「お母さん、遺言書を書いておいた方がいいわよ。万が一のためだから」――そう優しく言いながら、嫁の目はもう私の死んだ後の財産を数えていた。余命三ヶ月と宣告された七十二歳の私に、息子夫婦がかけた言葉は「これも運命だね」だけ。そして昨夜、私は聞いてしまった。二人が私の葬式の段取りと、医療費を惜しむ相談をしているのを。三十八年かけて育てた息子が、私の死を待ち望んでいるなんて。でも、彼らはまだ知らない…

「お母さん、遺言書を書いておいた方がいいわよ。万が一のためだから」――そう優しく言いながら、嫁の目はもう私の死んだ後の財産を数えていた。余命三ヶ月と宣告された七十二歳の私に、息子夫婦がかけた言葉は「これも運命だね」だけ。そして昨夜、私は聞いてしまった。二人が私の葬式の段取りと、医療費を惜しむ相談をしているのを。三十八年かけて育てた息子が、私の死を待ち望んでいるなんて。でも、彼らはまだ知らない...

「もうすぐいさんが手に入るのね。」

息子の嫁、ゆかさんがそう言ってにやりと笑った瞬間の表情を、みよ子さんは一生忘れることはできませんでした。

七十二歳のみよ子さんは、先日、余命三ヶ月という残酷な宣告を受けました。普通なら家族は悲しみに暮れるはずです。しかし、息子夫婦の反応は全く違いました。

「母さん、大変だったね。でもこれも運命だから。」

表面上は心配そうな顔をしているゆかさんですが、その目の奥には明らかに期待の光が宿っていました。まるで抽選の当選発表を待つような、そんな冷たい輝きです。

三十八年間、女手一つで育て上げた最愛の息子が、みよ子さんの死を心待ちにしているなんて。でも、まだみよ子さんには彼らの知らない切り札がありました。

みよ子さんの人生は決して平坦な道のりではありませんでした。夫の正夫さんを四十五歳という若さで病気でなくし、まだ七歳だった息子のゆきさんを女手一つで育てあげてきたのです。

「お母さん、僕が大きくなったら絶対に楽させてあげるからね。」

幼いゆきさんがそう言って、小さな手でみよ子さんの涙を拭ってくれた日のことを、今でも鮮明に覚えています。あの頃のゆきさんは本当に優しい子でした。

みよ子さんは朝から晩まで働き詰めでした。昼間は会社で事務仕事をし、夜は内職でアクセサリーの組み立てをしました。ゆきさんには何不自由ない生活をさせてあげたい一心で、自分の食事を抜いてでも息子の教育費を捻出しました。

しかし、ゆきさんが結婚してゆかさんを家に迎えてからというもの、みよ子さんの立場は徐々に変わっていきました。同居を始めた当初は、家事や孫の世話を積極的に手伝い、息子夫婦の負担を少しでも軽くしようと努力していました。

「母さん、もう年なんだから無理しないで。部屋でゆっくりしてなよ。」

最近ではゆきさんからそんな言葉をかけられることが多くなりました。表面上は優しい言葉ですが、その裏には「もう邪魔だから何もするな」という意味が込められているように感じられるのです。ゆかさんも最初の頃は「お母さん、いつもありがとうございます」と感謝の言葉を口にしていましたが、今ではみよ子さんの存在を煙たがっているのが手に取るようにわかります。

こんなに尽くしてきたのに、みよ子さんの死を心待ちにしているなんて。息子夫婦の本性を知った今、みよ子さんの心は深い悲しみと怒りに包まれていました。

余命宣告を受けてから、息子夫婦の態度は目に見えて変わりました。表面上は心配そうな顔を見せていますが、その裏では明らかに何かを計算している様子が伺えます。

「お母さん、体調はどうですか?無理しちゃだめですよ。」

ゆかさんが優しい口調で声をかけてきますが、その視線はみよ子さんの顔ではなく、リビングに飾られている古い家具や美術品に向けられていました。まるで値踏みをするような、そんな冷たい目つきです。

ある日、みよ子さんが台所でお茶の準備をしていると、隣の部屋からゆかさんの電話の声が聞こえてきました。

「そうなの?お母さんがあと三ヶ月なんですって。やっと家が空くけど、仕方ないわよね。」

みよ子さんは手を止めて、そっと耳を済ませました。

「遺産ね。この家だけでも三千万円はくだらないでしょうし、貯金もそれなりにあるはずよ。やっと私たちも自由になれるわ。」

ゆかさんの声には悲しみのかけらもありませんでした。むしろ、長年望んでいた朗報を友人に報告しているような、そんな弾んだ調子でした。

「葬式はできるだけ安く済ませるつもりよ。家族葬で十分でしょ。その分、私たちの生活費に回したいもの。」

みよ子さんは震える手でお茶碗を持ち直しました。まだ生きているのに、もう葬式の段取りまで決められているなんて。

その夜、みよ子さんが早めに寝室に向かうと、リビングからゆきさんとゆかさんの話し声が聞こえてきました。

「母さんの遺言書はまだ書いてもらってないよな。」

「そうね。早めにお願いした方がいいんじゃない。手続きが面倒になるわよ。」

「でも、あまりせかすと怪しまれるかもしれない。慎重にやろう。」

「大丈夫よ。『万が一に備えて』って言えばいいのよ。それより、この家のローンが残ってないか確認した?大丈夫、もう完済してる。母さんがだいぶ前に終わったって言ってたし。」

「よかった。それなら売却しても全額手に入るわね。この土地は高いわよ。」

ゆきさんの声が続きます。

「病院代もバカにならないな。治療とか無駄な出費は使いたくないよ。」

「そうね。お母さんも苦しむだけでしょうし、自然に任せるのが一番よ。」

ゆかさんの声は、まるで不良品の処分を相談しているような、そんな冷酷さに満ちていました。

翌朝、みよ子さんが朝食の準備をしていると、ゆかさんがやってきました。

「お母さん、そろそろ遺言書を書いておいた方がいいんじゃないですか?万が一のことを考えて、家族のためにもきちんと整理しておかないと、後々面倒なことになりますから。」

ゆかさんの笑顔は作り物のように不自然でした。

「それにお母さんの気持ちも整理できると思うんです。安心して治療に専念できますし。」

ゆきさんも加わります。

「母さん、床の言う通りだよ。俺たちのことは心配しなくていいから。」

心配しなくていいどころか、二人はすでにみよ子さんの死後の生活設計まで立てているではありませんか。

その日の午後、みよ子さんが病院から帰ってくると、ゆかさんが不動産のチラシを眺めていました。

「お母さん、お疲れ様です。調子はいかがですか?」

「おかげ様で、まだしばらくは大丈夫そうです。」

その言葉を聞いた瞬間、ゆかさんの顔がわずかに曇ったのをみよ子さんは見逃しませんでした。

「そうですか。それは良かったです。」

口では喜んでいるように言いながら、ゆかさんの表情には明らかに落胆の色が浮かんでいました。

夕食の席で、ゆきさんが切り出しました。

「母さん、病院のこともあるし、俺たちも協力するけど、あまり高額な治療は…」

「そうですね。お母さんも辛い思いをするだけですし、無理な延命治療は考えない方がいいかもしれません。」

ゆかさんの言葉に、みよ子さんは箸を持つ手が震えました。まるで早く死んで欲しいと言っているようなものです。

「それより母さん、孫たちの教育費のことも考えなくちゃいけないし。将来のことを考えると、できるだけ出費は抑えたいんだ。母さんも分かってくれるよね。」

みよ子さんは静かに頷きました。しかし心の中では、怒りの炎がめらめらと燃え上がっていました。長い間、家族のために命をかけて働いてきたのに、今では医療費すらも惜しまれる存在になってしまったのです。しかも、その息子が母の死を待ち望み、遺産の計算まで済ませているなんて。みよ子さんはまだ生きているのに、荷物として扱われていました。

そして、息子夫婦はみよ子さんの人生最後の日々さえも金銭的な負担としか考えていないのです。

みよ子さんの体調が悪化したのは、ある雨の夜のことでした。急に息苦しくなり、胸に痛みを感じて、ゆきさんとゆかさんに助けを求めました。

「母さん、大丈夫?」

ゆきさんは慌てたように駆け寄ってきましたが、その表情には心配よりも困惑の色がこめられていました。

「お母さん、救急車を呼びましょうか?」

ゆかさんの提案に、ゆきさんは少し考え込むような顔をしました。

「うん。でも救急車って大げさな気がするよな。」

「確かにそうね。タクシーで行った方がいいかも。でも病院まで行くってなると、かなりお金かかるんじゃない。」

みよ子さんは息を切らしながら、二人の会話を聞いていました。母親が苦しんでいるというのに、最初に頭に浮かぶのがお金の心配だなんて。

結局、ゆきさんの車で病院に向かうことになりましたが、車内での会話はみよ子さんにとって衝撃的なものでした。

「今夜が山かもしれないな。」

ゆきさんが小声でつぶやきました。

「そうね。覚悟はしておかないと。」

ゆかさんの声には悲しみではなく、どこか準備万端といった安堵感が込められていました。

みよ子さんの容態は一晩で安定しましたが、翌日の夜、二人が自分たちだけで話し合っているのを聞いてしまったのです。

「母さん、もう長くないと思うんだ。」

ゆきさんの声が廊下に漏れてきました。みよ子さんは寝室のドアの影で息を殺して、その会話に耳を傾けました。

「そうね。病院の先生も『いつ何があってもおかしくない』って言ってたわ。でも、このまま家で看病するのは大変だよ。床だって疲れるし、子供たちにもよくない。」

みよ子さんの心臓が激しく鼓動を打ちました。まさかこのタイミングで施設送りの話が出るなんて。

「お母さんも病院の方が安心でしょうし、専門的なケアを受けられるわ。それに、最後の時を家族に見取られるより、静かに一人で行く方がお母さんのためかもしれないでしょう。」

ゆかさんの声は冷静でした。

「そうだな。子供たちも怖がるだろうし、母さんも気を使わなくて済む。明日、母さんに話してみよう。きっと理解してくれるよ。」

「そうね。『お母さんのために』って言えば断れないでしょう。」

二人の会話は続きました。

「病院は仕方ないとして、あまり高額な治療は避けたいよな。残る金が減るし。」

「そうね。そもそも延命治療とかはお母さんも望んでいないでしょうしね。」

みよ子さんは自分の耳を疑いました。息子夫婦はみよ子さんの意思を確認することもなく、勝手に治療方針まで決めているのです。

「それより、母さんがいなくなったらこの部屋をどうする?子供部屋にするか、私の趣味の部屋にしようかしら。」

「いいね。母さんの荷物も整理しないといけないし。」

まるでみよ子さんが生きていないかのような口ぶりでした。

翌朝、二人は予定通り、みよ子さんに病院入院の話を切り出しました。

「母さん、昨夜のこともあったし、病院に入院した方がいいと思うんだ。」

ゆきさんの表情は表面上は心配そうに見えましたが、みよ子さんには本心が透けて見えました。

「お母さんのことを考えると、専門的な治療を受けられる環境の方が安心だと思うんです。」

ゆかさんも、まるでみよ子さんを思いやっているかのように言いました。

「家だと何かあった時に対応が遅れるかもしれないし、お母さんも心配でしょう。」

みよ子さんは二人の顔を見つめました。昨夜の会話を知っているだけに、この優しげな言葉が全て嘘に聞こえました。

「二人とも、私のためを思って言ってくれているのね。」

「そうですよ。お母さんの体が一番大事ですから。」

ゆかさんは安堵の表情を浮かべました。

「それに、私たちも仕事があるし、十分な看病ができないかもしれません。病院なら二十四時間体制で見てもらえるし、何より安心だよ。」

ゆきさんも畳みかけます。

みよ子さんは静かに頷きました。しかし心の中では確信していました。それは看病の負担を避けたいという理由ではなく、みよ子さんを家から追い出して死を待つための手段なのだと。

息子が母親を捨てるなんて。長い間愛情を注いで育てた息子が、母親の最後の時を一人で迎えさせようとするなんて。

でも、みよ子さんにはまだ切り札がありました。息子夫婦が知らないとっておきの秘密が。

病院への入院準備を進めながら、みよ子さんは心の中で冷静に状況を整理していました。息子夫婦の本性を完全に理解した今、みよ子さんには決断すべきことがありました。

実はみよ子さんには、誰にも明かしていない秘密がありました。みよ子さんの父親は、戦後復興期に建設会社を立ち上げた「矢田建設」の創業者だったのです。会社は現在でも東京で大きなビルを何棟も所有しており、みよ子さんはその唯一の相続人でした。

「みよ子、できる限り質素に暮らし、何かあるまでは息子にも内緒にしておきなさい。」

父親の遺言通り、みよ子さんは普通の主婦として生活してきました。夫の正夫さんにさえ詳しいことは話していませんでした。ゆきさんには「おじいちゃんは小さな会社をやっていた」としか伝えていません。みよ子さんの本当の資産は、現金だけで二億円、不動産を含め五億円を超えていました。毎月の配当金だけでも二百万円以上ありましたが、それを生活費に使うことはありませんでした。

入院の準備をしながら、みよ子さんは古い手帳から一枚の名刺を取り出しました。「矢田建設顧問弁護士 中野法律事務所」中野弁護士は、みよ子さんの父親の代から矢田建設の資産管理を任されている、信頼できる人物でした。

「中野先生でしょうか?みよ子です。」

みよ子さんは震える声で電話をかけました。

「みよ子さん、お久しぶりです。お体の調子はいかがですか?」

中野弁護士の優しい声が受話器から聞こえてきました。

「実は相談したいことがあるんです。明日、お時間をいただけませんでしょうか?」

「もちろんです。いつでもお待ちしております。」

翌日、みよ子さんは「病院の手続きで外出する」と息子夫婦に告げて、中野法律事務所を訪れました。

「みよ子さん、随分お痩せになりましたね。」

中野弁護士は心配そうにみよ子さんを見つめました。

「先生、実は余命三ヶ月と宣告されました。」

「それはお辛いでしょう。」

みよ子さんは息子夫婦の態度について詳しく説明しました。遺産への期待、医療費への不満、そして病院への追い出し計画まで。

「許せません。お父様が築かれた財産を、そのような人間に渡すわけにはいきません。」

中野弁護士の表情が厳しくなりました。

「先生、遺言書を書き直したいんです。息子夫婦には一円も残したくありません。」

「承知いたしました。どのようになさいますか?」

みよ子さんは深呼吸をして、自分の決意を告げました。

「全財産を社会福祉法人に寄付します。恵まれない子供たちのために使ってもらいたいんです。」

中野弁護士は驚きの表情を見せました。

「五億円を超える資産を全て寄付されるのですか?」

「はい。息子には十分な教育を受けさせましたし、仕事もあります。自分の力で生きていけるはずです。」

みよ子さんの声には硬い決意が込められていました。

「それともう一つ、お願いがあります。」

「なんでしょうか?」

「私の死を、少しの間だけ秘密にしていただけませんか?」

中野弁護士は困惑した表情を見せました。

「と申しますと?」

「息子夫婦に遺産がゼロだということを知らせてから、私が生きていることを明かしたいんです。」

みよ子さんは復讐計画の詳細を説明しました。医師と協力して死を偽装し、息子夫婦が相続の手続きを取った時点で財産が全て寄付済みであることを告知する。そして最後に、みよ子さんが生きていることを明かして、彼らの行動の報いを受けさせるという計画でした。

「それはかなり複雑な計画ですね。」

「先生、私は三十八年間、息子のために生きてきました。でも、その息子が私の死を金儲けの機会としか考えていないんです。金の亡者には、それにふさわしい運命を与えてあげたいんです。」

みよ子さんの目には、悲しみと怒りが交互に浮かんでいました。

中野弁護士は長い間考え込んだ後、ゆっくりと頷きました。

「わかりました。お父様もきっと、みよ子さんの決断を支持されるでしょう。」

その日のうちに、新しい遺言書が作成されました。矢田家の全財産は「みよ子記念基金」として、恵まれない子供たちの教育支援に使われることになったのです。

みよ子さんは法律事務所を後にしながら、心の中でつぶやきました。

「お父さん、お母さん、正夫さん、私は正しいことをしているでしょうか?」

空を見上げると、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいました。まるで天国の家族が、みよ子さんの決断を後押ししているかのようでした。これから始まる復讐劇に向けて、みよ子さんの準備は整いました。

入院から二週間が経った頃、みよ子さんの容体は表面上、急激に悪化していました。これは中野弁護士が手配した信頼できる医師との綿密な計画の一部でした。

「先生、母の容体はどうでしょうか?」

ゆきさんが医師に尋ねましたが、その声には心配というより、むしろ期待が込められているように聞こえました。

「正直に申し上げて、今夜が山場かもしれません。」

医師の言葉に、ゆかさんがそっと安堵のため息をついたのを、みよ子さんは薄目を開けて確認していました。

「そうですか。母も苦しまずに済むならいいのですが。」

ゆきさんの言葉には、悲しみのかけらもありませんでした。

その夜、みよ子さんは静かに息を引き取ったことになりました。医師が死亡宣告を行うと、ゆきさんとゆかさんは涙を流しながら悲しんでいるふりをしましたが、その目には明らかに安堵の光が宿っていました。

「母さん、お疲れ様。」

ゆきさんがみよ子さんの手を握りながら言いましたが、その手は震えていませんでした。

「お母さん、ゆっくり休んでください。」

ゆかさんも形だけのお悔やみの言葉を口にしましたが、すでに心は葬儀の段取りと遺産相続の手続きに向いているのが手に取るようにわかりました。

実際には、みよ子さんは隣の個室で、中野弁護士と今後の段取りを相談していました。

「明日から、息子さんたちは相続の手続きを始めるでしょう。」

みよ子さんの予想は適中しました。葬儀を終えた翌日、ゆきさんとゆかさんは張り切って中野法律事務所を訪れました。

「先生、母の遺産相続の件で伺いました。」

ゆきさんは上機嫌でした。

「みよ子様の遺産についてですね。」

中野弁護士は厳粛な表情で二人を応接室に案内しました。

「はい。手続きをお願いしたいのですが。」

ゆかさんも期待に満ちた顔をしています。

「では、遺言書の内容をお聞かせします。」

中野弁護士が重々しい封筒を取り出すと、二人の目が輝きました。

「まず、預貯金についてですが…はい。〇円です。」

ゆきさんとゆかさんの表情が一瞬で凍りつきました。

「え、〇円ってどういうことですか?」

「続いて、不動産についてですが…こちらも〇円です。」

「そんなバカな!家があるじゃないですか!」

ゆかさんが声を荒げました。

「あの家は、実は矢田建設の所有物でした。みよ子様は生前、その家を会社に返還されました。」

「矢田建設?何それ?」

ゆきさんが混乱した様子で尋ねました。

「みよ子様のお父様が創業された会社です。現在も東京で大規模な不動産事業を展開しております。」

中野弁護士は、みよ子さんの本当の身元について説明し始めました。

「矢田建設の総資産は約五十億円。みよ子様はその唯一の相続人でいらっしゃいました。」

二人の顔が青ざめていきました。

「じゃあ、母さんは大金持ちだったってことですか?」

「はい。みよ子様の個人資産だけでも、五億円を超えていました。」

ゆかさんが震え声で尋ねました。

「それなら、その五億円はどこに?」

「全額、社会福祉法人『矢田みよ子記念基金』に寄付されました。」

中野弁護士が淡々と告げると、ゆきさんが立ち上がりました。

「そんなのおかしいじゃないですか!息子の僕には相続権があるはずだ!」

「遺言書には明記されております。『息子夫婦の本性を知った今、彼らには一円も残したくない』と。」

ゆかさんが蒼白になって尋ねました。

「本性って、何のことですか?」

「みよ子様は全てをご存知でした。お二人が遺産を心待ちにしていたこと、医療費を惜しんでいたこと、みよ子様の死を期待していたことを。」

ゆきさんはのけぞりました。

「母さんが…聞いていたなんて…」

「さらに申し上げますと…みよ子様は、現在も生きていらっしゃいます。」

「えっ!?」

二人が同時に声をあげました。

「死亡診断書は偽造されたものです。みよ子様は、お二人の反応を確認するために死を演じられたのです。」

その時、応接室のドアがゆっくりと開きました。

「ゆきさん、ゆかさん、お久しぶりですね。」

みよ子さんが元気な姿で現れました。二人は幽霊でも見たかのように震え上がりました。

「か、母さん…死んだんじゃ…」

「残念でしたね。まだ生きています。私の死をそんなに待ち望んでいたのですね。」

みよ子さんの声は氷のように冷たくなっていました。

ゆかさんが涙声で弁解しようとしました。

「お母さん、誤解です!私たちは本当に心配して…」

みよ子さんは遮りました。

「『やっと家が空く』『葬式は安く済ませよう』『延命治療は無駄』…これらの言葉も誤解ですか?」

ゆきさんの顔が真っ青になりました。

「母さん、それは…」

「私は三十八年間、あなたのために命をかけて働いてきました。夫をなくした時も、あなたを大学まで行かせるために必死でした。それなのに、私の死を金儲けの機会としか考えていなかった。」

みよ子さんの声が震え始めました。

「母さん、僕たちが悪かった。もう何も言わないでください。」

みよ子さんは手をあげて制しました。

「お金が欲しかったのでしょう。残念ですが、金の亡者には一円も残しません。」

ゆかさんは必死に頭を下げました。

「お母さん、お願いします!私たちには子供もいるんです!」

「子供?みよ子さんは冷たく笑いました。その子供たちに、どんな教育をするつもりですか?家族の死を待ち望むような教育を。」

ゆきさんとゆかさんは、返す言葉がありませんでした。

「これが、私の死を待ち望んだ代償です。」

みよ子さんは最後にそう告げて、法律事務所を後にしました。後に残されたゆきさんとゆかさんは、呆然とその場に座り込むしかありませんでした。彼らの金の亡者ぶりが、全てを失う結果を招いたのです。

法律事務所での衝撃的な告白から数ヶ月が経った現在、みよ子さんは心から満足のいく新しい人生を歩んでいました。矢田建設の新しいオフィスビルの一角に設けられた「みよ子基金」の事務所で、みよ子さんは毎日充実した時間を過ごしています。

「みよ子さん、今日もたくさんの感謝のお手紙が届いています。」

基金の事務スタッフが、子供たちからの手紙を持ってきました。

「ありがとうございます。みんな元気に勉強しているかしら?」

みよ子さんの顔には、息子夫婦といた頃には見せることのなかった本当の笑顔が浮かんでいます。基金を通じて支援している子供たちは現在百名を超え、彼らからの感謝の手紙がみよ子さんの何よりの生きがいとなっています。

「僕は将来、お医者さんになって困っている人を助けたいです。」

小学三年生の男の子からの手紙を読みながら、みよ子さんは涙がこぼれそうになりました。この子供たちこそが、今のみよ子さんの本当の家族なのです。

一方、ゆきさんとゆかさんの現在はどうでしょうか。あの日以来、二人は完全に経済的困窮に陥ってしまいました。ゆきさんは勤めていた会社で、母親の遺産相続のために嘘をついて有給を取りすぎたことがバレて解雇されました。ゆかさんも、友人たちに「大金持ちになる」と自慢していたことが恥ずかしくて、近所に住めなくなってしまったのです。

「母さんに謝りに行こう。」

ゆきさんが何度も提案しましたが、みよ子さんは二度と二人に会おうとはしませんでした。

「ゆきさん、お母様はもうお会いになるつもりはないそうです。」

中野弁護士を通じての連絡も、全て拒否されました。

「母さん、お願いです!僕たちが間違っていました!」

ゆきさんがみよ子さんの新しい住まいの前で土下座しても、みよ子さんが姿を表すことはありませんでした。

現在、みよ子さんは東京都内の高級マンションで、心から信頼できる人々に囲まれた生活を送っています。基金の仕事仲間、支援している子供たちとその家族、そして本当の意味での友人たち。

「みよ子さん、今度の日曜日に子供たちとのピクニックを企画しているのですが、いかがですか?」

基金のスタッフからの誘いに、みよ子さんは嬉しそうに頷きます。

「是非参加させてください。子供たちに会うのが一番の楽しみですから。」

みよ子さんの周りには、今では本当の愛情に基づいた人間関係があります。誰もみよ子さんのお金を目当てにしているわけではありません。みんな、みよ子さんの人柄を慕い、心から尊敬しているのです。

ある日、みよ子さんは日記にこう書きました。

「私は今、人生で最も幸せな時間を過ごしています。お金で繋がった偽の家族関係を断ち切ったことで、本当の愛情とは何かを知ることができました。」

みよ子さんが学んだのは、家族だからといって無条件に許されることではないということです。血縁関係があっても、人としての最低限の尊敬と愛情がなければ、それは本当の家族ではないのです。

「金の亡者には、それにふさわしい運命を与えました。でも、私は憎しみで生きているわけではありません。むしろ感謝しているのです。あの経験があったからこそ、本当に大切なものが何かを知ることができたのですから。」

みよ子さんは窓の外の青空を見上げながら続けました。

現在七十二歳のみよ子さんには、まだまだやりたいことがたくさんあります。基金の活動を通じてより多くの子供たちを支援すること。そして何より、残された人生を心から愛せる人々と共に過ごすこと。

ゆきさんとゆかさんは、今でもみよ子さんに許しを求め続けています。しかし、みよ子さんはもう振り返ることはありません。

本当の家族とは、お金ではなく愛で結ばれるものです。私は正しい選択をしました。

みよ子さんの新しい人生は、まだ始まったばかりです。真の愛情に囲まれた、心から満足できる日々が続いているのです。

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