蓋を開けた瞬間、私は父の隠してきたすべてを目の当たりにした。父の形見の懐中時計を直してほしいと、あの女性が私の工房を訪れたのは、廃業寸前だったあの日だった。職人の誇りを捨てず修理を引き受けたのだが、そのせいで大手取引先の担当者・三沢に「時代遅れのポロ工場」と罵られ、唯一の仕事まで打ち切られてしまった。しかも三沢は私が大切に扱う時計を「こんなガラクタ」と嘲笑った。あの言葉は決して許せない。私は…

蓋を開けた瞬間、私は父の隠してきたすべてを目の当たりにした。父の形見の懐中時計を直してほしいと、あの女性が私の工房を訪れたのは、廃業寸前だったあの日だった。職人の誇りを捨てず修理を引き受けたのだが、そのせいで大手取引先の担当者・三沢に「時代遅れのポロ工場」と罵られ、唯一の仕事まで打ち切られてしまった。しかも三沢は私が大切に扱う時計を「こんなガラクタ」と嘲笑った。あの言葉は決して許せない。私は...

俺の名前は村山。65歳。街外れで小さな工場を営む職人だ。若い頃は懐中時計メーカーの下請けで部品を削る日々を送り、その会社が潰れた後、身につけた技術だけで独立した。妻は娘のみさを産んだ後に体調を崩し、この世を去った。母が代わりにみさを育ててくれた。

みさは幼い頃、無邪気に笑いながらこう言った。

「パパ、大人になったらパパの工場を継ぐの」

その時は話半分に聞いていた。だが、高校2年生になって同じことを言い出した時、俺はこの子が本気だと悟った。

「この時代に工場なんてやっていけない」

「分かってるよ。でもどうしても継ぎたいの」

「お前は何も分かってない。世の中はお前が思うより厳しいんだよ」

当時、工場の売上は落ち込んでいた。娘に同じ苦労をさせたくない一心で、俺はみさの夢を拒絶した。だが、みさには俺が夢を潰す悪者に見えたらしい。話し合いの末、みさは高校卒業後に家を出て行った。もう何年も連絡を取っていない。

ある日の昼休憩、従業員の田所が冷静な声で言った。

「村山さん、俺の給料半分にしていいよ」

うちの従業員は俺を入れて2人だけ。田所は唯一の部下であり、掛け替えのない相棒だ。

「そんなことしたらあんたが食えなくなるだろう」

「俺は別にいいんだよ。工場をどうにかする方が先だろう」

田所の言う通り、工場はかなり追い詰められていた。仕事の依頼は減り、売上も落ちている。材料の仕入れすら難しくなりつつあった。どうしたものかと頭を悩ませていると、事務所の扉がノックされた。

「失礼します。玄関が開いていたので勝手に入りましたよ」

我が者顔で入ってきたのは、取引先である大手メーカーの担当者、三沢さんだった。この人が窓口担当になって3年になる。有名大学の出身だと自慢していたのを今でも覚えている。この人と話して気づいたのは、品質や精度という言葉を一度も口にしたことがないという事実だった。数字とコストしか見ておらず、俺のような街の工場は使い捨ての道具としか思っていないらしい。

「製造数を増やすことになりまして、もっと部品を作ってもらいたいんですよ」

仕事が増えるのはありがたい。だが、続けて出た言葉に俺は眉を寄せた。

「とにかく数が欲しいので、妥協でお願いします。精度はそこそこでいいので」

「精度を落とした部品は出せません。適当な仕事をしたら、うちの評判に傷がつきます」

三沢さんは嫌そうな表情を浮かべた。

「じゃあ他の安い工場に仕事を回しますよ。部品を作ってくれるならどこでもいいんです」

黙り込んだ俺に代わり、田所が対応した。

「すみません。少し時間をください」

田所は口下手だが、俺より人当たりがいい。なんとか三沢さんを納得させることができた。三沢さんが帰った後、田所が小声で言う。

「仕事がなきゃ工場は潰れるぞ。評判うんぬんの話じゃなくなる」

「分かってる。でも信念を捨てたら、俺の工場じゃなくなっちまう」

「だな」

結局、今回の仕事は引き受けることにした。納期と精度を両立させるために、連日残業になる未来を想像し、少し気が重くなった。

ある日のこと、事務所のインターフォンが鳴った。

「仕事をお願いしたいんですけど」

やってきたのは若い女性だった。どこの会社の人だろうと思いつつ事務所に通すと、彼女は古びた懐中時計を取り出した。

「父の形見の懐中時計を直してください」

個人の依頼は利益にならないため、基本的に引き受けていない。しかし、藤原さんと名乗った女性が語った事情に、俺の中で断るという選択肢は一瞬で消えた。

「祖父の代から受け継がれている時計です。でも蓋が開かなくて…。ここ以外にも5つ工場を回りました。再修理が取れないとか、図面がないと対応できないとか、全て断られてしまったんです」

藤原さんの目にうっすら涙が浮かぶ。

「ここが最後のつもりで来ました。私、どうしてもこの時計を直したいんです」

「最後のつもり」という言葉が重さを伴って胸に落ちてくる。時計を手に取り確認してみると、重症だが修理は不可能ではなさそうだ。

「分かりました。やってみます」

「本当ですか?」

藤原さんの顔がパッと明るくなる。俺には壊れたものを直せる技術がある。再修理が取れないからと諦めるのは、職人として断じて許せなかった。背後にいた田所に視線を向けると、彼は何も言わないが「やるべきだ」とその目で語っていた。

「この時計、40年ほど前に父が一度修理に出したと聞いています。どこに修理に出したか分かりますか?」

「いえ、詳しい話を聞けないまま亡くなりまして…」

手がかりはほとんどない。それでも、俺ならこの時計を直せる。なぜか強い確信があった。

「よろしくお願いします」

藤原さんは丁寧にお辞儀をして工場を後にした。

藤原さんから預かった時計は、最新の注意を払って丁寧に分解していく。少しでも力加減を間違えたら部品が壊れてしまうほど繊細な作りだ。昨今は時計も大量生産の時代になり、こんな細かい仕事はなかなかお目にかかれない。関心しながら解体していく中で、奇妙な感覚が胸をよぎった。

妙に見覚えがある。初めて見たはずなのに、手に馴染む感覚があるのだ。削り跡の癖や金属の質感が、40年前の思い出を蘇らせる。工場を始める前に働いていた、懐中時計メーカーの下請け時代の記憶だ。ルーペを当て部品をじっくり眺める。証明できるものは何もない。しかし職人というのは筆跡のように仕事に個性が出るものだ。何百個と同じ部品を削り続けた日々が、知らぬ間に俺だけの手癖を生み、目の前の部品にはその手癖が静かに刻まれていた。まさかとは思う。もう随分前の記憶でおぼろげなこともあり、確信は持てない。考えるのは後だ。今は手を動かさなければ。

修理を始めて3日後、招かれざる客が工場にやってきた。

「仕事は進んでますか?」

「できれば事前に連絡を入れていただきたいのですが」

「抜き打ちで納品スケジュールの確認に来ました。事前に教えると、その場だけよく見せようとする取引先もあるので」

まるでうちが卑怯なことをするとでも言うような口ぶりだ。三沢さんはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。抜き打ちというのは口実で、俺をいびって楽しむために来たのだろう。

心の中で文句を言っていると、三沢さんの目が作業台に向けられた。

「なんだこれは? ゴミか?」

置いてあるのは藤原さんの時計だ。三沢さんは無造作に手に取り、振ったり裏返したりする。

「こんなガラクタをいじって遊ぶ暇があるなら、さっさとうちの仕事を片付けてくれませんか」

三沢さんが「ガラクタ」と言った時計には、藤原さんやその父親の大切な記憶が閉じ込められているのだ。それを乱暴に扱い馬鹿にしたことに、静かな怒りが湧いてくる。

「触らないでください。大切なお客様から預かったものです」

手を伸ばし時計を取り戻す。作業台に戻すと、三沢さんの表情がみるみると変わっていった。

「俺の仕事より、そんなガラクタの方が大切なのか。納品に影響が出たらどうなるか分かってるんだろうな」

取ってつけたような敬語がなくなり、乱暴な口調になる。これが三沢さんの本性なのだろう。

「頂いた仕事はきちんとこなします」

とっさに言い返すが、逆効果だったようだ。

「黙れ。廃業寸前のポロ工場が、エリートの俺に偉そうな口を聞くな。もういい。この時代遅れの街工場に仕事を頼む必要はない。本日をもって取引は終了だ」

俺は大きく目を見開き、三沢さんをまじまじと見る。失礼な物言いをした覚えはない。ただ気に食わないという身勝手な理由だけで、この人はうちとの仕事をなくそうとしている。

「ちょっと待ってください。それは困ります」

「困るのはお前だけだ。うちは何の問題もない。仕事を失うのが嫌なら、土下座でもして誠意を見せたらどうだ?」

あまりの侮辱に俺は黙り込んでしまう。頭も下げられない。仕事も失う。三沢さんは勝ち誇ったような表情で、捨て台詞を残して工場を後にした。

「時代遅れの工場は、無能な経営者と共に潰れるがいい」

いつの間に来たのか、田所が声をかけてくる。呆然とした顔で俺を見ていた。

「すみません。俺のせいだ」

頼みの綱である唯一の仕事がなくなってしまった。いよいよ廃業が現実味を帯びてきた。腰から力が抜けそうになり、作業机の前の椅子に腰かけた。

「修理しないとな」

視界に飛び込んできたのは藤原さんの時計。無意識のうちに手を伸ばし、修理を再開した。絶望の中でも俺は手を止めない。頼まれた仕事は最後まで責任を持ってやり遂げる。それが職人の仕事だ。田所も黙ったまま自分の作業へと戻っていった。

翌日、藤原さんが差し入れを持って工場にやってきた。田所も呼び、3人揃ってお茶を飲む。

「本当は昨日お邪魔するつもりだったんですけど…すみません、取引先との会話を隠れて聞いてました」

取引中断された件を藤原さんは知っているようだ。

「すみません。私が時計の修理を依頼したからですよね」

「それは違います」

迷うことなく首を横に振る。隣に座っていた田所も笑いながら口を開いた。

「工場がどうなろうと、時計の修理はやり遂げますから」

「演劇でもないのに言うな」

俺が冗談めかして返すと、場の空気が和んだ。そのまま雑談を続けていると、藤原さんが時計の元の持ち主である父親のことを語り始めた。

「父は仕事ばかりの人でした。私の学校行事に来たことは一度もなくて…。『ごめん』とか『ありがとう』とか、最後まで何も言ってくれなかった。私に何も残してくれなかったんです。この時計以外は」

俺は頷くことすらできずに話を聞いていた。まるで自分のことを言われているようだ。家庭を顧みず、やってきたことといえば娘の夢を潰しただけ。俺も藤原さんの父親と同じように、何も言えないままみさと別れることになるのか。

藤原さんが帰った後、ぼんやりと作業台の前に座る。頭に浮かんだのは幼いみさの笑顔。パパの工場を継ぐと言って、油の染みたつなぎを着たがっていたあの子。あの頃の俺にはそれが眩しくて、直視できなかった。首を振り、時計を手に取る。今の俺にできるのは手を動かすことだけだ。

設計図も何もない中、修理は進んでいく。同時に、この時計はやはり俺の仕事だという確信が強くなっていった。削り方の癖は、今と同じだ。部品の加工跡を眺めながら、懐かしさに笑顔が浮かぶ。あの頃は毎日同じ部品を何百個も作っていた。作った部品がどこに行くのかなんて考えず、ひたすら手を動かしていた。俺の知らないところで、誰かの人生と共に歩んできたのだろう。証明はできないが、強い確信があった。

同時に、後悔の念が募る。今の時代、町工場はやっていけないと決めつけて、娘の夢を否定した。確かに工場は廃業寸前だが、俺の作ったものは誰かの元で生き続けていた。あの時、みさの夢を拒絶するのではなく、きちんと話し合っていたら。俺たちの関係も、この工場も、違う形になっていたかもしれない。後悔に襲われながらも、俺はひたすら手を動かした。

修理を始めて7日後。

「完成しました」

目の前にいるのは緊張した面持ちの藤原さんだ。田所は気を利かせて席を外している。午後の柔らかい日差しに照らされる中、俺は蓋に手をかけた。懐中時計がゆっくり開いていく。

「え…」

蓋が完全に開くと、藤原さんが小さく驚きの声を漏らした。蓋の裏に、色あせた小さな写真が入っていたのだ。

「これ…私だ」

声が震えている。

「父さん…ずっと私の写真を持ち歩いてたんだ」

藤原さんは静かに涙を流す。俺は黙って彼女を見守った。同時に、胸の奥で何かがゆっくりと動く。この時計の中に俺の手癖が刻まれ、その時計の中に娘の写真が眠っていた。俺が無心で削り続けた部品が、この父親の40年を刻んでいたのだ。仕事しか残せなかった父親。娘への思いを写真に託した父親。二人の姿が、この小さな時計の中で重なって見えた。同じ父親だから分かる。藤原さんの父親は、ずっと娘を大切に思っていたのだ。

みさと藤原さんの姿が重なって見えたのも、その瞬間だった。俺はあの子に何も残していない。今までなら、後悔するだけで動こうとしなかっただろう。けれど、藤原さんの時計が教えてくれた。俺が作ったものは決して消えない。時代を経て、気持ちは誰かに伝わり届くのだ。

「代金をお受け取りください」

藤原さんが涙を拭いながら財布を取り出す。俺は静かに首を横に振った。

「今回はいただけません。俺が直したかっただけですから」

藤原さんは目を赤くしたまま、深く頭を下げた。笑顔で工場を後にする彼女を見送りながら、俺は娘と向き合う決意を静かに固めていった。

時計の修理が終わって2週間後、俺は工場を何とか継続させようと必死で動き回っていた。以前の取引先に声をかけるなど、慣れない営業活動をしていたのだ。しかし結果は芳しくない。再び手詰まりに陥っていると、工場の前に見慣れない高級車が止まった。降りてきたのはパリッとしたスーツを着た50代くらいの男性。続けて、顔面蒼白の三沢さんも降りてきた。

「三沢の上司の大森と申します。突然すみません」

驚きつつ事務所へ通すと、大森さんが俺に頭を下げてきた。

「三沢はコスト優先で御社との取引を中断し、安い工場に切り替えました。その結果、品質問題が発生し、不良品の山を抱えることになったのです。なぜ実績のある御社を切ったのか問いただしたところ、三沢の独断だと判明しました」

大森さんが三沢さんを睨みつける。これが結末かと俺は静かに思った。精度より価格、品質より数。そういう仕事をし続ければ、いつかこうなる。分かりきっていたことだ。

「誠に申し訳ございません」

「お前も謝れ」

「す、すみませんでした」

三沢さんの高そうなスーツが、頭を下げたせいでしわになる。俺は三沢さんを静かに見据え、一言だけ返した。

「時代遅れの街工場が必要になったんですか?」

三沢さんが勢いよく顔を上げた。視線が泳ぎ、唇を固く結んだままゆっくりと俯く。自分の言葉がそのまま帰ってきたのだと、痛いほど分かっているのだろう。

「取引をお願いできますか?」

「考えさせてください」

この日は即答せず、2人を見送った。しかし、あまり迷っている暇はなさそうだ。

「材料費の支払い、どうする?」

田所が沈んだ声で問いかける。どうにもならないと諦めかけていたある日のこと、突然工場に電話がかかってきた。

「今お時間よろしいですか? 宮本と申します。大手精密メーカーの開発担当です」

「亡くなられた藤原さんの…娘さんから、御社の話を聞きまして」

藤原さんが遺品整理の中で父の同僚に連絡し、時計の話をしたのだという。その同僚が宮本さんだった。

「あれだけの精度で、しかも設計図もない状態で時計を修理できる職人はそうはいません。今我が社は新規プロジェクトを進めています。プロジェクトの成功のため、村山さんの力が必要なのです」

俺が驚いて黙っていると、宮本さんがさらに一言添えた。

「藤原さんは、業界で信頼の厚い方でした」

次の瞬間、藤原さんの言葉が蘇える。『父は仕事ばかりで、私に何も残してくれなかった』。それは違う。藤原さんの父親は真面目に仕事をこなし、信頼と人脈を残していたのだ。それが今、巡り巡って俺に恩恵をもたらしてくれた。

「是非、お願いします」

電話を切り、深く息を吐く。田所に報告すると、彼は何か言おうと口を開きかけたが声にならず、俺に背中を向けたまま動かなくなった。肩が小さく震えている。わずかに聞こえる嗚咽には気づかないふりをした。

その日の夜、覚悟を決めた俺はスマホを手に取り、電話帳を開く。みさの連絡先を選択し、震える手で通話ボタンを押した。5コール目でようやく電話が繋がった。しばらく無言の時間が続いたが、みさが小さく呟く。

「…工場の番号だったから、出た」

「元気だったか?」

「うん」

お互い喉の奥に言葉が詰まって、うまく会話ができない。しかし、電話を切ることはなかった。無言の時間も、長年の空白を埋めてくれる。俺たち親子の時間が、再び動き出した。

翌朝、俺はいつも通り朝早く工場へ到着し、機械の電源を入れる。聞き慣れた音と変わり映えのしない朝だ。しかし今の俺には、何もかも新鮮に感じる。

「おはようございます、村山さん」

「おはよう」

短い挨拶だけを交わし、お互い頷いて返す。田所とのやり取りに、多くの言葉はいらない。俺たちの間には、言葉より先に通じるものがあるからだ。

指先に油を滲ませ、部品を手に取る。俺は今日も、職人としての誇りを胸に、一生懸命働いている。

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