「身の丈にあった生活ってものがあるからな。貧乏人に高い料理は不要だ」
目の前で、息子の婚約者の家族が私を「貧乏人」と罵った。せいやの顔が強張るのが視界の端に見える。婚約者であるナツキは俯いて唇を噛んでいるが、前髪の隙間から自分の家族を睨みつけていた。
私は水を一口飲んでから、静かに口を開いた。
「貧乏人って、どなたのことでしょう?」
一瞬、場の空気が止まった。下品な笑い声が途切れ、三人がこちらをまじまじと見る。私は表情を動かさずに、ナツキの父親である幸介を視界に収めた。
「はあ? 何言ってんだ。お前だよ」
幸介の返答をきっかけに、三人は再び楽しそうな声をあげる。
地獄に落としてやろう――。
心の中で呟いた物騒な言葉は、私の中では最も正確な表現だった。
私の名前は織田リナ。58歳の兼業主婦だ。地方都市の出身で、特別裕福でも貧しくもないごく普通の家で育った。両親は共働きで、私の質素な生活は堅実な両親から受け継がれたものだ。特に母は家庭の事情でお金に困った経験があり、節約を美徳としていた。
「お金は手段であって目的とは違うわ。一生懸命働いて稼ぐのは悪いことではない。でも、お金を得るために必死になりすぎて、手段が目的にならないように気をつけなさいね」
まだ子供だった私は、母の言うことの半分も理解できていなかったと思う。しかし、この考えは大人になった今も深く根付いている。
都心の大学に進学後、都内の投資会社に入社。両親の教育のおかげで、小さい頃から数字には強かった。入社後、資料作成や分析業務などで着実に評価を積み上げ、28歳になる頃には周りから頼られることも増えていた。夫のたかしと出会ったのはこの時期だ。いつまでも彼氏ができない私を心配した友人が、知り合いのたかしを紹介してくれた。彼は自身の利益より周りを優先するタイプで、穏やかで誠実な男性だった。同じ年代ということもあり話が合い、出会って1ヶ月後にはたかしから告白されてお付き合いを始めた。
「私は男性に人気がないタイプだけど、あなたはそうじゃないわ。こんなにいい人なのに、なんで彼女がいなかったの?」
すると彼は笑いながらこう答えた。
「リナはとても魅力的な女性だよ。俺に彼女がいなかったのは、単純に仕事が忙しすぎたんだ。1年前まで付き合ってた彼女に『私と仕事どっちが大切なの』って迫られて、結局別れたんだ」
以来、なんとなく一人身で過ごしていたらしい。そんな時に私と出会い、仕事も落ち着いたタイミングだったので交際を決めたとのことだった。
私たちは順調に関係を進め、28歳の時に結婚。私が30歳の誕生日を迎えた直後、息子のせいやを出産した。私は一時休職を取得し、子育ての傍らで個人的に投資の勉強をしていた。投資の世界は日進月歩だ。次々と新しい産業が生まれ、情勢は日々変化している。会社を離れていても取り残されないように、私は一生懸命勉強に励んだ。もちろん育児と家事も手を抜かない。頑張りすぎて倒れそうになった時は、さすがにたかしに怒られたけれど、彼の協力もありなんとか大変な時期を乗り越えていった。
せいやはスクスクと成長していく。
「いつかせいやがお嫁さんを連れてくる日が楽しみだな」
小学校2年生になったばかりのせいやを膝の上に乗せ、たかしが楽しそうに呟いた。
「ったら、気が早すぎるわよ」
「そうかな?」
「僕、まだ結婚なんかしないよ」
三人で顔を見合わせ笑い声を上げる。私はこの世で一番幸せだと心の底から思った。
しかし、楽しい毎日は突然終わりを告げる。この年の秋、たかしが突然亡くなってしまったのだ。享年38歳。あまりにも急すぎる別れに、私は毎日泣いて過ごしていた。せいやも最初は落ち込んでいたが、私があまりにも悲しんでいたからだろうか。
「俺がママを守るからね」
自宅の仏壇の前で泣いていると、せいやが私の手をギュッと握る。まだ小さいのに、彼の瞳はとても力強かった。
「せいや、ありがとう。じゃあ、せいやの言葉に甘えて、ママもせいやを守るね。お互い守り合っていこう」
優しくせいやを抱きしめる。もし彼がいなかったら、私はずっと悲しみに暮れていただろう。
この日から私は前を向いて歩き出す。仕事をしながらせいやの子育てにも全力で取り組んだ。せいやも自分にできることを頑張ってくれた。簡単な家事をして私をサポートしたり、勉強に一生懸命取り組んだり。ある日、満点のテストを手に帰宅したせいやは、嬉しそうにニコニコと笑っていた。高校は県内で一番偏差値の高い学校に進学し、大学も都内の高偏差値の学校に合格。優秀な成績を納め、大手不動産会社に入社した。
「母さん、本当に一人で大丈夫?」
玄関先で心配そうな顔をして立っているのは、25歳になったせいやだ。彼は今日、一人暮らしを始めるため長年住んだ家を出ていく。すでに荷物は引っ越し先のアパートに運んであるので、手荷物一つを持って向かうだけだ。しかしせいやはいつまで立っても新居へ向かおうとしない。この家に一人残る私を心配しているのだ。
「母さん、仕事や人前ではちゃんとできるけど、プライベートは抜けてるからな」
「ちょっと聞き捨てならないわね」
せいやの肩を小突く。彼は笑顔を浮かべ、それから私をまっすぐ見つめた。
「何かあったらすぐ連絡してね。いい?」
「もちろんよ。ていうか、あなたの引っ越し先のアパート、ここからそんなに遠くないし」
道が渋滞していなければ車で20分程度の距離だ。お互いすぐ駆けつけられる場所にある。
「ほら、早く行きなさい」
「分かったよ。あ、来週末は帰るから」
「はいはい。待ってるわね」
寂しい気持ちは表に出さないようにしてせいやを見送った。この家で一人で暮らすのは初めてだ。静かすぎて落ち着かない。
最初は寂しい毎日だったが、時が過ぎれば自然と慣れていく。一人暮らしもすっかり板に着いた頃、自宅でのんびりしていたところ、28歳になったせいやから電話がかかってきた。
「あのさ、母さん、紹介したい人がいるんだけど」
少し恥ずかしそうな声にピンと来る。おそらく彼は結婚相手を連れてくるのだろう。
「もちろんいいわよ。週末はいつでも暇だから」
「あ、ありがとう。じゃあ来週はどう?」
「いいわね。美味しいお菓子とお茶を用意して待ってるわ」
電話を切った後、急いで仏壇へ向かう。自宅で一番日当たりのいい和室だ。柔らかな日差しに照らされ、家の中のたかしが笑顔を浮かべている。
「大変よ、たかし。せいやが彼女を連れてくるわ。あなたもいてくれたらよかったのに」
もし彼が生きていたら、踊り出すくらいの勢いで喜んだだろう。慌てふためいているたかしを想像して、思わず吹き出してしまった。
一週間後、せいやが連れてきたのは優しそうな女性だった。
「は、初めまして。川野のナツキと言います」
「よく来てくれたわね。さあ上がって」
緊張でカチコチになり、頬が赤くなっているナツキが可愛らしい。よく手入れしているであろう長い黒髪と、清潔感のある白のワンピースがとても似合っていた。リビングに通して少し会話すると、ナツキの緊張も徐々になくなっていく。
「お母さん、投資会社にお勤めなんですか? 実は私、投資に興味がありまして、資産形成のために始めようかなと考えてるんです」
「あら、そうなの。もしよければ色々教えてあげるわよ」
「本当ですか? ありがとうございます。あ、すみません。まだ結婚してないのに、お母さんなんて呼んじゃって」
ナツキが気まずそうに片手で口を押さえた。私は笑いつつ返す。
「別にいいわよ。近いうちにそうなるんでしょ」
せいやの方を見ながら問いかけると、彼は嬉しそうに頷いた。
「ナツキとは結婚を考えてるんだ。というか、もうプロポーズした。あとはお互いの家族に話すだけだよ」
「ええ、やるじゃない、せいや。ところで、こんな素敵な女性とどこで知り合ったの?」
「2年前に知り合いの紹介でね。本当、俺にはもったいないくらいの素晴らしい女性だよ。俺が会社を立ち上げた時も、ずっとそばで支えてくれたんだ」
せいやは1年前、大手不動産会社を退職し、大学時代の同級生と起業した。経営は順調と聞いている。仕事が落ち着いたタイミングでナツキにプロポーズしたらしい。ちなみにナツキは都内に本社を置くハウスメーカーで経理事務として働いているそうだ。数字に強いという共通点もあり、私たちはすぐに意気投合した。
「川野さんの家にはいつ行くの?」
「来月頭に行くつもりなんだけど、母さんも来てくれないかな? あちらのご家族が母さんに会いたいって言ってるみたいで」
「ええ、いいわよ」
特に深く考えず了承する。しかし、ナツキの顔がなぜか曇った。
「あの、お母さん、変な話になるんですけど、うちの家族少し変わってるんです。もしかしたら失礼なことを言うかもしれません」
せいやの方を見る。彼も首をかしげ、不思議そうな顔をしていた。まだ短い付き合いだが、ナツキは気遣いのできる人だと思う。私を気にかけるあまり、大げさな言葉が出てしまったのだろう。
「大丈夫よ」
そう返すと、ナツキは少しだけ表情を緩める。当時の私は、初めての顔合わせがとんでもない波乱を招くことになるとは想像すらしていなかった。
翌月、川野の家を初めて訪問する日が来た。手土産は百貨店に入っている老舗和菓子店の詰め合わせにした。初対面の相手に過剰なものを自賛するのは、返って失礼に当たると思っている。高すぎる贈り物は相手に気を使わせ、安すぎるものは顔合わせの場にふさわしくない。一生懸命考えて適切な品を選んだつもりだ。
駅から歩いて10分。川野の家は2階建てのごく普通の一軒家だ。外観は手入れが行き届いており、玄関先には季節の花が植えられたプランターが並んでいる。私が代表して呼び鈴を押すと、程なくドアが開いた。
「いらっしゃい」
最初に姿を表したのは、私と同じくらいの年齢の女性だ。
「初めまして。川野の母の由香です。織田リナと申します」
玄関先で軽く挨拶を交わす。由香はフランスの高級ブランドのジャケットに、かっちりとしたスカートを合わせていた。アクセサリーは大振りのものをいくつも重ね付けしている。センスはいいが少し派手だなと感じた。彼女は私の顔を見るより先に、全身を隅々まで眺め回す。上から下へ動く視線は、品定めをするような目つきだった。
「ふうん。地味な人ね。え、どうぞ。入ってちょうだい」
素っ気ない声を掛けた私を無視し、由香は家の奥へ向かう。聞き間違いだろうかと思いつつ自分の服を見た。今日の私はシンプルなジャケットに落ち着いた色のパンツを合わせている。着心地と品質を重視して選んだ服で、地味に見えなくもない。戸惑いつつせいやたちと一緒に由香の後に続く。
通された部屋は応接間のようだ。広めの部屋には重厚な家具が並び、壁には風景画が飾られている。そしてソファーの中央にどっしりと腰を下ろしている高齢の女性がいた。不遠慮な視線を私に向けている。隣には私と同じ年代の男性が座っていた。体格の良い彼の体重を受け止めたソファーが深く沈んでいる。
「本日はお招きいただきありがとうございます。これ、つまらないものですが」
私が手土産を差し出すと、ソファーの横にある椅子に座っていた由香がさっと腕を伸ばして受け取る。無造作に紙袋から中身を取り出し、包装紙に包まれた箱をじっと見つめた。
「あら、このお菓子、百貨店に入ってるお店だけど、夢中になるほどでもないわね。値段は手頃だわ。婚約者の家族に出すには安すぎるわね」
ナツキの顔が強張るのが視界の端に映った。せいやも驚いた表情を浮かべた後、眉を潜める。やはり先ほどの「地味」発言は聞き間違いではなかったようだ。内心かなり驚きつつ、表情は変えない。
「お口に合えば良いのですが」
由香の表情が少し歪む。私が一切動揺していないのが予想外だったらしい。
「ナツキの父の幸介だ」
「祖母の雪子よ」
ソファーに座っていた二人がぶっきらぼうに自己紹介する。口調に丁寧さはない。私たちに向ける視線も不遠慮なもので、居心地の悪さを感じた。どうしたものかと考えていると、先に雪子が口を開く。
「来たのはお前だけなのか? ご主人は」
「夫は20年ほど前に亡くなりました」
「はあ、ちょっと、ナツキ。そんなこと聞いてないんだけど」
雪子のとがった声がナツキへ向かう。私の隣に座っている彼女はうつむき、視線を彷徨わせた。さらに雪子は私の真横にいるせいやを見て、わざとらしいため息をつく。
「まさかよりによって片親なんて。片親家庭なんて、ろくな子供が育たないわよ」
三人の目は最初は私を値踏みするものだった。しかし、今は全員の瞳が嫌悪感に満ちている。私は無表情のままだったけれど、内心とても混乱していた。これが初対面の人間に対しての態度なのか。あまりにも非常識すぎると思った。
「で、君は何の仕事をしてるんだ?」
「え? あ、私はITコンサルの会社を経営してまして」
「ITコンサル? よくわからん仕事だな。なんか怪しくないか?」
幸介が同意を求めるように隣に座る由香を見る。彼女は馬鹿にした目でせいやを見ながら頷いて返した。
「そんなことありません。せいやは大学の同級生と会社を立ち上げて、着実に実績を積んでいます」
「俺の時代にはそんな怪しい仕事なんてなかったぞ。全く。最近はAIやらITやら、よくわからん変な仕事が多くて困るなあ」
彼の口ぶりから察するに、いわゆる昔ながらのタイプらしい。ナツキが言っていたことを思い出す。幸介は営業部の課長を務めていた。足で稼ぐ営業マンだったようだ。それが悪いこととは言わないが、最新技術の仕組みを理解せず、分からないものを怪しいと決めつけるのはどうかと思う。
「で、あなたのお仕事は?」
雪子に問いかけられ、私は即座に返す。
「投資会社に務めています」
「息子も怪しければ、母親も怪しいわね。最近、投資に関する詐欺話をよく聞くわ。他人を騙して稼いでるってこと。あらあら、嫌だわ。うちは詐欺師と親戚になるつもりはないわよ。まあ、商売はうまくいってないようだけど」
雪子は私をじろじろと見回し、はっと鼻で笑った。質素な見た目だけを根拠に貧乏と判断したらしい。外見だけで相手を判断する人たちのようだ。しかし、私は黙って話を聞いていた。反論することは簡単だが、言い返したところで低レベルな論争になるだけだ。それに顔合わせの場をこれ以上台無しにしたくない。せいやも同じ考えのようで、不快さを滲ませつつも口を閉ざしていた。ナツキは申し訳なさそうに俯いている。
そんな私たちを一切気にかけず、雪子が聞いてもいないことを語り始めた。
「私の実家は旧家よ。格式のある家は、誰かが受け継がなければならないの。ナツキはそんな我が家の一人。どこぞの馬の骨にやらせるわけにはいかないわ」
その後も雪子のワンマンショーが続く。彼女の実家は地元では名の知れた家柄だったらしい。長々と続く語り口は、私たちに自慢したいという気持ちもありながら、自分に言い聞かせているようにも感じた。一瞬だけナツキを見ると、彼女は膝の上で手を固く結び、顔を真っ赤にしていた。祖母の自慢話が恥ずかしいのだろう。この家族の中で彼女だけがまともな神経の持ち主だった。
一通りの話が終わり、お茶が運ばれてきた。味はかなり薄い。由香が嫌みったらしい笑みを浮かべながら口を開く。
「リナさんって、趣味はあるの?」
「読書が好きです。あとは仕事柄、経済の動向を追うことでしょうか」
「まあ、地味ね」
二度目の「地味」攻撃に、怒りを通り越して呆れてしまう。最初はあまりの非常識な発言に驚いたが、もはや慣れてしまった。
「私は料理教室にも通ってるし、テニスもしてるわ。そういうのが一つや二つないと、女性としての品格が落ちるじゃない」
「そうですね」
これ以上由香と話をしたくなかったので、感情を込めず短い返事をする。彼女から視線を外し、お茶を飲むことで「あなたの自慢話はこれで終わり」だと暗に伝えた。由香が気に食わないと言いたげな目で私を睨む。しかし、一人を抑え込んでも、別の人間が代わりに口を開く。三人がかりというのは、とても厄介だ。
「若い人間が会社を立ち上げたって、そううまくはいかんぞ。すぐに潰れるんじゃないか」
「そうしたら、母親の怪しい仕事でも手伝うのかしら」
「旦那さんがご存命だったら、そんな仕事をしなくても済んだかもしれないわね」
結局、最後までこのような調子で私たちは馬鹿にされ続けた。滞在時間はわずか1時間ほど。
「あら、もうこんな時間ですか? そろそろ失礼しますね」
耐えきれなくなった私が無理やり話を終わらせた。三人が何か言う前に立ち上がり、玄関へ向かう。せいやとナツキは少し慌てながら私の後に続いた。しかし、ナツキの家族は最後まで嫌味をやめない。玄関先で靴を履いていると、わざわざついてきた雪子が、最後に歪んだ笑みを浮かべて一言放った。
「リナさん、体に気をつけなさいね。お一人では何かと大変だろうから」
気遣いのように聞こえるけれど、声は嫌みったらしい。私は無表情のまま丁寧に頭を下げつつ、お礼の言葉を返した。
川野の家を出てしばらく、三人で並んで歩く。すると、ナツキが突然立ち止まり、私とせいやに向かって謝罪した。
「本当に申し訳ありませんでした。前から口が悪い人たちでしたが、まさか初対面の方に対してあんなことを言うなんて」
ナツキの体がブルブルと震えている。やがて顔を上げた彼女は、情けなさと怒りが混じった表情を浮かべていた。
「ナツキさん、あなたは何も悪くないわよ」
ナツキの肩を軽く叩く。せいやも頷いて同意した。
「まあ、少し驚いたけどね。言っておくけど、ナツキとの結婚を考え直すなんてことはないから安心してくれ」
ナツキの目が潤む。彼女は唇を噛みしめ、少し間を置いてから口を開いた。
「私、ずっと限界だったんです。せいやと結婚したら、あの家とは距離を置くつもりでいます。もう二度と顔をまたぐつもりはありません」
ナツキの声に迷いはない。彼女は今までずっと我慢してきたのだろう。初対面の他人に対してもあの調子だ。身内のナツキは、もっとひどいことを言われていたのかもしれない。
「あなたがそう決めたなら、私は全力で協力するわ」
「俺もだよ」
ナツキが目を丸くした後、嬉しそうに微笑む。私は彼女の肩を抱き、せいやは手を握った。
川野家との顔合わせから1ヶ月が過ぎた。せいやとナツキの結婚話は一応前に進んでいる。式場探しや結婚後の生活など、二人で色々話し合っているようだ。しかし、川野家との交流は毎回眉をひそめるはめになった。由香たち三人は顔を合わせるたび、挨拶のように嫌味を言ってくる。この1ヶ月で何度かあったが、罵倒されるのはもはや高齢となっていた。
最初の出来事は顔合わせから1週間後、せいやとナツキが我が家にやってきて結婚式の費用について話し合った時だ。私もいくらか出すつもりだったので、見積もりが記載された書類を持ってきてほしいとせいやに依頼する。
「これが書類だよ。最近の値上がりは結婚式も無関係じゃないらしい」
せいやがため息をつきながら書類を渡してきた。すると、ナツキが少し沈んだ様子なのに気づく。
「ナツキさん、どうしたの?」
「あの、結婚式はやらなくてもいいのではないでしょうか」
「どうして? ナツキ、ドレスを着るのが夢だって言ってたじゃないか」
せいやの問いかけに、ナツキが気まずそうに視線を床に落とす。何かおかしいと感づいたのは私だけではなかったようだ。
「ナツキさん、何かあったのね。もしかして、家族に何か言われたのか?」
ナツキはもごもごと口を動かす。やがて悲しそうな顔で頷いた。
「母からこんなメールが送られてきて」
ナツキはテーブルの上にスマホを置く。画面には長々とした文章が表示されていた。差し出されたスマホを手に取り、画面を見る。メールの件名は「結婚式について」という簡素なものだ。しかし、中身はかなりの長文だった。
「何こりゃ」
由香はメールでも偉そうに上から目線であれこれとナツキに命令している。会場は市内の高級ホテルにすること。ドレスは有名デザイナーのオートクチュール以外は認めない。引き出物は老舗料亭の特上品で、ブーケはヨーロッパから直輸入のものにしなさいと書かれていた。丁寧にそれぞれの金額と合計金額も記載されている。そして、由香からのメールはこう締めくくられていた。
「川野家の格にふさわしい式にするためには、これが最低限の内容。男性側が多く出すのは昔からの決まりだと、あちらの家に伝えておきなさい」
なるほどね。図々しいにも程がある内容だ。自分たちが見栄を張るための代金を、こちらに押し付けようとしている。思わず声に怒りが滲んでしまい、ナツキがびっくりと肩を揺らした。
「あ、ごめんね。ナツキさんに怒ってるんじゃないのよ。こんなメールが送られてきたから、ナツキさんは結婚式自体をなくそうとしたのね。私たちに迷惑をかけないように」
ナツキが弱々しく頷く。
「母さんの要望通りにしなかったら、何を言われるか。もしかしたら、会場で暴れて結婚式を台無しにするかもしれません」
泣きそうになっているナツキの方を、せいやがそっと抱いた。私も彼女に優しく声をかける。
「ナツキさん、あなたのお母さんに電話をかけてくれない? 私、言いたいことがあるの」
「え? わ、分かりました」
ナツキが震える手で電話をかける。数コールの後、由香が電話に出た。
「あ、由香さんですか? 私、リナです。先日はどうも」
「何の用?」
「軽んじた様子の由香に、私はあっさりと返した。ナツキさんから結婚式の費用についてのメールを拝見しました。ご提示いただいた内容で対応できますよ。もし他に希望があれば、遠慮なくおっしゃってくださいね」
電話の向こうで由香が一瞬だけ黙る。想定外の返答に面食らっているらしい。高額な要求で私が怯む展開を想像していたのだろう。少しの間の後、馬鹿にした声が聞こえてきた。
「無理しなくていいわよ。あなたって、地味な見た目の割に張り切り屋なのかしら」
「いいえ、張り切りではありません。本当にお支払いできます。こちらが多めに出せばいいんですよね。7割程度でよろしいでしょうか?」
「主人と相談して、ナツキに伝えておくわ」
私の返事を待たず、電話を切られた。
「ありがとう、ナツキさん」
スマホを返すと、ナツキはポカンとした顔で私を見ていた。私は苦笑いを浮かべつつ彼女に訪ねる。
「ナツキさん、あなたはこのメールの内容で結婚式をあげたいの? 別プランがいいなら、ちゃんと言わないと。結婚式は一生の思い出よ。悔いのないようにしなさい」
はっと我に帰ったナツキが、勢いよく首を横に振った。
「母の提示した内容の式をあげたいとは、これっぽっちも思っていません。私はせいやと二人で話し合って決めた式をあげたいです」
「そうよね。私もそれがいいと思うわ。お母さんのメールは参考程度に受け取っておきましょう。大丈夫。もしあの人が当日暴れても、私が取り押さえるから」
「せいやがうんうんと頷き、私の方を見る。母さん、これでも結構鍛えてるんだよ。ナツキのために始めたジム通いが、いつの間にか本格的になっちゃってさ。力の強さだけなら俺と同じくらいかも」
「由香さんは細身だし、余裕で止められるわね。事前に式場のスタッフに事情を話して対応してもらってもいいし。対応策なんていくらでもあるわ」
「俺たちがいるしね。何も心配しなくていい。ナツキは楽しいことだけ考えて。俺と母さんがナツキを絶対に守るから」
冗談混じりの私たちの言葉に、ナツキが少し表情を緩めた。この後はみんなで式について相談しつつ、楽しい時間を過ごした。
しかし、由香からの嫌がらせはこれで終わらなかった。
一週間後、週末に仕事の休みでのんびりしていたところ、由香が家に訪ねてきたのだ。顔合わせの際に連絡先を渡していたけれど、事前の連絡はなかった。
「どうも、リナさん。お邪魔するわね」
玄関先に、化粧で厚く固めた顔に笑みを貼り付けた由香が立っている。私が止める間もなく、彼女は細い体を玄関に滑り込ませた。
「ふうん。普通の家ね。リナさんみたいに、何の面白みもない地味なデザインだわ」
失礼なことを言う由香の背中を見ながら、混乱する頭を何とか落ち着かせる。追い返すことは簡単だが、突っけどんな態度を取って波風を立てたくない。せいやとナツキは今大切な時期なのだ。それに、事前に連絡もなく我が家に来るだけなら、大した被害ではないだろう。
「こちらへどうぞ」
リビングに案内し、来客用の椅子に座らせた。
「ああ、喉が乾いた。冷たいコーヒーを入れてちょうだい」
腰を下ろした由香が偉そうに命令する。私がコーヒーを入れている間、彼女は部屋の中を品定めするように視線を巡らせていた。テーブルに持っていくと、お礼も言わずコーヒーカップを手に取る。
「近くまで寄ったから、寄ってあげたのよ。この前もらった連絡先に住所が書いてあったでしょ」
「そうだったんですか」
「あの日はあんまり話せなかったじゃない。あなたとゆっくり話がしたくてね」
今日はどういう嫌味が出てくるのかと思ったら、彼女の口から飛び出したのは自慢話だった。どうやら今回はマウントを取ることで満足感を得ようとしているらしい。
「今日はお料理教室の帰りだったの。駅前の教室でね、有名な先生が指導してくれるのよ」
「そうなんですか」
「お値段はちょっと高いけど、高級食材を使ったお料理が作れるし」
聞いてもいないことをペラペラと喋り続ける由香。その姿は家柄を自慢する雪子を彷彿とさせた。ナツキの話によると、雪子は幸介の母親らしい。由香と血は繋がっていないが、長年一緒に暮らしているためか、嫌な部分がそっくりになったようだ。彼女の自慢話は、ナツキに絡んだ内容もあった。
「ナツキが大学を卒業できたのはね、私が一生懸命働いたからなのよ。奨学金の手続きって大変なのよ。私が調べて全部やってあげたの。あの子が進学できたのは、私のおかげなんだから」
この発言に、私は思わず口を挟む。
「大学に進学できたのは、ナツキさんの実力では? 奨学金は成績優秀者を対象としているものがほとんどです」
奨学金は誰でも受給できるものではない。せいやによると、ナツキは成績優秀者が使える奨学金を利用したらしい。由香の力ではなく、ナツキが努力したから大学に進学できたのだ。偉そうに胸を張っていた由香の目がわずかに揺れる。しかし、すぐに立て直し、強い口調でこう言い切った。
「手続きも大変なのよ。というか、娘を一流大学に進学させるのがどれほど大変か、あなたに分かる?」
もちろん理解している。せいやもいい大学を出ているからだ。彼は奨学金を使わなかったが、受験合格のために私もできる限りのサポートをした。けれど、由香は聞く耳を持たないだろう。
「それは大変でしたね。まあ、私たちの時代と比べて大学受験の難易度も高くなっているみたいですし、今の時代、親も子も苦労しますよね」
お茶を飲みながら当たり障りのない返事をする。すると、由香が気まずそうに視線をそらしていた。
「私、大学は行ってないのよ」
「そうだったんですか」
「大学進学しない人は、今も昔も別に珍しくないしね。無神経な親戚が学歴のことで私を馬鹿にしてきたけど、まあ、学歴をネタにする奴らなんてレベルが低いし、まともに相手にしなかったけどね」
言い訳をするように必死で動かす由香。彼女の話によると、結婚した直後、幸介の親戚から学歴について散々嫌なことを言われていたらしい。どうやら由香は学歴に対してコンプレックスを抱いているようだ。私は他人を冷静に観察するのが得意なのだ。どうやら由香はナツキを有名大学に進学させることで、自身の学歴コンプレックスを消そうとしたらしい。親戚に馬鹿にされ、彼女の考えは歪んでしまう。他人を学歴や肩書き、収入で格付けする人間になったのだ。
「リナさんって、この家に一人ぼっちで暮らしてるんでしょ? かわいそうにね」
言葉では同情するふりをして、こちらを見下す目を向ける由香。私のように若くして夫を亡くした人間は、彼女にとって格好の的なのだろう。私を見下して自分の方が上だと感じる。そうすることで歪んだ優越感を覚えているのだ。
哀れな人だと思う。しかし、かわいそうだからと言って由香に寄り添うつもりはなかった。この日は由香の自慢話で話が終わった。由香が帰った後、大きなため息をついてお茶を飲み直す。
「強烈な人ね」
小さな呟きは、一人の家に夜けに響いて聞こえた。
私というサンドバッグを見つけ、由香は調子に乗ったらしい。翌週末には幸介を連れて我が家を尋ねてきた。今回も事前連絡はなしだ。
「大したことないな」
幸介は私の家を見て、由香と同じように馬鹿にする。似た者夫婦とはこのことだ。
「どうぞお入りください」
言いたいことをぐっと飲み込み、二人を家に上げる。リビングに通すと、幸介は腕を組んだまま部屋を見渡す。
「こんな地味な家で暮らしてるのか」
「センスがないわよね。みたいに壺とか絵画とか置けばいいのに」
二人が好き勝手なことを言い合う中、幸介の視線がリビングの隣にある和室へ向いた。和室は仏間も兼ねている。幸介は迷いなく和室へ歩いていき、不遠慮にたかしの遺影を指さした。
「これが旦那さんか」
失礼な態度と物言いにカチンと来る。自分が雑に扱われるのは構わないが、家族は別だ。
「なんというか、普通の男性だな。リナさんにお似合いだ」
今までで一番の怒りを感じた。たかしは私にとって、せいやと同じくらい大切な人だ。先ほどの発言は、嫌味ではなく侮辱に値するものだった。
「それはどういう意味ですか?」
私の激しい感情を察したのだろうか。幸介は一瞬だけ気まずそうな表情を見せた後、ヘラヘラと手を振って答える。
「いや、別に大した意味はないぞ。優しそうな人だと思ってな」
彼は足早に仏間から出て行き、リビングの椅子に腰掛けた。由香がさりげなく話題を変える。
「お土産を持ってきたの。ほら、高級デパ地下のスイーツよ。最近テレビで取り上げられて話題になってたのよね」
「そうそう。わざわざ買ってきたんだ」
「ありがたく思え」と言葉の端に滲んでいた。私は無表情のままお礼を言う。その後は由香と幸介の自慢話と、私を見下す発言ばかりが続いた。
「自慢じゃないが、俺は仕事がそこそこできるタイプなんだ。しかし数年前に不動産開発の入札で、謎の投資会社に負けたことがあってなあ。そういう経験から、投資会社は疑ってかかるようにしているんだ。あなたのせいじゃなくて、その投資会社のせいなのに、事情をちゃんと理解していない上司に色々言われたのよね。皆さん、ひどいと思わない?」
「はあ、そうですね」
どうやら私の仕事を見下すのにも理由があったようだ。とはいえ、話を聞いても同情はできない。仕事で失敗を経験するのは、社会人なら仕方ないことだ。一時間後、幸介たちは満足げな表情で帰宅した。彼らが話した内容は、自分たちの自慢話と私への嫌みが大半だ。ぐったりしつつ二人を見送る。
次は何をしてくるのかしら――。失礼なことを考えてしまうほど、二人の相手は疲れるものだった。
また私を攻撃しようとしているのは、幸介と由香だけではない。
顔合わせから2ヶ月後、結婚式のプランがほぼ決まったため、せいやがナツキと共に我が家に報告に来た。しかし、ナツキの顔は曇っている。よく見ると何やら怒っている様子だった。
「ナツキさん、どうしたの?」
「それがさあ、お母さん、先に謝らせてください。うちのバカなおばあちゃんが、本当にすみませんでした」
自分の祖母を馬鹿に言うとは、あまり穏やかな話題ではないようだ。
「何があったの?」
怒りに震えるナツキが語ったのは、予想の斜め上の内容だった。雪子は、私が未亡人であることを理由に「結婚は縁起が悪い」と近所に言いふらしているらしい。さらに、私が怪しい仕事をしているという根拠のない噂も広めていたのだ。
「近所で仲良くしている人から連絡が来て知ったんです。おばあちゃんにはやめるように言いましたが」
ナツキの拳が膝の上でギュッと握られている。怒りと悔しさと申し訳なさが混ざり合っている様子だ。私は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「顔も知らない人に何を言われても、別に構わないわ。ナツキさんが気にすることはないから。でも、そうやってあなたが怒ってくれるだけで、私は十分よ。ありがとうね、ナツキさん」
ナツキの目に涙が浮かぶ。彼女は口を引き結び、強く頷いた。ナツキが私のために怒ってくれる。嫌な思いをした彼女には申し訳ない気持ちになるが、私は嬉しさを感じていた。
その日の夜、私は一人で仏壇の前に座った。線香に火をつけ、ゆらゆらと揺れる煙を眺めながら、たかしに向かって呟く。
「たかし、ナツキさんってね、すごくいい子なのよ。もし私に娘がいたら、あんな子だったかしらなんて思っちゃうわ」
家の中のたかしが穏やかな目で私を見ている。
「でも、あの子が本当の意味で幸せになるためには、家族とは何かしらの形で決着をつける必要があるでしょうね。大変なことになるかもしれないけど、私は全面的に協力するつもりよ」
ロウソクの炎が静かに揺れた。
初めての顔合わせから3ヶ月後、正式な結納の挨拶の場として、両家での食事会が設定された。せいやが「きちんとした場所で改めて挨拶をしたい」と言い出したのがきっかけだ。彼が予約したのは都内でも指折りの老舗料亭。創業100年を超える格式ある店だ。しっかりけじめをつけたいというせいやの気持ちの現れだろう。費用はせいやが全額負担するつもりで予約を入れたとのこと。電話で話を聞いた際、彼は笑いながらこう言った。
「このくらいすれば、あちらの家も文句は言わないだろう」
どうやら川野家に一泡吹かせたいという狙いもあったらしい。
「あの人たちのことだから、あなたが無理をして格式のある場所を選んだとか言いそうじゃない?」
「ありうるな」
残念そうな声が聞こえる。私は声を上げて笑い、せいやを慰めた。
そして、料亭での結婚挨拶の当日。私たちより先に料亭へ到着していた川野家は、個室で勝手に飲み物や料理を頼み、三人で楽しく過ごしていたようだ。私とせいや、ナツキが部屋に案内されると、幸介は酒に酔って赤くなった顔で私たちを迎えた。
「先に飲ませてもらってるぞ。まあまあの料亭だな」
神座にどっかりと腰を下ろした幸介が、部屋を見渡しながら言う。テーブルには空になったグラスがいくつか置かれていた。上品な料亭でする振る舞いではない。しかし、私は静かに自分の席へ向かい、彼の粗野な振る舞いは特に指摘しなかった。ナツキが申し訳なさそうな顔をしていたからだ。私が幸介に何か言えば、ナツキも気にするだろう。そこまで考え、あえて何も言わず黙って腰を下ろした。
今日の私は着物の姿だ。質素ではあるが、上等な生地で作られている。艶と柄の細かさは目の肥えた人間が見れば一目で分かるだろう。この着物はたかしが生前に贈ってくれた大切なものだ。どんな場所に行っても恥ずかしくない一枚をと選んでくれた。初めてこの着物に身を包んだ日、たかしは嬉しそうに目を細めていたのを覚えている。
由香の目が着物の上を滑っていく。そして、彼女は鼻で笑った。
「着物はレンタルかしら?」
「いいえ」
「ふうん。そうなの。あなたにお似合いの、地味な着物ね」
私はそれ以上何も答えず、彼女から視線を外す。答える必要はない。この着物は誰からの贈り物でいくらするのか。正直に答えても、由香の無神経な発言で大切な思い出を汚されるだけだ。
せいやとナツキも口を閉ざしている。一方的に喋っているのは川野家の三人だけ。投稿しているうちに、料理が順々に運ばれてくる。先付けから丁寧に盛り付けられた料理は、見るだけでも満足できるレベルの美しさだ。川野家の三人は目の前に並ぶ料理を前に、機嫌よく箸を伸ばしていた。仲居さんが私の前に器を置こうとしたタイミングで、私は静かに告げる。
「少しお腹の調子が優れないので、料理を残してしまうかもしれませんが、ご容赦ください」
実際に昨日から胃の具合が悪かった。最近は仕事が忙しかった上、社内で胃腸炎が流行っている。おそらくそれが原因だろう。緊張や遠慮が理由ではない。しかし、川野家の三人は違う受け取り方をしたらしい。お互い顔を見合わせ、にやりと笑う。その表情の意味を、私はすぐに理解した。
「あらあら、リナさんたら、こんな高級な料亭に縁がないから、場の雰囲気に圧倒されちゃったのかしら」
「身の丈に合っていない場所へ来て、緊張してるんだろうな」
「まあ、私は食べ慣れてるけどね」
ここぞとばかりに飛んでくる嫌味。私は無言で全て受け流し、胃に優しそうな料理にだけ箸を伸ばした。
「無理してこなくて良かったのにねえ」
隣に座る幸介に同意を求めながら、由香が馬鹿にしたように言う。幸介は酒の勢いもあってか、声を上げて笑い飛ばした。
「身の丈に合った生活ってものがあるからな。貧乏人に高い料理は不要だ」
「貧乏人」と真正面から罵倒され、せいやの顔が強張るのが視界の端に見える。ナツキは俯いて唇を噛んでいるが、目にかかった前髪の隙間から自分の家族を睨みつけていた。私は水を一口飲んでから、静かに口を開く。
「貧乏人って、どなたのことでしょう?」
一瞬、場の空気が止まった。下品な笑い声が途切れ、三人がこちらをまじまじと見る。私は感情を動かさず、幸介たちを視界に収めた。感情的ではなく、静かな問いかけだったはずだ。それだけのことが、なぜか部屋の空気を一変させた。
「はあ? 何言ってんだ、お前だよ」
幸介の返答をきっかけにして、三人は再び楽しそうな声を上げる。腹を抱えている幸介の横で、雪子が追い打ちをかけようとした。
「やはりあなたは我が家の親戚にはふさわしくないわ。この縁談はなかったことに」
「それ以上は聞きたくありません」
雪子の言葉を遮ったのは、私ではない。せいやだ。よく通る、芯のある声だった。再び部屋の空気が一変する。川野家の三人は驚いたようにせいやを見ていた。せいやは表情こそ穏やかだが、目には怒りが滲んでいる。威圧感のある視線に、三人は思わず押し黙ってしまった形だ。
「こちらが黙って聞いてれば、数々の非常識な発言にはもううんざりです。謝罪を要求します」
せいやにやり込められたのが気に食わなかったのだろう。幸介が弾かれたように顔を上げ、せいやを怒鳴りつけた。
「片親のくせに、生意気な口を聞くな。貧乏人は心まで貧しいんだな。年上に対する敬意を知らんのか」
次の瞬間、胸の奥で何かがすっと冷えた気がした。私にとって家族は、この世で一番大切な存在だ。たかしとせいや、今はナツキも身内として認識している。この三人を馬鹿にされるのは、最も許しがたかった。
地獄に落としてやろう――。心の中で呟く。物騒な言葉だが、私の中ではそれが最も正確な表現だった。
「本日はご挨拶できて光栄でした。またゆっくりお話ししましょう」
静かに言い、先に席を立つ。やることは決まった。これ以上三人と顔を付き合わせる必要もないだろう。せいやとナツキが私に続く。川野家の三人が何か言いかけたが、私は一切振り返らず、部屋の扉を閉めた。
料亭を出ると、冷えた空気が頬に触れる。先ほどまで怒りで熱くなっていた体が一気に冷え、冷静さを取り戻せた。帰り道、三人で夜道を並んで歩く。せいやが口を開いたのは、料亭から少し離れた頃だった。
「母さん、本当にごめん」
「謝らなくていいわ。あなたは何も悪くないじゃない」
「謝るのは私です。本当に申し訳ありませんでした」
ナツキが足を止め、その場で深々と頭を下げる。私はとせいやは慌てて彼女の方へ駆け寄った。
「ナツキさんも悪くないわ」
「そうだよ。悪いのはあの三人だから」
しかし、ナツキの目には涙が浮かんでいる。単純な慰めの言葉では、彼女の気持ちは晴れないだろう。
「どうしてもお詫びをしたいって言うなら、私の手伝いをしてもらえるかしら」
「手伝い?」
「あ、その前に、ナツキさん、本気であの三人と縁を切る覚悟はある?」
私の問いかけに、ナツキは一切の迷いを見せなかった。
「ええ、すでに覚悟は決まっています」
「分かった」
決意に満ちたナツキの目に、力強く頷いて返す。
「詳しいことはまた改めて後日話すわ。ちょっと仕事が忙しくて、そっちを先に片付けておかなきゃいけないの。一週間もしないうちに時間が取れるわ。その時にまたうちに来てくれる?」
「もちろんです」
「連絡をくれれば、いつでも駆けつけるよ」
即答で返した二人に、私は笑って答えた。
「今日は二人とも疲れたでしょう。家に帰ってゆっくり休んで」
最寄り駅の前で解散し、一人で自宅へ戻る。帰宅後はすぐ着替えを済ませ、風呂に入って疲れを洗い流した。一息つくと、仏壇の前に座る。線香を一本立て、手を合わせた。
「たかし、動かなきゃいけなくなったわ。一筋縄ではいかないだろうけど、きっと乗り越えられる壁よ。大丈夫。必ず成功させるわ。あの三人は地獄に落とす」
先ほど心の中で呟いた言葉を口にする。決意が固まってきた。やると決めたら、後は進むだけだ。
「見守っててね、たかし」
ロウソクの炎がゆっくりと揺れる。まるで彼が頷いているように思えた。
翌朝、出勤日だったのでいつも通り朝食の準備をしていると、スマホが振動した。表示されているのは、由香の番号だ。顔合わせの日にお互いの連絡先は交換してある。だが、こうして彼女から電話がかかってくるのは初めてだ。何の用だろうと思いつつ応答する。
「リナさん、おはよう。由香よ。今少しよろしいかしら」
「ええ。何でしょう」
由香の声はいつもより低く、感情を押し込めた響きがあった。
「単刀直入に言うわ。せいやさんとナツキの婚約を考え直してもらえないかしら。あなたから二人に言ってちょうだい」
予想外の言葉ではない。いつかこういう話になると思っていた。
「どういう意味ですか?」
「うちのナツキにはもっとふさわしい相手がいるわ。あなたの息子では、ナツキと釣り合いが取れないでしょう」
私は短く息を吐く。昨日の今日で正面から突っかかってくるとは、思い切りのいい人だ。
「ナツキさんご本人の気持ちはどうでしょう? あの子がせいやを選んだんですよ」
「親は子供の将来を守る義務があるわ。夫がいないあなたには分からないかもしれないけれどね」
そういう話にするのかと、眉を寄せる。たかしをネタにして私を馬鹿にするのは地雷だ。冷静を装っているが、内心の怒りはじわじわと高まっている。目をぎゅっと閉じ、冷静になれと自分に言い聞かせた。ここで感情のまま反論したら、由香と同じレベルに落ちてしまう。天国で見守っているたかしに、無様な姿は見せられない。
「そうですね。私はずっと誰にも頼らず、一人でせいやを守り続けてきました。でも、子供はいつまでも守られるだけの存在ではないでしょう。ナツキさんもせいやも、立派な大人です」
電話の向こうで由香が小さく息を飲むのが分かった。正面から反論されるとは思っていなかったらしい。私はこれまで由香たちに何を言われてもスルーするか、適当にいなしてきた。これほど強い言葉が出たのは初めてだ。
「ナツキさんはあなたの思い通りになる子供ではありません。そろそろ自覚したらどうですか?」
一瞬の間の後、由香の声が一気に尖った。
「そんな生意気な口を聞いて、ただで済むと思わないでよね」
まともに言い返すこともできないのか。由香という人間の底の浅さが、手に取るようにわかる。彼女はそこまで恐るべき相手ではなさそうだ。
「それはこちらのセリフです」
そう言い捨て、電話を切った。手の中のスマホを見つめ、ゆっくり深呼吸をする。最終通告にしては素雑な幕開けになってしまったけれど、まあいいかと自分を納得させた。
その日、仕事から帰宅し、自宅で夕飯を作っている最中、せいやから電話がかかってきた。
「もしもし。どうしたの?」
スピーカーモードにして料理を作りながら応答する。電話の向こうから、戸惑った様子のせいやの声がした。
「今日、会社の同僚からおかしな話を聞いたんだ。外部から問い合わせがあって、俺の名前が出てたって言うんだよ」
「問い合わせ? どんな内容なの?」
「会社の規模や俺の業務内容を根掘り葉掘り聞いてきたらしい。どちら様ですかって同僚が尋ねたら、身辺調査を依頼されたって言ってきたんだと」
私はゆっくりと眉を持ち上げる。調査会社や探偵が依頼を受け、対象を身辺調査することはある。しかし、調査対象の会社に直接連絡するという杜撰なやり方はしないだろう。
「その電話、川野さんの家族じゃない?」
「俺もそう思った。問い合わせに対応した同僚の話によると、男性の声だったらしいよ」
「幸介さんかしら。あの人ならやりかねないわね」
完成した料理をお気に入りの皿に盛り付ける。エプロンを外しため息をつくと、思わず心の声が漏れてしまった。
「常識というのをどこかに忘れてきたのかしら」
「俺もさすがにびっくりしたよ。ここまでやるとは思ってなかった」
せいやの声は、怒りに混じってどこか戸惑っている様子だ。職場への介入は、明確な一線を踏み越える行為と言える。普通ならありえない。しかし、常識に囚われないのが川野家の三人だと、短い付き合いで嫌というほど理解していた。その後しばらく雑談をして電話を切る。すっかり冷めてしまった料理を食べつつ、あの人たちはどこまで非常識なのかと心の底から呆れた。
翌日、今度はナツキから電話がかかってきた。
「おばあちゃんの知り合いで、あの人また何か言いふらしているみたいなんです。不快でしょうけど、一応お母さんの耳に入れておいた方がいいかなと思って」
「そういう情報はありがたいわ。それで、何を言いふらしてるの?」
彼女は一瞬言葉に詰まり、やがて言いづらそうに話し始めた。
「『娘の婚約者の母親は投資で老人を騙している。もうすぐ捕まるらしい』って。仲のいい近所の人から連絡があって、本当なのかと聞かれました」
落ち込んでいるナツキには申し訳ないけれど、思わず吹き出してしまう。嘘もここまで来ると大したものね。ナツキはしばらく黙り込み、そして私と同じように笑い声を上げた。後ろ向きになっていた心が、少しだけ回復したらしい。さて、と気持ちを切り替え、ナツキにあることを頼んだ。
「この前、改めて話をするって言ったわよね。仕事がようやく一段落したから、今週の土曜日には時間が取れるの。うちに来てくれるかしら?」
「分かりました。せいやには、この後すぐ私から連絡しておきます」
「よろしくね」
電話を切って数分後、せいやからメッセージが届いた。土曜の午前中にナツキと一緒に我が家へ来るという内容だ。気合い十分ね。スマホを見ながら呟く。これ以上あの三人に好き勝手なことはさせない。決意を胸に、スマホをテーブルに置いた。
そして、迎えた土曜日。10時を少し過ぎた頃、せいやとナツキが我が家のインターホンを押した。
「いらっしゃい。さあ、上がって」
リビングに通し、二人にお茶を出すと、早速本題に入る。
「今日こうして家に来てもらったのは、他でもないわ。二人にお願いしたいことがあるの。協力してくれる?」
二人が姿勢を正し、真っすぐな目で私を見た。
「もちろんだよ。遠慮はいらないからさ」
「お母さんの頼みなら、何でも聞きますよ」
「ありがとう。せいや、幸介さんの電話はまだ続いてる?」
せいやが頷く。ナツキには彼から事情を伝えてあったのか、驚いた様子はない。ただ、気まずそうに視線をテーブルに落とした。
「それを報告書にまとめることはできない。弁護士に依頼して、正式な形の報告書にするの。友人に弁護士がいるから、頼めばできると思うよ」
「お願いできるかしら?」
「もちろん」
とせいやが言う。これで武器を一つ手に入れた。
「それと、これはナツキさんとせいやに頼みたいことよ。雪子さんの『旧家出身』という発言の裏付けを取ってくれる。戸籍や地域の公的記録などになるものを集めてほしいの」
「え、どうして?」
「仕事で旧家の出身の方とお話ししたことがあるんだけど、その方と雪子さん、あまりにも違いすぎるわ。怪しいと私の勘が言ってるのよ」
雪子の調査は私がやってもいいが、戸籍などの個人情報の取り寄せは、身内であるナツキの方が進むだろう。他人の私が情報を集めるのは難易度が高い上、怪しまれる可能性が高い。すると、ナツキから意外な答えが返ってきた。
「実は私も、子供の頃からずっと怪しいと思ってました。おばあちゃんの話、どこか噛み合わないんです。同じ旧家出身の方と交流があるのかって聞いた時、話をぐらかされました」
ナツキの話を聞いて、さらに疑いが濃くなる。一人で調査するのは大変だろうと判断し、せいやにサポートを依頼した。
「もう一つ、こちらは私が準備しておくわ」
「何を?」
「実はね」
私が明かした二つの事実に、せいやとナツキは驚きに目を丸くする。
「私の目的は、あの三人にこれ以上好き勝手にさせないこと。そのために、私たちに逆らえない状況を作るの。二人に頼んだのは、状況作りに必要な材料集めよ」
「なるほど。読めてきたぞ」
「見栄っ張りでプライドだけ無駄に高いあの人たちには、効果的な材料になりそうですね」
ナツキの手厳しい評価に、私は少々驚いた後、笑い飛ばした。
「じゃあ、早速進めていきましょう。こちらの価値はもう見えてるわ。焦らず確実にやりましょう」
話し合いを終えた後、一緒に昼食を食べて解散する。さて、明日から忙しくなりそうね。二人がいなくなったリビングに座り、小さく呟いた。
翌朝、私はいつも通り仕事へ向かう。ただし、大学卒業後から長年勤めた投資会社ではない。都心のとあるビルに入っているオフィスへ向かう。ここは私の会社だ。
せいやが高校1年生になった年、私は独立を決めた。それまで培ってきた投資の知識と人脈を生かし、複数企業への出資と参画を進める。不動産、建設、ITの3分野に影響力を持つ投資会社を立ち上げたのだ。
「おはよう」
廊下ですれ違った社員に挨拶をする。繁忙期を過ぎたばかりで、みんなの顔には疲労が滲んでいた。それでも声をかければ、明るく返してくれる。
社長室に到着し、お気に入りの椅子に腰かけた。届いていた書類に目を通す。秘書が入れてくれたコーヒーを飲みながら、ふと先日の料亭で言われたことを思い出した。
私が貧乏人ねえ。これでも月給500万円なんだけど。もっと報酬を受け取っていい立場ではある。しかし、自分のために働いてくれる社員に報いたいという思いがあった。本来受け取る分の給料は、社員への還元と会社の設備、複数団体への寄付に当てている。窓の外には都心のビル群が並び、朝日を反射していた。
普通ならスルーしてあげるけど。大切な息子と将来の義理の娘の幸せのために、ここは全部出し切っておかないと。会社を立ち上げた当初は、社長室と呼べる部屋もなかった。小さな雑居ビルの一室を借り、中古のデスクと椅子を並べただけのオフィスだったのだ。それでも地道にコツコツと積み上げ、会社を大きくしていった。そして、今の私があるのだ。
幸介さん、由香さん、雪子さん。私の大切な家族を馬鹿にしたあなたたちは、地獄に落としてやるから。結婚挨拶の日、胸の中で呟いた言葉を改めて口にする。今の私はきっと、悪い顔をしているだろう。しかし、家族を守るためには、時として手段を選んではいられない。私はせいやたちが幸せになれるよう、何でもする覚悟だ。
待ってなさい。一人きりの社長室に、決意を込めた私の声が溶けて消えていった。
半月が過ぎた。その間、せいやは弁護士の友人に依頼を進め、ナツキは私の指示に従って着々と情報を収集する。私も自分の持ち場でやるべきことを済ませた。材料は揃った。後は動くだけだ。
朝、私はいつもより早く目を覚ました。着替えを済ませ、仏壇の前に座る。
「今日決着をつけてくるわ。成功するよう見守っててね」
家の中のたかしは、いつもと変わらない笑顔で私を見ている。胸がすっと落ち着く。今も昔も、彼は頼りがいのある人だ。
「ありがとね、たかし」
冷静にさせてくれたことに礼を言うと、開けていた窓から優しい風が入った。
今日はナツキの自宅へ行き、三人と改めて対峙する。ナツキに連絡をお願いし、場を設けてもらったのだ。
「あの人たちには、結婚の件で改めて話があると伝えておいて」
もし私たちがやろうとしていることがバレたら、面会を拒絶される可能性がある。そうなった場合は厄介なので、あえて詳細は伏せておいたのだ。玄関を出ると、せいやとナツキがすでに待っていた。
「じゃあ、行きましょうか」
三人並んで、川野家へ向かう。空はどんよりと曇り、冷たい風が吹いていた。この先に起こる波乱を暗示しているようだ。せいやとナツキはいつもより口数が少ない。しかし、不安はなかった。この日を迎えるため、三人それぞれが自分の役割を全力でこなしたのだ。大丈夫。準備は十分ある。自分にそう言い聞かせ、川野家の玄関に立った。
「二人とも、大丈夫?」
後ろを振り向いて問いかけると、二人は表情を緩めた。
「少しだけ緊張してます。でも、怖くはないです。お母さんとせいやがいてくれるので」
「母さんの方は大丈夫? 緊張してるんじゃないの?」
「私は全然。むしろ、ようやく決着をつけられるって安心してるわ」
せいやが小さく笑い声を上げる。ナツキも釣られるように口元を緩めた。
「気が早いって」
「そうね。まだ何も解決してないわ。勝てるって確信はある。でも、よりいい終わり方にするには、二人の力が必要不可欠よ」
右手でせいや、左手でナツキの肩を叩く。
「二人とも、頼むわね」
「はい」
「任せてくれ」
力強い答えに背中を押され、呼び鈴を押す。しばらくして、由香がドアを開けた。私の姿を見た瞬間、彼女の目が細くなる。
「あらあら、今日も地味な格好ね」
「地味が好きなので。どうぞ、お土産です」
今日はあえて、由香が好きそうな高級なお菓子を選んだ。包装紙に描かれた店名を見て、彼女は目を丸くする。
「え、これを選ぶとは、あるわね。でも、だいぶ無理したでしょう。ここのお菓子って、すごく高いから」
嫌味ったらしく笑う由香に、私は不敵な笑みを浮かべる。気づいていない由香は、特に何も言わず私たちを家の中に通す。
案内されたリビングには、幸介と雪子が座っていた。幸介は腕を組み、偉そうな態度で椅子に座っている。雪子はソファーに身を沈め、不機嫌そうな目でこちらを見ていた。三人の顔には、まだ余裕の色がある。私たちが何をしに来たのか、まだ分かっていない。彼らの態度は、これからどう変わっていくのか。内心でそんなことを考えながら、私は静かに向かい側の椅子に腰を下ろした。
「え、今日は何の話だ?」
「結婚の件について改めて話をしたいということだが、こちらとの差をようやく認めて、婚約を諦める気になったのか」
自信満々な口ぶりだ。私たちが折れたと思い込んでいるらしい。
「いえ、全くの逆です」
せいやが静かに、しかしはっきりと言い切る。幸介の眉がわずかに動いた。
「逆? どういうことだ? 意味がわからん」
「本日伺ったのは、せいやとナツキさんの結婚を正式に認めていただくためです。どうか、二人の結婚を認めてください」
一瞬、沈黙が場を支配する。川野家の三人は顔を見合わせ、次の瞬間、罵倒の言葉を私たちにぶつけた。
「何を今更。認める認めない以前の話で、そもそも釣り合いが取れていないでしょうが。最初の顔合わせで私はそう言ったはずよ」
「お母さんの言う通りだわ。ナツキにはもっとふさわしい相手がいる」
「片親のろくでもない人は、絶対に結婚させないからね」
せいやを馬鹿にする発言に、私は思わず立ち上がりそうになる。額に青筋が浮いているのに気づいたのだろう。せいやが目線だけで私に落ち着けと言った。
「あのなあ、なぜ今更そんな話を持ってくるんだ? お前たちが縁談を進めようとするなら、こちらにも考えがあるぞ」
彼は完全に私を舐め切っている。夫を亡くし、詐欺まがいの怪しい仕事をしている私は、どうあがいても幸介には勝てない。そんな確信を抱いているのが、自信満々な彼の表情から伝わってきた。
「そういえば、この人、私がメールで送った結婚式の費用を払うって言ったのよ。そんなお金ないくせに。詐欺師のくせに見栄っ張りな人ね」
「プライドだけは一人前ってことかい? そういう人間が一番手に負えないんだよ」
私が黙っているのをいいことに、三人は好き勝手に罵倒する。三人とも私を馬鹿にして、心底楽しんでいる。あまりにも見苦しい、歪んだ表情だ。私は少し間を置き、落ち着いた声で言い放った。
「そうですか。残念です」
幸介の眉が上がる。由香は軽んじた顔で私を見て、雪子は目を細めた。
「幸介さん、あなたの会社の経営部で、現在新規取引の候補として検討を進めている案件がありますよね。とある投資会社との取引です」
幸介が眉を寄せる。
「それが何だ?」
「その取引相手が誰なのか、ご存じですか?」
「投資会社だろ。担当者が窓口で動いてる話だ。俺は直接は関わっていない」
幸介は営業課長を務めていると言っていた。責任のある立場なら、他の社員の仕事も正確に把握しているはずだ。ところが、彼は何も知らないらしい。あまり真面目に仕事をしていないのだろう。
「そうですか。では、はっきり申し上げますね」
私は幸介をまっすぐ見つめる。そして、この場にいる全員にはっきりと聞こえるよう、丁寧に言った。
「それ、私の会社です。正確に言うと、我が社の参画企業ですね」
一瞬、室内の空気が止まる。誰も言葉を発しない。時計の秒針の音だけが、夜けに大きく聞こえた。
「はあ?」
幸介が気の抜けた声を上げる。
「改めまして、織田リナと申します。こちらをご覧ください」
鞄から名刺を取り出し、静かにテーブルに置いた。由香は一瞬固まった後、身を乗り出して名刺を手に取る。目を細め、文字を一字一字辿るように読み始めた。由香と雪子も我に帰り、幸介の近くによって手元を覗き込む。三人の顔が、少しずつ変わっていった。
「嘘だろ? 何の冗談だ?」
「これはあり得ない。名刺は偽物でしょ」
「二人とも落ち着きなさい。こんな浅い嘘に騙されるんじゃないわよ」
雪子がはっと鼻を鳴らす。余裕の態度を示したいようだが、唇がわずかに震えていた。
「弊社のホームページを見ますか? 私の名前と顔写真が掲載されていますよ」
幸介が慌ててスマホを取り出し操作する。私が座っている席から画面が見えた。会社名を検索し、サイトを開いたようだ。代表者挨拶のページに、普段よりきっちりとした私の写真が掲載されている。それに目を通した瞬間、彼の顔から血の気が引くのが分かった。
「こ、これも偽物よ」
「では、私の名前でネット検索してみてください。経済情報誌のインタビュー記事がいくつか出てくると思います」
由香が自分のスマホを取り出す。言われた通り私の名前を検索したのだろう。彼女の目が徐々に大きく見開かれる。
「ゆ、由香さん、どうなの?」
「インタビュー記事に、リナさんの写真が掲載されてます」
雪子が呆然とした表情になった。まるで時が止まったように静止している。目の前の現実を受け入れるのに、時間がかかっているようだ。
幸介の方に視線を移す。先ほどまで腕を組んで偉そうに構えていたのに、今は顔面蒼白で、スマホと名刺を交互に見ていた。そして、右手で口元を覆う。自分が何をしたのか、ようやく理解したのだろう。
「本当にあの会社のトップなのか?」
「ええ、私が代表の会社です」
先ほど名刺を取り出した鞄には、書類の束も入っていた。この半月間で用意したものだ。幸介の会社と交わしたやり取りが、分かりやすくまとめられていた。
「担当者の話によると、御社から『どうしても』という要望で、新規取引の検討を始めたそうですね。昨今の値上げラッシュで、御社もかなり追い詰められているとか」
最近はどこの会社も厳しい状況にある。我が社も以前と比べて苦しいが、堅実な経営を続けてきたおかげで、特に問題は起きていない。一方、幸介の会社は違うらしい。御社は我が社との商談を絶対に成功させ、資金調達をしたいのでしょう。しかし、あなたは取引先のトップである私に対して、敵対的な行動を繰り返してきましたね。
「仕事とプライベートは別だ。私の会社を持ち出すのは卑怯かもしれないけれど、そんな手を使うほど、私は怒り心頭だった。何をしたか覚えていないとは、言わせませんよ」
幸介が口を開こうとしたが、先に私が声を上げる。鞄からノートと小さな録音機を取り出した。
「こ、これは?」
「このノートは私の日記です。あなたたちに何を言われたか、どのような嫌がらせを受けたか、細かく記録しています。隣に置いた録音機には、幸介さんたちとの会話が記録されている。普段は会社の会議で使っているものです。小さくて持ち運びに便利で、長年愛用しています。初めてナツキさんの実家を訪れた日の直後から、プライベートでも使うようになった。いざという時のために、幸介さんたちとのやり取りを記録していたのです」
「日記に書かれている内容と、録音機器に記録されている音声。これらが我々への配信行為に相当しうるという点は、ご理解いただけますか?」
幸介の喉が上下に動く。うまく言葉が出てこないようだ。由香と雪子はノートと録音機器を食い入るように見ている。まるで獲物を狙う目だ。もしかして、無理やり奪って破壊しようとしているのだろうか。
「この二つ、コピーは取ってありますよ」
念のため牽制したところ、二人の方がびっくりと揺れる。短絡的な考えの人たちだなと、心の中でため息をついた。
「あ、あなた、本当に社長なの?」
震える声で雪子が訪ねてくる。認めたくない現実を確認するような問いかけだ。
「ええ、社長です。信じていただけないのでしたら、今すぐ我が社に確認を取りましょうか。休日出勤の社員が何人かいるはずです」
雪子が由香の方へ顔を向ける。由香は口を半開きにしたまま、私を見ていた。
「まあ、驚かれるのは仕方ないですね。初めてお会いした時、自己紹介をしようとしたんですよ。ですが、その前に『地味』だとか『片親』だとか、挙句の果てには『詐欺師』などと言われて混乱して、自己紹介ができなかったんです」
私は頬に手を当て、ふっと息を吐く。眉を寄せ、「あなたたちのせいで困っています」という表情を作った。三人のしたことを思えば、この程度の嫌味は可愛いレベルだろう。隣に座っているせいやの肩が揺れる。笑いをこらえている様子だ。一方、川野家の三人は気まずそうな表情をしている。
「幸介さん、御社との取引については、改めて社内で検討させていただきますね。この件は御社にしっかり伝えておきますので」
あなたのせいで取引のチャンスが潰れるかもしれないと、遠回しに言った。幸介にはしっかり伝わったようだ。青い顔に脂汗を浮かべ、怯えた目で私を見ていた。
「さて、今度は由香さんに確認させてください」
「何?」
自分にも矛先が向くとは思わなかったのだろう。由香の声はひっくり返っている。彼女に対しては、同じ母親としてどうしても許せないことがあった。私は鋭い視線で由香を睨みつける。
「ナツキさんが大学に通うために受けた奨学金についてです。その奨学金制度を運営している団体は、私の参画企業が支えている団体ですよ」
「え、お母さん、それ本当ですか?」
由香だけでなく、ナツキも目を丸くした。この事実は彼女に伏せていたのだ。下手に話したら、ナツキは私に対してきっと遠慮するだろう。だから、全ての準備が整う今日まで明かさないでおこうと決めていた。
「私、お母さんのおかげで大学に行けたということですか?」
「母さんは、自分が受け取るべき報酬を削って、団体への寄付に回していたんだ」
「奨学金の条件、結構緩かったんじゃないか」
せいやの問いかけに、ナツキが頷く。
「私も母親だからね。子供が学校に行けなくて困ったり悲しんだりすることが、少しでも減らしたいのよ」
「お母さん」
私を見るナツキの目には、驚きと感謝が混じっている。他の奨学金に比べて条件は緩いが、一定の成績がある人しか受給できない。ナツキが学生時代に優秀な成績を納めていたことは、せいやから聞いている。奨学金を勝ち取ったのは、紛れもなく彼女自身の努力の結果だ。私は少しだけ手助けしたに過ぎない。
「由香さんは、自分の手柄でナツキさんが大学に進学できたと言ってましたけど」
すると、ナツキが心底嫌そうな声を上げた。
「母さん、何もしなかったじゃない。進路相談に乗ってくれなかったし、奨学金を見つけてきたのも私よ。母さんは、私が用意した書類にただサインしただけ」
「そうなの。由香さんは『奨学金について調べて全部やってあげた』と言ってたけど」
由香に視線を向ける。見栄を張るためについた嘘がバレてしまい、彼女は唇を噛み、顔を真っ赤にしていた。
「そもそもの話なんですけど、ナツキさんは成績優秀だから奨学金が使えました。でも、なんで奨学金を利用したのでしょう? この家は、娘を進学させる余裕もなかったのですか?」
私の指摘に、由香だけでなく幸介と雪子も気まずそうに視線をそらす。私はゆっくりと由香の全身に視線を走らせた。彼女が身につけているのは、高級なブランド品だ。雪子も高そうな服を着ている。
「普段からブランド物ばかり身につけていたのなら、お金がないのも納得ですけど。そのジャケットはフランスの高級品ですよね。料亭の時にあなたが持っていたバッグは、イギリスの高級ブランドでした」
ナツキが鋭い眼光で由香を睨みつける。彼女は子供に使うべきお金を惜しみ、自分を飾ることを優先したのだ。
「私は質素な見た目をしていますから、ブランドに興味がないと思われているかもしれませんね。でも、仕事柄顧客に話を合わせる必要があって、ブランドの話題にも精通しているんです」
由香が「地味」と言った服や着物は、全てそれなりの値段がする。ただし、無駄に高いものではない。デザインと実用性を両立させ、長く使える一級品だ。
「品格は見た目にも現れるものですよ。一方、由香さんが身につけているものは、どれも派手だった。見た目の派手さを優先させたものばかりで、はっきり言って趣味が悪い。彼女の品性が、そのまま表に出ている」
由香の顔がみるみる赤くなっていく。唇を強く噛み、両手をきつく握りしめていた。
「ナツキさんが進学できたのは、由香さんのおかげではありませんね」
「そうですね。私が大学に進学できたのは、お母さんと奨学金のおかげです。二度と、自分の手柄みたいに語らないで」
ナツキがとがった声を由香に向ける。この場の空気に耐えられなくなったのか、由香は俯いてしまう。先ほどまで忙しなく動いていた口は、今は硬く閉じられていた。部屋に重い沈黙が落ちる。
私は次に、雪子に話しかけた。
「雪子さんにも確認したいことがあります」
「何よ。私は関係ないでしょ」
声には力を込めていたが、上滑りしている。彼女はずっと私たちに対してマウントを取ってきた。自信に溢れていた彼女の瞳は、揺らいでいる。
「せいやとナツキさんが調べてくださいました。雪子さんのご出身についてです」
雪子が一瞬、動きを止めた。ほんのわずかの間だったけれど、私は見逃さない。
「おばあちゃん、『旧家の出身』って言ってたよね。でも、私、子供の頃からずっと引っかかってたのよ」
ナツキが話し始めた横で、せいやが自分の鞄から書類の束を取り出す。
「機会だと思って、ちゃんと調べてみたの。公的な記録を確認したら、おばあちゃんの実家は、地方の一般的な農家だった。『旧家の出身』というのは、真っ赤な嘘だったよ」
先ほどまで俯いていた由香が、勢いよく顔を上げた。
「え? そ、それ、本当なの?」
「本当だよ。証拠はここにある」
「そんな」
どうして彼女がショックを受けているのだろう。首をかしげていると、由香が雪子に食ってかかった。
「私が嫁に来たばかりの頃、自分は旧家のお嬢様だって、随分と偉そうにしてましたよね」
「そ、それは」
「あなたもよ。旧家の血を引いてるからって、上から目線で私に色々言ってきたわ」
今度は幸介にも向かう。私たちが知らないところで、色々あったらしい。由香の口ぶりから察するに、家柄でマウントを取られていたのか。雪子と由香は今まで息ぴったりで私をこき下ろしていたが、過去には確執があったのだろう。
「ずっと私に嘘をついてたのね」
通る由香に、少しだけ同情の気持ちを抱く。しかし、彼女が私たちにしたことは、どのような理由があろうとも許されない。かわいそうだと思う気持ちは、一瞬で消え去った。
「実は、おばあちゃんの地元にも足を運んだんだ。そこでたまたま、おばあちゃんの同級生だった人に会ってね、その人に色々聞いたよ」
せいやによると、雪子は知り合いの紹介で都心に暮らしている夫とお見合いをしたらしい。その人と結婚し、田舎を離れる。田舎の友人たちは、都会に出た雪子を羨ましがったそうだ。羨望の視線はとても気持ちよかったのだろう。調子に乗った雪子は、自分の夫は格式のある家柄だと嘘をつく。それが、どういうわけか自分の実家が旧家だという虚言に変化していったのだ。
「その同級生の人、こんな風に言ってたよ。『雪子さんは昔から、息をするように嘘をつく人だった』って。今も昔も変わらないんだね、おばあちゃん」
雪子の脂ぎった顔が赤く染まる。嘘が露見し、自分の虚言癖を指摘され、さらにその相手が孫となれば、雪子のプライドは粉々に破壊されたことだろう。ナツキの言葉は全て事実だ。本人の顔を見れば、一目瞭然だった。
「それから、もう一つ。おばあちゃん、やたらとお母さんに『未亡人』とか『片親』だって絡んでたよね」
雪子の体がわずかに揺れる。
「これも私の方で調べたんだけど、昔、近所の未亡人とおじいちゃんが親しくしてたんだって。その出来事を根に持ってて、同じ未亡人のお母さんに当たり散らしてたんじゃない?」
「ち、違う」
「目をそらしたね。それ、図星だって言ってるのと同じだよ」
雪子がナツキの方を見ようとするけれど、気まずさからどうしても視線を合わせることができなかった。片親に対する偏見というのは、今の時代もまだ残っている。雪子もそういうタイプなのだろうと思っていたが、ナツキにより別の理由が判明した。要するに、彼女は私を通して、別の女性に復讐していたのだ。迷惑な話である。
「親父は浮気するような人間じゃない。あれはお袋の思い込みだ。親父は何度も違うと言ってたのに、聞く耳を持たなかった。俺も、嫉妬に狂ったお袋から八つ当たりされたな」
幸介が小さく呟く。よほど大変な目にあったのだろう。幸介の表情に、苦しい感情が浮かんでいた。
川野家の三人は、理由もなく私たちに敵対していたわけではない。過去の傷、経験、プライド。それらが複雑に絡み合っていたのだ。しかし、抱えているものがどれだけ重くとも、他人を攻撃していい免罪符にはならない。
私は目を閉じ、気持ちを切り替える。まだ終わりではない。ここからが本番だ。
口火を切ったのは、せいやだった。
「お父さん、次は俺から話をさせてください」
幸介が顔を上げる。先ほどまで青白かった頬に、わずかに赤みが戻っていた。時間が経ち、余裕を取り戻したらしい。だが、今から始まるせいやの反撃で、幸介の余裕は完全に消えてなくなるだろう。
「なんだ、あなたはここ数ヶ月、俺の会社に何度も電話をかけてきましたよね」
「それの何が問題なんだ?」
せいやが呆れた様子でため息をついた。
「確認ですか? なるほど。電話に対応した同僚によると、会社について根掘り葉掘り聞き出そうとした上に、俺に対して侮辱的な発言を繰り返していましたね」
幸介の表情が一瞬固まる。しかし、すぐ首を横に振った。
「俺はそんなこと言っていない。それに、電話をしたのが俺だという証拠はどこにある?」
幸介は曖昧な返事をした。明確に否定しなかったから、言い逃れできるとでも思っているのだろうか。残念ながら、せいやはそう甘い子ではない。ポケットからスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。
「『おたくは詐欺師の息子を働かせてるそうだな。そんな人間がいる会社は信用できん。我が社の社員や他の会社の知り合いに、おたくとは関わらないようにと伝えておくよ』」
目の前の幸介の発言ではない。せいやのスマホから流れてきた音声だ。
「我が社の固定電話には録音機能がついています。社員に頼んで、あなたからの電話は全て記録するように対応していました」
幸介が息を飲み、目を見開いた。
「他にもたくさん録音データが残っていますよ」
「これは俺じゃない。俺の真似をしている誰かだ。もしくは、お前が作った偽物の音声だろ」
必死な言い訳を口にする幸介。鼻の穴を膨らませ、短い呼吸を繰り返している。
「では、音声鑑定に出してみましょうか。個人でも依頼できるらしいですよ。お父さんと俺、どちらの言うことが正しいか、はっきりさせましょう」
せいやは一切引かない。自信を持って言い返すには、十分な証拠があるからだ。
「あ、俺はただ、娘の婚約者がどういう人間か調べようとしただけだ。親として当然の行動だろう」
言い逃れが難しくなったのか、幸介は半ば自白のような発言をする。本人は気づいていないようだ。
「私はあなたと同じ親ですが、ナツキさんの職場に問い合わせることはしません。非常識な行動だと理解しているので」
すかさず口を挟むと、幸介の怒鳴り声が途切れる。その隙に、せいやは続けた。
「俺の友人に弁護士がいます。今回の件を相談した上で、昨日、幸介さんの会社の法務部に、正式な報告書を提出しました」
「なんだと?」
これは私がせいやに頼んでいたことだ。幸介の嫌がらせは個人的な場だけでなく、せいやの職場にも及んだ。一線を超えた行動だ。しかし、その分攻撃しやすいと気づいたのだ。証拠を集め、正式に抗議する。サラリーマンである幸介にとって、最も効果的なやり方だ。
「報告書の内容について、簡単に説明しますね。『御社の社員である川野幸介氏が、弊社関係者に対して侮辱的発言を繰り返し行った。婚約への不当な介入、職場への過度な連絡について』というものです」
「そ、そんな出鱈目な報告書、うちの会社が信じるわけない」
「俺が弁護士に依頼して作ってもらった正式な報告書です。こちらが集めた証拠も添付していますよ」
淀みのないせいやの反論に、幸介の口がぱくぱくと動く。餌を求める金魚の口に似ている。彼が求めているのは、圧倒的不利な状況をひっくり返すまやかしの言い訳だ。けれど、追い詰められた幸介の頭では、何も考えられないのだろう。
せいやの横顔をこっそり見る。一瞬、たかしの姿と重なった。父親に似た穏やかな表情をしている。だが、その目には厳しさが宿っていた。
「我が社は立ち上げたばかりですけれど、成長中の企業です。業界を問わず色々な会社と繋がりがあります。弊社が動いた事実は、御社もさすがにスルーできないでしょう」
幸介は完全に血の気が引いてしまっている。営業課長という肩書きを持つ人間が、他者への問題行為を会社に報告された。それがどういう意味なのか、社会人であれば理解できるはずだ。
「さっきも言いましたけど、我が社も御社との取引は、改めて検討するつもりです。でも、うちの担当者、幸介さんの会社との商談には消極的なんですよね。もし私が今回の件を担当者に伝えて、取引がなくなったら」
幸介の会社は資金調達が難しくなり、経営に悪影響が出る可能性がある。全員が幸介の身勝手な振る舞いだと知ったら、会社はどのような対応を取るだろう。おそらく、彼は無傷では済まないはずだ。
「ご自身の行動が周りにどれだけの影響を与えるか、よくお考えになった方がいいと思います」
「こんなこと、他人にわざわざ言われなくても、いい年をした大人なら分かるはずだよな」
せいやがナツキに話しかける。ナツキは深く頷き、自分の父親を呆れた目で見た。
「私のためとか言ってたけど、それは嘘よ。父さんはせいやを攻撃したかっただけ。私を言い訳に使わないで。迷惑だし、身内として恥ずかしいわ」
実の娘からの容赦ない言葉は、幸介にとって一番効果的だったようだ。ナツキの方を見て、ショックを受けた顔になる。そして、何も言えず俯いてしまった。偉そうに腕を組んでいた姿勢は崩れ、背中が丸くなる。椅子の上で、肥えた体を縮込ませていた。
黙り込んだ幸介から視線を外し、由香の方を見る。彼女は顔面蒼白になり、わずかに脂汗を浮かべていた。先ほどの話から、この家は幸介の稼ぎで暮らしている。もし幸介が仕事を失えば、生活が根本から揺らぐだろう。由香は最悪の事態を想像しているようだ。雪子はまだ余裕があるのか、せいやを睨みつけていた。しかし、何か言うことはしない。下手に口を開いたところで、私たちに言い負かされるだけだ。この短い時間で、自分たちの置かれた立場がどれだけまずいのか、彼女も理解したらしい。不本意な現実を突きつけられ、悔しそうに手を強く握りしめている。
少しの間、沈黙が部屋を支配する。窓の外から、鳥の鳴く声が聞こえた。いつの間にか天気は晴れに変わっていて、穏やかな光が部屋に差し込む。一方、川野家の三人は暗い空気に包まれていた。
最初に動いたのは、幸介だ。椅子から腰を浮かせたかと思うと、私たちに向かい深く頭を下げた。
「も、申し訳なかった。せいや君、リナさん、謝ります」
「由香、母さん。二人も謝りなさい。ほら」
頭を下げた幸介が二人を促す。由香は慌てながら、雪子はしぶしぶと言った様子で頭を下げた。
「あ、私も言い過ぎた部分があったわ。申し訳なかったわね。反省してるわ」
「私も失礼なことを言いました。すみません」
心の中でため息をつく。私は社長として色々な経験をしてきた。人との関わりも、同世代の女性と比べてかなり多い方だと言える。その経験から分かった。三人の謝罪は、心からのものではない。完全に演技だ。最悪の事態を切り抜けるため、プライドを捨てたらしい。由香は幸介に促され、特に深く考えず頭を下げた。雪子が一番分かりやすい。彼女の態度には、「なぜ自分が謝罪しなければならないのか」という気持ちが滲んでいた。普通なら腹を立てるところだろうが、私は心の底から呆れていた。この人たちには、何を言っても無駄だ。せいやとナツキも、冷めた目で三人を見ている。
「もういいです」
私の発言で許されたと勘違いしたらしい。三人の表情が明るいものになった。
「二度とこんなことはしないと約束する。これから長い付き合いになるんだから、仲良くやっていこうじゃないか」
「そうね。二人が結婚すれば、私たちは親戚同士よ」
「つまり、私たち、社長の親戚になるってこと。それはいいわね」
喜ぶ理由が見え見えな雪子らしい。幸介と由香も何度も頷いた。そして、私に愛想のいい顔を向ける。
「投資会社の社長だなんて、さすがですね。これからはプライベートだけでなく、仕事の方でも何卒よろしくお願いします」
少し前まで私たちを馬鹿にしていた口が、今度は媚びへらう言葉を滑らかに紡ぎ出していた。変わり身の速さに、思わず拍手しそうになる。
「最初からリナさんって只者じゃないと思ってたのよね。社長なら納得だわ」
「なんていうか、風格みたいなものが、普通の人とは違う感じよね」
由香が抽象的な言葉で私を褒めると、雪子は「その通りだ」と頷く。セリフもジェスチャーもわざとらしい。下手すぎる演技に、呆れを通り越して笑ってしまいそうになる。
「来てる服も品が良かったしね。ナツキがいい家に嫁ぐなら、私たちも安心だわ」
「我が家が困った時には、助けてもらえるし」
雪子の口ぶりには、そうすることが当然という考えが滲んでいた。三人の目には、欲望の光が浮かんでいる。私の社会的立場や収入を利用して、いい思いをしようと目論んでいるのだろう。
横目でナツキの様子を確認する。彼女は俯いて、膝の上で手を硬く握っていた。都合が悪くなれば手のひらを返し、プライドも捨てて相手に媚びを売る。そんな家族の姿を見て、ナツキは何を思っているのか。怒りか、悲しみか、もしくは呆れか。いい感情でないことは確かだ。そして、三人のこの振る舞いは、ナツキを傷つけていた。彼女の痛みを想像し、思わず眉を寄せる。
私の大切な家族を傷つける人たちは、絶対に許さない。心の中で改めて決意し、幸介を睨みつけた。
「新規取引の件がうまくいかなくても、私は一切フォローしません」
「うっ」
「取引については、担当者が判断することです。私が口を挟む話ではありません。そして、私は我が社の利益を優先します」
彼は媚びた笑みのまま固まっていた。
「平気で他人を侮辱し、迷惑をかける人と関わったところで、私や会社に何のメリットもありません」
「報告書の件も取り下げませんよ」
せいやが私に続いて口を開く。
「俺は自分がすべきことを全うします。あなたがナツキの父親だろうと、関係ありません。報告書を見たあなたの上司が、どのような判断を下すでしょうね。よくて厳重注意。最悪の場合は、解雇もあるのでは」
脅すような意地悪な言い方だ。しかし、私もナツキもせいやを止めない。このくらいの仕返しは当然だ。
「よ、待ってくれよ。俺の立場が危なくなるんだぞ。婚約者の父親がそんなことになれば、お前らも困るだろ」
幸介は親戚になれば便宜を図ってもらえると踏んでいたのだろう。目論見が外れたと悟り、顔が引きつっていた。
「俺も母さんも、何も困りません」
「そうね。困るのは、あなただけですよ」
交渉の余地はないという意思を声に込める。幸介が唇を震わせ、何か言いかけた。しかし、予想外の展開を目の前にして、うまく言葉にならないようだ。
「そ、そんな」
「リナさん、夫は心の底から反省してるわ」
「だから、何です? 世の中には、謝ったところでどうすることもできないものがあるんですよ。今回の件が、それです。それに、反省してるように見えませんが。下手な芝居が通用する相手だと思いました。あまり俺たちを見くびらないでいただきたい」
せいやの威圧感に、由香は黙り込んでしまう。
「な、ナツキ。あんたからも、何か言いなさいよ」
ナツキの話なら私たちが耳を貸すと思っているらしい。確かにその通りだが、直後のナツキの発言に、川野家の三人は呆然自失の状態に陥ることとなった。
「私、おばあちゃんたちとは、縁を切るわ」
「へえ?」
雪子の口から間の抜けた声が出る。鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのは、今の彼女にぴったりだ。幸介と由香も、同じ表情をしていた。
「私、ようやく分かったの。三人がいると、私は幸せになれない。もし別の人と婚約しても、今回みたいに何か問題を起こすに決まってるわ」
「ナツキ、何を言ってるの?」
幸介や由香と比べ、雪子はまだ余裕のある態度だった。だが、それが今崩れようとしている。
「お母さんとせいやも、二度とこの家に関わるつもりはないわ。生活に困っても、一切助けない。もし路頭に迷っても、みんなの自己責任よ」
「あんた、頭がおかしくなっちゃったの? 家族に向かって、そんなひどいことを言うなんて」
由香が勢いよく立ち上がった。彼女が座っていた椅子が、激しい音を立てて倒れる。しかし、由香は気にする余裕もないらしい。
「話し合えば分かる」
「話し合う必要はない。だって、無駄だと分かってるから」
ナツキが暗い目で三人を見る。家族に向ける瞳ではない。私が知らないだけで、過去に色々あったのだろう。ナツキのまとう空気は重く、同時に、どう揺るがんとも揺るぐことがない覚悟が伝わってきた。
「実際、過去に何か問題が起きた時、私はみんなに話したわ。『そういうことはやめて』って。でも、何も変わらなかった。私の話なんて、これっぽっちも聞いてなかったじゃない」
幸介は無言で首を横に振っているが、言葉を発することはできない。由香はナツキから目をそらし、雪子は気まずそうな表情をしていた。三人とも、心当たりがあるらしい。
「今日だって、謝ったのは自分たちがまずい立場になったからでしょ。本当は反省なんかしてない。私、もうたくさんよ」
思わず、といった様子でナツキが大声を上げる。今まで我慢していたものが、溢れたようだ。
「私にとって、この家に生まれたことが、人生で一番の不幸よ。はっきり言わせてもらうわね。私、父さんと母さん、おばあちゃんのことが、大嫌い」
彼女は一言一言、はっきりと自分の本音を口にする。ナツキは泣いていない。涙の代わりに、彼女の目には硬い決意が満ちていた。私の胸の奥が熱くなる。ずっと家族のことで弱々しい姿を見せていたナツキが、こんなにも力強く自分の家族に立ち向かっているのだ。
「ナツキ、そんな目でお母さんを見ないで。あなたを育てたのは誰だと思ってるの?」
「育ててもらったことには感謝してる。でも、それとこれとは話が別よ。みんなと家族で続けたら、私の人生はめちゃくちゃになる。今回の騒ぎで確信したわ。だから、縁を切るのよ」
情に訴える言い方にも、ナツキは一切ひるまない。
「ナツキ、おばあちゃんが悲しむぞ。おばあちゃんは小さい頃からずっと、お前を可愛がっていただろう」
「おばあちゃんが今までお母さんにしてきたことの方が、ずっと悲しいことだよ」
次の瞬間、雪子が声を上げて泣き始めた。可愛がっていたというのは本当のようで、ナツキに拒絶されたのが相当ショックだったらしい。しかし、ナツキは動じない。怒りを抑え、静かな声で言い放つ。
「私を産んでくれて、育ててくれて、ありがとう。おかげで、せいやとお母さんに出会えました。あなたたちとの縁は、これ切りでおしまいにします。今後、二度と会うことはないでしょう」
幸介は頭を抱え、椅子に座ったまま前傾になる。由香は両手で顔を覆い、すすり泣いた。
「結婚は認めていただかなくて結構です。家族の許しがないと結婚できないという法律はないので、俺はナツキさんと幸せになります」
「私はそのお手伝いをさせてもらうわ」
隣に座るせいやの肩を軽く叩く。今まで張り詰めていたせいやの顔が、ようやく緩んだ。
「念のため言っておきますね。もし今後、私たちの前に姿を現したら、相応の対応をします。会社の顧問弁護士への相談、警察への通報。その時に最適な方法を、容赦なく選びますので」
三人からの返答はない。どうやら終わりのようだ。
「二人とも、行きましょうか」
椅子から立ち上がる。ナツキは一切振り返らず、まっすぐ玄関へ向かった。せいやは冷めた目でもう一度三人を見る。少しの間を置いて、興味を失ったように視線を外した。
「それでは、失礼します」
リビングから出る直前、丁寧にお辞儀をする。誰も私を見ていない。三人はそれぞれ、悲しみに打ちひしがれていた。ナツキに見捨てられ、哀れだとは思うけれど、手を差し伸べるつもりはなかった。人の痛みを無視し続けた人間に、情けをかける必要はない。自分たちが巻いた種は、自分の手で刈り取るべきだ。
川野家の玄関を出ると、外の空気が頬に触れる。気持ちのいい秋晴れが広がっていた。深く息を吸うと、澄んだ空気が体の中を満たしていく。緊張していた体と心がほぐれ、自然と笑みがこぼれた。
「母さん、本当にありがとう」
駅へ向かう帰り道、せいやがお礼を言ってきた。幸介たちが口にした外面のものではない。心の底から湧いて出たものだった。
「礼なんていらないわよ。私がやりたくてやったことだもの。それに、家族のために何かするのは当然のことよ」
せいやからナツキに視線を移す。あなたも家族よ、と目だけで伝えた。ナツキが驚いた表情になり、立ち止まる。そして、目を潤ませた。
「私、家族になっていいんですか?」
「もちろんよ。私、ずっと娘が欲しかったのよね。一緒に買い物に行ったり遊びに行くのって、やっぱり同性の方が楽しいし」
私の発言に、せいやがむっとした顔になる。
「悪かったね。男で」
「冗談よ。あなたは頼りになる自慢の息子よ。立派に育ってくれて、母さんは嬉しいわ」
せいやの背中を強めに叩く。ナツキは楽しそうな笑い声を上げた。頬には涙が伝っている。せいやは嬉しそうな顔をしながら、ナツキにハンカチを差し出す。私は彼女の肩を優しく抱いた。
1ヶ月後、せいやと一緒に我が家に遊びに来たナツキから、川野家のその後を聞いた。
「メールが送られてきたんです。ブロックするのを忘れてて」
困った表情で語り始める。まずは幸介についてだ。せいやが法務部に提出した報告書は、会社内で正式な調査案件として扱われた。侮辱的発言や職場への不当な問い合わせ。それらの事実が社内調査によって認定され、幸介は処分を受けたらしい。具体的には、営業から一般職への降格だ。
「かなり厳しい処分ね」
「元から社内評価が低かったんじゃないか。仕事ができる人には見えなかったし」
「それなら納得だわ。会社も処分の理由が見つかって、むしろありがたいと思ってるかもね」
幸介は降格後、目立った仕事を与えられず、いわゆる窓際のポジションまで落ちた。プライドの高い彼にとって、屈辱的な末路と言えるだろう。先日、せいやの元に幸介の会社の人間がお詫びに訪れたとのこと。謝罪を受け取り、これ以上の大事にはしないと約束したらしい。
そして、由香はナツキに拒絶され、精神的にかなり落ち込んでしまったようだ。習い事に通う気力もわかず、家に引きこもっているとのこと。さらに、幸介の給料が降格によって大幅に減り、生活が困窮。大切にしていたブランドを売却し、生活費に当てているらしい。かつて私を「地味」と馬鹿にしていた由香が、今は質素な生活を余儀なくされている。人生とは皮肉なものだ。
雪子は周りから後ろ指を刺されるはめになった。私たちだけでなく、近所や知り合いの人にも「旧家出身だ」と偉そうな態度で接していたからだ。
「近所の人に、今回の件と合わせて『あれは嘘ですよ』って教えてあげたんです。噂好きな人なんですよね。話は一気に広まりましたよ」
雪子は嘘が発覚した上、孫娘に縁を切られた「かわいそうな老人」というレッテルを貼られたらしい。恥ずかしさと居場所のなさから、由香と同じく引きこもる生活を送るようになる。近所に嘘を吹き込んで私を攻撃していた人は、今度は攻撃される立場になった。自業自得とは、まさにこのことだ。三人の末路は哀れだが、他人を踏みにじり続けた結果と言える。私にできることは何もない。
顔合わせから3ヶ月後、せいやとナツキは結婚式を挙げた。家族と本当に大切な友人だけを招いた、アットホームで温かい式だ。無事に式が終わり、ナツキのそばへ向かう。
「ナツキさん、せいやをよろしくね。あの子を幸せいっぱいの笑顔にしてあげて」
ナツキは頷いた後、ずるい笑顔で返した。
「何を言ってるんですか? お母さんも、私が幸せにしますよ」
「せいや、本当にいいお嫁さんを見つけたわ。あなたは世界で一番の幸せ者よ」
「そうだね。俺には、最高の奥さんと母親がいるし」
「全く。この二人は、どれだけ私を喜ばせれば気が済むのか」
結婚式は幸せな空気のまま幕を閉じた。式の後、二人はそのまま新婚旅行へ旅立った。帰ってきたら、この家で三人で暮らす予定だ。賑やかになるのが、今から楽しみだ。
今はまだ静かな家で、私は一人、仏壇の前に座る。線香に火をつけ、手を合わせた。
「たかし、あなたが見守ってくれていたおかげで、幸せな未来を掴むことができたわ。本当にありがとう」
今日は満月だ。目が覚めるくらい明るい月が、夜空に輝いている。
いい夜だね。たかしの声が聞こえた気がして、私は小さく微笑んだ。



