「また今月も役立たずだな。」
朝食の席で、息子の政治が何気なくそう言った。私は手にしていた箸を置いた。
「本当にその通りですよ。生活費だけもらって、何の役にも立たないんですから。」
隣で嫁の明かりも、まるで当然のように同調する。二人の視線は冷たかった。
私は静かに箸を置き、二人の顔を見つめた。そして、なぜか自然と口元に微笑みが浮かんでいた。
「そうですね。おっしゃる通りかもしれません。」
穏やかにそう答えると、息子も嫁も一瞬戸惑った表情を見せた。いつもなら悲しそうな顔をする私が、違ったからだろう。
私の心の中では、ある決意が固まりつつあった。もうこの理不尽な扱いに耐える必要はないのだと。
そして、明日すべてが変わることを、二人はまだ知るよしもなかった。
—
思い返せば、五年前のことだった。最愛の夫を病気でなくし、一人になった私を心配した息子が、同居を提案してくれた。
「母さん、一人じゃ寂しいでしょ。一緒に住もうよ。明かりも賛成してくれてる。」
あの時の優しい言葉に、私は心から感謝した。息子夫婦の家に引っ越し、毎月十五万円の生活費を渡すことで、新しい生活が始まった。
最初の頃は本当に幸せだった。明かりさんも笑顔で迎えてくれ、孫の顔も見られて、私は第二の人生を楽しんでいた。
しかし、いつの頃からか、二人の態度が少しずつ変わり始めた。
「お母さん、その置き方じゃダメですけど。」
「母さん、また同じ話。認知症じゃないよね。」
小さな指摘から始まり、次第に私の存在そのものを否定するような言葉が増えていった。私が作る料理はまずいと言われ、掃除をすればやり方が古いと批判される。何をしても「役に立たない」と言われるようになった。
それでも私は、息子夫婦に迷惑をかけたくない一心で、黙って耐え続けてきた。
しかし、その我慢ももう限界に近づいていた。
—
「お母さん、また物忘れですか?さっき言ったばかりでしょう。」
明かりさんの声には、明らかに軽蔑が込められていた。私は確かに一度も同じことを聞いていないのに、まるで認知症の老人扱いだ。
「いえ、初めて聞きましたが。」
「またそうやって言い訳するんですね。認知症の人ってみんなそうらしいですよ。」
政治も横から口を挟む。
「母さん、病院行った方がいいんじゃない?最近本当におかしいよ。」
私が何か言おうとすると、二人は示し合わせたように話を変えてしまう。まるで私の言葉には価値がないかのように。
料理を作れば必ず文句を言われた。
「この味噌汁、また薄いですね。味覚もおかしくなってるんじゃないですか。」
「母さんの料理、正直まずいんだよ。」
せっかく心を込めて作った料理も、ほとんど手をつけずに残されることが増えた。二人は私の目の前で、わざとらしくカップラーメンを食べ始めることさえあった。
掃除や洗濯をしても同じだった。
「お母さん、この洗濯物、生乾きの匂いがします。ちゃんと洗えてないんじゃないですか。」
「だから言ったでしょう。母さんには任せられないって。」
私がどんなに丁寧に家事をこなしても、必ず何か難癖をつけられる。そして最後は決まって「役立たず」という言葉で締めくくられるのだ。
—
最も辛かったのは、孫との時間まで制限されるようになったことだった。
「おばあちゃん、一緒に遊ぼう。」
五歳の孫が私に近寄ってくると、明かりさんがすぐに引き離す。
「だめよ。汚いから触っちゃだめ。」
「汚いですか?」
「だってお母さん、最近お風呂もちゃんと入ってないでしょう?匂いますよ。」
そんなことはない。私は毎日きちんと入浴し、身だしなみにも気を遣っている。でも二人の前では、私の言葉は何の意味も持たなかった。
「おばあちゃんは病気かもしれないから、あまり近づかない方がいいのよ。」
孫に向かってそんなことを言う明かりさんの姿に、私は言葉を失った。
夜、自分の部屋に戻ると涙が止まらなかった。こんな扱いを受けるために、私は何十年も一生懸命生きてきたのだろうか。
—
ある日の夕食時、政治が突然言い出した。
「母さん、そろそろ施設とか考えた方がいいんじゃない?」
「施設ですか?」
「だって、このままじゃお互いのためにならないでしょう。母さんも専門的なケアを受けた方がいいと思うんだ。」
私はまだ六十八歳だ。自分の身の回りのことはすべて自分でできるし、病気もない。それなのに、まるで要介護者のような扱いだ。
「また始まった。自分は大丈夫だって言いはるんでしょう。でも実際は違うじゃないですか。」
明かりさんが口を挟む。
「お母さん、現実を見てください。もう昔のお母さんじゃないんです。」
二人の言葉は、私の心に深い傷を残した。私という人間の価値を、完全に否定されているような気がした。
—
そして、つい先日のことだ。私が庭でテレビを見ていると、政治が明かりさんと電話で話している声が聞こえてきた。
「うん。お母さんのことなんだけど、正直もう限界だよ。金食い虫っていうか、ただのお荷物なんだ。」
私は凍りついた。
「生活費もらってるけど、それ以上に面倒なんだよ。早く出て行ってくれないかな。」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れていった。私は一体何のためにここにいるのだろうか。愛する息子と暮らせる幸せを夢見ていた私は、なんと愚かだったのだろう。
—
その週末、息子の大学時代の友人家族が我が家を訪問することになった。朝から明かりさんは念入りに掃除をし、政治も普段とは違う様子だった。
「母さん、今日は大事なお客様が来るから、変なことしないでよ。」
政治の言葉に、私は黙って頷いた。
午後二時、チャイムが鳴り、友人家族が到着した。政治の表情が一変したのはその瞬間だった。
「やあ、久しぶり。よく来てくれたね。」
満面の笑みを浮かべる息子。そして私を見ると、信じられない言葉が飛び出した。
「こちら、僕の母です。本当に素晴らしい人で、いつも僕たち家族を支えてくれているんです。」
私は自分の耳を疑った。先ほどまで「金食い虫」とののしっていた息子が、まるで別人のように私を褒め称えている。
「お母様、初めまして。息子さんからいつもお話を伺っています。料理がとてもお上手だとか。」
友人の奥様が笑顔で話しかけてくる。政治はすかさず答えた。
「そうなんです。母の作る料理は本当に美味しくて、毎日感謝しているんです。」
明かりさんも調子を合わせる。
「お母さんのおかげで、私も料理を教えていただいて、本当に頼りになる方なんです。」
私は呆然としながらも、お客様の手前、笑顔で応じた。
リビングでお茶を飲みながら、政治は私との素晴らしい思い出を次々と語り始めた。
「母には本当に感謝しています。僕が子供の頃からいつも優しく見守ってくれて、教育熱心で、僕の勉強もよく見てくれました。今の僕があるのは母のおかげです。」
聞いているうちに、私は混乱してきた。これは一体、誰の話をしているのだろうか?
—
友人家族が帰る際、政治は玄関まで見送りに行った。
「本当に素敵なお母様ですね。羨ましいです。」
「ありがとう。僕は本当に恵まれているよ。」
ドアが閉まり、友人たちの姿が見えなくなった瞬間、政治の表情は再び冷たいものに戻った。
「疲れた。」
リビングに戻ってきた政治は、私を睨みつけた。
「母さん、さっきお茶出すの遅かったよね。恥かかせないでよ。」
「でも、すぐに言い訳はいいから。また役立たずぶりを発揮して、恥をかかせるつもり?」
明かりさんも追い打ちをかける。
「本当ですよ。せっかく良いところを見せようとしたのに、お母さんのせいで台無しです。」
私はあまりのギャップに言葉を失った。つい先ほどまで「素晴らしい母」と褒め称えていた息子が、今は「役立たず」とののしっている。
「あなたたち、さっきは何の話?」
「何言ってるの?母さん。また妄想。」
「そうですよ。お母さん。被害妄想も認知症の症状らしいですよ。」
二人は顔を見合わせて、クスクスと笑い始めた。まるで私が精神的におかしくなったかのような扱いだ。
—
その夜、私は自室で一人、深く考えた。息子は外面だけを取り繕い、家の中では私を人間扱いしていない。これはもはや、家族とは言えないのではないだろうか。
でも、不思議なことに、絶望の中である記憶が蘇ってきた。それは、この家に関するとても重要な事実だった。
私は静かに考えを巡らせていた。息子夫婦の虐待に耐え続けて五年。もう限界だった。そんな時、亡き夫との会話を思い出したのだ。
「まき子、この家のことだけど、君との共有名義にしておいたからね。」
夫は生前、そう言っていた。私はまだ正式な相続手続きを済ませていないことに気がついた。
私は静かに立ち上がり、クローゼットの奥から重要書類の入った箱を取り出した。震える手で不動産の登記簿を確認する。確かに、土地も建物も夫と私の共有名義になっていた。
そして、夫の死後、その持ち分は法的に私が相続することになっているはずだ。ただ、まだ正式な名義変更の手続きをしていなかった。
つまり、この家の実質的な所有者は私なのだ。
次に私は通帳を確認した。夫が残してくれた預金、私の退職金、年金。すべて合わせれば、一人で十分に暮らしていける金額があった。
なぜ今まで気づかなかったのだろう?いえ、気づいていても、息子を信じたかったのかもしれない。でも、もう違う。
私は机に向かい、必要な書類をリストアップし始めた。まず戸籍謄本。そして、不動産の名義変更に必要な書類。さらにある特別な手続きのための書類も。
明日、区役所と法務局に行こう。私の中で計画が固まってきた。
息子夫婦は私を「金食い虫」「お荷物」と呼んだ。それなら、その通りにしてあげましょう。彼らの戸籍から、私というお荷物を取り除いてあげるのだ。
「除籍」という手続きがあることを、私は知っていた。自分の意思で戸籍から抜けることができるのだ。そして、不動産の名義も正式に私の単独名義に変更する。
—
夜中、私はそっと家の中を歩き回った。この家は、夫と二人で選んだ思い出の場所だった。でも今は、息子夫婦に占領され、私の居場所はない。
リビングを通りかかると、政治と明かりさんがまだ起きていて、話し声が聞こえてきた。
「本当、いつまであの人いるんだろうね。」
「生活費もらってるけど、それ以上に鬱陶しいよ。」
「早く施設にでも入ってくれないかな?」
私は静かに自室に戻った。もう何を言われても、心は動かない。明日、すべてが変わるのだから。
—
翌朝、私はいつもより早く起きて、姿見の鏡に映る自分の顔を見つめた。もう悲しそうな顔はしていない。そこには、決意に満ちた女性の顔があった。
朝食の準備をしていると、政治が起きてきた。
「おはよう、母さん。今日も早いね。」
「おはようございます。」
私は淡々と返事をした。政治は少し不思議そうな顔をしたが、すぐにいつもの調子に戻った。
「今日の味噌汁も薄そうだな。ちゃんと味見した?」
「はい、しました。」
「まあ、期待はしてないけどね。」
明かりさんも起きてきて、同じように私を見下すような言葉を投げかけてきた。でも、私の心は不思議なほど穏やかだった。
「今日は少し出かけてきます。」
私が告げると、二人は顔を見合わせた。
「どこに行くの?また無駄遣い?」
「いえ、必要な手続きがありまして。」
「手続き?何の?」
「それは、帰ってからお話しします。」
私は微笑みながら、食器を片付け始めた。二人は首をかしげた表情をしていたが、それ以上は追求してこなかった。
—
支度を整え、必要な書類をバッグに入れた。通帳、登記簿、印鑑。すべて揃っている。
玄関で靴を履いていると、政治が声をかけてきた。
「母さん、本当にどこ行くの?」
私は振り返り、息子の顔を見つめた。かつて愛おしさを持って見た顔。でも今は、他人のように感じる。
「心配しないでください。夕方までには戻ります。」
そう言って、私は家を出た。今日という日が、私の人生のターニングポイントになることを確信しながら。
—
翌朝、私はいつもと同じように朝食の支度をした。ただ一つ違うのは、テーブルの上に置かれた茶封筒の存在だった。
政治と明かりさんが起きてきて、いつものように席に着いた。
「おはようございます。」
私の挨拶に、二人は適当に返事をした。そして、政治がテーブルの上の封筒に気づいた。
「これ、何?」
「開けてご覧になってください。」
私は穏やかに言った。政治は怪しそうな顔をしながら封筒を開け、中の書類を取り出した。その瞬間、彼の顔色が変わった。
「何、これ?除籍証明書?」
「はい。昨日手続きをしてきました。私は正式に政治さんの戸籍から抜けました。」
明かりさんが慌てて書類を覗き込む。
「え、どういうこと?お母さん、何したんですか?」
「あなた方がおっしゃった通りにしただけです。お荷物はもう、政治さんの家にはいません。」
二人は顔を見合わせ、明らかに動揺していた。
「ちょっと待ってよ、母さん。勝手にこんなこと。」
「勝手?私には自分の戸籍を管理する権利があります。それに、もう一つお見せしたいものがあります。」
私は二枚目の書類を取り出した。
「こちらはこの家の登記簿です。ご覧の通り、昨日付けで私の単独名義に変更されています。」
政治の顔が青ざめていった。
「わ、何言ってるの?この家は…」
「この家は元々、あなたのお父さんと私の共有名義でした。お父さんが亡くなった時、その持ち分は法的に私が相続することになっていましたが、手続きをしていなかっただけです。昨日、正式に名義変更を完了させました。」
明かりさんが声を荒げた。
「そんな!私たちが住んでいるのに!」
「ええ、住んでいますね。私の家に。」
私は冷静に答えた。
「つまり、あなた方はこれまでずっと、私の家に居候している状態だったのです。そして、私はあなた方にこの家から出て行っていただきたいと思っています。」
「出て行け?冗談でしょう!」
政治が立ち上がった。
「母さん、何考えてるの?僕たちは家族でしょう?」
「家族?」
私は静かに微笑んだ。
「あなたは私のことを『金食い虫』と呼びましたね。そして『早く出て行ってくれないかな』とも。」
政治の顔が固まった。
「それは…聞き間違いでしょう。」
「いいえ、はっきりと聞きました。それに、毎日のように『役立たず』と言われてきました。そんな私が、なぜあなた方の家族でいる必要があるのでしょうか?」
明かりさんが必死になって言った。
「お母さん、それは言葉のあやで…私たちは本当は感謝してるんです。」
「感謝?」
私は首をかしげた。
「では、なぜ私の料理を『まずい』と言って残すのですか?なぜ私を『汚い』と言って、孫から遠ざけるのですか?」
二人は言葉に詰まった。
—
「でも、生活費もらってたじゃないか。」
政治が苦し紛れに言った。
「生活?私が毎月十五万円を渡していたことですか?」
私は呆れたように言った。
「あなた方は私からお金を受け取りながら、私を『金食い虫』と読んだのですよ。どちらが本当の『金食い虫』でしょうね。」
「それは…必要経費だったんだ。」
「必要経費?では計算してみましょう。この家の家賃相場は月に十万円以上です。さらに、私は五年間毎日家事をしてきました。家政婦を雇えば月三十万円はかかるでしょう。私が払っていた月十五万円では、到底足りません。つまり、あなた方の方が私に依存していたということです。」
「そんな…屁理屈だ!」
「屁理屈ではありません。事実です。そして、もう一つ事実をお伝えします。出ていっていただく期限は一ヶ月後です。法的には、それで十分な猶予期間です。」
明かりさんが泣き始めた。
「お母さん、お願いです!私たちには行くところがないんです!」
「あら、そうですか。でも、それは私の知ったことではありません。他人の心配をする必要はないと、あなた方が教えてくれましたから。」
政治が必死に訴えた。
「母さん、僕が悪かった!謝るから、考え直してくれ!」
「謝る?今更ですか?」
私は立ち上がり、二人を見下ろした。
「あなた方は五年間、私の尊厳を踏みにじり続けました。私を人として扱わず、ただの『役立たず』として見下してきました。毎月十五万円も受け取りながらです。そして今、困った時だけ『家族』というのですか?」
「お願いだよ、母さん!何でもするから!」
政治が土下座をしようとした。
「やめてください。見苦しいです。」
私は冷たく言った。
「それに、もう遅いのです。私は昨日、新しいマンションの契約もしてきました。来月からそこで一人で生活を始めます。」
「新しいマンション?お金は…」
「お金の心配はありません。あなたのお父さんが残してくれた財産と、私の退職金、年金で十分です。むしろ、あなた方に毎月十五万円も渡していたことが、無駄遣いだったと気づきました。」
「そんな!今まで生活できてたのは、その十五万円があったからなのに!」
「その通りです。私のお金に依存していたのは、あなた方の方だったのですね。『金食い虫』というのは、あなた方のことでした。」
二人は完全に打ちのめされた様子だった。
—
「最後に一つ、アドバイスをしましょう。」
私は玄関に向かいながら言った。
「人を見下し、傷つけることの代償は、いつか必ず払うことになります。お金を受け取りながら、その相手を『役立たず』とののしることの愚かさを、これから身を持って学ぶことになるでしょう。」
「母さん、待って!」
政治の叫び声を背に、私は家を出た。もう振り返ることはない。
—
一ヶ月後、私は新しいマンションのベランダで、朝のコーヒーを楽しんでいた。都心から少し離れた静かな住宅街。ワンルームのコンパクトな空間だが、私一人には十分すぎる広さだ。
引っ越しから二週間が経ち、新しい生活にも慣れてきた。誰にも文句を言われることなく、自分のペースで暮らせる日々。これほど穏やかな気持ちになれたのは、いつ以来だろうか。
スマートフォンが鳴った。政治からの着信だ。この一ヶ月で、もう五十回以上は電話がかかってきている。最初は無視していたが、あまりにしつこいので、今回は出てみることにした。
「もしもし。」
「母さん!やっと出てくれた!お願いだから、一度会って話そう!」
政治の声は、以前の傲慢さは消え、必死さだけが伝わってきた。
「何かご用ですか?」
「ご用って…母さん、水臭いよ。僕たち、本当に困ってるんだ。」
「そうですか。でも、私には関係ありませんね。」
「関係ないって…母さんは僕の母親でしょう?」
私は静かに笑った。
「いいえ。違います。除籍したのですから、私はもうあなたの母親ではありません。あなたが望んだ通り、お荷物は消えたのです。」
「それは…僕が悪かった。本当に反省してるんだ。」
「反省?では聞きますが、何を反省しているのですか?」
政治は言葉に詰まった。
「それは…母さんを大切にしなかったこと。」
「違いますね。あなたが反省しているのは、家を失い、生活に困ったことでしょう。もし今でも家があったら、あなたは反省などしていないはずです。」
沈黙が流れた。
「母さん…お金を貸して欲しいんだ。アパートの敷金が払えなくて。」
ついに本音が出た。
「お金ですか?『金食い虫』の私に、お金を借りたいと?」
「あれは…本当にごめん。」
「政治さん。一つ教えてあげましょう。私は今、とても幸せです。毎日好きな時間に起きて、好きなものを食べ、趣味の陶芸教室にも通い始めました。新しい友人もできました。あなた方といた時より、ずっと充実した日々を送っています。ですから、もう連絡しないでください。お互いのためです。」
電話を切った後、私は深呼吸をした。もう過去に縛られることはない。
—
今日は、近所のカルチャーセンターに向かう。陶芸教室の日だ。
「まき子さん、こんにちは!」
同年代の女性たちが、笑顔で迎えてくれた。ここでは誰も私を「役立たず」とは呼ばない。みんな、一人の人間として私を尊重してくれる。
「今日は花瓶を作ってみようと思うんです。」
「素敵!まき子さんのセンス、本当に素晴らしいわよ。」
褒められて、私は照れた。息子夫婦といた五年間、一度も褒められたことはなかった。
陶芸の後は、みんなでお茶をした。
「まき子さん、来月の発表会、出品されるんでしょう?」
「ええ、初めてなので緊張しますが。でも、楽しみでもあります。」
「まき子さんの作品、本当に味があって素敵なもの。楽しみにしてるわね。」
こんな温かい会話が、今の私の日常だ。
—
帰り道、スーパーに寄った。今夜は大好きな魚の煮付けを作ろうと思う。息子夫婦に「まずい」と言われ続けた料理だが、私は自分の料理が好きだ。
レジで並んでいると、後ろから声をかけられた。
「あの…まき子さん?」
振り返ると、明かりさんが立っていた。以前のような派手な服装ではなく、くたびれた様子だった。
「あら…お母さん、いえ…まき子さん。お久しぶりです。」
明かりさんは、罰が悪そうに俯いた。
「買い物ですか?」
「はい…あの。」
明かりさんは言いづらそうにしていたが、やがて口を開いた。
「お母さんに謝りたくて…本当にひどいことをしました。」
「謝罪は結構です。」
私は冷静に答えた。
「でも、本当に後悔してるんです。お母さんがいなくなって、初めて分かりました。私たちがどれだけお母さんに頼っていたか。」
「それは、良い勉強になりましたね。」
明かりさんの目に涙が浮かんだ。
「今、パートを三つかけ持ちしてます。政治も残業ばかりで…でも生活はギリギリで。」
「大変ですね。でも、自立するということは、そういうことです。」
「…お母さんは、幸せですか?」
明かりさんの問いに、私は微笑んだ。
「ええ、とても。生まれ変わったような気分です。」
明かりさんは複雑な表情を浮かべ、やがて去っていった。
—
自宅に戻り、ゆっくりと夕食を作った。自分のペースで、自分の好きなように。テレビを見ながら、一人でゆっくりと食事を楽しむ。
食後、日記を書いた。これも新しく始めた習慣だ。
「今日もまた、穏やかな一日だった。人はいくつになっても、新しい人生を始められる。六十八歳で得た自由は、何者にも買えない宝物だ。」
あの苦しかった五年間も、今思えば必要な経験だったのかもしれない。理不尽に屈せず、自分の尊厳を守る勇気を持てたのだから。
ペンを置いて、窓の外を眺めた。都会の夜景が、キラキラと輝いている。
人生の後半戦で、こんなに大きな決断をするとは思ってもみなかった。でも、後悔は一つもない。
理不尽な扱いを受けている人は、世の中にたくさんいるだろう。特に高齢者に対する偏見や差別は、根深いものがある。でも、だからと言って黙って耐える必要はない。正当な権利を主張すること、自分の尊厳を守ること。それは決して悪いことではない。むしろ、必要なことなのだ。
家族だからと言って、理不尽を受け入れる必要はない。愛情と支配は違う。感謝と利用も違う。本当の家族とは、お互いを一人の人間として認め合い、支え合う関係のはずだ。
六十八歳で手に入れた自由と尊厳。これからの人生を、私は誰にも遠慮することなく、堂々と生きていく。



