エントランスの前で夫・茂明が仁王立ちしていた。手には書類が握られている。私が近づくと、彼は聞こえよがしに怒鳴りつけた。
「お前とは離婚だ。そいつを連れてさっさと出ていけ」
記入済みの離婚届を突きつけられ、私は一瞬何が起きたのか分からなかった。生後100日を迎えたばかりの息子・陽太を抱きながら、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「離婚って一体どういうこと?」
「俺のタワマンにお前は必要ない」
タワマン。彼はこれを自分のものだと思っている。違う。これは私の出産祝いにと、義両親が私の名義で買ってくれたものだ。
「離婚するのはいいけど、ここから出ていくのはあなたよ」
「何を言ってるんだ。出ていくのはお前だ。非常識女め」
私はそれ以上何も言わず、陽太を連れて実家へと帰った。どうなっても知らない。そう思うほど、私の心は冷めきっていた。
私は泉かや子、32歳。パートをしながら4つ年上の夫と暮らしていた。大学を卒業して就職した会社で知り合った男性と交際し、正式な婚約はしていなかったものの、数年が経ち結婚を意識するようになった。しかし3年前、彼から突然別れを告げられた。「他に好きな人ができた」と。私は何も言えず、受け入れるしかなかった。
それから私は会社をやめ、しばらく誰とも付き合わないと心に誓って一人で暮らしてきた。ところが1年前、父が倒れた。命に別状はなかったが、弱々しい父の姿を見たとき、孫の顔も見せてやれない自分が申し訳なくなった。とはいえ、男性との距離を置いてきた私がうまく付き合えるのかも分からない。また一方的に別れを告げられるのではないかという不安だけが募った。
そんな時、同じパート先の友人から婚活アプリを教えてもらった。そのアプリは一般のマッチングアプリと違い、男女ともに会員制で身元がしっかりしている人しか登録できないという。お互いに結婚願望のある人が登録していることもあり、成功率は90%らしい。その日、仕事から帰った私は早速アプリに登録してみた。すると1時間ほど経った頃、男性から連絡が入った。それが茂明だった。
茂明は時期社長として会社の重役を担っていると言い、社長就任前に結婚したいと話した。何度かメッセージを重ねているうちに「1度会ってみないか」と提案され、私はそれを受け入れることにした。約束の日、待ち合わせ場所に高級車で現れた茂明は、常に私をエスコートしてくれて、紳士的な姿を見せてくれた。その日のうちに「結婚を前提に付き合って欲しい」と言われたが、初対面の人と婚約することに抵抗があった私は、すぐに返事ができなかった。それでも「ゆっくり考えてくれていい」と茂明は笑顔を見せてくれた。彼の人柄に惹かれた私は、数回のデートを重ねた後、プロポーズを受け入れたのだった。
しかし結婚してすぐ、私は自分の選択が間違っていたのではないかと悩むことになった。茂明は父が会社経営をしていることもあり「自分は時期社長確定だ」といつも傲慢な態度を取るようになった。家事を手伝うことは一切なく、「飯だ」「風呂だ」と私に命令ばかりしてくる。家にいる時は常にスマホを手放さず、いつも誰かとやり取りをしているようだった。思い返してみれば、結婚前のデートでも茂明は常にスマホをいじっていた。通知が鳴るたび「仕事だ」と言いながら、何度会話が途切れたか分からない。それでも仕事の連絡なら仕方がないと思っていた。しかし、いくら時期社長だと言っても、そんなにスマホばかり触るものだろうか。県社長の義父は、私たちが訪ねている間はよほどの時以外スマホに出ることもない。それでも私には分からない仕事のことをとやかく言うわけにはいかないと、やり過ごしていた。
結婚してしばらく経ったある日、茂明からパートを増やすように言われた。
「どうしてパートを増やさなきゃいけないの?」
「生活費を稼ぐために決まってるだろう」
意味が分からなかった。茂明の稼ぎがあれば、生活は十分やっていけるはずだ。それなのに生活費のために私にパートを増やせとはどういう意味なのか。
「なんだ、時期社長の俺と結婚すれば遊んで暮らせると夢でも見ていたのか」
「そうじゃないけど、あなたの収入があれば今以上に稼ぐ必要もないでしょう」
「扱ましい女だな。誰がお前を養うって言ったんだ?」
茂明は私を馬鹿にするように嘲笑った。私が茂明と結婚を決めたのは、彼が時期社長だからではない。それでも当然のように彼の収入で生活するものだと思っていた。茂明は「生活費は自分で稼げ」と言い放ったのだ。もしかしたら、茂明は本気で私と結婚したかったわけではなかったのかもしれない。彼のプロポーズを受け、実家に挨拶に行った頃から、彼は私を避けるような態度を取るようになった。仕事が忙しいと結婚式の打ち合わせにも現れず、会っていても理由をつけてすぐに帰ってしまう。それでも義両親が私のことを快く受け入れてくれて、食事に誘ってくれたり、結婚式の準備も手伝ってくれた。特に義母は茂明が不在がちなことをいつも謝ってくれた。義両親の存在が、結婚に前向きな気持ちを持たせてくれた。
数日後、私は茂明に言われた通りパートを増やすことにした。それにより私の毎日は目まぐるしいものとなった。朝から家事を済ませ、茂明を送り出した後、パートに出かけると家に帰るのは夜8時を回ってしまう。それから残りの家事を済ませ、ようやくゆっくりできるのは深夜になってからだ。それでも茂明と結婚した以上、彼の言うことに従うしかない。そう思っていた。
数ヶ月後、義実家で義母の還暦祝を行うことになり、私は茂明と共に義家へと向かった。豪華な料理が並び、義両親と親戚たちが賑やかな雰囲気の中にいるが、茂明は相変わらずスマホをいじりながらソファーにふんぞり返っている。
「お母さんのお祝いの時くらいスマホを触るのをやめたら?」
「お袋の誕生日だからって仕事がなくなるのかよ」
茂明は私にちらっと視線をやっただけで、すぐにスマホに戻ってしまった。そこに義両親がやってきた。
「少しはかや子さんに優しくしたらどうなの?」
茂明は少し慌てたようにソファーに座り直し、義母の機嫌を取り始めた。
「ちょっと仕事が立て込んでて。それより、今日はプレゼントを持ってきたんだ」
茂明は小さな袋を義母に手渡した。義母が袋を開けると、中から赤いスカーフが出てきた。どう見ても安物で、義母の趣味とも合わない。
「こんなものしか用意できなくてすまない。本当はもっといいものをプレゼントしたかったんだけど、かや子がくれる小遣いが少なくて」
その言葉に私は驚いてしまった。
「ちょっと待って。あなた、家にお金を入れないで全部自分で使ってるじゃない。それは一体どういうこと?」
私は義両親に、茂明との生活の実態を全て打ち明けた。茂明は家にお金を入れず、浪費ばかりしている。生活を維持するために私がパートを掛け持ちしてなんとかやっている、と。
「なんだって。お前は一体何を考えているんだ」
義両親は激しく怒り出した。
「色々必要なものが多いんだ。仕方ないだろ」
「かや子さんとの生活があるからと、お前の給与は増やしているだろう」
「必要なものだなんて、どうせ見栄を張るための贅沢品なんでしょ。そんなものにばかりお金を使って、あなたは結婚したのよ」
義両親の言う通り、茂明は贅沢の限りを尽くしていた。身につけるものは全て高級品ばかりで、会社の部下たちにはごちそうしまくっているのだ。
「家に金を入れないなら、給与を減らしても問題ないな。その分かや子さんに振り込むことにする」
「待ってくれ。ちゃんと家に入れるから、今まで通りで頼むよ」
義両親に厳しく説教をされ、茂明は今後は給与を家に入れると約束した。しかし実際に茂明が家にお金を入れてくれたのは、わずか3ヶ月だけだった。義両親にバレないように私に固く口止めをし、何ひとつ変わろうとしなかった。
数ヶ月後、茂明が会社の部下を自宅に招いてパーティーを開くと言い出した。
「パーティーって、お料理なんかの費用はどうするのよ」
「そんなものお前が何とかすればいいだろう。言っとくが、俺に恥をかかせたら即離婚だからな」
茂明は時期社長の自分と私が絶対に離婚しないと高をくくっているのだろう。何かにつけて「離婚」を出しにやりたい放題だった。
パーティー当日、自宅には茂明の会社の部下が数名訪れた。しかしどういうわけか、訪れたのは全て女性で、皆口々に茂明のことを褒め称えている。その中の1人が私に近づいてきて、耳打ちしてきた。
「かなりの倹約家ですってね。あんまり茂明さんを縛らないであげてくださいね」
部下の女性は意地悪そうに笑いながら、遠回しに私のことを嘲笑した。どうやら茂明は会社でも私のことを「ケチ」と言っているようだ。
その日の夜、私は茂明に話をすることにした。
「変な噂を流さないでちょうだい」
「変な噂ってなんだ? お前がケチなのは確かだろうが」
茂明はスマホを触りながら、まともに話を聞こうとしない。
「家にお金も入れずに無駄遣いしてるのは自分でしょ。それがなんで私がケチなことになるのよ」
「いちいち気にしなくてもいいじゃないか。倹約家ってことにしといたら、俺の株も上がるんだ」
「何よそれ」
茂明は私のことを利用して、自分が女性社員からちやほやされるように仕向けていたのだ。女性社員の気を引くために私のことを下げる。私は怒りを通り越して、呆れてしまった。
その数週間後、私は体調の変化に気づいた。食欲が湧かず、そればかりか調理の匂いを嗅ぐだけで吐き気がする。考えてみれば数ヶ月前から、毎月来るはずのものが来ていない。まさかと思いながらクリニックを訪れると、「おめでとうございます」と言われた。私は妊娠していた。すでに5ヶ月目に入っていると言われ、私は驚いてしまった。連日仕事に追われ、自分のことがおろそかになっていたとはいえ、これほどまでに気づかないものかと少し反省した。医師の診断では、お腹の子は元気に育っているという。茂明のことを考えると出産することに不安はあったが、それでも私のお腹の中で小さな命が生きていると思うと嬉しかった。
両親に報告すると、2人ともとても喜んでくれた。しかしそれとは真逆に、茂明は面倒臭そうに眉をひそめた。
「子供なんて必要ない」
「お母さんたちは喜んでくれたわ。それとも、子供を下ろせっていうの?」
すでに義両親に報告していることを告げると、茂明は面白くなさそうにしながらも、それ以上文句は言わなかった。しかしその翌日から、茂明の帰りが遅くなっていった。珍しく早く帰ってきても、私のお腹が大きくなっていく様子を見ては「気持ち悪い」と、妊娠した女だと馬鹿にした。
「お腹に赤ちゃんがいるんだから仕方ないでしょ」
「そんなのはただの言い訳だ。俺は子供なんか作るつもりなかったんだ」
自分が妊娠させておいて「子供はいらない」と言い放つ茂明に腹が立つ。それでもお腹の子に悪影響してはいけないと、湧き立つ怒りを収めた。
数ヶ月後、私は男の子を出産した。体重3250gの元気な子だ。気づいた時点で茂明にも連絡は入れたものの既読もつかないままで、出産には義両親が付き添ってくれた。
「全く、茂明は何を考えているのかしら。こんな大事な時に来ないなんて」
「きっと仕事が忙しいんですよ」
「家族を大事にしないで何が仕事だ。今度あったらまた説教だ」
義両親は私の気持ちを代弁してくれているようだった。
「それより、この子に名前をつけてもらえませんか?」
「私たちがつけていいの?」
「ええ、もちろん」
義両親は子供の名前を一生懸命考えてくれた。その結果、子供は「陽太」と名付けられた。太陽のように明るくて、真心のある子に育つように。どんなことにも前向きに立ち向かっていけるように。生まれたばかりの陽太を囲んで、幸せな時間が流れていた。
私が入院している間、義母は毎日様子を見に来てくれた。茂明は相変わらず顔も見せていないが、この時は夫よりも義母のような母親の先輩の方が助かった。1週間後、退院の日になってようやく茂明が現れた。不機嫌な顔を見ると、義両親に無理やり連れて来られたのだろう。
「さっさと準備しろ」
私にそう言うと、すぐに車に戻って行った。
「あの子ときたら、少しずつ父親になってくれたらいいんだけど。かや子さん、本当にすまない。これも俺たちの教育が悪かったのだろう。心から謝るよ」
「そんな、お父さんたちが謝ることなんて何もないですよ」
義両親は申し訳なさそうにしているが、私のことを気にかけてくれる2人には深く感謝している。
「そうだ。出産祝を持ってきたんだ」
義父はそう言うと、鍵を私に手渡した。
「これは茂明の子を産んでくれたお礼よ」
義母は駅前のタワーマンションのパンフレットを差し出し、その部屋を購入したと告げた。
「そんな、もったいないです」
「いやいや、かや子さんは本当によくやってくれている。これは俺たちの気持ちだから、遠慮なく受け取ってくれ」
義両親に申し訳ない気持ちになりながらも、私はタワマンの鍵を受け取った。そこに茂明が戻ってきた。
「おい、いつまで待たせるんだよ。……って、それは何だ?」
「かや子さんの出産祝よ」
「おお、タワマンを買ってくれたのか。ありがとう」
茂明は態度を急変させ、義両親に笑顔を見せ始めたのだった。
家に帰ってからは、陽太の世話をしながら引っ越しの準備を進めた。相変わらず3時間おきの授乳が続き、毎日寝不足の私だったが、陽太の笑顔が私を癒してくれる。しかし茂明はそう思わなかったようだ。陽太の世話を何ひとつやろうとしなかった。その上「夜がうるさい」と私を怒鳴りつけ、部屋にこもってしまう。そればかりか仕事から帰ってくるのがさらに遅くなり、毎日日が変わる頃にしか帰らなくなっていた。陽太が生まれ1ヶ月が過ぎても、茂明の態度は変わらなかった。タワマンに引っ越し、それまでよりも一層傲慢な態度を取るようになった茂明は「時期社長の俺のおかげだ」と私に雑用を言いつけてくる。家事をやりながら慣れない子育てに奮闘しているというのに、「疲れた」の言葉一つかけてくれない茂明への不満は、日に日に大きくなるばかりだった。
陽太が生まれ、3ヶ月が過ぎても茂明はまだ1度も陽太を抱いたことがない。家事を手伝うこともなく、陽太が泣いていると赤ん坊相手に「うるさい」と怒鳴りつけ、余計に泣かせてしまう。そればかりか茂明は「陽太のせいで自分の生活にも支障が出て、仕事にも悪影響を及ぼしている」と私に激怒した。子供が生まれたら茂明も父親として変わってくれるのではないか。そう思っていたが、茂明は変わる様子を見せなかった。以前よりも私や陽太に辛く当たる茂明に、私の神経はすり減っていった。
ある日、私は陽太を連れて義実家を訪れた。茂明のことを相談しようと思ったのだ。
「陽太の鳴き声がうるさいって電話がかかってきたわ」
「え、それで?」
「赤ちゃんは泣くのが仕事だって怒ってあげたわよ」
茂明は家での不満を度々義両親に漏らしていたようだ。しかし義両親は茂明の言い分をはねのけ、父親としての自覚をと説いたらしい。その怒りを私に当たっていたというわけだ。
「あの子のことだから、どうせ家事も育児も手伝ってないんでしょう。仕事も忙しいみたいで家に帰るのも遅いので仕方ないけど、かや子さんが優しいから甘えてるんだと思うけど。困ったものよね」
義母は何も言わなくても私の気持ちを理解してくれているようだ。
「少しずつ父親の自覚を持ってくれたらと期待はしているんですよ」
「それしかないわね。私もお父さんも何かあれば協力するから、遠慮しないで言ってちょうだいね」
義母の言葉は私に大きな安心感をくれた。
しかしその日の夜から、茂明は家に帰って来なくなった。翌日、茂明に電話をかけると、「ガキがうるさくて夜も眠れない。当分ホテルで暮らすから、ガキをしっかりしつけておけ」と一方的に怒鳴りつけられた。家にお金も入れず、家事も育児も一切協力せず、自分の言い分だけを押し付ける茂明に、私は愛想が尽きてしまった。陽太と2人で暮らした方が楽かもしれない。夫としても父親としても責任を果たさない茂明との生活に、私は疲れてしまった。
数日後、陽太の生後100日祝の日がやってきた。義両親は義父の馴染みの和食店を予約してくれ、陽太の食い染めの儀式を一緒に見守ってくれた。茂明は現れず、連絡も取れなかった。義両親と食事を楽しみ、陽太は笑顔を見せてくれている。父親がいなくてもスクスクと成長してくれている息子を見ていると、茂明とこのまま夫婦でいる必要はないのかもしれないと思えた。茂明とちゃんと話そう。そう思いながら家に帰ると、茂明がエントランスで待っていた。
「お前はここから出ていけ」
私は前に立ちはだかり、中に入れようとしない茂明に尋ねた。
「一体どうしたって言うのよ。陽太も疲れてるし、ベッドで寝かせてあげたいの」
「子供子供って。俺のタワマン目当てで妊娠した小悪女が」
茂明は人前で私を怒鳴りつけ、記入済みの離婚届を突きつけてきた。
「これはどういうこと?」
「見ての通りだ。お前とは離婚だ。そいつを連れてさっさと出ていけ」
茂明は何を勘違いしているのだろうか。タワマンは私の出産祝いにと義両親がくれたものだ。
「離婚するのはいいけど、ここから出ていくのはあなたよ」
「何を言ってるんだ? タワマンは俺のものだ。非常識女め」
「どうなっても知らないわよ」
「俺のタワマンに不要なお前を出て行かせるのは当然のことだ。俺が時期社長だからって調子に乗るのはやめてもらおう」
「あなたに養ってもらった覚えはないけどね。まあいいわ。後で泣きついてこないでね」
私は陽太を連れて実家へと帰った。
5日後、茂明から電話がかかってきた。
「俺が悪かった。頼むから帰ってきてくれ」
茂明は泣きながら必死に謝っている。
「一体どうしたっていうの?」
「タワマンを不法占拠してるって、追い出されそうなんだ。昨日は警察まで呼ばれて」
どうやら管理組合が茂明に退去を命じているらしい。
「親父に確認したら、ここの名義はかや子になってるって言うし、どうにもできないって」
「それは仕方ないわね。タワマンは諦めた方がいいわ」
義両親は茂明の金銭感覚を信用しておらず、タワマンも息子ではなく私の名義で贈与してくれたのだ。
「親父のやつ、タワマンはかや子の出産祝で俺に贈ったものじゃないって、何にも助けてくれないんだ」
義両親は泣きついてきた茂明を、問答無用で追い返したらしい。
「だから今すぐ戻ってこい。これまでのことも、戻ってきたら許してやる」
この後に及んでも、茂明は上から目線を止められないらしい。同じマンションの住人の間で広まっている茂明の不法占拠の噂を消すために、私に戻って説明するよう命令したのだ。
「残念だけど、他人の言うことなんか聞けないわ」
「他人って。戻ったら許してやるって言ってるだろう」
「許してくれなくて結構。離婚届けはとっくに提出済みだし、あなたと復縁する気もないわ」
私はそれだけ告げると、電話を切った。
数日後、茂明は私の実家に押しかけてきた。どうやらタワマンを追い出されたらしい。
「戻ってこないなら、これまで払ってやったデート代も食事代も全額返済しろ」
「何を言ってるの? デート代はいつも割勘だったでしょ? 食事代だって、返せって言うなら先に結婚していた間の生活費を払ってもらえるかしら?」
茂明は私にお金をかけたことなど1度もない。それなのに「全額返せ」とは、随分おかしなことを言うものだ。
「デートの時のガソリン代とか、結婚指輪とか色々あるだろう」
「ああ、そうね。それなら」
私は外してあった結婚指輪を茂明に投げつけた。
「ガソリン代はあなたが勝手に車で来ただけだから。請求しろって言うならレシート見せて」
茂明はその後もしつこく私の実家に居座った。それを見かねた両親は、義両親に連絡を取ったようだ。しばらくして義両親が駆けつけてきた。
「うちのバカ息子がすまない」
「いいえ、お父さんたちが謝ることは何もないですよ」
義両親は私に平謝りしてくれたが、謝るべきは茂明ただ1人だ。
「私が離婚を決めた本当の理由は、茂明が複数の女性と浮気していたからなんです」
「なんですって?」
私は茂明の浮気の証拠を義両親に提示した。茂明が私をタワマンから追い出したのも、毎日違う女性を連れ込みたかったから。そうだろう。茂明の行動を不審に思った私は、探偵をやっている友人に相談を持ちかけた。友人は快く調査を引き受けてくれた。その結果、茂明には5人もの愛人がいることが分かった。愛人たちはお互いの存在を知らず、茂明はそれぞれの女性に「本当に愛しているのは君だ」と結婚を匂わせていた。
「私とも、本当に結婚するつもりなかったんでしょ?」
「そんなことは」
義両親の前だからか、茂明は本音を言おうとしなかったが、結婚が決まった途端に私と会うことを避けるようになったのがその証拠だ。義両親の手前、結婚しないとも言い出せず、仕方なく結婚したのだ。
「陽太がうるさいからってホテルで暮らすのも、女性たちと会うためでしょ」
「うるさい。俺はいずれ社長になるプレッシャーがあったんだ。複数の愛人がいて何が悪い」
茂明は開き直ったように荒げた。
「誰がお前を社長にすると言った。お前のような男に、大事な会社が任せられるか」
義父はその場で茂明に大激怒し、時期社長にする考えを否定した。
「息子の俺が継がなくて、他に誰が社長をやるんだよ」
「時期社長は、すでに優秀な部下に任せることが決まっている」
義父の言葉に、茂明は顔を真っ青にさせた。
「なんでだよ。なんで俺が時期社長じゃないんだ」
「お前は自分が何をしたのか、分かっていないのか?」
義父の話によれば、茂明が複数の女性社員と不倫していた事実は社内でもすでに広まっていたそうだ。そればかりか茂明は、愛人たちへの貢ぎ物を賄うため、自分の給与だけでは足らず会社のお金を横領していたのだとか。茂明は「俺は時期社長だ」と経理部に強引にお金を出させていたらしい。しかし経理部はその一部始終を義父に報告していた。
「お前は今日限りで首だ」
「そんな。勘弁してくれ」
「問答無用だ。お前がやったことは、立派な犯罪だ」
義父はその場で茂明を解雇した。茂明はその場に崩れ落ち、義両親に連れられて帰っていった。
しかし彼は反省という言葉を知らないようだ。数日後、茂明はYouTubeチャンネルを立ち上げ、「義父が悪い部下に騙され、会社を乗っ取られそうになっている」という虚偽の内容を投稿した。茂明の投稿は瞬く間に拡散され、義父の会社には連日問い合わせの電話が鳴りやまなかったらしい。義父は茂明の反省のない態度に呆れ果て、やむを得ず彼を刑事告訴することにしたようだ。
数日後、ネットカフェで寝泊まりしていた茂明の元に刑事が訪れ、その場で茂明は逮捕された。その後起訴され裁判にかけられた茂明は、「横領ではなく、あくまで会社からお金を借りただけだ」と言い張った。しかし正規の手続きは取られておらず、時期社長だと経理の女性に圧力をかけてお金を振り込ませていたことが判明し、茂明の主張は退けられ、反省の色がないとして厳しい判決を受けることになった。茂明は「お金は必ず返す」と減刑を求めたが、複数の女性に貢いでいた茂明には貯金もなく、資産と言えるものもない。判決の日、茂明には実刑判決が言い渡され、当分の間、塀の向こうで過ごすことになった。
裁判所を出る際、茂明は傍聴席に座っていた義父に向かって、「それでも父親か」と罵声を浴びせた。かばうのをやめたのは、父親としての最後の情だった。茂明が刑務官に連れて行かれた後も、義父は苦渋の表情を浮かべていた。
その後、私は陽太と共にタワマンに戻った。シングルマザーとして子育てをする私を、義両親は支え続けてくれている。数年後、茂明が出所したようだが、義両親は茂明を勘当し、相続人からも除外したようだ。茂明は行く当てもなく、一人で町を出ていったらしい。
陽太は幼稚園の頃からプログラミングに興味を持ち始め、小学生でオリジナルのアプリを開発するようになった。陽太の才能を高く評価してくれた義父は、中学生になった陽太に会社を立ち上げさせた。義父の支援もあり、陽太の会社は順調に業績を伸ばし、安定した収入が得られるようになっている。
しかし陽太が茂明のようにならないように、私は権約に務めるように厳しくしつけている。陽太はパートで疲れている私をねぎらい、家事も積極的に手伝ってくれる。優しい息子と義両親たちに支えられ、私はこれからも笑って生きていく。



