母上の薬に粉を混ぜたのは、長年仕えてきたお富だった。震える声でそう告白した時、おじの顔は青ざめ、唇が震えていた。「誰に命じられたのですか。」千代はその言葉を聞くより先に、三年前に川で命を落とした夫の姿を思い浮かべていた。
シュートの病と夫の死。二つの出来事を結ぶものが何だったのか、その手がかりは、いくつか前の川千の米蔵にあった。
米蔵の前には、田原が積み上げられていた。稲刈りが終わったばかりで、藁の匂いがまだ辺りに漂っていた。「二番目のお方様、今年の俵は去年よりいくらか多いように思いますが。」下女が俵の一つを指先で押しながら言った。千代は積まれた俵の列を目で数えた。「十二列に八段積めば九十六俵になります。正面には百俵と記されておりますが。」下女の顔がにわかに曇った。千代は俵の底をもう一度確かめ、頷いた。「下に敷かれた俵の四つは、半分ほどしか入っておりませぬ。積み直しなさい。」
遠くからこの様子を見ていた沖は、奥の影で静かに笑みを浮かべた。
川千は松ヶ里一体で最も名の知れた家だった。広い田畑を持ち、沖は長く内政を取り仕切ってきた。千代は三年前に夫をなくしていた。ある嵐の晩、川で船が転覆したという知らせが届いただけであった。夫すら満足に見つからなかった。その日のことを千代は今でも時折思い出しては胸の奥が締めつけられる思いがした。
川千の蔵は、二代前の当主が荒れ地を切り開き田畑を広げたことに始まると聞き伝えられていた。以来この家は、豊作の年も不作の年も隔てなく米を蓄え、いざという時には惜しみなく村へ放つことで松ヶ里の暮らしを支えてきたのである。沖はその家風を誰よりも重んじる女だった。夫を早くになくしてからは女ながらに家を握り、蔵の鍵を腰に下げ、雇い人の一人一人の顔まで覚えていた。
その沖の目にとまったのが、三年前に嫁いできたばかりで間もなく夫をなくした千代であった。千代は息子の長太郎を一人で育てながら川千に住んでいた。初めのうちは離れでひっそりと過ごすつもりでいた。嫁いで日の浅い身の置き所もないだろうと自らに言い聞かせていたのである。だが沖は千代をただの厄介者にはしておかなかった。
「千代、こちらへ来てご覧なさい。」沖は升を差し出しながら言った。「これが升というものです。溢れさせず、足らせもせず測る術を覚えなさい。」千代は升に米を盛り、手のひらで上を平らにならした。沖はそれを測りにかけ、頷いた。「よろしい。これからは俵の積まれた高さを見ただけで中の量が読めるものになりなさい。目に欺かれぬ者です。」
千代は昼には米蔵を見て回り、夜には帳面をめくった。初めのうちは文字がなかなか頭に入らなかったが、数だけは不思議なほど鮮やかに残った。行燈の灯りで行く晩も算盤を引き、指先が隅で黒く汚れることも珍しくなかった。夜が更けて肩が凝り固まっても、沖が酷使した帳面の合わせ方を一つ一つ確かめずには眠れなかった。時には夜明けまで帳面と向き合い、朝の支度に立つ女中に驚かれることもあった。キヌはそんな千代を見るたびに満ち足りた顔を隠せずにいた。
「蔵を守るのは鍵ではありませぬ。その中の米が誰の命であるかを知るものこそが蔵を守るのです。」千代はその言葉を胸に刻んだ。
それからいくつかの季節が巡り、千代の算用の腕は見違えるほどに確かなものとなっていった。稲刈りが終わったある年の秋、田が水につかり一年の実りをそっくり失った村人が何人も蔵の前に押し寄せてきたことがあった。薄汚れた着物をまとい、痩せた子を背負った女たちの姿もあった。「ご主人様、この冬を越す米がございませぬ。どうか少しばかりでも。」沖は躊躇なく藏倉の扉を開けさせた。俵が一つずつ庭に運び出され、集まった者たちの目には涙が滲んでいた。年を取った男が地面に膝をつき、両手を合わせて拝む姿もあった。乳飲み子を抱いた若い母親が俵の縄目を握りしめたまま声もなく肩を震わせていた。千代はその一人一人の顔を見て回りながら俵の目方に間違いのないよう目を配り、沖はその光景を座敷の縁側から静かに見守っていた。
総兵の顔はあまり晴れやかではなかった。「母上、そのように施しておられてはいずれ我が家の蔵も空になってしまいましょう。」「蔵が空になろうとも、人が飢えて死ぬよりはマシです。」総兵はそれ以上言葉を継がなかった。心のうちでは幼い頃から母が弟にばかり目をかけ、いずれは嫁の千代にまで蔵を任せようとしていることへの妬みが澱のように溜まっていた。この家の嫡男は俺だというのに、と相兵は幾度も心に言い聞かせた。加えて米相場に手を出して密かに抱え込んだ借財も日に日に重くのしかかっていた。誰にも明かせぬその二つの思いが、総兵の胸のうちでいつしか一つに絡み合っていたのである。
総兵は代わりに庭に並ぶ俵を恨めしげに眺めていたが、誰も見ていない隙に俵を一つ、先ほど千代が積み直しを命じた俵の、それも蔵の奥の一番目につきにくい隅の方をそっと押し上げた。その仕草を見たものは誰もいなかった。
ちょうどその頃、長太郎は柱にかけられた木札に刻み目を数えて遊んでいた。木札には幾筋もの刻み目が刻まれ、長年の手で角が丸くなっていた。「おばあ様、これは何でございますか?」長太郎が小刀で木札の端に線を引こうとすると、沖はその手を押しとめた。「これは遊びではありませぬぞ。長太郎。刻み目一つが俵一つなのです。字の読めぬ者でもこれを見れば蔵の米がどれほど出入りしたかが分かります。」「では、この刻み目が違っていたらどうなるのでございますか?」沖はしばし黙って木札を撫でていた。その手つきには幼い孫には測りかねる重みが宿っているようであった。「違っていたなら、誰かが嘘をついているということです。」長太郎にはその言葉の意味が十分には分からなかったが、祖母が木札を撫でていた手つきだけはいつまでも記憶に残った。
やがて冬に差しかかると、沖の体は目に見えて弱っていった。膳を下げる日が増え、咳が絶えなかった。庭の雪がすっかり落ち切った頃には、琴屋から起き上がる日もめっきり少なくなっていた。下女のお富が毎日煎じ薬を奥の間に運んでいた。ところがいつからかお富の手が小刻みに震えるようになった。「お富、その手はどうしたのですか。」千代が尋ねると、お富は俯いて口ごもった。「いいえ。何でもございませぬ。二番目のお方様。ただ薬が熱うございまして。」千代はそれ以上問いただしはしなかった。ただお富が廊下の前でしばらく佇んでから中に入る様子だけは心のどこかに引っかかっていた。
村の医者が幾度か呼ばれ脈を取り薬を調合していったが、良くなる気配はなかなか見えなかった。医者は帰り際、廊下で総兵に向かい「もはや長くはございますまい」と低い声で告げていた。それを漏れ聞いた千代は胸の奥が冷たくなる思いがした。
沖の病は一か月ごとに重くなっていった。千代は床と枕元を守り、灯の油が尽きるのも忘れて沖の寝顔を見つめていた。窓の外では雪の降り積もる音が囁くように夜のしじまに溶けていった。時折り沖がうわごとのように何かをつぶやくこともあったが、その言葉はいつも途切れ途切れで聞き取ることができなかった。
沖は総兵が米に手をつけていることを薄うす察していた。だが確かな証を握っているわけではなかった。帳面を扱う手代も大判所に出入りする下役も、いつしか総兵の息のかかったものばかりとなっていた。証もないまま表向き人前で攻め立てれば、返って千代と長太郎の身が危なくなる。沖はそう思い定め、口を閉ざしたまま一人歯を食いしばっていた。
ある日、沖は苦しい息の下から手を伸ばし、何かを取り出した。縁のかけた古い升であった。「これを持っていきなさい。」「母上、これは蔵の升ではございませぬか。なぜ私に。」「問うてはなりませぬ。懐にしまっておきなさい。いずれ役に立つ日が来ます。」千代はわけもわからぬままそれを受け取り、袖の内側に収めた。木肌は長年の手で飴色に光り、縁のかけたところだけがざらついていた。沖は息を切らせながら千代の手を強く握った。「千代、よく聞きなさい。私が死んだらの、終わった日に長太郎を抱いて表口から追い出されたふりをしなさい。蔵の鍵も逆らわず総兵に投げ与えなさい。」千代の目が見開かれた。「母上、それはどういうことでございますか? 私と長太郎をこの家から出ていけと。」「そなたと長太郎が何も持たぬものに見えれば、総兵は油断します。あの子が本当に恐れているのは、この家を継ぐものが残ることなのです。長太郎さえ生き延びればそれで良いのです。」沖の声は低かったが緩みがなかった。「理由は問うてはなりませぬ。今はその時ではないのです。ただ私の言う通りにするのです。約束しておくれ。」千代は喉が詰まり、しばらく答えられなかった。窓の外では冷たい風が鳴り、沖の指先は次第に冷たくなっていった。「お約束いたします。母上。」千代は答えながらも胸のうちでは言い知れぬ不安が競り上がってくるのを感じていた。それでも沖の手を強く握り返しその意を組もうと務めた。沖はそれでようやく浅い息を吐き、目を閉じた。
その数日前にも、千代は廊下の影から沖が下女のお富を一人だけ枕元に呼び、一通の書状を手渡している姿を見かけていた。「私が息を引き取ったなら、これを一目につかぬよう大判所へ届けなさい。蔵のものには決して中身を見せてはなりませぬ。」沖がそう言い含めているのが障子越しに微かに聞こえた。何を託しておられたのか、その時の千代には知るよしもなかった。
その夜明け、沖は二度と目を開けることはなかった。千代は冷たくなった手を離せぬまま無心に泣いた。長太郎は母の袖にすがりつき、訳もわからぬまま泣いていた。廊下の外では泣き声が響き渡り、総兵も声を上げて泣いていた。だが人々の目が緩んだ隙に、総兵はそっと座を離れた。その足は奥の間ではなく、母の遺品と箪笥が置かれた納戸へと向かっていた。総兵は静かに箪笥の戸を開け、引き出しを一つずつ改め始めた。その手つきは悲しみに沈む者のそれではなかった。指先は忙しなく動き、時折り廊下の物音に耳を済ませてはまた探る手を早めるのであった。
葬儀から三日目、総兵は家中のものを座敷に呼び集めた。「母上が見まかられる前に内々に詫びられたことがあります。」総兵は箪笥から一枚の紙を取り出し広げて見せた。「大判所への借財が銀にして数十両を超えております。蔵を満たし村人に米を分け与えておられたせいで、我が家の台所は傾いておったのです。」人々がざわめいた。長年使えてきた下男や女中たちも互いに顔を見合わせ信じられぬといった表情を浮かべていた。「誠でございますか、大旦那様。」思わず声をもらすものもあった。千代は紙に記された文字をじっと見つめた。見慣れぬ筆跡であり、沖の筆跡とも蔵の帳面の筆跡とも違っていた。「兄上様、この借財は……」千代がそう言いかけた瞬間、耳の奥で沖の声がまた響いた。「問うてはなりませぬ。今はその時ではありませぬ。」千代は唇を結んだ。代わりに総兵の顔を静かに見つめた。総兵は千代と目が合うとわずかに視線をそらした。「義妹殿もそろそろ知っておくべきことです。蔵の鍵は私に渡してもらいましょう。借財を返すには他に道がありませぬ。」千代はしばし目を閉じた。それからこそこそと袖の内側から鍵の束を取り出し、総兵の前に置いた。「そういたします。兄上様。」総兵は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて鍵を懐に納めた。
その日の夕方、千代は長太郎の手を引いて座敷を出た。着替えの包み一つが持てるものの全てであった。「母上、私たちはどこへ参るのですか?」「しばらくよそで暮らすことになります。長太郎。」表口を出て行く千代の後ろ姿を見ながら、女中たちがひそひそとささやき合った。「あの若奥様は財産もなしに追い出されるらしい。」「大旦那様は情け深いお方ではないか。あれだけ手厚く養子に出そうとされているところを見ると。」千代は足を止めなかった。
義姉であるお春の家にたどり着いた時、戸の隙間から漏れる明りがなぜか遠く感じられた。お春は千代を式の中へ招き入れることをしなかった。「私とて心が痛みます。ですが私の兄がちょうど再縁を控えております。他家の者が転がり込んでいると知れば、先方に何と言われましょうか。」「母上、今一度なりとも……」千代がそう言おうとしたが、お春は戸を閉ざした。千代はその前にしばらく立ち尽くしたまま動けなかった。長太郎が千代の袖を引き見上げてきた。「母上、なぜお泣きになるのですか?」「泣いてはおりませぬ。長太郎。目に埃が入っただけです。」千代は涙を拭い歩き出した。
旦那の家の戸を叩いてみたが、帰る言葉はどこも似たようなものであった。「ここも暮らしが苦しくてね。」「今や総兵様の世話になる身なのだから致し方なかろう。」またある家では、戸の隙間からちらと顔を覗かせただけで何も言わずに戸を閉ざされた。長太郎は寒さに小さな体を丸め、それでも弱音一つこぼさず母の手をしっかりと握っていた。その健気な様子が返って千代の胸を締めつけた。
日が暮れ、辺りの店に灯りが入り始める頃、千代と長太郎は行く当てもなく川辺の辺りを彷徨っていた。冷たい風が二人の裾をはたき、長太郎の足取りも次第に重くなっていった。夫が生きていたならこの子にこのような思いをさせずに済んだであろうに、と千代は繰り返し胸のうちで呟いた。だが悔やんだところで今更時は戻らなかった。
その時、店の戸が開き、煙と共に見知った顔が出てきた。「おや、これはどなたかと思えば、二番目のお方様ではございませぬか。」お松であった。かつて不作の年に沖の米で冬を越した恩を忘れていない女であった。「お様がご存命であれば、この有様をどれほど嘆かれたことか。さあ、お入りなさい。煮物くらいなら貸して差し上げられます。」千代はそこでようやく堪えていた涙をこぼした。長太郎は温かい汁物にありついて久しぶりに笑顔を見せた。「母上、この汁は本当においしゅうございます。」千代は息子の頭を撫で静かに頷いた。久しく忘れていた温かさが胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じた。
それからいく月か経つと、千代はお松の煮物屋を手伝って暮らすようになった。算盤に強い千代のおかげで帳面もいくらか楽になった。器を洗い勘定を数え、日暮れには長太郎に読み書きを教える日々であった。師走が近づく頃には店先に立つ千代の姿もすっかり馴染みのものとなり、常連の客たちも気軽に声をかけるようになっていた。それでも夜が更けて店を閉めた後、千代は一人行燈の前に座り、亡き夫と沖の顔を思い浮かべては胸の奥に渦巻く思いを持て余す日が続いた。
一方、川千では総兵が澄ました顔で日々を過ごしていた。嫁いが身一つで追い出されたという噂が広まると、もはや誰も蔵のことを詮索しようとはしなかった。総兵は夜になると、身内の者を数人呼び寄せ、蔵の鍵を開け田原を荷車に積んでは、月の出ぬ夜を選んでどこへともなく運び出すようになったのである。手代たちにはこれは借財の形として大判宮に返す米だと言い含めていたが、その運び先は大判宮ではなかった。運び出すたびに総兵の懐は潤っていった。
その頃、千代は川辺で見慣れぬ結び目を見つけた。買い出しで米俵を一つずつ見て回っていた時のことである。米俵の一つが店の隅に置かれていたが、俵の縄が三度巻かれ内へ押し込まれた結び方であった。千代はしばらくその場に立ち尽くし、目を離せずにいた。まさかと思いながらも近づいて指先で結び目をなぞってみた。千代の指先が震えた。それは沖が葬儀の日にも用いていた結び方であった。「この米はどちらから参ったのですか?」千代が尋ねると、商人は指も気に留めもせずに答えた。「川千の大旦那様が譲られたものですよ。借財を返すために急いで手放すのだとか。」千代は俵をもう一度改めた。結び目も俵の目も間違いなかった。
その夜、寝入った長太郎の顔を眺めながら行燈の明かりを親友に灯すと、千代は思い切って尋ねた。「長太郎、おばあ様が木札に刻んでいらした刻み目を覚えていますか?」長太郎は目を擦りながら頷いた。「はい。おばあ様があの刻み目一つが俵一つだとおっしゃっていました。それにおばあ様が病になられる前にも、蔵へ行って刻み目を刻んでいらっしゃいました。あの時、木札には十二の列があって、どの列にも九つずつ刻み目が並んでいました。最後の列だけ少し短かったのを覚えています。その後、叔父上が蔵からひどく怒ったお顔で出ていらっしゃるのを見ました。」千代の目が揺れた。沖が最後まで蔵を改めていたのであれば、その数がどこかに残っているはずであった。
千代は立ち上がり羽織を羽織った。「母上、どちらへ行かれるのですか?」「少し出てまいります。戸締まりをしっかりしていなさい。」月のない夜であった。千代は闇の中、川千の蔵の辺りを窺った。冷えた頬が肌を刺し、遠くで犬の鳴く声が響くたびに心臓が縮み上がる思いがした。木々のざわめきさえも誰かの足音のように聞こえた。ほどなくして車輪の軋む音が聞こえてきた。総兵が自ら先に立ち、下男二人が荷車を引いていた。千代は物陰に身を隠し跡をつけた。息を殺し、下駄の音さえ立てぬように配慮しながら。荷車の一行は村を出て人気のない山道へと向かった。古びた蔵の前で車が止まった。かつては別の主が使っていたが、今は誰も寄りつかぬと聞いていた倉であった。周りには枯れ草がうず高く積もり、屋根の一部は崩れかけ、蜘蛛の巣が柱や梁にも貼られていた。借財のせいで空になったと聞いていた。
千代は息を殺し、蔵の隙間へと近づいた。自分の心臓の音が耳の奥で鳴っているのが分かるほどであった。総兵が戸を開けると、軋む音と共に闇が開いた。その中はただの空き蔵とは全く違い、積み込まれた俵が天井近くまで柱のように積み上げられていた。千代は物陰に体をさらに寄せた。積まれた俵の全てに見慣れた結び目が結ばれていた。縄を三度巻き、内へ押し込む——沖が葬儀の日にのみ用いていたまさにあの結び方であった。「これが全て、村人に配られるはずの米だったというのか。」千代の胸のうちに怒りとも悲しみともつかぬものが込み上げてきた。千代は袖の内側から縁のかけた古い升を取り出した。指先が震えたが心を落ち着け、俵の一つから升で二杯米を掬った。手のひらで上を平らにならし、傍らに置かれていた蔵の新しい升にも同じように米を満たし並べてみた。二つの升は量にわずかな違いがあった。古い升より蔵の新升の方が、目に見えて低かった。千代は息を殺し、もう一度測り直した。三度繰り返しても結果は同じであった。「この升は小さい。」千代はそれだけを胸に刻んだ。そこまで確かめる時間はなかった。今ここで升を持ち出せば、盗みの証跡すら残せぬまま逆に盗人扱いされかねない。千代は蔵の場所と俵に結ばれた縄目の形だけをしっかりと目に焼き付け、升はそのまま蔵に戻した。
その時、蔵の外で足音が聞こえた。千代は慌てて身を隠したが、袖が戸に触れて音を立ててしまった。「そこにいるのは誰だ!」総兵の叫び声に、千代は闇の中を身を投げ、山道を駆け下りた。息が上がり、足の裏に木の根が食い込むのも構わず、夜が明け切る前に川辺の辺りまで戻り着いた。
二日後、川辺に妙な噂話が広まり始めた。「何でもあの二番目のお方様が夜中に蔵へ忍び込んだそうな。米を盗もうとして見つかったらしい。」「追い出されてもこりぬものよ。」お松の店にも客たちの囁きが漏れ聞こえてきた。千代は器を運ぶ手を止め、その場に凍りついた。「母上、皆はなぜあのようなことを申すのですか?」長太郎が不安げな顔で訪ねた。千代は息子の手をしっかりと握った。「気にせずとも良いのです。」
だが噂はそれだけでは終わらなかった。数日後にはさらに質の悪い話が広がっていた。「あの子は川千の血筋ではないという話も聞いたが。」「二番目の若旦那様がご存命の頃も、あの子はどこかによそにやっておられぬと言われておったが。」千代はその話を耳にし、手が震えた。亡き夫の侮辱であり、息子の存在そのものを消し去ろうとする言葉であった。誰がこのような噂を流したのか、問うまでもなく察しがついた。
その日の午後、大判所の役人が捕り方を連れて店の前に現れた。「この店に千代という女がいると聞いておる。」お松が立ちはだかった。「旦那、何でございますか?」「川千の蔵に米泥棒が入ったとの訴えがあった。人相書きにぴたりと会う女がこの辺りに住んでいるというので確かめに参った。」千代が静かに前へ進み出た。「私が千代にございます。何か思い違いがあるようでございます。」役人は千代を上から下まで眺め回した。「思い違いかどうかはお調べの上で明らかになろう。大人しくついてくれば良いことだ。」千代の頭の中が混乱した。今引っ立てられれば、升の秘密も俵の結び目も何の役にも立たなくなってしまう。むしろ盗人という汚名だけが固まってしまう。「旦那、少しばかり支度の時をいただけませぬか?」役人はいかにもしぶしぶといった顔で頷いた。千代は部屋に戻り、長太郎の手を握った。「長太郎、私たちはしばらくここを離れねばならぬようです。」「なぜでございますか?」「お松様にはこれ以上のご迷惑はかけられませぬ。」千代は包みをまとめながら心が崩れていくのを感じた。無実を晴らすどころか、逃げる身になろうとしているのであった。
千代が裏口から長太郎を連れて出ようとしたその時、闇の中から誰かが袖を掴んだ。息を切らし、小路を走り抜けてきたのであろう。その足取りは乱れていた。お富であった。顔は涙に濡れていた。「ここで二番目のお方様に申し上げたいことがございます。今出なければ二度と申し上げられぬ気がいたします。」お富は懐から小さな紙包みと、くしゃくしゃになった書き付けを取り出した。「これをご覧くださいませ。」千代が書き付けを広げると、見慣れぬ筆で短い文が記されていた。
「母上の煎じ薬に半じずつ加えよ。」
千代の手が凍りついた。「これはどういうことなのですか、お富。」お富はその場に崩れ落ち、無心に泣きながら途切れ途切れに今までの経緯を打ち明けた。大旦那様に手渡されたあの粉を滋養の薬とばかり信じ、度々煎じ薬に加えてきたのだという。「ですが、ご主人様の体が日に日に痩せていかれるのを見て、私も何かがおかしいと気づいたのでございます。それでも恐ろしくて、何も申し上げられませんでした。」千代は膝の力が抜け、戸口に手を突いた。目の前が一瞬白くなるほどの衝撃であった。沖はその言葉を口にすることさえおできになれなかったのだ。お富は顔を伏せたまま震える声で続けた。「残りの粉がこちらでございます。それにこの書き付けも大旦那様の筆跡に相違ございませぬ。私は何度も使いに出されておりましたので、よく存じております。」千代は紙包みと書き付けを受け取ったが、手が震えてまともに握ることもできなかった。胸の奥から熱いものが込み上げた。だが同時に冷静にならねばと思う心もあった。「これだけでは足りませぬ。この言葉と一枚の書き付けだけでは、役人と手を組む兄上様を崩すことはできませぬ。」千代は涙をこらえながらお富の手を握った。「お富、これをこうして持ってきてくれただけでも大した勇気であったのです。ですが、まだその時ではありませぬ。この証を大切にしまっておくのです。」
お富は頷きかけたが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。その目にはまだ迷いが残っているようであった。「ご主人様、もう一つ申し上げねばならぬことがございます。」千代の胸がまた沈んだ。これ以上何を聞かされるのかと、覚悟を決めるように拳を握りしめた。「亡き旦那様のことも、あの川の一件も、事故ではございませんでした。」
外から役人の声が聞こえてきた。「中で何をグズグズしておるのだ。いい加減にせい。」千代はお富の肩を掴んだままその場に凍りついた。外では役人が苛立つ声を上げ続けていた。「お富、詳しく話しておくれ。あの日何があったのですか?」お富は袖で涙を拭い声を落とした。「二番目の若旦那様が見まかられる前の夜、大旦那様が私の亭主と密かに会っておられるのを見ました。何を話しておられたかまでは分かりませぬが、翌朝、亭主が急に船を新しく誂えるからと言って、いつも使う船を別のものに取り替えさせたのでございます。その船は、そこにすでに亀裂が入っておりました。」お富は涙に詰りながら言葉を続けた。「亭主はそれを承知の上で旦那様をお乗せしたのでございます。」千代の目の前が真っ暗になった。だが、すぐに気を取り直した。「お富、その話は重いものです。ですが、安家の証言や書き付けでもなければ、この話だけでは大判所も取り上げてはくれませぬ。」
外から役人の声が再び届いた。「中で何をしておる? これ以上待たせるなら大判所まで引っ立てるぞ。」千代はお富の手を急いで握り、言った。「今日はこれで戻りなさい。また連絡いたします。」
千代は結局大人しく大判所まで連れて行かれた。役人は窃盗の罪を認めようと迫った。千代が縁のかけた古い升の話を持ち出そうとしても、役人は取り合わず「そのような升がどうした」と鼻で笑うだけであった。総兵が大判所に出した帳面ばかりが取り上げられ、千代の言い分はまともに書き留められることすらなかった。結局盗みの確証がないまま半日ほどで放免されたが、その帰り道、千代は骨身に染みて悟った。「この大判所では戦えぬ。役人のみならず扱う者たちまでもが、すでに総兵の息のかかった場所である。」だとすれば頼るべきは、この地の外から直接遣わされる権の力より他にない。
だが噂はすでに手のつけられぬほど広まった後であった。お松の店に戻った千代は夜遅くまで寝つけなかった。天井の木目をぼんやりと見上げながら、これまでの出来事を一つ一つ思い返してみた。沖の残した言葉、かけられた升、俵の結び目、お富の震える声。バラバラに見えたものが少しずつ一つの筋につながっていくのを感じながらも、まだその全貌を掴みきれずにいた。
古びた長持ちの中、亡き夫の残した品を探るうち、指先に硬いものが触れた。私財の運を記した小さな帳面であった。千代は燈を近くに引き寄せ帳面をめくった。夫が最後に船に乗った日付の傍らに、見慣れぬ手で書き加えられたような短い印があった。「船替」という文字であった。夫の筆跡ではなかった。「これは……」千代はその帳面を丁寧に風呂敷に包んだ。
翌日、長太郎が庭先で木の枝を使い地面に何かを描いていた。「長太郎、何をしているのですか?」「おばあ様が木札に刻み目を刻んでおられたのを思い出して描いておりました。母上、あの日のことを覚えております。おばあ様が見まかられる幾日か前にも、蔵へ行って刻み目を刻んでおられました。ですが、その晩に叔父上が蔵の方から出ていらっしゃるのを見たのです。ひどく怒ったお顔をしておられました。」千代の目が見開かれた。「それはいつのことか覚えておりますか?」「ええと、庭の雪がすっかり落ちた頃でございました。秋を過ぎて間もない頃でした。」千代はその日を思い返した。沖が最後に蔵を改めた日に違いなかった。病の床にありながらも、最後の力を振り絞って蔵まで足を運んだのであろう沖の姿を思うと胸が締めつけられた。「だとすれば、あの木札には最後の真の数が残っているはず。」
千代は夜を待って再び蔵の近くへと向かった。木札は今も柱にかけられたままであった。長らく風雨にさらされたのか、以前よりも色が褪せて見えた。千代は指先で刻み目を一つ一つ丁寧になぞりながら数えていった。数え間違えぬよう、幾度も同じところを指先で確かめながら。
「百二十三、百二十四、百二十五。」
千代は懐から、総兵が大判所に差し出したという帳面の写しを取り出し付き合わせた。それはお松の兄が大判所に勤めており密かに手に入れてくれたものであった。帳面には「百二十俵」としか記されていなかった。「五俵少ない。沖様が最後にお改めになった時には確かに百二十五俵あった。それを兄上様は帳面の上で初めから百二十俵しかなかったことにし、残る五俵を密かに己のものとしていたのだ。」千代は升の違いも思い出した。俵の数をごまかしただけではなかったのだ。升の入れ物までも小さくして、俵一つごとに量をかすめ取っていたのである。
千代は続いてあの偽りの借財文を取り出し改めて確かめた。沖が息を引き取る前に借財を認めたとされていたが、借文の末に記された利息の計算には、まだ来てもいない翌月の分までが含まれていた。「母上が存命のうちに借財を認められたというのなら、なぜ見まかられた後の月まで利息が計上されているというのか。」千代は沖から教わった算法に従い、元金と期間を幾度も数え直した。だがどう計算しても辻褄が合わなかった。借文そのものが、慌てて捏造されたものであることは明らかであった。借文の端には、小さな走り書きで「糸御五両」とだけ記された一節があった。「何のための五両か、千代にはまだその意味を測りかねた。」
千代はこの全てを懐に抱いたまま夜を徹して算案を重ねた。今すぐ松ヶ里の大判所に訴えたとしても、役人の手を借りる限り証はまともに残らぬまま消えてしまうであろう。
その時、飲み屋を訪れた客たちの間から耳寄りな話が漏れ聞こえてきた。「今月の見廻りに、藩の勘定方より検見役が参られて、御蔵の備え米を見分なさるそうな。その際に米が正しく分け納められたか、村々の倉を一つ一つ改めるらしい。」御蔵とは、いざ不作の年に村人を飢えから守るため里ごとに米を蓄えておく備えの倉であり、その管理を厳しく改めるのは藩にとっても大切な務めであった。噂を語る客の声には日頃の鬱憤を晴らすような響きすらあった。千代の目が光った。「藩からの権威であれば、役人の手の届かぬところで裁いてもらえる。」長らく胸のうちに渦巻いていたものが、ようやく晴れ間を見出したような心地であった。
千代はその足で紙と筆を求め、一晩かけて訴状をしたためた。文字はてなく幾度も書き直したが、心だけは揺がなかった。翌朝早く、千代は検見役の一行が通る道に出て膝まずき訴えた。「このような行いが村を滅ぼすことも承知の上でございます。どうかお聞き届けくださいませ。」「恐れながら、川千の蔵の米の数に疑わしき点がございます。どうか藩中にて改めて直していただきたくお願い申し上げます。」行列を率いる検見役は千代のまなざしに尋常ならぬものを感じ取ったのか、訴状を受け取りじっくりと目を通した。「よかろう。見廻りの際に藩の定め升にて改めて見分する。その日までに証人と証を残らず揃えておくが良い。」役人はふと思い出したように付け加えた。「そういえば大判所には、川千の沖殿より預かった証文が一通ある。その証文も見分の場に持参いたそう。」「沖様が……」千代がそう言うと、役人は静かに頷いた。「中身はその場で改める。それまでは誰にも明かさぬが良い。」
帰り道、千代はふと足を止めた。沖が残した最後の言葉が改めて胸に蘇った。「葬儀が終わったら長太郎を抱いて表口から追い出されたふりをしなさい。蔵の鍵も総兵に投げ渡しなさい。長太郎さえ生き延びればそれで良いのです。」千代はようやくその言葉の意味が少しずつ解けていくのを感じた。沖は千代と長太郎が何の力も持たぬ者に見えれば、総兵が警戒を解き、いずれ自ら隠していたものを表に出すかもしれぬと考えていたのである。だがその先に何が待つかまでは、沖にも分かってはいなかった。米を改め、木札を付き合わせ、夫の死の真相を探り、藩の権に訴えたのは全て千代自身の判断であった。「ここから先は私自身が確かめねばならない。」千代は袖の内側の縁のかけた升を強く握りしめた。「もう二度と逃げぬ。」心に決めた。
見廻りの当日、松ヶ里には朝から人だかりが集まっていた。近隣の村から噂を聞きつけた者たちも足を運び、いつもの祭りよりもはるかに賑わっていた。藩から遣わされた検見役が広場の真ん中に設けた場所に立った。人垣の外れではお松とお富が並んで様子を見守り、長太郎もまた母の背に隠れるようにして息を潜めていた。総兵は少し遅れて現れた。新しくこさえた升を下男に持たせ、先頭に立っていた。その足取りには少しの迷いも見えなかった。「藩の見分とは、我が家の蔵は常々正直に図ってまいりました。憚ることなど何もございませぬ。」
その時、人垣を分けて千代が歩み出た。懐には縁のかけた古い升が抱かれていた。総兵の顔から笑みがすっと消えた。「今度はここへ何をしに来た。」千代は総兵へと向かい合った。集まった人々のまなざしが二つの升へと注がれた。片や総兵のま新しい升。片や沖が生涯用いてきた縁のかけた古い升であった。
検見役が場を整えながら声を張った。「これより藩の定め升を持って、二つの升の正しさを改める。」広場は立ちまち静まり返った。誰もが息を詰め、二つの升の行方を見守っていた。千代は升を両手に包み、総兵の目をまっすぐに見据えた。役人は懐から藩の定め升を取り出し、皆に示した。米粒が日の光を受けて白く輝き、辺りに乾いた米の匂いが漂った。役人はまず定め升で米を一杯分測り入れ、それを沖の古い升へと映し替えた。米はちょうど古い升の縁一杯に、こぼれることなく収まった。「これが沖様が生涯お使いになった升にて測った、まさに正しい一升にございます。」続いて役人は同じ定め升で測った一升の米を、総兵の新しい升へと移し替えた。総兵は腕組みをしたまま余裕の笑みを浮かべていた。「義妹のような古びた升が正しいはずがございましょう。我が家の升は新しく誂えたもの。寸分の狂いもないはずです。」しかし、米は升の縁から溢れ、なお一合ほどがこぼれ落ちて地面に散った。人々の間にざわめきが広がった。役人はもう一度同じ升に一升を移し替えてみたが、結果は同じであった。三度目も四度目も変わらなかった。「同じ一升の米のはずなのに、なぜこの升には収まりきらぬのか。」
千代が前へ進み出た。「恐れながら、その升の底をお改めくださいませ。」役人は総兵の升を裏返して確かめた。見た目には何とも思えなかったが、それを叩くと鈍い音がした。役人が小さな鑿で底板を外すと、内側にもう一枚熱い木の板が仕込まれているのが明らかになった。表向きは一升升と語りながら、実に入る量は八合ほどしかなかったのである。集まった人々の口からため息が漏れた。「升の底を偽り、米をかすめ取っておったというのか。」総兵の顔は真っ赤になった。「これは上手が間違ってこさえたに過ぎませぬ。私は何も存じませぬ。」千代は声を整え人々に向かって語った。「この升は表向き一升升を装いながら、実には八合しか入りませぬ。備え米を測るたびにこの升を使えば、一度にはわずかな差に見えても、幾十度も幾百度と重なるうちに、村人の一家族が冬を越せるほどの米となって消えていく通りにございます。誰にも気づかれぬように。」
千代は続いて懐から俵の縄を取り出して見せた。「この結び目をご覧くださいませ。縄を三度巻き、内へ押し込む。この結び方は沖様が年に村人へ配る米にのみ用いておられたものにございます。ところが、この結び目が結ばれた俵が、兄上様が密かに運び出し売り渡していた米の俵から見つかったのでございます。」総兵は声を荒げた。「あのような結び方などどこにでもあるものではないか。無理に罪を着せようという根拠だ。」
その時、長太郎が千代の手を握り前へ進み出た。小さな声ではあったが、はっきりとしていた。「おばあ様が木札に刻み目を刻んでおられた日、叔父上が蔵の方からひどく怒ったお顔で出ていらっしゃるのを見ました。あの日のことを私はよく覚えております。」千代は木札を掲げて見せた。「この刻み目こそが証にございます。字の読めぬ者でも何でも数えられるよう、母上が自らお刻みになったものです。あの日を最後に蔵をお改めになったのは母上をおいて他にございません。木札には百二十五の刻み目がございます。ところが兄上様が大判所に出された帳面には、百二十俵としか記されておりませぬ。五俵分の数が初めから帳面に載せられておらなかったのでございます。」人々のざわめきが一層高まった。総兵は額に脂汗を浮かべ後ずさった。
千代は続いて偽りの借財文を広げて見せた。「この借文には、母上が見まかられた後に来る月の利息までが計上されております。ご存命のうちに借財を認められたと申しておりましたのに、なぜ先々の利息まで記されているのでございますか?」役人は借文を受け取り自ら日付を確かめると、顔つきが険しくなった。「なるほど。辻褄が合わぬ。」
その時、人垣の間からお富が震える足取りで進み出た。「恐れながら、私にもお耳に入れたいことがございます。」お富は懐から小さな紙包みと、くしゃくしゃになった書き付けを取り出し役人に差し出した。「沖様の煎じ薬に、私がこの粉を加えておりました。大旦那様に命じられた通りにございます。この書き付けがその証にございます。」役人が書き付けを開いて読み上げた。「母上の煎じ薬に半じずつ加えよ。」集まった人々の顔が青ざめた。「あの筆は間違いなく大旦那様のものだ。」誰かが声を上げた。総兵はその場で後ずさった。「お富、その方が出たら穂を明かすことになるぞ。私はそのようなことを命じた覚えはない。」役人は残りの粉を紙に包み取りながら言った。「この粉が何であったかは、藩にて改めさせた上で明らかにする。今はその不審な粉を薬に混ぜようと命じた一件として扱う。」
千代は再び前へ進み出た。「それに、私の夫が川で命を落としたあの夜、夫の船が取り替えられたという事実も明らかになりました。夫が残した運送の帳面に、見慣れぬ手で『船替』と記されております。安家を呼び出し対決させてくださいませ。」役人は捕り方に命じ、夫の船頭を急ぎ連れてこさせた。ほどなくして引き立てられてきた安家は、日に焼けた顔を青ざめさせ、体を小刻みに震わせていた。「存じませぬ。船が古うなっただけのこと。私は何も存じませぬ。」安家は初めそう言い張って首を横に振り続けた。千代は懐から夫の残した運送の帳面を差し出した。役人がそれを広げ、「船替」と記された箇所を指差した。「この文字、そなたの手によるものではないか。私の帳面を改めればすぐに分かることだ。」安家は顔から血の気を引かせながらもなおも言い抜けようとした。それが役人がさらに一枚の紙を取り出した。それはお松の兄を通じて手に入れていた、蔵の船大工が記した控えであり、あの船にはすでに使用不許可の印が押されていたことがそこに記されていた。「使用してはならぬと記された船に、なぜ安家は若旦那様を乗せたのか。」安家の膝が音を立てて折れた。総兵の顔色を窺っていたが、役人の厳しい追求の前についに頭を垂れた。「大旦那様が三十両をくださり、船底に亀裂の入った船を別の船に取り替えるようにと仰せつかりました。私はただ言われた通りにしたまでにございます。」
広場は立ちまち騒然となった。人々の顔には怒りが満ちていた。年老いた女が杖をつきながら声を震わせ、若い男が拳を握りしめて足を踏み鳴らした。「何ということだ。身内の弟までも手にかけたというのか。」「あのような男がこれまで高徳者と呼ばれておったとは。」
それまで片隅で成行きを見守っていた役人が、そっとその場を離れようとした。検見役がそれを遮った。「役人、どこへ参る。」「私は……私は何も存じませぬ。ただ盗みの訴えがあった故、確かめに参っただけにございます。」検見役が懐から一冊の帳面を取り出した。「大判所から預かっていた帳面である。この帳面に『糸御五両』とだけ記された一節がある。糸とはお主のことではないか。」千代もまた、あの偽りの借財文の端に同じ書き込みを見ていたことを検見役に告げた。二つの証が符合したことに、役人の顔から表情が消えた。総兵はそれを見ると目を釣り上げた。「役人、自分が進んであの女を盗人に仕立てようと申したのではないか。自分も見張り賃をお受け取っておったであろう。」役人の顔が真っ赤になった。「何を仰せになりますか。私はただ大旦那様に言われた通りに。」二人は互いに罪をなすり付け合い、声を荒げた。その様子を見ていた人々の間から低いため息と怒りの声が漏れた。「あの二人は元より裏で通じておったのだ。今年は我らの米まで盗んでおったとは。」
検見役がおもむろに声を上げた。「総兵、役人、並びに安家、取り押さえよう。備え米の帳面の改ざん、沖様への薬物混入、亡き者の死にまつわる偽証、いずれも軽からぬ疑いである。この場では縄を打つに留め、追って藩にて厳しく吟味する。」捕り方が近づくと、総兵は人垣の間へ逃げ込もうとしたがすぐに捕らえられた。役人もまた捕り方に引き立てられながら尚も暴れていた。安家も観念したのか、うなだれたまま縄を受けた。「船の一件を進んで明かしたことは、後の吟味に酌量されるであろう。」検見役は付け加えた。
その時、総兵が最後に絞り出すような声を上げた。「今度の……それでも我らは一つ家族ではなかったか。このようなことはあるまい。」千代はその言葉に一度目を閉じたが、やがて目を開け、総兵を見つめた。「兄上様が先に家族を見捨てられたのでございます。」総兵はそれ以上言葉を継がぬまま引き立てられていった。広場には静けさが流れた。
検見役は懐から一通の証文を取り出した。「ただ一つ、沖殿より預かっているものがある。」それはあの夜、障子の影から見た沖がお富に託していた証文であった。検見役はそれを広げ、静かに読み上げた。
「川千の米蔵並びに田畑の一部は、一族の私財にあらず、兼ねて村人を救う共同の御蔵とする。その管理は嫁の千代に委ね、孫の長太郎が成長するまで、何人と雖もこれを乱に処分してはならぬ。」
集まった人々がどよめいた。誰からともなく「千代様」と呼ぶ声が上がり、それはやがていくつもの声に重なっていった。「沖様は最期の最期まで村のことを案じておられたのだ。」と涙ぐむ声もあった。千代はその時、沖の真意をようやく余さず理解した。財産そのものではなく、財産を守ろうとする心を持つものにこそ蔵を託そうとなさったのである。長太郎が跡取りとはっきり示されていれば、総兵の手にかかって危うい目に遭うのは目に見えていた。千代が全てを失ったように見えてこそ、総兵は自ら罪を露わにすることができたのであった。
「沖様は答えを残されたのではない。答えにたどり着くための道具だけを、私に残してくださったのだ。」千代は胸のうちでそう呟いた。千代は木札と縁のかけた古い升を懐に抱いたまま涙を飲み込んだ。その目には、ようやく晴れわたった清々しさがあった。
「母上、ようやく私にも分かりました。」
後日、藩の見立てにより、あの粉が人の体を徐々に蝕む毒薬であったことも確かめられた。吟味の結果、総兵と役人の罪は明らかとなり、共に重い処分を受けた。安家も罪を免れることはなかったが、自ら真実を明かしたことは酌量されたという。その日以来、大判所では総兵が横領した米を差し戻し、困窮する村人に改めて分配した。不正に膨らませられていた小作人の借財も一つ一つ調べ直され、不正な利息は全て取り消された。
お富には、千代は心からの言葉を伝えた。「恐ろしさのあまり口を閉ざしていたことまで無かったことにはできませぬけれど、最後に真実を告げるために戻ってきた勇気を、私は決して忘れませぬ。」お富は涙を拭いながら深く頭を下げた。
翌年の春には田植えを控えた小作人たちが久しぶりに晴れやかな顔で蔵の前に集まり、種もみを受け取っていった。ある夕暮れ、長太郎が千代が縁のかけた古い升を静かに拭いているのを見て傍らによって尋ねた。「母上、おばあ様はなぜ蔵の鍵の代わりに、このかけた升を私たちに残されたのでございましょうか。」千代は升のかけた縁を指先でなぞりながら答えた。「蔵を開ける鍵よりも、その中にあるものが誰のものであるかを明らかにするものの方が大切だと、そうおっしゃりたかったのでしょう。」窓の外では夕焼けが米蔵の白壁をほのかに染めていた。
その冬も、松ヶ里には備え米を受け取りに来る村人の足が絶えることなく続いた。ある日、長太郎が木札に刻み目を入れながら千代に尋ねた。「母上、この刻み目でよろしゅうございますか?」千代は木札を覗き込み、静かに頷いた。「ええ。一つも多くなく、一つも少なくありません。」長太郎はもう一度、小刀で木札に刻み目を入れた。傍らには、縁のかけた古い升が置かれていた。
蔵を守っていたのは、高い塀でも硬い城壁でもなかった。その米が誰の冬を支えるものなのかを知り、決して忘れぬ者の心こそが、長い年月、川千の蔵を守り続けたのである。


