その夜、修二は妻の玲子がまだ生きているとは思っていなかった。だからこそ、火をつけることができたのだ。
山間の小さな集落の外れに、古い苦塚があった。長い間誰も近づかず、冬になると雪と枯草に埋もれてしまうような場所だ。その夜、修二と母親の富子はその苦塚の前に立っていた。二人の足元には、古い布に包まれた女が一人横たわっている。修二の妻、秋山玲子だった。
「早くしなさい。」富子が低い声で言った。
「本当に死んでるんだよな。」
「何を今更言ってるの?あれだけ殴ったんだから、生きているわけがないでしょう。」
修二は答えなかった。玲子はその日の夕方、家の中で倒れた。富子と修二は玲子が死んだと思ったのだ。誰にも見つからない場所へ運び、火をつけてしまえば何もなかったことにできる。二人はそう考えていた。修二は枯草を集め、玲子の体の周りに置いた。富子は黙ったまま火を渡す。小さな炎が枯れ草へ移り、パチパチと乾いた音が響いた。炎は少しずつ大きくなり、布を包み、玲子の体へ近づいていった。修二は顔を背けた。
その時だった。
「お母さん。」
炎の向こうから女の声がした。修二の肩が震える。
「今、何か聞こえた?」
富子は答えない。炎が大きく揺れた。
「お母さん。」
今度ははっきり聞こえた。修二は炎を見つめた。玲子。返事はない。しかし、しばらくして炎の中からもう一度声が聞こえた。
「暑い。」
修二の顔から血の気が引いた。
「お母さん、玲子は…」
「黙りなさい。」
「でも、生きてるんじゃ…」
「黙って帰るのよ。」
富子は修二の腕を強く掴んだ。その瞬間、炎の中から一本の腕がゆっくりと持ち上がった。焼け焦げた手だった。五本の指が何かを探すように空中を描いている。修二が息を飲んだ。その手が二人の方へ伸びてくる。助けを求めるように。
「母さん、走るよ!」
二人は苦塚から逃げ出した。その後ろで炎だけが、音もなく燃え続けていた。
翌朝、富子は誰にも何も話さなかった。玲子は家を出て行った。夫婦喧嘩をしてどこかへ逃げた。それが富子と修二の作った話だった。ところが、その日の昼頃、富子は家の廊下に妙なものを見つけた。壁に黒い手形がついていたのだ。まるで焼け焦げた手をそのまま押し付けたような跡だった。富子は布で拭いた。落ちない。水をつけても、何度こすっても消えない。むしろ擦るほど黒い指の跡が濃くなっていった。
夜になり、修二が寝床へ入った後も富子はなかなか眠れなかった。家の中は静まり返っている。バーの灯りも消えていた。それなのに、夜中になるとどこからともなく焦げた髪のような匂いが漂ってきた。富子は目を開けた。暗い部屋の中に、誰かがいる気配がする。
「…誰?」
返事はない。富子は布団から出て廊下へ出た。すると、暗闇の奥から声がした。
「お母さん。」
富子の足が止まった。聞き間違いではない。玲子の声だった。
「お母さん。」
声は少しずつ近づいてくる。富子は振り返れなかった。やがて、耳元で女の声が囁いた。
「どうして、助けてくれなかったの?」
富子は悲鳴をあげ、振り返った。誰もいない。ただ、廊下の壁には昼間までなかった黒い手形が、もう一つ増えていた。最初の手形よりも明らかに小さい。そして、その小さな五本の指の下には、まるで子供が壁に触れたような、もう一つの黒い跡が残っていた。
翌朝、富子は昨夜のことを誰にも話さなかった。修二にも黒い手形のことは言わなかった。壁に残った二つの跡を布で覆い、その上から家具を置いて隠した。
一方、村では玲子がいなくなったという話が広がっていた。夫婦喧嘩の後、家を出たらしい。男ができたんじゃないか。若い女だからね。何を考えているかわからないよ。そんな噂ばかりだった。けれど、その話を聞いて納得できない男が一人いた。光一だ。玲子とは親戚同士で、子供の頃からよく知っていた。玲子が家族を捨てて突然いなくなるような人ではないことを、光一は知っていた。
数日後、光一は富子の家を尋ねた。
「玲子さんが出ていくところを、誰か見たんですか?」
富子は湯呑みを置きながら答えた。
「夜だったからね。私は見ていないよ。修二は寝ていたんじゃないかね。」
「じゃあ、誰も見ていないんですか?」
富子は黙った。光一は家の中を見回した。玲子の履物は玄関に残っている。冬用の着物も、普段使っていた箪笥もそのままだ。
「荷物が残ってますけど。」
「取りに戻るつもりだったのかもしれないでしょう。財布も…」
富子の手が止まった。光一はそれ以上追求しなかったが、帰る前に廊下へ目を向けた。そこには一枚の布がかけられていた。
「その布、何ですか?」
「なんでもないよ。」
「壁を隠しているんですか?」
富子の表情が変わった。「余計なことを詮索するんじゃないよ。」光一は黙って家を出た。
しかし、その日の夕方、もう一度その家へ戻ることにした。今度は誰もいない時間を選び、家の裏手から廊下を覗いた。障子の隙間から壁が見える。黒い手形。しかも、その数は一つではなかった。大人のものと思われる手形が一つ。その下に、少し小さな手形が一つ。そして、そのさらに下には指先だけの黒い跡が三つ並んでいた。光一は思わず息を止めた。誰かが煤をつけて押しただけなら、こんな形にはならない。それに手形の周りには焦げた跡がない。まるで壁の内側から手が押し出されているようだった。
その夜、光一は村の五郎を尋ねた。
「玲子さんが消えた夜のことを、何か知っていますか?」
五郎はしばらく黙っていた。
「あの夜、塚の近くを通った者がいる。」
「誰ですか?」
「名前は聞かなかった。ただな、妙な声を聞いたそうだ。」
「声?」
「女の声だ。」
五郎は行燈を見つめながら低い声で続けた。
「最初は風だと思ったらしい。だが、何度も聞こえたそうだ。」
「何と言っていたんですか?」
「よく聞き取れなかった。ただ…」
五郎はそこで言葉を止めた。そして、小さく息を吐いた。
「火が燃える音の中に、子供の鳴き声が混じっていたそうだ。」
光一の背中に冷たいものが走った。
「子供?」
「ああ。それからな、朝になって苦塚を見に行ったら、土の一部が黒く焼けていた。」
光一はそれ以上聞かず、外へ出た。日が落ちる前に苦塚へ行くことにしたのだ。山道を歩いていると、空気が急に冷たくなった。やがて木々の向こうに古い苦塚が見える。光一は立ち止まった。そこには誰かが踏み荒らしたような跡が残っていた。そして、黒く焦げた布切れが一枚、雪の上に落ちている。拾い上げると、まだ温かい。そんなはずがない。光一は布を裏返した。そこには小さな刺繍があった。玲子がいつも身につけていた着物と同じ柄だ。光一の指が震えた。
「玲子さん、ここに来たのか。」
その瞬間、背後から女の声がした。
「光一さん。」
光一はゆっくり振り返った。誰もいない。ただ、雪の上に足跡があった。塚の奥から光一のいる場所まで続いている。一歩、二歩、三歩。そして、その足跡は光一の目の前で突然消えていた。光一は息を殺した。すると、今度は背後ではなく、足元の土の中から三回だけ音がした。
コツ、コツ、コツ。
光一はその場から動けなかった。足元の土の中から聞こえた三回の音は、間違いなく誰かが叩いた音だった。風でも、木の根が動いた音でもない。硬いものを内側から叩くような、乾いた音だった。光一は息を止め、ゆっくりと周囲を見回した。誰もいない。それでも、さっきまで感じなかった熱が足元からじわじわと上がってくる。
「誰かいるのか?」
返事はない。光一は拾った布を握りしめ、後ずさった。その時、土の中からもう一度音がした。コツ。今度はすぐ目の前だ。光一は反射的に地面へ手を伸ばしかけた。しかし、指先が土に触れる寸前、耳元で女の声がした。
「まだ、帰れない。」
光一は飛びのいた。振り返っても誰もいない。ただ、苦塚の奥に立つ一本の木の枝から黒いものがぶら下がっていた。近づいてみると、それは焦げた髪の毛だった。
光一は布を持ってそのまま村へ戻った。家へ帰るとすぐに、玲子の父親である文吉を尋ねた。文吉は、娘が家を出て行ったという話を聞いても、最後まで信じていない様子だった。
「玲子は、そんなことをする娘じゃない。」
「僕もそう思っています。何かあったんだ。」
「あの子は、何かを怖がっていた。」
文吉は少し迷った後、声を落とした。
「玲子がいなくなる少し前、一度だけ家に来たんだ。その時、何度も腹を抑えていた。」
光一は黙った。
「それで、何か言っていましたか?」
「いや、何も言わなかった。ただ、もう少ししたら全部話すから、と言っていた。」
その言葉を聞いた瞬間、光一の中で何かが繋がりかけた。玲子は何かを隠していた。しかも、それは家族にも話せないほどのことだった。
翌日、光一は村で玲子と親しかった人たちに話を聞き始めた。その中で、一人だけ妙なことを言う女性がいた。村で長く助産師をしていた佐藤早苗だ。光一が玲子の名前を出した途端、早苗の表情が変わった。
「玲子さんのことは、もう聞かない方がいいよ。」
「どうしてですか?」
「知らない方が、あなたのためだよ。」
「でも、玲子さんはどこにもいない。僕は本当に村を出ていったのか、確かめたいんです。」
早苗はしばらく黙っていた。そして、小さく息を吐いた。
「玲子さんは、一度私のところへ来たんだよ。」
「いつですか?」
「いなくなる少し前。」
早苗は視線を落とした。
「玲子さんは、妊娠していた。」
光一は言葉を失った。
「妊娠?」
「まだ二ヶ月ほどだった。本人はとても喜んでいたよ。でも、同時にひどく怯えていた。」
「何を怖がっていたんですか?」
早苗は答えなかった。代わりに、ぽつりと言った。
「富子さんが玲子さんを家から追い出そうとしていたことは、知っているでしょう?」
「はい。」
「それだけじゃないんだよ。」
早苗の声が震えた。
「富子さんは、玲子さんに子供ができることを喜んでいなかった。」
光一は苦塚で見つけた焦げた布を思い出した。そして、壁に残っていた二つの手形。一つは大人のもの。もう一つは、小さな手。早苗が言いかけた時、家の外から何かが落ちる音がした。二人が同時に振り返る。向こうには誰もいない。ただ、雪の上に黒い足跡が一つだけ残っていた。早苗は顔を青くした。
「来たんだ。」
「誰が?」
早苗は答えなかった。その足跡を見つめたまま、震える声で言った。
「玲子さんは、一人じゃ死んでいない。」
光一の背中に冷たい汗が流れた。そして、その瞬間、家の外からかすかな赤ん坊の鳴き声が聞こえた。それはすぐに消えた。光一は戸を開けて外へ出たが、雪の上には誰の姿もない。ただ、さっきまでなかった小さな足跡が、家の前から道の方へ続いていた。早苗は門口に立ったまま、青ざめた顔でその足跡を見つめている。
「追わないで。」
「でも、今の声は…」
「追ってはいけないよ。」
早苗の声には、今までにない恐怖が混じっていた。
「玲子さんは、もう普通の死者じゃない。」
「どういう意味ですか?」
「私にもまだ分からない。ただ、あの子が死んだ場所には、まだ強い思いが残っている。」
光一は苦塚のことを思い出した。あの土の中から聞こえた三回の音、そして焼けた布。さらに玲子が妊娠していたという話。全てが一つの場所へ繋がっているように思えた。
その日の夜、村で一人の男が亡くなった。高橋光一という五十代の農夫だった。彼は玲子が生前道で転んだ時に手を貸したことがある人物だった。村では特に親しい関係ではなかったが、玲子のことを悪く言わなかった数少ない人の一人だった。
夜明け前、家族が異変に気づいた。寝室から焦げた匂いがする。火事だと思って戸を開けた。ところが、部屋の中には火の気がなかった。布団も畳も柱も、何ひとつ燃えていない。それなのに、光一だけが布団の上で真っ黒になって死んでいた。警察を呼ぶほどの大きな町ではない。村の者たちが集まり、何が起きたのか調べたが、誰にも原因が分からない。火を使った形跡はない。煙もない。窓も閉まったまま。ただ、光一の胸元には奇妙な跡が残っていた。五本の指。まるで焼けた手で胸を強く押さえられたような、黒い手形だった。
その話を聞いた光一はすぐに現場へ向かった。部屋へ入った瞬間、鼻を刺すような匂いがした。焦げた髪の匂いだ。光一は顔をしかめながら、遺体の胸元を見た。黒い手形。富子の家で見たものと同じだった。その時、後ろから誰かが言った。
「玲子さんの仕業じゃないか。」
別の男が低い声で答える。
「バカなことを言うな。死んだ人間が人を殺せるわけがない。」
光一は何も言わなかった。ただ、胸元の手形を見つめていた。指の大きさは、富子の家にあったものとほとんど同じだ。
その日の夕方、光一は再び早苗のところへ行った。
「光一さんが死にました。」
早苗は目を閉じた。
「そうかい。」
「玲子さんの手形と同じ跡がありました。」
早苗はしばらく黙っていた。
「玲子さんは、光一さんに助けてもらったことがあるんだよ。」
「知っています。だから、あの人まで死ぬ理由が分からない。」
「僕もです。」
早苗は行燈の中を見つめた。
「もしかしたら、玲子さんは誰かを選んでいるんじゃないのかもしれない。」
「どういうことですか?」
「強い恨みを持ったまま死んだ人は、自分が死んだことさえ分からなくなることがある。誰が味方で、誰が敵だったのかも。」
そこで早苗は言葉を止めた。
「ただ、一つだけ気になることがある。」
「何ですか?」
「玲子さんが死んだ夜、あの苦塚の近くで赤ん坊の鳴き声を聞いた人がいる。」
光一は息を飲んだ。その瞬間、部屋の中の行燈が突然青白く燃え上がった。早苗が立ち上がる。光一が行燈へ手を伸ばそうとした。その時だった。炎の中に、一瞬だけ女の顔が浮かんだ。長い髪、焼けた頬。そして、腕の中に何か小さなものを抱えている。光一は目を離せなかった。女の唇がゆっくり動いた。
「寒い。」
炎が消えた。部屋は真っ暗になった。早苗が震える声で言った。
「今、見えたね。」
光一は答えられなかった。けれど、炎が消えた行燈の灰の中には、小さな指で押したような五本の跡が残っていた。その跡を見つめたまま、光一はしばらく動けなかった。やがて早苗が小さな声で言った。
「光一さん、今夜はもう帰りなさい。」
「でも、玲子さんのことを教えてください。」
「これ以上知ったら、戻れなくなるかもしれないよ。」
「それでも、知りたいんです。」
早苗は黙っていた。そして、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「玲子さんのお腹には、子供がいたんだよ。」
光一は聞き間違いかと思った。
「本当に?」
「間違いない。私が見たんだから。」
早苗は膝の上で両手を握った。
「まだ二ヶ月くらいだった。玲子さんはとても嬉しそうだったよ。この子が生まれたら、家族もきっと変わってくれるって言っていた。」
「富子さんは、そのことを知っていたんですか?」
早苗は首を横に振った。
「玲子さんは、まだ言っていなかった。でも、ひどく怯えていた。」
「何を?」
「富子さんが、修二さんに別の嫁を迎えさせようとしていることを知っていたんだよ。」
光一は黙った。玲子が突然いなくなった理由。富子が片くちに口を閉ざす理由。そして、苦塚で見つかった焼けた布。全てが少しずつ繋がり始めていた。
「玲子さんは、何か言っていませんでしたか?」
「最後に来た時ね。」
早苗は目を伏せた。
「もし私に何かあったら、この子だけは忘れないでください、って。」
光一の胸が重くなった。
「何かあったら、私も…その時は大げさに考えていた。でも、玲子さんは本当に怖がっていたんだと思う。」
その夜、光一は一人で家へ帰った。途中、富子の家の前を通った時、二階の窓に人影が見えた。修二だ。彼は窓際に立ち、外をじっと見ていた。光一が声をかけようとした、その瞬間だった。修二が突然窓を閉めた。そして、家の中から何かが割れる音がした。光一は立ち止まった。次の瞬間、家の中から修二の叫び声が響いた。
「やめろ!」
続いて富子の声。
「修二、こっちへ来なさい。」
光一は家へ寄り、玄関を開けると、修二が廊下に倒れていた。顔は真っ青だ。
「何があったんですか?」
修二は答えなかった。ただ、二階を指さしている。
「あそこに、玲子が…」
光一は階段を見上げた。誰もいない。けれど、階段の上から焦げた匂いが流れてくる。そして、床には濡れた足跡があった。しかも、普通の足の大きさではない。小さな足跡だ。一段、また一段。その足跡は階段を降りてきていた。光一が見つめていると、最後の足跡がゆっくりと現れた。誰も歩いていないのに、まるでそこに見えない誰かが立っているように。修二が震えながら呟いた。
「玲子は、俺たちを恨んでる。」
その言葉を聞いた瞬間、光一は修二の顔を見た。
「なぜ、そう思うんですか?」
修二は答えなかった。富子も黙っている。その沈黙が、何よりも不自然だった。光一は二人を見つめた。
「あなたたちは、玲子さんがいなくなった夜、何をしていたんですか?」
修二の唇が震えた。しかし、答えが返ってくる前に、二階から子供の泣き声が聞こえた。小さな赤ん坊が、すぐそこで泣いているような声だった。そして、その鳴き声に重なるように、玲子の声が静かに響いた。
「返して。」
修二がその場に崩れ落ちた。光一は初めて確信した。玲子は、自分だけではなく、何かを訴えようとしている。
「この子を返して。」
その声が消えた後、家の中は異様なほど静かになった。修二は床に座り込んだまま二階を見上げている。富子も顔を青くしていた。光一は二人の様子を見ながら、確信に近い疑いを抱き始めていた。
「修二さん、玲子さんがいなくなった夜、何があったんですか?」
「何もない。」
「では、なぜ玲子さんがあなたたちを恨んでいると思うんです?」
「知らない。」
修二は目を合わせようとしない。光一がさらに近づこうとした時、二階からまた音がした。コツ、コツ。何かが床を叩くような音だ。修二が突然立ち上がった。
「帰ってくれ。」
「修二さん。」
「帰れ。」
その瞬間、二階の廊下を何かが走る音がした。誰もいないはずなのに、古い床板が一枚ずつきしんでいく。一歩、また一歩。何かが階段を降りてきていた。光一は息を殺した。しかし、姿は見えない。ただ、階段の途中から白い煙のようなものがゆっくりと降りてくる。煙から焦げた髪の匂いがした。
「玲子…」
修二が呟いた瞬間、廊下の奥に火が灯った。青白い炎だ。火鉢も蝋燭もない。何も燃えていない床の上で、炎だけがゆらゆらと揺れている。光一が一歩近づくと、炎の中に女の姿が浮かんだ。玲子だった。髪は乱れ、顔の一部は黒く焼けている。けれど、その両腕だけは胸の前で大切そうに抱えられていた。何か小さなものを抱いているように見える。
「玲子さん。」
光一が名前を呼ぶと、女の顔がゆっくりこちらを向いた。その目には、怒りよりも深い悲しみがあった。そして、腕の中にあるものへ視線を落とす。
「寒い。」
玲子はもう一度言った。
「この子が、寒いの。」
光一の背筋が凍った。次の瞬間、炎が消えた。暗闇の中で、富子が突然叫んだ。
「違う!」
誰も何も言っていないのに、富子は両手で耳を塞いだ。
「私は知らなかった。そんなこと、知らなかったんだよ!」
修二が母親を見た。
「母さん、黙りなさい。」
「でも、玲子は…」
「黙れ。」
光一は二人のやり取りを見ていた。今の富子の言葉。「知らなかった」。その言葉が、逆に何かを知っているように聞こえた。
「富子さん。」
光一が静かに言った。
「玲子さんは、妊娠していたんですね。」
富子の顔から表情が消えた。修二も黙っている。否定するものは、誰もいなかった。その沈黙だけで、光一には十分だった。
翌日、光一は早苗の元へ向かった。昨夜のことを全て話すと、早苗は長い間目を閉じていた。
「やっぱり、そうか。」
「何がですか?」
「玲子さんのお腹の子は、あの夜一緒に亡くなったんだと思う。」
「でも、遺体は見つかっていないんでしょう。」
光一は答えなかった。早苗は小さく息を吐いた。
「もし、玲子さんが生きたまま火をつけられたのなら、その苦しみは想像できないよ。」
光一は苦塚を思い出した。土の中から聞こえた三回の音。そして、あの小さな手形。
「早苗さん、苦塚に何か埋められていると思いますか?」
「あるかもしれない。」
「確かめる必要があります。」
早苗は首を横に振った。
「やめた方がいい。」
「なぜです?」
「あそこへ行ったら、玲子さんに見つかる。」
「もう見つかっているんじゃないですか?」
早苗は答えなかった。
その夜、光一の家でも異変が起きた。眠っていた光一は、焦げた匂いで目を覚ました。部屋の隅に、誰かが立っている。女だった。玲子だ。彼女は何も言わず、光一を見つめている。そして、ゆっくりと自分の腹へ手を当てた。次の瞬間、光一の枕元から小さな声が聞こえた。
「お父さん。」
光一は凍りついた。玲子の口は動いていない。その声は、玲子の腕の中から聞こえたのだ。そして、玲子はゆっくりと苦塚の方を指差した。姿が消えた後も、部屋には焦げた匂いが残っていた。光一は朝まで眠れなかった。
夜が明けると、彼は一つの決心をした。玲子とその子供がどこにいるのか、何があったのか、全てを確かめる。そのためにも、もう一度あの苦塚を掘るしかないと思った。
翌朝、光一はまだ暗いうちに家を出た。昨夜見た玲子の姿と、耳元で聞こえた小さな声が頭から離れない。あの声が本当に玲子の子供だったのなら、塚の下には何かが残されているはずだった。しかし、光一は一人で掘るつもりはなかった。苦塚を掘る前にもう一度だけ、玲子の父親である文吉に会っておこうと思った。
文吉の家へ着くと、彼は朝から縁側に座っていた。
「光一、こんな朝早くにどうした?」
「玲子さんのことで、もう一度聞きたいことがあります。」
文吉は黙って光一を見た。
「玲子さんはいなくなる前に、何か言っていませんでしたか?」
「何度も聞くね?」
「昨夜、玲子さんが僕の前に現れました。」
その言葉を聞いた瞬間、文吉の顔が変わった。
「玲子が?」
「はい。そして、苦塚を指差しました。」
文吉はしばらく黙っていた。やがて、古い箪笥から一枚の封筒を取り出した。
「これは、玲子が家へ戻る少し前に置いていったものだ。」
中には短い手紙が入っていた。玲子の字だった。
「お父さんへ。もし私に何かあったら、この子のことを忘れないでください。」
それだけだった。光一は手紙を握りしめた。
「どうして今まで黙っていたんですか?」
「怖かったんだ。」
「何が?」
「娘が何かに巻き込まれている気がしていた。だが、富子さんの家へ行って問いただす勇気がなかった。」
文吉は俯いた。
「玲子は最後に一度だけ言ったよ。私がいなくなっても、誰も富子さんを責めないでって。」
「なぜ、そんなことを…」
光一はその言葉を聞きながら、別の疑問を抱いた。玲子はなぜ、そこまで富子をかばおうとしたのか。
その日の昼、光一は村の古い寺を訪ねた。そこで長年この地域の祈祷をしてきた神主という女性に会った。彼女は巫女として神事を行っており、村の人々からは死者に関する奇妙な相談を受けることもある人物だった。光一が玲子の話をすると、神主は途中で何度も質問を挟んだ。
「火の中から声がした。」
「はい。」
「黒い手形はあります。」
「はい。」
「小さな足跡もあります。」
最後に光一は苦塚から持ち帰った焦げた布を見せた。神主は布を見た瞬間、顔を曇らせた。
「これは、玲子さんのものかい?」
「おそらく。」
「そうか。」
神主は布を包み直した。
「光一さん、これはただの幽霊じゃない。」
「では、何なんですか?」
「死ぬはずのない場所で死んだ人間ほど、強いものを残すことがある。特に、恨みだけじゃない。恐怖や悔しさ、助けて欲しいという思いまで残った場合はね。」
「玲子さんは、何を訴えているんでしょう?」
神主は少し考えてから言った。
「自分の死だけじゃないと思う。」
光一は息を飲んだ。
「お腹の子、ですか。」
「はい。なら、二人分の思いが残っている可能性がある。」
部屋の空気が急に重くなった。神主は窓の外へ目を向けた。
「あの苦塚には、何かある。」
「やはり。」
「ただし、掘るなら夜にはしないことだ。」
「なぜですか?」
神主は答える前に、光一をまっすぐ見た。
「そこに埋められているものが、まだ自分が死んだことを知らないかもしれないからだよ。」
その言葉の意味を、光一にはすぐには理解できなかった。しかし、その夜、富子の家ではまた異変が起きていた。修二が一人で居間にいると、消えていたはずの行燈から突然青白い炎が上がったのだ。炎の中に女の姿が浮かんだ。玲子だった。その腕には、小さな赤ん坊が抱かれている。修二は震えながら後ずさった。
「玲子、悪かった。」
玲子は何も言わない。ただ、ゆっくりと修二へ近づいてくる。そして、彼の耳元で囁いた。
「まだ、終わってない。」
炎が消えた。修二が床へ目を落とすと、そこには黒い手形が一つあった。大人の手形ではない。小さな五本の指が、修二の足首を掴むように残っていた。
翌朝、光一は神主の言葉が頭から離れなかった。「そこに埋められているものが、まだ自分が死んだことを知らないかもしれない」。その意味を確かめるためにも、光一は苦塚を調べる必要があった。ただ、一人で掘る気にはなれなかった。そこで光一は文吉と早苗に事情を話し、三人で苦塚へ向かうことにした。
昼過ぎの苦塚は、夜とは違って見えた。雪が薄く積もり、枯れた草が風に揺れている。何も知らなければ、ただ古い墓地の一角にしか見えない。しかし、光一だけは知っていた。この土の下から、あの三回の音を聞いたことを。
「ここを掘るのかい?」文吉が不安そうに言った。
「はい。玲子さんが何かを伝えようとしているなら、ここに答えがあるはずです。」
文吉は黙ったまま立っていた。そして、ゆっくり頷いた。最初に土を掘ったのは光一だった。土は思ったより柔らかく、数回シャベルを入れただけで黒い土が崩れていった。数寸ほど掘ったところで、焦げた布が出てきた。早苗が息を飲む。
「これ…」
その下から、細い紐のようなものが出てきた。さらに土を取り除くと、着物の切れ端が現れた。文吉が震える声で言った。
「玲子の着物だ。」
光一は手を止めた。誰も言葉を発しない。しばらくして、光一が再び土を掘り始めた。すると、シャベルの先が硬いものに当たった。カン、と乾いた音が響く。
「何かある。」
三人で周囲の土を慎重に取り除いていく。やがて、白いものが見えた。骨だ。文吉はその場に膝をついた。早苗は口元を抑えた。しかし、光一は骨の周囲を見ていた。普通なら、ここで終わるはずだった。が、骨のすぐ横に小さな布の包みがあった。光一が手を伸ばしかけた、その時だ。
コツ。
三人の動きが止まった。土の中から音がした。
コツ。
そして、もう一度。
コツ。
あの夜と同じ、三回の音だ。早苗が震えながら言った。
「掘るのをやめて。」
「でも、まだ何かあります。」
「やめなさい。」
早苗の声が苦塚に響いた。その直後、掘り返した土の隙間から白い煙が立ち上った。煙は風に流されない。まっすぐ上へ伸びていき、やがて人の形になった。女だった。焼けた顔、長い髪。そして、胸元には小さな何かを抱えている。文吉が呟いた。
「玲子…」
女はゆっくり顔を上げた。その目が、光一たちを見た。しかし、恨むような表情ではない。ただ、悲しそうにしている。玲子は自分の腕の中を見下ろし、それから土の中を指差した。
「この子。」
声は小さく、ほとんど風に消えそうだった。
「この子を、外へ出して。」
光一は震える手で布の包みを持ち上げた。その瞬間、包みの中から小さな音がした。泣き声ではない。何かが布を内側から叩いたような音だった。
コツ。
光一の手から、包みが落ちた。文吉が後ずさる。早苗は顔を覆った。そして、玲子の姿がゆっくりと薄れていく。消える直前、玲子は光一を見た。
「寒い。」
その声だけを残して、姿が消えた。塚には再び静寂が戻った。光一は地面に落ちた布の包みを見つめた。その時、背後から枝を踏む音がした。三人が同時に振り返る。そこに立っていたのは、修二だった。彼は何も言わず、苦塚の中を見つめていた。その手には、古い灯油の缶が握られていた。
「修二さん、それ何ですか?」
光一が尋ねると、修二は答えなかった。文吉が一歩前へ出た。
「お前、何をするつもりだ?」
修二の肩が小さく震えた。
「帰ってください。」
「玲子はどこだ?」
文吉の声が低くなる。
「玲子は、もういない。」
「嘘をつくな。」
文吉が怒鳴った瞬間、修二の手から灯油の缶が落ちた。ドン、と重い音が土の上に響く。その瞬間だった。苦塚の周囲に、焦げた髪の匂いが漂い始めた。早苗が顔を上げる。
「来るよ。」
光一が振り返った。誰もいない。それなのに、雪の上に一つずつ足跡が現れていった。苦塚の奥から、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。一歩、また一歩。足跡は修二の前で止まった。修二は震えながら後ずさる。
「やめてくれ。」
光一が修二を見た。
「あなたは、ここで何をしたんですか?」
「何もしていない。」
「玲子さんをここへ運んだんですか?」
修二の顔が歪んだ。
「違う。」
「では、なぜ灯油を持ってきたんです?」
「違うんだ。」
修二は両手で頭を抱えた。
「母さんが…母さんがやれって言ったんだ。」
文吉が息を飲んだ。
「何をだ?」
修二は答えない。その時、土の中から音がした。
コツ。
修二の顔が引きつる。
コツ。
光一は掘り返した場所を見た。
コツ。
三回目の音がした瞬間、土の中から白い指が一本、ゆっくりと現れた。修二が悲鳴をあげた。
「玲子!」
その声に反応するように、風が突然吹き抜けた。雪が舞い上がり、視界が真っ白になる。そして、風の向こうに女の姿が浮かんだ。玲子だった。焼けた着物、長い髪、黒く焦げた頬。けれど、腕の中には何もない。玲子は、修二だけを見つめている。
「どうして。」
その声は、責めるようなものではなかった。ただ、悲しそうだった。
「どうして、火をつけたの?」
修二はその場に膝をついた。
「違う。俺は…どうして…俺は殺すつもりじゃなかった。」
その言葉に、光一は息を飲んだ。玲子の顔が、少しだけ上がる。
「殺すつもりじゃなかった。」
修二は泣きながら言った。
「母さんが、玲子は死んだって言ったんだ。俺は何も考えられなかった。それで…」
「玲子さんをここへ運んだのは?」
「二人で運んだ。」
文吉が目を閉じた。修二の声が続く。
「玲子を布で包んで、ここへ置いた。母さんが、火をつけろって。」
「玲子は、その時本当に死んでいたのか?」
修二は答えなかった。代わりに、何度も首を振った。
「分からない。」
玲子の姿が、ゆっくり修二へ近づいた。
「分からない。」
修二は後ずさろうとした。しかし、足が動かない。
「火をつけた時…」
修二の声が震えた。
「玲子が動いた。」
その瞬間、富子の家で見た黒い手形が光一の脳裏に浮かんだ。焼けた手、助けを求める指。そして、あの声。「お母さん、暑い」。修二は顔を覆った。
「俺は、聞こえないふりをした。」
玲子の目から、黒い涙のようなものが一筋流れた。そして、彼女は修二の足元を指差した。雪の上に、小さな黒い手形が浮かび上がっている。一つ、二つ、三つ。修二の足元を取り囲むように、次々と現れていく。
「助けてくれ。」
修二が呟いた。光一は動こうとした。しかし、早苗が腕を掴んだ。
「駄目。今近づいたら、あなたまで連れて行かれる。」
玲子が修二の目の前まで近づいた。そして、焼けた手をゆっくり伸ばす。修二は泣きながら、目を閉じた。その瞬間、苦塚の土の中から赤ん坊の泣き声が響いた。玲子の顔が初めて変わった。怒りでも悲しみでもない。母親のような、深い表情だった。そして、彼女は修二から目を離し、土の中へ視線を落とした。早苗はその瞬間気づいた。玲子がここへ戻ってきた本当の理由は、自分を殺したものへの復讐だけではなかったのだ。玲子の姿が、ゆっくりと苦塚の土へ向かって消えていった。
その姿を見つめながら、光一は修二に問いかけた。
「あの夜、本当は何があったんですか?」
修二はしばらく答えなかった。やがて、震える声で話し始めた。
「あの日の夕方、玲子と母さんが喧嘩をしたんだ。」
「何についてですか?」
「子供のことだ。」
修二は俯いた。
「玲子は妊娠したことを、母さんに話した。最初は喜んでくれると思っていた。でも、母さんはひどく怒った。」
文吉が拳を握る。
「なぜだ?」
「母さんは、俺に子供を作らせるつもりがなかった。家を出ていく準備をしていた玲子に、子供までできたら、俺が玲子から離れられなくなると思ったらしい。」
光一は黙って聞いていた。
「その日の夜、玲子は家を出ようとした。俺も一緒に行くつもりだった。でも、母さんが…」
修二の声が止まった。
「母さんが、玲子を突き飛ばした。」
早苗が顔を覆った。
「玲子は、階段から落ちた。頭を打って、動かなくなった。」
「それで、死んだと思ったんですか?」
「そうだ。」
修二は両手で顔を覆った。
「母さんが脈を見て、死んだと言った。俺は怖くなった。警察に行けば、母さんが捕まる。俺も、何もできなかった責任を問われる。だから…」
光一が低い声で言った。
「二人で玲子さんを苦塚へ運んだ。」
「ああ。」
「そして、火をつけた。」
修二は頷いた。
「でも、あの時…」
修二の顔が歪んだ。
「玲子は、生きていた。」
誰も言葉を発しなかった。
「火をつけて少ししたら、布の中から声がしたんだ。『暑い』って。何度も。」
修二は震えていた。
「俺は助けようとした。でも、母さんが俺の腕を掴んだ。」
その時、富子が叫んだ。
「余計なことを言うんじゃない!」
光一が富子を見ると、彼女は泣いていた。
「私はあの子が死んだと思ったんだよ。」
「だったら、なぜ確認しなかったんですか?」
富子は答えない。光一は続けた。
「玲子さんは妊娠していた。あなたは、そのことを知っていた。それなのに…」
「知らなかった!」
富子が突然叫んだ。
「子供がいるなんて、知らなかったんだよ!」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、苦塚の周囲に風が吹き始めた。枯れ草が大きく揺れる。そして、土の中から声がした。
「嘘。」
富子の顔が凍りついた。
「私は、嘘…」
今度ははっきり聞こえた。玲子の声だった。
「お母さん、知ってたでしょう?」
富子は後ずさった。
「違う。」
「私が言ったでしょう。この子が生まれたら、家族でやり直したいって。」
声は苦塚の下から響いている。
「お母さんは、笑ってた。」
光一は富子の顔を見た。その表情が、全てを語っていた。玲子は最後まで、富子が自分を助けてくれると思っていた。だからこそ、あの夜何度も呼んだのだ。「お母さん」と。しかし、誰も助けなかった。
光一は土の中に目を向けた。
「玲子さん、子供はどこにいるんですか?」
しばらく返事はなかった。やがて、土の中から小さな音がした。コツ、コツ。そして、三回目の音がした瞬間、掘り返した場所の奥から小さな布の包みがゆっくりと姿を現した。光一が近づく。その包みには、古い赤い紐が結ばれていた。早苗が震える声で言った。
「それは、玲子さんが私のところへ来た時に持っていたものだよ。」
光一は包みを見つめた。
「中には、何が?」
早苗は答えなかった。その時、修二が突然叫んだ。
「触るな!」
光一が振り返ると、修二は怯えた顔で包みを見つめている。
「それを開けたら、全部戻ってくる。全部…」
修二は答えなかった。ただ、苦塚の奥を見つめている。そこには、いつの間にかもう一人の女が立っていた。玲子ではない。富子だった。しかし、その顔は今ここにいる富子と同じではない。炎に包まれたように、黒く焼けた顔でこちらをじっと見つめている。光一が振り返ると、現実の富子はその場で震えていた。そして、焼けた富子の姿がゆっくり口を開いた。
「まだ、一人隠してる。」
光一は息を飲んだ。富子が隠しているものは、玲子とその子供だけではなかった。
「まだ、一人隠してる。」
焼け焦げた富子の姿がそう呟いた瞬間、苦塚の周囲から風が消えた。木々も草も、何も動かない。なのに、光一の耳にはすぐ近くで誰かが息をしている音だけが聞こえていた。修二は地面に座り込んだまま、何度も首を振っている。
「違う。もう、何もない。」
その声に反応するように、富子の姿が一歩近づいた。
「嘘。母さん、あなたも知ってるでしょう。」
修二は両手で耳を塞いだ。
「やめてくれ。」
光一は修二の肩を掴んだ。
「何を隠しているんですか?」
「知らない。」
「玲子さんの子供のことですか?」
「違う。」
「では、もう一人とは誰ですか?」
修二は答えなかった。その代わり、地面に落ちていた赤い紐のついた包みを見つめた。光一はそれを拾い上げた。
「これを開ければ、分かるんですね。」
「やめろ!」
修二が突然立ち上がり、光一の腕を掴んだ。その瞬間、修二の手首に黒い指跡が浮かんだ。五本の指。まるで、誰かが内側から皮膚を掴んでいるように、ゆっくりと跡が濃くなっていく。すると、今度は地面から女の声がした。
「返して。」
玲子だった。しかし、その声は今までとは違った。怒っている。光一が包みを見ると、赤い紐が一人でに解け始めた。
「光一さん、開けないで!」
早苗が叫んだ。けれど、もう遅かった。包みがゆっくり開いた。中に入っていたのは、小さな古い布だった。その布には、血のような黒ずんだ染みが残っている。そして、その中央に小さな文字が刺繍されていた。
「隅。」
光一は目を止めた。
「名前…」
早苗が震える声で答えた。
「玲子さんが、生まれる子につけようとしていた名前だよ。」
文吉が泣き崩れた。
「娘は、そんなところまで…」
光一は布を裏返した。そこには、さらに小さな紙が縫い込まれていた。開いてみると、玲子の字で短く書かれていた。
「この子は、私と一緒に燃えたことにしないでください。」
光一の手が止まった。燃えたことにしない。その言葉を聞いた修二が、顔を伏せた。
「俺は、知らなかった。」
「何を?」
「母さんは玲子を殺した後…」
修二の声が震える。
「子供だけは、助けようとしていた。」
早苗が息を飲んだ。
「どういうこと?」
「玲子が倒れた後、母さんは腹を見た。まだ子供が生きているかもしれないって。」
「だったら、なぜ…」
修二は目を閉じた。
「母さんは、子供を取り出そうとした。」
その場にいた全員が言葉を失った。
「でも、失敗した。」
修二の声が消えそうになる。
「その後、母さんは誰にも知られないように…」
修二が苦塚の奥を指さした。
「玲子とは別の場所に、何かを埋めた。」
光一の胸が締めつけられた。
「それが、もう一人…」
修二は頷いた。
「多分、そうだ。」
その瞬間、苦塚の奥から土をこする音がした。ザザッ。何かが土の中を這っているような音だ。そして、玲子の声がした。
「そこじゃない。」
光一は振り返った。
「え?」
「そこじゃない。」
声は今度、修二の背後から聞こえた。修二がゆっくり振り返る。そこには誰もいない。ただ、雪の上に黒い手形が一つ現れていた。その手形は苦塚の奥ではなく、富子の家がある方向を指すように、五本の指を伸ばしていた。
黒い手形は雪の上で、じっと富子の家を指していた。光一はその意味を考えながら、修二を見た。
「戻りましょう。」
修二は首を振った。
「行かない方がいい。」
「なぜです?」
「母さんの家には、まだ…」
そこで修二は口を閉ざした。
「まだ、何があるんです?」
光一が問い詰めても、修二は答えない。しかし、早苗は何かに気づいたようだった。
「修二さん、あなた今まで一度も言っていないことがあるでしょう。」
修二の顔が強張った。
「何のことですか?」
「玲子さんを苦塚へ運んだ後、あなたは家へ帰った。そう言ったね。」
「ああ。」
「でも、あなたはその夜、一度家を出ている。」
修二は黙った。
「誰かが見ていたんだよ。夜中に、あなたが家の裏手から何かを運び出していたところを。」
修二は目を伏せた。光一の声が低くなる。
「何を運んだんですか?」
しばらくして、修二は小さく答えた。
「箱だ。」
「箱?」
「小さな木箱だ。」
光一は苦塚で見つけた赤い紐の包みを思い出した。
「その中に、何が?」
「知らない。」
「嘘でしょう?」
「本当に知らないんだ!」
修二は叫んだ。
「母さんが俺に運ばせた。絶対に開けるな、と言われたんだ。」
「どこへ運んだんです?」
修二は答えなかった。その代わり、富子の家の方向を見た。
「家の床下だ。」
その言葉を聞いた瞬間、早苗が顔を上げた。
「床下…」
「家を建てた時から、そこには何かあった。母さんは昔から、あそこには触るなと言っていた。」
光一は背筋に冷たいものを感じた。玲子が差し示した先。そこにもう一つの秘密がある。三人は苦塚を離れ、富子の家へ向かった。
家に着くと、修二は裏手へ回り、古い物置の床板を外した。その下には、土が剥き出しになっている。光一がシャベルを入れると、すぐに何かに当たった。木箱だ。古い木箱の蓋には、黒く焼けた跡がある。そして、蓋の中央には小さな手形が一つあった。
「これだ。」
修二が呟いた。光一が蓋を開けようとした瞬間、家の中から物音がした。誰かが歩いている。一歩、また一歩。床板がきしむ。
「母さん…」
修二が振り返った。返事はない。光一は木箱から手を離し、家の中へ入った。廊下には誰もいない。しかし、居間の襖が少しだけ開いていた。中を覗くと、仏壇の前に富子が座っている。こちらに背を向けたまま、動かない。
「富子さん。」
反応がない。修二が近づく。
「母さん。」
富子の肩が、小さく動いた。
「あの子が、来た。」
その声は、今まで聞いたことのないほど弱々しいものだった。
「玲子が?」
「違う。」
富子はゆっくり振り返った。その顔には、涙が流れていた。
「違う。」
富子は首を振る。
「玲子じゃない。」
光一が息を止めた。
「じゃあ、誰です?」
富子は仏壇の下を指さした。
「あの子だよ。子供が…」
「玲子のお腹にいた子じゃない。」
光一の顔から血の気が引いた。
「どういうことですか?」
富子は震える指で、仏壇の奥を差した。
「この家には、昔からもう一人…」
そこで富子の声が途切れた。仏壇の奥から、子供の声が聞こえたのだ。
「おばあちゃん。」
富子の顔が歪んだ。
「やめて…おばあちゃん、やめて。」
富子が耳を塞ぐ。しかし、声は止まらない。
「どうして、私を燃やしたの?」
光一は凍りついた。富子はその場に崩れ落ちた。そして、ようやく全てを話し始めた。この家には、昔富子の娘がいた。玲子より前に生まれた、もう一人の子供。その子は幼い頃に亡くなった。だが、その死にも火が関わっていたのだ。
富子は仏壇の前で、長い間顔を伏せていた。
「私には、もう一人娘がいたんだよ。」
光一も修二も、何も言わずに聞いていた。
「名前は、住江。玲子よりずっと前に生まれた子だった。」
富子の声は震えていた。
「住江は体が弱かった。冬になると、よく熱を出してね。それでも、よく笑う子だった。」
富子は仏壇の奥を見つめた。
「ある冬の夜、住江が高い熱を出した。私は行燈の火を強くして、部屋を温めた。ほんの少し、目を離したんだ。」
「何があったんですか?」
光一が尋ねた。
「着物の裾に、火が移った。」
富子は目を閉じた。
「気づいた時には、住江はもう…」
そこで言葉が止まった。修二が小さく呟く。
「母さん、その話、俺には一度も…」
「言えるわけがないだろう。」
富子は顔を上げた。
「私は娘を守れなかった。だから、玲子だけは絶対に同じ目に合わせたくなかった。」
光一は違和感を覚えた。だったら、なぜ玲子をそのように扱ったのか。富子は答えなかった。その代わり、仏壇の下を指差した。
「住江の骨は、ちゃんと寺に収めた。でも、あの子の最後の夜に使っていた着物だけは、捨てられなかった。」
光一は仏壇の下を覗き込んだ。そこには、古い木箱があった。蓋には、何本もの黒い手形が残っている。
「これが、住江の着物だよ。」
光一が木箱へ手を伸ばした瞬間、修二が叫んだ。
「触るな!」
その声と同時に、木箱の中から小さな音がした。コツ、コツ、コツ。光一は手を止めた。同じ、三回の音。苦塚で聞いた音と、全く同じだった。
富子が震えながら言う。
「住江は、あの夜からずっと火を怖がっていた。」
「だから、玲子さんを火で…」
光一が問いかけると、富子は首を振った。
「違う。私は玲子を殺したかったわけじゃない。」
「じゃあ、なぜ?」
「玲子が、住江のことを知っていたからだよ。」
光一は息を飲んだ。富子は続けた。
「ある日、玲子が仏壇の下からその箱を見つけたことがあった。私は慌てて取り上げた。でも、その夜から玲子は変なことを言い始めた。」
「何を?」
「夜になると、子供の声が聞こえるって。」
光一は箱を見つめた。玲子が妊娠していた時期と、住江の声が現れ始めた時期。全てが重なっている。富子は震える声で続けた。
「玲子は、住江が自分のお腹の子に近づいていると言っていた。住江が『この子を連れて行く』って言ってるって。」
その瞬間、仏壇の奥から子供の声がした。
「お母さん。」
富子の体が硬直した。
「住江…」
声はもう一度聞こえた。
「お母さん、寒い。」
光一は背筋が凍った。富子は仏壇へ這うように近づいた。
「ごめんね、住江。」
その瞬間、木箱の蓋が一人でに開いた。中には、古い子供用の着物が入っている。そして、その上には小さな焼け焦げた紙の束が置かれていた。修二が後ずさる。
「母さん、これ、何だよ。」
富子は何も答えない。光一は紙の束を見つめた。その紙には、赤い糸が絡んでいた。玲子の包みにあったものと同じ色だ。その瞬間、光一はようやく理解した。玲子の霊は玲子だけのものではなかった。住江もまた、あの家に残っていた。そして、二人の死にはどちらも火が関わっている。だが、まだ一つだけ説明できないことがあった。玲子はなぜ、住江を恐れていたのか。その答えを知っているのは、富子だけだった。
光一が富子を見ると、彼女は震えながら口を開いた。
「玲子が死んだ夜、私はもう一つ見たんだよ。」
「何を?」
「玲子のそばに…」
富子の声が消えそうになった。
「住江が、立っていたんだ。」
富子の言葉が途切れると、居間には重い沈黙が落ちた。光一はすぐには何も聞けなかった。
「玲子さんのそばに、ですか?」
「そうだよ。」
富子は震える手で膝を握りしめた。
「火をつけた後、私は少し離れた場所にいた。修二も一緒だった。玲子の声が聞こえていた。でも、その声とは別に、もう一人の子供の声がした。」
「何と言っていたんですか?」
富子は目を閉じた。
「『お母さん、もういいよ』って。」
光一の背中に冷たいものが走った。
「私は振り返った。すると、火の向こうに住江が立っていた。」
「どんな姿でした?」
「昔、火事で亡くなった時のままだった。髪も着物も、全部焼けていた。」
富子は唇を震わせた。
「でも、住江は私を見ていなかった。」
「誰を見ていたんです?」
「玲子だよ。」
光一は黙った。
「住江は、玲子のお腹を見ていた。そして…」
「そして?」
「笑っていた。」
富子は小さく頷いた。
「それから住江が玲子に近づいた。私は玲子を助けようとした。でも、足が動かなかった。」
「なぜ動かなかったんだよ。」
光一が問いかけると、富子は首を振った。その目から涙が落ちた。
「住江が、玲子のお腹に手を置いた。その瞬間、火が急に大きくなった。そして、玲子が叫んだ。『この子を連れて行かないで』って。」
光一は、これまで聞いてきた話を思い返した。玲子が残した言葉。「この子を返して」。そして、住江の声。「お母さん、もういいよ」。光一はようやく、一つの可能性に気づいた。
「住江は、玲子の子供を連れて行こうとしていたんじゃない?」
富子が顔を上げた。
「じゃあ、何を守ろうとしていたんじゃないですか?」
その言葉に、富子は動きを止めた。住江が玲子のお腹に手を置いたのは、子供を奪うためではなく。光一は苦塚で見た玲子の姿を思い出した。玲子は何度も、腕の中に何かを抱いていた。そしていつも、同じ言葉を繰り返していた。「寒い」。玲子さんは、ずっと子供を守ろうとしていた。光一は続けた。
「でも、自分が死んだ後も、その子を一人にしたくなかった。だから住江が…」
その瞬間、仏壇の奥から小さな声がした。
「そうだよ。」
三人が同時に振り返った。誰もいない。けれど、仏壇の前に置かれていた古い蝋燭に、青白い火が灯った。その火の向こうに、小さな女の子が立っている。焼けた着物、黒く焦げた髪。けれど、その顔には不思議なほど穏やかな表情があった。
「住江…」
富子が震える声で呼んだ。少女は富子を見た。そして、静かに首を横に振った。
「お母さん、違うよ。」
「何が?」
「私が連れて行ったんじゃない。」
少女は光一を見た。
「お姉ちゃんが、ずっと泣いていたの。」
その瞬間、光一の脳裏に玲子の姿が浮かんだ。いつも胸の前で何かを大切そうに抱いて、泣いていた姿。
「じゃあ、玲子さんの子供は…」
少女は答えなかった。代わりに、仏壇の下を指さした。光一が視線を落とすと、床板の隙間から小さな白い指が出ていた。一本、そしてもう一本。修二が悲鳴をあげる。
「まだいる!」
床の下から、赤ん坊の鳴き声が聞こえた。今まで聞こえていた声よりも、はっきりしている。光一は床板を外した。そこには、古い土の穴があった。その奥に、小さな木箱が置かれている。しかし、その箱はすでに開いていた。中には何もない。ただ、白い布だけが残されている。光一が布を持ち上げると、そこに小さな文字があった。
「返して。」
その瞬間、背後から玲子の声がした。
「ありがとう。」
光一が振り返ると、玲子が立っていた。その腕には、もう何も抱いていない。そして、その隣には住江が立っている。二人は何も言わず、光一を見つめていた。やがて、玲子がゆっくりと頭を下げる。その瞬間、家の中にいた全員の耳へ、赤ん坊の鳴き声が響いた。けれど、今度は泣き声ではなかった。まるで誰かに抱き上げられた子供が、安心したような小さな笑い声だった。
赤ん坊の小さな笑い声が消えた後、家の中には不思議な静けさが戻っていた。光一は白い布を握ったまま、玲子と住江の姿を見つめていた。二人はもう、恐ろしい姿には見えなかった。玲子は穏やかな顔をしている。その隣に立つ住江も、焼けた跡の残る顔でありながら、どこか安心したように微笑んでいる。やがて、玲子はゆっくりと光一へ頭を下げた。
「この子を、見つけてくれてありがとう。」
光一は何も答えられなかった。玲子の腕の中には、もう何もない。それでも、光一にはそこに小さな命が抱かれているように見えた。玲子はそのまま、住江の手を取った。二人は居間の奥へ歩いていく。そして、障子の向こうへ消える直前、住江が一度だけ振り返った。
「お母さん。」
富子が顔を上げた。
「ごめんなさい。」
富子は泣きながら、何度も頭を下げた。
「ごめん、住江。本当にごめん。」
住江は何も言わなかった。ただ、静かに笑った。次の瞬間、二人の姿は消えていた。同時に、家の中に漂っていた焦げた匂いも、なくなった。修二はその場に座り込み、泣き続けていた。
その後、警察にも全てが話された。玲子の遺骨は正式に確認され、長い間隠されていた事実も明らかになった。富子は罪を認め、修二も自分がしたことを全て話した。事件が終わった後、玲子とその子供、そして住江は、それぞれ寺で供養された。
供養の日、光一は最後に苦塚へ行った。掘り返された土は元に戻され、小さな石が一つ置かれていた。雪が静かに降っている。光一は手を合わせた。
「もう、寒くないといいですね。」
返事はない。風もない。ただ、しばらくするとどこからか小さな音が聞こえた。コツ。光一は顔を上げた。もう一度。コツ。そして、三回目。コツ。光一はゆっくりと苦塚を見た。何もない。それでも、その三回の音は、妙に懐かしく感じられた。光一は、その場を離れた。
あれから、数年が経つ。私はこの話を、光一本人から聞いた。彼は今でも、あの夜のことを詳しく話したがらない。ただ、一つだけ不思議なことがある。玲子たちが供養された翌年の冬、光一があの家を尋ねた時のことだ。家はすでに取り壊されていた。何も残っていないはずの土地に、一本だけ古い木が立っていたそうだ。その木の根元には、小さな赤い紐が結ばれていた。光一が近づいてみると、その紐の横に白い布が落ちていた。拾い上げると、布には小さな文字が刺繍されていた。
「ありがとう。」
そして、その下にはもう一つ、以前にはなかった名前があった。「隅」。光一はその布を寺へ収めた。それ以来、玲子の姿を見ることはなくなったそうだ。ただし、毎年玲子が亡くなった日になると、光一の家のどこからともなく小さな音が三回だけ聞こえるそうだ。コツ、コツ、コツ。
そして、去年の冬。光一は初めて、その音の後に小さな声を聞いたと言っていた。
「お父さん。」
光一には、子供がいない。もちろん、その声を聞いた時、家の中には誰もいなかった。それでも、彼は怖くて振り返ることができなかったそうだ。しばらくして、背後から小さな足音が聞こえた。一歩、また一歩。そして、すぐ後ろで止まった。光一は今でも、その時振り返らなかったことだけは正しかったと思っているそうだ。なぜなら、もし振り返っていたら、そこに立っていたのが玲子なのか、住江なのか、それともあの夜に生まれることのできなかった子供だったのか、今でも誰にも分からないからだ。ただ、一つだけ。光一の家では今も、毎年同じ夜になると、火を消したはずの古い仏壇の蝋燭に、小さな青白い火が一度だけ灯るそうだ。



