妻に背中を押され、俺は宿のロビーへと駆け出した。
「医者です。」
その一言で、ざわついていた空気が一瞬にして静まった。倒れていたのは中年の男性で、意識はあった。苦しそうな表情を浮かべながらも、俺の問いかけにしっかりと答えられる状態だった。
「薬は飲んだんですがね…」
「これまでにこういう発作は?」
「いえ、初めてです。」
脈を測り、呼吸を確認する。手元に医療器具はない。できるのは、救急車が到着するまで患者の状態を見守ることだけだった。
この数ヶ月、俺は医者である自分が嫌になっていた。
俺の名前は二中敬一。地方の小さな町で生まれ育ち、医者を目指して勉強に打ち込んできた。医学部に現役合格し、研修医を経て、地元に戻ってクリニックを開業した。幼い頃から可愛がってくれた片山さんが突然亡くなった時から、人の命について考えるようになった。人の死を身近に感じ、どうしたら人は生きていられるのか、その疑問が俺を医者の道へと駆り立てた。
クリニックは地域の人々に支えられ、順調に患者が増えていった。だが、その一方で、高齢の患者が自然と亡くなっていくのを目の当たりにする機会も多くなった。
「あなたはちゃんと患者さんの希望を聞いた。最後まで願いを叶えたんでしょ?」
妻のまゆがそう慰めてくれても、俺の心は晴れなかった。
「大きな病院に紹介すれば、もう少し生き延びてもらえたかもしれない…」
患者が延命治療を望んでいなくても、医者としてもっと強く勧めるべきだったのではないか。自分に説得力がないから、患者が諦めてしまうのではないか。そう考えるようになると、自分が医者であることが怖くなった。
いつしか俺は自分の調子が分からなくなった。身体が悪いわけではない。ただ、心が前を向かなくなったのだ。診療を休む日が増え、ついに俺はクリニックを畳む決意をした。
「まゆ、俺はもう医者から離れようと思う。」
「分かった。厳しいことを言うけど、患者さんを困らせないようにしてね。」
俺はクリニックを大学の後輩に譲り、仕事から離れた。あとはひたすら休むだけの日々。人と会うことも避け、まゆと二人で何をするでもなく時間を過ごした。
「どこか行ってみる?」
まゆがそう言って、俺を外に連れ出そうとした。温泉に入りたいと思い、人里離れた山の中の温泉宿に行くことにした。2泊3日の、のんびりとした旅行だ。
宿は案内通りの静かで、適度に古びた心地よい場所だった。食事も良く、温泉の質もいい。俺はまゆと何をするでもなく、ただ宿での時間を楽しんだ。これからのことを考えないようにしながら。
そんな穏やかな時間が終わりに近づいた夜、宿の館内放送が響いた。
「お客様の中に、応急手当てができる方はいらっしゃいませんか。」
俺は立ち上がろうとして、止まった。人を見ることが怖い。医者として診て、また何もできなかったらどうしよう。そんな恐怖が体を支配した。
「行きなさい。もし他に誰もいなかったら、倒れている人はどうなるの?」
まゆの言葉に背中を押され、俺は前に出た。
「医者です。」
そう名乗り出ると、宿の従業員に案内された。倒れていたのは中年の男性で、持病の不整脈があると言い、薬も持っていると見せてくれた。薬は飲んだとのことだったが、苦しそうな様子は変わらない。
救急車を待つ間、俺は男性の状態を観察し続けた。言葉をかけ、脈を確認し、呼吸を見る。できることは限られていたが、男は意識を保ったまま救急車に運ばれた。
「私は小泉竹と言います。必ずお礼をさせてください。」
そう言って、男性は俺に握手を求めてきた。俺は「いいえ、今は安静に」と答えるのが精一杯だった。
小泉さんは市街地の総合病院に運ばれ、経過観察のため入院した。俺とまゆは宿を出た足で、小泉さんを見舞った。
「先生がいてくださったおかげで助かりました。」
「いや、私は何もしていません。」
「そんなことはない。声をかけてもらえるのが心強かった。」
小泉さんはすっかり回復していた。倒れた原因は過労だったらしい。
「忙しいのはありがたいんですが、体調管理も大事ですね。市民に選んでもらって市長になったんですが、やはり難しいものです。」
その言葉に、俺とまゆは思わず顔を見合わせた。小泉さんは、この温泉宿と病院がある町の市長だったのだ。
「市長さんでいらっしゃるとは。申し訳ありません、存じ上げませんでした。」
「ああ、いいや。別の町にお住まいなら無理もないことです。」
小泉さんは腰が低く、振る舞いがうまい。なんとなく政治家らしい人だと思った。
「よろしければ、私が退院した後にお礼をさせていただきたい。」
「そんな、お気遣いは無用です。」
「いや、そうはいきません。私の気が済まない。退院の目途が立ったら、日時と場所を知らせます。」
そう言われて、俺はまゆと病室を出た。政治家の小泉さんに、言葉巧みに丸め込まれてしまった。
1週間後、俺はまゆと再び温泉宿の町を訪れた。小泉さん指定の市内のレストランで、お礼の食事会が設けられた。
「本当にありがとうございました。おかげでまた好きなものが食べられる。」
「できれば暴飲暴食は避けていただきたいですね。」
「それはもちろんです。」
食事は和やかに進んだ。しかし、途中小泉さんは表情を引き締め、俺に頭を下げた。
「先生、一つお許しいただきたい。」
「何でしょうか?」
「この世の中です。申し訳ないが、先生について調べさせていただきました。私の出来心というか、好奇心というか…」
小泉さんは俺について調べていた。以前はクリニックを開業していたこと、病院勤務の傍ら、過疎地の医療支援活動に従事していたこと。それから、クリニックを後輩に譲ったことも。
「個人医院は後輩に譲渡されたそうですね。」
「ええ、まあ、私の力不足もありまして…」
小泉さんは俺がクリニックを離れた理由も知っているようだった。何か責められるのではないか。全身から血の気が引く感覚がした。
すると小泉さんは、また頭を下げた。そして、俺に思わぬ提案を持ちかけた。
「よろしければ、もう一度医師として現場に立っていただけませんか?」
「え?」
「今、この町で私立病院の建て替えが進んでいます。市長時代からの悲願でしたが、地域の基幹病院に生まれ変わろうとしています。市内には中規模の総合病院がいくつかありますが、高度医療やがん治療を十分に提供できる環境はありません。スタッフも足りていない。先生でしたらお分かりでしょうが、医療機関のスタッフは的確でなくてはいけません。」
「その通りですね。」
「ご事情は理解しております。このような形でお願いをして、簡単に成立する交渉ではないことは承知しています。ですが、先生に助けていただいた縁を信じたい。もしよろしければ、この話をご検討いただけますでしょうか?」
答えなど、出せるわけもなかった。食事会は、そのまま終わった。
帰宅してからも、俺は心ここにあらずだった。また将来について悩みながら、自分が何者なのか問い続ける。
「あなたにしか決められない。」
まゆは、そう言って俺を急かさなかった。
「でも、クリニックを離れた後も、もう諦めるべきじゃないと思ってた。」
「そうか…」
「でも、あなた次第だから。」
迷いながらも、答えらしきものが見えたのは、食事会から2週間が経った頃だった。
「まゆ、迷いながら医者を続けてもいいと思うか?」
俺は、そう尋ねていた。医者に復帰した自分が、これからは迷いながら、時に苦しみながら患者と向き合ってもいいのかどうか。
かつての自分は、医者である以上、気持ちが揺れ動いてはならないと思っていた。開業して苦しむうちに、何も分からなくなってしまった。自分の気持ちと決意が揺らぐことに、狂わされそうだった。
「今は思ってる。人間だったら誰でも悩むんだって。医者だから関係ない。悩んでも、そんな自分と向き合えばいいんだって。」
立ち直れたのかどうか、そこはあやふやだった。それでも、自分の思いに潰されずにいられそうな、そんな感覚を掴んでいた。
「それよ。きっとそれでいいの。完璧じゃなくて、何かが足りなくても。世の中にはね、どうしても仕方ないことがあるんだよ。それを見届けて、また次に進むの。」
まゆは、そっと俺の復職を後押ししてくれた。小泉さんへの返事をする前、俺はまゆに黙って力強く頷いて見せた。
市営病院の会見は、俺の復帰初日になった。セレモニーを前に、小泉さんは俺に握手を求めてきた。
「お願いします。」
そう言われて手を握りしめられ、俺は小さく「はい」と返事をした。
医師として人を助ける。命を救う。それだけが、俺の頭の中にあった。
病院には多くの患者が訪れる。俺の復帰を聞きつけて、かつての患者も足を運んでくれた。誰もが皆、以前と同じように俺との再開を喜んでくれた。
ふと、人の死が頭をよぎってしまうこともある。だが、今は不安を打ち消し、目の前の患者と目を合わせる。その時、その時を大事に、時間を重ねていく。
もう一度、医師として。信念と決意を忘れずに、これからの人生を歩んでいこうと思っている。


