚の話が出たところで姿を消したらしい。貯金も全て奪われ、本当に一文無しになってしまったとのことだ。信じていた相手に裏切られる辛さを、これで身に沁みて知ることができただろう。

一方、浩の方は義両親に助けを求め、義実家に身を寄せた。だが、息子が帰ってきたことで、年金暮らしの義両親の暮らしは圧迫されてしまう。

「いつになったら出ていくのか」

と嘆息しているらしい。浩は唯一採用された日雇いの掃除のバイトを始めたようだ。だが収入は以前からかなり激減した上、元々浪費癖の激しい浩には節約する意識が薄い。貯金どころか借金をするようになり、今は毎月の利息を義両親の年金から返済しているらしい。生活は立ち行かなくなり、とうとう義実家を手放すまでになったようだ。

「お前のせいで家を売るはめになったんだぞ。このバカ息子が」

「ごめんって。これからは心を入れ替えて頑張るからさ」

そして義両親と浩は、ボロボロの狭い公営住宅に引っ越すこととなった。義両親はあれほど後継を切望していたが、孫の顔を見る日はおそらく来ないだろう。すがりつくようにして生きている浩が、今後誰かと結婚する確率は著しく低いからだ。

私はと言うと、浩との離婚でもう恋愛はこりごりだと、独り身を貫く覚悟だった。しかし、独身になった私は新たに登山の趣味を始め、社会人の登山サークルで知り合った男性と意気投合し、再婚することになった。しばらく男性不信のようになっていた私だが、彼はそんな私を優しく見守り、「心の傷が癒えるまで寄り添う」と言ってくれたのだ。

そして結婚してすぐ、なんと私は赤ちゃんを授かった。以前は何年もできなかったのに、どうしてだろう。もしかしたら、不妊の原因は浩の方だったのかもしれない。

その後、念願の第一子を出産した私が、夫と子供と三人で町を歩いていると、道の向こう側にかつての義両親と浩の姿を目撃した。薄汚れた服を着た三人は、私の存在には気づかず、猫背で暗い表情のまま、のろのそと歩いてどこかへ消えていった。その姿は、どう見ても幸せそうではなかった。

あのまま浩との生活が続いていたら、どうなっていただろうか。そう考えると、ぞっとする。むしろ、姉の浮気のおかげであのロクでもない人たちと縁を切ることができたのかもしれない。

「どうかした?ぼーっとして」

義両親と浩が消えた方向を見つめていた私に、夫が聞いた。

「うん。なんでもない。じゃあ、行こうか」

一度は夫に裏切られてしまった私だが、彼とならばきっと幸せな家庭を築けるだろう。私は腕の中にいる小さな命をギュッと抱きしめると、夫と一緒に再び歩き出した。

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