「社長、検査の結果どうでした?」
病院の廊下で秘書の山田さんが心配そうに声をかけてきた。ついさっきまで、10年ぶりに再会した高校時代の同級生・九条綾野に、昔と同じように見下すような言葉を投げつけられていたところだ。
「ああ、1週間の検査入院だってさ」
そう答えると、九条が驚いた顔で立ち尽くしていた。アジアパートナーズの社長だと知った時の彼女の表情は、忘れられないものだった。
俺の名前は赤羽守。32歳。シンガポールのアジアパートナーズという会社でリテイル業界専門のコンサルタントとして働いている。アジア進出を目指す日系企業の市場調査から、既存店舗の収益改善、新規出店戦略の立案まで、数多くのクライアントの課題解決に携わってきた。
そんな俺が高校時代、大学進学を諦めなければならなかった。高校3年生の春、母が白血病と診断された。父は俺が小学生の時に工場での事故で亡くなっていた。それからは母子2人、一生懸命に生きてきた。
母は昼も夜も働いて俺を育ててくれた。家計を支えるため、時には3つの仕事を掛け持ちすることもあった。それでも大学進学のために少しずつ貯金を続けてくれていた。
「守るは頭がいいんだから、絶対に大学に行かせたい」
そう言って母は疲れた顔で微笑んでいた。だが母の病気が発覚してから、全てが変わった。治療のため母は仕事をやめざるを得なくなり、大学進学のために貯めていた学費も治療費に当てることになった。
俺は朝4時から新聞配達、放課後は居酒屋でバイト。それでも高額な治療費を前に、全く足りなかった。
進路指導の時期、担任の中村先生が声をかけてきた。
「赤羽君の成績なら、国立大学も十分狙えるぞ」
「すみません。大学は諦めることにしました」
俺は全てを話した。母の病気、そして経済的な問題を。中村先生は深いため息をつきながら、静かに語り始めた。
「私にも似たような経験があるんだ。私の父も病気で、高校時代に進学を諦めかけた」
意外な告白に俺は言葉を失った。いつも凛として誰よりも情熱的な中村先生が、そんな過去を持っていたなんて。
「でも諦めなかった。夜間大学に通いながら、昼は働いた。一生懸命勉強して教員免許を取った。人は必ず変われる。私はそう信じている」
先生は机の引き出しから1冊の本を取り出した。
「これは私が使っていた英語の参考書だ。君にあげよう。夜間の専門学校なら、バイトをしながらでも通える。英語は君の将来できっと武器になる」
先生は細かい学校情報や奨学金の制度まで調べてくれた。時には夜遅くまで残って勉強を教えてくれることもあった。
「人生は一直線じゃない。回り道も時には必要なんだ」
その言葉が深く心に染みた。母が亡くなる直前、病室で語りかけた。
「守る。私のせいで夢を諦めさせてしまって」
「違うよ母さん。僕は夢を諦めてなんかいない。必ず這い上がって見せる。そして母さんが誇れる息子になる」
それから一生懸命勉強した。昼は働き、夜は専門学校に通った。英語を独学で学び、貿易の知識を身につけた。中村先生からもらった参考書は今でも大切に持っている。10年後、シンガポールで社長になった報告を真っ先に中村先生にした。
「僕、頑張ったな、赤羽」
電話越しに聞こえた先生の声は、少し震えているように聞こえた。今でも年賀状のやり取りは欠かさない。そして毎年母の命日には、中村先生から必ずメッセージが届く。
「きっとお母さんも喜んでいるよ」
その言葉にいつも励まされる。人は必ず変われる。あの時の先生の言葉が、今も俺の心の支えになっている。
だからこそ分かる。どんな人でも、会社でも、変わるチャンスはある。その可能性を信じて全力でサポートする。それが俺の仕事だ。
しかし、信念が強いからと言って体調がいいとは限らない。俺は机の上の健康診断の結果を見つめる。シンガポールの医師に精密検査が必要ですと言われてから、もう1週間が経っていた。大きな案件を抱えているこの時期に、長期の休養なんて取れるはずがない。そう思っていた。
でも、ここ最近の体調の変化は明らかに何かがおかしい。
「日本に戻って、ちゃんと検査を受けてきます」
シンガポールのオフィスでその一言を告げると、秘書の山田さんが飛び上がるように立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。今度のプレゼンは、打ち合わせは、全部どうするんですか?」
「え、えっと、全部後回しで」
「もしかして…」
山田さんが眉を潜めた。
「深夜のラーメン、また食べ続けてたんですね」
一瞬の静寂。
「いや、その…シンガポールのラーメン、美味しいじゃないですか」
「だから言ったでしょう。夜中のラーメンは控えめにって」
「はい。申し訳ありません」
「仕方ありませんね。私も同行させていただきます。完璧に食事管理をさせていただきますから」
その目はすでに鬼軍曹のようだった。とはいえ、シンガポールの深夜のラーメンは本当に美味しいんだけどな。そんなことを考えていたら、また山田さんに睨まれてしまった。
羽田空港に降り立った時、懐かしい空気が肌に馴染んだ。そのまま向かった大学病院の診察室で、医師は深刻な表情で告げる。
「精密検査のため、1週間ほど入院していただく必要があります」
予想はしていたものの、現実として突きつけられると重みが違う。
「できれば来週から…」
スケジュールを確認しながら答えると、医師は首を横に振った。
「早めに検査をした方がいいですよ。明後日からの入院をお願いします」
「わかりました。よろしくお願いします」
何か重い病気が見つからないといいが。不安な気持ちのまま診察室を出て、待合室に向かう。その途中で足が止まった。
向こうから歩いてくる女性。黒のスーツに身を包み、凛とした佇まいで廊下を歩いてくる姿を、すぐに認識できた。あの特徴的な切れ長の瞳に、背筋をピンと伸ばした立ち姿。10年経っても間違えるはずがない。毎日のように睨みつけられた相手だから。
九条綾野。高校時代の同級生だ。
「あら」
彼女も俺に気づき、足を止めた。瞬時に俺だと分かったようだ。そうだろう。毎日のように突っかかっていた相手なのだから。
「もしかして…赤羽じゃない。懐かしいわね」
淡々とした口調。それでもかなり驚きが滲んでいた。
「九条…まさかこんなところで会うなんて。10年ぶり?」
彼女は俺を上から下まで見渡すと、少し顎を上げた。高校時代と同じ仕草。まるで昔に戻ったかのようだ。
「相変わらずね、その安っぽいスーツ。社会人ならもう少しマシなの着なさいよ」
昔と同じ冷ややかな視線。言葉にはかつての嘲笑が混じっていた。唇の端を皮肉めいた笑みで歪める。高校時代、彼女はいつもこうして俺を見下してきた。
「君こそ、相変わらずだな」
俺の返答に、九条は愉快そうに小さく笑う。その笑みには明らかな優越感が滲んでいた。
「でも私は進歩してるわ。父の会社で、重要なプロジェクトを任されてるの。あなたには想像もつかないような大きなお仕事」
その言葉に、懐かしさと共に僅かな痛みを感じた。時が経っても、彼女の言葉は相変わらず鋭い。10年経っても何も変わっていない。いや、むしろ彼女の持つ空気はより鋭く、より冷たくなっていた。
彼女を見ていると、高校時代の記憶が鮮明に蘇ってくる。あの頃、九条は学年1位の成績を誇っていた。俺はいつも2位。たった1点差のテストもあれば、20点近く引き離されることもあった。でも彼女は1点差の時の方が激しく俺を攻め立てた。俺をいつも下に見ていた彼女が、大企業・九条建設の社長令嬢だったことも、その性格に拍車をかけていたのかもしれない。
「ねえ、この問題解ける?」
昼休みも放課後も、廊下ですれ違えば、わざと声をかけてきた。
「やっぱり無理。この程度も。所詮、私とあなたじゃレベルが違うってことね」
優等生の彼女が俺にだけ見せる意地の悪い笑顔。周りのクラスメートは気まずそうに目をそらした。数学の微分から英語の文法、果ては経済の専門用語まで、次から次へと難問を投げかけてきた。そのどれもが教科書の範囲を超えていた。
「この前の問題、解けた? 3日経ったのに、まだ答えられないの?」
彼女は嬉しそうに、俺の答えられない姿を眺めていた。
「九条さん、そろそろ昼休み終わるよ」
友人が声をかけても、彼女は構わず問題を出し続けた。
「これくらい解けないと、一流企業なんて入れないわよ。あ、ごめんなさい。あなたは大学にも行けなさそうだったわね」
クラスメートの前で、わざと大きな声で言う。その瞬間の彼女の表情は、優越感に満ちていた。
「どうせあなたは私に追いつけない。でも頑張って追いかけてきてね。そうじゃないと面白くないもの」
時には教室の黒板に難問を書き残していくこともあった。答えは決して教えない。ただ俺が悩む姿を見て、満足そうにしていた。
「私、赤羽が問題を解けない顔を見るのが好きなの」
そう言って笑う彼女の声が、今でも耳に残っている。
あれから10年。彼女は相変わらずだった。だが、今の俺はあの頃のように黙って耐えているだけの高校生じゃない。
「そうだ。久々に問題でも解いてみる?」
彼女は昔と同じ意地の悪い笑みを浮かべた。
「解けたら、そうね。うちの会社の社長にしてあげるわ。嬉しいでしょ? だってそんな安っぽいスーツ着てるんですもの」
勝手なことを言いながら、彼女は携帯を取り出す。何かを調べているようだ。
「じゃあこれ。去年の12月期の為替レートと、今年のアジア市場における小売業界のM&A総額から、今後半年の…7. 8%」
俺は九条の言葉を遮って即答した。
「アジア市場における小売業界の成長率予測のことだよね。為替の変動と去年のM&A総額から推測すると、今後半年は7. 8%。だし、インドネシアを除外すれば6.

2%まで下がる」
九条の目が見開かれた。
「なぜインドネシアを? 現地の規制緩和と日系企業の投資意欲の高まりを加味すればね。去年から続く現地通貨安も想定の範囲内だし」
俺は軽く肩をすくめた。この手の分析なら、日常的な仕事の一部だ。
「どういうこと? あの赤羽が…ただの勘? それにしては的確だし…」
ブツブツと九条が呟いている。この状況に理解が及ばないのだろう。その時、廊下の向こうから急ぎ足の音が聞こえてきた。
「社長、検査の結果どうでした?」
スーツ姿の女性が心配そうに尋ねてくれる。山田さんだ。一緒に帰国し、朝から日本に寄った後、病院まで来てくれたらしい。
「うん。1週間の検査入院だって」
「そうですか。では今後のスケジュールは、入院の予定と調整します」
「ありがとう。迷惑かけるけど、よろしくね」
「社長のためなら、これくらい大したことありませんよ」
山田さんはガッツポーズをしながら、やる気満々だ。彼女は本当に頼りになる。
「あら、なんだか仲がいいわね。秘書さんみたいにしちゃって」
九条が山田さんと俺の間に割って入るように歩み寄る。相変わらずの高圧的な態度だ。
「失礼ですが、あなたは?」
山田さんが一歩前に出る。
「私、九条綾野よ。この人の同級生」
その自己紹介には、名門の令嬢としての自負が込められていた。だが、その後の展開は彼女の想定を大きく超えていく。
「秘書ですか? 私は小心照明、赤羽社長の秘書の山田と申します」
九条は愉快そうに笑う。だが、その笑顔は長くは続かなかった。
「あらあら。社長と秘書さんごっこ、微笑ましいわね」
九条は見下すように俺と山田さんを見比べる。そんな彼女を、山田さんは不思議なものを見るような目で見た。
「彼がどなたか、本当にご存知ないのですか? アジアパートナーズの社長ですよ」
山田さんが無表情で告げたことで、ようやく信憑性が増したらしい。九条も真顔になる。まるで時が止まったかのように、その場に立ち尽くす。
「え、本当なの?」
「はい」
声が掠れ、その瞳は次第に大きく見開かれていく。
「だってアジアパートナーズって、シンガポールの会社よね。アジア最大のリテールコンサルティング企業じゃない?」
「ああ、名刺を失念しておりましたね。申し訳ございません」
山田さんはアジアパートナーズの名と、自分の肩書きが入った名刺を差し出す。九条の手は震えながら名刺を受け取った。
「まさか…」
九条の顔から血の気が引いていく。俺を見る目が、みるみるうちに変わっていった。
「冗談でしょ。あなたがあのアジアパートナーズの…」
「冗談じゃないよ、九条」
俺は淡々と告げた。
「嘘? そんな…私の方が上だったはず。あなたなんかより…」
彼女の声が震えている。彼女の父親の会社より、俺の方が資本金も従業員数の規模も大きい。彼女のプライドがズタズタになってしまったかもしれない。そう思うと、少し申し訳ない気がした。
「まさか、あの時の赤羽が私を追い越すなんて…こんなの認められない」
かつての傲慢な態度は影も形もなく、声は制御を失ったように上ずっていく。完璧に整えられていた表情が、目に見えて崩れていった。震える指が名刺を握りしめていく。
「所詮、数字を並べてるだけでしょ。本当の実力なんて…」
最後まで意地を張る九条。その姿に、少し切なさを覚えた。
「あなた、先ほどから失礼ではないでしょうか。社長は国際会議でスピーチもなさるのよ。シンガポールの経済紙でも…」
山田さんが反論しようとする。でも九条はもう聞く耳を持っていなかった。
「こんなの認めない。絶対に認めないから」
ヒールを返すと、音を立てて去っていった。その背中には、明らかな敗北感が滲んでいた。
「何なんですか、あの失礼な人」
山田さんが憤慨する。確かに九条の態度は相変わらず横柄だった。でも、まあまあ。俺は苦笑いを浮かべる。九条の気持ちも少しは分かる気がした。彼女なりのプライドがあったのだろう。
「本当に失礼な方ですね。社長はあんな風に…」
「高校時代からの、彼女の持ち味さ」
「社長はオーラが…と言いますか、毒気がないと言いますか。そこがいいところなんですが、少々不安です」
「ありがとう」
そう言いながら、俺は診察券を握りしめた。九条との再会には驚いたが、来週からの入院。今はそれに向き合うべき時だ。
検査3日目。俺は病院の庭で、1人深いため息をついていた。結果はまだ出ていない。医師からは「もう少し検査が必要です」と言われただけだ。どうやら時間がかかるらしい。何事もないといいが。
日差しを浴びながらベンチに腰かけ、シンガポールのオフィスからのメールを確認する。さすがに入院中とはいえ、完全に仕事から離れるわけにはいかない。
その時、誰かが通り過ぎる気配を感じた。顔を上げると、またしても九条だった。
「またあなた」
彼女は相変わらずの高飛車な態度で声をかけてきた。だが、その声には何か違和感があった。疲れているような、それとも焦りのような響きが混ざっている。
「ああ、検査入院中でね」
「へえ。具合でも悪いの?」
「まだ分からなくて。君も何かあったの?」
「余計なお世話よ」
強がってはいるものの、どこか元気がない。そんな九条に突然、声がかかった。
「おや、九条君。こんなところで会うとは」
穏やかな声が病院の庭に響いた。振り返ると、中年の男性が柔らかな足取りで近づいてくる。高級そうな仕立てのスーツは着崩れした様子で、左腕には見せつけるように金の腕時計が光っている。表情は穏やかで愛想が良いのに、安心できる空気が全く感じられない。
「大久保部長…」
九条の声が震える。
「僕は検査でね。会社の定期健診の一環さ」
男性は軽い調子で話しかけてきた。その目は俺にも向けられる。
「おや、こちらの方は?」
「アジアパートナーズの赤羽です」
俺が自己紹介すると、大久保の目が見開かれた。
「まさか、あの赤羽社長。これは失礼しました」
急に丁寧な口調になる大久保。名刺を差し出され、受け取ると九条の父親の会社に務めるのだと分かる。
「九条君、知り合いだったのかい?」
「高校の同級生です」
「へえ。そうだったんだ。これはまた、素晴らしいご縁だ」
ニヤニヤと笑う表情には、明らかな悪意が込められていた。社交辞令と攻撃を巧みに織り交ぜる手法は、長年の経験を感じさせる。
「社長と知り合いだったなら、早く言ってよ。この前の案件、もっと有利に進められたかもしれないのに」
表面上は冗談めかした口調。しかしその言葉は、確実に九条の自尊心を傷つけるように計算されていた。
「そういえば九条君。ここにいるということは、病気かい? しばらく休んでたもんね」
心配そうな素振りで、確実に追い打ちをかける。
「確か、重要なプロジェクトを任されてたはずだよね。でも最近あまり成果が出てないって話で…まあ、何かあってもプロジェクトのことは心配しないでくれ。私が引き継ぐから」
その言葉に、九条が声を張り上げた。
「私なら…私ならできます」
一生懸命に声を振り絞る九条。だが大久保は、意地悪そうな笑みを浮かべたままだ。
「そうですか。でも上からも、色々と声が上がってきてますからね」
九条の顔がみるみる蒼白になっていく。人間には2種類のいじめがある。1つは力で、もう1つは相手の弱みを握って精神的に追い込むタイプ。目の前で起きているのは、間違いなく後者のパターンだった。
「すみませんが、九条さんとの話の途中でしたので、そろそろ…」
俺が九条の前に立ちはだかると、大久保は一瞬表情を強張らせた。だがすぐに完璧な笑顔を取り戻す。
「ああ、これは申し訳ない。では、私はこれで」
大久保は意地の悪い笑みを残したまま、去っていった。しばらくの沈黙が訪れる。九条は俯いたまま、肩を震わせている。その姿が、どこか頼りなく見えた。
「赤羽。この前は偉そうなこと言って、ごめんなさい。こんな私なんかが社長にしてあげるなんて、笑っちゃうわよね」
事務所からは馬鹿にされて、頼りなさげでか細い声で、九条が呟いた。
「九条…」
「私…このままじゃ、会社にいられなくなるかもしれなくて」
その時、彼女が咳込み始めた。聞いたことのないほど大きな咳で、心配になる。
「大丈夫か?」
「平気よ。これくらい、いつものことだから」
そう言いながら、九条は片手で胸を押さえた。少し苦しそうな表情を浮かべている。
「どうして言わなかったんだ?」
「何が?」
「君もこの病院の患者なんだろう」
九条は少し戸惑った後、ゆっくりと俯いた。
「気づいてたの?」
「さっきの会話で察した。君の長引く休みか。それに、この呼吸器科の建物に来ていた理由も」
九条は苦笑いを浮かべた。
「ええ、気胸よ。しかも再発性の気胸。去年から時々胸が痛くなることがあったの。でも仕事が忙しくて…気づいた時には悪化してて。でも、そんな長期の休暇なんて取れない。このタイミングで休んだら、プロジェクトは…」
「九条」
「私ね、実はすごく怖いの」
「怖い?」
「うん。手術のことも、これからのことも、全部」
声が震えている。昔なら決して見せなかった弱さを、今は隠そうともしない。
「昨日の夜も眠れなかった。もし手術が失敗したら、もし2度と仕事に戻れなかったらって考えると、息が詰まりそうで…」
九条はベンチの背もたれに寄りかかり、青空を見上げた。
「父の期待も、社員の信頼も、私全部裏切ることになるの」
涙がこぼれ落ちる。いつもの凛とした九条の姿はどこにもない。そこにいたのは、ただの弱い女の子だった。
「でも、もう無理。このままじゃ私…」
「九条」
俺は強く言った。
「今、ちゃんと治療するべきだ。このまま放っておいたら、また再発するかもしれない。違うの?」
突然、九条が叫んだ。ベンチから立ち上がり、俺に向き直る。
「違うのよ、赤羽。あなたに私の気持ちなんて分かるはずないじゃない」
感情が爆発したように、言葉が溢れ出す。庭の木々がその声を吸い込んでいく。
「あなたは順調でしょう。社長になって、誰からも信頼されて。私みたいに、こんな…こんな惨めな思い…」
「九条、黙って。同情なんていらないの?」
九条は数歩後ずさった。だがよろめいて、膝をつく。俺が支えようとすると、手を振り払われた。
「触らないで。放っておいて…でも、お願い、放っておいて」
声が枯れていく。春の風が2人の間を吹き抜けていく。
「私、1人で大丈夫だから。1人で…」
その時、また咳が始まった。今度はさらに激しい発作だった。
「九条!」
「いいの…これくらい…」
だが咳は止まらない。顔が青ざめていく。
「看護師を呼んでくる。大丈夫だから」
「いい加減にしろ」
思わず声を荒げてしまった。病院の庭にその声が響く。
「なんでそこまで強がるんだ?」
「私が、私が弱いから。私の性格も、この病気も、全部私の弱さなの」
「何を言ってるんだ。病気と性格は関係ないだろう」
「細かいことなんて、どうでもいいわ。現実を見なさいよ。私はもう…」
「現実から、君が逃げてることか」
九条の目が見開かれる。
「何よ、あなたに何が分かるって言うの?」
「分かるさ。君は昔から、自分の殻に閉じこもってた。弱さを見せるのが怖くて、強がってた」
「…何よ。それじゃ、あなたに全部お見通しって言うの?」
「違うよ。君のことを、昔から知ってるから分かるんだ」
九条は唇を噛みしめ、俯く。
「…そんなの、私の何も知らないくせに」
「知ってるよ。クラスメートの悩みを聞いてあげて、こっそり励ました君を。困ってる後輩の面倒を見てた君を。意地悪な問題ばっかり出してくる優等生様が、実は優しい子だって。ずっと知ってたよ」
九条の目が、少しずつ緩んでいく。俺はそっと、九条の背中に手を置いた。周りの景色がゆっくりと、彼女の中に染み込んでいくように見えた。
「だから、もう無理しなくていい。君の弱い部分も、全部受け止めるから」
その瞬間、九条の目から大粒の涙が溢れ出した。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
声を上げて泣く九条を、俺は抱きしめる。
「怖いの…すごく怖いの」
「分かってる」
「私…生きたい。まだやりたいことが、たくさんあるの」
震える声で九条が叫ぶ。桜の枝がその声を受け止めるように揺れる。
「手術も怖いし、これからのことも不安で…でも、諦めたくない」
「ああ」
その声には涙が混じっていた。
「諦める必要はないよ」
俺は静かに告げる。
「君は昔、俺にこう言ったじゃないか。『どうせ追いつけないでしょ。でも頑張って追いかけてきてね』って」
九条は涙で濡れた顔を上げる。
「あの言葉が、俺を強くした。諦めずに頑張れた。今の俺があるのは、君のおかげだ」
「私が…あなたを…」
「ああ。だから今度は、俺が君の力になる。手術が終わって、復帰するまでサポートする。だから、治療に専念してくれ」
九条は泣きながら、小さく頷いた。
「ありがとう」
その言葉には、昔のような棘がなかった。代わりに、温かみのある柔らかな響きが感じられた。
それから、俺は九条の病室に足しげく通った。
「本当に、毎日来てくれなくても…」
女は病室のベッドで、照れ臭そうに笑う。彼女の手術は来週に予定されているらしい。
「気にするな。俺の検査結果は、ただの過労だったしな」
幸いなことに深刻な問題はなく、生活習慣の改善を指示されただけだった。今までの疲れが一気に出たのか、何もないのならよかった。
「それより、プロジェクトの資料を見せてもらえるか?」
「本当にいいの?」
「ああ、約束したじゃないか」
九条は少し迷った様子だったが、枕元の資料を取り出した。
「実は、この再開発案件、私なりの構想があって…」
その目が、輝きを取り戻していく。
「私、絶対にこれを成功させたいの」
九条の声には、強い決意が込められていた。
「何か理由がありそうだな」
「このエリア、私の祖母が住んでた場所なの。再開発で立ち退きになった人たちの新しい受け皿を作りたくて」
「なるほど。だから九条は、このプロジェクトに執着していたのか」
俺は後ろで控えていた秘書に声をかける。山田さんは腕を組んだまま、明らかな警戒の色を浮かべていた。
「山田さん。このプロジェクトを、一緒に手伝ってもらえないか?」
「本気なんですか?」
山田さんは明らかに不満げな表情を浮かべた。
「すみません社長。でも私、九条さんのことを信用できません」
山田さんは珍しく強い口調で言った。無理もない。つい先日まで、高圧的な態度を取られていたのだから。
「頼むよ、山田さん」
「ですが…」
すると、九条が山田さんに頭を下げた。
「私、本当に申し訳ありませんでした。あの時は自分の弱さに気づけなくて、強がることでしか自分を守れなかったんです」
震える声。しかしその言葉には、嘘がなかった。
「でも、このプロジェクトだけは、どうかお力添えを」
九条は資料を開き、1枚1枚丁寧に説明し始めた。
「ここに住む方々の声を、一軒一軒聞いて回ったんです。祖母の思い出の場所だから、誰1人取り残さない再開発を」
その言葉に、山田さんの目が少しずつ変化していく。
「高齢者の方が多い地域なので、バリアフリー設計を徹底して。あと、地域のコミュニティを守るために集会所を。こちらに1人で寂しい人が出ないように…」
熱を帯びる九条の声。資料をめくる手は小刻みに震えているのに、目は強い意思に満ちていた。
「私、このプロジェクトだけは、絶対に成功させたいんです。どうか、どうか力を貸してください」
再び頭を下げる九条。山田さんはその姿をじっと見つめていた。
「…わかりました」
ため息混じりの返事でも、その口調は先ほどより柔らかい。
「ありがとうございます」
今度の笑顔には、もう傲慢さのかけらもない。代わりに、純粋な感謝の気持ちが溢れていた。
そんな中、病室のドアが開いた。
「九条君、こんなところでも仕事してるのかい?」
軽やかな足取りで姿を表した大久保。
「部長…何をしに?」
九条の声が震える。大久保はその反応を確かめるように目を細めた。
「見舞いに決まっているじゃないか」
穏やかな素振りだが、その言葉には僅かな毒が含まれていた。九条の資料に目をやりながら、彼は優雅に言葉を紡ぐ。
「今は療養に専念した方がいいんじゃないか。その方が、会社のためにもなるだろう」
「会社のため」という言葉に、特別な重みを持たせる。まるで九条の存在が会社の障害になっているかのような言い回し。表面上の思いやりの下に、確実な威圧を忍ばせていた。
「諦めません」
九条はきっぱりと言い切った。
「へえ。でもね…」
大久保の口元がゆっくりと歪む。優しい笑顔に見えて、どこか不気味さを感じさせる表情。
「もしもこのプロジェクトが失敗すれば、次期社長候補からも外れることになるんじゃないのかな」
声のトーンを意図的に上げ、まるで世間話をしているかのような気軽さで言う。だが、その言葉には確実な脅しが込められていた。
「そうなれば、私が…」
一瞬、打算的な光が目に宿る。
「いや、そこまでの言及はやめておこう」
最後の言葉は呟くように消えていったが、その意図は明確だった。
「私には、応援してくれる人がいます。だから、ご心配には及びません」
九条は俺たちの方を見た。その目には、もう迷いはなかった。大久保は一瞬驚きを見せた。だが、すぐに取り繕うように笑顔を浮かべる。完璧なまでの紳士のマスクを被り直す。その姿に、長年の経験が滲んでいた。ヒールを返す時の靴音も、どこか意図的に軽やかだった。去り際の背中には、「これで終わりではない」という無言の警告が込められているように見えた。
「ねえ」
九条はあの凛とした表情のまま、でも柔らかな声で続けた。
「私、初めて誰かを信じられた気がするの」
「九条…」
「高校の時から、周りの人はみんな、私の立場や家柄を見て近づいてきた。本当の私を見てくれる人なんて、1人もいなかった。だから、自分を守るために強がっていた。人を寄せつけないように、高圧的な態度を取っていた」
九条は少し俯いて微笑んだ。
「でも、今は違う。赤羽は私のことを、ただの九条建設の令嬢としてじゃなく、1人の人間として見てくれる」
ゆっくりと振り返る九条。その瞳には涙が光っていた。
「手術は怖い。でも、もう逃げたりしない。大久保部長にだって、きちんと立ち向かえる。そう思えたのは、あなたのおかげ」
「九条…」
俺が何か言おうとした時、看護師が入ってきた。
「失礼します。九条さん、採血の時間ですよ」
「お、お取り込み中だなんて…」
俺は立ち上がって、大きな声を出してしまった。恥ずかしい。
「また明日ね、赤羽」
「ああ」
俺は後ろ髪を引かれる思いで、病室を後にした。
そして、手術前日の夕方。
「赤羽」
九条が俺を呼び止めた。病室の窓からは、沈みかける夕日が差し込んでいる。
「これ、受け取って欲しいな」
九条は枕元から、分厚いファイルを取り出した。
「もし私に何かあったら、これを世に出してほしい」
「何かあったら…そんな不吉なこと言うなよ」
「でも、1つのために…このプロジェクトには、私の全てを込めたから」
ファイルを受け取ると、その重みに驚いた。単なる企画書ではない。これは、彼女の思いの結晶なのだ。
「実は…赤羽に話しておきたいことがあって」
九条の声が、少し震えていた。
「高校時代のことなんだけど…」
彼女は言葉を探すように、1度目を閉じた。
「本当は、あなたともっと普通に話がしたかったの」
「え?」
「でも、うまく話しかけられなくて。だから、ああやって問題を出したり、意地悪することでしか…」
九条の頬が薄く染まっていく。
「私、周りに友達と呼べる人がいなかったでしょ。他人との接し方が分からなかったの。完璧な令嬢でいなきゃいけなかった。でも、それは本当の私じゃなくて…」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「でも、赤羽は私の出す問題に、一生懸命答えてくれた。それが、すごく嬉しかった」
「君の問題は、難しかったよ」
「でしょ? 私、毎晩一生懸命考えてたの。明日はどんな問題を出そうかって。夜更かししながら考えたくらいなのよ」
懐かしい記憶が蘇ってくる。
「私ね、赤羽が解けなかった問題を、全部覚えてるの」
「へえ」
「だって、その問題を出した日のあなたの表情も、一緒に覚えてるから」
九条の声が、だんだん小さくなっていく。
「赤羽が真剣に考えてくれる姿が好きで…でも、そんな気持ちを素直に言えなくて…」
「九条…」
「まさか…私、ずっとね、赤羽のことが…」
その時、またタイミングよく看護師が入ってきた。
「ごめんなさいね。お薬の時間です」
「あ、はい」
九条は表情を取り繕う。
「また明日、話しましょう」
「ああ」
俺は立ち上がった。明日、彼女の手術が終わったら。そうしたら、ちゃんと向き合おう。お互いの気持ちに。
振り返ると、九条が微笑んでいた。その笑顔は、高校時代には見たことのない、柔らかな温かみに満ちていた。
俺は10年前、一生懸命勉強した。いつか彼女の問題に完璧に答えられたら。そうしたら、きっと振り向いてもらえるんじゃないかと。そして今、俺たちは再会した。まるで運命のいたずらのように。
「明日、また来るから」
俺はそう告げると、夕暮れに染まる廊下を歩き始めた。明日という日が、今から待ち遠しかった。
そして、手術の翌日。昼間に手術は成功したものの、まだ完全な回復には時間がかかるという連絡があった。俺は会社の業務を終え、病院に向かう車で運転席の山田さんに尋ねた。彼女には定期的に九条の様子を確認するように頼んであるのだ。
「はい、順調です。あとは回復を待つだけですね」
「そうか」
その時、俺は声を上げた。
「社長?」
山田さんが不審に思ったのか、俺を呼ぶ。しかし、返事ができる状態じゃなかった。車内のテレビに映ったニュースで、こんな知らせが流れてきた。
「九条建設、画期的な再開発プロジェクトを発表。大久保部長が陣頭指揮」
画面には、得意げな表情で記者会見をする大久保の姿があった。完璧に整えられた笑顔で、まるで長年の夢が叶ったかのような表情を浮かべている。
「なんだ、これは? このプロジェクトは、私が主導してきた案件です。補助的な役割を、社長令嬢である九条さんに…」
大久保は、まるで自分が中心人物であるかのように語っていく。
病室に駆け込むと、九条はタブレットを握りしめ、蒼白な顔をしていた。
「私のパソコンが…会社のデータが、全部…大久保部長に…」
震える声。九条の目には、大粒の涙が浮かんでいる。大久保は九条が入院している間に、彼女のパソコンから企画書のデータを抜き取り、自分の手柄として発表したのだ。
「九条建設、次期社長候補に大久保が浮上。再開発プロジェクトの立案を評価」
「九条綾野氏、SNSでの不適切投稿が発覚。企業イメージに傷」
「九条建設の株価下落。市場に動揺広がる」
次々と追い打ちをかけるようなネガティブなニュースが表示される。全て手の込んだタイミングで、複数のメディアから同時に発信されている。偶然とは思えない連携。心当たりのないSNSの投稿まで出てくる。アカウントは偽物だ。これも大久保の周到な準備の一環だろう。
病院のベッドで動けない九条を、完璧なまでに追い詰める策略。手術の日という、最も行動ができないタイミングを狙っていたのだ。
「どうして…どうして私は…もっと用心しておけば…」
自分を責めるように、九条はベッドのシーツを強く握りしめた。その指先が真っ白になるほどの力で。
「彼の笑顔…私の夢を踏みにじって…あんな満足げな…」
大久保は全てを計算していた。手術直後の九条が反論できないこと。メディアの報道が一斉に流れることで、真実の確認が難しくなること。そして、株価の急落で会社全体が動揺する中、自分が救世主として登場する展開まで。
「どうして、こんなことに?」
九条は膝に置いたタブレットを虚ろな目で見つめていた。術後の痛みよりも、心の痛みの方が大きかったのか。唇を噛みしめる手が、小刻みに震えている。
そんな中、山田さんだけは穏やかに微笑んでいた。不思議に思っていると、彼女はタブレットの画面を俺たちに向ける。
「そろそろですね」
「あ、あった。お2人とも、見てください。これを」
そこには「特別リポート。投票しながら未来を描く、九条建設・九条綾野氏の挑戦」という文字。全国ネットの看板番組が放映する特集らしい。冒頭のナレーションが、静かに、しかし力強く響き始める。
「果たして、企業の未来は膨大な数字だけで語れるのか」
画面が切り替わり、病室のベッドで企画書を見つめる九条の横顔が映る。白い病衣に身を包んだ姿は華奢に見えるのに、その目は強い光を宿していた。痛みを受けながらもタブレットを操作し、オンラインで建築家と議論を重ねる様子。手術後の痛みと戦いながら図面に向かう、彼女の真摯な表情。
「九条さんが目指すのは、人に優しい街づくり。それは彼女自身の体験に裏打ちされています」
インタビューに答える九条の映像が流れる。顔色は悪いものの、その目は強い意志に満ちていた。
「この土地は、私の祖母が…いえ、多くの方々の思い出が詰まった場所なんです。だからこそ、ここに暮らす1人1人の声に、しっかりと耳を傾けたい」
カメラは九条の手元を映し出す。そこには、1枚1枚丁寧に書き込まれた住民たちとの対話記録。声は弱々しいが、語る言葉は力強い。
「驚くべきことに、九条さんは入院中も地域住民とのオンライン対話を継続。その真摯な姿勢に、住民たちからも熱い支持の声が上がっています」
大きなモニターに映る住民たちの表情。懸念や不安を語る声に、九条は1つ1つ丁寧に耳を傾けていく。各分野の専門家からも、続々と支持表明。
「これぞ、新時代の街づくりのあり方」
建築家、都市計画の専門家、投資家…各分野の権威が次々と九条のプロジェクトを絶賛する。画面は病室でのミーティング風景に切り替わる。大きなモニターに映る住民たちと、熱心に意見を交わす九条。時には激しい咳込みに襲われながらも、決して諦めない姿。
「これは一体…この動画って、もしかして…」
「各分野の専門家からも高い評価。先進性と人間味を両立した、最中に練り上げられた画期的プラン」
「不動産投資家『このプロジェクトに未来を感じる』」
次々と関連ニュースが表示されていく。九条の努力と思いが、メディアを通じて広められていた。
「九条さんの思いを、このまま消させるわけにはいきませんから」
山田さんが誇らしげに告げる。
「君が…実は、私、準備してたんです」
山田さんが得意げに説明を始めた。
「九条さんの企画を、別ルートでメディアにリリースしました。あ、もちろん当社の社長の許可は得…」
「大久保部長が心配?」
「はい。彼が卑怯な手で何か仕掛けてくることも、お見通しでしたから。だから、手を打っておきました」
すると、別の動画も流れ始める。まるで密着取材のように撮影された映像には、大久保の素顔が匿名で記録されていた。
「このプロジェクトは、私が担当したことにしよう」
「何?」
「九条君は、まだしばらく病院の中だ。彼女が戻ってくる前に、記者会見を開けばいい」
「SNSには、偽のアカウントを作っておけ。九条の不適切発言として拡散する。株価操作も、同時に仕掛ける。メディアへの情報提供は、全て私の手柄として発表するんだ」
「手術後の彼女が、反論できるはずがない。この際、次期社長の座をいただくとしよう」
映像の中で不敵に笑う大久保。それを指差しながら、にやりと笑う山田さん。
「大久保部長の圧力も脅しも、それにSNSの投稿も、全て捏造だったことも証明済みです。もう、逃げ場はありませんよ」
その言葉を聞きながら、九条の目に涙が浮かぶ。そこには、安堵の色が滲んでいた。これで全てが、白日の元にさらされるのだ。
「山田さん、それよりこれを見てください。九条建設の株価が、急上昇してます」
スマートフォンの画面に、株価の上昇を示すグラフが表示される。
「九条建設株価、一時ストップ高まで急伸。次期社長候補・九条氏の手腕に期待感」
「若手建築家、人に優しい街づくりの確信と絶賛」
「再開発エリアの住民代表『私たちの声を、本当に聞いてくれる方』」
メディアは次々と九条を賞賛する記事を配信していく。
その時、九条のスマートフォンが鳴り響いた。画面には「大久保部長」の文字。もしも九条が震える手で受話器を取ろうとした時、俺は静かにそれを受け取った。
「俺が出るよ」
スピーカーモードにして、電話に出る。すぐさま大久保の怒声が響いた。明らかな取り乱しを感じさせた。いつもの紳士的な仮面は完全に剥がれ落ち、生々しい怒りが溢れている。
「はい。代理の赤羽です」
「何をしやがった! 私のキャリアを台無しに…」
「何のことでしょう?」
俺は意図的に冷静さを保ち、穏やかな声で返す。その態度が、さらに大久保の癇癪を煽ったようだ。
「とぼけるな! 貴様、全部仕組んでいたな。九条と組んで…」
「仕組んだのは、どちらでしょうか? 企画の盗用、SNSの捏造、株価操作…証拠は全て揃っています。書面でも、録画でもね」
1つ1つの単語をはっきりと区切って告げる。大久保の罪状を、ゆっくりと突きつけるように。
「な…」
声が詰まる。今まで完璧に隠してきたはずの悪事が全て暴かれている現実に、言葉を失ったようだ。
「そうそう。この会話も録音させていただいてますよ。自白の追加証拠として。先ほどの記者会見も、虚偽を報じたとして追求されるでしょうね」
「ふざけるな!」
大久保の声が潰れる。声の後ろでは、一生懸命に書類を書き集める音が響いている。証拠隠滅を図ろうとしているのだろうが、もう手遅れだ。
「待て。話し合いで…そうだ。なんとか、話し合いで。金なら…」
最後は金銭まで持ち出すほど取り乱し、声は裏返りながら上ずっていく。まるで溺れる者が藁をも掴むような、惨めな姿だった。
「もう遅いです。それでは…あ、もうすぐそちらに警察が向かうと思いますので、くれぐれも逃亡なさらないように」
「警察に…」
「あなたの悪事は、全て証拠が揃っています。大人しく、罪を認めるべきです」
通話を切ると、病室に静寂が戻る。
「ありがとう…これで、全て正義は勝つってことですね」
山田さんがにっこりと笑った。
「それにしても山田さん、まさかこんなことまで考えていたなんて」
俺は複雑な表情を浮かべた。確かに結果は良かった。だが、手術後の苦しそうな表情も、痛みを受けながら仕事をする姿も、病と戦う彼女の姿を匿名に記録に残す。それをメディアに公開することでプロジェクトの正当性を主張する。弱みを見せることを武器に変える戦略。私生活や苦悩までさらけ出し、共感を誘う手法。
「社長は、こういうやり方はお嫌いですよね」
山田さんが申し訳なさそうに微笑む。普段の俺なら、実力と結果だけで勝負したはずだ。プライベートを持ち出すような手段は取らない。それが俺のやり方だった。
「でも、何が起こるか分からない。だから、九条さんに相談させていただいたんです」
「そうだったのか」
「ええ。以前、山田さんが来てくれて…」
九条が静かに語り始めた。
「私の闘病生活を記録したい。それを、このプロジェクトの一部として残したい。そして、何かあった時に、広く報道して欲しいって…ちょっとばかりテレビ局にコネがありましてね。最初は驚きました。でも…」
九条は柔らかな表情を浮かべる。
「山田さんなら、信じられると思った。だって、赤羽が信頼している人だから」
「…そうか」
「それに、このプロジェクトは私の全てだから。たとえ弱い自分をさらけ出すことになっても、守りたかった」
九条の瞳が、強い意思を帯びる。
「病室での私の姿も、辛い治療の様子も、全て記録に残すって決めたの。私のプロジェクトにかける思いを、この苦しみと一緒に伝えられれば、きっと誰かの心に届くはずだって」
「…九条」
「でも、これは私の選択。誰かに強要されたわけじゃない」
九条は俺の方を向いた。
「どうか、怒らないであげて。山田さんは、私のために…」
「うん。分かってる」
俺は深いため息をつく。確かに、俺はこういうやり方は好きじゃない。晒して同情を誘うような手法は…だが、言葉を途中で止める。
「でも、今回は君の強さを見せることにもなった。山田さんと…九条の思いは、しっかり受け取ったよ」
山田さんと九条を見つめ返す。
「山田さん、本当にありがとう」
「いえ、そんな…」
山田さんが慌てて手を振る。
「これは、その…自社の株価にも影響がないわけではない案件でしたから。純粋に、ビジネス的な判断です」
言葉とは裏腹に、山田さんの目が潤んでくる。
「それに、社長には恩がありますから。3年前、私がテレビ局を辞めて路頭に迷っていた時、社長が声をかけてくださって…」
確かに彼女は以前、大手テレビ局の社会部記者だった。スクープを追いかける中で、上層部の圧力に屈せず真実を報道しようとして問題を起こし、退職するに至ったという過去がある。
「何の経験もない私を、秘書として採用してくださって…」
あの時か。俺は懐かしく思い出す。面接で山田さんは異様に緊張していた。でも、その目はまっすぐで、誠実さが伝わってきた。
「まさか、あんな未熟な私を採用するなんて…誰もが反対していたのに」
「君の目を見て、この人なら信頼できると思ったんだ」
「ありがとうございます。私、本当に感謝しているんです」
山田さんの頬を、大粒の涙が伝う。
「だから、今回のことも、ただのビジネス判断です。九条さんの企画なら、必ず成功すると思ったから…」
強がりながらも、止まらない涙。
「山田さん、私からもありがとう」
今度は九条が、柔らかな声で告げた。
「私の弱い部分まで、こんなに丁寧に記録してくださって…」
「いえ、これも全て計算です。世間の同情を買えば…」
慌てて涙を拭う山田さん。その姿に、九条が小さく笑う。
「もう、素直じゃないんだから」
「だ、だって…」
そして、突然山田さんが九条に向かって人差し指を突きつけた。
「このプロジェクト、ちゃんと成功させてくださいよ。さもないと…」
意味ありげな表情で、俺の方をちらりと見る。
「さもないと?」
「私が、社長を奪っちゃいますからね」
「え?」
「記者時代に『都内デートスポット完全制覇』って特集を担当してたんです。おすすめの隠れ家レストランとか、夜景スポットとか、全部知ってるんですよ」
「ちょ、山田さん」
九条が慌てて声を上げる。
「あら、困りました。週末に社長と2人きりでデート取材、計画しちゃおうかな」
意地悪な笑みを浮かべる山田さん。
「もう! でも、やっぱりこの企画は九条さんにお譲りします。社長との素敵なデート、たくさん取材させてくださいね」
「え、あの…そんな…」
顔を真っ赤にする九条を横目に、山田さんはウインクを送った。
「密着取材させていただきますから」
「顔、真っ赤…」
その様子を見て、俺は思わず吹き出してしまった。こんな風に素直になれない人たちに囲まれているのも、悪くないな。
「さて」
山田さんが立ち上がる。
「これからは、プロジェクトの成功に向けて、本気で取り組みましょうか」
その目は、もう涙の跡など見えないほど輝いていた。
翌日の報道は、大久保の最期を大々的に報じていた。
「九条建設・元部長、背任容疑で逮捕。企画盗用に加え、機密情報売却も発覚」
山田さんの完璧な証拠収集により、大久保のやってきた悪事が次々と明るみに出る。企画の盗用だけではなく、会社の機密情報を競合他社に売り渡していた事実。さらには、過去の再開発案件で住民たちに違法な圧力をかけていたことまで発覚した。関連会社からの裏金も発覚。大規模な開発で立ち退きを迫られた住民への金銭工作も。
大久保は、警官たちに囲まれ、頭を深々と下げるしかなかった。かつての高圧的な態度は影も形もなく、ただの気の抜けた中年男性になっていた。
「私、私は…違う…」
しかし、山田さんが用意した証拠の数々は完璧だった。録音記録、取引の証拠、金の流れを示す資料。そのどれもが決定的な証拠となる。
「これは陰謀だ。九条の仕業だ!」
一生懸命に言い逃れを図る大久保だが、彼の携帯からは、削除したはずのメールが次々と復元されている。山田さんの元記者という経歴が、ここで大きな威力を発揮した。
「懲役8年の実刑判決。妻は悪質な背任行為、深い反省なし」
その後の裁判でも、大久保の言い訳は全く通用しなかった。むしろ、反省の色が見られない態度が、量刑を重くした。
一方、九条建設は急速に業績を回復していく。
「九条建設の株価、最高値更新。新プロジェクトへの期待感高まる」
「再開発エリアの住民から、絶賛の声」
そして、九条の評価も日に日に高まっていった。
「九条綾野氏、次期社長候補に浮上。難を乗り越え、新時代の経営者像を示す」
「今年の輝く女性経営者に九条氏。弱さを強さに変えた、新世代リーダー」
退院後、最初の役員会。九条は凛とした表情で、自身の構想を語ったそうだ。
「私たちは、利益だけを追求する企業であってはならない。人々の暮らしに寄り添い、共に成長する企業を目指す。それが、これからの九条建設の進むべき道です」
記者会見の上で、九条は堂々と次期社長就任を語った。その表情には、もう迷いはなかった。かつての高圧的な態度は影を潜め、温かさと強さを兼ね備えた新しいリーダーの姿があった。
その様子を、俺はテレビを通じて見つめていた。昔の彼女からは想像もできない成長ぶりだが、きっとこれが本来の彼女の姿なのだろう。人は誰でも、チャンスがあれば変わることができる。俺はそう信じてきた。そして今、その信念は間違っていなかったことを、彼女が証明してくれている。
アジアパートナーズと九条建設の業務提携について。半年後、記者会見場で俺と九条は並んで座っていた。
「アジア最大手コンサルと老舗建設の包括連携。双方の株価が急上昇」
記者たちのフラッシュを浴びながら、俺たちは新しい未来について語る。アジアの各都市で展開される再開発プロジェクト。サステナブルな街づくりの構想。人々の暮らしに寄り添うビジョン。
「九条」
会見後、廊下で声をかけると、彼女は資料を片付けながら顔を上げた。40階の高層ビルから見える都会の景色が、ガラスに映る彼女の横顔と重なる。ふもとには、次々と明かりを灯し始める高層ビル群。目の前のテーブルに置かれたコーヒーからは、わずかに湯気が立ち上っている。
「ずっと言えていなかったんだけど…」
言葉を紡ぎ出すのに、少し勇気が必要だった。10年以上も胸の奥にしまっていた思いを、どう伝えればいいのか。
「高校時代、君の出す問題を一生懸命解いていたのは、君に追いつきたかったからじゃない」
九条の手が、資料を整理する動きを止める。その瞳が、ゆっくりと俺を見つめ返した。告白とも取れる言葉に、九条の頬が薄く染まる。僅かに震える唇。けれど、視線はそらさない。
「赤羽…ね」
か細い声で俺の名を呼ぶ。その声には、高校時代の意地悪な調子は微塵もない。
「待ってた」
震える声。
「ずっと…ずっと待ってた」
感情が溢れ出すように、九条が言葉を紡ぐ。
「高校の時から、気づいて欲しかった。でも、素直になれなくて、意地悪な問題ばかり出して…本当は、ただ話がしたかっただけなのに」
止まらない涙。けれど、その表情には幸せな笑顔が浮かんでいる。
「俺と、付き合ってください」
シンプルな言葉に、全てを込めた。九条の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「はい」
その一言が、胸に染みた。
俺と九条との関係が変わってから数日後。俺と九条、そして山田さんの3人でレストランにいた。仕事の話を終え、休憩がてらランチをしていたところだ。
「え、山田さん、来週デートなの?」
「はい。今度のデート相手、超イケメンなんですよ」
山田さんは得意げに、携帯の画面を見せていた。それは大手マッチングアプリの画面。どうやら今、恋人探しに夢中なようだ。
「へえ。マッチングアプリ初めて見たわ」
「結構いいものですよ。お2人は、こういうの良くないって思いますか?」
「いいんじゃないか」
俺は笑いながら告げる。
「だって、山田さんのおかげで幸せになれたんだから。今度は山田さんの番だよ」
「社長…」
「でも、変なやつに引っかからないようにね。何かあったら、俺が飛んでいくよ」
「社長、お父さんみたいです」
その言葉に、3人で笑い合う。
人は誰でも、完璧じゃない。時には傷つき、時にはつまずく。でも、だからこそ強くなれる。高校時代、九条は自分の殻に閉じこもっていた。俺は夢を諦めかけていた。山田さんは、新しい一歩を踏み出せずにいた。それでも、俺たちは変わった。誰かを信じ、誰かに信じられることで、人は必ず変われる。とは、まさにこのことだ。
人は誰でも、チャンスがあれば変われる。大切なのは、その可能性を信じること。そして、1人じゃないと気づくこと。
窓の外では、新しい季節を告げる風が吹いていた。俺たちの物語は、まだ始まったばかり。でも、きっとこれからも、互いを信じながら歩いていける。そう確信できる、穏やかな午後だった。


