「もう十分です。40年間、私はあなたを愛してきました。でも、これが最後です。もう二度と会うつもりはありません。」
73歳の高橋せつ子が、娘のあけ美に向かってそう言い放ったとき、自分の声は驚くほど震えていませんでした。
長い間、彼女は毎朝、夫の遺影に手を合わせ、「今日も元気でいられますように」と祈るのが日課でした。あの日も、窓から差し込む柔らかな光、台所に漂う味噌汁の香り、そして静かに時を刻む夫の形見の時計。そんな穏やかな日常が、突然の電話で一変しました。
「お母さん、今月も少し足りないから、前みたいに援助してくれない?」
その何気ない一言が、長年積み重なってきた小さな傷の、最後の一滴となったのです。
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せつ子さんは、地方の小さな中学校で38年間、国語教師として勤め上げた人でした。真面目で几帳面な性格は教師という職業にぴったりで、生徒たちからも同僚からも信頼される存在でした。
「子供たちに正しい日本語を教えることが、私の使命なんです」
そう語るせつ子さんの目は、いつも強い信念に満ちていました。しかし、そんな彼女の表情が最も柔らかくなるのは、一人娘のあけ美さんの話をする時でした。
あけ美さんは、せつ子さんが33歳の時に生まれました。それまで仕事一筋だった夫婦にとって、待望の第一子でした。
「あけ美が生まれた日は、人生で一番幸せな日でした。小さな手を握った時、この子のためなら何でもしようと心に誓いました」
せつ子さんはあけ美さんの教育に情熱を注ぎました。仕事で忙しい中でも毎晩絵本の読み聞かせをし、休日には博物館や美術館に連れて行きました。夫も協力的で、3人で過ごす時間は何よりも大切なものでした。
あけ美さんは賢い子でした。学校の成績もよく、ピアノも上手でした。先生から「高橋さんはさすが教育のプロですね」とよく言われましたが、特別なことをしていたわけではありません。ただ、愛情を注いでいただけなのです。
あけ美さんは順調に成長し、有名私立大学に進学。卒業後は外資系企業に就職しました。せつ子さん夫婦は娘の成功を心から喜び、誇りに思っていました。
しかし、あけ美さんが28歳で結婚を決めた時から、少しずつ親子の関係に変化が訪れ始めました。
「あけ美が『お母さん、結婚することになったの』と電話をかけてきた時、もちろん嬉しかったです。でも同時に何か寂しさも感じました。これで本当に巣立っていくんだと」
結婚式の準備は主にあけ美さんのペースで進められ、せつ子さん夫婦は口出しせず、経済的な援助だけを申し出ました。
「結婚式費用は私たちが出すわ」と言ったら、あけ美は「じゃあ、そうさせてもらうわ」とあっさり受け入れました。当時はそれが当然だと思っていました。
式当日、白いドレス姿のあけ美さんは美しく、せつ子さんは胸が熱くなりました。しかし、披露宴では新郎側の親族が主役となり、せつ子さん夫婦は端に追いやられた気分になりました。それでも、娘が幸せならそれでいいと自分に言い聞かせました。
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結婚後、あけ美さん夫婦は東京で新生活を始めました。せつ子さんの住む地方とは、電車で2時間ほどの距離です。当初は月に1度の頻度で帰省していたあけ美さんでしたが、次第にその間隔は広がっていきました。
5年前、夫が突然の心筋梗塞で倒れました。68歳という若さでした。せつ子さんは夫を亡くし、独りぼっちになりました。あけ美さんは葬儀の時に数日滞在しましたが、仕事の都合ですぐに東京へ戻っていきました。
「あの時、もう少し側にいて欲しかったという気持ちはありました。でもあけ美にはあけ美の生活がある。無理を言うべきではないと思いました」
夫を亡くした悲しみを紛らわせるように、せつ子さんはあけ美さん家族との交流機会を見い出すようになりました。特に、5歳になっていた孫のしんや君は、祖父を亡くした寂しさを忘れさせてくれる存在でした。
週末には東京まで行って、しんや君の面倒を見るようになりました。あけ美夫婦が映画やショッピングに行く間、しんやと遊んであげるのがせつ子さんの喜びでした。そして徐々にそれは週末の習慣となり、やがて当然のことと思われるようになっていきました。
「お母さん、今度の土曜日も来てくれるよね」
あけ美さんからの電話は、いつしかお願いではなく確認に変わっていました。せつ子さんはそれを気にするどころか、必要とされることに幸せを感じていたのです。
「私が役に立てるなら、それが私の存在意義だと思っていました。他に何があるというのでしょう? 夫を亡くし、退職して、残されたのは娘と孫だけだったのですから」
そして経済的な援助も少しずつ増えていきました。最初は孫の習い事の月謝を負担するところから始まり、やがてあけ美さん家族の旅行費用や車の購入資金にまで及ぶようになりました。
「お母さん、少し余裕があるなら助けて欲しいの」
その言葉に逆らえなかったせつ子さんは、自分の老後のために貯めていた資金を少しずつ切り崩していきました。愛する娘と孫のためなら、それも幸せなことだと自分に言い聞かせながら。
「人間、年を取ると贅沢なんていらなくなるものです。私はシンプルに生きていけばいい。でもあけ美は若いし、しんやにはたくさんの可能性がある。私のお金が彼らの助けになるなら、それ以上の幸せはありません」
そう信じていました。しかし、心の奥底では何かが少しずつ擦り減っていくような感覚がありました。それが何なのか、せつ子さん自身も気づいていなかったのです。
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季節が巡り、せつ子さんの日常は次第にあけ美さん家族中心の生活になっていきました。平日は一人で静かに過ごし、週末になると東京へ向かう。その繰り返しの中で、せつ子さんの自分の時間は徐々に失われていきました。
「せつ子さん、また東京ですか? 老人会の旅行も、今回も不参加ですか?」
近所の友人である田中さんにそう言われた時、せつ子さんは少し考え込みました。かつては参加していた地域の活動も、いつの間にか遠ざかっていたのです。
「そうなんです。孫が待っているので」
田中さんはそっと言いました。「自分の時間も大切にしないとね。せつ子さんも、少しは自分のために生きなきゃ」
その言葉は、その時は耳を素通りしました。孫のために生きることが、せつ子さんにとっての喜びだったからです。
しかし、ある出来事をきっかけに、その考えに疑問が生じ始めます。
せつ子さんの72歳の誕生日のことでした。特別なことを期待していたわけではありませんが、娘からの一本の電話もメッセージも届きませんでした。小さなケーキを買って、一人で「おめでとう」と言って食べた夜、初めて本当の寂しさを感じました。
翌日、何気なくあけ美さんに電話すると、「あ、誕生日だったね。忙しくて忘れてた。ごめんね」と軽く言われただけでした。せつ子さんは「いいのよ。気にしないで」と笑って答えましたが、その夜、久しぶりに枕を濡らしました。
子供に感謝を求めてはいけない。それでは、かつて注いだ愛情が見返りを求めていたことになってしまうわ。自分を戒めながらも、小さな傷は心に残りました。
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その3ヶ月後、あけ美さんから突然の電話がありました。
「お母さん、マンションの頭金が足りないの。もう少し援助してくれない?」
これまでにも何度か経済的援助の要請はありましたが、今回の金額はせつ子さんの老後の生活を脅かすほどの大きさでした。
「あけ美、そんなに出せるお金はないのよ。これ以上は私の老後の生活が… 」
「え、お母さん、まだたくさん貯金あるでしょう。お父さんの保険金もあったし」
その会話で、せつ子さんは初めて気づきました。娘は、母親の経済状況を当てにしていたのです。そして、自分がこれまで援助してきた金額が、決して少なくない額だったことも。
「考えておくわ」そう言って電話を切った後、せつ子さんは自分の通帳を開きました。夫の残した保険金と自分の退職金を合わせた貯金は、すでに半分以下になっていました。このままでは、あと数年で底をつく計算です。
このままでは、私はどうなるのかしら。不安が頭をもたげる中、せつ子さんの体調にも変化が現れ始めました。週末の孫の世話が終わった後の疲労が、以前よりひどく感じるようになったのです。72歳の体には、5歳児の面倒を一日中見ることが、想像以上の負担だったのかもしれません。
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ある週末、せつ子さんが疲れて座っていると、孫のしんや君が無邪気に言いました。
「バーバ、お金持ちなんでしょ? ママが言ってた。僕のピアノのバーバが払ってくれるんだって」
その言葉に、せつ子さんは胸が締めつけられる思いがしました。あけ美さんは、子供にまでおばあちゃんのお金について話していたのです。
その夜、あけ美さん夫婦は映画に出かけ、せつ子さんはしんや君の寝かしつけを任されました。子供が眠った後、リビングでテレビを見ていると、帰宅した二人の会話が耳に入ってきました。
「お母さん、最近疲れやすそうだね」
「うん。年だからね。でも、母さんには頼らざるを得ないでしょ。ベビーシッターを雇うほど余裕ないし」
「そうだね。それに、お母さん、これくらいがちょうどいいんじゃない? 退屈しのぎになるし」
「そうね。それに、私たちが唯一の家族なんだから、やることないでしょ。他に趣味もないし」
せつ子さんはその会話に凍りつきました。退屈しのぎ。やることがない。そんな風に思われていたのか。
心が冷たくなる感覚がありました。
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翌朝、せつ子さんは高熱で目覚めました。体がだるく、頭痛もひどい。あけ美さんに伝えると、「じゃあ、今はしんやを一時保育に預けるね。お母さん、ゆっくり休んで」と言われました。そして、彼らはせつ子さんをマンションに残し、出かけていきました。
一人残されたせつ子さんは、水も飲めないほどの状態でした。何度かスマートフォンを手に取り、あけ美さんに連絡しようとしましたが、「迷惑をかけてはいけない」という思いから、結局電話はしませんでした。
昼過ぎ、何とか水分を取りに台所へ行こうとした時、せつ子さんは転倒してしまいました。腰を強く打ち、立ち上がれません。痛みと発熱で意識が朦朧とする中、やっとの思いで携帯電話を手に取り、あけ美さんに電話をかけました。
「あけ美、助けて。転んで… 」
「お母さん、今会議中なの。後でかけ直すから」
そう言って、電話は切られました。時計を見ると午後2時。あけ美さんの仕事が終わるのは、早くても6時です。
せつ子さんは床に横たわったまま、天井を見つめていました。こんな時、夫がいたら… そう思った瞬間、涙が溢れました。今までどんなに疲れていても、どんなに寂しくても、娘のためだと自分自身に言い聞かせてきました。
しかし、この瞬間、初めて自分の状況をはっきりと認識したのです。
私は、この家では、必要な時だけ呼ばれる“便利な存在”なのかもしれない。
その日は夜まで倒れたままだったせつ子さん。後にあけ美さんが帰宅し、慌てて救急車を呼びました。救急隊員に「どうして早く連絡しなかったのですか」と責められるあけ美さんの姿を、せつ子さんはぼんやりと見ていました。
そして、救急車に揺られながら、せつ子さんの胸の奥で、何かが固まり始めていました。
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病院のベッドに横たわるせつ子さんの診断結果は、肺炎と脱水症状でした。医師からは「もう少し遅れていたら、危険な状態になっていた」と告げられました。
点滴を受けながら天井を見つめるせつ子さんの耳に、廊下での医師とあけ美さんの会話が聞こえてきました。
「お母様の年齢を考えると、一人での生活にはリスクがあります。今回のことを教訓に、何か対策を考えた方がいいでしょう」
「わかりました。ただ、私たちも働いていますので…

」
その後の言葉は聞こえませんでしたが、せつ子さんは自分の将来について考え始めました。このままあけ美さん家族との関係を続けるべきなのか?
三日目の夜、せつ子さんの病室に看護師の山口さんがやってきました。50代半ばで、優しい笑顔が印象的な女性です。
「高橋さん、お水変えますね。お具合はいかがですか?」
「ありがとうございます。少しずつ良くなってきました」
点滴を確認しながら、山口さんはせつ子さんの顔をじっと見つめました。
「何か心配なことがありますか? 表情が暗いように見えますが」
その言葉に、せつ子さんは思わず目を伏せました。山口さんは椅子に腰かけ、せつ子さんの手を優しく握りました。
「私も母を見取りました。最後まで『迷惑をかけたくない』と言い続けた人でした」
せつ子さんの目から涙がこぼれました。山口さんの言葉が、自分の心の奥深くに触れたのです。
「看護師としていろんな高齢者を見てきましたが、自分のことより家族のことばかり考える方が多いんです。でも高橋さん、あなた自身は、何を望んでいますか?」
その問いかけに、せつ子さんは答えられませんでした。自分の望みなど、長い間考えたこともなかったのです。
—
翌朝、せつ子さんは隣のベッドに入院してきた患者さんに出会いました。80歳を超える森田さんという女性でした。
午後になると、森田さんのところに家族が訪れました。娘さん、息子さん、そして孫たちが次々とやってきて、病室は笑い声で溢れました。
「おばあちゃん、早く良くなってね。また一緒に公園行こうよ」
「お母さん、心配しないで。私たちがついているから」
その光景を見ながら、せつ子さんは自分とあけ美さんの関係を思い返していました。あけ美さんは初日に見舞いに来た後は、仕事が忙しいという理由で電話での連絡だけになっていました。
自分が望まれていない場所にいる意味はあるのだろうか。
五日日目の夕方、せつ子さんは窓から沈みゆく夕日を眺めていました。その時、再び山口看護師が訪れました。
「高橋さん、明日退院ですね。お嬢さんは迎えに来られますか?」
「ええ、明日の午後に来るはずよ」
山口さんはせつ子さんのベッドの横に座り、静かに言いました。
「失礼な質問かもしれませんが、高橋さんは、自分を大切にしていますか?」
その言葉に、せつ子さんの胸に何かが突き刺さりました。自分を大切にする。そんな概念が、せつ子さんの中には存在していなかったのです。
「わかりません。私は母親だから… 」
「母親である前に、あなたは一人の人間です。自分の人生を生きる権利があります」
山口さんは立ち上がり、窓の方を指差しました。
「あの夕日を見てください。美しいでしょう。あれはあなたのためにも輝いています。誰かのためだけじゃなく、あなた自身のために」
病室に黄金色の光が差し込み、せつ子さんの顔を包みました。その瞬間、何十年も閉じていた心の扉が、少しずつ開いていくような感覚がありました。
私は… 私は… 言葉にならない思いが胸の中で渦巻き、やがて一つの決意へと形を変えていきました。せつ子さんは初めて、自分自身の声に耳を傾けたのです。
—
退院の日、あけ美さんは予定通り午後3時に病院にやってきました。
「お母さん、大丈夫? もう歩ける?」
「ええ、だいぶ良くなったわ」
病室を出る前に、せつ子さんは山口看護師にお礼を言いました。
「本当にありがとう。あなたの言葉で何かが変わった気がします」
山口さんは微笑みながら、せつ子さんの手を握りました。
「自分の人生は自分のものです。どうか大切になさってください」
あけ美さんの車に乗り込んだせつ子さんは、窓の外の景色を黙って眺めていました。頭の中では、この数日間で考えたことが整理されていました。
「お母さん、これからどうする? うちに戻る? それとも、実家に帰る?」
あけ美さんの質問に、せつ子さんは静かに答えました。
「実家に帰るわ」
「え、でも一人じゃ心配だよ。今回みたいなこともあるし」
「あけ美、聞いて。私はこれから、自分の生活を立て直すつもりよ」
車内が静まり返りました。せつ子さんは、これまでにない落ち着いた口調で続けました。
「今回の入院で、自分自身と向き合う時間ができたの。私はこれまで、あなたたち家族のことだけを考えて生きてきた。でも、それが本当に正しかったのかしら」
「お母さん、何を言ってるの? 私たち、家族じゃない」
「そうね。家族よ。でも、私にも自分の人生があるの。あなたが私を必要とするのは、都合のいい時だけじゃない」
あけ美さんは運転しながら何度もせつ子さんを見ました。母親がこんな風に話すのは、初めてでした。
「そんなことないよ。お母さんがいてくれて助かってるよ。本当に」
「あけ美、私が高熱で倒れた時、あなたはどうした? 会議中だからと電話を切ったわね」
あけ美さんは黙り込みました。せつ子さんは深く息を吸い、自分の気持ちを整理して話し続けました。
「私はもう援助はできないわ。経済的にも、体力的にも限界なの。あなたは自分の家族と、あなたの力で生きていくべきよ」
「でも、お母さん…
」
「あけ美、私はあなたを愛しているわ。それは変わらない。でも、だからって私は自分の人生を無駄にしたくないのよ」
—
家に着くと、せつ子さんはすぐに荷物をまとめ始めました。翌日の新幹線で実家に戻る予定でした。
夕食の時間、せつ子さんはしんや君にもきちんと説明しました。
「バーバはね、しばらく自分のお家に帰るよ。でも、しんやのことは大好きだからね」
「バーバ、また会える?」
「もちろんよ。でも、少し時間が必要なの」
その夜、部屋で静かに座っていると、あけ美さんがノックしてきました。
「お母さん、本当に帰っちゃうの?」
「ええ、そのつもりよ」
あけ美さんは床に視線を落としたまま言いました。
「私… わがままだったか… お母さんに頼りすぎて… 」
せつ子さんは優しく微笑みました。
「あけ美、あなたは悪くないのよ。私があなたにそうさせてきたの。依存関係を作ってしまったのは、私なのよ」
「でも、なんでこんな急に…
」
「急じゃないのよ。長い時間をかけて気づいたことなの。私はあなたの人生に介入しすぎた。そして、あなたも私を当てにしすぎた。それが、私たちの関係を歪めてしまったのよ」
—
翌朝、せつ子さんは静かに家を出ました。駅へ向かうタクシーの中で、これからの計画を整理していました。まずは実家の整理と修繕。そして、地域の活動に参加すること。忘れていた自分の趣味も再開したい。
不思議ね。こんなにすっきりした気持ちは久しぶり。
実家に戻ったせつ子さんは、まず部屋の掃除から始めました。一つ一つ丁寧に掃除していくうちに、心も整理されていくような感覚がありました。
次に、せつ子さんは近所の公民館で開催されているシニアのための書道教室に参加しました。初めは緊張しましたが、同世代の参加者たちとすぐに打ち解けることができました。
「皆さん、私は高橋と申します。長い間、娘の家族のことで頭がいっぱいで、自分のことを忘れていました。でも、これからは少しずつ自分の時間を大切にしたいと思っています」
その自己紹介に、多くの参加者が共感の表情を浮かべました。
「私も似たような経験があるわ。子供のために生きるのも大切だけど、自分の人生も大切にしないとね」
こうして、せつ子さんの新しい生活が始まったのです。
—
せつ子さんが家に戻ってから3ヶ月が経ちました。彼女の日常は少しずつ安定し、新しいリズムが生まれていました。週に2回の書道教室、土曜日の朝のボランティア、そして久しぶりに再開した俳句の趣味。シンプルながらも、確かな充実感のある毎日です。
この日、せつ子さんは公民館で開かれるシニアのための人生設計講座に招かれていました。参加者の体験談を話して欲しいという依頼を受けたのです。彼女は躊躇しましたが、自分の経験が誰かの役に立つかもしれないと思い、引き受けることにしました。
「私の話が皆さんのお役に立つかどうか分かりませんが、ここ数ヶ月で学んだことをお話ししたいと思います」
緊張した面持ちで壇上に立ったせつ子さんは、深呼吸をして話し始めました。
「私たちの世代は、親は子供のために生きるもの、という価値観で育ってきました。特に私たち女性は、自己犠牲を美徳とする教育を受けてきました。そして私も、その通りに生きてきたのです」
せつ子さんは自分の体験を率直に語りました。娘のために全てを捧げた日々、経済的援助、そして自分自身を忘れていった過程。そして、病気をきっかけに気づいた真実についても。
「愛するということは、必ずしも全てを与えることではないのです。時には、手放すことも愛情表現の一つだと気づきました。そして何より、自分自身を大切にすることが、健全な関係の基盤になるということも」
会場には40代から80代までの様々な年齢層の参加者がいました。多くの人が頷きながら聞いていました。
「現代社会では、親子関係の形も大きく変わってきています。かつての大家族制度では、親の老後は子供が面倒を見るのが当然でした。しかし、今は核家族化が進み、共働きが基本です。その中で古い価値観だけを持ち続けると、お互いに無理が生じてしまいます」
せつ子さんは、自分とあけ美さんの関係がこじれてしまった原因を分析しました。
「私の場合、経済的にも精神的にも依存関係を作ってしまったことが問題でした。私が娘に尽くしすぎ、娘は私のサポートを当てにする。そんな不健全な循環が生まれていたのです」
そして、せつ子さんはこの3ヶ月で気づいた最も大切なことを語りました。
「親は親、子は子。それぞれが自立した個人として尊重し合うこと、そして適切な距離感を保つこと。それが、実は最も深い愛情表現なのかもしれません」
会場からは小さな拍手が起こりました。
質疑応答の時間になると、60代の女性が手をあげました。
「私も息子夫婦に頼られすぎて疲れています。でも、断ると嫌われるのが怖いのです。高橋さんは、どうやってその恐れを乗り越えましたか?」
せつ子さんは優しく微笑みました。
「確かに怖いです。でも考えてみてください。本当の親子の絆とは、お互いの健康と幸せを願うものではないでしょうか。無理を続けることは、結局誰の幸せにもなりません」
別の参加者からは、「子供との関係を修復することはできるのでしょうか」という質問もありました。
「まず、自分自身と向き合うことです。そして子供たちを責めるのではなく、自分はこれからの関係をどうしたいのかを冷静に考える。私の場合はあけ美との関係を完全に絶つのではなく、新しい形を模索しています」
講座の終わりに、せつ子さんはこう締めくくりました。
「老いるということは失うことでもありますが、新しく得るものもあります。自分自身と向き合う時間、人生を振り返る知恵。そして、本当に大切なものを見極める目。私はこれから先の人生を、誰かのためではなく自分のために生きてみようと思います。それが結果的に、周りの人たちとの健全な関係にも繋がるのではないでしょうか」
会場は静かな感動に包まれました。
講座の後、多くの参加者がせつ子さんに話しかけてきました。彼女の経験に共感し、勇気づけられた人々です。
「高橋さん、あなたの話を聞いて、私も変わろうと思いました。自分の気持ちに正直に生きる勇気をもらいました」
そんな言葉を受けながら、せつ子さんは心の中でつぶやきました。
私の経験が誰かの支えになるなんて。人は、何歳になっても役に立てるものなのね。
この日をきっかけに、せつ子さんは定期的に講座の講師として招かれるようになりました。自分の経験を語ることで、同じ悩みを持つ人々の力になる。それが彼女の新しい生きがいの一つとなっていきました。
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せつ子さんが新しい生活を初めてから1年が経ちました。季節の移ろいと共に、彼女の心にも穏やかな変化が訪れていました。
春の午後、せつ子さんは庭の小さなテーブルでお茶を飲んでいました。実家の庭は、今や彼女の癒しの場所となっています。丁寧に手入れされた花壇には、色とりどりの花が咲き誇っています。
あの日、病院を出て決断した時は、こんな穏やかな日々が来るとは思えなかったわ。
せつ子さんの元には、時々あけ美さんからメッセージが届くようになりました。最初は事務的な内容でしたが、少しずつ打ち解けた調子に変わってきています。
「お母さん、しんやが書道教室で賞をもらったよ。おばあちゃんに習った、迫力ある書き方が良かったんだって」
そんなメッセージに、せつ子さんは心から笑顔で返信できるようになりました。かつてのような依存関係ではなく、適切な距離感を保った関係は、意外にも2人の絆を深めていました。
書道教室で知り合った田村さんと山下さんとの友情も、せつ子さんの支えになっています。似た経験を持つ3人は、週に一度のお茶会を欠かしません。
「私たちの世代は、自分よりも家族を優先するけれど、それが時に不健全な関係を作ってしまうこともあるのね」
「そうね。適切な愛情と献身の境界線を知ることが、大切なのかもしれないわ」
そんな会話を交わしながら、彼女たちは互いの経験から学び合っていました。
ある日、せつ子さんは地域の高齢者センターで、シニアのための健康な親子関係講座を開くことになりました。講座には20名ほどの参加者が集まりました。
「皆さん、私は高橋せつ子と申します。今日は『愛することと尽くすことの違い』というテーマでお話しします」
自信に満ちた表情で語るせつ子さんの姿は、1年前とは明らかに違っていました。目には穏やかな光が宿り、言葉には確かな重みがありました。
「愛するということは、時に手放すことも含まれます。そして何より、自分自身を大切にすることが、他者を本当の意味で愛する土台になるのです」
講座の後、せつ子さんは窓から沈みゆく夕日を眺めました。かつては孤独と不安を感じた時間も、今は静かな喜びに満ちています。
私はまだ旅の途中。でも、今は自分の足で歩いている。
そう思いながら、せつ子さんは深呼吸をしました。73歳になった今、彼女はようやく自分自身の人生を生き始めたのです。
40年間、私は娘を愛してきました。そして、これからも愛し続けるでしょう。でも、それと同じくらい大切なのは、自分自身を愛することだったのです。
夕暮れの光に包まれながら、せつ子さんの唇には穏やかな微笑みが浮かんでいました。


