銀行の重役室。男は高級な椅子に深く腰かけると、足を組み、腕を組んだ。
「父が残してくれた。だから私は逃げない。」
28歳の若造に6億貸したこっちがバカだったよ。今すぐ6億返せ。1ヶ月以内に全額、耳を揃えてな。
銀行からの使者、坂木竜太。40歳。東京本部から赴任して3週間。彼の目には、傲慢さと侮蔑が同居していた。
机に向かい合って座るのは、荒木じこ。28歳。建設会社「荒木建設」の代表取締役だ。地味なグレーのスーツに、ほとんど化粧をしていない。どこにでもいる若い会社員のように見えた。
しかし、その目には、父の会社を守り抜くと誓った者だけが持つ、静かな強さがあった。
誰もが、彼女がその場で泣き崩れるのを待っていた。しかし、彼女は怒鳴ることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに一礼をしただけだった。
坂木は、涙ひとつこぼさないその態度に、一瞬だけ目を細めた。そして、思わず言葉を失った。
理不尽な返済を突きつけられ、18人の社員の未来がかかっている。それなのに、じこの心は微塵も揺れなかった。
「そうですよ。経験も実績も不十分。28歳に6億は無謀でしたよ。」
廊下の若手行員がガラス越しに覗き込み、笑いをこらえていた。周囲の誰もがこの理不尽な光景に息を飲んだが、誰ひとりとして声を上げる者はいなかった。
坂木だけが知らない。机の中の資料と、父が残したもうひとつの「経営」の意味を。
来た。覚悟していた日が、ついに来た。
あの侮辱の裏側に、じこだけが握りしめていた土地の事実がある。しかし、この時は誰も知らなかった。銀行の支店が立つ土地が、誰の名義なのかを。そして、翌日から始まる100億円の預金移動と、見下した男たちの人生がどう変わるのかを。
これは、不当な差別にさらされた女社長が、静かに立ち向かった物語。最後に勝利する、因果応報の物語である。
――時は、2時間前に遡る。
その日の午後、荒木建設の本社を出る前、じこは壁の一枚の写真を見た。父・勝三郎の写真。60歳で撮った工場の前で、腕を組んだ姿。
「お父さん、行ってきます。」
じこは静かに扉を開け、外へ出た。秋の日差しが穏やかに道に差し込んでいた。
さ木銀行・上等支店のロビーに、じこは約束の10分前に着いた。いつもそうしていた。相手の時間を奪わないことが、礼儀だと思っていたからだ。受付で名乗りを上げると、若い女性行員がすぐに奥へ通してくれた。以前は、支店長の桑田が自ら出迎えてくれたものだ。今日は誰も来なかった。
しばらくして、係長の重田が廊下を歩いてきた。
「お待たせしました。どうぞ、こちらへ。」
案内されたのは、2階の応接室。窓のない、殺風景な部屋だった。以前、桑田との面談に使っていた明るい部屋ではない。じこは、気にしないことにした。
しばらくして、坂木竜太が入ってきた。高級そうなダークスーツ、整えられた髪、磨かれた靴。高級な椅子に深く腰を下ろすと、自然に足を組んだ。腕も組んだ。向かいに座るじこを、上から下まで眺めるように見る。そして、口の端がわずかに緩んだ。
「失礼ですが、社長さんご本人ですか? 随分お若いですね。」
代理でも来たのか、と言いたそうな目だった。
「はい。代表取締役の荒木です。」
「へえ。何歳ですか?」
「28歳です。」
坂木は一瞬、重田と目を合わせた。重田の口元が緩んだ。その目の中に、じこはすでに答えを読んだ。この人は、私を客だと思っていない。
坂木は書類を一枚取り出し、テーブルに置いた。
「単刀直入に申し上げます。東都銀行は、中小建設業への融資ポートフォリオを見直すことにしました。荒木建設様への融資も、その対象となっております。」
じこは静かに書類を見た。「融資方針変更通知書」と書かれていた。
「見直しというのは、具体的にどのようなことでしょうか?」
「現在のご融資、6億円について、来月末までに一括返済をお願いします。」
じこの手が、膝の上でわずかに動いた。
「来月末ですか? 現在進行中のプロジェクトは、まだ1年あります。返済計画通り、来年度末の完工後に返済させていただく予定でした。」
「その計画では、当行のリスク管理基準を満たさないと判断しました。」
じこは鞄から資料を取り出し、テーブルに置いた。20ページに及ぶプロジェクトの収益計画書だった。
「こちらが現在のプロジェクトの収益計画です。工事は順調に進んでおり、来年度末には十分な利益が出る見込みです。返済に支障は一切ございません。ご確認いただけますか?」
じこの声は丁寧だった。感情を殺した、静かな声だった。坂木は書類に視線を向けた。しかし、手は伸びなかった。それどころか、片手でそっと横に押し返した。
「見るまでもない。社会人4年目のお嬢さんが書いた計画書ですよね。」
笑う音が、静かな部屋に響いた。じこは一瞬、耳を疑った。
「建設への融資は打ち切りだ。若い女社長だから、こうなるんだよ。感情で経営してどうするの? しかも28歳の素人が。」
重田が口元に手を当て、笑いをこらえた。廊下では若い行員がガラス越しに覗き込んでいた。その表情も、嘲りに近いものだった。
じこは深く息を吸い、口を開いた。
「再考していただけませんか? 30年のお取引があります。先代の父の代から、誠実に。」
「先代の話は関係ない。親の七光で4年持っただけでしょ。今の財務力でリスク判断する。それが銀行の仕事だ。」
「ですが、この融資がなければ、現場の作業が止まります。18名の社員が路頭に迷います。お願いです。もう一度。」
「今すぐ6億返せ。来月末までに全額を揃えてな。お嬢ちゃんには、難しい話だったかな。以上です。」
坂木の声には、もはや隠す気もない侮辱があった。じこは肩に力を込めた。もっと食い下がることもできた。もっと頭を下げることもできた。しかし、それをしてはいけないと思った。なぜなら、今の自分には父が残してくれた力があるからだ。
じこは静かに立ち上がった。
「わかりました。では6億円は、必ず返済いたします。」
それだけを告げて、じこは資料をまとめて鞄に納めた。
「お時間をいただき、ありがとうございました。」
深く一礼して、扉へと歩いた。一度だけ振り返った。坂木はすでに別の書類を開いていた。重田はスマートフォンを見ていた。誰も見送りには来なかった。扉が閉まった。
――時は、半世紀前に遡る。
荒木建設は、今から半世紀近く前に生まれた会社だ。昭和40年代、荒木じこの父・勝三郎が一人で立ち上げた小さな建設会社。当時の資本金は50万円。借金を背負っての出発だった。
「人より少し多く汗をかけ。それだけでいい。」
それが、勝三郎の口癖だった。地道に、誠実に仕事を積み重ね、地元の学校や公共施設を手掛けてきた。小学校の体育館、市役所の増築、地元商店街のアーケード。その誠実さを、地域の人たちは覚えていた。やがて信頼が信頼を呼び、荒木建設は着実に成長していった。創業20年で従業員は30名を超え、地元で信頼の厚い建設会社として知られるようになった。
勝三郎は、コツコツと貯めた資金を少しずつ土地に変えていった。「土地は裏切らない」というのが彼の信念だった。市内のあちこちに、荒木家の名義の土地が少しずつ増えていった。駅周辺の一角、商業地域の土地、そして上等地区の中心部の一等地。それらは全て、勝三郎が30年以上かけて積み上げてきた財産だった。
荒木じこは、その一人娘として生まれた。幼い頃から工事現場に連れられ、父と鉄の匂いの中で育った。父の背中を見て育ち、建物を作ることへの憧れが自然に芽生えた。大学は建築学科に進んだ。現場実習や設計の授業に没頭し、学年でも上位の成績を収めた。卒業後は都内の中堅設計事務所に就職が決まっていた。夢の入り口に、ようやく立てた。そう思っていた。
しかし、就職からわずか2ヶ月後、電話が鳴った。
「じ子さん、お父様が建設現場で倒れられました。」
心臓発作だった。搬送先の病院に駆けつけた時、父はもういなかった。荒木勝三郎、享年58歳。
翌日、じこは設計事務所に退職の電話を入れた。
「家族の事情で、申し訳ありません。」
声が震えないよう、受話器を強く握った。じこは、その日から地元に戻った。24歳で、代表取締役に就任した。業績の波もあり、当時の社員は18名だった。
父の葬儀から2週間後、初めて朝礼に立った日のことは、忘れられない。18名の社員が無言で並んでいた。全員が、じこより年上だった。
「今日から、私が荒木建設の代表取締役です。」
その声が震えないよう、じこは腹に力を入れた。誰も拍手しなかった。静寂が続いた。それでも、じこは一礼して、現場に向かった。
最年長の職人は、じこの父が創業当時から働く63歳だった。
「社長の娘さんに、何ができるんだ?」
そんな声が聞こえても、じこは黙って仕事に向かった。昼間は現場に立ち、夜は帳簿と格闘した。週末は経営の本を読み、顧問の菊池弁護士に質問を重ねた。
「こんなことも知らないのか」という人もいた。「なぜ若い女が社長なんだ」という人もいた。じこは、それでも動き続けた。半年が経つ頃には、社員たちの目が変わっていた。あの子、本気だ、そう言ってくれる職人が増えていった。
さらに、じこは父が残した書類の整理を始めた。書棚の奥に埋もれていた大量のファイルの中に、土地の権利書があった。賃貸借契約書。不動産登記書類。固定資産税の一覧。上等の一等地の所有権と、月額200万円の賃貸収入。それが、父の残したもうひとつの「経営」だった。
じこは菊池弁護士と共に、全ての契約を点検した。不動産管理の知識も、この4年間で身につけた。
現在進行中の案件は、市内の中規模マンションの建設だ。地元の不動産会社から受注した、総額12億円のプロジェクト。そのうち6億円を、さ木銀行から融資して賄っていた。工期は残り1年。収益計画は堅実で、返済に問題はなかった。
さ木銀行・上等支店との付き合いは、父の代から30年以上になる。前支店長の桑田国夫は、毎月第1月曜日に荒木建設を訪問していた。じこが就任した当初、桑田は父の話を何度も聞かせてくれた。
「お父様、本当に誠実な方でした。困った時は、いつでも言ってください。力になりますよ。」
その言葉が、どれほど支えになったか。しかし6ヶ月前、桑田が東京本部へ移動した。見送りの日、桑田はじこに深く頭を下げた。
「後任は有能な人間です。ご安心ください。桑田さんがいなくなるのは、本当に寂しいです。」
「荒木さんは、もう大丈夫です。4年間で、見違えるほど成長されました。」
その言葉を、じこは胸に刻んでいた。後任の坂木竜太が着任の挨拶に来た時、じこはその年齢を見て目を細めた。
「これは若いですね。何年目ですか?」
「4年目になります。」
坂木の口元がわずかに緩んだ。馬鹿にしている表情だと、じこはすぐに分かった。しかし、何も言わなかった。
着任から3週間後、坂木から電話があった。
「融資方針の見直しについて、ご説明したいことがあります。」
穏やかな声だったが、その奥に、隙のない意思があった。じこは手帳に書き込んだ。翌週の水曜日、午後2時。それが、今日の面談だった。
――物語は、横暴を出た直後に戻る。
じこは廊下を歩きながら、何も考えていなかった。銀行を出て、秋風の中を一人で歩いた。いつもの道。工事現場の横を通り過ぎる時、職人の一人が手を振った。じこはゆっくりと手を振り返した。
この人たちがいる。この人たちを守らなければならない。
10分歩いて、荒木建設の本社に戻った。誰にも気づかれないよう、2階の自分の部屋に直行した。扉を閉めて、一人になった。デスクの上の父の写真を見た。
「お父さん、どうすればいいと思う?」
写真の父は、いつもと同じ表情だった。腕を組んだ、静かな顔。しかし、この時、頭の中で何かがゆっくりと整理されていった。怒りではなく、冷静さが戻ってくる感覚。そして、ある記憶が頭をよぎった。
じこはゆっくりと立ち上がり、書棚から一冊のファイルを取り出した。「土地賃貸借契約書」と書かれた分厚いファイル。父が締結した契約を、じこが相続して引き継いだ。上等の一等地の賃貸借契約だ。当該地の賃貸人は、荒木じこ。借主は、さ木銀行。
じこはページを繰り、契約満了日を確認する。今月末――26日後に、この契約は終了する。じこはファイルを閉じ、デスクに戻った。そして、電話を開いた。顧問弁護士、菊池の番号にダイヤルした。
呼び出し音が3回鳴って、いつもの落ち着いた声が出た。
「はい、菊池です。」
「菊池先生。少しよろしいでしょうか? ご相談があります。」
じこの声は、静かだった。そして、微かに揺るぎなかった。
菊池亮平は、60歳の弁護士だ。荒木建設の顧問として、先代の頃から30年以上を見てきた。じこが話し終えるのを、一言も遮らずに聞いた。そして、低く静かな声で言った。
「じ子さん、よろしいのですか?」
「はい。全て合法的に行います。」
「菊池先生にお願いできますか?」
「わかりました。では、3つの手順を確認しましょう。」
じこが告げた3つの指示を、菊池は一つずつ書き留めた。
第一に、さ木銀行への全預金の移行手続き。個人・法人合わせた全口座の残高を、翌日から順次、日光銀行へ。
第二に、さ木銀行・上等支店の土地賃貸借契約の更新拒絶。定期借地借家契約の満了まで26日。法的手続きに従い、更新拒絶を通知する。
第三に、大和不動産開発・代表取締役、丸山直樹への土地売却交渉の開始。
上等の一等地の市場価格は、複数の査定で300億円前後と見積もられていた。
「じ子さん、100億円の移動は、経済的影響も大きいです。」
「父が守ってくれたものを、正しく使います。」
「承知しました。明日から、動きます。」
電話を切った後、じこは書斎の窓から外を見た。夜の上等の空に、さ木銀行のロゴが光っていた。あの土地に立つ建物が、誰の土地に立っているのか、あなたたちは知らない。じこはそっとカーテンを閉じた。デスクに戻り、椅子に深く腰掛けた。誠実に生きた父なら、必ず同じことをしたはずだ。
――翌朝9時。
日光銀行の法人営業部長、酒井秀夫が荒木建設を訪れた。酒井は48歳。落ち着いた物腰の、誠実そうな銀行マンだった。事前に菊池から連絡を受け、すぐに駆けつけてきたという。
「荒木社長のようなお取引先をお迎えできるとは、光栄でございます。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、長いお付き合いになりますよ。」
「こちらこそ、全力でお支えします。」
酒井の言葉には、数字ではなく人間を見る目があった。それが、じこには何より嬉しかった。
翌日から、日光銀行への預金移行が始まった。最初の日に10億円、翌日にさらに10億円。さ木銀行の窓口で、重田は異変に気づいた。
「荒木建設の口座から、大口引出しの申請が来ています。」
重田が支店長室に駆け込んだ。
「支店長。荒木様の口座から、10億円の引出し申請が。」
「何? 今すぐ確認しろ。」
しかし、手続きは全て適法だった。大口預金の払い戻しを、銀行が拒否する法的権限はない。坂木は拳を握りしめた。
「荒木に電話しろ。引き止めろ。」
重田が電話を掛けたが、じこは出なかった。その代わり、菊池法律事務所の番号を告げる留守番電話が流れた。
4日後、さ木銀行への報告書には、「荒木建設関連からの流出、50億円」と書かれていた。上等支店に衝撃が走った。本部の融資管理部から緊急連絡が入り、支店長室で対策会議が招集された。同日の午後、支店長の名刺が付いた封書が荒木建設に届いた。翌朝、支店長から直接電話が入った。
「あ、荒木社長。私でございます。何かご不満がございましたでしょうか?」
「お取引解約につきましては、菊池弁護士よりご連絡申し上げます。」
それだけ告げて、じこは電話を切った。その日の午後、菊池弁護士からさ木銀行法務部へ、一通の書面が届いた。「土地賃貸借契約更新拒絶通知書」と書かれていた。
さ木銀行・上等支店の敷地、1200平方メートル。賃貸人、荒木じこ。賃借人、さ木銀行株式会社。契約満了日を持って、当該賃貸借契約の更新をお断りする。
法務部の担当者は、書面を手に固まった。
「この土地の所有者は、荒木じ子様。」
念のため登記簿を確認した。間違いなかった。荒木の名義での一等地が、登録されていた。法務部長が顔面蒼白で、支店長に電話を上げた。
「至急、支店長室に集合してください。」
同日、もう一通の封書が到着した。大和不動産開発株式会社・代表取締役、丸山直樹からの「土地購入意向書」。購入希望価格、300億円。上等について、至急売買交渉を開始したい、と書かれていた。
銀行本部で、緊急役員会が招集された。
「上等支店の土地が失われる可能性があります。現在の支店建物の解体、移転を余儀なくされる恐れが。」
役員室に、沈黙が広がった。
坂木竜太は、その夜、初めて顧客ファイルを全ページに渡って読んだ。
法人口座・荒木建設株式会社、残高30億円。個人口座・荒木じ子、残高70億円。不動産所有、上等1丁目99番地他、複数。賃貸借契約、月額200万円、満了日、今月末。
なぜ。なぜこれを最初に読まなかった。
坂木の手から、ファイルが机に落ちた。床に散らばった書類。それが、坂木の敗北の象徴だった。
――それから2週間が経過した。
さ木銀行・上等支店の口座から、荒木家名義の預金が完全に消えた。個人口座70億円、法人口座30億円。合計100億円。全額が、日光銀行へと移行していた。上等支店の預金残高は、この2週間で大幅に減少した。本部の経営指標に、黄色いランプが点灯した。
同じ頃、菊池弁護士からさ木銀行に、一通の通知書が届いた。「融資6億円、一括返済済み通知書」。本通達到達の翌日に、全額返済いたします、という内容だった。
翌朝9時、ちょうど荒木建設名義の口座から、6億円が振り込まれた。さ木銀行の融資管理システムに、「返済完了」の文字が表示された。融資担当の重田は、その画面を見て、しばらく動けなかった。
6億円。大和不動産開発との土地売却契約が、正式に締結されていた。売却金額、300億円。300億円の一部が、その日のうちに荒木じ子の口座に入金されていた。融資の返済には、何の苦労もなかった。
――翌日。
さ木銀行本部から、副頭取と部長2名が荒木建設を訪れた。そして、もう一人。重田光高も同行させられていた。高級車3台が、荒木建設の狭い駐車場に並んだ。4人のスーツ姿の男が、会議室に通された。じこが対面した。菊池弁護士も同席した。
「この度は、誠に申し訳ございませんでした。」
副頭取が深く頭を下げた。部長2名も続いた。最後に、重田がゆっくりと頭を下げた。
「先日の私の発言は、誠に不適切でした。社長に対し、大変失礼なことを申し上げました。」
重田の声は、掠れていた。じこは重田を見た。返事はしなかった。目は合わせただけですぐに、頭取に視線を戻した。それで、十分だった。
「前支店長の対応に、著しく不適切な点がございました。荒木社長には、多大なご不快とご迷惑をお掛けしました。」
じこは静かに、頭を下げる4人を見た。
「6億円は、昨日返済いたしました。土地の賃貸借更新には、応じません。日光銀行への移行も、完了しています。以上です。」
「それを、なんとか撤回していただくわけには参りませんか? お取引だけでも、継続させていただけませんでしょうか?」
「それも、結構です。」
じこの言葉は短く、しかし揺るぎなかった。副頭取は、悔しげな表情で立ち上がった。
「では、新たな条件でご提案させていただく機会を。」
「ご縁がありましたら、またいつか。」
それが、終わりの言葉だった。じこは深く頭を下げてから、会議室を出た。廊下を歩きながら、じこはようやく深く息を吐いた。
――同じ頃。
大和不動産開発から、さ木銀行・上等支店に正式な書面が届いた。「土地所有権移転完了に伴う、建物退去要請」と書かれていた。
3ヶ月以内に、当該土地上の建物及び設備を撤去してください。期限を過ぎた場合は、法的手続きを取ることとなります。
上等支店室で、坂木はその書面を手に、立ち尽くしていた。翌週、坂木竜太は本部に呼び出された。部長が座る会議室に、一人だけ椅子に座らされた。
「坂木君。顧客ファイルを、最初から最後まで確認したか?」
「それは、重田が確認する担当で…」
「責任転嫁するな。荒木様との30年の信頼関係を、君は3週間で潰した。100億円の預金流出。300億円の土地喪失。支店移転。これが何を意味するか、分かるか?」
坂木は、何も言えなかった。部長の机の上には、顧客ファイルのコピーが置かれていた。100億円の預金残高。土地所有の記録。賃貸借契約書。全て、ファイルの3ページ目以降に書かれていた内容だ。
「顧客を知らずに、顧客を判断するな。それが銀行の第一義だ。君には、これからそれを一から学んでもらう。」
数日後、坂木の手元に一枚の辞令が届いた。出向辞令書。行き先は、北海道の最果てにある系列会社、「国後ファイナンシャルサービス」。役職は、一般社員。担当は、農業・漁業者向け融資相談。高層ビルの個室から、吹雪の港町の木造事務所へ。それが、坂木への答えだった。
重田光高にも、処分があった。国内他行への出向。担当は、中小企業担当。係長からの、一般担当への降格だった。重田は辞令書を手に、しばらくその場で動けなかった。応接室での、自分の言葉が耳の奥で繰り返された。
「経験も実績も不十分。28歳には6億は無謀でしたよ。」
その言葉を、今は自分自身に言い聞かせていた。上等支店の他の行員への徹底指示が、全行に文書で通達された。
「顧客の全情報を確認せずに、判断を下すことは厳しく禁じる。」
――地元市の経済面に、さ木銀行・上等支店の移転記事が出た。
30年間、上等に立ち続けた支店が姿を消すと知り、地元経済界は揺れた。そのニュースを東京本部で読んでいた人物がいた。前支店長の、桑田国夫だった。
桑田は記事を3回読んで、静かに机の引き出しを開けた。便箋を取り出し、丁寧に文字を書いた。
荒木社長。この度の出来事を、新聞で知りました。私が最後まで責任を持って対応をしなかったことを、深くお詫び申し上げます。あなたの誠実さを、私はいつも誇りに思っておりました。どうか、これからもお元気で。
その手紙が荒木建設に届いたのは、3日後のことだった。じこは一人で封を開けた。読み終えて、しばらく動けなかった。
桑田さんは悪くない。就任した4年前から、ずっとそう思っていた。
「桑田さん、ありがとうございます。」
目の縁に、熱いものが滲んだ。じこは窓の外を見た。そして、初めて涙をこぼした。怒りでもない、悲しみでもない。何かが終わり、何かが始まる時の、静かな涙だった。
――それからしばらくして。
じこの元に、電話が入った。地域の建設会社や、先の社長たちからだった。
「荒木さん、よくやった。あの銀行に、俺たちも散々やられてきた。お前みたいな人間が、ちゃんと戦える世の中になってよかったよ。」
「ええ。私はただ、父が残してくれたものを守っただけです。」
じこは、いつもそう答えた。それが本音だった。
――一方で。
土地の工事計画が進んでいた。大和不動産開発による、上等一等地の再開発計画が発表された。複合ビル建設。商業・オフィス・住居の一体型開発。施工会社として選ばれたのは、荒木建設株式会社だった。
発表の日、じこは現場から連絡を受けた。
「荒木社長、丸山社長から施工の依頼が正式に来ました。総工費、15億円。荒木建設の過去最大のプロジェクトになります。」
「そうですか。」
じこは、しばらく黙っていた。銀行が去った土地に、荒木建設が建物を立てる。父が守り続けた土地が、また荒木の手で生まれ変わる。なんという皮肉か。なんという、必然か。
「やります。やらせてください。」
――退去期限から3ヶ月が経ち、さ木銀行・上等支店は、駅から徒歩15分の雑居ビルへ移転していた。1階の狭い窓口は、かつての広い本支店とは比べ物にならない。上等地区の長年の顧客たちが、少しずつ離れていった。地元への信頼の回復には、長い年月がかかるだろうと言われていた。
――その後。
更地となった旧支店跡地で、着工式の日。じこは現場に立った。造成されたばかりの土地。かつて銀行の建物があった場所だ。社員18名が、横に並んでいた。みんな、いい顔をしていた。
じこは挨拶に立った。
「この土地は、先代の父が守ってきたものです。地域の皆様のお役に立てる場所として、新しい形で生まれ変わります。荒木建設は、これからも誠実に、この地域を支えていきます。」
社員たちが、静かに拍手した。その中に、入社3年目の若い社員がいた。目を赤くして、口をキュッと結んでいた。じこはそれを見て、また視線を遠くへ向けた。
父が最初に杭を打ったこの地で、また仕事が始まる。荒木建設は、まだここにある。
――着工式の後。
じこは一人で、現場に残った。造成されたばかりの土地を、ゆっくりと歩いた。ここに銀行の建物が立っていた頃のことを、思い出した。あの言葉。あの嘲笑。あの笑い声。悔しかった。情けなかった。でも、逃げなかった。父が守ってくれたものがあったから、戦えた。
お父さんが残してくれたから、ここに立てている。
じこは静かに、土に手を触れた。その土は、まだほんのりと温かかった。
――坂木竜太は、北海道最果ての支店の営業所に赴任していた。吹雪の朝。漁業者の事務所を、一軒一軒訪ねて歩く日々。最初の頃、漁業者たちは坂木を警戒した。
「東京の銀行が来て、ろくなことがない。」
そう言って、話も聞かずに追い返す人もいた。坂木は何も言わなかった。ただ、翌日また来た。
「話すだけでも聞かせてください。貸し付けの話はしません。」
そう言って、玄関先で立ち続けた。2週間後、初めて中に通してもらえた日のことを忘れない。漁業者の老人は、薄暗い事務所で言った。
「あんた、しつこいな。まあ、座れ。」
坂木は椅子に座り、ただ話を聞いた。3時間。何も提案しなかった。ただ、聞き続けた。都会の理屈は通じない。顧客の話をまず聞くところから始まる。それだけを、毎日自分に言い聞かせていた。
夜、狭い社員寮で一人になると、あの日のことを思い出した。収益計画書を片手で押し返した、あの瞬間。28歳の素人だと笑った、あの声。あの時、自分は何も見ていなかった。数字も見ていなかった。人間も見ていなかった。苦しかったが、何かが少しずつ変わっていく気がした。
ある日、その老人が古い帳簿を引っ張り出してきた。
「息子が継いでくれるかどうか分からん。見てくれるか?」
坂木は黙って帳簿を受け取り、翌日に整理したレポートを持って戻った。何も提案しなかった。ただ、現実を丁寧に伝えただけだった。老人は、一言だけ言った。
「あんた、珍しい銀行だな。」
その一言が、坂木にはずっしりと重かった。荒木じ子に言えなかった言葉がある。あなたの計画書を、なぜ読まなかったのか。いつかそれを言える人間になりたいと、坂木は思っていた。
――同じ北の支店に、重田もいた。
重田光高もまた、黙々と仕事に向き合っていた。「経験も実績も不十分」。かつての自分の言葉を、毎朝思い出しながら。
――荒木建設は、日光銀行のサポートで、上等再開発プロジェクトを順調に進めていた。社員たちは誇らしそうに、毎朝現場へと向かっていった。
ある夕暮れ時、じこは会社の一室で、一人になることがあった。壁の父・勝三郎の写真を見上げながら、静かに語りかけた。
「父さん。あなたが残してくれた土地は、新しい形でまた地域を支えていくよ。28歳の私に、こんな大きなものを残してくれて、ありがとう。」
写真の父が、笑っているように見えた。誠実な積み重ねは、決して裏切らない。そして、人を貶めることの代償は、いつか必ず帰ってくる。
これが、28歳の女社長、荒木じ子が教えてくれた、ある因果応報の物語である。



