あの日、私が新人の頃から可愛がってきた後輩に「うるせえババアだな」と言われた時、まさか銀行全体を巻き込む騒動になるなんて思いもしなかった。頭取の息子という肩書きを持つ彼は、私が接客を注意した翌日から、書類を全部押し付けてくるようになったんだ。毎日毎日、ミスばかりの書類の山。職場の雰囲気は最悪で、私は早期退職を決意した。それなのに、退職した後に相次ぐ解約の電話。その原因が「私を辞めさせたのはあ…

あの日、私が新人の頃から可愛がってきた後輩に「うるせえババアだな」と言われた時、まさか銀行全体を巻き込む騒動になるなんて思いもしなかった。頭取の息子という肩書きを持つ彼は、私が接客を注意した翌日から、書類を全部押し付けてくるようになったんだ。毎日毎日、ミスばかりの書類の山。職場の雰囲気は最悪で、私は早期退職を決意した。それなのに、退職した後に相次ぐ解約の電話。その原因が「私を辞めさせたのはあ...

いちいち口出ししてこないでくれない?私がこの銀行の後継者なの、知ってるでしょ?脳なしの駒が偉そうにしないでよ。

私に仕事のことで注意された、頭取の息子。杉本は声を荒げた。そして翌日から、私への嫌がらせが始まった。

「うるせえババアだな。俺に文句あんのか?」

私だけじゃなく、銀行の雰囲気も悪くなっていった。心をすり減らした私は、早期退職を決意する。その時、銀行の頭取が姿を現し、息子に一喝した。

「馬鹿者が。この方がな」

頭取の言葉に、杉本は絶句することになる。

私は野口鈴、六十数年以上になる銀行員だ。人と接することが好きだった私は、短大を卒業した後、昔から地元の人たちに親しまれている地方銀行に就職した。当時の女性は結婚したら退職して専業主婦になるものだと言われていたけれど、私は仕事が大好きだったので、結婚後もずっと働き続けている。

そのおかげか、顔見知りのお客様も増えて、大切な資産を預けてくださるだけでなく、ちょっと近くに用事があったからと、わざわざ顔を見せてくださる方も多かった。後輩たちもいい子ばかりだ。誰もがお客様のことを思って一生懸命に仕事をしているので、私はこの職場が大好きだった。そして、ありがたいことに私が仕事を続けられているのは、夫のおかげでもあった。ずっと共働きだった夫は、定年を迎えて退職した後は、働く私のサポートをしながら家事を引き受けてくれている。

そんなある日、うちの支店に頭取のご子息が課長補佐として赴任してきた。なぜ支店に、という疑問はもちろん、そもそも存在しない課長補佐という肩書きが皆の話題の的だった。やはりご子息は海外の大学を卒業し、その後本社で研修を受けてすぐにこの支店に配属されたらしい。本来は平社員の扱いだが、低裁を気にして急遽課長補佐という肩書きを用意したのでは、という憶測が飛び交っていた。

「本日より配属されました杉本孝介です。至らない点も多々あるかと思いますが、精一杯頑張りますので、皆様ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

憶測から抱いていたイメージとは違い、ご子息本人は爽やかで元気な、気持ちのいい青年だった。彼なら一緒に仕事がしていけると、職場の誰もが歓迎していた。杉本は研修で学んだことを実践したいと窓口の仕事に対して意欲的だったので、やる気のある姿を見た皆も杉本をサポートしていこうと、とても良い一体感が生まれていた。彼は優秀で、基本的な知識はすでに覚えていたため、赴任から数日で窓口に立つようになった。明るい挨拶で常連さんからも温かい言葉をもらっていたので、私も安心して窓口を任せることができていた。

しかし、杉本に窓口を任せて皆でサポートするという体制が馴染み始めた頃、雲行きが怪しくなってきた。

「あの、鈴さん、杉本さんなんですけど、ちょっと注意した方がいいんじゃないのかなって」

杉本をサポートしていた社員たちが揃って、彼の接客態度について愚痴をこぼしてくるようになったのだ。その時は明るく元気に、特に問題なくこなしていたので、皆の話を疑うわけではなかったけれど、問題がある接客姿というのがいまいちピンとこなかった。安心半分のまましばらく杉本の接客を見守っていても、特に問題はなく、世間話で盛り上がるほどお客様と親しくなっている様子が伺える。順調に手続きを済ませていく杉本の様子を見た限り大丈夫そうで、皆の気にしすぎかなと思い始めた頃だった。

「こんにちは。今日はこれをお願いね」

窓口にやってきたのは常連の佐々木さんだ。佐々木さんはもうすぐ九十歳になられるのに、背筋がシャキッと伸びた女性で、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。健康のために散歩していると言って、週に二、三回はご来店くださる方だった。

「かしこまりました」

爽やかな笑顔を浮かべた杉本が、佐々木さんから通帳を預かり、スムーズに入金処理を終える。特に問題もなく手続きが終わりそうだなと安心した時だった。

「ところで佐々木さん、このお金もったいないですよ」

と、通帳の残高を指差しながら唐突に言った。

「せっかくあるんだから、こっちの方にお金移しませんか?」

そう言って杉本が差し出したのは、投資のパンフレットだった。

「ちょっとお金を置いておく場所を変えるだけですよ。せっかくだから今日手続きしちゃいましょう」

と、佐々木さんの話を聞かずに強引に話を進めてしまう。少し困ったように言う佐々木さんを気にするそぶりも見せない杉本の接客態度に、さすがにまずいと思った私は、横から二人に声をかけた。

「こんにちは。佐々木さん。ご来店ありがとうございます」

「あら、野口さん、こんにちは」

ほっとしたように笑う佐々木さんとは対象的に、杉本の顔からは爽やかな笑顔が消えている。私は杉本が進めていた商品も良い商品であるとフォローしつつ、運用リスクなどもしっかり伝え、後日ご家族と一緒にご覧いただく予約を受け付けた。いくら十分な運用資産があるとはいえ、ご高齢の方へリスクのある商品を考慮期間を設けずに販売するわけにはいかない。

ひとまず揉め事へ発展しなかったことに胸を撫で下ろしていると、杉本は少し不機嫌そうな顔をしていた。私は意を決して杉本に声をかけた。

「杉本君、さっきは割り込んでごめんなさい。でも、そのことで少し話があるんだけど」

「何ですか?」

私よりも背が高い杉本に見下ろされると、それだけでおじ気づいてしまう。あの、その、さっきの投資商品の、そう言い終わらないうちに、杉本は大きなため息をついて私の話を遮った。

「今忙しいんで、そういうのは後にしてください」

めんどくさそうに言うと、杉本は話は終わりとばかりにさっさと窓口へ戻ってしまう。このままではお客様にとっても社員たちにとっても良くないと思った私は、もう一度だけ杉本に注意してみようと考えた。翌日、人のいない休憩室に杉本を呼び出した。やってきた杉本は不機嫌そうに、何ですか、と見下ろしてくる。

「杉本君はいつも一生懸命に取り組んでくれてるよね。とても素晴らしいなって思ってます。ただ、昨日みたいに少し強引だと、お客様も困ってしまうでしょ。だから、もう少しお客様に寄り添って」

と言いかけたところで、再び大きなため息に話は遮られた。

「あのさあ、昨日もそうだけど何なの? いちいち口出ししてこないでくれない? 俺がこの銀行の後継者なの知ってるでしょ? 俺には客がどうとか関係ないのよ。業績上げなきゃ、会社としてやってけないからさ。だから金持ってるやつにはどんどん預けてもらわないと、こっちが困るんだよね。俺は銀行の次期トップとして会社全体を見なきゃいけないの。あんたらみたいにお気楽に客と話し込んでるだけってわけにもいかないんだわ。わかる? 脳なしの駒と一緒にすんなよ。あんたらはいいよね。いるだけでお金もらえるんだからさ」

冷たい目をしている杉本に、私は混乱してうまく言葉が出てこない。それでも、やっぱりお客様をないがしろにする彼の発言は見逃せなかった。

「え、で、でも、お客様に」

「うるせえババアだな。俺に文句あんのか?」

大きな声を出されて、びくりと肩が震えてしまう。縮こまる私を見て、杉本は「あんた、目障りなんだよ」と今にも吐き捨てそうに言った。何も言えずにいる私に舌打ち一つこぼして、彼は荒々しく休憩室を出ていってしまう。静まり返った部屋に取り残された私は、杉本の言葉よりもその考え方にショックを受けた。今まで見てきた明るく元気で仕事熱心な彼は、本当の彼ではなかったんだろうか。

そう思った私を待っていたのは、杉本からの嫌がらせだった。

「野口さん、これお願いします」

そう言って渡されたのは、杉本が担当したお客様の書類束だった。基本的に担当者が処理をして他の社員がチェックするという流れだが、杉本は未処理の書類を全て私へと回してきた。やり方まだ分かんないんで、と言うが、昨日までは彼一人できちんと処理をしていたので、分からないはずはない。だけど、じゃあ俺は次のお客さん呼ぶんで、と言われてしまえば引き受けるしかなかった。簡単な処理とはいえ数が多い上に、私が担当した案件ではないので記載事項に漏れがないかなど細かくチェックをしなくてはならない。ようやく終わりが見えてきた頃になると、またこれもお願いしますと杉本が笑顔で書類の束を追加してくる。他の社員も手伝ってくれたものの、それぞれ接客や自分の業務があるので、なかなか作業が進まず、私が自分の仕事に着手できたのは夕方だった。

それから杉本は毎日私のところへ書類を持ってくるようになった。おかげで私の仕事はたまる一方で、残業だけでは間に合わないためいつもより出勤時間も早くずらしたけど、処理は追いつかない。例の強引な接客によりミスやお客様に叱られることも多い杉本のフォローで、周りの社員たちも手いっぱいで皆ストレスを抱えているのが目に見え始めていた。誰もが杉本に対して不満を抱えていたけれど、頭取の息子という肩書きのせいか、それとも私に対する嫌がらせを目の当たりにしているせいか、彼に注意することができる人はいなかった。常連さんからも「なんだか雰囲気変わったわね」と言われてしまったほど、職場の空気はギスギスして最悪だ。

仕事を終えて暗い気持ちのまま家に帰ると、夫が「おかえり」と出迎えてくれて、今夜は私の好きな鮭の塩焼きだと笑顔で言った。この包み込むような優しさが疲れた心にじんわりと染みて、少しだけ泣きそうになってしまった。夕飯を食べながら、夫が「職場はどう?」と聞いてくる。思わず言葉につまる私を見た夫は、「やっぱり」と言わんばかりに笑った。

「最近なんだか暗い顔してるからね。職場でなんかあった?」

そう言われてためらったものの、ほんの少しだけガス抜きしたい気持ちもあった私は、夫に杉本や職場の雰囲気のことを話した。さすがに嫌がらせをされていることは話せなかったので、ごまかしながら伝えると、最後まで静かに話を聞いてくれた夫は「そうか」と静かに頷いた。

「今まで大変だったね。君はよく頑張ってるよ。でも無理はしなくていいんだ。やめたければいつでもやめていいんだよ。二人で老後を過ごせるくらいの貯金はあるからね」

と、わざと冗談めかしていってくれる夫に、モヤモヤしていた気持ちがすうっと晴れていく。今までずっと仕事を続けてきたのは、地元の人たちと触れ合える仕事が大好きだったからだ。十分好きなことを続けさせてもらったし、私がいなくなれば職場も元の雰囲気に戻るかもしれない。そう思った私は、早期退職をすることを決心した。

翌日出勤した私は、支店長に退職届を提出した。驚いた支店長に引き止めてもらったけれど、私は頭を下げて退職の意思は固いことを告げる。支店長はしぶしぶといった感じで退職届を受け取ってくれた。引き継ぎの期間も考慮して、今週末で退職することが決まった。寂しくなるなと思いつつ、引き継ぎ準備のために書類をまとめていると、嫌味な笑顔を浮かべた杉本が私のデスクへとやってきた。

「野口さん、今週でやめるんですって。やっとかって感じですね」

ニヤニヤしながら言う杉本の言葉に、周りにいた社員たちが「え」と驚いた声をあげる。他の社員たちには支店長から話をしてくださるとのことだったので、まだ誰にも伝えていなかったのに、なぜ彼が知っているんだろうか。

「もう年なんだし、さっさと家に引っ込んでた方がいいですよ。業務が忙しくておばさんの面倒なんて見てらんないですからね。それにぐちぐち文句言われなくて清々します」

「そうね。杉本君の言う通りだわ」

私の言葉に杉本は面白くなさそうな顔をした。

「鈴さん、やめちゃうんですか?」

それまで私と杉本のやり取りを見守っていた社員たちが一斉にデスクを取り囲んできた。「鈴さん、やめないでください」と引き止めてもらえて嬉しかったけれど、やっぱりこれ以上後輩たちに迷惑はかけられない。

「あと少しの間だけど、よろしくね」

そうして引き継ぎもスムーズに終了し、私は長年お世話になった銀行から退職した。最初の数日は実感が湧かなかったけれど、だんだんと仕事がない生活にも慣れてきて、常連さんだった方たちと街中で会う機会も増えた。仕事をやめたのだと話すと、みんな同じように驚いてくれて、「あなたがいたから通ってたのよ」なんて言葉に嬉しさを感じる反面、少しばかりの寂しさも感じていた。

そんなある日、スマホが鳴ったので相手を確認してみると、退職した銀行の番号が表示されていた。退職の手続きで何かあったのだろうかと電話に出てみると、支店長が挨拶もそこそこに慌てた様子でまくし立てる。

「野口さん、大変なんだ。とにかく急いで来てくれないか?」

突然言われてわけが分からなかった私は「どうしたんですか」と聞いてみたものの、支店長は相当焦っているのか、「野口さんじゃなきゃだ。急いで来てくれ」としか伝えてこない。理由は分からなかったけれど、緊急事態らしいということだけは分かった。私は急いで銀行へ向かうことにした。

かつての職場に駆け込むと、窓口はお客様で溢れ返っていた。窓口に詰め寄るそのほとんどが馴染みのお客様で、「預金を解約する」「なんでやめさせたんだ」と言ってるのが聞こえてくる。一体何事だと驚いていると、私の姿に気づいた支店長が「野口さん、よかった」と泣きそうになりながら私を応接室へと案内してくれた。応接室には杉本もいて、私を見るなり嫌そうに顔をしかめた。

「あんたか?」まだ状況を理解できていない私に、杉本が冷たい声を投げてくる。

「俺が何のことを言ってるのか分からず首をかしげていると、彼は苛立ったように言った」あんたが言って回ったのかって聞いてんだ。バン、と机を叩く音が応接室に響き渡る。私が答えられずにいると、そこでようやく落ち着きを取り戻したのか、支店長がこの騒ぎについて教えてくれた。

「実は、野口さんが退職したことについて、どういうわけか杉本にやめさせられたという噂が広まってね。それでお客さんたちが、野口さんがいないなら口座を解約すると、突然窓口に押しかけてきたんだ」

「え」と驚く私に、杉本は再び激しい声をあげた。

「あんたが言ったんだろ。どうしてくれんだよ」

「あの、私、そんなこと誰にも言ってないです」

「じゃあ、なんで俺にやめさせられたって噂になってんだ」

怒りで拳を震わせる杉本に、私は言い返す言葉がなかった。どうしてそんな噂が出回っているのか、私の方が知りたいくらいだ。一体どうやってこの騒ぎを収めたらいいのかと方に暮れていると、コンコンコン、と静かなノックの後、ガチャリとドアが開く。そこに現れた人を見て、全員が驚きに目を見開いた。頭取だ。

驚く私たちをぐるりと見渡して、頭取は緩やかに口を開いた。

「問題が起きていると知らせを受けてきたんだが、どういう状況か説明してくれるかね」

「あ、はい。どうやらそのご子息のせいで野口さんが退職したという噂が広まってるらしく、それで口座の解約に訪れたお客様で窓口が混乱してしまっています」

支店長がかいつまんで事情を説明すると、頭取は一瞬考え込んだ後、息子である杉本に視線を向けた。

「お前はここで何を学んだんだ」

「は? 何って?」

「野口さんからは教わることが多かっただろう」

頭取の言葉に杉本は眉を釣り上げた。

「いやいや、教わることなんて何も。ずっと客と世間話してるだけで、全く利益になってなかったし」

鼻で笑う杉本に、頭取の目がわずかに細められた。

「預金総額を増やさなきゃ銀行としてやってけないだろう。この辺は年寄りが多くて金持て余してるんだから、取り込んでかなきゃ損だってのに、ここの社員はちんたら喋ってて勧誘は二の次と来たもんだ。使えなさすぎるだろ。大体給料だってこっちが支払ってんだし。経費削減のために、喋ってるだけの役立たずな社員はいなくなった方がいいだろう。この方がコスト削減できるし、win-win的じゃん。なあ、親父」

と杉本が言った瞬間、頭取が「馬鹿者が」と一喝した。その鬼のような形相と、怒りがにじむ鋭い目に、全員が息を飲んで体を硬直させる。

「確かに預金額を増やすことは、安定した経営のためにも必要なのは間違いない。しかし、ここは昔から親しまれてきた地方銀行なんだ。地域の方々に寄り添い、大切な資産を責任持ってお預かりさせていただくのが第一の使命だとなぜ分からないんだ」

ゆっくりと歩みを進めた頭取は、私の前で足を止めると「お久しぶりです」と軽く会釈する。私もそれに返すと、杉本は驚きに目を見開き、「え」と信じられないものを見たように呟いた。

「野口さんは、新人だった私の教育をしてくださったんだよ。私は野口さんから顧客に寄り添う姿勢の大切さを学ばせてもらった。その心構えを大事にしてきたおかげで、頭取という地位に着くことができたんだ。今の私があるのは、野口さんのおかげなんだよ」

「そんな、頭取ご自身のお力ですよ。それに教育だなんて、もう何十年も昔のことじゃないですか」

にっこり笑う頭取に、私は少し恥ずかしくなってしまった。

「幸介、お前には肝心の顧客に寄り添う姿勢、優しさが欠けている。だから私は、野口さんから学んで欲しくてお前をここに配属したんだ」

頭取にまっすぐ見据えられた杉本は、悔しそうに唇を噛みしめながら俯いてしまった。

「確かに杉本君が言うように資産を増やすことは大切なことだけど、何よりも大切なのはお客様の気持ちに寄り添うことよ。そうしたら数字は自然と後からついてくるものじゃないかしら。もう私が言わなくても分かってるだろうけど」

と言っても、杉本はただじっと床を睨みつけていた。

「野口さん、この度は愚息がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。我々にもお客様にも、野口さんは必要なんです。どうか戻ってきてくれませんか?」

そう言って深々と頭を下げる頭取に、私はぎょっとした。

「あ、頭を上げてください。定年間近の平社員だった私にはもったいない言葉です」

戻ってもまた皆に迷惑をかけるだけかもしれないと一瞬迷ったけれど、結局私は「分かりました」と頷いた。でも、お願いがあります。その言葉にようやく頭を上げてくれた頭取に、私は素直な気持ちを伝えた。

「私はこの仕事が大好きです。でも、やっぱりこの年ですし、正直体力的にも厳しいところがありました。夫も定年を迎えているので、私も家族との時間をゆっくり持ちたいと思い始めてたんです。だから、パートとして雇っていただけませんか?」

杉本に言われた通り、もう年だし、あまり無理をして周りの皆に迷惑をかけることだけは避けたい。誘ってもらっている身で図々しいとは思ったが、私の不安なんか吹き飛ばすように、頭取は快活に笑ってくれた。

「ええ、野口さんが戻ってきてくださるのなら、大歓迎ですよ」

そして私はすぐにパートとして職場に復帰することとなった。職場の雰囲気を悪くしてやめていった手前、歓迎されてないかもしれないと恐る恐る向かった職場だったけれど、皆口々に「野口さん、よかった」と歓迎してくれて、嬉しさのあまりちょっぴり泣きそうになってしまったのは秘密だ。復帰後の主な仕事は、杉本の教育だった。杉本は優秀なので業務的に教える機会はそれほどなく、一緒にお客様対応をすることで杉本をお客様に知ってもらうのが私の役割だった。

こうして杉本がお客様にも覚えてもらい始めた頃、杉本自身も積極的にお客様と世間話をするようになった。半年ほど経った頃、杉本は本社へ移動することになった。すっかり打ち解けた杉本の移動に皆寂しがったし、お客様にも移動の挨拶をすると、皆様同じように残念がってくださった。今の杉本なら、きっと立派な後継者になるだろう。

そう思っていると、杉本から一緒にランチに行かないかと誘われた。まさかお誘いしてくれるとは思っていなかった私は、嬉しくてすぐに頷いた。

「杉本君も今日で最後だね。寂しくなるな」

「あの、野口さん。今まで失礼なことをたくさん言ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」

テーブルに着きそうなほど深く頭を下げる杉本に驚いた。慌てて杉本の姿勢を起こすと、彼は申し訳なさそうに目を下げて唇を引き結んでいた。その顔を見れば、杉本がかつての発言を心から反省しているのが誰だって分かるだろう。

「私はいいのよ」

と笑って返した。

「私は杉本に感謝してるのよ」

「え?」

杉本の目が驚いたように開いた。

「私はこれまで仕事一筋でやってきたけれど、家族のことは二の次になってしまっていたのよ。今は時代が変わったけど、昔は女性が正社員として働き続けることはすごく大変だったの。だから家庭より仕事を優先してしまって……あ、でも、こうして夫との時間や趣味に使う時間を持てるようになって、今とっても充実しているの。あなたのおかげよ。ありがとう」

と伝えると、杉本は何かを決意したかのように、ぐっと拳を握りしめた。

「俺、野口さんに教わった半年間はすごく勉強になりました。それで、楽しそうに仕事をしている野口さんや他の人たちを見て思ったんです。自分が社長になったら、もっと福利厚生を充実させて、もっともっと社員が働きやすい環境にしようって。利益も大切ですが、まずは社員が充実していないとお客様に十分寄り添えないって気づかされました。全部、野口さんのおかげです。本当にありがとうございます」

そう言ってまっすぐな目をした杉本からは、十分すぎるほどの熱意が感じられた。成長したわね、杉本君。遠い昔、同じ目をした新人社員がいたな、と懐かしい気持ちになる。彼は立派な頭取になったんだから、きっと杉本も負けず劣らず立派な頭取になるだろう。

人生誰しも行き詰まったりうまくいかないことはある。それをプラスに捉えるかマイナスに捉えるかは自分次第。どう転ぶか分からない未来でも、自分の信念を貫けばきっと苦しい環境を抜け出すことができるはずだ。私は正社員をやめてパートになったけれど、夫との時間を持てるようになって、大好きな仕事と家族団らんが両立した楽しい日々を送ることができている。働いていた時はフルタイムで働くことを手放すなんて考えられなかったが、今ではむしろ手放せて良かったと思っている。定年を迎えるその時まで働ける幸せを大切にしながら、これからも自分のため、会社のため、何よりお客様のために精進していこうと思った。

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