会議室の机に分厚い台本が音を立てて置かれた。表紙には「救命病棟24時間」とある。プロデューサー席に座る佐藤が、台本の表紙を軽く指で叩いた。
「あと先生、今回もいい本を上げてくれてありがとうございます。第6話の視聴率17%でした」
俺は小さく頷いた。「それは何よりです。役者さんたちがセリフを丁寧に運んでくれたおかげでしょう」
「またそうやってご自分の手柄を人に譲るんですね。うちの局のドラマで先生の脚本が始まってから、明らかに空気が変わったんですよ」
俺の名前は原田渡。42歳。医療ドラマ専門の脚本家だ。ペンネームは「鳩」。この名前で仕事を始めてもう7年になる。以前は違う仕事をしていた。心臓外科医。一時期は「神の手」などと持ち上げられたこともある。大きな病院で大きな失敗をして、1人で全てを背負ってあの世界から降りた。今の自分を知る人間はこの業界にはいない。佐藤も俺のことをただの物書きだと思っている。それでいい。俺はもう白い衣を着る資格のない人間なのだ。
佐藤が卓上のタブレットをこちらに向けた。「それでですね、次回の第8話なんですが、監修の先生が交代することになりまして」
「交代ですか?」
「これまでの吉川先生がご都合でおやめになって、新しく若い先生が来てくださるんです。桐生先生、ご存知ですか?」
俺は湯呑みを口に運ぶ手をほんの一瞬止めた。桐生。確か大学病院の血管外科の医師。30代半ばのようだ。医学誌で名前を見た覚えがある。「お名前は存じ上げています。若手ですが優秀な先生だと聞いていますよ」
「さすが先生は本当に医療関係のこと詳しいですよね。取材だけで、あそこまで書けるものなんでしょうか」
何気ない一言だった。俺は穏やかに笑って見せた。「本を読むのが好きなだけです。それに佐藤さんが集めてくださる資料が丁寧なので」
「もう、また逃げる」彼女は少し呆れたように言った。
会議は1時間ほど続いた。第8話の構成、演出、ゲスト俳優の使い方。俺は自分の意見を控えめに述べ、佐藤の判断を尊重した。帰り際、彼女はエレベーターの前でこちらを振り返った。「先生、来週の顔合わせには桐生先生もいらっしゃいます。うまくやってくださいね」
「もちろんです。監修の先生あっての医療ドラマですから」
「本当にそういうところですよ。先生の魅力は」エレベーターの扉が閉まる。
1人になると、俺は小さく息を吐いた。現役の外科医と同じ部屋で台本の話をする。7年ぶりのことだ。胸の奥で何かが揺れた。
夜10時過ぎ。仕事部屋は都心から少し外れたマンションの一室にある。本棚には脚本の資料本と並んで医学書が並んでいる。背表紙は7年前のまま色褪せずにそこにある。机の上には書きかけの第8話の台本。今回のテーマは若い母親の心臓移植だ。命の順番。提供者の家族。嫉妬の葛藤。どれも俺自身が向き合ってきた題材だった。
パソコンを開き、書きかけの手術シーンに向き合った。指がキーボードの上で止まる。このシーンで執刀医は何を思うか。モニターの数字がどう動く時、次に何を指示するか。頭の中では手が勝手に動いている。かつて自分がしていた動き。メスの角度、糸の運び、助手への短い声掛け。全てがまだ体に残っている。俺は自分の右手を見た。指は少し細くなった。この手は確かに、何百人もの心臓に触れた手だ。そして、1人の命を救えなかった手でもある。
窓の外で救急車のサイレンが遠く聞こえた。昔ならあの音を聞くたびに体が反応した。今はただ通り過ぎるのを見送るだけだ。俺はキーボードに指を戻し、セリフを1行打ち込んだ。
翌週、会議室で新スタッフの顔合わせがあった。演出、女優。少し遅れて、白いシャツにネクタイの若い男が入ってきた。背が高く姿勢が良く、目つきに自信が滲んでいる。佐藤が立ち上がって迎えた。「桐生先生、お忙しいところありがとうございます。こちら、脚本の鳩先生です」
「桐生です。よろしくお願いします」
差し出された名刺を俺は両手で受け取った。大学医学部付属病院 血管外科 桐生。その肩書きを俺はゆっくりと見た。「鳩です。こちらこそよろしくお願いいたします」
桐生は俺の名刺をちらりと見て席に着いた。
会議が進む中、桐生はふとこう言った。「鳩先生、第7話の手術シーンなんですが、あれ、鉗子の使い方が違いますよ。あんな向きで血管はクランプしません」
場の空気が少しだけ止まった。佐藤が慌てて助け舟を出そうとする。「桐生先生、あれは演出の都合もありまして」
「いえ、まず正確でないと。視聴者の中には医療関係者もいます。ああいった細部で信頼を失うんです」
そう言って桐生はまっすぐ俺を見た。「失礼ですが、鳩先生は医療のご経験は。取材と資料が中心ですよね。素人脚本家の方は現場を知らない。仕方のないことです」
「素人」という言葉が机の上に落ちた。若手監修医の目には悪意はなかった。ただ自分の世界にしか興味がない、若い医師特有の視線だった。俺はよく知っている。かつての自分も多分、そういう目をしていた。俺は静かに頷いた。「ご指摘ありがとうございます。次回からはもう少し現場に近づけるよう務めます」
「そうしてください。医療ドラマは、まず医学的に正しくないと話になりませんから」
佐藤が困った顔でこちらを見た。俺は彼女に小さく笑って見せた。
会議の後、桐生は先に部屋を出て行った。佐藤が俺の隣に来て小声で謝った。「すみません。あの先生、腕は確かなんですが、口の方が」
「若い先生はあのくらいでちょうどいいんですよ。現場を守ろうとしてくださっている証拠です」
「先生は本当に怒らないんですね」
俺は答えず、窓の外を見た。夕方の空に旅客機が一機、赤いランプを点滅させながら登っていく。
1ヶ月が経った。収録が進むにつれ、桐生との距離は縮まるどころかじわじわと広がった。彼は台本を返すたびに赤ペンでかなりの修正を入れてきた。「この薬剤は現在の第一選択ではない」「この吻合の順番はありえない」。指摘そのものは正しいものが多かった。俺はその1つ1つに目を通し、直せるところは素直に直した。反論はしなかった。
第8話の撮影が終わり、局では次の企画が動き始めていた。生放送の特別番組『命の現場・医療ドラマスペシャル』。人気ドラマのキャストを集め、実在の医師をゲストに呼び、視聴者の質問に答えながら短い医療ドラマを生で演じる。佐藤が持ち込んだ企画だった。医療監修は当然、桐生。生放送の脚本は初めてだった。
書きながら、俺は何度もペンを止めた。生放送の医療ドラマは危うい。セリフ一つで視聴者の中の患者や家族が傷つくこともある。7年前、俺自身がその重さを知った。
打ち合わせで佐藤が明るい声を出した。「先生、今回のスペシャル、視聴率20%狙いましょう。CMも例年の倍入ってるんですから」
「数字は大事です。ただ、生放送で医療をやる以上、演出の派手さより、間違いのない安全な構成にした方がいい」
「安全ですか?」
「はい。派手な真似ほど、現場では小さなミスが命取りになります。台本の段階で逃げ道を作っておくべきです」
佐藤は少し驚いた顔をして俺を見た。「先生って、時々脚本家じゃない人みたいな言い方をしますね」
「取材を重ねてきただけです」
その日の帰り、エレベーターの前で桐生と一緒になった。「鳩先生、生放送の台本拝見しました」
「ありがとうございます。何か問題があれば、遠慮なく」
「問題というより、地味すぎませんか? せっかくの生放送なんだから、もっと踏み込んだ症例を扱ってもいい。緊張気胸での緊急ドレナージとか、視覚的にも派手ですし」
「派手ですが、生放送で扱うにはリスクが高い題材です。演じる側にも、見る側にも」
「先生はいつもそうですね。安全、安全と。それでは本物の医療の緊迫感は伝わりませんよ」
穏やかな言い方だったが、言葉の端々に棘があった。俺は何も言い返さず、ただ小さく頷いた。エレベーターが1階につき、彼は先に出て行った。残された俺は、鏡に映る自分の顔を見た。7年前、同じ言葉を後輩の医師に言ったことがある。「安全ばかり考えていては、救える命も救えない」と。その結果、何が起きたのかを俺は知っている。
生放送前日の夜、俺は仕事場の机に向かっていた。最終の台本をもう一度頭から読み返す。桐生の意見も一部取り入れ、症例を1つ、少しだけ踏み込んだものに変えていた。
夜遅く、机の電話が鳴った。佐藤からだった。「先生、すみません。こんな時間に、桐生先生から連絡があって、明日の段取りをもう一度確認したいと」
「分かりました。今からで構いませんよ」
「今、桐生先生も局にいらしているんです。三者で繋いでもいいですか?」
「どうぞ」
スピーカー越しに桐生の声が聞こえてきた。「鳩先生、台本の神殿図、モニターの数値なんですが、あそこもう少しリアルにしませんか? 上昇の見せ方を実際の症例に近づけたいんです」
「モニター表示は美術さんが用意しますが、数値が具体的すぎると、視聴者の中にご家族を亡くされた方がいた場合、フラッシュバックの原因になります。少しぼかす方向で書いています」
「フラッシュバックですか? それは考えすぎでしょう。医療ドラマですよ」
「考えすぎならいいんですが。先生、失礼ですが、それは脚本家の想像の範囲を出ていません。実際に患者さんを見ている医師の立場から言えば、リアルであることの方が信頼につながります」
俺は受話器を耳に当てたまま目を閉じた。7年前のあの日、俺の患者だった若い女性が術後に容態を急変させた。その母親は、テレビの医療ドラマを見られなくなったと、後日俺に手紙を寄こした。モニターの音、医師の白衣。それだけで娘の最期が蘇ると。その手紙は今も机の引き出しに入っている。
「桐生先生、ご指摘は受け止めます。ただ、モニターの数値と音の使い方だけは、こちらの案で通させてください。これは脚本家としてのお願いです」
「分かりました。そこは先生に任せます。ただ、処置の手順は台本通りに正確にお願いしますよ」
「もちろんです」
電話が切れた。静かな部屋に時計の音だけが響いた。俺は引き出しを開け、あの手紙を取り出して、そっと机の上に置いた。
翌日、局のスタジオは朝から慌ただしかった。セットは病院の救急処置室。カメラは3台。ゲストの俳優たちがリハーサルを繰り返し、桐生は白衣を着て、監修医として本番中もセットの脇に立つことになっていた。
午後8時、生放送が始まった。前半は順調だった。司会が視聴者の質問を読み上げ、俳優が短い劇を演じ、桐生が解説を加える。桐生は落ち着いた声で心臓の仕組みを説明した。視聴率は開始から10分で18%を超えたと、副調整室から声が届いた。
問題は後半の緊急処置シーンで起きた。緊張気胸の患者役の俳優が台本通りにベッドに横たわる。主演俳優が心臓マッサージを始め、桐生が横で指示を出す。そこまではリハーサル通りだった。
異変は患者役の俳優の身体に起きた。彼が突然顔色を変えた。胸を押さえ、息が浅くなっていく。演技ではないと、その場の誰もがすぐには気づかなかった。主演俳優が心臓マッサージを続ける手を止め、戸惑った顔で桐生を見た。桐生の顔から血の気が引いた。
副調整室で佐藤が叫んだ。「桐生先生、指示をお願いします」
桐生は動けなかった。白衣を着てカメラの前に立っている。本物の急変が目の前で起きている。彼の手は宙で止まったままだった。台本にない状況、リハーサルにない状況。生放送の赤いランプが無情に光っていた。
俺はモニター越しにその光景を見ていた。体が勝手に動いた。副調整室を飛び出し、スタジオへの扉を押し開けていた。セットの照明が患者役の俳優の顔を白く照らしている。唇の色が悪い。額に汗が浮いている。胸の上下が不規則で速い。俺は迷わずベッドに歩み寄った。主演俳優が俺の顔を見て後ずさった。
桐生が白衣の袖を握りしめたまま、こちらに視線を向けた。「鳩先生、何をするんですか?」
「彼は演技じゃない。本当に来てる」
俺は俳優の首筋に指を当てた。頸動脈の拍動が細く速い。続けて胸に耳を寄せ、呼吸音を確かめた。右の胸が明らかに膨らみが悪い。指を肋骨の脇に走らせ、肋間を数えた。第二肋間、鎖骨。打診音が高い。緊急性が高い状況だ。「左肺が虚脱して、右に縦隔が押されてる。このままだと数分でショックに入る」
「緊張気胸ってどういうことだ?」
彼の声は枯れていた。「桐生先生、14ゲージの針ありますか? 救急セットに」
桐生は反射的に、セットの脇の救急バッグに手を伸ばした。本物の救急バッグだった。生放送の緊迫感を出すため、桐生自身が用意した本物の医療器具。その意図が皮肉な形で、今、命を救う道具になろうとしていた。
俺は針を受け取り、消毒綿で手早く胸を拭いた。カメラは回っていた。赤いランプが俺の背中を照らしている。副調整室の佐藤はモニター越しにこの光景を見ていた。彼女は後でこの時のことをこう語った。「鳩先生の背中が、脚本家の背中じゃなかった。あれは白衣を着ていない医者でした」
俺は針を第二肋間に垂直に刺した。指先に抜ける感触。シュッと、空気が漏れる音がした。俳優の胸がゆっくりと膨らみを取り戻した。唇にわずかに赤みが戻る。呼吸のリズムが整い始めた。俺は針を固定し、ようやく顔を上げた。
「桐生先生、あなた、救急車を呼んでください。処置はあくまで応急です。病院で胸腔ドレーンを入れないとまずい」
桐生は「はい」と、子供のような声で答え、走った。副調整室から佐藤の声がスタジオに響いた。「CM! CM入れて、急いで」
画面が切り替わり、赤いランプが消えた。俺はその場に膝をついた。7年ぶりに使った手が震えていた。
俳優は救急車で運ばれ、命に別状はなかった。生放送は残り15分を残して中断、お詫びのテロップを流して終了した。局は騒然としていた。社長室に問い合わせの電話が殺到し、報道各社からの取材が届き始めていた。
俺は控え室に1人で座っていた。机の上に飲みかけの湯呑み。指はまだ少し震えていた。扉が静かに開き、佐藤と桐生が入ってきた。
「先生、あの処置、脚本家の知識でできることじゃありません。取材でも、本を読んだだけでも無理です」
俺は湯呑みを両手で包んだ。「佐藤さん、桐生先生、長い間隠していてすみませんでした」俺は2人の顔を順に見た。「俺の本名は原田渡と言います。7年前まで大学病院の心臓血管外科にいました」
桐生の顔がはっきりと変わった。「原田渡? まさか、あの原田先生ですか?」
「あなたが学生の頃に聞いた名前かもしれません」
「知っています。学会で何度もお名前を。あなたの論文は今も引用されています」
「昔の話です」
佐藤が椅子に腰を落とした。「どうして、やめられたんですか?」
「7年前、1人の若い女性を助けられなかった。手術中に制御不能な出血が起きて、私の判断が一瞬遅れた。彼女は助からなかった。原因の1つは、私と後輩の連携ミスでした」
俺は一度言葉を切った。「後輩には家庭がありました。私は1人でした。だから、責任は全部私が取ることにしたんです。病院をやめ、名前を消して、この世界に来ました」
桐生は立ち尽くしたままだった。「なぜ、脚本家に?」
「メスは置いても、医療から離れることはできなかった。せめて書くことで、患者さんとご家族の気持ちをテレビの向こうに届けたかった。派手なシーンより、正確さより、まず届く言葉を書きたかったんです」
桐生の目に、ゆっくりと涙が浮かんだ。彼はその場で深く頭を下げた。「先生、私はあなたに失礼なことを言いました」
「それは構いませんよ」
「今日、私は動けませんでした。目の前で人が倒れて、白衣を着ていたのに、指一本動かせなかった。あなたが飛び込んでこなければ、どうなっていたか」
「あなたが用意した救急バッグが彼を助けたんです」
「違います」彼は首を横に振った。「現場を知らないのは私の方でした。手術室の中でしか、私は医者じゃなかった。生きた人間の前で、私は何もできなかった」
俺は立ち上がり、桐生の肩に手を置いた。「動けなかった経験を覚えている医者は、次は動けます。忘れなければ、それでいい」
桐生の肩が小さく震えた。佐藤は目を伏せ、指で目頭を押さえていた。
深夜、局のスタジオはもう静かだった。俺は1人、セットの脇に立っていた。7年ぶりに人の命に触れた。指先にはまだ、あの感触が残っていた。佐藤が廊下からやってきた。「先生、会社は先生の正体を公表するかどうか、これから協議に入ります。ただ、私は公表しない方向で戦うつもりです」
「無理をなさらなくていい。私のせいで局に迷惑がかかったのなら、身を引きます」
「先生が身を引く必要はありません。今日、先生は人を救ったんです。それ以上に何が要りますか?」
俺はただ頭を下げた。「1つだけ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「もう一度、白衣を着たいと思いますか?」
俺は少し間を置いて口を開いた。「白衣を着る資格が自分にあるかは、まだ判断できません。ただ、書くことは続けたい。今日のことも、いつか誰かの物語にできる日が来ると思います」
「先生らしい答えですね」彼女は軽く笑い、コートを羽織った。「桐生先生が、来週、先生に会いたいと言っていました。監修医としてではなく、1人の医師として、話を聞かせて欲しいと」
「喜んで」
佐藤は一礼して、廊下を歩いて行った。俺はセットのベッドに近づき、シーツにそっと手を置いた。今晩、俺の手のひらに戻ってきた、あの若い俳優の胸の温もり。7年前、俺の手から失われた、あの女性の命。どちらも、この手は覚えている。胸ポケットから、俺は古い封筒を取り出した。7年間、机の引き出しに眠っていた、あの母親からの手紙だった。今日、なぜかポケットに入れて家を出た。俺は手紙をそっと胸に戻した。
外に出ると、夜風が冷たかった。空の高いところを、旅客機が一機、赤いランプを点滅させながら横切っていく。俺は静かに歩き出した。遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。


