「大学の1つも卒業せずに、この会社に来たのか。高卒で」
その言葉を上司に投げかけられた瞬間、職場での俺の立場は一変した。だが、それまでの俺は、この上司を気のいい人物だと思っていた。
俺の名前は達也。20歳でこの会社に入社した新入社員だ。自分で言うのもなんだが、昔から勉強は得意で、物覚えが良く、仕事ができるタイプだと自負していた。激しい受験戦争を勝ち抜いて一流大学に入学した俺は、自分がどれだけやれるのか挑戦したいという気持ちから、大学に通いながら起業した。最初は勉強と両立できていたが、あるプロジェクトの成功をきっかけに会社が軌道に乗り、次第に両立が難しくなった。苦労して掴んだ大学と、仲間と共に育ててきた会社。どちらかを選ぶのは簡単ではなかった。しかし、勉強はいつでもできるが、今波に乗っている会社を大きくするのは今しかできない。俺は会社を選び、大学を中退した。学歴は高卒になった。
それから1年が経った頃、転機が訪れる。俺の元に、ある会社から評価のメールが届いた。俺の実力を評価するから、是非うちの会社に来てほしいという、いわゆるヘッドハンティングだった。ずっと挑戦したいと思っていた業種で、普通は高卒だと入れないような大企業。提示された条件も魅力的だった。しかし、仲間と育ててきた会社を離れることに躊躇し、返事ができずにいた。そんな時、半ばが背中を押してくれた。「この会社のことは俺たちに任せろ。その代わり、新しい会社で絶対夢叶えろよ」その言葉に救われた俺は、ヘッドハンティングの話を受け入れ、今の会社に入社した。
新しい会社では、仕事も覚え順調な日々を送っていた。ただ、職場に一人、気になる人物がいた。同じ部署の上司だ。入社したての頃は、仕事を丁寧に教えてくれたり、俺のために残業して手伝ってくれたりする、部下思いのいい上司だと思っていた。しかし、ある日を境にその態度は急変した。
「お前、かなり優秀だけど、大学はどこなんだ?」
そう聞かれた俺は、大学に入学したが在学中に起業して中退したことを伝えた。すると、突然上司の顔が曇る。
「お前、大学の1つも卒業せずにこの会社に来たのか。高卒で」
「は、はい」
あまりの変貌ぶりに困惑しながら答えると、上司は意味深なことを言った。「そうか。お前を見る目が変わったよ」
その日から、上司は手のひらを返したように態度が変わった。俺が残業していれば「高卒は仕事が遅くて困る」、分からないことを聞けば「高卒はそんなことも分からないのか。もう少し自分で考えろ」と、何かにつけて高卒だと馬鹿にする。俺が考えた企画が通っても、「なんで高卒の企画が通るんだよ。上はバカなのか」と、正当に評価しようとしない。さらに、確信は持てなかったが、俺の業績を自分の業績として上に報告しているらしかった。ある飲み会で酔っ払った上司が口を滑らせた。「高卒が入ってきてから俺の業績が2倍3倍になってバンバンだよ。高卒部下の手柄を大卒上司が取っても何の問題もないよな」さすがに見逃せないと思い、「さすがに冗談ですよね?」と聞くと「おお、冗談だ」と言っていたが、あの目は本当にやっているとしか思えない。
挙句の果てに、上司の態度のせいで部署全体が俺を腫れ物のように扱うようになった。会議で意見を言うたび、全員が上司の顔色を窺っているのが分かる。仕事終わりに一緒にご飯に行っていた同期も、よそよそしくなった。居心地も悪ければ仕事にも集中できない最悪な日々が何ヶ月も続いた。
そんな中、唯一心配して優しくしてくれた先輩が、みささんだった。彼女は控えめで物静かな性格だが、部署の中でも仕事はかなりできる方で、尊敬できる先輩だ。上司の態度が変わった後、すぐに昼休みの隙に話してくれたことがあった。
「あの上司、ちょっといい大学出て、いい会社に就職して天狗になっているのか分からないけど、過激な学歴主義者なの。私も女子大出身なことを散々馬鹿にされたから、達也君の気持ちは分かる。何もしてあげられないかもしれないけど、あんなやつ気にせず頑張ろうね」
それからも、俺が出社すると少し遠慮がちに笑いかけてくれたり、ふとした時にお疲れ様とお菓子を差し入れてくれたりした。積極的に何かをしてくれたわけではないが、そのさりげない心遣いに精神的に助けられ、常日頃感謝していた。彼女が言う通り、みささんも上司に気に入られておらず、たまに学歴を侮辱するような発言をされたり、少しのミスで怒鳴られたりしていた。
そんな中でも、部署全体としてはかなりの業績を上げていた。自分で言うのもなんだが、俺が中心となって動かしていたプロジェクトが大成功したのも大きいだろう。ある日、上司が部署の業績アップのお祝いとして、みんなにご馳走するという流れになり、俺とみささんにいい店を探してくるように指示してきた。新生活が始まったばかりで土地感すら掴めていない俺には困惑するしかなかったが、みささんがいい店があると提案してくれた。それはとても良い感じの寿司屋だった。
打ち上げ当日、寿司屋に行くと、高級感がありながら落ち着いた雰囲気の内装に上司も満足そうだ。
「今日は業績アップのお祝いだからな。遠慮せず好きなもの頼んでいいぞ」
それぞれが好きなネタを頼んでいく。俺も注文しようとすると、上司に止められた。
「お前の分はもう注文してある」
嫌な予感がしたが、来てからじゃないと分からないと待つ。数分後、みんなが頼んだ寿司が次々と出される。ウニ、イクラ、マグロ。色とりどりで艶やかな寿司に思わず見とれてしまう。さすが高級寿司屋だ。俺の寿司も出された。海苔で巻かれた中に、緑の野菜が巻かれている。それはかっぱ巻きだった。上司の嫌がらせもここまで来ると大したものだ。呆れて文句を言う気にもならなかった。みんなも一瞬顔を引きつらせたが、見なかったかのように普通に振る舞っている。俺が食べ終わると、またかっぱ巻きが出される。みんなが美味しそうに高級ネタを頬張っている横で、一人だけかっぱ巻きを食べ続ける俺。惨めな気持ちになっては上司の思う壺だと思い、かっぱ巻きを味わって食べてみるが、一層悲しくなるだけだ。5つほど食べたところで、さすがに呆れて上司に言った。
「かっぱ巻き以外も食べたいんですけど、なんで俺だけかっぱ巻きなんですか」
すると上司は下品な笑い声を上げて言った。
「高卒に寿司の味は分からんだろう。お前にはそれで十分。他のを食べたきゃ自分で払え」
さらに大声で煽ってくる。「さすが高卒。かっぱ巻きが似合う」みんなも気持ち程度の愛想笑いを返すしかないようで、地獄のような雰囲気だ。上司は酒がかなり回っているようで、その後も断るごとに俺を大声で馬鹿にして、一人楽しそうにしている。腹が立ったが、みんなで頑張った結果の業績アップの打ち上げの雰囲気を悪くしたくなかった。俺一人の我慢でみんなが打ち上げを楽しく過ごせるなら、喜んで我慢する。
すると、酔った上司は、みささんのことも馬鹿にし始めた。
「女子大出身のお嬢様がよくうちの会社に来ようと思ったよな。こんな世間知らずの女を雇っているのはうちの会社じゃ俺くらいだからな。感謝しろよ」
俺が馬鹿にされるのは我慢できるが、いつも優しくしてくれるみささんが馬鹿にされるのは許せない。頭に血が登り、立ち上がって大声で言いかけた。
「ちょっと、今のは言いすぎ──」
「あれ? お前?」
突然、天井から声がした。いや違う。俺たちの会話を聞いていた人物が、上司に話しかけてきた。
「お前、村中じゃないか? もしかして山田か?」
全員が二人に注目する。
「さっきからどっかで聞いたことある声がすると思ってたよ」
天井から現れた人物、否、隣の席から立ってきた人物は続ける。
「さっきからひどい上司がいたもんだと見ていたが、村中だったとは」
上司は気まずそうな表情で何も言い返せないようだ。
「こいつ、大学の同期なんだけどよ。昔から性格悪くて友達もいなかったんだよ。とにかく悪知恵が働くやつで、まあ、単員ってやつだ。俺は同じゲームが好きで、被ってた授業が多かったからたまに話す仲だったが、大学卒業したっきりだったな。企業に就職が決まったのは知っていたが、まさかこんな奴になってるとは」
どうやら、この店の主人が上司の大学時代の同期で、昔の上司のことを知っているらしい。酔いが覚めた上司は、小さな声を情けなく発しながら、ただその話を聞くしかできなかった。さらに畳みかけるように、店の主人は上司に向かって言った。
「娘がいつも世話になっているようで」
皮肉たっぷりの笑顔を浮かべながら言う。上司は大きく目を見開いて、じっと店の主人を見つめる。上司の顔から見る見る血の気が引いていく。
「こいつ、俺の娘なんだよ」
店の主人が、みささんに近づき、肩をポンポンと叩く。これには俺も驚いた。まさか、この店の主人が上司の同級生で、しかもみささんのお父さんだったなんて。話によると、みささんから常々上司の差別的な態度のことを聞いていたらしい。
「色々聞いたが、今の時代にそんなにひどい学歴主義者がいるとは思わなかったな」
上司は何か言いたげに口をパクパクさせている。さらに、店の主人は言った。上司が会社のお金を横領していることを知っており、そのこともみささんから相談されていたと。上司は「なんでそれを」と言わんばかりの表情でみささんの方をゆっくりと見返す。
「それでよ、今度打ち上げする店を探すように言われたって聞いたもんだから、俺の店にしとけって言ったんだよ。みさから聞く話があまりにひどいもんだから、この目で確かめた上でなんとかできねえかなって思ってな。そしたらそいつが大学時代の同期だったんだから、世間って狭いよな」
店の主人はそう言いながら、豪快に笑う。上司は声を震わせながら必死に言葉を絞り出す。
「なんとかするって……こんなちっぽけな寿司屋一つ経営してるだけのお前に何ができるんだよ」
「ああ、それはな。俺、実はあんたらの会社の株主なんだ。社長とも取締役とも長い付き合いでな。みさからの話と、部下に対する態度、全部社長に報告させてもらうから」
すると、急に上司は冷静さを取り戻し、勝ち誇った顔で叫び出した。
「社長に報告したけりゃすればいい。報告したところで、横領も部下に対する態度も証拠なんてないんだから、俺をどうにかするなんてお前にはできねえよ」
いつもの下品な笑い声で笑う上司。それを見て、店の主人は呆れたようにため息をついた。
「あのなあ。証拠がないなんて誰が言った? 横領も、部下に対する高圧的な態度も、しっかり証拠あるんだ。だからさっさと諦めろ」
信じられないというような顔で見つめる上司。
「証拠なんてお前が持ってるはずがない」
「ああ、俺は持ってない。みさが持ってるんだよ」
俺を含め、全員が驚いた表情でみささんを見る。
「ちょ、お父さん、それは言わない約束じゃ」
みささんが顔を赤らめながら言う。おそらくこの場にいる全員が詳しい話を聞きたがっていたが、みささんは恥ずかしがって何も話そうとしてくれない。いつの間に証拠なんて集めていたんだ。彼女は行動力がないタイプだと自分で言っていたが、どうやらそうでもないらしい。いや、かなりあるではないか。俺は心の中で思わずツッコミを入れた。
「というわけだから、あと、俺のところのかっぱ巻きは、他のネタに負けないくらいうまい。職人は全てのネタを命かけて握ってるんだ。それを馬鹿にする奴は許さねえ」
店の主人はドスの効いた声で上司に言い放ち、そして俺に爽やかな笑顔を向けた。
「そうだろう、兄ちゃん」
「はい」
俺は運動部張りの元気な声で答えた。
その後、上司は懲戒処分を受けることとなり、1ヶ月も経たないうちに子会社への異動となった。上司がいなくなった職場は快適で、部署の他の人たちとの関係も元に戻り、俺は本来の力で仕事ができるようになった。みささんも性格が少し外交的になり、以前より話すことが増えた。
ある日、みささんと俺が中心で進めていたプロジェクトが成功したお祝いに、二人でみささんのお父さんの店に行くことになった。
「おお、よく来たな。久しぶり。君が達也君だね。娘から優秀だって聞いてるよ」
笑顔で出迎えてくれる店の主人に、みささんは少し気まずそうに言う。
「ちょっとお父さん、恥ずかしいからそんなこと言わないで」
「実は君のことは、ヘッドハンティングされる前に社長から聞いていたんだよ。うちの会社に来て欲しい人がいるんだって」
俺は驚いてしまった。社長が俺をこの会社に呼んでくれたなんて光栄すぎる。
「まさかみさと同じ部署に配属されるとは思ってなかったよ。これからも娘をよろしくな。今日はゆっくりしていってくれ」
豪快に笑いながら言う店の主人に、俺たちも笑いながら席につく。かっぱ巻きだけじゃなく、美味しいお寿司をたらふく食べ、話も尽きてきた頃に、ふと思い出したように聞いた。
「そういえば、あの時の証拠っていつ集めたんですか?」
ずっと気になっていたことだ。結局あの打ち上げの後、具体的なことは何も知らされず、上司が移動になったから、色々な疑問が宙ぶらりんのままだった。そんな俺の問いを他所に、みささんはいたずらっぽく笑って言った。
「それはね、秘密」
そして、お寿司を口いっぱいに頬張る。
「ええ、教えてくださいよ」
俺は冗談っぽく言いながら、全くどこまでも尊敬できる先輩だなと、ふっと笑みをこぼした。



