「会社を潰されたくなかったら土下座しろ」
その言葉とともに、頭の上からビールがかけられた。冷たい感触と、鼻を刺激するアルコールの匂い。周りの社長たちが息を呑むのがわかった。
私は長谷川尾夫。祖父の代から続く中小企業の社長を65歳で引退し、息子にバトンを渡したばかりだった。引退後は妻と旅行に行ったり、趣味を楽しんだりするのが夢だった。
ところがある日、主要取引先の篠山社長から電話がかかってきた。
「今度、知り合いの社長を集めて懇親会を開こうと思っています。新社長にまだお会いできていないので、この機会にぜひ」
「私はもう社長ではないので、息子に連絡していただけませんか」
「いやいや、長谷川さんにも是非来ていただきたいのです。なんとかお願いしますよ」
数回断ったが、篠山社長はなかなか折れない。根負けした私は、息子と相談して2人で参加することを承諾した。
当日、息子から連絡が入った。
「仕事で少し遅れるかもしれないから、父さんが先に会場に行っておいてくれないかな」
しかも会場へ向かう車の中で、篠山社長からも遅れるとの連絡が入った。あまり乗り気ではなかった私は、一人で会場に入ることにした。
座敷には、私の顔見知りの下請け会社の社長たちが数人待っていた。ほっとしたのも束の間、座敷の奥に知らない若い男が酒を煽っていた。彼が篠山社長の一人息子の三つぐさんだと教えられた。
彼は篠山社長の会社で部長をしているが、あまりに利己的な態度に、篠山社長も手を焼いていると聞いたことがある。すでに酔っているのか、彼の周りには人を寄せつけない機嫌の悪さが漂っていた。
私が挨拶をしようと彼に近づくと、彼がこちらを睨みつけた。
「おい、今入ってきたの誰だよ。何こそこそ話してんだ」
私は気にせず、彼の元へ行き挨拶をした。
「初めまして。お父様にお招きいただきまして、長谷川と申します。随分お酒を飲まれていますね。お水はいかがですか」
彼は私の差し出した水のグラスを手で避け、ろれつの回らない舌で悪態をついた。
「長谷川?ああ、弱小企業のじいさんか。一人で来たのかよ。新社長の息子が来るのが筋ってもんじゃねえのか」
「申し訳ありません。仕事で少し遅れているようでして、後で参ります」
すると彼はさらに機嫌を悪くし、声を荒げた。
「遅れてる?全く失礼なやつだ」
そう言って立ち上がると、私だけでなく他の社長たちにも怒り始めた。
「俺の会社のおかげでお前たちの会社はやっていけてるんだぞ。分かってんのかよ、全く」
彼の不満が全部こちらに向けられているような目だった。彼は先ほどまで飲んでいた空のコップを手に取り、ドカッと腰を下ろした。
「おい、お前。息子が来ないバツだ。会社潰されたくなかったら土下座しろ」
背後にいた社長たちが一瞬ざわめき、彼を止めに入った。
「三つぐさん。さすがにそれは長谷川さんに失礼です」
「はあ?」
彼はギラギラした目で私を睨みつけた。
「いえ、構いません。土下座します」
私は心配する社長たちを制して、改めて彼へ向き直った。テーブルの上のまだ開いていないビール瓶を掴み、栓抜きで開ける。シュッと音を立てて栓が開くと、空のコップに注いだ。
「図が高いな」
次の瞬間、彼はコップを私の頭の上で逆さにした。ビールが髪を伝い、畳に水滴が落ちていく。
「図が高いって言ってんだ。ほら、もっと頭下げて土下座しろ」
薄笑いで余裕の態度を取る彼を見て、私は立ち上がり、彼を睨みつけた。
「これはお父様に教わった礼儀ですか?」
「なんだと?」
口ご応えしたことに逆上した彼は、赤くなっていた顔をさらに赤くして怒り出した。
「取引は中止だ。じじい、覚えておけ。後で泣きついてきても絶対に許さないからな」
「わかりました。あなたのいる会社とは取引は一切なしです」
私はそれだけをきっぱり伝えると、両亭を後にした。背中には、彼の悪態が続いていた。
「あんなじいさんのしょぼい会社、取引する価値1ミリもないね」
足早に出口へ向かいながら、私は息子に電話をかけた。
「もしもし」
「もうタクシーで向かってるよ」
「ああ、今すぐ引き返しなさい。来る必要はない」
「え、何かあったの?」
「詳しいことはまた今度話す。私も今から帰るところだ」
息子に悟られないように短く切り上げ、私はその足で報連相を済ませた。
翌朝、昨日の嫌な出来事がなかったかのような晴天だった。あんなことはさっさと忘れて、旅行の計画でも立てようかと思ったところで、スマートフォンが鳴った。息子からだった。
「父さん。今から会社に来られる?」
息子にしては珍しい。心配になった私は、すぐに会社へ駆けつけ、社長室のドアを開けた。そこには篠山社長と、隣に項垂れた彼の息子の姿があった。
「朝川さん、息子が失礼なことをして、大変申し訳ありません」
2人は立ち上がるかと思うと、私の足元に土下座をして謝った。昨日とは打って変わって大人しくなった息子も、床に額を擦りつけていた。
「朝から2人でいらして、父さんに謝りたいと一点張りで。僕もまだ昨日のことを詳しく聞いてないから、何とも言えなかったんだよ。一体何があったの?」
私は昨日の出来事を一つ残らず説明した。篠山社長は申し訳なさそうに黙って聞いていた。
「昨日、契約打ち切りの電話がなりまして、うちは大変な騒ぎになっております。よりによって息子が、あの場にいた人に口止めをしていたらしく、私が事情を知ったのは今朝でした。本当に申し訳ありません」
実は私は、単なる中小企業の社長だったわけではなく、あらゆる業界に手を広げるグループ企業のトップだった。息子が勤めていた大手企業も、そのうちの一つだ。代々続いてきた家業を守るため、グループ企業のトップでありながら、小さな会社の社長も自ら務め、その全てを息子に譲ったのだった。
三つぐさんに取引中止だと言われた私は、あの後、グループ全社に篠山の会社との取引を全てストップするよう指示した。全社長の私の一声は強力で、篠山社長の会社は、都合100億相当の契約を打ち切られることになっていた。
「本当に申し訳ありませんでした」
三つぐさんも状況を理解し、相当反省している様子だった。
「三つぐさん。昨日のあなたの態度は、人としてありえない態度でした。お父様の会社を今後継ぐのであれば、下請けの会社に偉そうにしたり、顔合わせの場で人数が揃わないうちからあんな風に酔ってはいけません」
「はい。大変申し訳ありませんでした」
繰り返し謝罪する姿に、私がこれ以上言う必要はないと感じた。これから先は、現社長である息子に公平な話し合いをしてもらった方がいいだろう。
「土下座はもうやめてください。今後どうするかは現社長に任せることにします。じゃあ、頼んだぞ」
私は息子にそう告げて、会社を後にした。篠山社長に関しては、昔からの長い付き合いで信頼を寄せている人物でもあるため、本気で切り捨てるつもりなどなかった。誠意を汲んでもらえたら、それで十分だった。
後日、篠山社長と息子は話し合いの場を設けることになり、その間、契約中止は一旦保留となった。
「よろしく頼むよ。私もあの日の判断は急ぎすぎたと反省している。冷静じゃなかったこともね」
「まあ、あんなことがあったんじゃ仕方ないよ。父さんだって人間だってことだね。だけど、そういう時こそ僕を頼って相談してほしかった。僕は父さんの味方で、第三者として冷静な目を持っている。そうでしょ?」
「そうだな。ありがとう」
息子は今回のことを重く受け止め、篠山社長には3人での正式な謝罪と何らかの処分を約束させた。それを受けて篠山社長は、息子に反省と更生を促すため、彼を地方の子会社へ飛ばすことを決めた。そして、今後のためにも、彼の行状に改善が見込めないと判断した場合には、二度と本社には戻さないことも約束させた。こうして息子は、篠山社長の会社との契約を続けることにしたのだった。
「俺があの日遅れてなかったら、その場で淡々と説教してやったのに。父さんは黙って確実に息の根を止めるタイプだからな。全く、今後はこんな面倒はごめんだよ」
笑って愚痴をこぼす息子を頼もしいと思った。
「面倒ごとに巻き込んですまん」
確かに息子は、何か問題が発生した場合はその場で解決するタイプだ。私はつくづく、息子に社長を譲って正解だったと思うのだった。
「さあ、問題は片付いた。俺は楽しい隠居生活に戻るよ」
「じゃあ、俺は社長に戻ろうかな」
こうして私は、再び平和な隠居生活に戻った。今の悩みといえば、やりたいことの優先順位を決めることぐらいだ。早速妻を誘って、カフェで相談をしよう。これからは心のままに、楽しいことを選び取っていくつもりだ。第二の人生が始まったことに、心がワクワクしている。



