父の一周忌の最中、留守番電話に残されたメッセージを聞いて、俺は怒りで全身が震えた。
「無理だってごねるなら契約中止にするからな。」
電話の主は取引先の部長で、俺の昔馴染みでもある男だった。今日が父の一周忌だということは、当然知っているはずだ。それなのに、着信履歴は数十件。その挙げ句の果てがこれだ。
俺はもう我慢の限界だった。この一件で、ようやく一つの決心が固まった。
俺の名は広瀬。四十六歳だ。去年、父の会社を継いだばかりだった。父は病気で亡くなった。覚悟はしていたつもりだった。だが、いざその時が来ると、覚悟なんて何の役にも立たなかった。
うちの会社は、小さな町の町工場から始まった製造会社だ。今では精密部品を扱う会社にまで成長した。規模はまだ中堅だが、優秀な職人たちがいて、品質には自信がある。
「もうすぐ一周忌か。」
事務所で書類を眺めながら、ぽつりと呟いた。社長を継いでから、目まぐるしい日々を過ごしてきた。悲しみに浸る暇なんてないと自分に言い聞かせてきたけど、ふと父を思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
「社長、すみません。」
顔を上げると、若い社員が困った顔で立っていた。
「どうした?」
「木部長がお見えになっています。」
その名前を聞いて、俺は内心「またか」と呟いた。
「わかった。ありがとう。応接室にお通ししておいてくれ。」
社員はほっとしたように頷いて去っていった。
木部長。うちの取引先の部長だ。取引先は機械製品の製造メーカーで、うちが納品した部品を使っている。昔から付き合いのある会社だ。そして、木はその社長の息子で、中学高校の同級生でもある。だから俺に一方的に馴染みを感じていて、いい年をした大人の今も、何かと厄介な相手だった。
応接室に向かうと、挨拶もなしに言われた。
「よお、広瀬。相変わらず生臭い顔してるな。」
出された茶菓子をぼりぼりと食べる姿に、早くも脱力してしまう。
「木部長、本日はどのようなご要件で?」
俺は努めて丁寧に、ビジネスの立場を守って言葉を選ぶ。そんな俺がおかしいのか、木はけらけらと笑った。
「おいおい、他人行儀だな。俺たちの中で堅苦しいのはなしだろ。」
「申し訳ございませんが、この後予定が詰まっておりまして。」
こうでも言わないと、先に進めない。
俺が言うと、木は「仕方ねえな」と本題に入った。
「単刀直入に言うけど、今後の納品額を安くしてくれ。いや、半額にしてくれ。」
「は?」
想像の斜め上を行く言葉に、思わず聞き返してしまった。俺の困惑をよそに、木は軽く笑い飛ばした。
「うちも厳しくてさ、分かるだろ? とにかく、お前のとこの特許ボルトの分だけでもいいからさ。」
特許ボルト。その言葉に俺は反応した。このボルトは、うちの特許部品だ。需要が高く、独自の機密技法が用いられている。機械内部にほこりや水分が入るのを防ぐ、精密機械の品質に大きく影響する重要部品だ。父と俺で長期間かけて開発した、思い入れのある品でもあった。試作を何度も繰り返し、材料費を注ぎ込み、何年もかけて開発してきたのだ。
その部品を、コーヒーでも頼むような気軽さで半額にしろと言える神経が、俺にはまったく理解できなかった。怒りというより、呆れと悲しさが胸の底に重く沈んでいくのを感じた。父の執念がこもった品を、こいつは帳簿の数字としか見ていないのだ。
「申し訳ありませんが、品質を守るためのコストです。それに、厳しいのはどこも同じでしょう。」
自然とそう答えていた。木は一瞬、笑みを潜めたが、すぐにいつもの調子に戻る。
「そんなこと言わずに頼むよ。またそっちに行くから、直接話そう。そうだ。来週の木曜日はどうだ?」
「その日は父の一周忌ですので、有給を頂いております。」
俺が感情を入れずに伝えると、木は鼻で笑った。
「お前はいいよな。運良く父親が早く死んで。ああ、俺も早く社長になりたいよ。」
この瞬間、思わず拳に力が入った。木は、父が亡くなった俺に対して「羨ましい」と言っているのだ。俺には一切理解できない。そんなことを平然と言える木を、この時心から軽蔑した。
怒りと深い嫌悪で頭に血が登るのを感じながら、俺は努めて冷静に告げる。
「とにかく、半額も来週の木曜日も無理ですので。では、これで失礼します。」
「え、おい、ちょっと待てよ。」
木が驚いたように呼び止めたが、俺はそのまま退出した。
一周忌当日、予定通り俺は有給を取っていた。親族のみの参加ではあったが、それでも場を仕切ったりする必要があり、忙しかった。一息ついた時に、社員たちから何か連絡が来ていないかとスマホを確認した。
俺は思わず、スマホの表示を何度も確認してしまった。着信履歴が三十件を超えていたのだ。マナーモードだったので、まったく気がつかなかった。
何かトラブルかと発信者を確認すると、すぐに脱力した。ほぼ全て、木の名前で埋まっていたからだ。
父の家の前で手を合わせながら、今日だけは仕事を忘れようと思っていた。なのに。
俺は内心悪態をつきつつ、留守番電話も一応確認する。内容は案の定、先日電話で話した内容の繰り返しだった。半額にしろとしつこく言ってくる。「いつでも構わないから、そっちに行っていいか」とも言っている。今日が父の一周忌だって知っているくせに。
不快感でうんざりした俺は、ため息混じりにスマホをしまった。無視だ。無視。心の中でそう吐き捨てて、そのまま親族たちの元へ戻ることにした。
一周忌が無事に終了して、俺は一度会社に戻った。一日問題なく業務が完了したのを確認し、改めてメールを再確認する。夕方以降も、木から着信やメールが届いていた。本当にしつこい男だな。
俺が呆れていると、あるメールに目が止まった。件名に「契約解除通知」と書かれていたからだ。しかも、差出人は木である。
嫌な感情が急激に膨らむ。恐る恐るメールを開くと、ビジネスに相応しくない口調でこう書かれていた。
「何度も言うけど、予算がないから半額で頼むわ。これ以上無理だってごねるなら契約中止にするからな。頼むぞ。」
慇懃無礼な文章を目の当たりにして、自分の中で何かが切れたのが分かった。
大切な一周忌の最中にしつこく連絡してきたのも非常識だと思ったが、ここまでとは。父を思えば、今まで大事にしてきた取引を大切にすべきだろう。だが、こんなにも身勝手な相手を大切にする価値が、果たしてあるだろうか。考えたくないことだが、仮に将来本当に木が取引先を継いだとしたら、うちはずっとこんな暴挙を許していくのか。
そこまで考えが至った瞬間、俺の中で血の気が引く。今までも想像したことがないわけではないが、今度こそ、本当にうんざりだった。
俺はすぐにスマホを取り出し、電話をかけた。
「おっす。広瀬。ひどいじゃん。ずっと俺を無視してさ。一周忌って言っても、メールくらい返せたろ。」
電話の向こうで、木がへらへら笑いながら言う。その姿が容易に想像できて、ますます不快感が増す。
「着信履歴もメールも見ました。契約解除通知って、どういうことですか? そもそも今日は父の一周忌で対応できないと伝えてありましたよね。」
自然と語気が強くなる。滲み出る怒りを感じ取ったのだろう、木は「そう怒んなよ」とこちらをなだめてくる。
「こっちだって切羽詰まってんだよ。本当に困るんだよな。なのに無理って突っぱねるんだもんな。冷てえよ。だったら強行手段に出ないとって思ってさ。」
「それで契約解除となるんですか? 私には全く理解できません。」
ここまで心底不快になるのは人生で初めてかもしれない。俺は思わず額を押さえた。そうしているうちに、木が言葉を続けていく。
「それで焦って電話をかけてきたところを見ると、こっちの要望を聞いてくれるってことだよな。まあそうだよな。昔ながらのお得意様を失っちゃ、ねえ?」
べらべらと喋り続ける木の声を聞き流しながら、俺は大きく息を吸う。電話の向こうで、さぞにやにやと笑っているのだろう。馬鹿にしているにも程がある。俺は心の中で吐き捨てた。
木からすれば、メールは脅しのつもりだったのだろう。自分たちに有利になるように。本気だとしても構わない。
俺は吸った息をゆっくりと吐いた。俺は何のために電話をした? 木の言う通りにするためじゃない。自分の意思を貫くために電話をかけたのだ。
「喜んで、契約中止とさせていただきます。こちらは契約に沿った内容で、今まで完璧に納品してまいりました。私どもに一切落ち度はありませんので。」
大きな声で、はっきりと告げた。一瞬、電話の向こうが静かになる。
「はあ? お前、何言ってんの?」
「そうそう。契約中止となるからには、当然弊社の特許ボルトも一切使えなくなりますが、それもご承知ですね。」
俺が事実として突きつけると、電話の向こうから慌てた声が聞こえてくる。
「それは、まさかお前が契約中止なんか了とするわけないと思って。」
「そんなわけないじゃないですか。」
俺は自然と笑っていた。おかしくて笑ったというより、清々しさから来る笑いだった。
「父の後を継いで以来、ずっと考えてはいたんですよ。あなたが後を継ぐかもしれない会社と、どう付き合っていくべきか。でも今日、ようやく答えが出ました。」
そういう意味では、ある意味木に感謝してもいいかもしれない。自分から、こちらに有利な状況で契約を終わらせてくれたのだから。
「ちょ、待て、待て。広瀬。俺たち親友だろ? 冗談なんだよな? ちょっと俺を困らせようってことだろ? 悪かったよ。親父さんの一周忌にする話じゃなかったよな。」
木は色々と言っていたが、もう知ったことではない。
「では、そういうことですので。長い間お世話になりました。」
俺は木の発言を無視して電話を切った。
その後、俺は速攻で行動した。契約終了の手続きはもちろん、特許ボルトの使用中止を正式に通知する書面も取引先へ送付したのだ。
それを受けて取引先からの問い合わせや連絡が来たが、俺は木が送ってきたメールや一周忌の着信履歴などを証拠に説明した。木からも俺に連絡しているらしいと、謝罪の連絡をしてきた人間から聞いた。俺は最後に電話をして以来、木を完全にブロックしていたため、全て弾かれていたようだ。
「とにかく、契約解除という言葉を用いて連絡してきたのは木部長さんの方です。これ以上信頼関係を結ぶことは困難と判断したまでですので。」
俺は真摯に、しかし姿勢を崩さなかった。
木と最後に通話してから一週間以上経ったある日、俺は外出の予定があり、会社の駐車場を歩いていた。昨日まで雨が降っていた影響で、地面がぬかるんでいる。足元に気をつけながら歩いていると、背後から声がした。
「広瀬。」
声の方向に視線を向けると、木が駆け寄ってくるところだった。
「広瀬、話を聞いてくれ。」
息を切らせて俺の腕を掴む木の後ろから、もう一人誰かがやってくる。
「広瀬社長。この度は息子が大変なご無礼を。一周忌の最中に、本当に人として許されない行いでした。」
そう言って顔を見せたのは、木の父親であり取引先の社長だった。社長は深く頭を下げる。駐車場は大通りに面している場所のため、近くを通りかかった人々が何事かと足を止めてこちらを見ていた。
「何のご用でしょうか?」
俺が短く問いかけると、社長は木の頭を無理やり下げさせた。一瞬、木は不服そうに顔をしかめたが、大人しくされるがままになっている。
「今日は、直接謝罪をと思いまして。」
今更だと思ったが、おそらくうちが契約終了に同意したことで、バタバタしていたのだろう。木はともかく、社長に関しては納得がいく。
「俺の軽い行動で、広瀬がここまで怒るとは思わなかったんだ。俺たちの中だからと思って。」
「中とはどんな中でしょう? 私とあなたは昔から顔を知っているだけです。それに、ビジネスに通用する言い訳だと思いですか?」
この際だからと、俺は前から思っていたことを告げる。木は昔から俺に馴れ馴れしく「親友」といった言葉を使いがちだが、本心で言っているわけではないということは分かっていた。誰に対しても都合よく言っているだけに過ぎない。それが自分でも分かっているのだろう、木は俺に対して言い返すことができなかった。
「木部長、あなたは以前から、私と昔馴染みであることを理由にして、何かと都合をつけてほしいと無理難題を言ってきましたよね。」
今回の件だけで言っているわけではない。その意味を込めて言った。
「そうなのか。」
社長が問い詰めると、木は嫌々ながら苦しげに頷いた。父親の社長も把握していなかったのか。これは呆れて息がつく。ある程度大きな会社になると、どうしても目の届かないところは出てくるだろうが、看過できることではない。
「息子だからと安易に任せにしていた、私の落ち度です。本当に申し訳ございませんでした。」
社長が再び頭を下げる。
「身勝手なことだと承知でお願いいたします。どうか、再契約をさせていただけませんでしょうか? お社の特許ボルトでなくては。」
社長は様々な条件を上げながら再契約を懇願する。こちらにとってはとても有利な話ではある。だが、俺はゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ありませんが、再契約はできません。」
俺の言葉に、社長は大きく目を見開く。しかし、すぐに観念したような表情で頷いた。
「わかりました。」
しかし、それに対して異議を唱えたのは木だった。
「謝ってるだろう。それなのに、なんで?」
木は焦っている。謝れば許すと思っていたなら、お気楽にも程がある。
「謝罪は受け入れます。ですが、それとこれは別問題です。仮に契約を再開したとしても、この先また同じようなことがあるかもしれないと思うと、どうしても御社を信頼できません。信頼できる相手かどうかは、ビジネスにおいて非常に重要なことでしょう。」
淡々と告げると、社長は重々しく頷いた。
「私どもは日頃の横柄さから、甘えきっていました。それは否めない事実です。受け入れます。本当に申し訳ございませんでした。お父様にも。」
木が狼狽えながら、俺と社長を交互に見る。やがて思い切ったように、木がその場に膝をついた。ひどくぬかるんだ地面だったため、スーツが泥水に浸る。
「お、頼む。」
木は顔を上げなかった。
「俺が、俺が全部悪いんだ。頼む。再契約をさせてください。」
未だに俺たちを見ていた野次馬から、どよめきがあった。
「申し訳ありません。そこまでしていただいても、気持ちは変わりません。」
俺は頭を下げ、あくまで誠実な姿勢を保って断る。木の表情が見る見るうちに怒りに染まった。
「ここまでしてるのに、親父にまで頭を下げさせて、何様のつもりだ! 今までうちのおかげでどれだけ助かったと思ってる!」
これが本音か。俺はため息をついた。息子の態度に慌てて、社長が「やめないか」と木を押さえようとしたが、木は感情的になっていて歯止めが効かない。
「あれで謝罪のつもりかね。」
「恥ずかしい男だ。」
ざわざわと、野次馬からそんな言葉が聞こえてくる。いくら何でも目立ちすぎているし、これ以上話しても時間の無駄だろう。俺は今日何度目かのため息をつく。
「私も予定がありますので、これにて失礼します。」
そう言って車に乗り込もうとして、俺は木を見た。
「そうそう。昔馴染みとして、一言最後に言わせてください。父親が早くに亡くなったことを羨むような奴は、人としてどうかしてるよ。」
俺の言葉に、木は一気に青ざめた。隣で社長が、ものすごい形相で木を見つめていた。
後日、木は長い間の仕事を解雇になったという。駐車場での一件は近隣にあっという間に広まり、地域に根ざした取引先の評判は大きく傷ついた。他の取引先との関係にも影響が出始めているらしいが、因果応報だろう。
俺の会社はと言うと、別の会社と取引を始めている。前からうちに興味を持ってくれていた会社で、御社と取引ができるようになるなんて本当に光栄ですよ、と嬉しい言葉をかけてもらった。
俺は線香を上げ、父の写真に手を合わせる。
「これからも、俺がしっかり守っていくよ。」
そう呟くと、線香の煙がふっと揺らめいた。



