空港のベンチで缶コーヒーを飲んでいたら、突然、目の前で女性が崩れ落ちました。脈なし。唇は紫。私は医者ですが、名乗る前に体が動いていました。心臓マッサージをしながら、夫に「妻の手を握って、名前を呼んであげてください」と伝えました。9分後、女性の脈が戻りました。名前を聞かれましたが、答えずにその場を去りました。それから1週間後、診療所に3人の訪問者が現れました。先頭の男は泣き崩れ、もう1人の女性…

空港のベンチで缶コーヒーを飲んでいたら、突然、目の前で女性が崩れ落ちました。脈なし。唇は紫。私は医者ですが、名乗る前に体が動いていました。心臓マッサージをしながら、夫に「妻の手を握って、名前を呼んであげてください」と伝えました。9分後、女性の脈が戻りました。名前を聞かれましたが、答えずにその場を去りました。それから1週間後、診療所に3人の訪問者が現れました。先頭の男は泣き崩れ、もう1人の女性...

羽田空港の第2ターミナル、夕方の搭乗ロビーは旅行客と出張サラリーマンで混み合っていた。アナウンスが流れ、キャリーバッグの車輪が床を鳴らす。俺はベンチに腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。飛行機が滑走路をゆっくり動いていく。

俺の名前は朝倉誠。55歳。山の小さな診療所の院長をしている。今日は久しぶりに東京で開かれた学会に呼ばれ、その帰りだった。翌朝にはまた村に戻って外来に立つ。都会の空気は疲れる。早く家に帰りたい。それだけを考えていた。

その時だった。少し離れたベンチの方から鈍い音が聞こえた。振り向くと、中年の女性が床に崩れ落ちるところだった。隣に立っていた同年代の男性が慌てて膝をつく。

「おい、しっかりしろ。おい!」

男の声が裏返っていた。周囲の人間が一斉に立ち止まり、ざわめき始める。誰かがスマホを掲げ、誰かが「大丈夫ですか」と繰り返している。だが、誰も女性の体に触れようとはしなかった。

俺は缶コーヒーをベンチに置き、立ち上がった。人の輪をかき分け、女性の傍らに膝をつく。

「医者です。見させてください。」

短くそう言って、俺は女性の頚動脈に指を当てた。脈がない。唇の色が急速に紫色に変わりつつあった。時計を見る。午後6時42分。

「心臓マッサージを始めます。誰かAEDを持ってきてください。」

声を張ると、輪の外にいた若い制服姿の女性職員が走り出した。俺は女性の胸に両手を重ね、体重をかけて圧迫を始めた。汗が額から落ちる。男性がすがるように俺の顔を覗き込んでいた。

「妻です。妻なんです。先生、助けてください。頼みます。」

「大丈夫です。今、心臓を動かしていますから。奥さんの手を握って、名前を呼んであげてください。」

男性は震える手で妻の手を握り、名前を呼び続けた。俺の意識は指先から伝わる骨の感触だけに集中していた。

少ししてAEDが届いた。だが、その前に俺の中では診断が進んでいた。脈の張り方、波形の具合、そして倒れる直前の男性の証言。「胸が痛い」と言った直後の心停止。高範囲の心筋梗塞。このタイプはAEDだけでは戻らない可能性が高い。

機械が「ショックが必要です」と告げる。俺は周囲に離れるよう合図し、ボタンを押した。女性の体が小さく跳ねる。すぐに胸骨圧迫を再開する。1分、2分。そして3度目のショックを終えたところで、指先にかすかな脈が戻った。女性の胸が小さく上下する。唇にわずかな赤みがさす。

「戻りました。呼吸もあります。」

輪の中で誰かが「良かった」と呟き、誰かが泣いていた。男性は妻の手を握ったまま、何度も何度も頭を下げていた。

「先生、先生、ありがとうございます。ありがとうございます。」

「まだ油断できません。すぐに搬送が必要です。空港のクリニックには連絡は入ってますか?」

そう言った時、遠くから走ってくる足音が聞こえた。救急隊員だった。俺は簡潔に状況を伝える。

「50代の女性。心停止からの蘇生後です。おそらく急性心筋梗塞の左前下行枝を疑っています。」

救急隊員は一瞬、俺の顔を見た。言葉の的確さに戸惑ったようだった。だが、すぐに無言で小さく頷き、担架を寄せる。女性が運ばれていく。男性は担架の脇を追いかけながら、途中で振り返った。

「先生、お名前を。せめてお名前だけでも教えてください。」

俺は答えなかった。軽く手を上げただけで背を向け、ベンチに戻った。腕時計を見る。6時51分。たった9分の出来事だった。

俺は汗を拭い、缶コーヒーを一口飲んだ。搭乗案内のアナウンスが流れた。機内に乗り込めば、後は寝てしまえばいい。そう思って腰を上げた時、目の前に1人の女性が立っていた。スーツ姿の30前後の女だった。疲れた顔をしているが、目だけは強い光を宿していた。

彼女は俺をまっすぐに見て頭を下げた。

「失礼します。先ほどの処置、拝見していました。私も医師です。」

俺は黙って彼女を見た。名乗るべきかどうか、一瞬迷った。

「霧谷美里と申します。都内の大学病院で循環器内科をしております。あの、正直に申し上げますと、私も駆け寄ろうとしたんです。でも、足が動かなかったんです。」

彼女の声はわずかに震えていた。

「大学病院で毎日カテーテルをやっています。ICUでの急変にも慣れているつもりでした。それなのに、あの場で私は一歩も動けなかった。先生の判断の速さも、その後の動き方も、私にはできませんでした。」

「場所が違うだけです。病院なら、あなたも動けたはずですよ。」

俺は短くそう言った。本心だった。病院の中と、むき出しの現場では、体の動き方がまるで違う。それを責める気は全くなかった。

「差し支えなければ、お名前を教えていただけませんか?せめて、どちらの先生かだけでも。」

俺は少し迷ってから答えた。

「朝倉と申します。山の方で小さな診療所をやっている、ただの町医者です。」

「診療所ですか?」

彼女はきょとんとした顔をした。無理もない。今の処置は、町の診療所の医者がする動きではなかった。そう自分でも思う。けれど、それが俺の全てだった。

「飛行機の時間が来ましたので、失礼します。あの、奥さんは助かりますよ。あなたが後ろで見ていてくれたことも、心強かった。」

俺はもう1度小さく頭を下げ、搭乗口へ向かった。背中に彼女の視線を感じた。振り返らなかった。

飛行機の窓から、暮れかけた東京の町を見下ろす。家に帰れば妻の真帆と娘のひなが待っている。ひなは玄関まで走ってきて飛びついてくるだろう。「父さん、お帰り」と。俺は目を閉じた。飛行機が雲を抜けていく音が、遠くに聞こえていた。

翌週の月曜日、午前7時。都内の名門大学病院、循環器内科の医局は朝から騒がしかった。週明けのカンファレンスを控え、若手医師たちが症例のスライドを準備している。

その一角で、霧谷美里は自分のデスクに肘をつき、じっとパソコンの画面を見つめていた。画面には、空港で運ばれてきた女性患者のカルテが映っている。搬送先は、霧谷が務めるこの大学病院だった。緊急カテーテルで無事にステント留置が完了し、女性は今、一般病棟で回復している。

主治医の欄には、准教授の宮田高一郎の名があった。霧谷はカルテの搬送記録の項目をもう1度スクロールした。そこにはこう書かれている。「羽田空港ロビーにて心停止。たまたま居合わせた医師により蘇生処置。氏名不詳」。名前は記されていなかった。

「朝倉先生……」

小さくついた自分の声に、少し驚いた。あの日から1週間、頭の片隅にずっとあの後ろ姿がある。空港ロビーで迷いなく膝をつき、迷いなく胸骨を押し、迷いなく診断を告げた男。自分は動けなかった。その事実が、胸の奥で刺さり続けている。

霧谷は、循環器内科の中でも特に評価の高い若手だった。論文数、症例数、どれを取っても同期の中で頭1つ抜けている。教授からも「次のポストを狙え」と言われ、目標は明確に定まっていた。そのつもりだった。それなのに、この1週間、迷っていた。自分は本当に医者なのか。そんな問いが勝手に浮かんでは消える。

「霧谷先生、少しいいかな?」

顔を上げると、准教授の宮田が立っていた。43歳。若くして准教授になった、この医局のエースだ。物腰は柔らかいが、目は鋭い。

「はい。」

「先週、羽田で運ばれてきた例の患者さんね。ご主人からお話を聞いたんだが、その場に居合わせた医師の名前が朝倉だったそうだ。」

霧谷は息を止めた。

「山の診療所の先生だと名乗ったそうだが、心当たりはないか?あなた、あの現場にいたと聞いたが。」

「はい。お会いしました。朝倉先生と、確かに名乗られました。山の診療所の院長だと。」

宮は少し間を置いた。それから、静かな声で言った。

「もしかして、朝倉誠先生か?」

宮は自分のデスクの椅子を引き寄せ、霧谷の隣に腰を下ろした。他の医師たちはそれぞれ画面に向かっている。

「霧谷先生、朝倉誠という名前を聞いて、何も思い出さないか?」

「申し訳ありません。存じ上げなくて。」

「無理もない。もう15年以上、表舞台には出ていない先生だからな。」

宮は少し笑った。懐かしむような、そんな笑い方だった。

「私が研修医だった頃、短い間だがアメリカに留学していた時期があった。ボストンの医療センターで、日本人の指導医が1人だけいた。それが朝倉先生だ。当時、40歳になるかならないかで、すでに世界的な評価を受けていた。」

「画期的な冠動脈の解剖学的研究でね。彼の論文を読んでいない循環器の医師はいない。少なくとも、私の世代はそうだ。名前を出せば、誰もが知っている。ただ、ある日突然、日本に帰ると言って、それきり学会にも姿を見せなくなった。」

霧谷は言葉を失った。あの山の診療所の医者だと名乗った男。穏やかで、名を告げるのを嫌がっていたあの男。

「私は1度だけ、朝倉先生に診断を見てもらったことがある。難しい患者だった。誰も診断がつかなかった。朝倉先生は5分と見ずに『これは攣縮を伴う微小血管障害だ』と言い切った。検査結果は、その通りだった。」

宮は自分の手のひらを見つめていた。

「私はその時、医者になって初めて震えたよ。技術じゃない。あの人は患者の顔を見て、話を聞いて、それだけで見えている世界が違うんだ。以来、私は朝倉先生を師匠だと思ってきた。もう一度お会いしたくて、ずっと探してきた。」

「宮先生が、探されていたんですか?」

「ハーバードからもロンドンからも、何度もスカウトの話があったと聞いている。厚労省の要職の話もあった。全て断って、いなくなったんだ。理由は誰も知らない。」

宮は顔を上げた。

「霧谷先生、朝倉先生はどこの診療所とおっしゃっていたんだ?」

「山の方で、小さな診療所としか。」

「そうか。あの先生らしいな。」

宮は静かに笑った。

「もし場所が分かったら、私に教えてくれないか?無理は言わない。押しかけるつもりもない。ただ、生きているうちにもう一度お礼を言いたいんだ。」

同じ日の午後、病棟のナースステーションの前で、原田譲二は深々と頭を下げていた。58歳。白髪が目立つ、穏やかな男だ。妻の佳子は今日から一般病棟に移り、面会が可能になったばかりだった。

「本当に、本当にありがとうございました。宮先生、看護師の皆さん。皆さんのおかげで、妻は……」

「顔をあげてください、原田さん。まだ油断はできませんが、経過は良好です。ここまで戻ってこられたのは、何より現場での初期対応が完璧だったからです。」

原田はその言葉に大きく頷いた。

「その先生のことなんです。宮田先生、私、どうしてもあの先生を探したいんです。名前は朝倉先生。それしか分からないんです。」

宮田は彼の顔をじっと見た。

「朝倉先生は、現場で何かおっしゃっていましたか?」

「はい。心臓マッサージをしながら、私に『妻の手を握れ。名前を呼んでやれ』と、そう言ってくださったんです。私は情けないことに、震えるばかりで何もできませんでした。それなのに、あの先生は私にできることを与えてくださった。」

原田の目が涙で滲んだ。

「救急車が来て、妻が運ばれていって。私は先生に名前を聞こうとしたんです。せめて、どこかの病院の方かだけでも。そうしたら、あの先生は軽く手を上げて、そのまま行ってしまわれて。私はお礼の1つも言えていないんです。」

宮は静かに聞いていた。

「原田さん、実は私も、その朝倉先生を昔から存じ上げているかもしれません。まだ確証はありませんが、もしその方なら、山の方で診療所をされているはずです。」

「山の診療所……そういえば、あの先生もそうおっしゃっていました。『山の方で小さな診療所』と。宮田先生、教えてください。どちらの診療所でしょうか?」

「今調べているところです。分かり次第、必ずお伝えします。ただ、原田さん、1つだけお願いがあります。」

「はい。何でしょう?」

「朝倉先生は、名乗ることも、感謝されることも望まれない方だと思います。もし場所が分かっても、押しかけるのではなく、ご本人のご都合を伺ってからにしてください。あの先生は、それだけのお方なんです。」

原田は深く頷いた。

「分かりました。ただ、この命を救ってくださったお礼だけは、いつか必ずこの口で申し上げたい。それだけなんです。」

霧谷は、ナースステーションの影からその光景を見ていた。

10月が終わり、山合の村は朝から冷え込んでいた。朝倉診療所は、集落の中ほど、川沿いの細い道を上がったところにある。築40年の木造の建物で、看板の文字も少し掠れている。待合室には、いつもの顔ぶれが並んでいた。腰の痛い女性、風気味の子供、付き添いの母親。俺は白衣の袖をまくり、いつも通り診察を進めていた。

村での俺は、ただの朝倉先生だ。学会でのドクター・アサクラではない。

昼過ぎ、最後の患者を送り出した時、玄関の引き戸が控えめに開いた。妻の真帆が受付から顔を上げる。

「あの、失礼ですが、今日の予約の方でしょうか?」

聞こえてきた声に、俺は手を止めた。

「いえ、患者ではないんです。突然申し訳ありません。朝倉先生に、どうしてもお会いしたくて。」

聞き覚えのある声だった。俺は診察室から待合室に出た。玄関に3人の男女が立っている。先頭にあの日の男。その後ろに霧谷美里。そして、もう1人、40代半ばの見覚えのある顔があった。

「朝倉先生、ご無沙汰しております。宮田です。15年前、ボストンで1度だけ。」

俺はその顔を見た。名前はすぐに思い出した。真面目な若い研修医だった。質問の仕方に鋭いものがあった。

「宮田君か。よくここが分かったな。」

「霧谷先生から『山の診療所』だけ伺いまして、あとは手がかりを辿って。」

原田は俺の顔を見た瞬間、何も言えずにその場で膝をついた。真帆が慌てて駆け寄る。

「先生、あの日は本当に、本当にありがとうございました。妻はおかげ様で退院いたしました。」

肩が震えていた。俺はしばらく黙って、それから穏やかに声をかけた。

「立ってください、原田さん。奥さんが退院されたなら、それが一番です。私はただ、あの場に居合わせただけです。」

「居合わせただけの方が、あんな処置はできません。宮先生から伺いました。先生がどういう方か。」

俺は宮田を見た。宮田は少し肩をすくめ、申し訳なさそうに頭を下げた。

「余計なことを申し上げたかもしれません。ただ、原田さんは先生にお礼を伝えるために、ずっと探し続けておられました。」

俺は3人を、診察室の隣の小さな茶の間に通した。真帆が茶を入れて出てくれる。古い柱時計が鳴っていた。

原田は、妻が今どんな様子か、孫がどれだけ喜んだか、そういった話を1つ1つ噛みしめるように話した。俺は黙って聞いていた。命が助かるというのは、こういうことだ。1人の女性の、これからの何十年かの朝ご飯であり、孫の運動会であり、夫との夕方の散歩だ。それを取り戻せたのなら、俺が医者になった甲斐がある。

一通り話し終えたところで、霧谷が口を開いた。

「朝倉先生、あの日、私は先生に『なぜ動けなかったのか』とずっと考えていました。技術の問題ではないと、今は分かります。私は患者さんではなく、自分の評価を見ていたんです。失敗したくない。間違えたくない。そう思った瞬間に、足が止まりました。」

霧谷は膝の上で両手を握っていた。

「先生はあの場で、患者さんしか見ていませんでした。私はそれが悔しくて、羨ましくて。教授になることを目標にしてきましたが、私は何のために医者になったのか、分からなくなっていました。」

俺はしばらく考えた。

「霧谷先生、動けなかった自分を責める必要はありません。あの場で止まったのは、あなたが真面目だからです。真面目な人ほど、責任の重さを知っている。それは悪いことではないんですよ。」

霧谷は顔を上げた。

「教授を目指すことも、立派な志です。ただ、目の前の1人を見るという気持ちだけは、忘れないで欲しい。肩書きは患者さんには関係ない。私に見えているのは、それだけです。」

霧谷はゆっくりと頷いた。目に涙が浮かんでいた。

次に、宮田が姿勢を正した。

「朝倉先生、15年間、ずっとお伺いしたかったことがあります。先生ほどの方が、なぜ日本のこの山に。ハーバードの依頼も、厚労省も、全て断られたと聞いています。無礼を承知で、教えていただけませんか?」

俺は少し笑った。真帆が廊下の向こうからこちらを見ていた。その視線は、「話していい」と静かに背中を押すものだった。

「宮田君、私が留学していた頃、日本の父が倒れてね。田舎でね。近くに医者がいなくて、間に合わなかったんだ。父は村の診療所の待合室で亡くなった。私が世界の先端で論文を書いている間に、父は村で医者を待って死んだ。」

3人が息を飲む気配がした。

「その頃、ちょうど娘が生まれた。妻と話して決めたんだよ。世界の何百万人を救う医者もいれば、目の前の何百人を最後まで見る医者もいる。私は後者を選んだ。それだけの話です。」

宮田は深く頭を下げた。

その時、玄関で元気な声がした。

「ただいまー。お父さん、いる?」

小学校から帰ってきたひなだった。ランドセルを背負ったまま、大きい声を出す。知らない3人の大人がいるのを見て、少しびっくりした顔をしたが、すぐにぺこりと頭を下げた。

「こんにちは。朝倉ひなです。9歳です。」

原田が目を細めてひなを見た。その目には、また涙が滲んでいた。

「ひな、こちらはお父さんの昔からの知り合いだ。」

「お父さんのお友達?」

宮田が少し慌てて答えた。

「はい。お父さんは、私にとってとても大切な先生なんです。」

「先生?お父さん、先生なの?患者さんに優しいお医者さんじゃなくて?」

その言葉に、霧谷がたまらないというように口元を押さえた。宮田は少し笑って、目尻を拭った。

「両方ですよ。お父さんは患者さんにとても優しいお医者さんで、私の大切な先生でもあるんです。」

「うん。じゃあ、お父さんはすごいんだね。」

俺は何も言わずに、ひなの頭に手を置いた。真帆が廊下の柱に持たれ、静かに微笑んでいる。15年前、2人で交わした約束の答えが、この小さな娘の一言に全て詰まっている気がした。

原田がゆっくりと立ち上がり、もう1度深く頭を下げた。

「先生、お礼はこれで十分でしょうか?私はこれ以上、先生の暮らしを邪魔したくないんです。ただ、一言直接お礼を申し上げたかった。それだけで、私は十分です。」

「十分ですよ、原田さん。奥さんにくれぐれもよろしく。無理をさせないように。お薬はきちんと飲むように、お伝えください。」

原田は何度も頷いていた。

3人が診療所を出る時、山の日はもう傾きかけていた。宮田が振り返って俺に一礼した。霧谷は深く、長く頭を下げた。その背中は、来た時よりもまっすぐ伸びていた。

引き戸が閉まる。待合室に静けさが戻る。真帆が湯飲みを片付けながら、独り言のように呟いた。

「あなた、いいお顔していましたよ。」

俺は答えなかった。ひなが俺の白衣の裾を引っ張った。

「お父さん、今日の晩ご飯、何?」

俺は娘の手を握り、窓の外を見た。山の稜線が夕日に染まっていく。遠くで鳥が1羽、ねぐらへ帰っていくのが見えた。

明日も外来がある。それでいい。それが、俺の選んだ道だ。

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