「その汚いお金を抱いて、一人で死んでください」…

「その汚いお金を抱いて、一人で死んでください」...

葬儀の場で、誰も自分を悼んでくれないという可能性を、塚本総一は考えたことがなかった。節約を信念として三十年間生きてきたその男が、ある葬式で自分の人生の輪郭を初めて見せつけられる。どうか最後まで見ていってほしい。

2026年1月。神奈川県の物流会社に勤める総一は、61歳になっていた。長年の節制で身は痩せ細り、毎朝起きるのが6時。部屋の電球は一番ワット数の低いものに替えてある。朝食は前日の夕方に半額シールが貼られた弁当を温め直したものだ。スーパーが値引きを始める時間帯を彼は熟知していて、その時間に合わせて自転車を飛ばす。物価の上昇が止まらず、半額の弁当でさえ以前より値上がりしていることが、彼の頭の中で大きな損失として積み上がっていく。

会社へは片道40分の道のりを自転車で通う。職場では書類の整理と発注の入力が主な仕事で、三十年間同じ場所にいながら、彼の仕事ぶりは淡々としていた。昼は必ず自弁の弁当を食べ、同僚と食堂へ行くことはない。唯一、まともに言葉を交わせる相手が、同じ部署の先輩社員、長谷川五郎だった。小柄で丸みを帯びた体つきの、笑うと目尻に深いしわが刻まれる男だ。長谷川はいつも食堂でラーメンを食べ、週末になると大型バイクで山道や海岸線を走り回るのが趣味だった。総一にとって、それは無駄遣いの象徴でしかなかった。それでも、長谷川だけは総一の節約ぶりをからかわず、哀れむような言い方もしなかった。月に一度か二度、二人は近くの立ち飲み屋でビールを一本だけ飲む。それが総一にとって唯一の社交だった。

その長谷川が、1月の第二週の月曜日に、ツーリング中の事故で亡くなった。部長の安田が訃報を告げた時、総一は最初、言葉の意味が入ってこなかった。長谷川という名前と死という言葉が、頭の中で別々の場所に置かれていた。隣の席の女性社員が小さく声を上げたが、総一はただ画面に向き直り、動かない指をキーボードの上に置いた。窓の外は曇っていた。彼は先週の金曜日、長谷川が席を立つ時に言った言葉を思い出していた。『塚本さん、週末ちょっと走ってくるわ。静岡の方まで。天気良さそうやしな』。総一はその時、返事の代わりに小さく頷いただけだった。それが最後だった。

葬儀は水曜日の午後。総一は行くべきか迷った。迷うこと自体が不思議だったが、実際に迷った。香典は7000円で出すことにした。葬儀会館は電車で二駅先の民間の施設で、駐車場は満杯、道路の片側にも車が列をなしていた。総一は場所を間違えたのかと思った。受付で確認して中に入ると、式場は想像よりはるかに多くの人間で埋まっていた。前列には長谷川の妻らしき女性が白いハンカチを手に肩を震わせ、その隣に二十代の男女が座っている。後方にはバイク乗りらしい男たちのグループや、年配の女性たちのグループがいた。誰もが小声で話しながら、時々鼻をすする音を立てていた。総一は後方の隅に立った。式が始まり、焼香の列ができた。遺影の長谷川は笑っていた。青い空の下、バイクの傍らで両腕を広げている。総一はその写真を五秒ほど見て視線を下ろした。

焼香を終えて後方に戻ると、前方の席でライダーの一人が立ち上がり、マイクを持った。故人がグループ連絡網に誰よりも早く返事をくれたこと、困った時に一番最初に電話してくれたこと。次に別の女性が立ち、子供が入院した時に何度もお見舞いに来てくれたと話した。それから言葉をつまらせ、隣の人間に肩を支えられた。総一は壁に背をつけてその光景を見ていた。これほど多くの人間が来るとは思っていなかった。長谷川がこれほど多くの人の記憶に、笑顔や手や言葉を残していた。総一には、それに相当するものが自分にないと思った。静かに思った。怒りでも悲しみでもなく、ただ『ない』という認識だった。

式場の空気が落ち着いた頃、総一は静かに出口へ向かった。誰も彼の退場に気づかなかった。外に出ると、1月の空気が冷たかった。帰り道、彼は一度も自転車の速度を上げなかった。信号で素直に止まり、青になるのを待った。木造の古いアパートに帰り、部屋に入ると誰もいなかった。当たり前のことだが、その当たり前が今夜は少し違う重さを持って部屋に満ちていた。暖房はつけない。就寝の一時間前まではつけないというルールを自分に課している。湯を沸かし、安売りのティーバッグで茶を入れた。冷えた部屋で湯呑みを両手で持ちながら、彼はスマートフォンを取り出した。銀行のアプリを開く。毎晩の習慣だ。残高は3540万4831円。昨日より少し増えていた。その数字を見ながら、彼は今日の式場を思い出した。前列で肩を震わせていた長谷川の妻。目を赤くして天井を見上げたライダーの男。3500万円は、そのどれとも交換できない。そのことを、彼は今夜初めて実感として理解した。理解したからと言って、どうなるわけでもなかった。ただ、いつもは眺めているだけで安心できた数字が、今夜は少しも心を落ち着かせてくれなかった。

それから総一は眠れなくなった。夜中の二時か三時になると決まって目が覚め、暗闇の中で式場の光景が浮かんでは消えた。スマートフォンを手に取り、銀行アプリを開く。数字は変わっていない。当たり前だ。それでも確認せずにはいられなかった。長谷川が死んで一週間が経った。職場では長谷川の席が、机の前に少し引き出されたまま置かれていた。誰もその椅子に座ろうとしない。総一は出勤のたびに、その椅子を横目で見て視線を自分の机に戻した。

土曜日の朝、総一は六時に目を覚ました。今日は仕事がない。布団の中で天井を五分ほど見た後、彼は起き上がり、キッチンで茶を作った。食卓に座って茶を飲んでいると、長谷川が生前、立ち飲み屋で何気なく聞いてきた言葉を思い出した。『塚本さんはさ、週末してんの』。その時、総一は『特にない』と答えた。それは本当のことだった。週末の総一は、スーパーへの買い出し、アパートの掃除、洗濯。それだけだ。図書館には行くが、借りる本も経済関連や歴史物が多かった。それを読んで一週間が終わる。その繰り返しが三十年続いていた。今日はその空白が、以前とは違う重さで存在していた。もし今日自分が死んだとしたら、あの式場に何人来るだろうか。一週間経っても、その問いに答えは出ていなかった。

総一はコートを取り、外に出ることにした。特に目的はなかった。ただ、このまま部屋に一日中いるのは自分がおかしくなりそうだった。駅に向かって歩き、電光掲示板を眺めた。特に行きたい場所も思い浮かばず、なんとなく横浜方面の電車に乗った。桜木町で降り、港未来の方へ歩いた。海が見えた。冬の海は静かで、空と水の色が似たような灰色だった。総一はベンチに腰かけて海を見た。何も考えなかった。いや、考えようとしたが、うまく考えが始まらなかった。三十分ほどそこにいた。立ち上がって歩き始めた時、腹が減っていることに気がついた。いつもの計算が頭の中で始まる。コンビニで弁当を買えば四百円から五百円。定食屋に入れば八百円から千円。チェーン店の牛丼屋なら五百円以内に収まる。港未来の路地を歩きながらそういう計算をしていると、彼は立ち止まった。目の前に、石畳の細い路地があり、両側に飲食店が並んでいた。観光地の飲食店は割高だと知っているから、今まで足を踏み入れたことがない場所だ。それでも今日はなぜか、路地の中に入った。フレンチのビストロ、イタリアンのパスタ屋。そして一軒の和食料理店があった。暖簾の向こうに、温かそうな灯りが見えた。総一はその前で立ち止まった。値段は分からない。縦看板には店の名前と『営業中』という文字があるだけだった。値段が書いていない店は高いに決まっている。しかし、足が動かなかった。『塚本さんはさ、週末してんの』。長谷川のあの無邪気な口調が、どこかから聞こえた気がした。総一は暖簾に手をかけ、引いた。

店の中は想像していたより狭く、カウンターに七席と小上がりに二卓。カウンターには先客が二人、静かに食事をしていた。板前らしい初老の男性が『いらっしゃいませ』と声をかけた。総一はカウンターの端に座った。メニューを開き値段を見て、体が固まった。昼の定食が2800円から。自分が一週間かけて食べる食費に近い金額だ。しかし、もう座ってしまった。立ち上がって出ていく顔が、どうしても思い浮かばなかった。刺身定食を頼んだ。3200円だった。隣の席には、白髪混じりの男性が座っていた。六十五歳か、あるいはもう少し上か。きちんとした仕立てのグレーのジャケットを着て、姿勢よく座っている。総一は視線を戻し、出てきた料理を見た。白い皿の上に数種類の刺身が盛られていた。赤いマグロ、白い鯛、そして名前の分からない白魚。箸を取り、最初の一切れを口に入れた。口の中で何かが溶けた。総一は咀嚼を止めた。スーパーの刺身とは、根本的に違う何かがあった。次の一切れを食べた。また違う味がした。こちらはあっさりしていたが、噛むたびに甘みが出てきた。総一はゆっくり食べた。急ぐ理由がないのに急いで食べていた半額弁当の三十年間を、ぼんやりと思った。目の前にあるものは、満腹を目的として存在していない。それ以外の何かを目的として、ここにある。総一にはその何かの名前が、うまく見つからなかった。

隣の男性が器を置く音を立て、穏やかな声で言った。
「お一人ですか?」
総一は反射的に男性を見た。
「そうです」
声が少し枯れていた。誰かと話したのは、これが初めてだと気づいた。男性は遠藤茂と名乗った。六十五歳で、フリーランスで資産運用の仕事をしていると言う。月に三度はここへ来るという遠藤に、総一は仕事を聞かれ、物流の会社で事務をしていると答えた。遠藤は小さく頷いた。それから少し間を置いて言った。
「今日は珍しく来られた感じですか? こういう店に慣れていらっしゃらないように見えたので」
総一は正直に言った。
「普段は来ない。今日はなんとなく入ってしまった」
遠藤は『ああ、そういう日はありますね』と言った。咎めるでも同情するでもない。ただそういう日はある、という言い方だった。遠藤が酒を勧め、日本酒の燗を二人分頼んだ。総一が払おうとすると先に、遠藤は『私が誘ったんだから』と言って笑った。温かい酒は、スーパーで買う紙パックの日本酒とは出発点が違う飲み物だった。喉を通る時、余分なものが何もなかった。遠藤が言った。
「お金って、使い方次第で全然違う意味を持ちますよね。同じ一万円でも、ある使い方をすれば何も残らない。別の使い方をすれば十年後も記憶に残るものになる。お金の価値って、金額よりもそういうところにあると思っていて」
それは綺麗ごとに聞こえるかもしれないが、遠藤の口から出ると説教のようには感じなかった。ただの観察としてそこにあった。
「お金は自由のための道具であって、鎖じゃない。しっかり守っておかないといけないけれど、守ることが目的になると、使う機会がなくなってしまう。インフレが進んでいる今なんかは、特に。持っているだけでは価値が減っていくんですよ」
その言葉は、総一の胸のある場所にずっと入ってきた。インフレ。物価の上昇。総一が日々感じていたことだった。3500万円という数字が、これからも同じ価値を持ち続けるとは言えない。それは総一も漠然と感じていた。しかし、それをこんな簡単な言葉で言い表された人間は、今まで一人もいなかった。遠藤が名刺を出した。シンプルな白い名刺に名前と電話番号だけが入っていた。『何かあれば』と言って、総一に渡した。

食事が終わり、会計を払う時、総一は3200円を財布から出しながら、手が少し震えているのに気がついた。緊張ではなかった。ただ、この金額を払うという行為に、体がまだ慣れていないのだった。帰り道、駅に向かって歩きながら総一は遠藤の言葉を思い返した。お金は自由のための道具であって鎖じゃない。その言葉が、長谷川の葬式以来ずっと胸に引っかかっていたものに、初めて別の方向から光を当てた感じがした。

月曜日の朝、いつも通り出勤し、タイムカードを押した。すると安田部長が声をかけてきた。
「塚本さんの部屋に寄ってから来てください。中島さんが話があると」
中島は三十五歳の人事担当だ。去年の秋に本社から移動してきた。細身で、いつもシャツの第一ボタンまで閉めて、紙を制汗剤で固めている。総一と言葉を交わしたことは、これまでほとんどなかった。人事の部屋に入ると、中島は書類を一枚、総一の前に置いた。上部に『人事処遇変更通知』とあった。中島が事務的な口調で説明を始めた。2026年に入ってからの物流業界の変化。輸送コストの上昇と自動化投資の圧力。今回の再編に伴い、六十歳以上の管理部門職員については業務の見直しを行う。塚本さんの現在のポジションは、来月から新しい業務区分に移行していただく。それに伴い、基本給の調整が生じる。書類の下に書かれた数字を見た。基本給改定後金額は、現在の金額の半分だった。総一はその数字を二度、三度見た。数字は変わらなかった。『調整』という言葉だった。削減ではなく調整。中島はもう一枚書類を出した。データ入力と郵便物の仕訳が新しい業務内容だと言った。それは去年入ってきた派遣社員がやっている仕事だ。中島は書類を引き戻しながら言った。
「ご質問があれば伺います」
総一は中島の顔を見た。制汗剤で固めた紙を持つ男がそこに座っていた。表情は整っていた。感情を見せていないのではなく、感情がないように見えた。少なくとも、今この机を挟んで向かい側に座っている61歳の男の三十年が、何も中島の顔には映っていなかった。
「特に質問はないです」
総一は言った。声は平穏だった。自分でも驚くほど平穏だった。部屋を出て廊下を歩きながら、彼は手に持った書類を見下ろした。基本給が半分になる。税込みで今は二十三万円ほど。それが十一万五千円になる。家賃が五万二千円。光熱費が一万二千円。食費が二万五千円。残りは二万六千円だ。総一は頭の中で計算した。その輪郭だけで十分だった。土曜日の遠藤の言葉が、今度は別の意味で頭の中に響いた。インフレが進んでいる今なんかは、特に。持っているだけでは価値が減っていくんですよ。3500万円が貯金にある。しかし、月収が半分になれば、生活費を貯金から補填しなければならない日が来る。3200円の刺身を食べた自分を、総一は今、呪いたいような気持ちになった。

その週、総一はずっと計算を続けながら過ごした。数字の上では破綻はしない。しかし、『数字の上では』という前置きが、ひどく不安定なものに感じられた。水曜日の夕方、スーパーで半額の弁当を買いながら、彼は今まで感じたことのない種類の惨めさを感じた。半額弁当を買うことが惨めなのではない。この弁当を来月も再来月も同じように買い続け、数字の変わらない部屋で一人で食べ続けることが、今初めて惨めに思えた。帰宅してから、総一は財布から遠藤の名刺を取り出した。電話する理由はない。今日起きたことを、なぜ隣の席になっただけの人間に話す必要があるのか。そう思ったが、名刺をすぐに財布に戻す気になれなかった。食卓の上に置いたまま、台所で皿を洗った。部屋に暖房をつけた。今夜は珍しく、就寝の一時間前を待たずにつけた。ルールを破ったことに少しだけ気づいたが、止めなかった。

次の木曜日の夜、総一は食卓に座って、財布から名刺を取り出した。電話しないつもりだった。月曜日も火曜日も水曜日も、取り出しては財布に戻した。しかし、今夜このまま電話しなければ、もう永遠に電話しないような気がした。発信を押した。二度コールが鳴った後、遠藤の声が出た。
「はい、遠藤です」
総一は名乗り、話を聞いてもらえないかと言った。給与が半分になること。来月から業務が変わること。インフレが続く中で貯金の価値が減っていくのが怖いこと。遠藤の言っていた『持っているだけでは価値が減る』という言葉が頭から離れないこと。そういうことを、思ったよりすらすらと話した。遠藤は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。話が終わると、遠藤は少し間を置いて言った。
「一度、直接話しませんか? 電話だと伝わりにくいこともあるので」

翌週の土曜日、総一は再び港未来へ出かけた。待ち合わせは先週と同じ和食料理店の前。午後一時に遠藤が来た。二人は店に入り、カウンターに並んで座った。総一は今日は煮物定食を頼んだ。2500円。先週より少し安い選択をしたことに、自分で気がついた。遠藤は酒を頼み、総一にも勧めた。総一は遠慮したが、『話を聞いてもらうんだから、せめていっぱい』と言われて、一杯だけもらった。遠藤が話し始めた。
「今、国内の物流業界は大きな転換期にあります。自動化が進む一方で、ベテランの事務職が真っ先に整理されている。塚本さんのようなケースは、今年に入って急激に増えていて」
「今のインフレ環境では、現金を定期預金に入れているだけでは、実質的に価値が目減りしていく。3000万円以上の資産があるなら、一部を適切な形で運用することは、守ることにもなるんです」
遠藤はそう言って、書類の入った封筒を取り出した。表紙には『国際サプライチェーン投資ファンド』という名前があった。
「これは私が関わっているファンドの一つで、物流関連のインフラに投資しています。年利で8%から10%の実績があって、今の定期預金の金利とは比べ物にならない。塚本さんのような方が、今の資産を守りながら増やすための選択肢として、紹介できると思っています」
総一は封筒の表紙を見た。書類は分厚く、グラフや数字が印刷されていた。胡散臭いとは思わなかった。思わなかったことを、後から何度も反芻することになる。遠藤の話し方が自然だったから。書類が精巧だったから。そして何より、総一自身が今、何かにすがりたい状態にあったから。

その日は書類を持ち帰るだけにした。帰宅してから、総一は書類を食卓に広げた。過去三年間の実績として年9%前後の運用が示されていた。3500万円の9%は315万円。月換算で26万円。今の給与よりも多い。その夜、総一は久しぶりに深く眠った。それから五日が経った木曜日の夜、食卓で書類を読み返していると、電話が鳴った。知らない番号だった。総一は普段、知らない番号には出ない。しかし今夜は出た。もしもし、と言うと、しばらく何も聞こえなかった。それから、『お父さん』という声がした。総一は動かなかった。声に聞き覚えがあった。しかし、十五年の時間が声の質を変えていた。低くなっていた。かつて七歳の子供だった声が、22歳の成人女性の声になっていた。
「沙由利か」
「はい」
沙由利の声は落ち着いていたが、その落ち着きは感情を抑え込んでいる種類の落ち着きだった。
「お母さんが、入院しています」
「いつからだ」
「先月から。珍しい血液の病気で。治療法はあるんですけど、保険が適用されない治療方法で」
沙由利の声が一瞬揺れ、抑え直す気配があった。
「五百万円、用意できますか?」
総一は返事をしなかった。沙由利が続けた。
「治療が始められれば、治癒の可能性が高いそうです。でも、時間があまりなくて。先生が、早ければ早いほどいいって」
五百五十万円という金額は、今の総一の資産規模から言えば、出せない金額ではない。3500万円のうちの五百万円。しかし、来月から給与が半分になる。インフレが続く。遠藤から勧められたファンドに2500万円を入れることを、まだ決めていない。その中から五百万円を出せば、残る流動資産は限られてくる。総一の頭の中で計算が始まった。計算が始まった瞬間に、総一は自分でも気づいていた。娘から母親の命に関わる話を聞いていながら、最初に動いたのは感情ではなく計算だということに。しかし、その気づきは計算を止めなかった。最近、高齢者を狙った詐欺が増えている。家族を装って金を要求する手口。沙由利だと名乗っているが、十五年ぶりの電話だ。声は似ているが、確認する方法がない。
「今すぐには返事ができない。少し確認させてほしい」
沙由利の声が僅かに変わった。
「確認って、何を」
「病院の名前と、担当の医師の名前を教えてほしい」
少し間があった。
「横浜市立大学付属病院の血液内科で、担当は織田先生です」
総一はメモ帳を取り出して書き留めた。
「分かった。少し時間をくれ」
「どのくらい時間がかかりますか」
「一週間」
電話が切れた。

総一はその夜、眠れなかった。沙由利の声が暗い部屋の中で繰り返し聞こえた。『お父さん』という二文字が、十五年ぶりに向けられた言葉だった。翌朝、総一は出勤する前に、スマートフォンで横浜市立大学付属病院と検索した。血液内科のページを開くと、医師の名前の一覧に織田という名前があった。実在する医師だった。総一はページを閉じた。実在するからと言って、沙由利が嘘をついていないとは限らない。しかし、嘘をついているとも言えない。その週の土曜日、総一は何もできずに一日が終わった。日曜日の午後、スマートフォンに着信があった。また沙由利からだった。
「先生が、今週中に治療を始めないと難しくなるかもしれないと言っています」
沙由利の声が先週より低かった。疲れていた。
「お父さん。お願いがあってかけてくるのは、本当はしたくなかった。でも、他に頼れる人がいなくて」
その言葉を聞いて、総一の胸の中で何かが動いた。しかし、動いただけで、それを行動に結びつける回路は、長い年月をかけて錆びついていた。
「少し待ってくれ」
「どのくらい待てばいいんですか」
声に感情がなくなっていた。総一はすぐには答えられなかった。
「……分かりました」
沙由利はそれだけ言って、電話を切った。

水曜日の夜、スマートフォンにメッセージが届いた。沙由里からだった。
『お母さん、今朝から意識が混濁しています。先生が今週が山だと言っています。お父さんに判断を委ねるしかないので、もうこれ以上連絡しません』
総一はそのメッセージを三回読んだ。五百万円が出せないわけではない。しかし、出した後で詐欺だったとしたら。来月から給与が半分になる。今、五百万円という金額は、以前より重くなっている。遠藤のファンドに投資すれば、五百万円が生み出す運用益が消える。計算が頭の中でまた動いていた。返信を打とうとして止まった。何を書けばいいのか分からなかった。『出す』とも書けなかった。『出せない』とも書けなかった。その夜、総一は布団の中で何度も寝返りを打った。夜中の三時過ぎに目が覚め、天井を見て、自分が何をしているかをゆっくりと眺めた。娘が電話してきた。母親が入院していると言った。五百万円が必要だと言った。頼れる人がいないと言った。自分は何をした? 病院名を確認した。一週間待ってくれと言った。もう少し待ってくれと言った。それだけだった。五百万円が惜しいから動かなかったのか。詐欺が怖いから動かなかったのか。それとも動き方が分からなかったのか。どれが理由であれ、結果は同じだった。動かなかった。

木曜日の朝、総一は出勤前に沙由利の番号に電話した。コールが五回鳴って、繋がらなかった。昼休みにも電話した。夕方にも電話した。繋がらなかった。帰宅してからもう一度かけた。今度は繋がったが、声は沙由利ではなかった。若い男性の声だった。
「沙由利さんの知り合いの方ですか?」
「父親です」
少し間があった。男性の声が落ち着いて、しかし明らかに言葉を選びながら言った。
「沙由利さんは、今病院の待合室にいます。お母様が、今朝早く」
男性はそこで一度止まった。
「お亡くなりになりました」
総一は声が出なかった。スマートフォンを持ったまま、椅子に座っていた。部屋の中が、急に違う密度になった気がした。工事が死んだ。その事実を頭の中で三回繰り返した。工事は49歳だったはずだ。三週間前まで、沙由利の声は、『お父さん』と呼んでいた。昨日のメッセージでは、『お父さんに判断を委ねるしかない』と書いてあった。その判断を、自分は下さなかった。しばらくして、スマートフォンが鳴った。画面を見ると、沙由里からだった。総一は出た。最初の数秒、何も聞こえなかった。それから、沙由利の声が来た。先週の電話の声とは別物だった。
「お母さんが死にました」
総一は『うん』と言った。それしか出なかった。
「治療費があれば、間に合ったかもしれないって、先生が言ってた。あなたが出し渋った五百万円で、お母さんは助かったかもしれない」
『総一さん』という呼び方だった。『お父さん』ではなかった。
「分かっています」
「何が分かってるんですか」
声に感情があった。泣いているのではなかった。泣き尽くした人間の声だった。もう涙が出尽くした先にある、乾いた怒りの声だった。
「あなたは昔もそうだった。お母さんが何かしてほしいって言うたびに、計算して、値段を確認して、必要かどうか考えて、それから断った。お母さんはずっと、それを我慢してた。私も、それを見てた」
沙由利は一息ついた。
「お父さんのお金は、お父さんのものです。使い方はお父さんが決めることです。でも、一つだけ教えてください。お父さんは、今、後悔してますか?」
総一は答えられなかった。後悔という言葉の重さを、今夜初めて実感として理解しようとしていた。しかし、理解が完了する前に、沙由利が続けた。
「してないんでしょうね。どうせまた計算してる。五百万円出して詐欺だったらどうしようとか、給料が減るのにとか。そういうことを考えてる人間が、後悔なんてできるわけがないから」
総一の口から、『する』という言葉が出た。後悔します、と言いたかった。しかし、それだけしか出なかった。沙由利は少し間を置いた。それから言った。
「その汚いお金を抱いて、一人で死んでください」
電話が切れた。

総一はそれからしばらく、食卓の前に座ったままスマートフォンを持っていた。それから、テーブルの上にそっと置いた。部屋は静かだった。暖房の低い音だけが聞こえていた。右手を見た。スマートフォンを持っていた手が、少し震えていた。震えに気づいてから握りしめた。それでも止まらなかった。台所に向かい、蛇口をひねって水を出し、手のひらに受けた。水の冷たさが手に当たった。総一は水を止めた。壁に手をついた。タイルの冷たさが手のひらに伝わってきた。何かが溢れそうだった。溢れる前に、総一は奥歯を噛みしめた。泣くという行為の手前に立っていた。泣くための筋肉の使い方を、総一は長い年月の中でどこかに置いてきていた。泣き方が分からなかった。しかし、体は何かを外に出そうとしていた。声にならない息が一度出た。それだけだった。食卓に戻り、スマートフォンの画面を見た。銀行アプリを開くと、残高は3540万4831円。数字は変わっていなかった。一円も減っていなかった。五百万円は、一円も出ていなかった。その数字が、今夜、工事の死の前に何ひとつ守ることをしなかった。工事を守ることもできず、沙由利との関係を守ることもできず、総一自身の何かを守ることもできなかった。ただ、画面の中に数字として存在しただけだった。

工事が死んで三日が経った時、総一は初めて食事を抜いた。夕方にスーパーへ行こうとして、玄関で靴を履きかけたまま止まり、そのまま靴を脱いで部屋に戻った。腹が減っていないわけではなかった。ただ、靴を履き直す理由が見つからなかった。眠れない夜が続いたが、眠れないことへの焦りはもうなかった。天井を見ながら、沙由利の最後の言葉を繰り返した。その汚いお金を抱いて、一人で死んでください。汚いお金。総一は三十年かけて積み上げた貯金を、一度も汚いものだと思ったことはなかった。誰かを騙していたわけでも、人を踏みにじって奪ったわけでもない。ただ使わずに積んだだけだ。それのどこが汚いのか。しかし、使わなかった結果として何が起きたかを考えると、汚いという言葉の意味が少しだけ分かる気がした。汚いのはお金ではなく、お金への執着が総一にさせてきた行動の歴史だ。そこまで考えて、総一は考えることをやめた。

一週間後、総一は電話帳から遠藤の名刺を取り出し、電話をかけた。話の続きをしたいと言うと、遠藤は今週末はどうかと言った。土曜日の午後一時、港未来のホテルのラウンジで待ち合わせた。遠藤は今日もグレーのジャケットを着て、手に書類ケースを持って現れた。二人はソファに座り、コーヒーを頼んだ。遠藤は、より詳細な資料を開いた。ファンドの運用履歴が月単位で示されており、過去三年間の月次の運用実績が細かく記録されていた。下落した月もあったが、全体としては右肩上がりの傾向を保っていた。
「このファンドの強みは、単一の投資先に集中しないことです。アジア全域の物流インフラに分散して投資しているので、一つの市場が落ちても全体への影響が限定的になる」
総一は聞きながら、以前と違う自分を感じていた。以前の自分であれば、この種の話に乗ることは絶対になかった。しかし今は、金を守ることよりも金を増やすことへの欲求が、初めて芽生えていた。
「どのくらいの金額から始められますか?」
「最低は一千万円からです。ただ、二千万から三千万円規模であれば、運用効率が上がる。塚本さんの規模であれば、二千五百万円前後が一番効果的だと思います」
二千五百万円。総一は手元のコーヒーカップを見た。今の貯金の七割を超える金額だ。
「慎重に考えてほしいとは思いますよ。急ぐことはないし、もっと時間をかけて資料を読んでから判断してもらって構わない。ただ、このファンドは今、新規の受け入れ枠が限られていて、来月には締め切りになる可能性が高い」
来月の締め切り。総一はその言葉を聞いて、何も感じないように務めた。しかし、感じていた焦りに近い何かを、遠藤が柔らかく言った。
「塚本さん、率直に聞いてもいいですか? 今、投資を考えているのは、純粋に資産を増やしたいからですか? それとも、何か別の理由がありますか?」
総一は少し考えた。
「娘に、残してやりたいものがある」
言ってから、自分でも驚いた。誰かにそういうことを口にしたのは初めてだった。遠藤は頷いた。
「急ぎすぎる必要はないですが、目的が明確なら動きやすいですね」
その日は資料を持ち帰り、もう一度読み直すことにした。アパートに戻り、食卓の上に書類を広げた。ページをめくりながら、総一は沙由利のことを考えた。22歳。大学生なのか、社会人なのか、総一は知らなかった。工事と二人で暮らしてきた十五年間の沙由利の生活を、総一は何も知らなかった。その汚いお金を抱いて、一人で死んでください。謝ることはできる。しかし、謝って何になるのか。工事は戻らない。沙由利の怒りは言葉で消えるものではない。言葉ではなく、形を持つもの。そう考えた時、総一の頭の中で何かが決まった。感情ではなく計算が決めた。あるいは、感情を計算に変換することで、総一はようやく動けた。沙由利への謝罪を、言葉ではなく金の形にする。金を増やして、まとまった形で渡す。それが総一のできる唯一の謝り方だという気がした。

月曜日の朝、総一は遠藤に電話した。
「二千五百万円。預けることにします」
遠藤の声が落ち着いたまま、『分かりました』と言った。手続きの方法を教えますと言って、口座の振込先と手続き書類を送る住所を確認した。電話を切った後、総一は少し座っていた。今、三十年間貯めたお金の七割を、知り合って三週間の男に預けることを決めた。その事実を頭の中でゆっくりと確認した。不安があったかどうか。あった。しかし、その不安は、動かないことへの不安に比べれば小さく感じた。動かないことの結果が何を生むかを、総一はこの一か月で十分に学んでいた。

水曜日、総一は銀行の窓口に出向いた。窓口で二千五百万円の振込手続きを申し込むと、窓口の行員が上の人間を呼んできた。四十代くらいの男性が来て、本当にこの金額でよろしいですかと確認した。投資名目の振込については詐欺被害が増えているため確認させていただいていると言った。
「自分で判断しての振込です」
行員は一度立ち止まって考えてほしいとも言った。
「考えた上での決断です」
手続きは十五分で終わった。銀行を出て自転車に乗りながら、総一はスマートフォンで残高を確認した。1040万4831円。二千五百万円が消えた数字が画面に表示されていた。以前なら、残高が減るたびに胸の奥が締めつけられる感覚があった。今日はそれがなかった。代わりに、奇妙な軽さがあった。もう後には引けない、という感覚だった。その日の夕方、遠藤から短いメッセージが届いた。『入金確認しました。手続きが完了したら連絡します』。総一はそのメッセージを読んで、スマートフォンを閉じた。木曜日が来た。金曜日が来た。遠藤からは特に連絡がなかった。

土曜日の朝、総一は書類に書かれていたウェブサイトのURLを開いた。ログイン画面が表示された。書類に書かれていたIDとパスワードを入力すると、エラーが出た。もう一度入力した。同じエラーだった。ブラウザを変えて試した。同じだった。遠藤に電話した。コールが鳴る。一度、二度、三度。繋がらなかった。留守番電話に切り替わったので、メッセージを入れた。一時間経った。折り返しはなかった。もう一度電話した。今度は、この電話番号は現在使われておりませんというアナウンスが流れた。総一はスマートフォンを食卓に置いた。手が止まっていた。もう一度、名刺の番号と発信履歴の番号を見比べた。同じだった。一週間前までは繋がっていた番号が、今は存在しない番号になっている。ウェブサイトのURLをもう一度開いた。今度はページ自体が表示されなかった。『このページは存在しない』という表示になっていた。書類の封筒を取り出し、表紙の会社名を確認した。国際サプライチェーン投資株式会社。住所が書かれていた。東京都中央区。書かれている電話番号にかけたが、同じアナウンスが流れた。総一は電話を切った。書類を食卓の上に置いた。部屋が急に広く感じた。

そう一は立ち上がり、コートを着て港未来へ向かった。和食料理店の前に立った。店は開いていた。店に入り、板前の男性に声をかけた。
「先月から何度か来たものですが、遠藤茂という人物のことをご存知ですか?」
板前は少し考えてから首を振った。
「いや、存じ上げないですね。お顔は見たことがあるかもしれませんが、よくいらっしゃる方ではないです」
「どのくらいの頻度で来ていましたか」
「正直、よく覚えていないんですが、そんなに来てらっしゃらないと思います」
月に二、三度は来ます、と遠藤は言っていた。板前は覚えていなかった。書類に書かれていた東京の住所をスマートフォンで検索した。地図が出た。日本橋の住所は存在したが、ストリートビューで確認すると、そこは雑居ビルだった。表示されているビルの入居者一覧に、国際サプライチェーン投資株式会社という名前はどこにもなかった。総一はスマートフォンをしまった。石畳の路地を出て、港未来の広い通りに出た。観光客が数人、写真を撮っていた。その中に、総一は一人で立っていた。二千五百万円がなくなった。三十年間ただ積み上げてきた二千五百万円が、三日で消えた。遠藤の顔を思い出した。グレーのジャケット、落ち着いた声、自然な笑い方。総一の話を最後まで聞いた態度。あの和食料理店でのやり取り、ホテルのラウンジでのやり取り。どの場面も、遠藤の言動には胡散臭さを感じる隙がなかった。そのこと自体が手口だったのだ。信頼させるために時間をかけ、総一の状況を丁寧に聞き取り、総一が何に動かされるかを見極めた上で、正確な言葉を使った。娘に残してやりたいと総一が言った時、遠藤は頷いただけだった。その頷きが、総一の背中を最後に押した。全てが計算されていた。

アパートに戻り、銀行アプリを開いた。1040万4831円。この数字を見ることが、以前は一日の終わりの儀式だった。しかし今夜、この数字は何の感情も呼び起こさなかった。三十年のうちの残りが一千万円になった。台所に行き、湯を沸かして茶を作った。ティーバッグを節約して一袋を二度使い回している。薄い茶の味が、今夜はひどく虚しく感じた。もう一袋使おうかと思って止まった。節約の習慣が、今夜もこんなところで動いていた。二千五百万円を失った夜に、ティーバッグ一袋を惜しんでいる自分がいた。そのことに、笑えない滑稽さを感じた。笑えなかった。ただ滑稽だと思った。

月曜日の朝、総一は警察署へ行った。詐欺被害の申告をした。担当の警察官は三十代の男性で、総一の話を書類に書き取りながら丁寧に聞いてくれた。警察官は、こうした被害は今年に入ってから急増しているとも言った。物流関連のインフラ投資を名目にした詐欺グループが関東全域で活動しているという情報があると。総一は回収の見込みはあるかと聞いた。
「困難なケースが多いです」
総一は『そうですか』と言い、立ち上がった。帰り道、自転車を漕ぎながら、『困難なケース』という言葉の意味を噛みしめた。取り戻せないということだ。二千五百万円は、もう戻らない可能性が高い。それを、今朝の総一は驚くほど静かに受け止めていた。怒りがないわけではなかった。しかし、怒りより先に、疲れがあった。三十年間節約し続けた末に、三週間で七割を失った。その事実は、怒りよりもどこか深いところにある空洞を広げるものだった。アパートに戻り、総一は封筒を手に取り、そのまま丸めて台所のゴミ箱に入れた。書類も名刺もグラフも、全てゴミになった。台所に立ったまま、ゴミ箱を見た。三十年分の七割が、その中にある。蓋をした。

翌朝、総一はキッチンで湯を沸かした。今朝はティーバッグを一袋だけ使った。薄くなっても使い回す習慣を、今朝は意識的にやめた。薄い茶が嫌だったわけではない。ただ、そういうことをいつまでも続けることへの意味が、今朝は見つからなかった。茶を持って食卓に座った。一千万円が残っている。その事実を、今朝は別の角度から眺めてみた。二千五百万円を失ったという見方ではなく、一千万円が残っているという見方で。三十年前、総一が節約を始めた時、一千万円という金額は目標の一つだった。その一千万円が、今手元にある。残っているという言葉が、今朝は僅かに違う響きを持った。壊滅ではない。そこはまだある。しかし同時に、この一千万円を同じ方法で守り続けることに、もうほとんど意味を感じていなかった。守って、増やして、通帳の数字を眺めて、そしてどうなるのか。長谷川のように、誰かに惜しまれながら死ぬことには、貯金の額は関係なかった。何のために守るのかが分からなくなった時、総一は一つのことを思った。沙由利に渡すべきだ。言葉ではなく金で謝ることしか、自分にはできない。それが総一の限界だということは、この一か月でよく分かった。ならば、残っている一千万円のうちのできるだけ多くを、沙由利に渡す形にすればいい。沙由利が受け取るかどうかは、沙由利が決めることだ。総一はただ、渡せる形を作ればいい。そう決めた朝の感覚は、静かだった。興奮でも決意の高揚でもなかった。ただ、やるべきことが一つ見えたという静けさだった。

その週の水曜日、総一は定時後に会社に残り、人事の中島に声をかけた。
「話があります」
中島は少し意外そうな顔をしたが、会議室に案内した。二人が向かい合って座ると、総一は封筒を取り出した。中には自分で用意した退職届が入っていた。
「来月末で退職したいと思います」
中島は封筒を受け取り、開かずに机の上に置いた。引き止める様子はなかった。代わりに、確認事項を淡々と述べ始めた。有給の残日数、退職金の計算方法、最終出勤日の調整。総一はそれを聞きながら、中島の顔を見た。三十五歳の、制汗剤で固めた髪。感情の起伏のない声。先月、給与半減の通知を総一の前に置いた同じ人間が、今日は退職の手続きを説明している。どちらの場面でも、中島の顔は同じだった。この男にとって、塚本総一という61歳の人間は、処理すべき案件の一つに過ぎない。かつての総一なら、その事実に怒りを感じたかもしれない。今日は、怒りは来なかった。中島が最後に言った。
「三十年以上、お疲れ様でした」
惜別の言葉でも感情でもない、手続きの一部として言われた言葉だった。総一は『ありがとうございます』と言って立ち上がり、会議室を出た。

翌週の月曜日、総一は弁護士事務所を訪ねた。最寄り駅の近くにある小さな個人事務所だ。担当は六十代の男性弁護士で、白髪混じりの穏やかな人だった。総一は事情を説明した。娘との関係のこと、工事が亡くなったこと、残っている資産を娘に渡したいこと。ただ、直接連絡できる状況にないこと。弁護士は丁寧に聞いた。途中で一度だけ、離婚の経緯について確認した。総一は正直に話した。自分の節約への執着が原因だったと。弁護士は、信託という形が使えると説明した。総一が指定した金額を信託銀行に預け、受益者を沙由利と指定する。総一が亡くなった時点で、あるいは総一が指定した時点で、沙由利に渡る仕組みだ。沙由利の同意がなくても設定できる。受け取るかどうかは沙由利が決めることになるが、少なくとも形としては残せる。総一はその説明を聞きながら、九百五十万円という金額を頭の中に置いた。残っている一千万円のうち、手続き費用と今後の最低限の生活費を除いた額だ。弁護士は、本当によろしいですかと聞いた。
「はい」
弁護士は、沙由利さんが受け取らなかった場合はどうしますかと聞いた。
「その場合は、社会福祉関連の団体に寄付するよう手配してほしい」
弁護士は『分かりました』と言い、書類の準備を始めた。手続きは二週間ほどかかるという説明を受け、総一は事務所を出た。駅までの道を歩きながら、胸の中に残るものを確認した。後悔はなかった。これが正しい選択かどうかは分からない。沙由利が受け取るかどうかも分からない。しかし、総一にできることはこれだけだった。できることをした。それだけだった。

2月に入った。退職まであと三週間という時期に、総一は長谷川が好きだった酒を買いに出かけた。電車に乗り、横浜の中心部にある酒屋を訪ねた。以前、長谷川が立ち飲み屋で言っていたのを覚えていた。『あそこの純米大吟醸はいいよ。高いから年に一度しか買わないけど』。店は細い路地の奥にあった。暖簾をくぐると、木の棚に一升瓶と四号瓶が並んでいた。店主が顔を上げた。六十代の小柄な男性だった。
「純米大吟醸で、一番いいものを一本ください」
店主が棚の奥から一本を出してきた。四合瓶で一万二千円だった。総一は財布を出し、払った。一万二千円。以前の総一なら、絶対に払わない金額だった。しかし、今日の総一は、財布から取り出した一万二千円を淡々と渡した。帰りの電車の中で、瓶を膝の上に置いた。紙袋に入っていたが、中の瓶の重さが膝に伝わってきた。長谷川はこの酒が好きだった。総一はそれを、今日初めて大事なことのように感じた。長谷川がどんな酒を好きかを、総一はちゃんと知っていた。それは三十年間の節約生活の中で、唯一覚えていた他人の好みだったかもしれない。

退職の最終日は、2月の最後の金曜日だった。総一は最後の出勤をした。いつも通り自転車で行き、タイムカードを押した。引き継ぎ資料の最終確認とデータの整理。総一は丁寧にこなした。三十年間のうちの最後の一日も、特別な感慨はなかった。ただ、いつも通りの仕事をした。定時になり、パソコンの電源を落とした。引き出しの中は空だった。立ち上がり、コートを着た。周りの同僚が『お疲れ様でした』と声をかけてきた。事務の女性が短いスピーチをしてくれた。『三十年間、ありがとうございました』という内容だった。総一はそれを聞きながら、顔をどこに向けていいか分からず、自分の机の上を見ていた。中島はいなかった。今日は外出しているということだった。いなくていい、と総一は思った。部屋を出る時、長谷川の席の前を通った。席には新しい派遣社員が座っていた。総一はその席の前で一瞬だけ立ち止まり、また歩き出した。

3月の初旬、信託の手続きが完了した。弁護士から書類が届いた。総一の名前、沙由利の名前、九百五十万円という金額、信託銀行の名前。全てが一枚の紙に印刷されていた。総一はその書類を一度読み、引き出しにしまった。沙由利は知らない。いつか知る時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。総一が死んだ時、少なくとも形としては伝わる。それだけだ。

その日の午後、総一は電車に乗った。長谷川の墓がある霊園に向かった。葬儀の時に式場で配られた案内の紙を、総一はずっと取っておいた。神奈川県内の丘の上にある霊園だった。最寄り駅からバスに乗り、霊園の前で降りた。3月の初めの空は、まだ完全には春になっていなかった。しかし、2月の底に比べれば、空気が少し緩んでいた。霊園の入口に早咲きの梅の木が一本あり、白い花がいくつかついていた。総一は紙袋を持っていた。中には、横浜の酒屋で買った純米大吟醸の四合瓶が入っていた。

長谷川の区画はすぐに見つかった。新しいプレートが付いた、小さな石の墓だった。プレートに長谷川の名前が掘られていた。墓には白い菊が、綺麗な状態で花立てに刺さっていた。誰かが最近来たのだろう。総一は紙袋を置き、しゃがんだ。袋から瓶を取り出した。箱から出して、瓶をそのまま持った。紙コップも二つ持ってきていた。百円ショップで買ったものだ。一つを墓の前に置き、そこに酒を注いだ。酒が満ちた。もう一つの紙コップに、自分の分を注いだ。総一は立ち上がり、コップを持った。墓を見た。『長谷川五郎』。石に刻まれた名前を、総一はしばらく眺めた。葬式の遺影の中の長谷川は笑っていた。青い空の下で、両腕を広げて。『塚本さん、週末ちょっと走ってくるわ。静岡の方まで。天気良さそうやしな』。あの金曜日夕方の言葉が、今日の霊園の空の中で聞こえた気がした。総一はコップを持ち上げた。特に何も言わなかった。しばらく口を開けず、ただ墓を見ていた。それから一口飲んだ。口の中に酒が広がった。甘かった。甘く滑らかで、米の柔らかい香りがした。喉を通る時、熱くも冷たくもない、ちょうどいい温度だった。総一は目を閉じた。数秒間、目を閉じた。開けた時、視界の端が少し滲んでいた。総一はそれを拭わなかった。風が吹いた。3月の風は、冬と春の間にある種類の風だった。冷たいが乾いていない。どこかから、土の匂いがした。総一はもう一口飲んだ。それから、墓に向かって静かに言った。
「うまい酒だな、五郎」
声が出てから、それが今日初めて口にした言葉であることに気がついた。朝から誰とも話していなかった。退職してから、誰とも話す必要がなくなっていた。うまい酒だな、という六文字が霊園の空気の中に出て、それから消えた。総一は残りの酒を飲んだ。これが総一の精一杯の弔いだった。言葉も涙も、うまく出なかった。しかし、長谷川が好きだった酒を買って、ここまで来て、一緒に飲んだ。それだけはできた。長谷川の葬儀の日、式場の隅に立って、百人近い人間が同じ人間の死を悼んでいるのを眺めていた時、総一には何もなかった。差し伸べた手も、一緒に笑った記憶も、誰かに話せる長谷川との思い出も。しかし、今日ここに来たのは総一だった。百人には及ばない。しかし、一人は来た。総一はそれを特別なことだとは思わなかった。ただ、できることを一つした、という感覚だけがあった。総一は瓶を持った。まだ半分以上残っている。墓の前の紙コップに、もう少し注いだ。五郎が好きだったから、たくさん置いていけばいいと思った。総一は瓶を紙袋に戻し、紙袋を墓の横に置いた。持って帰らないことにした。墓に向かって、もう一度何も言わずに立った。しばらくそうしていた。それから総一は頭を下げた。深くではなく、ただ少し。頭を上げてから、歩き出した。霊園の出口に向かって、石畳を歩いた。風が後ろから来て、コートの裾が少し揺れた。総一は振り返らなかった。

帰り道、バス停でバスを待つ間、総一は空を見た。青と白と灰色が混じった、3月の初めの空だった。今日、総一の手元に残っているものを数えた。五十万円ほどの現金。年金受給まであと数年分の生活費。履き慣れた革靴。三十年近く経った木造アパートの六畳一間。それから、今日の酒の味。失ったものは多かった。しかし、今朝の霊園に来たことは、失ったものの中には入らなかった。バスが来た。総一は乗り込み、窓側の席に座った。バスが動き出し、霊園が遠ざかっていった。総一は窓の外を見ていた。3月の午後の光の中を、バスは走った。総一は目を細めた。光が少し眩しかった。長い一か月半だった。長谷川が死んでから今日まで。式場の隅に立っていた夜から、給与半減の朝、和食料理店の燗酒、沙由利の電話、工事の死、遠藤の書類、二千五百万円が消えた画面、警察署の窓口、弁護士事務所の白い机、今日の霊園の空。それらが一連の出来事として、総一の中に並んでいた。どれが正しくて、どれが間違いだったか、総一には今日も断言できなかった。五百万円を出していれば、工事は助かったかもしれない。しかし、詐欺だったかもしれない。遠藤を信じなければ、二千五百万円は残っていた。しかし、何もしないままでは、別の後悔があったかもしれない。人生に正解のある選択肢は少ない。総一はこれまで正解を探し続けて生きてきた。節約が正解だと思った。貯めることが正解だと思った。しかし、正解だと思っていたものが正解ではなかったことを、一か月半かけて学んだ。だからと言って、後悔を正解に変える方法は、今も分からなかった。バスが停留所で止まった。乗客が何人か降りた。総一はそのまま座っていた。窓の外に小さな公園が見えた。子供が一人、ブランコに乗っていた。誰かと話しながらではなく、一人でゆっくりと揺れていた。総一はその子供を見た。沙由利が七歳だった時、どんな顔をしていたか、今日は少し思い出せた気がした。公園が遠ざかった。総一はまた窓の外を見た。今夜は何を食べるか考えた。スーパーに寄って、何か買おうと思った。半額の弁当でなくていい。退職したから、夕方の半額タイムに合わせて急ぐ必要はない。好きなものを買えばいい。好きなもの、という考え方が、まだ慣れていなかった。しかし、今日は一万二千円の酒を買った。一口飲んで、うまいと思った。それだけのことが、総一の中の何かを、ほんの少し動かしていた。大きな変化ではない。劇的な転換でもない。ただ、今夜の夕食のことを、初めて前向きに考えていた。それだけだった。それが精一杯の、今の総一にできることだった。

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