十五年前、私は医学会を追われ、白衣を脱いだ。責任を押し付けられ、妻は病に倒れ、娘は祖父母に預けた。それから七年、私はただのタクシー運転手として、誰にも知られずに生きてきた。あの雪の夜、高速道路で起きた多重事故。私は誰よりも早く車を飛び出し、負傷者を次々と救った。だが、駆けつけた救急救命士に顔を見られた瞬間、彼は固まって言った。「佐藤先生……ですよね?」私は首を振った。「人違いです」と。その夜…

十五年前、私は医学会を追われ、白衣を脱いだ。責任を押し付けられ、妻は病に倒れ、娘は祖父母に預けた。それから七年、私はただのタクシー運転手として、誰にも知られずに生きてきた。あの雪の夜、高速道路で起きた多重事故。私は誰よりも早く車を飛び出し、負傷者を次々と救った。だが、駆けつけた救急救命士に顔を見られた瞬間、彼は固まって言った。「佐藤先生……ですよね?」私は首を振った。「人違いです」と。その夜...

信号が青に変わる。俺はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

後部座席には、大きな病院の紙袋を膝に抱えた老婦人が座っている。バックミラー越しにその顔色をそっと伺った。

「運転手さん、段差のあるところはなるべく避けてくださいね。」

「はい、承知しました。」

車は東京の裏通りを縫うように進んでいく。午後三時、町は柔らかな冬の光に包まれ、欅並木の影が路面に長く伸びていた。

俺は目的地の病院前でタクシーを止め、後部ドアをそっと開けた。料金を受け取り、釣り銭を渡す。

「お寒いですから、どうかお大事になさってください。」

言ってしまってから、俺は口の端で小さく苦笑した。タクシー運転手が客に言う言葉ではないかもしれない。

老婦人は少し驚いた顔をして、それから柔らかく微笑んだ。

「まあ、優しい方ね。ありがとう。」

俺は帽子のつばに軽く手をやって頭を下げた。老婦人の背中が病院の自動ドアの向こうに消えていくまで、しばらく見送った。

俺の名前は佐藤孝介。45歳。東京の下町で一人暮らしをし、個人タクシーを走らせて生計を立てている。朝は五時に起き、車内を隅々まで拭き、シートの匂いを確かめる。仕事の合間にコンビニのおにぎりをかじり、夜は狭い風呂に湯を張って静かに一日を終える。そんな暮らしをもう七年続けていた。派手ではない。褒められることも責められることもない。ただ目の前の乗客を目的地まで無事に届ける。それだけの日々だ。

無線が短く鳴った。次の配車先が入る。俺はハンドルを握り直し、また車を走らせた。

車庫に戻ったのは日付が変わる少し前だった。アパートの部屋に明かりをつけると、狭い流し台の上に一枚の写真が置いてある。色あせた写真の中で、幼い娘が笑っていた。その隣で、まだ三十そこそこの俺が白衣を着て少しだけ得意げな顔をしていた。

十五年前、俺は日本屈指の救命救急センターの医師だった。胸には常に聴診器、頭の中には常に患者のバイタル。朝も夜もなく救急車の音が聞こえれば走った。その頃、俺は一つのシステムを作り上げた。救急搬送された患者の重症度をAIが瞬時に判定し、処置の優先順位を医師に提示する。いわゆるAIトリアージシステムだった。

学会で発表した論文は世界中で引用された。海外の医療誌が取材に訪れ、俺の名前は日本の救命医療を変える若手として報じられた。

栄光は長くは続かなかった。

病院は開発途中だったそのシステムを、安全性の検証が済まぬまま正式導入した。奥には製薬会社と医療機器メーカーの影があった。病院の黒田院長は俺の反対を若気の至りと切り捨てた。

「佐藤君、時代は待ってくれんのだよ。この病院を日本の中心にする。」

その声を俺は今でも覚えている。

導入から半年後、都心で大規模な事故が起きた。搬送された患者は三十人を超え、AIの判定は複数の重傷患者を軽症と誤った。数人が命を落とした。責任を俺は取らされた。記者会見の席で頭を下げたのは俺一人だった。黒田の名前はどこにも出なかった。副院長だった三山徹は俺の隣で唇を噛みしめたまま、何も言わなかった。

医学会を追われた頃、妻が病に倒れた。半年持たなかった。葬儀の帰り道、幼いひろみが俺の手を強く握った。その小さな指を俺は今も忘れられない。

俺はひろみを妻の両親に預けた。自分の名前が世間からどう扱われているか、娘にだけは知られたくなかった。父親であることを、俺は自分から手放した。それが正しかったのかどうか、今も分からない。

写真の中の娘が笑っている。

翌朝、俺はいつものように五時に起き、いつものようにタクシーを走らせていた。渋谷駅前で信号待ちをしていた時、横断歩道の途中で男性がふらりとよろけた。胸元を押さえ、そのまま歩道の縁石に崩れ落ちるのが見えた。

俺は考える前に車を路肩に寄せ、ハザードを出して外へ飛び出していた。男性の傍らに膝まずき、頚動脈に指を当てた。脈は弱い。呼吸が浅く、唇の色が悪い。

「聞こえますか? 目を開けられますか?」

反応はなかった。俺は上着を脱ぎ、男性の頭の下に敷いた。胸骨圧迫を始める。両手を重ね、体重をかけ、一定のリズムで。指先が、体が勝手にそれを覚えていた。

若い会社員風の男がスマートフォンを手に近づいてきた。

「あ、あの、救急車呼びました。到着まであと五分くらいって。」

「ありがとうございます。」

「あの、あなた、お医者さんですか?」

俺は手を止めなかった。

「いえ、ただのタクシーの運転手です。」

会社員は口を開いたまま何も言えなくなった。

遠くからサイレンの音が近づいてくる。救急隊が到着し、男性をストレッチャーに乗せる頃には、脈は少し戻っていた。救急隊員が俺の顔をじっと見た。

「処置、素晴らしかったです。差し支えなければお名前を教えてください。」

「名前はいいですよ。ただ通りかかっただけですから。」

俺は上着を拾い、砂を払った。救急車が去っていった後、しばらくその場に立っていた。指先が少しだけ震えていた。タクシーに戻り、シートに腰を下ろした。無線が鳴った。次の乗客の配車先が告げられる。俺はエンジンをかけ、車を発進させた。

夕方の空が少しずつ灰色に沈んでいく。天気予報は今夜から雪の可能性があると告げていた。

雪の予報。それが俺のこれからの夜とどう繋がっていくのか。その時の俺はまだ何も知らなかった。

雪は日付が変わる少し前から降り始めた。俺は湾岸線の下り車線を走っていた。最終の乗客を羽田で下ろした帰り道。無線は一度切ってあった。大井ジャンクションを過ぎた頃、前方の車列が急に速度を落とした。テールランプの赤が雪の粒に滲んでいく。俺は車間を開け、ゆっくりとブレーキを踏んだ、その時だった。

数百メートル先で、鈍く重い音が響いた。続けて金属が擦れ合う高い音。一度ではなかった。二度、三度と、音は連鎖するように後方へ伸びていった。

俺はハザードを出し路肩へ寄せた。ドアを開けた瞬間、冷たい空気が顔を刺した。雪の向こうに何台もの車が折り重なっているのが見えた。ワンボックス、乗用車、大型トラック。先頭のトラックからは白い蒸気が立ち上っている。

俺は迷わなかった。運転席の下から救急箱を掴み、車を降りた。七年前、タクシーを始めた時に自分で買ったものだ。使う日が来るとは思っていなかった。

最初の車のドアをこじ開けた。運転席の男は額から出血しているが、意識はあった。

「動かないで。首をそのままに。」

首の下に手を差し入れ、頸椎の位置を確かめる。問題はなさそうだ。俺は次の車へ走った。

三台目のワンボックスは横転していた。割れた側面の窓から、若い女の声が聞こえた。

「息子が、息子が動かないんです。」

俺は窓枠に足をかけ、車内を覗き込んだ。チャイルドシートに四、五歳の男の子が固定されていた。額に切り傷があり、顔色が青白い。呼吸が浅く早い。

「お母さん、名前は?」

「高瀬です。息子は翔太、五歳です。」

「翔太君、聞こえるか? おじさんの声が聞こえるか?」

反応がない。俺は救急箱からペンライトを取り出し、瞳孔を確認した。対光反射はある。瞳孔の動きが左右で違う。気胸の徴候だ。

「奥さん、翔太君を外に出します。俺が支えるので、シートベルトを外してください。」

指は震えていたが、それでも動いた。俺は翔太を抱き上げ、雪の積もり始めた路肩に寝かせた。上着を脱ぎ、その体にかける。呼吸を確保し、胸に耳を当てた。心音は弱いがある。

その間にも後方からは新たな衝突音が響いていた。俺は立ち上がり、次の車、また次の車と回った。出血している男性の腕にネクタイで止血を巻いた。意識のない男性の気道を確保した。運転席で泣き続ける女性に「大丈夫だ」と繰り返した。声をかけ、脈を取り、優先順位を頭の中で組み換えていく。体が勝手に動いていた。十五年白衣を脱いでいたはずの手が、迷いなく動いていた。

遠くからいくつものサイレンが近づいてきた。救急車の赤色灯が雪の中でにじむように広がった。先頭の車から若い救急救命士が飛び降りてきた。救命バッグを肩にかけ、周囲を見渡している。その目が、路肩に並べられた負傷者の列に止まった。一人一人に簡単な処置と、札のようなメモが添えられている。重症度別にきちんと並べられていた。

救命士は翔太のそばに屈み込んでいる俺の姿を見つけて、足を止めた。俺は顔を上げた。男は三十そこそこか、若い。その顔が見る見るうちに強張っていく。

「佐藤先生……?」

俺は答えなかった。男の名札には「霧島悟」と書かれていた。知らない名前だった。

「まさか、佐藤先生ですよね。救命救急センターの佐藤孝介先生。」

「人違いです。俺はタクシーの運転手ですから。処置を変わってもらえますか? この子は気胸の疑いがあります。左肺です。」

霧島悟は口を開いたまま俺の顔を見ていた。すぐに我に返り、翔太のそばへ駆けだした。

「救急処置、準備します。引き継ぎます。」

俺は一歩下がり、他の負傷者の元へ向かおうとした。その背中に、霧島の声が追いかけてきた。

「先生の論文、私、全部読みました。学生の頃からずっと。」

俺は振り返らなかった。

現場にはいつの間にかテレビ局のカメラが入っていた。雪の中で無数のライトが点滅していた。俺は帽子のつばを深く下ろし、自分のタクシーへ戻った。後部座席に高瀬さんを座らせ、毛布を渡した。翔太は救急車で先に搬送されていった。

「あの、本当にありがとうございました。あなたのお名前を。」

「名前はいいです。息子さんが無事に助かることだけを祈ってください。」

高瀬さんは俺の顔をじっと見た。その目は涙で濡れていた。

深夜のニュース番組はその日の映像を繰り返し流した。雪の高速道路。その中を動く、紺の作業ジャンパーの男。顔ははっきり映っていない。それでも、その手捌きを見た者は皆口を揃えた。「あれは素人の動きではない」と。

同じ夜、都内の一軒家で三山徹はテレビの前に座っていた。画面には雪の高速道路の映像が流れていた。一人の男が負傷者の間を静かに動いている。三山はその背中を知っていた。十五年、忘れたことは一度もなかった。

「まさか、佐藤……」

三山は立ち上がり、書斎に入った。奥の書棚の裏から、封筒に入った古い書類の束を取り出した。黄ばんだ紙の束。院長と製薬会社の間で交わされたメール。AIシステムの安全性検証を意図的に省略した会議録。副院長として自分が同席していた場の記録。その全てを三山は十五年間、家の奥に隠し持っていた。

握りしめた手が震えた。

「もう、いいだろう。」

翌朝、三山徹は厚生労働省の記者クラブにその書類の写しを送った。

三日後、報道は一気に流れを変えた。十五年前の医療事故に関する新事実、病院ぐるみの隠蔽、責任を負わされた一人の医師の名誉。テレビも新聞も、佐藤孝介という名前を再び口にし始めた。高瀬さんがテレビカメラの前に立ち、涙ながらに語った。「あの雪の夜、自分と息子の命を救ったのは、あの人だと。」

黒田院長の名前が初めてニュースの見出しに載った。大学病院の理事会は臨時会議を開き、彼を解任した。

俺の携帯電話が鳴り止まなくなった。かつての恩師、大学病院の学長、厚生労働省の役人、救命救急センターの後輩たち。救命センター長の椅子、特任教授のポスト、公演の依頼、名誉回復と復帰。俺は電話に出なかった。夜の明かりを消し、狭い流し台の前に立った。写真立ての中で幼いひろみが笑っている。その隣で白衣の男も笑っている。

俺はしばらくその場に立っていた。窓の外では、また雪が降り始めていた。

雪が止んだ朝、俺は歩いて近所の喫茶店へ向かった。文字の角を曲がると、店の前に見知らぬ男が二人立っているのが見えた。黒いコートに鞄。記者だ。

俺は歩調を変えず、店のドアを押した。店主が顔を上げ、困ったような笑みを浮かべた。

「佐藤さん、朝から何人か来てたよ。」

「すみません。しばらく迷惑かけるかもしれません。」

「気にしないでいい。いつも通りブレンドでいいかい?」

「ええ、お願いします。」

奥の席に腰を下ろし、湯気の立つカップを見つめた。ポケットの中で携帯電話がまた震えていた。画面を確認する。知らない番号。出ないまま机の上に置いた。

昼過ぎ、一人の男が店に入ってきた。コートの雪を払い、俺の前に静かに立った。霧島悟だった。

「佐藤先生、失礼します。」

俺は向かいの席を目で示した。霧島は腰を下ろすと、しばらく言葉を探していた。

「大学病院からも、うちのセンターからも正式な打診が行っているはずです。センター長のポスト、特任教授、どちらも先生に戻ってきていただきたいんです。」

「あなたは、頼まれてきたわけじゃないでしょう。」

「はい。私が自分の意思で来ました。」

霧島は顔を上げた。真っ直ぐな目だった。

「先生の作ったシステムは、あの事故の後、他の大学で改良が続けられていました。今では全国の救命センターで使われています。先生の名誉が回復した今、先生ご自身の手で次の段階を進めていただきたい。私はそう思っています。」

「霧島先生。」

「はい。」

「あなたのような人が現場にいる。それで十分だと、俺は思っています。」

霧島は口を閉じた。俺は少しだけ笑った。

「あの雪の夜、俺が救急箱を持って車を降りた時、周りの通行人は誰も動けなかった。動けなかった人を責める気はありません。ただ俺は動けた。白衣を着ていなくても動けた。それが答えなんだと思います。」

「先生……」

「命を救う場所は病院だけじゃない。町の中にも、雪の高速道路にも、タクシーの後部座席にもある。俺はもう七年、この町の中でいくつかの命に立ち合いました。これからもそうやって生きていきたいんです。」

霧島はしばらく黙っていた。その目にうっすらと光るものがあった。彼は静かに立ち上がり、深々と頭を下げた。

「わかりました。いつかまた、現場でお会いします。」

「ええ、その時はよろしくお願いします。」

霧島が店を出て行った後、俺はコーヒーを飲み干した。窓の外の雪は、屋根の上でゆっくりと溶け始めていた。

この夜、俺は各方面へ丁寧に断りの返事を書いた。一通ずつ、手書きで。数日後、俺の言葉はある週刊誌の記事になった。「命を救う場所は病院だけじゃない」、その言葉が見出しに載っていた。読者からの反響が編集部に殺到したと、後で聞いた。

その週の金曜日の夕方、俺はいつものように東京駅の丸の内側で客待ちをしていた。帰宅ラッシュが始まる少し前。後部ドアが開き、一人の若い女性が乗り込んできた。

「どちらまで?」

「とりあえず、まっすぐ進んでください。」

その声に、俺はバックミラーへ目をやった。少し俯いた横顔。その耳の形、鼻筋。胸の奥で何かが小さく音を立てた。

俺は視線を前に戻し、車を発進させた。女性は膝の上で両手を握りしめ、しばらく黙っていた。信号を二つ超えたところで、ようやく口を開いた。

「佐藤孝介さんですよね。」

ミラーの中で、女性が顔を上げていた。その目に涙が浮かんでいた。

「私、佐藤ひろみです。」

車内の空気が止まった。俺は次の信号で路肩へ静かに車を寄せた。その手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。

「……大きくなったな。」

やっと出た言葉がそれだった。

「私、二年前から都内の救命救急センターで働いています。救命医です。」

「そうか。」

「大学に入る前からずっと調べていました。お父さんのこと、あの事故のこと。祖父母は何も教えてくれなかったから、自分で全部調べたんです。」

ひろみの声が震え始めた。

「高校生の頃までは、お父さんのこと憎んでいました。お母さんが亡くなって、私だけ置いていった人だと思っていました。でも、大学で医学を勉強するうちに、お父さんが発表した論文を読んで。この人は本当に人を救いたかった人なんだって、分かったんです。」

俺はハンドルを見つめたまま動けなかった。

「それから、あの事故の資料を集めました。当時のカルテのコピー、学会の記録、内部の告発文書、全部自分で足を運んで頭を下げて集めました。三山先生にも一度会いに行きました。何も話してくださらなかったけど、帰り際に一言だけ。『お父さんは悪くない』って。」

俺は目を閉じた。脳裏に、記者会見で唇を噛みしめていた三山の顔が浮かんだ。

「あの雪の夜のニュース、私、徹夜明けで見ました。すぐに分かりました。お父さんだって。」

ひろみはこらえきれずに嗚咽を漏らした。

俺はゆっくりと息を吐いた。

「ひろみ、父さんはな、お前に俺の名前で肩身の狭い思いをさせたくなかった。それだけだったんだ。お前を捨てたわけじゃない。……いや、結果としてそうなったのかもしれないな。すまなかった。」

初めて、その言葉を口に出した。

ひろみは首を横に振った。

「謝らないでください。お父さん、謝らないで。私は、お父さんの娘でよかった。」

しばらくして、ひろみはバッグから一冊の雑誌を取り出した。分厚い英文の医学誌だった。表紙に見覚えのある学会のロゴがあった。

「これ、今月号です。開いてみてください。」

俺は雑誌を受け取り、しおりの挟まれたページを開いた。そこに俺自身の顔写真があった。少し古い、白衣を着ていた頃の写真だ。横に並ぶ英文の見出しに、ゆっくりと目を走らせた。

「国際医療貢献賞。救命救急医療の発展への長年の貢献と、医学会を離れた後も現場において人命救助を継続してきた姿勢に対して」――そう書かれていた。

指先がページの端を握りしめていた。

「霧島先生が推薦してくださったそうです。世界中の救命医からの署名が集まったって。」

ひろみはハンカチを取り出し、目元を押さえた。そして震える声で、静かに言った。

「お父さん、私はずっと、お父さんみたいな医師になりたかった。」

俺は片手で目を覆った。指の間から、熱いものがこぼれた。声を出さないように奥歯を噛みしめた。それでも、肩が震えるのは止められなかった。

ひろみが後部座席から手を伸ばした。その手が、俺の左肩にそっと触れた。

十五年前、葬儀の帰り道に俺の手を握った、あの小さな指がそこにあった。

しばらく車内にはエンジンの低い音だけが響いていた。やがて俺はゆっくりと顔を上げた。バックミラーの中で、ひろみが微笑んでいた。

「ありがとう、父さんに会いに来てくれて。」

「今度、ご飯行きましょう。仕事休みの日に。」

「ああ、今度は父さんが迎えに行くよ。」

俺はひろみを新宿駅の南口で下ろした。後ろ姿が人混みに消えるまで、俺は車を動かさなかった。彼女が一度だけ振り返り、小さく手を振った。

無線が鳴った。次の配車先が告げられる。俺はエンジンをかけ直し、ハンドルを握った。バックミラーの中の自分は、いつものタクシー運転手の顔だった。

車は夕暮れの町へ滑り出した。

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