「妊娠したの?」
その言葉に、俺は思わず大声を出しかけた。慌てて口を押さえられ、俺はただ呆然と彼女を見つめることしかできなかった。
「ちょ、ちょっと大きな声出さないでってば」
ゆいさんは、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。
俺の名前は山下蒼太。28歳のサラリーマンで、居酒屋チェーン店の店舗マネージャーをしている。店舗の管理に、スタッフの指導、メニューの改善、お客様対応。やることは山積みだったが、お客様の笑顔を見るとやりがいを感じていた。
しかし最近、どの店舗でも深刻なのが人手不足だった。上司からは早急な対策を求められ、俺自身がフロアに立つことも増えていた。
その日も、ピークの忙しい時間をようやく乗り越えて、休憩に入ろうと従業員控室のドアを開けた。
「あ、山下さん、お疲れ様です」
パート従業員の佐藤さんが、奥のソファーでコーヒーを飲んでいた。いつもニコニコしていて、大学生のバイトの子たちからも慕われている、頼りがいのある主婦パートさん。そういうイメージだった。
「お疲れ様です。今日も忙しいですね。今日は何時まででしたっけ?」
「閉店までですよ。本当は21時まででしたけど、バイトの子が来られなくなったんで、代わりに出たんです」
「マジですか? 大丈夫なんですか? ご家族とか…お子さん、家で待ってたりしませんか?」
家族を持つ主婦にとって、深夜までの勤務は大変だろう。そんな気持ちで、何の気なしに尋ねた。
佐藤さんはしばらく呆然とした後、プッと吹き出した。
「私、独身ですよ、山下さん」
「え? あ、そ、そうでしたっけ。すみません。失礼なこと言ってしまって。忘れてください。本当、ごめんなさい」
完全に見た目だけで既婚者だと思い込んでいた。勝手な思い込みで話を進めるなんて、なんて失礼なことをしてしまったんだ。焦りで口が乾き、言葉が出てこない。
「そんなに謝らないでくださいよ。別に気にしてませんから」
佐藤さんはニコニコ笑っていたが、俺の心には自己嫌悪が広がっていた。
「もう、だから謝らないでくださいって。逆に気を遣わせてるみたいで嫌だわ」
「え? あ、すみません…」
「もう、また」
佐藤さんは苦笑いしながら、俺の肩に手を置いた。
「この年で独身で、子供もいないなんて、確かに少数派ですもんね。でも独身であることは私の選択です。1人で寂しいとか、孤独を抱えてるみたいに映るかもしれないけど、私は毎日、超幸せですよ」
そう言ってニコッと笑った佐藤さん。その笑顔は本当に幸せそうで、俺も釣られて笑ってしまった。
「まあ、子供は大好きだから、一度は子育てしてみたかったなって気持ちもないわけじゃないんですけどね」
「5つ下の弟と2人暮らしなんです。でも弟も呆れてますよ。私が好き勝手に遊んでるからって」
意味ありげに笑う佐藤さんが、なんだかとても色っぽく見えた。ドキドキしてしまう自分がいて、それを隠すように俺は話題を変えた。
「あ、明日はお休みですね、佐藤さん」
「そういえばそうです。特に予定もないから忘れてました。あれ? 山下さんもお休みですか?」
「ああ、明日は久しぶりの休みですね。最近忙しかったからな」
意味深に天井を見上げる俺を見て、佐藤さんが言った。
「じゃあ、仕事終わったらちょっと飲みに行きません?」
「え?」
自分でもびっくりするくらいの声が出た。
「まだそんなに驚かなくても。ちょっとだけ付き合ってくださいよ。さすがの私も1人で居酒屋はハードルが高くて。今夜はお疲れ様ってことで行きましょうよ」
積極的な佐藤さんに戸惑いつつも、嫌な気持ちはなかった。
「そうですね」
「じゃあ、ちょっとだけね。この時間じゃ付き合ってくれる友達もいなくて、かと言って、帰って1人で飲むのも寂しいし」
嬉しそうに控室を出ていく佐藤さんを見て、俺は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
閉店後、バイトの子たちが帰った後の控室に、俺と佐藤さんだけが残った。
「駅前のワインバーに行きませんか? 最近オープンしたばかりらしいんですけど、一度行ってみたくて」
「ああ、いいですね。お任せします」
ワインバーなんておしゃれな店には緊張するが、せっかくの機会だ。
制服を脱いだ佐藤さんは、ますます年齢不詳に見えた。とても40代には見えないほど綺麗だった。
ワインバーのカウンターで、注文した赤ワインをゆっくりと回しながら香りを楽しむ佐藤さん。ワインなんて普段飲まない俺は、緊張しつつも口に運んだ。
「どう? 美味しいでしょ?」
「ええ、ビールや焼酎とは一味違いますね。なんだか大人になった気分です」
「やだ、山下さんは立派な大人でしょ」
俺の感想に、佐藤さんはおかしそうに笑った。
飲み慣れないワインのせいか、すぐに酔いが回ってしまった。体がほんのりと熱くなり、視界がぼやけてくる。会話も弾み、だんだんと上機嫌になっていく。
「本当にモヤモヤしちゃうのよね。何も知らない他人から『独身で大変ね』とか『早くいい人見つかるといいね』なんて言われてさ。自分の価値観を押し付けないで欲しいわ」
いつも穏やかな佐藤さんが愚痴る姿に、嫌な感じはしなかった。むしろ本音で話してくれているようで、親近感が湧いた。
「いやあ、佐藤さんがこんなに魅力的な人だとは思いませんでした」
「え?」
「いや、普通にお子さんいて、旦那さんいて、生活費のために働いてる主婦ってイメージだったから」
「ちょっと、私の話聞いてた? 普通って何よ? 私が普通じゃないってこと?」
佐藤さんは笑いながら、パシパシと俺の肩を叩いた。
「ああ、まあ、いい意味で普通じゃないっすね。あまりに綺麗で色っぽくて、参っちゃいますよ」
「もう、山下君ったら、上手いんだから」
いつの間にか「山下さん」が「山下君」になっていた。
「ゆいさん、最高です。これからもよろしくお願いします」
調子に乗って下の名前で呼んでみると、ゆいさんはニコニコしながら、
「ありがとう。そんなこと言ってくれて嬉しい。お礼に何してあげよっかな」
悪戯っぽく笑いながら、人差し指で俺の胸元をつついてきた。突然触れられた俺は、一瞬で心臓が跳ね上がった。
「お礼してくれるなら、この後、朝まで付き合ってくださいよ」
冗談混じりに言った。すると、
「朝まで? いいわよ。明日、休みだもん」
唇をツンと尖らせて見せるゆいさん。俺たちは夜の町へ繰り出した。
怪しげなネオンが輝く通りへ吸い込まれるように進んでいく。どちらからともなく手をつなぎ、体を寄せ合った。
そして、気がつけば薄暗い部屋の中。俺たちは1つのベッドの上で抱き合っていた。
「いいわよ。私、もう子供ができる体じゃないし…」
潤んだ瞳で訴えるように見つめられた俺は、本能のまま彼女を抱きしめた。経験したことのないような快感に、俺は我を忘れて夢中になっていた。
こうして思いもよらない展開になったわけだが、後悔はなかった。
ただ、今まで通り職場で顔を合わせるのは、少し気まずかった。休憩時間に控室でバッタリ出くわすと、微妙な沈黙が流れる。
「お疲れ様です」
小さな声で言うのが精一杯の俺に対して、ゆいさんは意外といつも通りの態度で笑顔を返してくる。しかし、明らかに以前とは違う距離感が生まれていた。
ふとした瞬間に目が合ったりすると、その度にあの夜のことを思い出してドキドキしてしまう。
でも、まさかこの後、あんな展開になるとは夢にも思っていなかった。
あの夜から2ヶ月ほど経ったある日、休憩時間のことだった。
「山下君、ちょっといい?」
周囲に誰もいないのを確認するようにキョロキョロしながら、俺を手招きしたゆいさん。シフトの変更か何かの相談だろうと思い、言われるままに近づいた。
「あのね、びっくりしないで聞いて欲しいんだけど…。……っていうのも難しいかな。とりあえず、大きな声出さないでね」
「え、どういうことですか?」
言いにくそうに俯くゆいさんを不思議に思いながら、次の言葉を待った。
「妊娠したの」
「妊娠? え? 妊娠? ちょ、ちょっと…」
「だから、大きな声出さないでってば」
ゆいさんは慌てた様子で、俺の口に人差し指を押し当てた。
「そ、それってつまり、え、あの夜の…?」
信じられない気持ちで、まるで独り言のように呟いた。
「うん…。ごめんね」
ゆいさんは今にも泣き出しそうな顔で下を向いてしまった。
「それって…俺の…だよね? つまり、その子の父親って…」
失礼なことを言っていると頭では分かっている。だが、あまりに突然のことで、確かめずにはいられなかった。
ゆいさんは一瞬、怒ったように顔を強ばらせた。
「父親が誰かわからないなんてこと、絶対にない。私がそんな女に見えるなら、悲しいわ」
「ごめん…」
俺は何と言っていいのか分からず、口をつぐんだ。
でも、神に誓って言えるのは、このままうやむやにしようとは1ミリも思わなかったということだ。
責任を取る。俺にはこれしかなかった。
付き合ってもいない俺たちが、これからどうすればいいのか。考えれば考えるほど不安だったが、不思議と迷いはなかった。
「俺、ゆいさんと結婚したい。子供も産んでください。俺、絶対に幸せにしますから」
自分でも驚くほどスラスラと気持ちが口から溢れてきた。一生に一度のプロポーズを、あまりに簡単そうに口に出す俺を、ゆいさんはポカンと口を開けたまま見つめていた。
「そ、そんな簡単に…」
困ったような顔で首を振るゆいさん。
「本気です。俺、こんなことを冗談で言うような人間じゃないです」
俺の真剣な眼差しに気づいたのか、ゆいさんの目に光が宿った。
「本当に…?」
「ああ」
「……ありがとう」
そう言って、ゆいさんはポロポロと涙を流した。
それから俺たちは、お互いの気持ちを確かめ合い、いたわり合いながら、恋人同士として日々を過ごした。
妊娠がなかったとしても、俺はずっとこうしたかったのかもしれない。あの暑い夜を過ごした後、いや、もしかしたらその前から、俺はゆいさんのことが気になっていたのだと思う。年の差や周囲の目を気にして、勇気を出せずにいたけど、心の奥ではゆいさんを強く求めていた。
これから2人で幸せに時間を過ごし、生まれてくる子供を心待ちにする日々。そう考えると、心がほんのりと温かくなっていた。
だが、ある日、ゆいさんがいつになく暗い表情をしていることに気がついた。
「どうかしたの? 何かあった? 体調悪い? お腹の子に何かあったのか?」
「うん。大丈夫。元気だよ。私も子供も。でも…」
明るい笑顔でお腹をさすったゆいさんだったが、続けて言った。
「弟がね…」
「弟?」
一緒に住んでいるという弟が、昨日、ゆいさんに言い放ったという言葉を聞いて、俺は呆然とした。
「『子供』って…『結婚』って…冗談でしょ? ありえないよ、そんなこと。『姉ちゃんはここにいてくれないと困るんだから、やめてくれよ』って…」
確か弟は、俺より年上の30歳だと聞いている。いい大人が言うセリフとは思えなかった。
「どういうこと? 『ここにいてくれないと困る』って?」
「実はね…」
ゆいさんは俯きながら話してくれた。
聞けば、もうすぐ31歳になる弟は、大学を出て就職に失敗してからというもの、引きこもり気味なのだという。バイトもせず、一日中パソコンの前に座っている。もちろん家事なんて何もしない。ゆいさんの稼ぎを当てに生活しているらしい。
「自分の世話をして欲しいから、結婚やめて、出産なんてやめてってこと? 信じられない」
「両親は2人とももう他界してるし、私以外に頼れる人いないの…。弟も…依存されてることは分かってるけど、どうしても放っておけなくて」
「じゃあ、結婚も出産も諦めるの?」
思わず声を荒げてしまった。ゆいさんは大きく首を横に振った。
「年の離れた弟が心配なのは分かるけど、もう31歳でしょ? 親身になって相談に乗って、ちゃんと社会復帰を目指すべきだよ。本人のためにも、それが一番いいはずだ」
「叱るべきところ…?」
そんなことを考えたこともなかったと、ゆいさんは目を丸くした。
俺はすぐにスマホを取り出して検索した。
「ほら、家の近くにあるじゃん。引きこもり地域支援センター。診療内科も必要なら行くべきだ。状況に応じた支援を提供してるところは、調べれば他にもあると思う」
「本当だ…考えたこともなかったわ」
その後、ゆいさんは弟と話し合った。最初こそひどい拒否反応を見せた弟だったが、ゆいさんの粘り強い説得で、心を開いてくれたという。本当の意味で手を差し伸べてくれる存在に気づいたのだろう。
今では甘えることなく、自ら診療内科に通い、近所の就労移行支援事業所にも行き、社会復帰を目指しているとのことだった。
「蒼太君、本当にありがとう。蒼太君がいなかったら、私、ずっと言われるがまま弟の世話をしていたと思う。彼のためと思ってのことだったけど、今考えたら、お互い依存し合ってたのかもしれないわね。歪な関係のまま、年を取っていくだけだった気がする。そう思うと、ゾッとするわ」
ゆいさんはそう言って肩をすくめた。
思いがけず授かった命。そして、繋がった縁が、ゆいさんと弟さんを救ったのだとしたら、それはもう運命としか言いようがない。
結婚式の日、立派にスーツを着こなした弟さんが、ゆいさんの手を取り、堂々とバージンロードを歩いてくれた。それが、俺は何よりも嬉しかった。
そして数ヶ月後、俺たちの愛の結晶が無事に産声を上げた。高齢出産だったがゆえに心配も多かったが、健康な赤ちゃんだった。
俺は改めて誓った。
これから、ゆいさんと、この可愛い我が子を、世界一幸せにすると。



