25年ぶりに戻った故郷。見慣れた商店街、低い山並み、その麓に白い建物が見えた。桜川市民病院。俺がこれから働く場所だ。大代誠、43歳、外科医。かつては大学病院にいたが、事情があって医業から離れていた。その事情をここで語るつもりはない。
病院の駐車場に車を停める。壁はひび割れ、看板の文字は色褪せていた。受付の女性に名乗ると、彼女は驚いたように奥へ入っていった。やがて現れたのは白髪の男、五田洋次郎院長。恩師の友人だという。
「遠いところをよく来てくださいました。話は聞いておりますよ」
「こちらこそ、受け入れていただいて感謝しております」
五田は俺の顔をじっと見て、小さく頷いた。それ以上は何も聞かない。俺も何も尋ねなかった。
案内された医局は狭く、机が4つだけ。壁に掛かった医師名は同じ名前ばかりが並んでいた。医師不足。それがこの病院の現実だった。
隣の机で電子カルテを見ていた女性が立ち上がった。
「内科の佐藤まなです。よろしくお願いします」
「大城です。しばらくお世話になります」
まなは軽く会釈をした。
勤務を始めて2週間ほど経ったころ、同窓会の案内が届いた。断る理由はいくらでもあったが、幹事・木村正司からの直筆の手紙に心を動かされ、足を運ぶことにした。
会場は駅前の古い居酒屋。扉を開けると、赤い顔をした男たちが一斉にこちらを見た。
「おお、大城じゃないか。東京の大病院を首になったって噂だぞ」
笑い声が上がる。
酒が回るにつれ、声は大きくなっていく。
「お前、大学病院で何かやらかしたんだろう。だから地方に流されたんだ」
「市民病院なんてあと半年も持たないぞ。潰れる船に乗ってどうするんだ」
土俵で負けて田舎に逃げてきたってやつだな。
俺は杯を置いた。
「久しぶりに皆の顔が見られて嬉しいよ。町の空気は昔のままだな」
「おい、聞いてるのか?負け犬扱いされてるんだぞ」
「聞いてるよ。ただ、今の職場に不満はないんだ。院長も看護師さんたちも、みんな一生懸命やってる。それで十分だと思ってる」
反論を待っていた男たちは、拍子抜けしたように顔を見合わせた。そこへ奥の席から静かに立ち上がった男がいた。60歳ほど、日焼けした顔、太い眉。木村正司だった。
「お前ら、いい加減にしろ。大城先生はな、今この町の病院で働いてくださっとるんだ。笑う相手じゃない」
場が一瞬静まる。
「先生、今日は来てくれてありがとうございました。俺は嬉しいですよ」
「木村さん、こちらこそ手紙をありがとうございました。あれで足を運ぼうと思えたんです」
宴がお開きになった後、俺は一人で夜道を歩いた。病院に戻ると、廊下の奥にまだ明かりがついている。扉を軽く叩くと、五田の声がした。
「ああ、大城先生か。入ってください」
中に入ると、五田は壁の前に立っていた。視線の先には額に入った古い設計図が飾ってある。色は抜け、紙は黄ばみ、四隅は破れかけていた。
「これはこの病院の設計図ですか?」
「ええ。ですが実現しなかった計画のものです」
「どなたが書かれたものでしょうか?」
「それはいつか、お話しできる日が来るかもしれませんな」
それ以上、俺は問わなかった。五田は設計図に向き直り、しばらく動かずにいた。
事件は火曜の午後に起こる。外来の待合室で男性が急に胸を押さえて倒れ込んだ。看護師が駆け寄り、大声で応援を呼ぶ。俺はちょうど診察室から出たところだった。
若手外科医の高橋陸が真っ先に飛んでくる。都会の病院への転職ばかり口にしている男だ。
「大動脈解離ですかね。とりあえずCTですかね」
俺は男性の顔色、呼吸、脈の触れ方を確認する。指先で腹部の一点を軽く押すと、男性が短くうめいた。
「先に心電図を取りましょう。それと緊急の準備を。血圧の左右差を測ってください。おそらく解離が入っています」
「え、いや、まだ検査もしてないのに」
「時間がない。動きながら確認します」
看護師がすぐに動いた。心電図が取られ、血圧が測られる。左右差が30以上ある。緊急CTの結果、大動脈解離。数分の遅れが命を分ける状態だった。俺は循環器の医局へ連絡を入れ、搬送先を確保しながら点滴の指示と鎮痛・降圧の処方を淡々と出していく。
高橋は言われるままに動いていたが、途中から手が震えていた。
男性は無事に総合病院へ搬送され、命を取り留めたと後に連絡が入る。
処置が終わった後、廊下で高橋が笑った。
「運が良かったですね、大城先生。まあ、たまたま当たったってことでしょう」
「そうかもしれないな。ただ、次に同じ患者さんが来た時は、君が最初に気づけるようにしておいた方がいい。左右の血圧差は基本だからな」
高橋は鼻で笑い、返事もせずに立ち去った。
副院長の三浦司が通りかかり、カルテを覗き込む。
「まあ、大事にならなくてよかったですな。うちで抱え込まなくて済んだ」
「はい。搬送先が受けてくれて助かりました」
三浦はそれ以上関心を示さず、事務室の方へ歩いていった。
その日の夕方、医局で一人カルテを書いていると、まなが入ってきた。
「大城先生。今日の患者さんのことですが、解離の方ですか?」
「はい」
「CTを取る前にもう診断がついていたように見えました。血圧の左右差も、その前に指示されていましたよね」
「いえ。経験から、何度か同じような症例を見たことがあるだけです」
「経験ですか?」
俺は目を上げ、まなと視線を合わせた。
「先生、何か隠していらっしゃいますね?」
「隠しているわけではありません。ただ、話す必要のないことは話さない。それだけです」
まなは少し口を開きかけ、また閉じた。やがて小さく頭を下げ、医局を出ていった。
朝の会議室はいつもより人が多かった。医師、看護師長、事務、そして県から来た担当者。長机の上に一枚の書類が置かれる。
桜川市民病院の閉鎖決定通知書。日付は半年後。
6ヶ月でこの病院は終わる。県の担当者は淡々と説明を続けた。医師不足、赤字経営、老朽化、周辺人口の減少。数字の列が続く。
五田院長は最後まで口を開かず、書類の一点をじっと見つめていた。
会議が終わった後、副院長の三浦が事務室の椅子に深く腰を下ろす。
「まあ、覚悟はしていたことですよ。院長、これ以上は無理です」
五田は返事をしなかった。
俺は何も言わず外来へ戻る。午前中の予約は詰まっていた。膝の痛みを訴える老人。次は糖尿病の中年男性。一人ずつ丁寧に話を聞いていく。病院が閉じることを患者に告げる勇気は、俺にはまだなかった。
3日後、住民説明会が体育館で開かれた。折りたたみ椅子には200人近い町の人が座っていた。県の担当者が並び、病院閉鎖の経緯を説明していく。ため息だけが体育館の高い天井へ吸い込まれていく。
最後に、商店街会長の木村正司がゆっくりと立ち上がった。マイクを握る手が少し震えていた。
「私はこの町で生まれ、この町で商売をやってきました。うちのじいちゃんも、うちの親父も、みんなあの病院で最後を迎えたんです。あの病院がなくなったら、この町で命を守る場所がなくなるんです。どうか、考え直していただけませんか?」
声が途中で詰まる。体育館の中がしんと静まった。県の担当者は目を伏せたまま「判断は覆らない」と繰り返した。
説明会の帰り道、木村が俺の隣を歩いていた。
「先生、俺はまだ諦めませんよ。この町の人間は、この病院と一緒に生きてきたんだ」
「木村さん、私にできることは限られています。ただ、患者さんを見続けることだけは、最後までやります」
木村は黙って頷き、商店街の角で別れた。
病院に戻ると、若い看護師が休憩室で泣いていた。辞めるかどうか迷っているらしい。俺は声をかけず、ただ廊下を通り過ぎた。
医局では高橋がパソコンの前で求人サイトを開いていた。画面を隠そうともしない。
三浦が俺の机の前に立った。
「大城先生、あなたも早めに次を探された方がいい。ここに義理立てする必要はありませんよ」
「今のところ動くつもりはありません。あと半年、患者さんは変わらずいらっしゃいますから」
三浦は少し眉を上げ、それ以上は何も言わずに去っていった。
その夜、俺は誰もいない手術室に入った。棚から古い持針器とピンセットを取り出す。どれも10年以上前のものだ。油の切れた関節を丁寧に拭き、緩んだネジを締め直していく。作業が終わると、練習用の縫合パッドを台に置いた。糸を通し、針を運ぶ。一針ごとに針感覚を確かめ、皮膚の張力を計算しながら縫っていく。昔、大学病院で毎晩繰り返していた動作だ。指は覚えていた。
30分ほど経ったころだろうか。背後で、小さく息を飲む音がした。俺は針を止め、振り返る。扉の隙間から、まなが立っていた。
「すみません。明かりが見えたので」
「大丈夫です。少し器具の整備をしていました」
まなはゆっくりと室内に入ってきた。俺が縫った縫合パッドをじっと見つめる。
「これ、教科書に載っているどの縫合法とも違いますね。でも、皮膚に負担がかからないように工夫されている」
「古い癖です。昔、そう教わりました」
「どなたに教わったんですか?」
俺は返事をしなかった。
まなは続けた。
「昔、学生の頃に読んだ医学雑誌があるんです。『神の手』と呼ばれた外科医の特集で、その先生の縫合の写真が載っていました。今、思い出しました」
俺は手を止めず、次の針を運ぶ。
「その先生、ある事件をきっかけに医業から姿を消してしまったそうです。名前は……」
「もう遅い時間です。明日も外来ですから、休まれた方がいい」
まなはそれから静かに会釈して、手術室を出ていった。彼女は気づいている。だが、確信はまだ持てないだろう。
翌朝、五田院長から呼ばれた。院長室に入ると、五田は机の引き出しから一通の封筒を取り出した。差出人の名前を見て、俺は息を止めた。俺の恩師の名前だった。10年前に亡くなった、あの人の字である。
「これはあの人が亡くなる前の年に、私に預けていったものです。宛名は書かれていませんでした。ただ、『時が来たら、ふさわしい者に渡してくれ』とだけ言われましてね」
「院長は中身をご存知なのですか?」
「いいえ。私は開けていません。あの人の言葉をそのまま信じているだけです」
五田は封筒を引き出しの奥へ静かに戻した。
「大城先生、この封筒はまだ開ける時ではないと私は思っています。開ける日が来るのか来ないのか、それも私には分かりません。ただ、その日が来た時、あなたに立ち会っていただきたいのです」
恩師が何を残したのか。なぜ五田が俺の名を告げずに封筒を守り続けてきたのか。問いは湧いてくるが、口には出さない。
「分かりました。その時が来るまで、私は待ちます。院長のご判断に従います」
五田は目を細め、小さく頷いた。
「ありがとうございます。あの人はね、若い頃からずっとこの地域のことを考えておりました。都会の医療がいくら発達しても、田舎で倒れた人はどうするのか、と口癖のように言っておられましたよ」
五田は静かに笑った。院長室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。壁に掛かった古い設計図が赤く染まって見える。建物の輪郭、いくつもの部屋の配置。あれを書いたのは恩師なのだろう。そう思い当たったが、俺は口にしなかった。
医局へ戻る途中、まなとすれ違った。
「大城先生、お疲れ様です。今日も遅くまでありがとうございます」
それだけの短いやり取りだった。
窓の外で、救急車のサイレンが遠くに聞こえた。夕暮れの空を鳥の群れが横切っていく。半年後にはこの病院はなくなる。そう決まっている。
日曜の午後、俺は医局で古い医学書を読んでいた。病院は静かだった。その静けさが破られたのは午後2時過ぎだった。院内放送が突然鳴り響く。
「救急外来より各科の医師へ。至急救急外来へ集合してください。繰り返します。至急救急外来へ集合してください」
俺は本を閉じ、医局を出た。廊下を走る足音があちこちから聞こえてくる。救急外来に降りると、事務員が受話器を握ったまま蒼白な顔をしていた。
「高速道路で大型バスとトラックの玉突き事故です。一般車両も巻き込まれて10数台。重傷者多数」
「うちに何人来るんですか?」
「今のところ確定で12名。まだ増えます」
壁時計が2時15分を指していた。まなが白衣の袖をまくりながら駆け込んでくる。高橋も遅れて到着した。副院長の三浦は電話を耳に当てたまま、青い顔で立っている。
「大城先生、これは無理です。うちの規模では受け入れきれません。他院に振り分けるよう県に連絡します」
三浦の指が携帯の画面を叩こうとしていた。
最初の救急車のサイレンが玄関先で鳴り響く。ストレッチャーが運び込まれる。血に染まった若い男性。意識のない中年女性。続けて、子供を抱えた父親。看護師たちが一斉に動き出したが、明らかに人手が足りていない。
高橋は棒立ちのまま、搬送されてくる患者を見つめていた。
「先生、これどうするんですか?手術室、2つしかないんですよ」
サイレンの音が次から次へと近づいてくる。2台、3台、4台。玄関の外に救急車が列をなし始めていた。
五田院長が奥からゆっくりと歩いてきた。目にはいつもと違う力が宿っていた。
俺は白衣の袖を肘までまくり、一歩前へ出た。
「全員受け入れます。ここはまだ終わっていない。三浦先生、搬送制限はかけないでください」
三浦が顔を上げ、俺を見つめる。その目に戸惑いが浮かんでいた。
「高橋先生、外科担当。まな先生、内科系のトリアージをお願いします。看護師長、手術室2つと処置室3つ、外来診察室全てを臨時ベッドに転用してください。搬送順は私が振り分けます」
指示は途切れず流れ出ていた。運び込まれてくる患者一人ひとりの前で俺は立ち止まる。瞳孔、呼吸、脈。数秒で判断し、色分けされたタグを胸元に止めていく。
若い研修医の一人が、ストレッチャーの上で震える患者の血圧を測りながら、俺の背中を見ていた。
「あの先生、何者ですか?指示に迷いがないですよ」
「分からない。でも今は、あの先生についていくしかない」
俺は最も重い患者から手術室へ運ぶ。胸部を強打した40代の男性、緊張性血胸、出血性ショック。執刀は俺が引き受けた。高橋が助手に付く。高橋の手は震えていた。
「高橋先生、吸引器はここだ。視野を確保してくれれば、あとは私がやる。呼吸だけ落ち着けろ」
「は、はい。分かりました」
俺は出血点を数秒で見極め、鉗子で確実に抑える。指の動きに迷いはなかった。糸を通し、針を運ぶ。高橋は息をするのも忘れて俺の手元を見つめていた。
「先生……こんな手、見たことない」
「手を止めるな。次の患者が待っている」
1件目が終わると、俺はすぐに2件目の手術室へ移った。判断と処置が一つの流れとして繋がっていく。時間の感覚が消えていた。
外来ではまなが内科系の患者をさばいていた。彼女もまた迷わなかった。俺の背中を何度も見てきたからだろう。
3件目の手術に入ろうとしたその時、玄関に大型の応援車両が到着した。県立大学病院からの応援である。先頭を歩いてきたのは白髪の男性だった。外科部長の教授。俺のかつての職場で、直属の上司の同僚だった人である。
教授は俺の姿に目を止めた。数秒、動かなくなった。
「まさか、あの人が……」
俺は視線を上げなかった。次の患者を確認しながら指示を続ける。
教授はゆっくりと近づいてきて、俺の白衣の名札を見た。
「大代誠……あなた、あの大代誠ですか?」
その声は、騒然とした空間に静かに落ちた。周りにいた医師も看護師も、一斉に手を止めた。三浦は口を半分開いたまま俺を見つめていた。
「教授、話は後でお願いします。今は患者です。人手を貸してください」
教授はしばらく動かなかった。やがて、深く、深く頭を下げた。
「承知しました。大城先生の指示に従います」
その日、市民病院は重傷者38名を受け入れ、一人の命も落とさなかった。最後の手術が終わったのは、翌朝の5時過ぎだった。俺は手術着のまま廊下のベンチに座り込んだ。
数週間後、この病院の名前が全国ニュースで流れた。地方の小さな病院が大規模事故で38名を救った。執刀を執った医師は、7年前に医業から姿を消した「神の手」大代誠。
テレビの中で、俺の昔の写真が映し出されていた。
国と県から正式な視察が入った。救急医療の拠点として、この病院を存続させる案が浮上したのである。1ヶ月後、閉鎖計画は正式に白紙撤回された。
五田院長はその通知書を受け取った日、俺を院長室に呼んだ。机の上には、あの茶色い封筒が置かれていた。
「大城先生。時が来たと、私は思います」
俺は封筒を手に取り、静かに開けた。中から、折りたたまれた一枚の設計図が出てくる。壁の額に飾られたものと同じ図だった。そこには恩師の字でこう書かれていた。
「桜川広域救命医療センター(構想)。この病院を、地域の命を守る最後の砦に」
日付は20年以上前のものだった。恩師は、こんなにも前からこの地に俺の未来を見ていたのだ。俺は設計図を膝に置き、しばらく動けなかった。
高橋が医局に残ることを決めたと聞いたのは、その翌朝である。
「先生、俺、ここで学ばせてください。あの日、初めて外科の仕事を見た気がしたんです」
「顔を上げてくれ。私もまだ学ぶ側だ。一緒にやっていこう」
「はい、先生。頑張ります」
三浦は多くを語らなかった。だが、挨拶の時、俺の顔をまっすぐ見て会釈をした。
木村が商店街の仲間を連れてやってきた。玄関には手作りの横断幕が掛かっていた。
「桜川市民病院ありがとう」
木村は涙を流し、俺の手を両手で握った。
「先生、この町に戻ってきてくれて、本当にありがとうございました」
「木村さん。私はこの町に育ててもらった人間です」
夕方、病棟の見回りを終えて医局に戻ると、まなが窓の外を見て立っていた。
「先生。これから、どうされるんですか?」
「ここに残ります」
まなは少しだけ笑った。その笑顔に、俺は昔の自分が救われた気がした。
「よかった。私も、ここでもう少し頑張ってみます」
「よろしくお願いします。私一人では、何もできませんから」
窓の外、桜川の低い山並みの向こうに、夕日がゆっくりと沈んでいく。壁の額の中で色褪せた設計図が赤く染まっていた。恩師が何十年も温めていた未来が、ようやくこの町で動き出す。



