姉の葬儀の最中、夫の正幸は完璧な悲劇の夫を演じていた。「俺が彩子を向こう側に押しやったようなものです」なんて言いながら、大げさに泣いて見せた。義母も横で「かわいそうに」と芝居を打つ。私はその茶番を冷たい目で見つめながら、知っていた。あの夫が、姉が意識を失う直前に、遺言書へのサインを強要していたことを。それだけじゃない。私はまだ黙っていた。姉が最後に私に託した「本当の遺言」の存在を。彼らが姉の…

姉の葬儀の最中、夫の正幸は完璧な悲劇の夫を演じていた。「俺が彩子を向こう側に押しやったようなものです」なんて言いながら、大げさに泣いて見せた。義母も横で「かわいそうに」と芝居を打つ。私はその茶番を冷たい目で見つめながら、知っていた。あの夫が、姉が意識を失う直前に、遺言書へのサインを強要していたことを。それだけじゃない。私はまだ黙っていた。姉が最後に私に託した「本当の遺言」の存在を。彼らが姉の...

姉が夫の正幸と義母に精神的に追い詰められ、体調を崩して入院した。私は弁護士として、そして妹として、この事態を黙って見ているわけにはいかなかった。

ある日、私は姉の家を訪れた。姉はいつも以上に顔色が悪く、目の下に濃い隈を作っていた。正幸はテーブルで新聞を広げ、私たちの話に聞こえないふりをしていた。

「姉さん、この前の資料の件だけど…」
「おいおい、せっかく飯を食いに来たんだ。家の中まで仕事の話をするのか?」

正幸がマウントを取ろうとするのが見え見えで、私はうんざりした。

「正幸さん、姉と私は同じ法律事務所で働いています。仕事の話をするのは自然なことです」
「そ、そんなことは言ってないだろう。ここは家だ。もっと家庭的な話題を選べと言っているんだ」

義母が横から口を挟む。

「そうよ。まさ子ちゃん、あんたがいつまでも独身で寂しいからって仕事の話に引き込むのは感心しないわね」

私は義母が常に私を売れ残りのように扱うことに辟易していた。私は冷たく正確な法律用語で彼らを叩きのめした。

「法律上、家庭的な話題の定義は存在しません。また、私は現在、将来を見据えた交際をしており、私生活が充実しているかどうかは遺産分割や相続問題とは無関係です」

彼らが姉の遺産を狙っていることは、その言葉の端々からわかっていた。彼らの顔が一瞬で強張った。

姉はいつもこうだった。自分が理不尽な攻撃を受けても、場を収めるためにまず謝ってしまう。この優しさが正幸を付け上がらせている原因だった。

正幸は鼻で笑う。

「そうだ。お前は強引すぎるんだよ。まるで刀剣のようだ」

私は正幸が何を狙っているのかを知っていた。私たちの両親は私が大学在学中に不慮の事故で亡くなった。父は資産運用に長けており、都心の一等地にある自宅と多くの金融資産を残してくれた。そのうち2億円の金融資産と広大な土地は、姉が結婚前に相続した特有財産だった。正幸の共有財産には一切ならない。しかし正幸と義母はこの事実を無視し、全てが自分たちのものになると思い込んでいた。

正幸は姉にこう言い放つのだった。

「俺たちが夫婦になったんだから、お前の金は俺たちの金だ。俺が管理して当然だろう」

私はこの会話を一度だけ立ち聞きしたことがある。その時の正幸の顔は、外面のいい彼とはかけ離れた、獣のような顔だった。

私はどうにかしなければならなかった。まずは姉を病院に連れて行くこと。しかし、正幸がそれを許すはずがない。

私は弁護士として交流のある国内トップクラスの専門医に内密に連絡を取り、姉の予約を入れた。

数日後、私は姉に嘘をついた。

「姉さん、急で悪いんだけど、明日の午後、クライアントとの重要な打ち合わせが入ったの。でも私、どうしても外せない案件があって。お願い、私の代わりに行ってくれない? 場所はこの病院のロビーなんだけど」

姉は弁護士だ。仕事と聞けば、どんなに体調が悪くても断らない。

翌日、私は姉を病院に連れ出した。正幸には事務所の重要な研修で姉妹で参加すると嘘の情報を流しておいた。

診察室の前で、姉はようやく私が嘘をついたことを悟った。

「まさ子、あなた、私を騙したのね」
「ごめんなさい、姉さん。でも、こうでもしないと絶対に病院に来なかった。お願い。私のためだと思って診察を受けて」

姉は泣きそうな顔をしていたが、私の必死の形相を見て、観念したように頷いた。

数日後、その専門医から私に直接電話がかかってきた。その内容は私の想像をはるかに超えていた。

「咲夜先生、お姉様の件ですが、単なる過労ではありません。過度なストレスから来る深刻な自己免疫疾患の兆候が見られます。かなり進行しており、このまま放置すれば命に関わる事態も…」

私は手が震えた。どうして姉があんな男のために自分の命を危険にさらさなければならないのか。怒りが体の芯から沸騰するように湧いてきた。

私は姉を訪ね、検査結果が深刻であることを伝えた。

「姉さん、すぐにでも治療に専念できる環境に移らないと危険な状態だって。姉さんも聞いたでしょ?」
「知ってた。なんとなく自分でも分かってたの。ごめんなさい。あなたにまでこんな重荷を背負わせて」

姉は泣かなかった。ただ静かに現実を受け入れていた。

「正幸さんにはまだ話していないの?」
「話したらきっと怒鳴るでしょう。『俺の稼ぎが少ないからお前が病気になったんだ』って。そうやって自分を被害者にして私を責めるのが目に見えているから」

正幸の長年にわたる暴言は、姉の判断力さえも完全に奪っていた。

「そんなのもうどうでもいい。姉さんの命の方が大事だ。今すぐ正幸さんと離れるべきよ。離婚届でも何でも私が全部やる。慰謝料も財産分与もあの男には一銭だって渡さない」
「それはできない。私が家を出たら正幸さんが何を言い出すか。お母様もきっと私を『男を捨てた悪い嫁』だと事務所中に言いふらすわ。それに、そんなことをしたらあなたに火の粉が向くかもしれない」
「そんなの私の本意じゃないわ。私は大丈夫よ。自分のことは自分でやれる。事務所で言いふらされても、そんなものは名誉毀損で訴えればいい。姉さんは弁護士でしょ。なぜ自分のことになるとそんなに弱気になるの?」

その時だった。

「おい、まさ子! 人の家庭にずかずかと上がり込んで何をわーわー叫んでるんだ!」

突如リビングのドアが乱暴に開き、正幸が現れた。酒の匂いがぷんと漂う。彼はテーブルに置かれた病院の封筒を見て、顔色をさらに険しくした。

「まさ子、お前、また勝手に彩子を病院に連れて行ったのか。俺の妻の健康状態を、なぜ一番近くにいるこの俺に相談しない?」
「あなたは相談に乗るどころか、姉の体調不良を『金の無駄遣いだ』と嘲笑していたでしょう。あなたのその態度は、民法上の夫婦の協力及び扶助の義務に明確に違反しています」
「な、法律用語で俺を脅す気か? 彩子、お前はどうなんだ? 俺を訴えたいのか? え?」
「正幸さん、ごめんなさい。まさ子ももうやめて。お願いだから、2人とも喧嘩しないで」

姉の弱々しい懇願。私は唇を噛みしめ、怒りを無理やり飲み込んだ。

この日以来、私の警戒は確信に変わっていった。彼が最も恐れているのは姉が亡くなることではない。姉が亡くなって、あの2億円の特有財産と土地が、自分ではなく私という法定相続人の手に渡ることだ。

私は弁護士としてのネットワークを使い、密かに正幸の行動を監視し始めた。すると、彼が怪しげな行政書士と接触していることが判明した。その男は過去に相続トラブル専門を謳いながら、実際には法律知識の乏しい高齢者から金を騙し取るような人物だった。

私は姉の病室で改めて強く言い聞かせた。

「姉さん、絶対に正幸さんが持ってくる書類にはサインしないで。特に遺言書や遺産分割という言葉が出てきたら、すぐに私に連絡して」

姉は点滴につながれながらも、力なく頷いた。しかし、その時の姉の目はどこか諦めているようでもあり、同時に何か強い決意を秘めているようにも見えた。

正幸は私が姉と頻繁に接触していることを知ると、露骨に妨害を始めた。

「おい、まさ子、お前は彩子を休ませる気がないのか? 病人に法律の話ばかり吹き込んでストレスを与えてるんじゃないだろうな。彩子のことは、夫である俺が責任を持って面倒を見る。お前はもう来るな」

私は病院の弁護士として正式に申し入れを行った。姉が精神的に不安定な状態にあり、第三者からの不当な法律行為を受ける危険性があるため、夫である正幸に同行する司法書士や行政書士などの訪問は、必ず私の立ち合いのもとで行うこと。これで正幸は表だっては動けなくなったはずだった。

しかし、私は正幸の執念深さと、姉の優しさを見誤っていた。

数週間後の私の誕生日、姉は信じられないことに一時退院の許可を取り、弱った体に鞭打って私に会いに来てくれた。場所は私たちが昔よく行った、事務所近くのホテルのラウンジだった。

「誕生日おめでとう」
「姉さん! なんてこと? どうして病院を抜け出してきたの? 正幸さんは知ってるの?」
「正幸さんには泣き落としで頼んだわ。あの人は私が亡くなることを前提にした話には弱いのよ。自分が悲劇の夫を演じられるから」

姉の口からこんなに皮肉めいた言葉が出るとは。私は姉がもう完全に悟っていることを知った。

「ごめん、姉さん。私がもっと早くあの男から姉さんを引き離していれば」
「ううん、まさ子のせいじゃないわ。これは私が選んだ道の結果だから」

それから姉が差し出したのは、小さな、しかし重みのある包みだった。中には私がずっと探していた古いアンティークの懐中時計が入っていた。私たちが弁護士になる時、いつか2人で揃いを約束していたものだった。

涙が溢れて止まらなかった。姉は私の涙を震える手で拭うと、ふと真面目な顔に戻った。そして私の耳元に顔を寄せ、息を潜めて言った。

「まさ子、これだけは絶対に、絶対に忘れないで。私たちが一緒に働いていた事務所のあの古い資料室、覚えてるわよね」
「うん。新人時代に2人で使ってたあのほこりっぽい部屋でしょ」
「そう。あそこの一番奥のキャビネット。私たちが秘密基地って呼んでた古い小さな金庫があるでしょう」
「あったね。まだあるのかな?」
「あるわ。私が管理してるから。もし私が突然いなくなって、正幸さんやあのお母様があなたを困らせるようなことをしてきたら、その時は必ずあの金庫を開けて。私の本当の遺言はそこにあるわ。一番大切な書類は必ずあそこにある。それだけは忘れないで」

その時の私は、姉の病状の深刻さと「本当の遺言」という言葉の重みにただ圧倒されるばかりだった。

「分かったよ、姉さん。約束する。でも弱気なこと言わないで。姉さんは絶対に良くなるから」

私はそう言って、姉の冷たく痩せた手を握りしめた。姉は安心したようにふっと息を吐いた。

「ありがとう。あなたがいれば、私はもう何も怖くない」

これが姉と交わした最後のまともな会話になった。

その数日後、姉の病状が急変した。私は連絡を受けて全ての案件を放り出して病院に駆けつけた。病院のドアの前で、私は正幸の姿を見て凍りついた。

正幸は薄汚れた封筒を手に持っていた。彼は私に気づくと一瞬うろたえた表情を見せ、慌ててそれをスーツのポケットに隠す。だが私には見えた。その封筒の表書きに、あの胡散臭い行政書士の事務所の名前と「遺言書」という文字が薄く印刷されているのが。

正幸は姉の意識が朦朧としているこの土壇場で、用意していた遺言書に無理やり署名させようと企んでいたのだ。

「まさ子、お前まで来てどうする? 俺がしっかり彩子に寄り添ってやる。お前は邪魔だ。帰れ」
「遺言書を書くように強要しに来たのですか? 姉の意識がないこのタイミングで財産を奪おうと。あなたの行為は遺言の強要、場合によっては詐欺未遂ですよ」

正幸は何も言えなかった。ただ封筒を握りしめ、憎しみに満ちた目で私を睨みつけただけだった。

その2日後、夜明け前に姉は息を引き取った。38歳というあまりにも早すぎる最期だった。

私は姉の最期に立ち合えなかった。正幸が病院からの連絡を私に意図的に伝えなかったから。姉が亡くなったことを、私は事務所の同僚からの電話で数時間後に知った。

私の弁護士としての冷静な理性は、激しい悲しみと正幸への怒りによって完全に破壊された。姉の優しく聡明だった人生を、あの卑劣で無能な男と金の亡者である義母が文字通り食い尽くしたのだ。

私は心に誓った。私の愛する姉が最後に残した「本当の遺言」を守り抜くために。そして正幸と義母に、その資産どころか一切の情け容赦なく、法律という名の鉄槌を下すために。私は弁護士として、そして妹として、彼らを徹底的に合法的に地獄へ叩き落とすと心に誓った。

葬儀は、正幸がまるでこの時を待っていたかのように手際よく準備を進めた。彼が選んだのは都内でも有数の費用が高いことで有名な葬儀場だった。その費用は全て姉の口座から引き落とされていた。私が凍結の手続きをしようとした時には、すでにお金が引き出されていた。

葬儀当日、正幸は姉の遺影の前で大げさに体を震わせ、悲劇の夫を完璧に演じ切っていた。

「本当に突然のことで…あんなに尽くしてくれたのに、私は何もしてやれませんでした。私が彩子を…」

その姿に事情を知らない参列者たちは「なんてお優しい旦那様だろう」と同情の言葉をかけている。茶番だ。吐き気がする。

義母もまた、見事な演技を披露していた。

「まあまあ、皆様、わざわざお越しいただいて。本当に彩子さんは幸せ者ですわ。こんなに早く行ってしまうなんて…かわいそうで」

義母は半泣きで目元を押さえているが、全く泣いていなかった。それどころか、参列者が供える香典の額を横目でチェックしている。強欲さと金への執着がその全身からにじみ出ていた。

私が焼香を終え、遺族席に向かうと、義母が待ってましたとばかりに話しかけてきた。

「まさ子ちゃん、来てくれたのね。でも、その席は本当の家族である私たちが座る場所。あなたはあちらの一般席に座るのが常識じゃないかしら」

義母は私を他人と規定し、この場から追い出そうという魂胆だ。

「ご冗談を。民法上、私は姉の妹であり法定相続人の一人です。その立場において、この場にいることは法的に何ら問題ありません」
「な、またそんな口の聞き方をして! 彩子さんが亡くなって悲しくないの?」
「悲しいからこそ私はここにいます。姉の意思が不当に歪められることがないよう、最後まで見届けるために」

正幸が参列者との会話を中断し、今度はこちらを睨んだ。

「まさ子、お前、こんな場所で何を騒いでいるんだ? 母さんが言った通りだ。彩子は俺の妻だぞ。お前は部外者だ。帰れ」
「法律の話をしましょうか。姉の戸籍筆頭者は姉、あなたは婿として咲夜家に入籍しています。あなたが今名乗っている咲夜正幸という名前こそが法的な現実ですよ」
「貴様…」

私は全くひるまずに言った。

「それと、『部外者』というご発言ですが、姉が亡くなった今、姉の特有財産に関して法定相続分を持たない正幸さんと、相続権が一切発生しないお母さんが、なぜこの葬儀の主役のように振る舞い、姉の財産から費用を支出しているのですか? これは相続財産の不当な流用にあたる可能性があります。弁護士として看過できませんね」

正幸と義母の顔が真っ青になる。彼らは私がまさかこの悲しみの席でこれほど冷静に法律論を展開するとは思っていなかったのだろう。

「今は葬儀の最中だ。金の話は後だ」

正幸はそれだけ絞り出すと、再び悲劇の夫の仮面をかぶり直し、別の参列者の元へと逃げていった。義母も私から目をそらし、その場を去った。

それでいい。せいぜい今のうちによき夫とかわいそうな義母を演じていなさい。

私は会場の隅に立ち、冷静に状況を分析していた。正幸はあの胡散臭い行政書士ともこの会場で密談を交わしている。もちろん、私は調査員をこの会場に潜り込ませており、その会話は録音されている。すぐに調査員が録音した音声をファイルで送ってきた。彼らの会話の内容は「遺言書は完璧だ。四十九日が明けたらすぐに手続きを」というものだった。

姉の意識が朦朧としている時に無理やり署名させようとした、あの封筒の中身ね。私は姉が残した最後の言葉を反芻していた。「私の本当の遺言はそこにあるわ。一番大切な書類は必ずあそこにある」と。

事務所の古い金庫。正幸も行政書士も、そして義母も、その存在に気づくはずもない、私と姉だけの秘密基地だ。

葬儀から数日が過ぎた。私は事務所を休職してはいたが、頭は休ませていなかった。水面下で正幸と義母の銀行口座の動き、あの行政書士の動き、そして姉の口座から不当に引き出された葬儀費用の明細を全て収集、分析していた。

正幸が姉の特有財産に手をつけた明確な証拠だ。予想通り、葬儀費用だけで1000万円近く使っている。披露宴の酒が最高級の純米大吟醸だったと聞いた時は、怒りを通り越してその浅ましさに笑いさえ込み上げてきた。

そして姉が亡くなってからわずか1週間後、まだ初七日も終えていないというのに、正幸から忌々しい電話がかかってくる。私はあえて何度かコールが鳴るのを待ってから、事務的な声で電話に出た。

「はい」
「ああ、俺だ。そろそろ大事な話をしなきゃならんだろう」

正幸の声には葬儀の時の悲壮感など微塵もなく、早く金を手に入れたくてうずうずしている下品な焦りがにじみ出ていた。

「大事な話と申しますと?」
「うるさいな。お前はいちいち法律用語を出すな。そんな悠長なことを言っている場合か。彩子が残したものの整理は、夫である俺が中心になって進めるのが当然だろうが」

正幸は私が法定相続人として権利を主張することを何よりも恐れている。だから私が反撃の準備を整える前に、一気に遺言書でねじ伏せようという魂胆だ。

「それで、ご要件は?」
「明日の午後、うちに来い。母さんも同席する。いいか、弁護士としてじゃない。妹として、夫である俺の決定事項を聞きに来るんだ。分かったな」

一方的にまくし立て、正幸は電話を乱暴に切った。

「決定事項ですって」

私はスマートフォンの画面を眺めながら、静かに笑った。あの男は自分が今どれほど重大なミスを犯したのか、全く理解していない。彼は私を妹として呼びつけた。相続人を遺産分割協議の場に正式に招集したのだ。それが彼の遺言書の正当性を法的に問う舞台の幕開けとも知らずに。

ええ、喜んで伺いましょう、正幸さん。あなたがいかに無知であるかを証明するために。

私は立ち上がった。明日の決戦の場に向かう前に、私にはやるべきことがあった。姉が私に託した最後のメッセージ。「本当の遺言」を確認しなければならない。

私は出撃の戦闘服である黒のパンツスーツに着替えた。向かう先は、姉と私が新人時代を過ごしたあの古い法律事務所の資料室だ。

夜のとばりが降りたオフィスビル。私たちが所属する部署は最新のセキュリティが導入された高層階にあるが、あの資料室があるのはビルの谷間。今はほとんど誰も使っていない地下の物置部屋だった。

私は姉から生前に預かっていた鍵を使い、重い鉄の扉を開けた。カビと古い紙の匂いが鼻をつく。蛍光灯のスイッチを入れると、薄暗い光が壁一面を埋め尽くす古い書棚を照らし出した。

懐かしい。ここで姉さんと2人、徹夜で起案の練習をしたわね。あの頃、姉はまだ正幸と出会う前で、法と正義への情熱に満ち、誰よりも輝いている弁護士だった。

私は一番奥の壁へと進んだ。そこには他のキャビネットとは明らかに違う、古めかしいダイヤル式の小さな金庫が、ほこりをかぶって埋め込まれていた。私たちが「秘密基地」と呼んでいた思い出の場所。

私は震える手でダイヤルに手をかけた。暗証番号は2人の誕生日の組み合わせ。私と姉にしかわからない秘密の数字だ。ダイヤルを回し、最後に取っ手を引く。ゴトッという錆びた金属が擦れる音と共に、金庫の扉がゆっくりと開いた。

金庫の中はほこりっぽく、時間が止まったかのようだった。そこには私たちが新人時代にふざけて書いた将来の夢のノートや、初めて担当した案件のボロボロになった資料のコピーが数点。そしてその一番下に、明らかに異質な1つの封筒が置かれていた。

厚手で上質な和紙を使った、法律事務所で使うものとは違う封筒。表には姉の美しく、今はもう見ることのできない綺麗な筆跡で「咲夜正子へ 彩子より」とだけ書かれていた。そして封筒は、法的に有効な封印がされていることを示すため、署名の上から姉の実印でくっきりと割り印が押されている。

私の心臓がドクンと大きく鳴った。これはただの手紙ではない。弁護士である姉が、厳重な形式で残したもの。その意味を私は痛いほど理解していた。

私は震える手でその封筒を取り出した。ずっしりと重い。紙だけではなく、何か別のものも入っている。私はその場で封を切ることはしなかった。これはあの男たちの前で開示するべき証拠だ。しかし、封筒の重さが気になる。私は金庫の奥をもう一度探った。封筒の下に隠れるようにしてもう1つ小さな箱が置かれていた。中には1本のUSBメモリと、手のひらサイズの古いボイスレコーダー。そして鍵が1本ある。

涙が溢れそうになった。だが私はそれを奥歯を噛みしめてこらえた。泣くのはまだ早い。私は封筒とUSBメモリ、ボイスレコーダー、そして鍵を自分のブリーフケースに厳重にしまい、金庫を元の通りに施錠し、静かに資料室を後にした。

事務所の自分のデスクに戻った私は、代表に「明日の協議に備えて少し準備をします」と内線で告げた。代表は「そうか。金庫か。彩子から万一の時はと聞いていた」と力強い声で答えてくれた。姉は代表に伝えることによって、最後の保険をかけていたのだ。

私はまずUSBメモリを自分のPCに差し込む。中には膨大なファイルが日付ごとに整理されていた。私はそのファイルの1つを開き、息を飲んだ。それは姉がつけていた日記だった。いや、これは日記ではない。正幸と義母から受けた嫌がらせの克明な記録だ。

『正幸さんより「お前の稼ぎは俺のプライドを傷つけるためか」と3時間にわたって質問される。原因は私が担当した案件の勝訴が新聞の小さな記事になったため』

『義母より「子供も産めない嫁が病気とは何事か。治療費は自分でしっかり払うこと。私たちには一切迷惑をかけるな」と。私の特有財産から出すと言っても「それは正幸のお金だ」と聞き入れず』

『正幸さんが行政書士の男を連れてくる。「お前が亡くなったら俺が困るから遺言書を書け」と。内容は全財産を正幸さんに相続させるというもの。私が「まさ子にも相談したい」と言うと、「あの刀剣女を呼ぶな。お前は俺の言うことだけ聞いていればいいんだ」と。目の前で湯のみを壁に投げつけられた』

日付は姉が亡くなるほんの数日前まで続いていた。そしてボイスレコーダー。私はヘッドホンを装着し、再生ボタンを押した。

『だから、彩子さんが稼いだお金は全部正幸のものなんですってば。それを妹なんかに渡すなんて、嫁として頭がおかしいんじゃないの?』
『今はそんな話じゃなくて。彩子、この書類に今すぐサインしろ。これはお前が俺を愛しているっていう証拠なんだよ。これを書けば俺も安心する。お前の病気もきっと良くなるからな』
『正幸さん、やめて。これは私の両親が…』
『うるさい! いつまで親の亡霊にすがってるんだ。いいから書け。書かないなら、お前の治療費なんか俺は一切出さないからな。お前はこのままここで1人で苦しんで消えていくんだ』

ガシャンと何かが割れる音がした。姉の小さな悲鳴。正幸はこんな風に姉を脅迫していたのだ。私はヘッドホンを思わずデスクに叩きつけた。

許さない。絶対に許さない。怒りで視界が赤く染まる。姉は苦しみの中でこの証拠を私に託してくれたのだ。

そして鍵。私はそれがある場所の鍵であることにすぐに思い至る。銀行の貸金庫だ。私は姉が取引をしていた銀行の支店長に弁護士として連絡を取った。事情を話し、姉が亡くなったこと、私が相続人であること、そして遺言執行者である可能性を告げると、支店長は「お待ちしておりました」と静かに答えた。姉はこちらにも完璧に根回しをしていたのだ。

翌朝一番でその貸金庫を開ける手続きを整える。中身はおそらく公正証書遺言の正本だろう。公正証書遺言は、法的な要件を満たして作成されるため、無効となることがほぼない。姉さん、あなたは最後まで優秀な弁護士だったのね。

決戦の日の朝が来た。私は一睡もしていなかったが、精神は法廷に立つ日の朝よりもはるかに研ぎ澄まされていた。黒のパンツスーツに身を包み、私は昨日手に入れた証拠品をブリーフケースの奥深くにしまい込む。

正幸との協議は午後からだ。その前に、私は最後の武器を手に入れるため、姉が取引をしていた銀行へと向かった。開店と同時に、私は個室に通される。昨日連絡を取った支店長が、厳粛な面持ちで私を迎えた。

「咲夜正子様ですね。弁護士の彩子様からは、生前くれぐれも申し付かっておりました」
「お世話になります。早速ですが、姉の貸金庫の開示をお願いいたします。こちらが私の身分証と、姉から預かっている鍵です」
「承知いたしました。彩子様からは、万が一のことがあった場合、妹の正子様がこの鍵を持って訪れたら、遺言執行者として速やかに全ての権限を移譲するようにとの公正証書によるご指示を、銀行としてお預かりしております」

公正証書で銀行に指示を。姉さん、どこまでやってくれてるのよ。私は姉の用意周到さに関心してしまう。これならば、正幸が「夫である」ことを盾に銀行に圧力をかけても、銀行側は公正証書を理由に一切の情報開示を拒否できる。完璧な防衛線だ。

厳重な手続きを経て、私と支店長は分厚い鉄の扉の奥にある貸金庫室へと入った。姉の貸金庫は静かにそこに鎮座していた。私が鍵を差し込み、支店長が銀行側の鍵を回す。中身は驚くほどシンプルだった。両親から相続したいくつかの古い宝石類。そして公証役場の紋章が入った厳重に封をされた一通の封筒。

これだ。最強の切り札だ。私はその場で支店長に中身の確認を求めた。支店長は「承知しております」と頷き、別室で銀行の法務担当者の立ち合いのもと、その封筒を開封した。そして私はその正本のコピーを手にすることになる。

私の予想は当たっていた。姉はきっちりと遺言を残していた。それは姉が亡くなる約1ヶ月前。私にあの秘密の金庫の話をした、まさにあの直後に公証役場に出向き、2人の証人の立ち合いのもとで作成されたものだった。時期は、正幸が行政書士と接触をしたほんの数日前。姉は正幸の動きを完全に予測し、先手を打っていたのだ。

私はその内容を読み進め、息を飲んだ。

『遺言者 咲夜彩子は、遺言者の有する全財産を、遺言者の妹 咲夜正子に包括して遺贈する。遺言者は、本遺言の遺言執行者として上記咲夜正子を指定する』

私が遺言執行者と明言されている。つまり、相続の全ての手続きを行う法的な権限を姉は私に託したのだ。これにより、正幸は夫であっても遺産の手続きに一切指一本触れることができなくなる。そして最後のページ、付言事項として姉の最後の魂の叫びが記されていた。付言事項とは、法的な効力はないが、気持ちを伝えるためのメッセージだ。

『付言事項。私が夫である咲夜正幸に一切の財産を相続させないように決断したのは、以下の理由による。正幸及びその母による長年にわたる嫌がらせ、及び私の特有財産に対する不当な恫喝行為があったためである。詳細は、私が遺言執行者に委託した証拠資料の通りである。妹よ、あなたに私の人生の後始末というあまりにも重い荷物を背負わせてしまうこと、心から謝罪します。どうか、私の最後の正義をあなたの手で執行してください。愛しています。彩子より』

姉さん。涙で文字が滲んだ。姉は弁護士として完璧な仕事をしてのけた。正幸が万一、配偶者として最低限相続できる権利を主張してきたとしても、この付言事項と私が持つ証拠を突きつければ、裁判所が正幸の権利を認める可能性は極めて低くなる。これは正幸の完全なる敗北を意味していた。

銀行を出た時、空は皮肉なほどに晴れ渡っていた。私はタクシーを拾い、正幸の家に向かう。正幸さん、お母さん。あなたたちが姉の財産で築こうとした浅ましい夢は、私が全て終わらせる。

タクシーが正幸の家の前に止まった。インターホンを押すと、すぐにバタバタという足音と共にドアが勢いよく開いた。

「遅かったじゃないか、まさ子。まあ入れよ。お前にとって、この家に来るのもこれが最後になるだろうからな」

リビングに通されると、神座に鎮座する義母がまるで待ち構えていたかのようにふんぞり返って座っていた。テーブルの上には高級そうな和菓子と、およそ悲しみの場にはそぐわない高価な茶器が並んでいる。

「あら、まさ子ちゃん、やっと来たのね。私たち、首を長くして待っていたのよ。正幸」
「ああ、それじゃあ早速だが始めようか。彩子の遺産分割協議をな」

正幸はそう言うと、懐から見せびらかすように1つの封筒を取り出した。あの日、病院の廊下で彼が慌ててポケットに隠した、行政書士の事務所の名前が入った薄汚れた茶封筒だった。正幸はその薄汚れた茶封筒をまるで宝物のように両手で持ち、テーブルの中央にうやうやしく置いた。

「そうよ、まさ子、それを早く見せてあげなさいな。彩子さんがどれだけ正幸のことを愛していたか、そして財産が法的に誰のものになったのかをね」

2人の視線が私に突き刺さる。正幸は勝利を確信した傲慢な視線を私に向けていた。義母は金への飢えた欲望に満ちた濁った目で私を見つめている。私は無言で2人を見つめ返した。

「いいか、まさ子。お前は弁護士だから難しい法律を振りかざしたいんだろうが、これはそんな小手先の技術が通用する話じゃない。夫婦の愛の話だ。彩子は最後の最後まで俺のことを愛してくれていた。その証拠がこれだ」

正幸は芝居がかった手つきで封筒から数枚の紙を取り出した。それはコンビニで売っているような安っぽい便箋だった。そして私が病院の廊下で見た通り、表紙には「遺言書」という文字が書かれている。

「これは彩子が最後の力を振り絞って俺のために残してくれた、真心のこもった法的に有効な自筆証書遺言だ」
「自筆証書遺言ですって」

自筆証書遺言は確かに法的に有効な遺言の形式の1つだ。だが、その要件は民法で非常に厳格に定められている。全部、日付、氏名の自署、そして押印。1つでも欠ければ、それはただの紙切れだ。

「内容はこうだ。『私の有する全財産は、私の愛する夫、正幸に全て相続させる』」
「まあ、『愛する夫』ですって! 正幸、良かったわね。これでやっとあの陰気な実家を立て直して、私たちでゆっくり暮らせるわね」

義母はもう2億と土地が手に入った気で手を叩いて喜んでいる。正幸も満足そうに頷いた。

「そういうことだ、まさ子。全財産を俺にだ。つまり、お前には一円とも渡すものはない。法的に渡せないんだよ。これが彩子の意思だからな」

正幸はその安っぽい便箋を私の目の前に突きつけた。

「お前には姉の意思を尊重する義務がある。弁護士なら分かるよな。さあ、この遺言書に基づいて、全ての遺産を咲夜正幸が相続するという内容の遺産分割協議書に今すぐサインしろ」

正幸はブリーフケースからご丁寧に「遺産分割協議書」と書かれた、これまた行政書士が作ったであろう書類まで取り出した。私は黙って、目の前に突きつけられた「遺言書」とされる紙切れに視線を落とした。

なるほど。これはひどい。確かに便箋には姉の筆跡に似せた文字が並んでいた。だが、それは病気で弱った人間が書いたにしては、不自然に力が入りすぎている箇所と、震えすぎている箇所が混在していた。おそらく正幸が姉の手を無理やり掴んで書かせようとしたのだろう。あの病院での最後の攻防の後に。そして決定的な欠陥がそこにはあった。

日付だ。日付は確かに記載されていた。だが、その日付は姉が亡くなる前日。その日、姉はすでに意識不明の状態であり、文字を書ける状態ではなかったことを、医師によって法的に証明できる。そして署名の横に押された印。それは姉が銀行員や実印として登録していたものではなく、どこでも買える安っぽい認め印だった。

そして何より、私はその紙切れに指一本触れずにただ見つめ続けた。正幸と義母は、私がショックで言葉を失ったのだと勘違いしたようだった。

「あらあら、まさ子ちゃん、かわいそうに。1円ももらえないなんてね。まあ、自業自得よ。人の家庭に土足で踏み込んできた報いだわ」
「そうだ。ショックなのは分かるが、これが現実だ。さあ、早くサインを」

私が思わず笑い声をもらすと、正幸が不機嫌な顔をした。

「なんだ、今のは?」

駄目だ、こらえられない。あまりにも稚拙すぎる。あまりにも法律を舐めすぎている。そして、私を舐めすぎている。私は込み上げてくるものを抱えて、大笑いしてしまった。姉が亡くなってから初めて見せた感情の爆発。それがよりによってこの大笑いだった。静まり返ったリビングに、私の高笑いだけが響き渡る。正幸と義母は何が起こったのか理解できず、鳩が豆鉄砲を食ったような呆然とした顔で私を見ていた。

「き、貴様! 何がおかしい! 亡くなった姉の遺言書を真剣に読み上げている時に、気が狂ったのか!」
「そうよ! 不謹慎だわ! 頭がおかしくなったのよ、この女!」

私は笑いすぎてにじんだ涙を指先で拭った。そしてまだ笑いの余韻で震える声で、目の前の2人の愚か者に問いかけた。

「ああ、おかしい。正幸さん、お母さん。あなたたち、本気で言ってるの?」

これが反撃へののろしだった。

「本気で何が言いたいんだ?」正幸はテーブルを叩かんばかりの勢いで私を睨みつけた。
「ですから、こんな紙切れ1枚で、姉のあの2億円の金融資産と、この都心の一等地にある広大な土地がそっくりそのままあなたのものになると、本気で信じているのですか、と聞いているんです」
「紙切れですって!? 何ですって? これは彩子さんが最後の力を振り絞って正幸に宛てた愛の証なのよ! 弁護士のくせにそんなことも分からないの?」
「そうだ。これは彩子の意思だ。法的に有効な自筆証書遺言だと言っただろう。お前は弁護士だから彩子の財産が欲しくて、わざと難癖をつけているだけだ。見苦しいぞ」

正幸は再び「遺言書」とされる便箋を私に突きつける。私はその紙切れには指一本触れず、彼らを冷たく見下ろしたまま、ゆっくりと首を振った。

「正幸さん、あなたは根本的に間違った理解をしている。自筆証書遺言が法的に有効であるためには、民法に定められた極めて厳格な要件を全て満たさなければなりません。あなた方が今、勝利の切り札のように掲げているその紙は、残念ながらその要件を何ひとつ満たしていない。法的に言えば、これは遺言書ですらありません。ただの落書きです」
「何をふざけたことを!」

「では、弁護士として無知なあなたたちに、1つずつ法的な現実を教えて差し上げましょう」

私はブリーフケースに手をかけ、ゆっくりと1枚のクリアファイルを取り出した。正幸と義母の視線がそのファイルに釘付けになる。

「まず、この自筆証書遺言とされる紙に、正幸さん、あなたが書かせた日付ですよね。これは姉が亡くなる前日になっていますね」
「そ、それがどうした? 最後の力を振り絞って彩子は俺のために…」
「その日、姉はすでに意識不明の状態でした。これは姉の主治医が作成したカルテの写しです」

私がテーブルに置いたのは、病院から取り寄せた姉の容態が克明に記された医療記録だった。

「この記録によれば、遺言書に記された日付の時には、姉はすでに深い昏睡状態にあり、外部からの刺激にも一切反応しない状態だったと明確に記されています。もちろん、ペンを握って文字を書くことなど、到底不可能な状態です」
「そ、そんなの嘘よ! 奇跡が起こったのかもしれないじゃない!」
「奇跡ですか? 法廷は奇跡など信じません。証拠を信じるのです。ここにはその日、看護を担当した看護師全員の看護記録もあります。『呼びかけに反応なし』『自発呼吸弱く、生命維持装置管理』。お分かりですか? 私は事実だけを淡々と突きつけているんです。意識のない人間が、どうやって『全財産を夫に相続させる』などという複雑な法的意味を持つ文章を、自らの意思で書き記すことができるのですか? 正幸さん、説明できますか?」

正幸の顔が真っ青になっていくのがはっきりと分かった。勝利を確信していた彼の表情は、焦りを通り越して恐怖に染まり始めていた。

「うるさい! 一瞬だ。ほんの一瞬だけ彩子の意識が戻ったんだ。俺と2人っきりになった時に。彩子は、そうだ、最後に俺の手を握って『これを書く』と自分でそう言ったんだ」
「ほう。2人っきりでですか。つまり、証人はいないと。随分都合のいい奇跡ですね。残念ながら、その奇跡とやらも、この医療記録と病院の監視カメラの映像で完全に論破できますよ。その日、あなたが姉の病室に滞在したのはわずか5分。しかも、看護師が常駐するナースステーションの前を、あなたが慌てた様子で通り過ぎる姿がはっきりと記録されていますからね」
「監視カメラだと…」
「姉の容態が急変してから、私が病院側に要請して全ての記録を保全していただいただけのことです。姉の病室の出入りは24時間、全て記録されていますよ。あなたが姉の意識が一瞬戻ったと主張するなら、その『2人っきりの奇跡』がどのようにして起こったのか、法廷で医師の専門的な見解と照らし合わせながら、じっくりと検証しましょうか」

正幸は「うっ」とカエルが潰れたような声をもらし、言葉に詰まった。義母もさっきまでの威勢はどこへやら、不安げに正幸の顔を見つめているだけだ。

「日付、そして遺言能力。この2点だけでも、あなたたちが持ってきたその紙切れは、法的な効力を持たないゴミだということがご理解いただけましたか? ですが、驚くのはまだ早いですよ。このゴミの欠陥は、まだまだこんなものではないのですから」

私は一呼吸置き、正幸が握りしめる便箋を冷たく見下ろした。

「次に指摘するのは、その筆跡です」
「ひ、筆跡がどうした? これは彩子の字だ。俺には分かる」
「ええ、一見すると姉の筆跡に似せてありますね。ですが、あまりにも不自然です。病気で弱った人間が書いたにしては、どことなく力が入りすぎている箇所があるかと思えば、まるで他人に手を引かれたかのように不自然に震えている箇所が混在している」

私はブリーフケースからもう1つのファイルを取り出した。中には、姉が生前弁護士として書いていた起案書や、私に宛てた手紙のコピーが何枚も入っていた。

「これは生前の健康だった頃の姉の筆跡資料です。そしてこちらは、姉が入院中に私に宛てて書いてくれた短いメモです。正幸さん、あなたには違いが分からないかもしれませんが、専門家が筆跡鑑定を行えば、この2つとあなたがお持ちの『遺言書』とされる紙の筆跡が、同一人物の自由意思によって書かれたものではないことなど、一瞬で判明します」
「鑑定だと? そんなもの、お前がいくらでも捏造できるだろう」
「捏造? 裁判所に選任された中立な鑑定人が行うのですよ。そして、この不自然な筆跡が何を意味するか。もうお分かりですね。あなたが意識のない姉の手を無理やり掴んで、この文字を書かせようとした。その暴行の痕跡が、この紙にはくっきりと残っているんです」
「暴行だなんて、なんてことを言うの? 正幸は彩子さんの手を優しく握って励ましていただけよ」

私は首を何度か横に振った。

「その『励まし』の結果が、この歪な文字なのですか? 結構です。それも法廷で主張なさればいい。あなたたちの見苦しい言い訳がどれだけ通用するか、楽しみですね」

私はもはや反論する力もなく青ざめている2人を眺め、最後の、しかし最も決定的な欠陥を指摘した。

「そして、極めつけは印です」

私は便箋の署名の横に、朱肉がにじんで押されている安っぽい円形の印影を指さした。

「この印、これはいわゆる三文判ですね。100円ショップでも買えるような大量生産の認め印です」
「だ、だからなんだ。判子は判子だろうが!」
「いえ、全く違います。姉は弁護士です。法律の専門家が、自らの全財産を左右する遺言書という最も重要な法律文書に、このような証拠能力の低い印鑑を使うと思いますか?」

私は再びブリーフケースに手を入れ、今度は印鑑登録証明書の写しを取り出した。

「姉が公的に使用していた実印はこれです。そして銀行取引に使っていた銀行印も、私は遺言執行者として全て把握、管理しています。あなたがお持ちの紙切れに押された印は、そのどちらでもない。つまり、この紙切れは、姉本人がその内容を認め、自らの意思で押印したという法的な真正性を、何ひとつ証明できないただの紙くずなんです」
「そ、そんな、そんなバカな…あの行政書士は『これで大丈夫だ』と…」

正幸がうっかりと共犯者の名前をもらす。

「はあ。行政書士ですか? 弁護士資格もない人間に、こんな重要な文書作成を依頼したと。ご愁傷様です。その人も、あなたと一緒に法的に断罪されることになるでしょうね」

私はテーブルの上のゴミには目もくれず、真っ青になって震える正幸と義母の2人をまっすぐに見据えた。

「正幸さん、あなたが『宝』だと『遺言書』だと言っていたそれらは、民法上無効であるだけでなく、刑法に規定する犯罪行為です。日付、遺言能力、筆跡。その全てが偽造されたものであると、私は確信しています」

私はここで初めて、自分のブリーフケースからあるものを取り出した。それは私の弁護士バッジだった。私はそれをスーツの襟に、ゆっくりと、しかし確実な手つきで装着した。

「これ以上、紙切れを法的な遺言書であると主張し続けるのであれば、私は姉の法定相続人として、そして1人の弁護士として、あなたを有印私文書偽造及び同行使未遂の罪で、即刻刑事告発します」

リビングは墓場のような静寂に包まれた。正幸と義母は、自分たちが掲げた勝利の証が一瞬にして逮捕状に変わってしまった現実を、まだ理解できていないようだった。

「さあ、どうしますか? まだあなたは、その落書きを姉の意思だと言い張りますか?」

それから、私はテーブルに置いたボイスレコーダーの再生ボタンを押した。

静まり返ったリビングにまず響き渡ったのは、姉の弱々しく息苦しそうな喘ぎ声だった。その音だけで、姉がどれほど衰弱していたかが伝わってくる。そして、その姉の苦しそうな息遣いをかき消すように、義母のかん高い耳障りな声が響き渡った。

『だから、聞いてるの? 彩子さん。あなたね、自分が稼いだお金だからっていつまでも自分のものだと思ったら大間違いなのよ。あなたは家族のために生きてきたんでしょ。正幸の妻なの。だったら、あなたの財産は全部夫である正幸のものなんですってば。それを、まさ子さんなんかに渡そうだなんて、嫁として頭がおかしいんじゃないの? 正幸からもビシッと言ってやりなさいよ』

義母は「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、自分の口を押さえた。録音された自分の声が目の前の機械から流れているという現実が信じられないようだった。彼女は震える指で私を指さし、「そ、そんな… なんで、こんなものを… 」と否定しようとするが、その言葉は続かない。ボイスレコーダーは間髪入れずに、正幸の外面のいい彼とはかけ離れた、ドスの効いた低い声を再生し始めたからだ。

『ああ、母さんの言う通りだ。今はそんな話じゃなくて。おい、彩子、聞いてるのか? この書類に今すぐサインしろ。反抗するな。これはお前が俺を愛しているっていう証拠なんだよ。これを書けば俺も安心する。お前の病気もきっと良くなるからな。分かるだろう?』

私は正幸をじっと見つめながら言った。

「これは、あなたがあの行政書士が作った紙切れにサインを強要していた時のものですね」

正幸は顔面蒼白になり、ソファの上で固まったまま、腰が抜けたようにピクリとも動かない。だが、録音は地獄のやり取りをただただ再生し続ける。姉のか細く途切れ途切れの声が聞こえた。

『正幸さん、やめて。これは私の両親が私に残してくれた… 大切な…

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その姉の懇願を、正幸は怒号で遮った。

『うるさい! いつまで親の亡霊にすがってるんだ? お前の親はもういないんだよ。いいから書け。俺の言うことが聞けないのか? 書かないなら、お前の治療費なんか俺は一切出さないからな。お前はこのままここで、誰にも看取られず、1人で苦しんで消えていくんだ。それでもいいのか?』

ガシャン! 何かが激しく壁に叩きつけられて割れる生々しい音に続き、義母の「キャー!」という悲鳴と、姉の息を飲むような、小さな恐怖に満ちた悲鳴がした。私はそこで再生を停止した。リビングは完全な静寂に包まれている。正幸と義母の荒い呼吸の音だけが響いている。

正幸は自分が発したはずの脅迫の言葉を改めて自分の耳で聞き、完全に言葉を失っていた。義母も、自分が息子の脅迫に積極的に加担していた事実を突きつけられ、幽霊でも見たかのように真っ青になっている。

「いかがですか? これも私が捏造したと?」
「ち、違う… こんな、こんなこと、私は言ってないわ!」
「そ、そうよ! 正幸! あなたが、あなたが無理やり… 」

義母は生き残るために、息子に全ての責任をなすりつけようと試みる。

「黙れ! お袋が、お袋がいつも煽るからだろうが!」

見苦しい責任のなすりつけ合いが始まった。その間に、正幸は最後の足掻きを思いついたようだ。彼は私を睨みつけた。

「そ、そうだ! こんなものを仕掛けやがって。これは犯罪だぞ! 証拠になんかなるものか!」

ようやく絞り出した反論は、あまりにも見苦しく、そして無知なものだった。私はその最後の蜘蛛の糸を、冷たく断ち切った。

「いいえ、違いますよ、正幸さん」

私はゆっくりと立ち上がり、2人を見下ろした。

「確かに、刑法上の住居侵入罪やプライバシーの侵害が問われるのは、第三者が当事者の会話を秘密に録音することです。ですが、これは違う」

私は正幸と義母の顔を交互に見ながら言った。

「これは、会話の当事者である姉が、自らの生命と財産、そして人間の尊厳を守るために、身の危険を感じて録音した証拠です。判例上も、このような密室での脅迫行為や自己の権利を防衛するための録音は、その必要性と緊急性が認められ、証拠能力が認められます。つまり、犯罪にはなりません」

私はボイスレコーダーを手に取り、それを2人に突きつけた。

「それどころか、これは法廷において、あなたたちの卑劣な行いを証明する極めて強力な証拠として採用されます。これは盗聴などではない。姉の命の記録です」

私はそこで言葉を切り、2人の絶望に染まった顔をゆっくりと見渡した。

「そ、そんな法律が… 」と、正幸はまだ現実を受け入れられない様子で呟いている。

「法律といえば、民法には相続欠格制度があります。ご存知ですか?」
「そ、相続欠格…

「ええ。そこには、相続人となるべき者が法的に相続権を失う場合が明確に定められています。その中の1つに、こうあります。『詐欺または脅迫によって、被相続人に遺言をさせ、または撤回させ、もしくは変更させたものは、相続権を失う』と」

私は正幸の目をまっすぐに見据えた。

「今、あなたが聞いたこの音声。あなたが姉に行った行為。『遺言書を書け』『書かないなら治療費は出さない』『1人で苦しんで消えろ』。あなたたちの発言は、脅迫そのものです」

正幸は、自分がしがみついていた法定相続という最後の砦が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。

「あなたは、姉の財産を相続する権利など、この音声がここに存在し、再生された時点で一切持っていません。あなたは姉の夫でありながら、法律上、完全に他人以下の存在なんです。そしてお母さん。あなたはそもそも相続人ではありませんが、この共同不法行為への積極的な加担、その責任は別の形できっちりと取っていただきますからね」
「そ、そんな法律が… そんなバカなことが… 」

義母はもはや論理的な否定ではなく、ただの感情的な否定を口にする。正幸は「相続欠格」という言葉の重みに完全に打ちのめされていた。自分が法律という武器を使おうとして、逆に法律によって全てを否定されたのだ。

「うるさい! そんなもん、お前が、お前が勝手に言ってるだけだろうが! 裁判だ! 裁判してやる! こんな脅迫の証拠が裁判所で通るものか!」

正幸は最後の力を振り絞ったかのように叫んだ。彼の手は怒りよりも恐怖によって、小刻みに震え続けている。

「裁判ですか? ええ、望むところです。この脅迫の証拠が法廷でどれほどの威力を持つか、あなた自身が体験してみるといい」

私はその哀れな犬の遠吠えを静かに受け流した。そして私は、目の前の2人に向かって、今日この場で初めて、深く、ゆっくりと頭を下げた。

「ですが、正幸さん、お母さん。あなたたちがこの数年間、姉に対して行ってきた全ての悪行については、姉の妹として、心から感謝申し上げます」
「は? 感謝ですって?」

私のあまりにも唐突な、そして場にそぐわない感謝の言葉に、2人は完全に思考が停止したようだった。

「ええ。もしあなたたちがここまで愚かで、強欲で、そして短絡的でなかったとしたら。もしあなたたちがもう少しだけ賢く、姉の心を尊重するフリでもしていたとしたら…」

私はゆっくりと顔を上げた。

「姉も、ここまでの完璧な準備を私に託してはくれなかったでしょうから」
「完璧な準備だと?」
「そう。あなたたちが『法定相続だ』とか『相続欠格だ』とかで騒いでいること自体、実はもうどうでもいいことなんです」

私はブリーフケースに手を入れ、公証役場の紋章が入った厳重な封筒を取り出した。

「な、なんだ? まだ何かあるっていうのか?」
「正幸さん、あなたは自筆証書遺言という紙切れを持ってきましたね。日付も筆跡も押印も、全てが出鱈目なゴミを。そして、私はあなたの相続欠格を証明する証拠を提示しました。ですが、この1枚の書類で、全てが決着します」

私はその封筒から、公証役場の認証印が押された書類の正本のコピーを取り出した。

「あなたたちは法律を何もご存知ないようなので、改めて教えて差し上げましょう。遺言にはいくつか種類がありますが、その中で最も強力な法律的効力を持ち、その存在自体がほぼ反論不可能とされる、最強の遺言形式があります」

私はその書類を2人の目の前のテーブルに滑らせた。

「これが、姉、彩子が自らの明確な意思で残した、公正証書遺言です」

「こ、公正証書… 」

2人はその言葉の意味さえも理解できないようだった。

「公正証書遺言。公証役場という国の機関で、2人以上の証人の立ち合いのもと、公証人が遺言者の意思を正確に聞き取って作成する、法的に完璧な遺言書です」

私は続けた。

「姉は、あなたたちに遺言書を書けと脅迫され始めてから、私に秘密の金庫の話をし、直後に公証役場に出向いていたのです。全ての証拠を揃え、2人の弁護士を証人として立ててね。あなたたちが行政書士と偽物の計画を練っている間、姉はたった1人で、この本物の法的な爆弾を用意していたのですよ」

私は「ご理解いただけましたか?」というように、2人を交互に眺めた。

「そして、この公正証書遺言が存在する以上、あなたたちが持ってきた自筆証書遺言は、全て法的に無効となります。つまり、何をしようが無駄だったってわけです」
「あ、あいつ…

いつの間に… そんなことを… 」
「じ、じゃあ、じゃあ、中身はなんて書いてあるのよ!」

義母が最後の望みをつぐかのように叫んだ。

「『遺言者 咲夜彩子は、遺言者の有する全財産を… 』」

2人が息を飲む。

「『遺言者の妹 咲夜正子に包括して遺贈する』」

時が止まった。リビングから音という音が消え去った。正幸も、今自分たちが聞いた日本語の意味を理解するのを拒否しているかのように、硬直していた。

「まさ子に…

全部だと? 俺は… 夫である俺には、一銭もないというのか?」
「ええ、ご理解の通り、ゼロです。この2億円の金融資産も、この広大な土地も、建物も。その全てを私に遺贈すると」
「そ、そんな… 遺留分があるはずだ! 夫には最低限もらえる遺留分という権利が!」

正幸が聞きかじった最後の法律用語にすがろうとする。

「ええ、ありますね。ですが、それも姉は想定済みです。読み上げますね」

私は遺言書の最後のページを開いた。

「付言事項。これは法的な効力はありませんが、遺言者がなぜこのような遺言を残したか、その理由を記す場所です」

私はそこに記された姉の最後の魂の叫びを、今度は感情を込めて読み上げた。

「『私が夫である咲夜正幸に一切の財産を相続させないように決断したのは、以下の理由による。正幸及びその母による長年にわたる嫌がらせ、及び私の特有財産に対する不当な恫喝行為があったためである。詳細は、私が遺言執行者に委託した証拠資料の通りである』」

私の声がリビングに響き渡る。正幸と義母は、もはや反論する力すらなく、私が読み上げる遺言の内容を、呆然とした状態で聞いていた。

それから、私はとどめを刺すように読み上げた。

「『妹よ。あなたに私の人生の後始末というあまりにも重い荷物を背負わせてしまうことを、心から謝罪します。どうか、私の最後の正義をあなたの手で執行してください。愛しています。彩子より』」

読み上げを終えた私は、静かに書類をテーブルに置いた。姉の最後の言葉が、重い鉄槌のように2人の頭頂に振り下ろされた。義母は「う、嘘よ」と呟き、途切れ途切れに言葉にならない声を漏らし始めた。

正幸は、遺留分という最後の希望が、姉の綿密な計画と法的な理由付けによって完全に断ち切られたことを悟っただろう。彼は力なく呟いた。

「こんなことが書いてあったら、裁判所は俺の遺留分減殺請求を認めない… 」
「その通りです、正幸さん。遺留分減殺請求は裁判で争うことはできますが、あなたの場合、相続欠格に該当するほどの明確な脅迫行為と、姉を精神的に弱らせるに至った証拠がはっきりと残っている。さらに、この付言事項は公正証書遺言という最も信頼性の高い形式で残されている。裁判官が、この証拠と姉の強い意思を無視してまで、あなたに最低限の財産を与えるとは思いませんね」

私はここでため息を1つついた。

「つまり、あなたたちは姉の残した資産2億円と広大な土地、そしてこの家に対しても、一切権利を持たない。持てないのです」

正幸はそれまで座っていたソファから崩れ落ち、床に膝をついた。絶望の底に沈む彼の顔は、まるで生きる屍のようだった。義母はもはや正幸を責めることしかできない。

「そ、そんな! どうするのよ! 私の老後の資金は! この家は! この土地は! 私たちの住む家はどうするの!?」
「お母さん、気が早いですね。あなた方の浅ましい計画と、姉の完璧な誠意の執行は、これで終わりではありません」

私はブリーフケースの奥から、今朝銀行で入手した別の書類を取り出した。

「ここからは、遺産を分ける話ではなく、あなたたちから取り立てる話に移ります」
「と、取り立てる?」

正幸が顔を上げ、怯えた目で私を見つめた。

「ええ。私はこの公正証書遺言により、姉の全財産を包括して相続した唯一の相続人であり、同時に全ての相続手続きを行う遺言執行者です。遺言執行者には、相続財産を保全し、不当に流用された財産を取り戻す法的な義務と権限があります」

私は、正幸と義母が最も聞きたくなかったであろう、次の請求内容を突きつけた。

「まず、あなたたちが姉の口座から勝手に支出した、あの派手な葬儀費用、約1000万円。これは遺言執行者である私の許可なく使われた不当利得です」
「そ、それは彩子のためにやったんだぞ!」
「はい、それはどうでもいいことです。そして、私が遺言執行者として銀行に口座の取引履歴の開示を求めた結果、衝撃の事実が判明しました」

私は銀行のロゴが入った明細のコピーをテーブルに広げた。

「正幸さん。姉が病院で息を引き取った、そのわずか2時間後。あなたは病院近くのコンビニのATMで、姉のキャッシュカードを使い、限度額の50万円を引き出していますね」
「あ、あ…

「なぜ、妻が亡くなった直後にATMに走ったのですか? これは法的に何と呼ばれる行為か、ご存知ですか? 窃盗です。私はこの現金引き出しの防犯カメラ映像を、すでに警察に提出済みです」

正幸は真っ青を通り越して土気色になった顔で、床に手をついた。

「そして、この1000万円の葬儀費用。私が銀行に連絡し口座を保全する直前に、ギリギリで決済されたようですが、これも姉の遺産を不当に流用したものです。遺言執行者である私の許可なく、相続財産から不当に支出されたこの1000万円。そして、あなたが盗んだこの50万円。これら全て、あなたが姉の財産から不当に得た不当利得として、利息を含めて返還していただきます」
「そ、そんな… 私にだって、そんな大金、払えるわけがないでしょ!」

義母が納得できないというように、大声でわめき出した。

「ええ、知っています。あなたたちの稼ぎでは無理でしょうね。だからこそ、話は次へと進みます」

私は、正幸と義母の未来を完全に断ち切る、最後の請求書を提示した。

「不当利得の返還請求は、まだ序章に過ぎません。本題は、あなたたちが姉の心と命を、どれほどの金額で償うかという話です」

私はブリーフケースから、A4サイズの分厚い書類の束を取り出した。表紙には「損害賠償請求書」とされている。

「そ、損害賠償?」
「ええ。あなたたちの長年にわたる嫌がらせ、そして脅迫行為は、姉の自己免疫疾患を悪化させ、結果として姉が亡くなるのを早めた。これは民法上の不法行為に該当します。私は弁護士として、そして姉の意思を継ぐ者として、あなたたち2人に対し、慰謝料請求訴訟を提起します」
「ひ、慰謝料なんて… 離婚するわけじゃないのに!」

義母が驚愕し、震えながらなんとか言葉を発した。

「離婚の慰謝料ではありません。生前の嫌がらせと、その結果として姉が早く亡くなってしまったことに対する損害賠償です」

私は、書類の総額が書かれたページを2人に見えるように向けた。

「請求金額は、慰謝料本体として合計3億5000万円です」

正幸と義母は、その途方もない金額に、呼吸すら忘れたように固まった。彼らが欲しがっていた遺産2億円を、はるかに超える額である。

「さ、3億… !? 冗談じゃない! 俺が、そんな、払えるわけがないだろう!」
「払えなくても、あなたの資産を差し押さえ、給与を差し押さえ、障害かけて返済していただきます。逃げることはできません」

正幸は口をパクパクさせているが、これ以上言葉が出てこない。

「この金額の根拠を説明しましょう。まず、慰謝料は主犯である正幸さんと、従犯であるお母さん、それぞれに請求します」

「ご理解いただけましたか?」というように、私は正幸と義母の顔を見た。

「正幸さん。あなたは夫という立場を利用し、金銭的な支配と肉体的、精神的な嫌がらせを行った。その行為の悪質性から、あなたへの責任割合を高く見積もります。あなたへの請求額は、2億5000万円」

呆然とする正幸から、私は義母に視線を移した。

「お母さん。あなたは姻族関係のない嫁の財産を姑として狙い、身体的な弱みにつけ込み、人格を否定し続けました。あなたへの請求額は、1億円です」
「1億…

!? 私は、私はただ、正幸がかわいそうだから… 」
「正幸がかわいそうという理由で、病気の人間を攻め続けたことが、この金額の根拠です。そして、この請求には、あの日記と音声記録、そして姉のカルテが、全て証拠として添えられます」

私は淀みなく言葉を続けた。

「裁判所は、あなたたちが姉に対して行った行為を、配偶者と姑による共同不法行為、つまり組織的な行為として認定するでしょう」
「俺たちの給料じゃ… 」

正幸は床に頭をすりつけて、涙を流している。

「あなたたちには、ゼロ以下の未来が待っているでしょう」

続けて、私はこの家と土地にまつわる、最も決定的な通告に移った。

「まだ終わりではありません。あなたたちが現在住んでいるこの一軒家。これは、あなた方の共有財産ではありませんね」
「な、何を今更… 土地は彩子が両親から相続した特有財産である。これは彩子の単独名義ですけれど、この土地の上にある建物は、彩子と俺が結婚後に建てた共有財産である。あなたはそう主張したいのでしょう?」
「そ、そうだ! 建物は俺との共有財産だ! 勝手に手をつけさせないぞ!」
「残念ですが、その主張も通りません」

私は「そんなことは無理だ」というように、何度か首を横に振った。

「この建物の購入資金は、正幸さんの稼ぎだけでは到底賄えないため、姉の特有財産である金融資産から、大部分が拠出されていますね。姉は生前、その資金提供の事実を示す銀行の振り込み記録と、『建物は実質的に私の特有財産と見なされるべき』という内容の詳細なメモを残していました」

私は判決を下すように、きっぱりと言った。

「つまり、この土地も建物も、実質的には全て姉の遺産。すなわち、遺言により私が相続した、私の財産ということになります」

私は、正幸と義母が住む家を合法的に奪い取る通告を突きつけた。

「呆然とした顔をした正幸と義母を、私はゆっくりと見つめた。私には相続財産を処分し、保全する権利があります。あなたたちには、この土地に対する賃貸借契約も、使用契約も存在しない。つまり、あなたたちは私の土地に不法に居住している状態になるということです。従って、私はあなたたちに、直ちにこの家を明け渡すことを請求します。建物についても、私に所有権があることを確認し、あなた方の権利を否定する訴訟を、直ちに提起します」

「あ、明け渡せ…

? それは、つまり、俺たちはこの家から追い出される… 」
「ええ。この家は、あなたが望んでいた通りにはなりません。もう2度と、あなたたちの安住の地にはなりえないでしょう。あなたたちは、この家を失い、3億5000万円の慰謝料を抱え、さらに違法な遺言書作成に関与した行政書士と共謀した罪まで問われることになります」

私は、正幸が最も恐れていた社会的制裁のカードも切った。

「さらに、正幸さんが遺言状作成のために接触した行政書士と、あなたの会社の人事部に対し、姉の遺言執行者である私の名前で、第三者からの情報開示請求を行うことを通告します。あなたの会社が、『妻の財産を脅し取ろうとし、妻を死なせてしまった社員』をどう評価するか。また、あなたが会社に対して、健康状態や家族関係について虚偽の申告をしていなかったか、徹底的に調査させていただきますよ」

正幸の顔は、もはや人間としての感情を失った獣のようだった。

「会社の調査だと!? ふざけるな! そんなことをしたら、俺は社会的に終わりだ! 俺の役員の地位が… !」
「地位ですか? 私の姉にしたことや、遺産を騙し取ろうとした人間の地位など、取るに足らないでしょう。私にとっては、あなたの社会的地位など、紙屑同然です」

正幸は顔を歪ませ、怒り、絶望、そして恐怖が入り混じった目で私を睨みつけた。その目つきは、もはや人間としての理性を失っている。

「お前… そこまでして、一体何がしたいんだ! どう考えても、やりすぎだろうが!」
「やりすぎ? いいえ。これは、あなたたちが姉にしたことの、正当な代償です。あなたたちは、姉の人生を、心を、そして命を奪った。その対価として、あなたたちの人生を全て奪い取ります。何か文句がありますか?」
「て、てめえ…

!」
「あなたには、何かを語る資格も権利もありません。不当利得と慰謝料の請求額は、合計3億6000万円。これを全額、直ちに支払っていただきます」

正幸は足を踏み鳴らしながら叫ぶ。

「払えるわけがないだろう! 俺の年収は1000万円に届くかどうかだ! 会社役員と言っても、親会社からの出向でしかない!」
「それはあなたの問題です。しかし、私にも慈悲の心がないわけではありません。ただし、支払いの義務を負うのはあなた1人ではない。正幸さん、お母さん。あなた方2人は、連帯債務者として、この3億6000万円の返済責任を負ってもらいます」
「れ、連帯… 」

正幸と義母は顔を見合わせた。

「ええ。どちらが支払っても構いませんが、どちらか一方が全額支払わなければ、債務は消えません。あなた方2人のうち、資産を持っている方が優先して返済することになります」

その瞬間、義母の顔色がさらに悪くなった。

「ま、正幸! あなたの資産があるじゃないの! 退職金は? 貯金は? いくらあるのよ!」
「うるさい! お袋には1円も関係ない話だ! 俺の資産にまで口を出すな!」
「『関係ない』ですって!? あんた、2億5000万円も請求されて、私が1億よ!? 私の老後の蓄えなんて、全部、完全に吹き飛ぶわ! あんたのせいよ! あんたが無能で、遺言の手続きをちゃんとしなかったから!」
「お袋がうるせえからだ!」

義母は立ち上がり、床に座り込んでいる正幸の肩を揺さぶった。

「あんたがもっと早く遺言書を書かせていれば! 公正証書なんて作る暇を与えなければ! 全部、あんたが無能のせいじゃないか!」

私は、2人が見苦しく罵り合う様を、覚めた目で眺めていた。これこそが、愛のない家庭が、金という餌を前に簡単に破滅する様、そのものだった。

「ここで争っていただいても、意味はありませんよ」

私は手に持っていた別の書類を、テーブルの上でスライドさせた。

「先ほど申し上げた、この土地の即時明け渡しについてです。遺言執行者として、私はすでに提訴の準備を終えています。土地の所有者である私が、不法に建っている建物、つまり今いるこの家ですね。それを撤去し、土地を元通りにして返すよう請求するという、強力な訴訟です」
「い、嫌! やめて! この家は、私たちの家よ! 長年住んできた家を、壊すなんて!」

義母は怯えた表情をしながら、震える声で訴えてきた。

「『長年住んだ』? そんなもの、何の関係もありません。あなたは自分の家だと思い込んでいますが、土地も建物も姉の財産。今は、私の財産です」

正幸は口を開きかけたが、言葉が出てこない。彼の会社での地位、母からの信頼、そして住み慣れた家。その全てが音を立てて崩壊していくのを、彼はただ見ていることしかできない。無力な男でしかなかった。

「あなたたちには、残された選択肢は2つしかありません」

私は人差し指と中指でピースを作って言った。

「1つ。この家を出て、法廷で私と徹底的に争い、全ての証拠と汚い企みを白日のもとにさらし、社会的な信用を完全に失うこと。2つ。この場で私が出した書類に署名し、全ての権利を放棄する代わりに、会社の秘匿を暴くことだけはやめること」

私はブリーフケースから最後の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。それは完璧な文面の合意書だった。

「期限は本日限り。これを拒否した場合、私はあなたの会社の代表取締役と、あの行政書士に、全ての証拠を送付します。決断しなさい。法的な破滅を選ぶか、社会的に終わるのを覚悟の上で争うか。それとも、この合意書にサインし、全ての屈辱を受け入れるか」

正幸は合意書に手を伸ばした。彼は自分の人生が終わる瞬間を、明確に理解していた。彼の顔は、憎しみと諦めと、そして自己保身という、最も見苦しい感情で満たされている。

「正幸! サインしちゃだめよ! サインしたら、全部あの女のものになるのよ! 私たちの借金は、どうやって返すの!?」

義母は顔色を変えて正幸に飛びかかろうとしたが、正幸はそれを振り払った。

「うるさい! お前のせいで、俺はもう終わりなんだ! 会社の信用がなくなったら、どうやって生きていくつもりだ? それこそ、どこにも雇ってもらえなくなって、俺は終わってしまうんだ!」

正幸は震える手でボールペンを取り、合意書の署名欄に、自分の名前を書きつけた。その筆跡は、まるで遺書かのように、ひどく乱れていた。

「成立です。これを持って、あなたたちは姉の遺産に対する一切の権利を放棄しました。また、不当利得及び慰謝料の請求に応じることを認めました。合意の内容に従い、この家の明け渡し期限は、本日より2週間後です。それまでに、必要な引っ越し道具と、あなた方の私物全てを運び出しなさい」
「た、たった2週間… ! どこへ行けというのよ!」
「それは、あなたたちが考えることです」

私は、正幸が署名した合意書をブリーフケースに丁寧に納めた。正幸はただ床に座り込み、天井を仰いでいる。義母は泣き叫びながら、私に向かって何かを叫び続けていたが、私にとってはどうでもいいことだ。

これで、姉の遺言執行は法的な面で完了した。あとは、この負債をどう回収するかという、実務的な問題だけだ。私は静かに立ち上がり、ブリーフケースを持ち上げた。

「正幸さん、お母さん。あなたたちがこの家と姉の生前の財産を狙ったことから始まったこの茶番は、あなた方が全てを失うことで終結しました。あなたたちが姉に与えた苦痛は、お金では償いきれないですが、あなたたちが何もかもを失い、3億以上の負債を抱え、生涯苦しみながら生きていかなければならない。これが、姉に対してやったことの代償です」

義母がわなわなと震えながら、正幸に向き直った。

「正幸! なぜサインしたのよ! 全部、この女の思い通りじゃない! 私の老後の生活は、どうなるの!?」
「うるさい! お袋のせいだろうが! あんたが煽ったからだ! それに、あんたが知らないことがある」

正幸は突如として、私と義母を交互に睨みつけた。彼の目は、恐怖による狂気に満ちていた。

「あいつは、彩子は、まだ何か隠している。俺が遺言書を偽造しようとしたこと以外にも、俺を滅ぼすための何かを… 」
「何を言っているの?」

私はそこで口を挟んだ。

「ほう。まだ何かお探しですか? 正幸さん。確かに、この家には姉の金庫があるようです」

私が静かに問いかけると、正幸の顔色が完全に変わった。私が金庫の全ての秘密を知っていると悟ったのだ。

「教えてくれ。あの金庫の鍵だ。鍵はどこにある?」
「鍵は、私が持っています」

私は鍵を取り出すと、正幸に投げ渡した。

「こんなに鍵が欲しいんですか? どうぞ」

正幸は鍵を掴むと、よろめきながら2階に駆け上がった。義母も慌てて彼を追う。数分後、階段から正幸の悲鳴のような声が響いた。

「嘘だ…

! こんなものが… ! なぜ… ! なぜ、あいつが… !」

正幸は階段を転げ落ちるようにリビングに戻ってきた。彼の手に握られていたのは、「夫へ」と書かれた手紙と、もう1つの銀行のロゴが入った分厚いファイルだった。

「お袋、見ろ。これだ! あの女が本当に隠していたものは、これなんだ!」

義母は震えながらファイルを開き、中身を見て絶句した。

「な、何これ? 『監査役への提出資料』?」
「そうだ! 彩子は、俺が遺言書を偽造しようとしただけじゃなく、俺の会社での全ての不正を把握していたんだ! いつからだ…

! 最初から… ! 俺を監視していたんだ!」

正幸は私を指さして叫んだ。

「お前! この証拠を盾に、俺に合意書にサインさせたんだな!」
「いいえ、違いますよ、正幸さん。私はあなたに、『合意書にサインしなければ、あなたの会社の秘密を暴く』と言っただけです。まさかそれが横領という、刑務所行きになるほどの秘密だとは、私も知りませんでしたが。姉は、あなたがどのように動いていたとしても、全てを手のひらで転がしていた。あなたを完全に破滅させるための証拠を、完全に掴んでいた。そういうわけです」

姉は本気で、正幸を徹底的に潰したかったのだろう。

「横領… ? そんなの、バレたら私たち、2人とも… 」

義母はもはや正幸の心配をするのではなく、自分自身の社会的評判と生活の安定が崩壊することに恐怖していた。

「サインしてよかったんだ。あれに…

俺は、刑務所行きを回避できたんだ」

正幸は、土砂降りの雨の中やっと屋根を見つけたような、情けない安堵の表情を見せた。彼は3億6000万円の負債と家の撤去の現実を前に、横領罪で逮捕されないことを唯一の勝利だと捉えている。義母は相変わらず正幸に対して怒鳴りつけ、それに対して「仕方がないだろう」と正幸が延々と言い続けていた。すでに私が提示した書類に正幸がサインした手前、弁護士として横領のことは言及できない。だが、彼らにはこれから、刑務所に入る以上の制裁が待っていることだろう。

もう、これ以上こんなところにいても無駄だ。私は言い合いを続けている2人を残して、帰宅したのだった。きっと彼らは私が去った後も、その横領の証拠と3億6000万円の負債を前に、互いを罵り合い、退去期限までの2週間を地獄のような日々として過ごしたに違いない。

そして、退去期限の朝。私は不動産鑑定士と建物の解体業者、そして2人の弁護士を伴い、姉の屋敷に到着した。屋敷の門前に立っていた正幸と義母は、私と顔を合わせるのが気まずいのか、俯いていた。彼らはわずか2週間で、肉体的にも精神的にも、見る影もないほど衰弱していた。

私は無表情で、鍵の引き渡しを求めた。

「正幸さん、お母さん。鍵の引き渡しをお願いします」

正幸は震える手で、私に鍵を差し出した。私は無表情で鍵を受け取り、弁護士と共に館の内部を最終確認する。屋敷は抜け殻となり、彼らは家財道具のほとんどを処分せざるを得なかったようだ。

義母はこらえきれず、私にすがりついた。

「まさこさん! お願い! お願いだから、この家を壊さないで! せめて、売却する前に… ! 私たちに、住むところを見つける猶予を… !」
「お母さん。あなたは、姉が病気で苦しんでいた時、『いつまで寝ているんだ』と、毛布をはぎ取りましたね。姉に猶予を与えず、その命を縮めたのは、あなたたちですよね。そんなことを言う資格は、あなたたちにはありません」

私は義母を冷たく突き放した。

「この建物は、直ちに解体業者によって取り壊されます。土地は私が売却し、財団の設立資金となります。あなた方には、この解体費用と、土地の明け渡し訴訟費用、そして3億6000万円の慰謝料が残っています。債務整理と残りの支払いについて、追って連絡します」

私は最後の通告を終えると、門扉に鍵をかけ、正幸と義母が2度と敷地内に入れないようにした。正幸と義母は、自分たちが長年自分たちの家だと思い込んでいた屋敷が、目の前で赤の他人の財産となり、その上で解体されるのを、ただ呆然と見ているしかなかった。

「正幸さん。最後に1つ。あなたに託した、裏金の証拠書類ですが」

正幸がビクッと反応した。

「私は、あなたの横領の事実を、あなたの会社に告発することはしません。合意書通りの実行です」

正幸はほっとしたような表情を見せた。

「ですが、あなたの会社に、『咲夜正幸が妻に嫌がらせを行った』という証拠を全て保有しているという内容の警告文だけは送付しました。『この社員の行為は、社会的な信用を失墜させる可能性があるため、当社においても適切な対処を求める』とね」
「け、警告…

?」
「ええ。これによって、会社はあなたを首にはしないでしょう。しかし、あなたは疑いの目で見られるはずです。昇進の機会もなくなり、社内では『妻の財産を騙し取ろうとした問題のある人間』というレッテルが貼られるはずです」

私は、正幸を見下すように見た。

「あなたは、横領罪で刑務所に入る代わりに、生きながらにして社会的な地獄を味わうことになった。これも、きっと姉が望んだ、あなたへの復讐かもしれませんね」

正幸はその場で全身から力が抜け、崩れ落ちた。彼は生かされながらも、全ての希望を奪われた状態だ。そして、それが姉に対してやった行為の報いである。

私はもう2人に見向きもせず、準備を終えた弁護士たちと共に、その場を去った。屋敷の門扉が閉ざされ、正幸と義母は、残されたダンボール箱と共に、自分たちへのゼロ以下の未来へと向かうしかなかった。

あの屋敷の門扉を閉めた後、私はすぐに弁護士としての仕事に戻った。彼らに感傷を持つ理由も、慈悲や情けをかける必要も、一切ない。彼らは私にとって、慰謝料という債務を負う管理対象に過ぎなかった。正幸と義母が住んでいた家は、私の指示通りすぐに解体された。解体作業が進むごとに、彼らが私に支払うべき負債の総額が、また積み重なっていく。彼らの人生全てが、私の計画通りに、文字通り粉砕されていった。

彼らがその後、どのような惨めな生活を送っているのか。私は直接彼らに会うことは2度としなかったが、彼らが逃げ出すことを防ぐため、債権回収を担当する調査員と、彼らの勤務先だった会社の人事部、そして彼らが生活を始めたアパートの近隣に対する情報収集を続けた。それは、姉の復讐を完了するための、最後の監視だった。

まず、正幸の会社での状態について。私の送った警告文は、彼が務めていた会社でかなりの効果を発揮する。彼は横領の罪は問われなかったが、社内での彼の扱いは、私の予想をはるかに超えて厳しくなった。「妻にやったひどい仕打ち」「会社の信用を失墜させかねない爆弾」というレッテルは、彼の周りの空気を凍らせた。彼は会社から、遠隔地にある誰も行きたがらない関連会社へと飛ばされる。給料こそ差し押さえを考慮して最低限保障されていたが、彼の昇進は永遠に停止され、誰も彼に仕事を振らなくなった。彼は午前9時から午後5時まで、自分のデスクに座り、誰とも口を聞かず、ただ時間を潰すだけの生ける屍となった。私の調査員が得た情報によれば、正幸は毎日、トイレで隠れて泣いているか、誰にも見られないように屋上から空を見上げているか、どちらかだという。かつて私にマウントを取り、姉を支配していたあの男が、社会の最下層で孤独に苛まれている。姉の心を殺した報いだ。

次に、義母の末路だ。義母は、自分の老後の蓄えが私への返済に当てられ、ほぼ底を尽きたことに耐えられなかった。義母は、正幸が連れて行った都心の外れにある築数十年の古いアパートでの生活を拒否する。「こんな汚い部屋に、私が住めるわけがない!」と。毎日正幸を責め続けた結果、正幸は耐えきれず、義母と絶縁した。私が目指した連帯債務者としての破滅は、まず彼らの家族関係を完全に破壊したのだ。

義母はかつての友人や親戚を頼ろうとしたが、彼らは皆、正幸と姉の相続トラブル、そして慰謝料請求の噂を聞きつけ、彼女から距離を置いた。「金目当てで嫁に嫌がらせした親子」というレッテルは、彼らの社会的な立場の低下を加速させた。義母は最終的に、生活保護を受けられる水準まで落ちぶれたが、プライドが許さず、パートとアルバイトをしながら古い公営住宅の一室に身を寄せたという。かつて私に「弁護士なら美味しいものを奢ってちょうだいよ」と言い放った傲慢な女性が、今はスーパーのレジ打ちの仕事につき、常に周りの目を気にする生活を送っている。

彼らの唯一の接点は、私が送り付けた、言い訳の余地のない債務の残高証明だけだ。彼らは一生、私という債権者から逃れられず、一生をかけて姉の慰謝料という負債を背負い続ける。その総額は、利息がつくことで彼らの返済能力をはるかに超え、決して完済することはないだろう。私は彼らの悲惨な現状を聞くたびに、姉の公正証書遺言に記されていた正義が、正しく執行されていることを実感した。彼らは財産を失っただけでなく、人間としての尊厳と、家族の絆も失った。もう、これ以上彼らに付け加えることは何もない。

正幸と義母が住んでいた家が解体され、さら地となった都心の一等地は、すぐに高額で売却された。売却益、姉の残した金融資産、そして正幸と義母から回収した慰謝料の一部を原資として、私は速やかに「彩子記念財団」を設立した。財団の目的は、嫌がらせによる精神疾患や自己免疫疾患で苦しむ人々への支援である。姉が晩年、最も必要としていた支援と安らぎを、その財産によって実現させたのだ。

財団のロゴは、姉が愛用していたアンティークの懐中時計をモチーフにしたデザインを採用した。懐中時計は法と正義を司る道具であり、同時に姉と私の絆の象徴でもある。私は財団の理事を、信頼できる法律事務所の代表に任せ、私自身は弁護士としての本業に集中することにした。

姉の意思を執行し終えた私の心は、かつてないほど澄み切っていた。法廷での私は、もはや若手のエースではない。あの泥沼の相続劇を経験したことで、私の論理の刃はさらに鋭さを増し、感情的な弁論の隙を一切与えない、冷静な精密さを持つようになった。特に、家庭内の嫌がらせを扱う案件では、私の存在は原告側にとって勝利の確約とまで言われるようになっていく。

ある日、私は姉を知っている同僚の弁護士から、こんな言葉をかけられた。

「彩子先生は、亡くなってなお、私たちに力を与え続けています。まさ子先生を見ていると、まるで彩子先生の強い部分だけが表出しているように感じる時があるんですよ」

私はその言葉を否定しなかった。姉の優しさゆえの弱さが、私の中で論理的な強さに消化されたのだと理解していたからだ。

仕事以外の私生活でも、大きな変化があった。私には、姉の生前に将来を見据えた交際をしていた相手、龍太がいる。彼は弁護士ではないが、誠実で穏やかな心の持ち主である。私が最も辛い時期、彼は何も聞かずにそばにいてくれた。私たちは財団設立が落ち着いた頃、静かに結婚した。豪華な式は必要ない。姉の存在を感じられるように、新居には姉が愛用していた小さな絵画を飾った。

龍太は私の仕事への情熱を理解してくれていた。

「まさ子がこんなにも強く、正しくあろうとするのは、彩子さんの残した光を守りたいからだろう。僕は、まさ子が疲れた時にそれを癒せるような場所になれればいいな」

彼の支えがあったからこそ、私は過去の重圧から解放され、前を向くことができた。私の生活は、穏やかな幸福に満ちていた。

そして、1年が経ったある秋の日。私はその日1日、仕事を完全に休み、東京郊外にある両親と姉が眠る霊園を訪れた。まずは両親の墓で手を合わせた。

「お父さん、お母さん、まさ子です。姉さんのことで、ご心配をおかけしました。でも、姉さんの最後の正義は、私が責任を持って執行しました」

私は正幸と義母の末路を両親に報告した。

「姉さんの残したお金は、姉さんの望んだ形で、困っている人のために使われています。2人とも、安心して休んでください」

そして、私は姉に語りかけた。

「姉さん、まさ子よ。財団は順調に運営されているわ。私たちが救えなかった、あなたのような人たちを、今、財団が救い始めている」

私はあの秘密の金庫から回収した、もう1つの手紙をポケットから取り出した。それは公証役場に持ち込まれた公正証書遺言とは別の、姉が私だけに宛てた、押印のない個人的な手紙だった。

「まさ子へ。もしあなたがこの手紙を読んでいるなら、全てが終わったということね。ありがとう。あなたの強さが、私の最後の願いを叶えてくれた」

私はその手紙を読み進める。

「まさ子、私をあなたの人生の影にしないで。あの男たちに時間を奪われた分、あなたの人生はもっと光に満ちていなければならない。あなたが自分の幸せのために全力で笑って生きてくれること。それが、私があなたに託した、最後の、そして最も大切な遺言よ」

私は涙をこらえられなかった。悲しみではない。それは、姉の愛と、自分自身の解放の涙だ。

「姉さん、分かったわ。約束する。私は、私の人生を全力で生きる」

私は手紙を静かに、墓石の横に置いた。

霊園を出た私は、龍太が待つ都心へと戻った。その日の夜、高級レストランの窓際の席に、私たちは座っていた。

「なんだか、顔がすっきりしてるよ」
「え? 姉さんの最後の遺言を受け取ってきたから。『自分の幸せのために生きろ』って」
「それこそが、彩子さんの最高のバトンだよ」

私たちは静かにグラスを合わせた。龍太は私に向かって優しく微笑む。

「さあ、まさ子、もう過去の重荷は下ろしたんだ。弁護士としてじゃない。プライベートを楽しもう。ただのまさ子としての人生を始めよう。思いっきりね」

私は心からの、偽りのない笑顔を浮かべた。

「ええ。始めるわ、私の人生を。そして、姉さんの分までね」

私は窓の外に広がる、瞬く東京の夜景を見つめた。あの街のどこかで、正幸と義母が惨めな生活を送っている。だが、その事実はもはや、私の人生の光を遮る影ではない。私は姉から託された正義という名の光を胸に、弁護士として、そして1人の女性として、力強く、輝かしい未来へと歩み出していく。