「貧乏旅行は扱ってません」
作業着のまま旅行代理店に入った俺に、担当者は下卑た目線でそう言い放った。
俺はただ、視察旅行の手配を相談しに来ただけだ。観光のパンフレットをもらいに来たわけでも、ましてや貧乏旅行の相談に来たわけでもない。しかし担当者は俺の格好を見た瞬間から、話を聞く気など最初からないようだった。
俺は内藤、50歳。仙台で父から精密加工の町工場を引き継いで経営している。社長と言ってもデスクにいる時間はほとんどなく、機械にまみれて旋盤の前に立っている時間の方がずっと長い。うちの加工技術が本物だと言われる根拠は、父が開発した精密加工技術の特許にある。父が基礎を作り、俺が改良を重ね、これまでに3度の特許更新を行ってきた。
その技術で加工した部品は、業界の主要な精密機械メーカーに広く使われている。航空会社の予約システム、ホテルの管理端末、物流の仕分け装置。それらが止まらず動いていることを、使う側の人間は当然のことだと思っている。縁の下で誰にも見えないまま精度を保ち続ける。それが俺たちの仕事だ。
社長の他に、俺にはもう一つ顔がある。精密機械工業会の理事長だ。父の代から業界との縁が深く、これまでの功績が評価されて、3ヶ月前に就任した。
いつものように旋盤の前で作業をしていると、工場の固定電話が鳴った。業界団体の事務局からだった。
「大東理事長、視察旅行の件です。団長として会員500名をまとめていただけますでしょうか?」
精密機械工業会が数年に一度主催する、業界関係者500名規模の視察。理事長である俺が団長を務めるのは当然の流れだった。
「分かった。手配を進める」
視察の手配を進めるため、まず旅行代理店を当たることにした。行き先の候補はラスベガスだ。カジノのイメージが強いが、工場や関連産業の拠点が近隣に集まっていると聞く。500人を受け入れる宿泊施設の規模も考慮すると、適当な選択だった。
翌日の午後、取引先への納品を終えた帰り道。業界内でも名の知れた大手旅行代理店に立ち寄ることにした。作業着のままだったが、工場に戻って着替えている時間はない。大手ならば団体視察旅行の経験もあるはずだ。
店内は清潔で、季節ごとの旅行パンフレットが整然と並んでいた。カウンターの横には外資系企業や上場企業との取引を示すプレートが並んでいる。作業着で出かけることに俺は何の引け目も感じていない。これが俺の仕事だ。
カウンターに近づくと、30代とおぼしき男性スタッフが顔を上げた。名札には「久保」と書かれている。久保は俺を見た瞬間、動作が少し遅れた。顔は作った笑顔を形作ったが、視線は俺の作業着へと戻っていった。
「本日はどのようなご要件でしょうか?」
その声に、俺を客として歓迎する丁寧な響きはない。嫌な予感を覚えながらも、俺は要件を伝えた。
「視察旅行の手配を相談したい」
これが言い終わる前に、久保はパンフレット棚へ手を伸ばしていた。そしてカウンター越しに差し出してきたのは、国内4泊の個人向けパックツアーだった。
「失礼ですが、何名様のご予定ですか? 弊社は小規模の個人旅行はご案内が難しい場合がありまして」
俺が何も言わないうちに、すでに小さい客と決めつけている。
「法人案件だ。個人客じゃない。規模は500名。行き先はラスベガスを検討している」
久保の顔から作り笑顔が消え、代わりに俺を見下すような薄笑いが浮かんだ。
「はあ。500名でラスベガスですか?」
久保は俺の作業着を改めて一瞥してから続けた。
「お客様、そのお召し物で法人案件と言われましても、にわかに信じがたいんですが。率直に申し上げますと、弊社のお客様は一部上場している法人様や外資系のお客様が中心でして。そういったお客様と同じご案内をするには、少々……」
言葉を濁したが、久保が言わんとしていることは明瞭だ。油まみれの作業着姿の男と一流企業の客は、同列には扱えないということだ。久保は鼻で笑いながら続けた。
「それと500名というのも、正直なところ少々現実的ではないかと存じます。現場でお仕事をされている方々が500名規模で海外旅行と言われても、想像がつきかねるんですよ。うちは貧乏旅行は扱ってません。せいぜい田舎の民宿がお似合いですよ」
この男は500名という数字もラスベガスという行き先も、端から信じていない。それどころか、現場仕事をしている人間が海外に出かけること自体ありえないとさえ思っている。作業着を見た瞬間から、俺がどんな要件を持ち込もうと結論はすでに決まっていたのだ。
ここにいても時間の無駄だ。俺は久保の目を見据えた。
「そうですか」
一言そう言って、カウンターを離れる。反論する気が起きなかったわけではない。しかしこの男に何を説明しても有意義な話にはならないと判断した。説得に時間を費やすより、別の手を探す方が早い。
自動ドアが開いた瞬間、背後から久保の声が届いた。
「近くに別の代理店もありますよ。まあ、どこの店も同じ対応になるでしょうが」
その後すぐ、久保が同僚に向けて言うのが聞こえた。
「油まみれの作業員が海外旅行とか言い出してさ。バカみたいだろ」
隣にいた同僚が引きつった笑いを浮かべているのが、ガラス越しに映っている。俺がまだ店内にいるうちに口にするには、あまりに軽い物言いだった。
俺は振り返ることなく店を後にした。
大手の店を出て、俺はすぐ隣に視線を向けた。小ぢんまりとした店構えだったが、看板に「海外への団体旅行承ります」と記されている。規模では話にならないが、専門を謳うなら聞く価値はある。
ドアを開けると、カウンター奥にいた40代とおぼしき男性が立ち上がった。名札には「森田」と書かれている。森田は俺の作業着に視線を向けることなく、「どうぞ」と丁寧に言って、俺を奥の打ち合わせスペースへ案内した。
テーブルに腰を下ろすと、森田がお茶を差し出した。そこで初めて壁に目が向く。額に入った取引実績の表彰状が横一列に並んでいる。業界団体や大手企業の名前が連なり、中には数百名規模の法人旅行の実績を示すものもあった。
外から見て分かるものは何もない店だが、この壁が語っているのは、これまでに積み上げてきた仕事の厚みだ。
「旅行の手配を相談したい。法人案件だ」
「承知しました。詳しくお聞かせください」
先入観を持つ機会が、森田にはまるでなかった。
「精密機械工業会の視察旅行で、参加者は500名。行き先はラスベガスを検討している」
森田はメモを取りながら淀みなく返した。
「500名規模ですと、1便での移動は難しいため、複数便への振り分けが前提になります。ラスベガスへの直行便は本数が限られますので、乗り継ぎルートも含めた手配が必要ですね。またアメリカへの渡航には、全員分の渡航認証の電子申請が必要となります。現地での移動は、コンベンション施設とホテル間のシャトル手配が一般的です。視察の時期はいつ頃お考えですか?」
久保の店では、俺が口を開く前に結論が出ていた。この男は、俺が話し終わる前に次の質問を準備しているようだ。質問する前に必要な情報が出揃っているからだ。大型法人案件を数多く手掛けてきた経験が、その言葉の隅々に染み渡っている。
「2ヶ月後の出発を想定している」
「では、早急に動く必要があります」
森田はパソコンに手を伸ばす前に俺を見た。
「1点だけ確認させてください。行き先はラスベガスで確定でしょうか?」
「まだ候補段階だ」
「でしたら参考までに申し上げます。このままラスベガスで確定した方がいいと思います。なぜならラスベガスのあるネバダ州は、近年法人税ゼロ、電力優遇、輸送インフラ整備を組み合わせた産業誘致政策を展開しております。特に半導体関連の製造拠点が砂漠地帯に急速に集積しており、精密加工と関わりの深い部品メーカーやサプライヤーも複数参入してきました。業界団体の視察地として注目される場所の1つです。見学ルートに組み込める施設についても、情報をご用意できますよ」
予定行程の確認でも観光案内でもない。目的にまで専門的な視点からアドバイスが来る。細部まで目が届くとはこのことだ。
俺は短く返した。
「あなたに任せる」
「ありがとうございます。私どもは大手ほど宣伝はできませんが、こういった案件を数多く積み上げてきました。尽力いたします」
森田はその場でパソコンを開き、航空会社の空席状況と現地ホテルの大型団体枠を確認し始めた。
俺はやり取りをしながら、この店の外観を思い返していた。隣の大手と比べればちっぽけな店構えだ。だがこの男の仕事は本物だと、入店してからの一連のやり取りで分かる。うちと同じだ。機械の染みた作業着を着ているからと言って、できる仕事の質まで外から見えるわけじゃない。小さな工場が精密加工の特許技術を持てるように、小さな代理店が大型法人案件のノウハウを持てる。外から見た規模と中の実力は別の話だ。
10数分ほどのやり取りの後、森田が差し出した書類は、視察の規模と条件が整理された提案書だった。俺は躊躇なくペンを取った。仮契約を済ませ、俺は森田の店を後にする。手には視察の概要がまとめられた提案書。500名の移動ルート、宿泊施設の規模、渡航認証の申請スケジュール。今後の手順がようやく具体的に見えてきた。
店を出た瞬間、隣の大手店のドアが開いた。出てきたのは2人。1人は久保。もう1人は50代とおぼしき、体格のしっかりした男性だ。
久保が俺を見て、口元を緩めた。
「あれ? まだいらっしゃったんですか? 隣の店でも田舎の民宿を進められたんじゃないですか?」
「いえ、きちんと契約してきました」
「へえ。どこの民宿でした?」
「先ほどあなたに言った通り、ラスベガス、500名で」
久保の口元が薄笑いのまま動かなくなり、目から表情が消えていく。しばらくして、空気が抜けるような声が出た。
「ラスベガス……500名……」
聞き返すということは、先ほど入店した際に行ったことさえ、この男の頭には残っていなかったということだ。俺はそれ以上何も言わず、歩き出した。
数歩進んだところで、背後から低く落ち着いた声が届いた。振り返ると、50代の男性が一歩前に出て、深く頭を下げている。
「お待ちください。弊社の者が大変失礼なことを申し上げました。お差し支えなければ、少しお時間をいただけますか?」
男性はそう言いながら名刺を取り出した。名刺には「エリアマネージャー」という肩書きと共に「三村」という名前が記されている。
三村は久保に向き直り、声を低めた。
「久保。お客様に対する今の態度は何だ? 店内でこのお客様に何と言った? ラスベガスで500名の団体旅行をご依頼されたお客様に、そんな軽口を叩いて民宿を進めたのか?」
久保の肩がわずかに揺れた。
「……法人案件とおっしゃっていたんですが、作業着でいらっしゃったもので。にわかに信じがたく……」
久保は口をつぐんだ。三村の目が細くなる。
「後で詳しく聞かせてもらうぞ」
そう言って三村はただ静かに、深く息を吐いた。怒鳴るわけでも声を荒げるわけでもない。その沈黙の方が、どんな叱責よりも重かった。
三村は俺に向き直る。俺はその顔を改めて見た。うっすらと見覚えがあると感じていたのは、気のせいではなかった。
「以前、精密機械工業会の視察でご一緒したことがあったかと思いますが。担当者として同行させていただいたものです」
言われてみれば、数年前の視察に代理店側の担当として同行していた人物だ。その頃俺は一参加者として列に加わっていた。
俺は作業着の胸ポケットに常に入れてある名刺入れから、一枚取り出す。三村は両手で受け取り、目を落とした。指先が一瞬止まる。
「精密機械工業会……理事長……」
声がかすれている。三村はゆっくりと顔を上げ、深く頭を下げた。
「この度は担当者が大変なご無礼を。明日改めてお詫びに伺ってもよろしいでしょうか?」
路上での言葉では、正式な詫びにならない。三村はそう判断しているのだろう。
「どうぞ」
それだけ答えて、俺は歩き出した。背後で三村の時を含んだ短い声がした。
「久保。来い」
俺は振り返ることなく、提案書を脇に抱えながら歩いていく。渡航認証の申請期限を考えれば、至急事務局へ連絡を入れなければならないのだから。
その夜、三村から電話が入った。翌日の訪問時刻の確認と共に、久保のことも話してくれた。以前の店で大口案件の実績を重ねたことが傲慢な接客につながったこと。俺の店が業界内で名の通った存在だと全く知らなかったこと。
「明日は久保を同行させ、直接お詫びを申し上げさせます」
三村がそう告げた夜、俺はすでに事務局への連絡を終え、工場の明りの下で翌日の段取りを組んでいた。
翌朝8時、工場の応接室に三村と久保が並んで立っていた。三村は昨日と変わらぬ落ち着いた様子だった。久保はその半歩後ろに立ち、視線を床に向けている。
俺がソファーを勧めると、2人が腰を下ろした。昨日の軽薄さが久保から消えていた。顔色は白く、両手を膝の上に置いて固まっている。
三村が姿勢を正した。
「昨日は久保が大変なご無礼を申し上げました。改めてお詫び申し上げます」
2人が頭を下げた。久保もそれに倣ったが、体の動きが遅い。
「久保、顔を上げろ」
三村が短く告げた。久保がゆっくりと顔を上げる。
「お前がどういうことをしたのか分かっているか?」
久保は無言のまま、かすかに首を横に振った。
「内藤様は精密機械工業会の理事長だ。昨日の視察手配は個人客の話じゃない。視察団500名は、全員日本の精密加工業界の現場を担う立場の方たちだ」
久保の顔が引きつった。膝の上で両手を握り直す。
「で、でも、あんな格好で来られたら……」
久保は自分で言いかけた言葉に、一瞬だけ顔を歪めた。言い訳にならないと気づいたのか、言葉が続かなかっただけなのか、判断がつかない。応接室にしばらく沈黙があった。外から旋盤の低い音が聞こえてくる。この工場が何をしているのか、この男は昨日まで何も知らなかった。
「少し話がある」
久保が顔を上げる。俺はこういう話を普段はしない。自分の仕事は部品で語るものだと思っているからだ。だが今日だけは話す必要があると感じた。俺は久保に向かって、静かに話し始めた。
「あなたが毎日使っている予約端末がある。あの画面の向こうで、世界中の航空券とホテルの情報が瞬時に処理されていく。そのシステムの基盤を動かしている精密部品。それはうちの特許技術で製造した部品だ」
久保の表情が固まった。
「久保さん。あなたが毎日クリック一つで世界中の席や部屋を手配できるのは、その技術が止まることなく動き続けているからだ」
久保は言葉を失っていた。反論の気配もない。ただ両手が膝の上でゆっくりと握りしめられた。
三村がソファーを立ち、床に膝をついた。深く頭を垂れる。
「弊社が業務を続けていられるのは、御社の技術のおかげです。本当に申し訳ありませんでした」
久保が隣に膝をつき、同じく頭を下げる。今度は遅れなかった。声は出ない。額を床へ向けたまま、肩だけが小さく震えている。恐怖か後悔か、判断はつかなかった。
俺は2人を見た。
「謝るのは私にだけじゃない。あなたの会社が毎日使うシステムを支えている、うちの会員500人全員だ」
久保の肩の震えが止まった。三村の「はい」という声だけが、応接室に短く響いた。
俺は腰を上げた。2人を見送った後、旋盤の前に戻る。旋盤の低い音がいつも通り工場に響いている。三村と久保のことは、機械音の中へ静かに溶け込んでいく。工場はまるで何事もなかったかのように、いつもの雰囲気を取り戻していった。
数日後、事務局から連絡が来た。
「今回の代理店の担当の方、とても配慮が行き届いていますね」
森田からの連絡は途切れることなく届き、渡航認証申請の進捗、複数便への振り分け、現地の移動手配まで、こちらが問い合わせる前に報告が届くという。
そして視察旅行出発の日は滞りなく訪れた。500名はラスベガスへ飛び、製造業の集積地を巡る有意義な視察を終えて、全員が無事帰国した。
しばらくして、三村から連絡が入る。今回の件を受けて社内調査が行われたとのことだった。調べが進むにつれ、久保がこれまでにも服装や肩書きで客を判断し、重要な案件を門前払いにしていた事実が複数件明らかになったという。失注した大口案件の数は、今回だけではなかったのだ。
その結果、久保は降格処分になったとのこと。その後、業界団体との大口案件を失う発端を作った者として社内での居場所もなくなり、間もなく自主退職したという。
三村が業界団体に正式な謝罪のために訪れたが、理事会の判断は早かった。満場一致で、大手代理店を取引先リストから除外する。以後、俺が理事長でいる限り、精密機械工業会の案件は全て森田の店が担うことになるだろう。
理事会が動いたのは、俺が頼んだからじゃない。この業界にいる人間は、職人の仕事の価値を知っている。目の前の存在に誠実に向き合うこと。それが俺の仕事の姿勢であり、今回の件で改めてそのことを思い知った。



