企画書を突き返されたのは、もう四回目だった。
「もう一度やり直して」
短く冷たい一言。鈴木さんの無表情な顔が、書類を俺に押し返す。背中に冷たい汗が流れた。俺は二十七歳で、地元の老舗和菓子メーカーで商品開発をしている。上司の鈴木美佐子さんは、三十歳そこそこで部長にまで登り詰めた才媛だ。栗色の髪を肩まで伸ばし、透き通るような白い肌に鋭い目元。その美しさに初めて紹介された時、ほとんどの男性社員が胸をときめかせたが、彼女はとにかく仕事に厳しかった。
彼女が来てから、チャレンジ精神あふれる企画は次々と消えていった。確実性のない企画書はことごとく跳ねられ、その度に新入社員が辞めていった。
「鈴木さんにまた企画書を跳ねられてさ。もう四回目だよ」
自販機で飲み物を買おうとしていた俺に、同僚の田中が声をかけてきた。
「それはきついな。でも、鈴木部長はお前に期待してるからこそ厳しいんだと思うぞ」
「そうかもしれないけど……なあ、美人上司ってのは嬉しいけど、あの冷たい目つきで跳ねられると心が折れるわ」
「だろうな。でもお前はすごいよ。みんな自分にはできないって関心してる。ほら、タバコも吸わないし、繊細な味が分からなくなるからって。お前は情報収集も欠かさない。大したやつだよ」
俺には子供の頃からの夢があった。どうしても作りたい和菓子があった。
企画書を完成させるために、連日残業が続いた。投げ出したい気持ちもあったが、どうしても夢を現実にしたかった。やる気だけは誰にも負けないが、人間だ。心身ともに限界を感じていた。今日は早く帰って休もう。そう思ってマンションに帰り着いた俺に、良からぬ出来事が起こった。
鍵がないのだ。
学生の頃から使っているキーホルダーごと、落としてしまったらしい。スーツも鞄も必死に探したが、見つからない。管理会社に問い合わせるには時間外だった。ビジネスホテルに泊まるしかないか。そう思いかけた時、ふと会社に落ちているのではないかと気になった。
すでに社員は帰宅している時間。オフィスに戻ると、明かりが漏れていた。電気の消し忘れかと思ったが、いつも鈴木さんから消灯を厳しく言われていたので考えにくい。不安な気持ちでオフィスに入ると、仕事が終わってもなお、デスクで真剣に書類と向き合う鈴木さんの姿があった。
「あれ? 佐藤君、こんな時間にどうしたの?」
「一度帰りかけたんですけど、鍵をなくしてしまって。もしかしたら会社に落ちてないかと思って探しに来たんです」
「あなたは本当に休息が必要ね。自己管理ができないと仕事の効率も落ちるわよ」
瞬時に無表情となった鈴木さんは、書類に目を向けた。俺は所在なくデスク周りを探したが、鍵はなかった。結局、何のために来たんだか分からなくなって、挨拶をして帰ろうとした。
「ちょっと待ちなさい。どこに行くの? 家の鍵がなかったんでしょ?」
「はい。たまにはビジネスホテルに泊まるのもいいかななんて思って」
「五分待って」
俺が直立不動で待っていると、ちょうど五分後、鈴木さんは書類を引き出しに戻し、立ち上がった。
「待たせて悪いわね。行こう」
「え、どこに?」
「私のマンションよ」
「え、それはさすがにダメでしょ」
「だって家の鍵がなかったんでしょ? 私のところに来なさい。部下が困っているのに放ってはおけないわ」
「いや、仕事とは関係のないことですから……」
「ベコベコ言わずに来なさい」
蛇に睨まれたカエルのようだった。俺は鈴木さんに手を引かれるまま、彼女のマンションへと向かった。
鈴木さんはオフィスから数分のところで立ち止まった。そこには高級感溢れるデザイン、厳重なセキュリティを備えた高級マンションがあった。田中が言っていた通り、彼女は資産家のお嬢様らしい。エントランスは高級ホテルのロビーのようで、受付のスタッフが丁寧に挨拶した。エレベーターに乗り込むと、到着したのは最上階だった。こんなお嬢様が、どうしてうちの会社で働いているんだろう。
玄関を開けると、中からはフローラルな香りが広がった。鈴木さんに手を引かれて何も考えずに来てしまったが、俺はここに泊まるのか。借りがあるとはいえ、俺も男だ。鈴木さんは俺を男性として見てくれていないのだろうか。
「佐藤君、ワインは飲める?」
「え? えっと……」
夕食を食べながら、沈黙が落ちた。飲み会にも食事会にも参加しない鈴木さんが、お酒を飲んでいる姿は実に新鮮だった。彼女の部屋は実にシンプルで、生活感がなかった。
「佐藤君、私はあなたに一目置いているのよ」
「鈴木さん……」
「自分でも分かっているの。仕事に厳しすぎるって。でもお客様に直結することだからこそ、手を抜きたくない。そうじゃないと、この会社に勤めている意味がないじゃない。ただ、新しい企画を出そうとしているのがあなた一人になってしまったのは反省しているわ」
「俺はどうしても作りたい菓子があるんです」
「佐藤君は、そのためにこの会社に入ったの?」
「はい。ここは伝統を大切にしながらも、新しい挑戦ができる場所だと思いました。和菓子職人としての経験から、新しいお菓子にはもっとお客様を驚かせる工夫が必要だと感じたんです。経験と言ってもアルバイトですけどね」
「だからあなたの企画はいつも斬新なのね。いつも驚かされているわ」
「ありがとうございます」
「でもね、斬新なだけじゃ会社としては通せないのよ。ある程度の利益がないと。それが経営で、大人の世界なの。本当は、そんなお金ばかり大切にする世界が嫌でこの仕事を始めたんだけど……やりがいを求めるって厳しいわね」
「そうですね」
「企画自体はどれも悪くないの。佐藤君の和菓子への誠実さは伝わっているから、もったいないのよ。企画としてOKを出しても、経理で止められる可能性が高いし、営業まで届かない」
「そうだったんですか……じゃあ、どうすればいいんですか?」
「伝統と確信を融合させる企画を、佐藤君なら考えられると思う。だって私は……」
ワインの潤んだ香りが漂う。それが自分のグラスなのか、鈴木さんのグラスなのか分からないほど、二人の距離は近くなっていた。会社にいる時と同じスーツを着ているはずなのに、なぜかドキッとしてしまう。鈴木さんの潤んだ瞳から目をそらせば、少し乱れた髪から覗くうなじに意識が集中した。これ以上は何かまずい気がする。そう思うのに、離れることもできなかった。
そして、鈴木さんがさらに俺に近づき、そのまま二人の顔が近くなり、彼女は目を閉じた。
……彼女は不意に、俺の方に寄りかかってきた。
どうやら眠ってしまったらしい。安心したような、少し物足りないような、そんな感情が入り混じった。俺は彼女を支えながら、そっとグラスをテーブルに戻した。勝手に部屋を探索するのは気が引けるが、彼女を寝かせるために仕方がない。いくつかのドアを開け閉めしながら寝室を見つけ、彼女をベッドに横たえてブランケットをかけた。俺はリビングのソファーに戻り、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、日差しで早くに目を覚ました。昨夜とは打って変わった明るいリビングの中、テーブルに置かれていた鈴木さんのポーチから、銀色に光るものを見つけて驚いた。
それが、俺の自宅の鍵だったからだ。
どうして鈴木さんの、しかもポーチの中に俺の鍵が入っているんだ。思わず鍵を取り出してまじまじと見た。形状も同じだし、キーホルダーも何も付いていないことからますます俺の家の鍵にしか見えない。
「佐藤君、おはようございます」
「鈴木さん……あの、これ……」
「どうしてそれを持っているの?」
「鈴木さんのポーチが開いていて、そこから転がり出てきたみたいで。この鍵、俺の家の鍵とそっくりなんです」
「この鍵があなたの家の鍵? そんなことあるわけないでしょう」
「すみません。でも、これどこの鍵なんですか? 俺も鍵を落としてしまって、気になっていて」
「どこの鍵かなんて、あなたが気にしなくていいわ」
「疑うわけじゃないですけど、本当に似てるので。これ、確認させてもらってもいいですか?」
「ダメ。絶対にダメ」
いつもクールな鈴木さんが、妙に慌てていた。
「どうしてですか? 開けてみるだけですよ。そこまで嫌がられると、余計に疑いたくなるじゃないですか」
「……仕事の引き出しなのよ」
「俺は同じ会社の、しかも商品開発の社員ですよ。それに、鈴木さんには泊めていただいたお礼もありますし、上司としても尊敬しています。だから、この鍵が俺のじゃないって証明したいんです。お願いします」
頭を下げた俺に、鈴木さんは無言で頷くしかなかった。
「分かったわ」
ため息をつくと、彼女は「プライベートルーム」という名の仕事部屋に案内してくれた。鍵付きの引き出しを、彼女が鍵で開けようとする。しかし、鍵は回らなかった。
「……これは、やっぱり俺の部屋の鍵なのか?」
「もしかして、この鍵って……」
「オフィスに落ちてました」
「そうよ。だから私が落としたと思ったの。こんな昔風な鍵、誰も持っていないはずだから」
「昔風ですか? 大体の家やマンションの鍵はこれだと思いますよ」
「嘘。部屋の鍵はカードキーでしょ? 私の周りはみんなカードキーを使ってるわよ。時代遅れなんじゃないの?」
なるほど。鈴木さんは、この形状の鍵が使われているマンションを知らなかったようだ。資産家のお嬢様は、見るもの聞くもの世界が違うんだな。
「改めてお聞きしますが、この引き出しの鍵は、いつもどこに入れているんですか?」
「あのポーチの中」
鈴木さんは慌ててリビングに戻ると、ポーチの中身をひっくり返した。すると、ちゃんと自分の鍵が出てきた。
「嘘でしょ?」
鈴木さんは何が起きたか分からないという様子だったが、俺の存在も忘れて、引き出しの中身を確認するように鍵を開けた。
「よかった……開いた。じゃあ、あれは本当に佐藤君の家の鍵なのね」
「鈴木さん、これ……」
俺は自分の鍵のことなんてどうでも良くなっていた。それよりも、鈴木さんが大切そうにしまっていた引き出しの中身が気になった。
引き出しの中に保管されていたのは、くしゃくしゃになった紙の束。こんなものを、なぜ鍵付きの引き出しにしまっているんだ?
「……これは、見たらダメ」
それは、俺がダメ出しをされて、くしゃくしゃにして捨てた何枚もの企画書だった。
「鈴木さん、一体どういうことですか?」
「バカ……え? いえ、私がバカなのよね、きっと」
「もしかして、俺の部屋の鍵と関係がありますか? なんで俺の鍵がここに?」
予期せぬ出来事に動揺を隠せない鈴木さんだったが、やがて観念したように、ぽつりぽつりと話し出した。
「実は私ね、佐藤君のことがずっと好きだったの」
「……え?」
「好きな人のものは、いつも持っていたいじゃない。あなたにとっては悔しさの塊だったかもしれないけど、私にとっては唯一あなたを感じられるものだったから」
「鈴木さん……」
「最初はただの部下としか見てなかったけど、佐藤君だけが諦めずに何回も企画書を持ってくるから、自然と目で追うようになって……企画を持ってきてくれるのが楽しみにさえなってた。でも、そんなのアリでしょ? 誰にも気づかれないように隠していたから。上司としての立場もあったし」
「じゃあ、企画書を突き返してたのも……」
「自分の気持ちを押し殺して、終わらせるつもりだったの。でも昨日、佐藤君の話を聞いて、これが最後のチャンスかもしれないって思った。家で過ごした時間を、特別な思い出として封印するつもりだから、安心して」
そう言って、鈴木さんは慌てて引き出しに鍵を差した。まるで、自分の気持ちに鍵をかけるように。
本当にこれでいいのか? このままでは、カチャリという無機質な音で、二人の関係が完全に終わってしまう。そう思った瞬間、俺の口が動いていた。
「ちょっと待ってください。勝手に封印しないでください」
「佐藤君……」
「俺、ずっと鈴木さんに憧れていたんです。厳しいけど、自分と同じように仕事に情熱を持っていて、尊敬できる人だって。でも、いつしか憧れの気持ちだけではなくなりました。企画書が何度ボツになっても、冷たく指摘をされても、諦められなかったのは……鈴木さんに会いたかったからです。好きだったからです」
鈴木さんは驚いたように、俺を見つめた。
「俺とあなたが釣り合わないのは、十分承知です。鈴木さんが嫌だったら、この気持ちもボツにしてくれて構いません。ただ、俺はどうしても自分の気持ちに鍵をかけたくなかった」
沈黙の中、俺の息遣いだけが聞こえる。しばらくして、鈴木さんはゆっくりと口を開いた。
「……ボツにするわけないじゃない。嬉しすぎて、泣きそう」
絶対に笑わない鈴木さんが、頬をピンク色に染めながら微笑んでいた。しかも、瞳を潤ませながら。そんな鈴木さんを見たら、覚悟や冷静さなんてどうでも良くなった。俺は無意識のまま、彼女を引き寄せて、ぎゅっと強く抱きしめた。
それから、俺は鈴木さんとの交際をスタートさせた。不思議なもので、上司と付き合い始めると、俺のアイデアはどんどん冴えていった。そして、これまでの努力が報われて、ついに夢にまで見た和菓子「四季彩」を発売することができたのだ。四季彩は、四季折々の自然の美しさと、その時々の風情を感じられるようにデザインされていたため、日本人はもちろん、日本の文化や季節を感じたいと願う外国人観光客にも大人気となった。
俺は、四季彩のヒットと一緒に、美佐子さんとの結婚も果たした。彼女とはずっと別世界の人間だと感じていたが、実際に結婚してみると、価値観の違いは驚くほど気にならなかった。多くの夫婦が価値観のずれで別れる中、俺たちはそのずれが大きすぎるがゆえに、かえって互いに補完し合うことができた。おかしなもので、極端な違いが逆に新鮮で、毎日が新しい発見の連続なのだ。
美佐子さんは資産家のお嬢様ではあるが、お金では買えないものの価値をきちんと理解していた。今でも、鍵付きの引き出しには俺のダメ出しだらけの企画書が入っている。
「美佐子さん、どうしてあの企画書をずっと保管しているんだ?」
俺が尋ねると、美佐子さんは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「だって、あなたの成長記録みたいでしょ。いつも一生懸命の姿を見ているとなんだか応援したくなるの」
俺は彼女の可愛らしい一面に触れ、ますます頑張ろうという気持ちが湧いてくる。今思えば、すぐに企画書が通らなくて良かったのかもしれない。こうして美佐子さんの、鍵のかかった心の引き出しを開けられたのだから。
これが、俺たちの馴れ初めだ。



