母は何でもないことのように言った。
「あなたが毎月くれる200円でね、お小遣いとしてありがたく使わせてもらってるの。」
私は声が出なかった。背中がゾッとした。
「母さん、私、毎月30万送ってるんだけど。」
その瞬間、母の顔が引きつり、目を見開き、動きが止まった。
「30万?嘘でしょ?だって誠一郎が、まほは会社を首になって今はアルバイトで食いついでるからって……」
頭の中で何かが崩れていく音がした。
私の名前は中園まほ。制薬会社の管理職として働いている。5年前から務める部署では新薬の臨床試験の監督を担当し、多忙な日々を送っていた。
朝は5時に起床し、夫の稜也の朝食と弁当を作る。
「いつもありがとう、まほ。」
彼は優しく微笑み、私の方に手を置く。
「あなたこそ、いつも遅くまでご苦労様。」
稜也は捜査課の刑事として経済犯罪の摘発に日々奔走している。
「今日も遅くなる。ああ、最近の案件が山場を迎えていてね。でも心配しないで、自分の仕事に集中してくれ。」
私たち夫婦はお互いの仕事に理解があり、それが何よりの支えになっていた。
「分かった。私も今日はプロジェクト会議があるから遅くなるかも。」
「無理はするなよ。でも君の情熱は応援しているからな。」
この言葉が私の背中を押してくれる。
ある日、兄の誠一郎から突然の電話があった。
「まほ、大変だ。母さんが階段から転んで……」
思わず立ち上がり、パソコンの画面から目を離す。
「え、大丈夫なの?病院には?」
「一応見てもらったが、様子を見ろと言われた。でも今は歩くのが難しい状態なんだ。」
私は慌てて会議を後輩に任せ、実家へと向かった。
玄関を開けると、母のナツ子が和室に横になっていた。
「まほ、ごめんね。わざわざ来てくれて。」
母は精一杯元気な声で迎えてくれたが、その様子は弱々しかった。
そこに兄嫁のさおりが奥から現れた。
「あら、まほさん、お仕事中なのに申し訳ないわね。」
作り笑顔だが、どこか心ここにあらずといった表情だ。
「さおりさん、母さんの具合はどうなの?」
「まあ、年齢のこともあるし。それに私たち、お店が忙しくて、常に付きっきりと言うわけにもいかなくて。」
言い訳がましい言葉に少し苛立ちを覚えた。
「それにしても、製薬会社の管理職ね。給料もいいんでしょう。」
唐突な話題転換に戸惑いながらも返答する。
「ええ、まあ、それなりには。」
「羨ましいわね。私たちなんて自営業だから、安定した収入なんてないのよ。」
どこか皮肉めいた口調に居心地の悪さを感じる。
医師の診断によると、母は骨に異常はないものの筋を痛めており、しばらくはパートに出ることも難しいとのことだった。
「母さん、パートは当分休んで。生活費のことは心配しないで。」
私の父は5年前に他界しており、母の収入源はパートの給料と年金しかない。
「でもまほ、あなたにそんな余裕はないでしょう。」
「大丈夫よ。あなたが私を育ててくれたように、今度は私が助ける番だから。」
誠一郎が部屋に入ってきた。
「何の話をしてる?」
「母さんの生活費のこと。私が少し援助するつもりなの。」
「そうか。助かるよ。」
あまりにもあっさりとした返事に違和感を覚えた。
「母さんの面倒は俺たちが見るから、お前は心配しなくていい。」
帰りがけに廊下で話した。
「兄さん、飲食店の経営はどう?」
「まあな、コロナ後の立て直しが思うようにいかなくてな。借金返済も滞ってるし。」
表情は暗く、肩を落としている。
「そう。大変だと思うけど、母さんのことお願いね。」
「ああ、できる範囲でやるよ。」
その言葉に心もとなさを感じたが、今は兄を信じるしかなかった。
母への仕送りを始めた。母の口座に直接振り込み、毎週電話で母の様子を尋ねるようにした。
最初の頃は元気に話してくれていた母だが、日に日に声に力がなくなってきた。
「母さん、本当に大丈夫?何か必要なものはない?」
「心配しないで。聖一郎夫婦が面倒を見てくれてるから。」
何か言いたげな様子だったが、それ以上は話してくれなかった。
兄夫婦に電話をしても、いつも「問題ありません」と短く切られてしまう。
「お母さんは元気ですよ。まほさんは仕事で忙しいでしょう。無理に来なくても大丈夫ですからね。」
どこか上から目線の言い方に胸がざわついた。
「それより、毎月のお金ありがとうございます。助かってます。」
「それは母さんのためのお金だから。」
「もちろんよ。でも管理は私たちがしてるから、安心して。」
奇妙な言い回しが引っかかったが、それでも毎月の仕送りを続けた。
あれから半年が過ぎ、季節は夏へと移り変わる。
ある日、母方の親戚から連絡があった。
「まほちゃん。誠一郎君たち、新しい高級車でドライブしてたよ。お店、そんなに儲かってるの?」
驚きを隠せない私に、親戚は続けた。
「この前、兄に聞いた時は、経営はうまくいっていないと言っていたのに。」
「ナツさんの具合はどう?あんまり外出してるの見ないけど、最近痩せたみたいで心配してるのよ。」
不安が募り、次の休日に兄に電話した。
「兄さん、新しい車を買ったの?」
一瞬の沈黙があった。
「なんだよ、急に。そんな余裕、どこにあるんだよ。赤字続きで首が回らないっていうのに。」
怒気を含んだ声が電話越しに響く。
「ごめん。親戚がそう言ってたから。」
「余計なお世話だ。こっちは必死に母さんの面倒を見てるんだ。余計な心配をかけるな。」
電話を切った後も、兄の怒りの声が耳に残った。
反応が激しすぎる。何か隠してるんじゃないか。
でも、兄さんが嘘をつく理由がないでしょう。
もしかしたら親戚の見間違いかもしれない。
私も同じように考え、兄を信じることにした。
そして8月。盆休みを利用して、1年ぶりに実家に帰省した。
しかし、家の玄関前で妙な違和感を感じる。いつもなら動いているはずのエアコンの室外機の音が聞こえない。
鍵を開け、中に入ると、むわっとした熱気に包まれた。
「母さん。」
返事がない。リビングに進むと、そこには汗だくで倒れている母の姿があった。
「母さん、しっかりして。兄さんたちは……」
「まほ、ごめんね。」
意識はあるものの、顔色が悪い。すぐに救急車を呼び、病院へと搬送された。
診断は脱水症状。点滴で水分補給し、一晩の経過観察で翌日には退院できるとのことだった。
「ご高齢の方を真夏の部屋の中、クーラーもなしに置いておくなんて、命に関わりますよ。栄養のある食事をきちんと与えてください。」
医師に、私は頭を下げることしかできなかった。
車で実家に戻る途中、母は窓の外を眺めながら静かに涙を流している。
「母さん、どうしたの?」
「ただね、あなたに会えて嬉しくて、胸が締めつけられる思いだった。」
母を連れて実家に戻った。そこで初めて、母の部屋の状態を詳しく確認する。
室内は整理されておらず、古い食べ物の残りがテーブルに置かれていた。
「母さん、冷房はどうしたの?壊れたの?」
「あれは半年前に撤去されたのよ。」
「撤去?なんで?」
「誠一郎が、古いから危ないって。それに電気代がかかるからって。」
言葉に詰まる母を見て、胸が痛んだ。
「食事は冷蔵庫、空っぽだったわよ。近所の人が持ってきてくれる野菜とかで凌いでるの。あまりお金が……」
言葉を失った私に、母は申し訳なさそうに微笑んだ。
「毎月200円、ありがとう。おかげでキュウリを買って進んでるのよ。」
200円。どういうこと?
「何言ってるの?あなたが送ってくれる200円で、お小遣いとしてね。」
言葉が詰まった。
「母さん、私は200円なんて送ってない。毎月30万円振り込んでるわよ。」
母の目は泳ぎ、表情が凍りつく。
「さ、30万?嘘でしょ?」
信じられない表情の母を前に、私の頭の中でいろいろな疑問が渦巻き始めた。
「だって誠一郎が、まほは会社を首になってアルバイト生活だから、無理して200円送ってくれてるんだって。」
「そんなの嘘よ。母さん。私は会社を首になんてなっていないわ。今も管理職として働いてるし、母さんには毎月30万円を振り込んでるのよ。」
母は混乱した表情で、私の顔をじっと見つめている。
「それに、冷房を撤去したのも、食事の準備をしていないのも、絶対おかしいわ。」
私の兄夫婦に対する疑念を振り払うことができなかった。
稜也に電話をかけ、状況を説明すると、すぐに駆けつけてくれることになった。
「母さん、兄さんたちは今日、何時に帰ってくるの?少し兄さんたちの部屋を見たいの。」
「2人は店の経営が忙しくて、最近はほとんど帰ってこないのよ。」
それを聞いて、さらに疑念が深まる。兄夫婦の部屋のドアは施錠されていなかった。
中に入ると、そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
最新型の大型テレビ、高級ブランドの服が散乱し、新しいパソコンが置かれている。
私の疑念は確信へと変わる。兄夫婦は母への仕送りの30万円を、自分たちのために使っているに違いない。
私は兄夫婦の部屋を写真に収め、証拠として残した。
稜也が到着し、状況を共有する。
「これは明らかに横領だな。まずは今後の仕送り方法を変えるべきだ。」
「そうね。兄夫婦には何も言わず、直接母さんに手渡しすることにするわ。」
「俺も捜査課の刑事として、この件は見過ごせないな。でも今は証拠集めだ。」
そこで私たちは計画を練った。毎月の仕送りを口座振り込みから直接手渡しに切り替え、その事実を兄夫婦には伝えないことにした。母にもそのことを伝えた。
「本当にごめんなさいね、まほ。あなたのお金を……」
「母さん、謝らないで。悪いのは兄夫婦よ。」
それから2ヶ月が経過した。今のところ、兄からの連絡は一切ない。金が滞っていることに気づいた兄が、こちらを探っているのだろうか。
しかし3ヶ月目に入った頃、突然兄から電話があった。
「まほ、今すぐ実家に来い。」
声は怒りに震えている。
「どうしたの?」
「とにかく来い。」
稜也と共に実家へ向かうと、兄は玄関で腕組みをして待ち構えていた。
「何をしてるんだ、お前は。」
「何のこと?」
「この3ヶ月、1円も振り込まれていない。母さんを飢えさせるつもりか?」
怒りを爆発させる兄に、私は冷静に対応する。
「それがどうかした?」
「どうかしたじゃない。約束を破るなんて、お前らしくないぞ。」
「兄さん、私はちゃんと約束を守ってるわよ。母さんには毎月30万円渡してるもの。」
誠一郎の顔が一瞬で青ざめた。
「な、何を言って……?」
そこに母が奥から顔を出した。
「あら、まほ。今日は予定より早いわね。」
「母さん、まほが言ってることは本当か?」
「ええ、まほからは毎月30万円もらっているわよ。本当に感謝してるの。」
母は私に向かって微笑んだ。
「おかげで栄養のある食事も取れるし、新しい冷房も変えたわ。」
誠一郎の顔が怒りと焦りで歪んだ。
「兄さん、説明してもらえるかしら?」
「何をだ?」
「私が毎月送金していた30万円は、どこに消えたの?」
「そ、そんなの知るか。」
「それに、母さんの部屋の冷房を勝手に撤去したのも兄さんたちでしょ。」
「古いから危ないと思って。」
「危ないから?それなら新しいものを買ってあげればいいじゃない。」
母は驚いた表情で兄を見つめている。
「母さんには、私が会社を首になってアルバイト生活だと嘘をついて、毎月200円しか送金していないと思わせて。ひどいわ。」
そこに稜也も加わった。
「誠一郎さん、これは立派な横領罪に当たりますよ。」
「なんだ?警察沙汰にするつもりか?」
「事実を述べただけです。」
誠一郎は顔を真っ赤にして叫んだ。
「話が見えない。お前らの勘違いだ。」
悲しそうな表情を浮かべる母が口を開く。
「聖一郎、あなた、本当にお金を使っていたの?」
「違う。そんなことはしてない。」
「じゃあ、どうして私が送金した30万円が母さんに渡っていなかったのか、説明してよ。」
「それは……」
言葉に詰まる兄は、明らかに取り乱していた。
「さおり、さおり、ちょっと来てくれ。」
奥からさおりが現れた。
「何よ、そんな大声出して。」
「まほが変なことを言い出したんだ。俺たちが母さんのお金を使ったとか。」
さおりは一瞬困惑した表情を見せたが、すぐに取り繕う。
「まほさん、何を言い出すのかしら?私たちがお母様のお金を使うなんて、そんなことあるわけないじゃない。」
「じゃあ、説明してもらえる?私が毎月30万円を母さんの口座に振り込んでいたのに、母さんには200円しか渡っていなかったのはなぜ?」
「それは……」
「通帳を見せてもらえますか?」
焦った様子のさおりは、兄と目を合わせた。
「何のために?」
「事実確認のためです。まほが振り込んだ金額と、実際にお母さんが使った金額の差額が、どこに行ったのか。」
「通帳なら、私が持ってるわ。」
そう言って母は自分の部屋から通帳を持ってきた。
稜也がそれを確認すると、毎月30万円の入金と、その直後に30万円の引き出しが記録されていた。
「誰がこの引き出しをしていたんですか?」
「私はしていないわ。キャッシュカードは、ずっと聖一郎が預かっていたから。」
誠一郎は言葉を失い、さおりの顔を見る。さおりも焦りの色を隠せない。
「兄さん、これはどういうこと?」
「それは……店の経営が苦しくて、一時的に借りただけなんだ。返すつもりだった。」
ついに兄は認めた。母は悲しそうな顔で兄を見つめていた。
「聖一郎、なぜ……?」
「借金まみれで、店も潰れそうで……」
「しかし、それなら素直に家族に相談すべきでしたね。お母さんのお金を黙って使い、さらに冷房まで売却するなんて。」
「いや、だから冷房は、近々買い換えるつもりで……」
言いかけて黙る兄に、私は失望の気持ちでいっぱいになる。
「お母さんを真夏の暑さの中に放置して、お母さんは熱中症で危ないところだったのよ。」
母は涙を流している。
「信じていたのに……」
すっかり取り乱した兄は、もはや言い訳もできず、ただ床を見つめているだけだった。
「誠一郎さん、これからどうするつもりですか?」
「分かった。謝るから、警察には……」
「それはお母さんが決めることです。」
母は静かに言った。
「私はもう、あなたたちを信じることができないわ。」
「母さん……」
「黙りなさい。長年育ててきた息子が、こんなことをするなんて。」
兄は完全に打ちのめされ、さおりも言葉を失っていた。
「これから正式に捜査を進めます。全ての事実が明らかになるでしょう。」
「ありがとう、稜也さん。」
私は母の手を握りしめた。
「もう大丈夫よ。これからは、私たちが守るから。」
母は涙を拭いながら、静かに頷いた。
しかし、突然さおりが開き直ったかのように、聖一郎の前に立ちはだかった。
「落ち着きなさい、聖一郎。」
聖一郎を静止するさおりは、場の空気を一変させるかのように穏やかな口調で話し始める。
「まほさん、誤解があるみたいね。冷房のことだけど、あれはお母様から私たちへのプレゼントだったのよ。」
「プレゼント?」
「そうよ。若い2人には快適に過ごして欲しいって。私たちから要求した事実は一切ないわ。」
母は怒りの表情で前に出る。
「嘘よ。そんなことは1度も言っていない。気がついたら誠一郎が、古いから危ないと言って勝手に取り外して持ち去ったのよ。」
さおりは困ったように首をかしげ、周囲に同調を求めるような表情を浮かべた。
「お母様、ひょっとしてお忘れですか?最近、少し物忘れがひどくなっているみたいで……」
母を認知症扱いするさおりの態度に、私の怒りは頂点に達した。
「母さんは全然物忘れなんかしていないわ。だって、振り込みのことも覚えていなかったじゃない。誰が信じるの?」
稜也が冷静な声で介入する。
「事実は通帳が証明していますよ。毎月30万円の入金と、ほぼ同額の引き出し。これが偶然だというのですか?」
さおりは手を変えた。
「もう1つ気になることがあるの。まほさんは、なんで今になってお母さんに仕送りを始めたの?」
「母さんが転んで、歩行困難になったからよ。」
「本当にそれだけ?実は保険金目当てなんじゃないの?お母様の機嫌を取って……」
「なんですって?」
「まほさん、怖い。」
煽るかのように冷笑を浮かべるさおりに、私は感情を抑えながら反撃した。
「じゃあ、証拠を見せるわ。」
スマートフォンを取り出し、事前に準備していた資料を開く。
「これは母さんの口座履歴。そしてこちらは、兄夫婦のネットショッピングの購入履歴。」
2つの画面を並べて見せる。
「母さんの口座から引き出された日付と、兄夫婦が高級品を購入した日付が一致しているわ。偶然かしら?」
聖一郎とさおりの顔から血の気が引いた。
「ブランド服、最新家電、高級レストラン。お店の経営が苦しいのに、随分贅沢な暮らしをしていたのね。」
稜也が一歩前に出た。
「私は捜査課の刑事で、経済犯罪を専門にしています。皆さんのケースには特に興味深いものがありますね。」
初めて名乗った稜也の職業に、兄夫婦は明らかに動揺した。もちろん稜也が警察官だったことは知っていたが、経済犯罪を専門とする捜査だったことまでは知らなかったようだ。
「聖一郎さん、飲食店の経営状況について、詳しく聞かせてもらえますか?」
「な、なんだよ。俺の店に何の関係が?」
「実は調査済みなんです。あなたの店は確かに一時期、借金まみれでした。ところが、まほが仕送りを始めて以降、不思議と借金が解消されています。」
「兄さん、私のお金で借金を返したの?」
聖一郎は言葉をつまらせた。
「それだけではありません。最近、一等地への店舗移転計画まで進めていたようですね。」
さおりが慌てて口を挟んだ。
「そんなの知らないわ。聖一郎、あなた、何か隠してたの?」
「さおり、お前こそ……」
2人の間で亀裂が生じ始める。
「お2人の共同口座の入出金記録も調査済みです。お母さんの口座から引き出されたお金が、ほぼ同額、同日付で、あなた方の口座に入金されています。」
「調べるなんて、プライバシーの侵害だ。」
「法令に基づいた正当な捜査です。この件は単なる家庭内の問題ではなく、高齢者からの詐欺的資金搾取に当たります。」
今度はさおりが突然泣き出した。
「私は何も知らなかったのよ。誠一郎が全部やったの。冷房の撤去も、お金の引き出しも……」
「さおり、お前、これで店を救えるから黙ってたのに。大体、最初は少し借りるだけって言ってたじゃないか。」
互いに罪をなすりつけ合う2人を冷ややかに見ていた母が、静かに口を開いた。
「毎月のお金だけじゃないのよね。」
「どういうこと?」
「貯金通帳も、保険証書も、全部誠一郎に預けていたの。父さんの残した保険金も……」
稜也はスマートフォンで何かを確認すると、厳しい表情になる。
「お父さんの死亡保険金、1500万円も、すでに引き出されています。これも借りただけというつもりですか?」
誠一郎はもはや反論する言葉を失っていた。
「俺は知らない。全部さおりだ。」
「うるさい。お前だって同罪だろ。」
「結局のところ、お2人は組織的にお母さんの資産を流用していたわけですね。」
そう言って稜也は兄夫婦の前に警察手帳を提示した。
「正式に捜査に入らせていただきます。古賀誠一郎さん。古賀さおりさん。詐欺罪の容疑で、取り調べをさせてください。」
兄夫婦は顔面蒼白になっていた。
「冗談だろう。家族のことを警察沙汰にするなんて。」
「犯罪は犯罪です。特に高齢者に対する経済的虐待は、社会的に許されない行為です。」
私は改めて兄夫婦の横領の詳細を確認する。
「冷房を売った金額はいくらだったの?」
誠一郎は黙り込んでいたが、さおりが小声で答えた。
「3万円。」
「そんな安く売ったの?新品で30万円はしたはずよ。」
「中古だから……それに急いでたし……」
母は悲しそうな目で誠一郎を見つめている。
「クリーニング……あなたを信じていたのに。」
誠一郎は俯いたまま、答えなかった。
稜也は兄夫婦の不正の詳細を丁寧に説明していった。
「まず、まほさんからの仕送り30万円を毎月横領。これだけでも約360万円になります。次に冷房の売却。さらに、父親の死亡保険金1500万円。合わせると、約1900万円の不正流用になりますね。」
さおりは顔を両手で覆い、誠一郎は壁を見つめたまま動かない。
「他にも、何か隠してることはない?」
それを聞いた母が、思い出したように立ち上がった。
「父さんの形見の時計も、売ったのよね。」
誠一郎は黙ったままだが、表情の変化で答えは明らかだった。
「あれは、家族の宝だったのに……どうして……」
「2人とも、書類で詳しく話を聞かせてもらいましょう。」
現役刑事の迫力に、兄夫婦はすっかり気力を失った様子で黙り込んだ。
私は母の肩に手を置いた。
「母さん、これからどうする?」
「被害届は出すわ。これは許せないもの。」
「母さん、冗談だろ?俺を警察に突き出すつもりなのか?」
母は冷静に、しかし断固とした態度で言った。
「あなたはもう、私の息子ではないわ。」
その言葉に、誠一郎はよろめく。
「お母さん、ごめんなさい。私たちは……」
「あなたたちのしたことは、親子の情では許せないわ。」
「では、警察署まで同行願います。」
ぼつりと涙を流すさおりと、肩を落とした誠一郎は、大人しく引き上げていった。
私と母は、その背中を見送る。
「自分の子供が、こんなことをするなんて、信じられないわ。」
「私がもっと早く気づいていれば……」
「いいのよ、まほ。あなたが気づいてくれたから、私は救われたの。」
その日の午後、母は警察署に被害届を提出した。長年築いてきた親子の絆が壊れる瞬間だった。それでも、母の表情には悲しみと共に、強い決意が見える。
誠一郎とさおりさんには、きちんと償ってもらうわ。
「母さん……」
「私はあなたの母親よ。私が示さなければ、誰が罪を償わせることができるの?」
その言葉に、私は強く頷いた。
あれから半年が経ち、季節は冬へと移り変わる。兄夫婦の裁判は終わり、2人には懲役3年の実刑判決が下された。母への仕送りの横領や冷房の売却などの罪が、稜也の捜査で改めて明らかになったのだ。
「正当な判決ですね。」
「本当にそうね。」
判決を聞いた母は、静かに涙を流す。
服役前、誠一郎は最後の面会を求めてきた。
「許してくれよ、母さん。俺はあんたの可愛い息子だろう。」
母はただ一言。
「出所しても、帰ってくるな。」
それが母の最後の言葉だった。面会は1度で、母はそれから刑務所には訪れていない。
私たちは母を我が家に迎え入れ、3人での生活が始まった。広くはない家だが、笑顔が絶えない温かい住まいだ。
母の怪我も次第に良くなり、今では自分で買い物に行けるまでに回復した。
「まほ、稜也さん、本当にありがとう。」
「母さんが元気で、嬉しいわ。」
「僕も、妻の家族が増えて、幸せです。」
母は私が仕事で忙しい時は家事を手伝い、休日は3人で近所を散歩する。時に悲しい表情を見せることもあるが、それでも前を向いて生きている。
私たちは誰かを頼りにするだけでなく、支え合って生きていく。そんな当たり前のことの尊さを、改めて実感している。
そして私は思う。家族とは、血のつながりではなく、真実の絆で結ばれるものだ、と。



