「貧乏人の分際で会社を裏切ったな、この盗聴犯が。」清掃員の私のロッカーから黒い装置が見つかった瞬間、休憩室は水を打ったように静まり返った。数日前、私は会長室の机の下に盗聴器を見つけ、会長に知らせたばかりだった。なのに、なぜ私が疑われている?必死に無実を訴えても、誰も耳を貸さない。そして、その場にいた会長は、ただ苦しそうに顔を歪めるだけだった。私には父の手術費用を稼ぐこの仕事が最後の希望だった…

「貧乏人の分際で会社を裏切ったな、この盗聴犯が。」清掃員の私のロッカーから黒い装置が見つかった瞬間、休憩室は水を打ったように静まり返った。数日前、私は会長室の机の下に盗聴器を見つけ、会長に知らせたばかりだった。なのに、なぜ私が疑われている?必死に無実を訴えても、誰も耳を貸さない。そして、その場にいた会長は、ただ苦しそうに顔を歪めるだけだった。私には父の手術費用を稼ぐこの仕事が最後の希望だった...

清掃員休憩室にクワ原の怒鳴り声が響き渡った。
「貧乏人の分際で会社を裏切ったな、この盗聴犯が。」

彼女のロッカーには黒い装置が隠されていた。24歳の立花メイは唇を強く噛みしめた。だが数日前、メイは会長室で小さな声を発していた。

「会長、机の下に何か仕掛けられています。」

そのささやきと共に、メイの指先が机の裏を叩いた。トントントン、ツー。

67歳の会長、青井高幸の顔から血の気が引いた。33年間探し続けた命の恩人の合図だったからだ。

物語はメイが総点グループ本社で働き始めた頃まで遡る。

メイの一日は音を立てないことから始まる。古いアパートの壁は薄く、物音一つで隣から苦情が来る。メイが9歳の時、母はすでに他界していた。以来、父一人が娘を育てている。夜勤明けの体を引きずり、メイは父の見舞いに向かう準備をした。

立花周一は半年前から私立病院に入院している。心臓の手術費用は300万円を超えていた。預金通帳の残高はその1割にも満たない。コンビニと工場の掛け持ちだけではとても足りなかった。

それでも諦めるという選択肢はメイにはない。

求人サイトの画面に総点グループ本社の清掃募集が並んでいた。時給は他よりも2割高かった。理由は役員フロアを担当するからだという。メイに迷いはなかった。申し込みボタンを押すと、指先が少し震えた。

病室に着くと、周一はベッドで窓の外を眺めている。痩せた頬に以前の力強さはもうない。

「働きすぎじゃないか。」

週一が小さな声で聞いた。

「平気だよ、お父さん。」

メイは笑ってごまかした。本当は二つの仕事を掛け持ちしていることはまだ言っていない。

帰り際、メイは壁のコンセントに触れる前に、軽く机を叩いた。トントントン、ツー。子供の頃から染みついた、意味も知らない癖だ。父に教えられたことは覚えているが、何の意味があるのかは知らなかった。周一は娘の指先の動きにほんの一瞬だけ目を細めた。だが父はそれ以上を語ろうとはしない。黙ったまま窓の外へ視線を戻しただけだった。

面接の翌日、採用通知がメイの元に届く。配属先は本社30階、役員フロアの清掃だった。気は重かったが、もう後には引けない。

初出勤の朝、メイは5時に本社地下の休憩室に着いた。清掃委託会社のクワ原が配属表を片手に近づいてくる。

「立花、お前は30階の会長室な。」

クワ原はメイの顔も見ずにそれだけ言った。新人に興味がないのか、事務的な口調だった。隣で雑巾を絞っていた先輩が小さく笑った。

「あそこ、続いた新人いないのよ。前の子なんて3日で音を上げたわ。」

先輩の声には心配より面白がる響きがあった。メイは黙って頭を下げ、清掃用具を受け取った。文句を言っている余裕はメイにはない。

エレベーターで30階に上がると、廊下の広さに圧倒された。足音まで吸い込まれそうなほどフロアは静かだ。すれ違った社員は誰もメイに目を向けなかった。まるで壁の一部であるかのようだ。

会長室のドアの前に立った瞬間、なぜか胸が小さく高鳴った。理由は自分でも分からない。カードキーをかざし、重い扉を開けて中に入る。

広い部屋の奥、窓際の椅子に老年の男が座っていた。青井高幸は書類から顔を上げ、メイを一瞥した。その視線だけが妙に長く感じられる。すぐに高幸は書類へ視線を戻し、何も言わなかった。メイも一礼し、黙々と掃除機をかけ始めた。

初日は棚の本を一冊ずつ丁寧に拭き上げていく。窓を拭きながら、メイはさっきの視線が頭から離れない。ただの新人に向ける目には見えなかった気がする。

それ以上は考えず、メイは目の前の仕事に集中した。その夜、コンビニのシフトを終えて帰る道すがら、父の声がふと蘇る。「働きすぎじゃないか。」

布団に入る前、メイはつい癖で机を軽く叩いた。トントントン、ツー。明日もまたあの部屋を掃除しなければならない。

数日が過ぎ、清掃の手順はすっかり体に馴染んでいた。会長室の隅には色あせた白黒写真が飾られている。映っているのは作業服姿の若い男たちだ。メイは毎朝その写真を丁寧に拭き上げた。ある朝、写真の端に写る男の横顔になぜか目が止まった。誰なのかは写真のどこにも書かれていない。

青井高幸は電話を取る前に必ず引き出しへ手を伸ばす。指先で軽く二度机を叩いてから受話器を取った。その仕草をメイはぼんやりと目で追っていた。

「あの、この写真は…」

そこまで言いかけてメイは口を閉じた。新人が立ち入っていい話ではない気がしたのだ。高幸は何も気づかぬ様子で書類に目を落としている。その横顔を見ながら、メイはそっと写真を元の位置に戻した。自分と同じ癖だとはまだ思えない。メイは何も聞かず黙って掃除機を押し続けた。疑問を口にするのは新人の仕事ではない。

昼休みも先輩たちの雑談には加わらなかった。ただ隅の椅子で自前の弁当を静かに食べる。誰かに詮索されるよりその方が気楽だった。

午後の巡回で書棚にまた新しい書類が増えていた。高幸は席を外しており、部屋にはメイ一人だけだ。静けさの中、埃を払う手だけが規則正しく動く。ふと、写真の男の目元が父に似ている気がした。父の頬骨の形もどこか写真の男と重なる。記憶の中の父はもっと若く笑っていた。

すぐに考えすぎだと思い直す。偶然の一致などいくらでもあるはずだった。写真の埃を払い終えると、メイは次の部屋へ移った。帰り道、コンビニの制服に着替えながらも頭の隅に残る。その夜も机を三回叩いてから眠りについた。意味を深く考えたことはこれまで一度もない。ただ指先の記憶だけが体に染みついている。

数日後、クワ原が怒り狂って清掃員休憩室に飛び込んできた。

「立花!会長室の書類、お前が動かしたのか?」

メイには身に覚えがない。だが机の上の書類の束は確かに向きが変わっていた。クワ原は話を聞かず声を荒げた。

「今度同じことがあったら即刻契約を切る。お前の代わりなんていくらでもいるんだからな。」

父の医療費のことを思うと、メイの指先が冷たくなった。それでもメイは黙って頭を下げるしかなかった。反論すれば余計に立場が悪くなるだけだ。

クワ原はさらに続けた。

「次に何かあれば、他のみんなの給料からも天引きだ。」

周囲の清掃員たちの視線が痛いほど背中に突き刺さる。誰も庇ってはくれない。メイはその場を離れ、誰もいない非常階段で息を整えた。涙は出ない。泣いている暇など自分には残っていないと思った。

その日の午後、メイは普段以上に注意深く清掃を進める。書類には一切触れず、写真だけを丁寧に拭いた。高幸は席におらず、部屋は静まり返っている。仕事を終え、ドアを閉める前にもう一度室内を見渡した。机の下の暗がりに目を凝らす。何かがそこにある気がした。気のせいだと思い、メイはドアを閉めた。

その夜、メイのスマートフォンに見知らぬ番号から着信が入る。出ようか迷ううちに呼び出し音は途切れた。折り返してもコール音が虚しく響くだけだ。番号を検索しても何も出てこない。得体の知れない不安だけが胸の奥に残った。会長室の机の下に何かがあるという予感だけは消えない。

布団の中でメイは昼間のクワ原の声を思い出していた。父の治療費だけは絶対に途切れさせられない。

クワ原の剣幕に凍りついた翌朝も、メイはいつも通り5時に出勤した。地下駐車場の入り口で警備員の小玉と顔を合わせる。小玉は60代半ば。この本社ビルに30年近く務めている。

「今日も早いね、立花さん。」

小玉は毎朝そう声をかけてくれる数少ない一人だった。

「大変だろう。あそこの担当は。」

メイは曖昧に微笑むだけで詳しくは答えなかった。小玉はそれ以上深くは聞いてこない。ただロビーの隅の自販機で買った缶コーヒーをそっと差し出した。

「無理すんなよ。」

その一言だけでメイの肩から少し力が抜けた。誰かに気にかけてもらうのは久しぶりのことだった。

小玉はふと遠くを見るような表情を浮かべる。

「この会社にも昔ちょっとした騒ぎがあってな。詳しいことは俺もよく知らんが、何でも誰かを庇って揉めたとかなんとか。」

小玉はそう言って寂しげに笑った。それだけ言うと、小玉は照れたように話を切り上げる。メイは聞き返そうとしたが言葉が出てこなかった。その代わり、小玉の言葉が妙に耳から離れない。

会長室の机の下も、あの写真の男も、どこかで繋がっている気がする。気のせいかもしれないとメイは首を振った。父にもこんな風に気にかけてくれる人がいたのだろうか。

それでも小玉の温かさだけは確かに心に残った。缶コーヒーの温かさを両手で包みながら、メイは小さく息をつく。誰かに見守られているという感覚は久しく忘れていたものだった。自分のことばかり考える余裕など、いつからなかっただろう。

その日もメイは変わらず仕事に向かった。

その日の見舞いの帰り、周一がメイの手をそっと握った。

「新しい職場はどうだ?」

「うん。ちゃんとやってるよ。」

メイは笑顔を作ったが、声はわずかに掠れていた。周一はそれ以上深くは聞いてこない。

病院からの帰り道、メイは小玉の言葉を何度も思い返した。詳しいことは分からないが、なぜか他人事に思えない。それよりも今は目の前のことに集中すべきだと自分に言い聞かせる。父の手術日は少しずつ近づいている。あと何日踏ん張ればいいのか数えるのはやめにした。数えれば数えるほど心が折れそうになるからだ。

それでも心を強く保たなければならない。

翌朝、休憩室の給湯室で電気ポットが動かなくなっていた。

「またか。今月2回目だぞ。」

クワ原が舌打ちして立ち去っていく。誰も直そうとせず、張り紙だけが追加された。「故障中。各自ご注意ください。」

昼休み、給湯室に人がいなくなった隙にメイはそっとポットの裏を覗いた。コンセントの差し込みが少しだけ緩んでいた。指先で押し込み直すと、ランプが静かに点灯する。それだけのことだった。

メイは誰にも言わず、何事もなかったように給湯室を出た。手柄を立てるためではない。ただ直せるものを放っておけないだけだった。その癖は父から受け継いだものかもしれない。父もまた壊れたものを黙って直す人だった。何も語らず、ただ手を動かす人だった。

メイはふとその背中を思い出し、そっと目を伏せる。自分にできることは今はこれくらいしかない。それでも腐らずに続けていくしかなかった。メイは気持ちを切り替え、午後の持ち場へと向かった。

その日もメイはいつも通り会長室の清掃をこなしていた。高幸は机に向かい、書類に目を通している。窓枠を拭き終え、机の下に掃除機のノズルを伸ばした瞬間だった。

かすかな電子音が耳の奥に触れた。一定の間隔でピーッとなっている。ブラインドのモーター音とは明らかに違う。メイは掃除機の電源を切り、そっと膝をついた。

机の裏、配線の隙間に黒い小さな装置が張り付いている。心臓が大きく跳ねた。高幸に伝えるべきか一瞬迷った。だが迷っている時間はない。

メイは静かに立ち上がり、高幸の傍らに歩み寄った。人差し指をそっと唇に当てる。

「会長、机の下に何か仕掛けられています。」

メイは周囲に聞こえないような声で伝えた。高幸の眉がぴくりと動いた。メイは机の裏を指差しながら、無意識に指先で机を叩く。トントントン、ツー。

その瞬間、高幸の顔から血の気が引いた。33年前の記憶が高幸の脳裏を一気に駆け抜ける。あの夜、工場で聞いた命綱の合図と寸分違わない。手にしていたペンが音もなく机に落ちた。高幸はメイの指先を凝視したまま動けずにいる。

「今の合図、どこで覚えた?」

震える声で高幸がようやく口を開いた。メイは突然のことに驚き、思わず一歩下がった。

「父に小さい頃教わりました。」

戸惑いながらもメイは正直に答えた。

「お父さんの名前は?」

高幸の声がかすかに震えている。

「立花周一です。」

その名を聞いた瞬間、高幸は崩れるように椅子へ座り込んだ。少し落ち着きを取り戻すと、高幸は机の下の装置に目を向けた。

「これはどういう仕組みなんだ?」

「配線の傷から見て後付けの送信機です。」

高幸は彼女の的確な説明に驚いた表情を見せた。何かとんでもないことが起きている。そう感じたが、理由はメイにもまだ分からない。

同じ頃、本社28階の副会長室では、青井幸一郎がモニターの前に座っていた。会長室の盗聴サーバーから届く音声をヘッドフォンで確認している。今朝の録音に聞き慣れない物音が混ざっていた。幸一郎は再生ボタンを何度も押し直した。

トントン、ツー。続いて高幸の震える声が入っている。「今の合図どこで覚えた?」

幸一郎の指先が止まった。そのリズムに覚えがある。33年前、工場の非常階段で幾度となく耳にした合図だった。あの夜、機械工場のボイラーが爆発を起こす。高幸は逃げ遅れ、瓦礫の下敷きになりかけていた。命を救ったのは当時の若い保全部の技師だ。だが幸一郎は事故の責任を別の誰かに負わせた。それが会社にとって最も都合が良かったからだ。

あの時、幸一郎は高幸の専務室付きの若手社員だった。事故の後始末を任されたのも幸一郎自身である。あの現場監督を追い出したのは会社を守るためだったはずだ。誰かが泥を被らなければ、責任問題は高幸にまで及んでいた。

幸一郎はそう自分に言い聞かせ、33年間生きてきた。今更過去を掘り返されてはたまらない。幸一郎は秘書の課を呼びつけた。

「新しく入った清掃員について、身辺を調べておけ。」

課は黙って一礼したものの、足取りはどこか重い。清掃員一人をなぜ調べるのか、理由は聞かされていない。違和感を覚えながらも、逆らう理由は彼にはなかった。

幸一郎は椅子の背に寄りかかり天井を見上げた。会長の座も家の名誉も自分が守ってきたものだ。それを脅かすものは、なんであれ排除するまでだった。幸一郎の目に静かな決意のようなものが宿った。

数日後の早朝、清掃員休憩室に保安チームが踏み込んできた。全員が見守る中、メイのロッカーが開けられる。鞄の底から黒い装置が姿を表した。続いて、札の入った袋も引きずり出される。

休憩室が水を打ったように静まり返った。クワ原が真っ赤な顔でメイに詰め寄る。実はクワ原自身も、副会長から契約を盾に脅されていた一人だった。

「貧乏人の分際で会社を裏切ったな、この盗聴犯が。」

メイは言葉を失い、その場に立ち尽くした。隣で見ていた先輩清掃員が気まずそうに目をそらした。数日前、缶コーヒーをくれた小玉の姿はそこにはない。誰も味方をしてくれる者はいなかった。

「その装置は初めて見ます。」

かすれた声でメイは懸命に言った。だが誰も耳を貸そうとしない。保安チーム長がタブレットの記録を突きつける。早朝の出入り記録がメイの不利を裏付けていた。

クワ原が即座に解雇を言い渡した。未払いの給料も、警察の捜査が終わるまで払えないという。入館カードと社員証をその場で回収された。保安隊員に両腕を掴まれ、メイはエレベーターへと連れて行かれる。

エレベーターの先、役員たちの間に高幸の姿があった。目があった瞬間、高幸の顔が苦しげに歪んだ。だが、高幸はその場で何も言えずにいる。まだ確証がない以上、迂闊に口を利けば疑いは高幸にも及ぶ。

正面玄関を出ると、冷たい風が頬を打った。ビルを振り返ると、ガラス窓に自分の姿がぼんやり映る。数分前まで身につけていた清掃員の制服は、もうどこにも見当たらない。

メイは振り返らず、まっすぐ前を見て歩いた。父の手術費を稼ぐ最後の当てが消えた瞬間だった。それでも涙はこぼれない。悔しさを噛みしめながら、メイは前を向き続けた。

メイが連れて行かれた後、高幸はしばらく動けずにいた。だがいつまでもこうしてはいられない。高幸は保安チーム長を呼び止め、低い声で命じた。

「警察への引き渡しは、一旦保留にしろ。」

突然の指示に保安チーム長は戸惑いを隠せない。だが高幸はそれ以上の説明をしなかった。

一人になった高幸は、没収された装置の写真を見返した。会長室の装置とロッカーの装置、その状態があまりに違う。一方は埃をかぶり、もう一方はまだ新しい。これではまるで、誰かが後から仕込んだようなものだ。

高幸は外部の鑑定機関に緊急の分析を依頼した。同時に、密かにメイの連絡先を秘書室に確認させた。その夜、高幸は自ら車を運転し、立花家のアパートを訪ねる。玄関先に立ったメイは、高幸の姿に驚きを隠せなかった。

「なぜここに?」

高幸は深く頭を下げた。

「疑いは必ず晴らす。少しだけ時間をくれないか。」

メイはすぐには頷けなかった。それでも高幸の目に嘘はないように見えた。

ちょうどその時、メイのスマートフォンが着信を告げる。画面には病院の文字が表示されている。

「立花さん、お父様の容態が急変しました。」

電話の向こうの声が緊迫していた。メイの顔から血の気が引いた。手術をこれ以上伸ばせない状態だという。メイの手からスマートフォンが滑り落ちそうになった。

「送ります。乗ってください。」

高幸は迷わず自分の車を差し出した。メイは一瞬ためらったが、すぐに助手席に乗り込んだ。車が走り出すと、メイの膝の上で拳が硬く握られている。高幸は無言のままアクセルを踏み込んだ。幸一郎の顔が高幸の脳裏を過る。あの男ならやりかねない。

待合室の長椅子で、メイと高幸は並んで座っていた。手術室の赤いランプはまだ消えない。沈黙に耐えかねたように高幸が口を開いた。

「立花周一さんは、33年前に私の命を救ってくれた人だ。」

メイは思いがけない言葉に息を飲んだ。高幸はあの夜のことを静かに語り始めた。機械工場のボイラーが爆発し、高幸は瓦礫の下敷きになりかける。その時駆けつけて助け出してくれたのが周一だった。

「会長室の写真。あれは当時の工場チームだ。お父さんも映っている。トントン、ツー。あれは危険を知らせる、周一さん公案の合図だ。」

高幸は静かに続けた。

「事故の後、彼の行方が分からなくなった。ずっと探していた。」

メイの目に涙がじわりと滲んだ。父が過去を語らなかった理由が、ようやく分かった気がした。

「どうして今まで探してくれなかったんですか?」

メイの声は責めるようでいて、どこかすがるようでもあった。高幸はしばらく黙り込んだ。

「探した。だが当時の記録がどこにも見つからなかったんだ。」

ちょうどその時、高幸のスマートフォンが震える。外部鑑定機関からの緊急連絡だった。ロッカーの装置は発見前日に電源が入ったばかりのものだという。一方、会長室の装置はメイの入社より三ヶ月も前から作動していた。高幸の顔に確信の色が浮かんだ。

「これであなたの無実は証明された。」

高幸がそう言った直後、手術室のランプが静かに消えた。白衣の医師が扉から姿を表す。

「手術は無事に終わりました。」

メイはその場に崩れ落ちそうになった。高幸がその体をそっと支える。回復室のベッドで、周一がゆっくりと目を開けた。

「メイ。」

かすれた声で周一が娘の名を呼んだ。メイは父の手を握り、こくりと頷いた。高幸は静かに一歩下がり、二人の時間をそっと見守っている。

数日後、メイは本社の会議室に呼ばれた。高幸が清掃委託会社と社員たちの前で口を開いた。

「立花メイさんへの疑いは完全に晴れました。」

静まり返った会議室に高幸の声が響く。

「証拠を捏造し、彼女を落とし入れようとした者がいます。必ず責任の所在を明らかにします。」

メイは大勢の視線の中で背筋を伸ばして立っていた。もう俯く必要はない。

高幸は続けて、もう一つのことを告げた。

「彼女の父、立花周一さんは33年前にこの会社の社員の命を救った恩人です。」

どよめきが会議室に広がった。クワ原の顔がみるみる青ざめていく。会議室の隅には小玉の姿もあった。小玉はメイと目を合わせると、小さく頷いて見せた。その顔に寂しさではなく安堵の色が浮かんでいる。

高幸はメイの解雇と未払い賃金の撤回をその場で正式に発表した。加えて、清掃委託会社との契約見直しも指示する。

廊下に出ると、あの先輩清掃員が駆け寄ってきた。

「ごめんね。あの時何も言ってあげられなくて。」

先輩は目に涙を浮かべて頭を下げた。メイは静かに首を振った。

会議の終わり、高幸はメイを別に呼んだ。

「これから施設保全のチームで働いてみないか?あなたの手には確かな技術がある。」

メイは思いもよらない申し出に言葉を失った。清掃員としてではなく技術者として。そんな未来を考えたことすらなかった。

「父のような仕事が私にもできるでしょうか?」

メイの声はかすかに震えていた。

「できる。あなたはもう証明している。」

高幸はまっすぐに目を見て頷いた。メイの目からこぼれきれない涙がこぼれる。父の背中を追いかける道が、こんな形で開けるとは思わなかった。それでも、これが自分の選んだ道だと感じた。

数日後、臨時の取締役会が招集された。議題は一連の不正行為の全容解明だった。幸一郎は余裕の表情を崩さず出席する。高幸が静かに口を切った。

「社員へ罪を着せた証拠と、装置の出所が判明しました。」

大型モニターにフォレンジック分析の結果が映し出される。続いて、課が会議室に足を踏み入れた。幸一郎の顔から初めて余裕が消えた。課は震える手でスマートフォンを掲げる。

「あの清掃員を落とし入れろ。証拠を仕込ませろ。」

録音された幸一郎自身の声が、会議室に響き渡った。

「録音は副会長ご本人のものと確認済みです。」

専門家が淡々と告げる。幸一郎は椅子から立ち上がり、声を荒げた。

「これは罠だ。何者かが仕組んだ罠だ!」

だが誰も彼の言葉を信じなかった。続いて33年前の事故記録と、クワ原の自白書も提出される。高幸が探しても見つからなかった記録は、幸一郎が当時隠していたものだった。

幸一郎を庇う声はもう会議室のどこにもなかった。数分前まで味方だった取締役たちが、次々と視線をそらしていく。会議室のドアが開き、警察官が入ってきた。

「証拠偽造、業務妨害、不正アクセスの容疑で同行願います。」

幸一郎は最後まで「自分は会社を守っただけだ」と言い張った。だが高幸は静かに首を振った。

「もう、後ろに隠れる場所はありません。」

手錠をかけられた幸一郎が会議場から連れ出されていく。高幸は損害賠償請求も辞さない構えを示した。幸一郎の個人資産は裁判所の判断で凍結される見通しとなった。副会長の地位は即日剥奪され、刑事告発の手続きが進められる。クワ原もまた、清掃委託契約の打ち切りと共に職を失った。

幸一郎が33年かけて築いたものが、その日のうちに崩れ去る。課はようやく肩の荷が下りたように息を吐いた。これでもう、家族を人質に取られることはない。

数ヶ月が過ぎた。周一は無事に退院し、少しずつ体力を取り戻していった。リハビリを終えた足取りは以前より軽やかになっている。

ある晴れた日、高幸が立花家のアパートを訪れた。玄関先で高幸と周一は互いに向き合う。33年ぶりにかわす言葉らしい言葉はなかった。代わりに、高幸が指先で空中を軽く叩いた。トントントン、ツー。

周一の口元に静かな笑みが浮かんだ。

「まだ覚えていてくれたんですね。」

「忘れるはずがない。命の恩人の合図だ。」

高幸の声はかすかに湿っていた。高幸は周一に向き直り、深々と頭を下げた。

「あなたが救ってくれた命で、私はここまで来られました。」

周一は静かに首を振った。

「礼はいい。ただ、娘をよろしく頼みます。」

その言葉に高幸は深く頷いた。メイは少し離れた場所でその光景を見守っていた。父と高幸の間に流れる時間が、ようやく追いついた気がする。

総点グループは機械工場の事故を教訓に、安全基準を全面的に見直した。周一の功績は会社に正式な記録として残されることになる。

総点グループの施設保全チームで、メイは三ヶ月目を迎えていた。先輩技師について、ハイセンス図の読み方を一つずつ学んでいる。

「筋がいいな、立花さん。」

先輩技師が関心したように呟いた。ロビーですれ違った小玉がメイに気づいて手を挙げた。

「立派になったな、立花さん。」

小玉は嬉しそうに目を細めた。メイは笑って小さく頭を下げる。

その日もメイは誰かに何かを教わりながら、静かに手を動かしていた。ふと、電気パネルに触れる前に、軽くパネルを叩く。トントン、ツー。

それはもう意味の分からない癖ではない。父から娘へ、そして娘からまた誰かへ。継がれていく、命を守るための合図だった。

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