「あら、黒川さん。最近、お疲れじゃないかしら。手が荒れてるわね。それに、先日は黒いスーツの人たちが来ていたでしょう。ご近所、皆さん少し気になってたのよね」—…

「あら、黒川さん。最近、お疲れじゃないかしら。手が荒れてるわね。それに、先日は黒いスーツの人たちが来ていたでしょう。ご近所、皆さん少し気になってたのよね」—...

午後二時半、雨音が団地の廊下に響く時間帯だった。黒川千子、六十八歳。夫を亡くして十二年、この古い団地で一人静かに暮らしていた。チャイムが鳴ったのは、そんな雨の日のことだった。

インターホン越しに確認すると、雨合羽を着た郵便局員が立っていた。受け取った書留封筒の差出人は、都内にある不動産管理会社。その名前を見た瞬間、千子の指先が少し強く紙を押した。

机で開ける。ハサミで丁寧に封を切り、中から折りたたまれた書類を取り出す。目薬を差してから、もう一度、目を落とした。

発行は株式会社未来不動産管理。件名には「保証人の方へ」とあった。本文には、賃借人である黒川みさ子が今年三月から所在不明となり、家賃が三か月滞納していると書かれていた。滞納家賃三十六万円。退去後の残置物撤去及び特殊清掃費用六十八万円。契約解除に伴う違約金四十一万円。合計、百四十五万円。末尾には、保証人である千子に全額を負担いただきますようお願い申し上げます、と丁寧な敬語で結ばれていた。

みさ子。夫の遠縁にあたる女性だった。五年前、アパートを借りる際の身元引受人になってほしいと頼まれた。頼れる身内がほとんどいないと言うから、断ることができなかった。あの頃は、少し余裕があったのかもしれない。それから連絡はほぼ途絶え、千子がみさ子のことを深く考えることはなかった。結果がこれだった。

千子は立ち上がった。書類が机から滑り落ちた。拾おうと膝を折った時、胃の奥から何かが込み上げてきた。洗面所に駆け込み、口を押さえる。吐き気はあるのに、何も出ない。鏡に映る自分の顔は、頬が落ち、目の下に影があった。それでも、襟のボタンは一番上まで止めていた。

翌日の朝、千子は市役所の無料法律相談へ行った。番号札は十七番。待合室は高齢者で埋まっていた。三十分ほどの相談時間、若い相談員は書類を見ながら淡々と言った。「この保証契約書は有効です。滞納家賃と清掃費、違約金、いずれも契約書に明記された範囲内の請求です。相手方の請求は法的に正当です」

選択肢は三つ。任意交渉、自己破産、法テラス等の利用。千子は「そうですか」とだけ言って、立ち上がった。市役所の外は曇っていた。帰りのバスを降り、団地の入り口で足が止まった。アーチの脇に、黒いスーツを着た男が二人立っていた。胸に社員証のようなもの。四十代前後、二人とも背が高く、千子の姿を見ると同時に体を向けた。

「黒川千子様でいらっしゃいますか。株式会社未来不動産管理の坂本と申します。先日お送りした件でお話しさせていただけますでしょうか」

声は低く、礼儀正しかった。怒鳴られれば無視できる。しかし、礼儀正しく立たれると、こちらも礼儀で返すしかなくなる。千子は廊下の奥、隣の部屋の扉が少しだけ開いている気配に気づいた。田村さんだ。朝、ゴミ集積所で会釈を交わした、あの田村さんだ。

「今日は時間がありません。後日、文書でご連絡ください」

坂本は「承知いたしました」と頭を下げ、連絡先を残すと去っていった。扉はすでに閉まっていたが、鍵のかかる音がしなかった。

部屋に入り、通帳を開く。残高、五十万二千四百三十円。相談員は言っていた。「少しでも払って誠意を示せば、相手の態度が柔らぐこともあります」

次の朝、千子は銀行の窓口から四十万円を振り込んだ。残高は十万二千四百三十円になった。帰り道のベンチで、千子は求人チラシを見た。駅近くのビジネスホテル、夜間の客室清掃スタッフ、週三、四日、午後七時から午前零時まで。応募条件は特になし。千子はメモ帳に電話番号を入力した。

ホテルの仕事は、誰にも知られずにできた。先輩の中野さんは説明は簡潔で、無駄な質問を一切しなかった。千子にとって、それはありがたかった。制服に着替え、深夜まで部屋を回る。三週間が過ぎた頃、手の甲が荒れ始めた。洗剤が袖口から入るのだ。ある日、スプレー式の洗剤を取り間違え、薬品が手袋の中に入った。皮膚が赤く腫れ、熱を持った。中野さんが薬局で売っているステロイドの軟膏を勧めてくれた。二百八十円だった。

その翌日、仕事中のスーパーで、千子はレジ前に立っていた客が田村さんだと気づいた。心臓が一泊だけ早くなった。田村さんはにこやかに言った。「黒川さん、最近お疲れじゃないかしら。手が荒れてるわね。あ、でも体に気をつけてね。それに、先日は黒いスーツの人たちが来ていたでしょう。ご近所皆さん、少し気になってたのよね」

千子は笑顔を崩さなかった。「ありがとうございます」。声は平坦で、どこまでも穏やかだった。田村さんは嘘をついていない。ただ、探っている。聞き出そうとしている。それをやんわりとした口調で包んで投げてきた。千子は、自分が守ってきたものが確実に崩れ始めているのを感じた。

その夜、ホテルの清掃を終え、午前零時過ぎに団地へ戻ると、三〇三号室の前に田村さんが立っていた。

「あら、黒川さん。こんな時間にどちらへ?」

千子は歩みを止めなかった。「少し用事がありまして」と微笑みを顔に乗せ、そのまま自分の部屋の鍵を開けた。田村さんはそれ以上何も言わなかった。しかし、あの声の中にあったのは心配ではなく、好奇心だった。それをやんわりと包んだ、日常会話の形をした探索だった。

七月に入り、団地の中の空気が変わった。みんな丁寧すぎるくらい丁寧に接してくる。その過剰な優しさの中に、千子は心配されている、つまり何かが出回っていることを読んだ。毎月第二土曜日、この団地の住人数人が集まってお茶を飲む習慣があった。主催者は四〇一号室の岸本さん。しかし、七月の郵便受けに、いつもの案内状は入っていなかった。指を入れて確かめても、広告と請求書だけだった。招かれなかった。ただ忘れられただけかもしれない。でも、千子の中の何かが、それは偶然だと受け取らなかった。

生活は固定されていた。朝五時半に目覚める。六時半にゴミを出す。七時半に家を出て、八時からスーパーのレジを打つ。昼過ぎに帰宅し、何か軽いものを食べる。午後六時に家を出て、七時からホテルで掃除をする。深夜零時過ぎに帰宅し、電車と徒歩で戻る。眠れない夜は、天井の雨染みを眺めて過ごす。身体はまだ持っていたが、内側から自分が薄くなっていくような感覚があった。

七月二十二日の夜、千子はベッドに横たわりながら、ふと娘のことを考えた。長谷川弓。東京に嫁ぎ、孫のひろしが今年で四歳になる。最後に会ったのは正月だった。あの夜、千子は携帯電話を手に取り、弓の名前を押していた。コール音の途中で、後ろから子供の鳴き声が聞こえた。

「お母さん、今何時だと思ってるの? ひしがやっと寝たのに。どうしたの? 何かあった?」

弓の言葉は矢のように飛んできた。お金のことを言おうとした。でも、その言葉は弓の声を聞いた瞬間、どこかへ消えてしまった。

「ごめんね。番号を間違えたわ。もう遅いわね。ひしのこと、気をつけてあげてね」

「でも……お母さん?」

「おやすみ」

電話を切った。言う場所がなかった。娘には、夫がいる。子供がいる。深夜に子供を泣かせている。保証人になって失敗した人間。貯金が底を突きかけている人間。夜はホテルでトイレを磨いている人間。それを娘の前で認めることへの、言葉にできない抵抗があった。

八月の最初の週、ATMにカードを差し込むと、機械は一度だけ音を立ててカードを吐き出した。「この取引は受け付けられません」という画面。銀行の窓口で、若い女性担当が言った。

「お客様の口座に対して、債権者からの差し押さえ申し立てが届いております。現在、一時的な支払い制限措置が取られております」

裁判所の書面だった。未来不動産管理が申し立てた差し押さえが認められ、口座残高九万三千円は引き出せなくなった。スーパーの仕事に遅れてはいけない。千子は書類を畳んでバッグに入れ、足早に駅へ向かった。

家に帰ると、財布の中には千二百円しかなかった。冷蔵庫には麦茶と豆腐が半丁。棚の奥に、去年の正月に買っておいた乾燥そばが二袋残っていた。口座は凍結され、給与が振り込まれても引き出せない。千子は昨日と同じように、そばを茹で、薄い醤油だれで食べた。味は悪くなかった。食べながら、千子はある決断をしていた。みさ子が逃げた部屋の実態を見ずに、百四十五万円という請求を飲み込もうとしていた。しかし、本当にその清掃費用が正当なものなのか、自分で確認していない。保証人には、賃貸物件の状態を確認する権利があるはずだった。

未来不動産管理に電話をかけると、坂本が出た。

「支払いを検討する前に、物件の現況を直接確認させていただきたい。保証人としての権利として、見せていただくことは可能ですか」

電話の向こうで、少し間があった。「本来その必要はありませんが、確認の上、ご解答します」

翌日折り返しがあり、日時を調整できるという。千子はスーパーが休みの平日の午前を指定した。八月の第二週の火曜日、千子は電車を乗り継いで、埼玉県の外れまで行った。木造モルタル作りの二階建てアパート。外壁は古く、所々に亀裂が入っていた。坂本と社員が待っていた。

「念のため申し上げますが、室内は現在、かなり荒れた状態でして」

「承知しています」

ドアを開けると、匂いが最初に来た。湿気と、長期間換気されていない空気。有機物が分解されかけている匂い。古い油と、人間の生活の残骸が重なっていた。千子は口を手で覆った。廊下はゴミで完全に覆われていた。ペットボトルが何十本も積み重なり、ダンボール箱が潰れたまま重なっている。足元で何かが潰れる音がした。坂本がスマートフォンのライトをつけた。壁の下の方に、茶色いシミが広がっていた。液体が漏れた後だった。

窓際のゴミの山の際に、小さなノートが落ちていた。表紙がくすんで丸くなった、百円ショップで売っているような薄いノート。千子は手袋をはめて、それを拾い上げた。開くと、鉛筆で書かれた文字がページの至るところに散らばっていた。縦書きではなく横書き。字は大きく乱れていた。最初のページに「寒い」とだけ書いてあった。次のページに「もう誰にも会いたくない」と。さらに「お腹が痛い」というページがあった。その横に「でも外に出たくない」と書き添えてあった。別のページには「ごめんなさい」と書かれて、その後が何かで消されていた。消した線が強く、紙が少し破れかけていた。「恥ずかしい」「もう声も出せない」「誰にも見られたくない」「お金がない」「怖い」「疲れた」。どのページも、二、三行だった。長い文章は一つもなかった。

千子はノートを閉じ、元の場所に戻した。坂本は何も言わなかった。千子は壁の低い部分を見た。カレンダーが何枚か重なって貼ってあった。一番上のものは、去年の十一月のものだった。みさ子は三月に逃げた。十一月から外に出ていなかったのかもしれない。千子はみさ子が五十四歳だったことを思い出した。自分より十四歳も下。その若さで、ゴミの山の中で、鉛筆でノートに一言ずつ書き続けた。

一通り見て回り、玄関先に戻ると、坂本が言った。「この手の案件は年に数件はあります。家賃を払えなくなって、でも誰にも言えなくて、そのまま部屋の中にこもって、最後に逃げる」帰り際、坂本は分割払いの話もした。しかし、千子は何も答えず、会釈をしてアパートを出た。

駅へ向かう道を歩きながら、千子はみさ子のノートの言葉を反芻していた。「恥ずかしい」「誰にも見られたくない」「疲れた」。あのノートの言葉は、みさ子が書いたものだった。でも、その言葉のいくつかは、今の自分が感じていることとほとんど同じだった。自分の口座は凍結され、現金は千二百円しかない。乾燥そばはあと一袋。豆腐は今日か明日で食べきる。このまま数週間が過ぎれば、食べるものがなくなる。働けなければ、もう払い続けることもできない。千子は思った。自分は今、みさ子が去年の冬に入っていたのと同じ場所に近づいている。あの部屋ではなく、あの状態に。みさ子は部屋の中でゴミを積み上げる代わりに、千子は「体面」という見えないものを積み上げながら、その中にこもろうとしていた。どちらも同じことだった。

団地に戻ると、エレベーターがメンテナンス中だった。階段を登ると、三階の廊下に人影が見えた。岸本さんだった。現在、四〇一号室に住む、お茶の集まりを主催している人。今月、自分を招かなかった人。

「あら、黒川さん。ちょっとよろしいかしら」

千子は足を止めた。岸本さんは穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと切り出した。「先日から、ちょっとした話が出ていましてね。何が事実かどうかは分かりませんが、ご近所の皆さん、どうも落ち着かない気持ちになっていらっしゃるみたいで。鳥っ手の二人組や、夜の帰宅とか、お手が荒れているとか。黒川さんも色々とご事情がおありなのは存じてますわ。でも、ご自身のことを考えて、より落ち着いた環境に移られることも、選択肢の一つかもしれませんわね」

千子は岸本さんの顔を見た。目は穏やかだった。声にも棘はなかった。言い方も丁寧だった。でも、言っていることの中身は、出ていってほしい、ということだった。千子は一瞬、いつも通りに頭を下げようとした。「ご心配をおかけして申し訳ありません。これから考えます」。それがいつもの自分だった。波風を立てない。相手の気持ちを最優先にする。しかし、今日は違った。

「ありがとうございます。ご連絡いただければ、また改めてお話しします。今日は少し疲れておりまして」

声は平坦だった。怒りもなく、謝罪もなかった。それだけ言って、千子は歩き出した。後ろで岸本さんが何か言おうとしている気配がしたが、千子は振り返らなかった。部屋に入り、ドアを閉めた。靴を脱がずに玄関に立ち、岸本さんの言葉を頭の中で再生した。「より落ち着いた環境に移られることも、選択肢の一つかもしれませんわね」。二十三年前、夫と二人で引っ越してきた団地。夫はここで死んだ。葬式もここの住人に手伝ってもらった。十二年、一人で住み続けた。ここは自分の場所だと思っていた。追い出された。それも、穏やかに、丁寧に、遠回しな口調で。

千子は怒ろうとした。しかし、怒りは来なかった。岸本さんは集団の声を代わりに言いに来ただけだ。岸本さん自身が悪いかと言えば、悪くない。だが、岸本さん自身がその集団の声を作ることに加担していた。千子は台所の椅子に座り、部屋の中を見渡した。壁は黄ばんでいたが、清潔だった。床に埃一つない。この部屋を保つことに、千子は相当な力を使ってきた。誰かが見に来るわけでもないのに、常に人に見せられる状態に維持していた。なせなら、この部屋の中にいる自分が「きちんとした人間」であることを確かめるためだった。

その夜、千子は押入れを開けた。奥の棚に、引っ越しの時に詰めたままのダンボール箱が二つあった。一つ目には、夫が生きていた頃に着ていた服。二つ目には、アルバムと結婚式の写真が入った封筒。娘の弓が生まれた頃の写真も入っていた。千子は三十代で、笑っていた。千子はアルバムを少し見て、箱に戻した。次にタンスの引き出しを全部開けた。百貨店のブランドのブラウス、丁寧に洗って畳んだカーディガン、スラックス。どれも状態が良いものばかりだった。台所から、タッパーウェアを全部出した。半額弁当を映し替えるために使っていた、あの道具たち。床の上に、洋服とタッパーウェアと、アルバムが並んだ。これらは何のためにあったのか。洋服は、きちんとした人に見られるため。タッパーウェアは、弁当を食べていることを悟られないため。アルバムは、かつてまともな家族がいたことの証拠として、心のどこかに置いてあった。全部、外向きのものだった。誰かに見せるため、誰かに思われるため、誰かに気づかれないため。千子が二十年以上かけて集めたものの多くが、他者の視線に対して作られた防壁だった。

千子は立ち上がり、押入れから大きなゴミ袋を二枚取り出した。タッパーウェアを七つ全部入れ、百貨店のブラウスとカーディガンも入れた。夫の服の入ったダンボール箱も、そのまま袋の横に置いた。アルバムだけは、手が動かなかった。弓が三歳の頃の写真。海岸で砂を握っている。その写真を見ながら、千子は思った。これは捨てるのではない。アルバムは押入れに戻した。あれは、誰かのためではなく、自分が覚えているためのものだ。

翌朝、千子はスーパーで店長を呼んだ。「今月末で、退職させていただきたいのですが」店長は驚いた顔をした。千子は「事情がありまして」と答えた。「詳しくは申し上げにくいのですが、生活の方向を変える必要が出てきました」。店長は「急なことだが了解した」と言った。千子は頭を下げ、その日もいつも通りレジを打った。手を動かしながら、奇妙に気持ちが落ち着いていた。午後、千子はホテルへ行き、中野さんにも同じことを告げた。中野さんは一瞬黙ってから「分かりました」と言った。それから「お疲れ様でした」と。千子は「お世話になりました」と頭を下げた。廊下の蛍光灯が、いつもより白く見えた。

翌日の午前、千子は市役所の福祉課へ行った。受付に「生活保護の申請に相談したいのですが」と言った。声は低かったが、はっきりしていた。担当の職員は、まず現在の状況を説明してほしいと言った。千子は話した。保証人になって保証債務が発生したこと。口座が差し押さえられていること。収入はあるが、口座が凍結されているため引き出せない状態であること。現金がほとんど残っていないこと。担当はメモを取りながら聞き、途中で確認の質問を挟んだ。

「お子さんはいらっしゃいますか?」
「います。娘が一人、東京におります」

担当は続けた。「生活保護の申請をされる場合、扶養義務者の方への確認を行うことになっています。お嬢さんに対しても、扶養が可能かどうかを確認する書類を送付することになりますが、ご了承いただけますか?」千子は頷いた。「知っています。申請する前に、娘には自分で連絡するつもりです」

市役所を出て、千子は近くの公園のベンチに座り、携帯電話を取り出した。弓に電話をかけた。今度は昼前だった。コール音が二度なって繋がった。「もしもし」と弓の声がした。声は落ち着いていた。千子は話し始めた。五年前に保証人になったこと。みさ子が行方不明になったこと。百四十五万円の請求が来たこと。四十万円を払ったこと。口座が差し押さえられたこと。仕事をやめること。生活保護の申請をしようとしていること。話しながら、千子は自分の声が思ったよりも落ち着いていることに気づいた。弓はずっと黙っていた。話し終えると、少し間があった。それから、電話の向こうで弓が息を吸う音がした。

「お母さん……いつから、そんなことになってたの?」
「六月から」

「なんで言ってくれなかったの? 先月電話してきた時、番号間違えたって言ったじゃない。あれも、本当は話しかけようとしてたんじゃないの」

千子は少し間を置いた。「そうだった。でも、ひしが熱を出していたから」

「そんなの関係ないよ。お母さんが困ってるのに関係ないよ」

弓の声が少し震えていた。千子の目が少し暑くなった。でも、泣かなかった。泣くには、話す前にやっておかなければならないことが、まだあった。

「弓、市役所から書類が来る。扶養できるかどうかを確認する書類。そこには『無理です』と書いてくれていい。あなたに負担をかけるためにかけてるんじゃないから」

弓はしばらく何も言わなかった。それから言った。「お母さん、なんでいつもそうなの?」千子は答えなかった。「会いに行く。今度の週末、ひしも連れて行く」千子はそこまでしなくていいと言おうとした。だが、言い換えた。「ありがとう」。電話を切った後、千子はしばらくベンチに座っていた。木陰で風がわずかに動いた。

その夜、千子はゴミ袋を二つ廊下に出した。タッパーウェアの入った袋と、洋服の入った袋。明日の朝のゴミ収集に出すためだった。玄関のドアを少し開けて、夜の空気を入れた。部屋の中が少し軽くなったような気がした。気がしただけかもしれない。でも、それで十分だった。

翌朝、ゴミ集積所へ行くと、田村さんがいた。千子の袋の数を一瞬だけ見たが、何も言わなかった。「おはようございます」千子が言った。田村さんが返した。それだけだった。千子は洗濯網を外し、そのまま団地へ戻った。廊下を歩きながら、今日は岸本さんに顔を合わせても平気だと思った。何かが決まったわけではないが、何かが軽くなっていた。

その週の木曜、千子は法テラスの相談窓口へ行った。担当の弁護士は四十代の女性で、姓名は鈴木と言った。千子は持参した書類を全部机に並べた。保証契約書、仮差し押さえ通知、未来不動産管理からの請求書、通帳。鈴木弁護士は一通り目を通すと、言った。

「自己破産の手続きと、生活保護申請を同時に進めることができます。この場合、破産手続きによって保証債務は免責される可能性が高い。口座の差し押さえについても、弁護士が介入することで停止させることができます」

千子は一つずつ確認し、分からないことはその都度聞いた。費用は、法テラスの立替え制度を使えば、今すぐには必要ないという。

「進めてください」

鈴木弁護士が少し驚いたように見えた。「もう少し、考える時間を取ってもいいですよ」千子は首を横に振った。「もう考えました」。千子は書類に署名した。ペンを持つ手は安定していた。震えなかった。字は少し小さかったが、きちんとかけた。署名を終えてペンを置いた時、千子は自分が長い間こらえていた息を、ゆっくりと吐いた。

土曜日の午後、弓とひろしがやって来た。夫の仕事は来られないと弓は言った。千子は部屋で待っていた。掃除はいつも通りきちんとしていたが、台所の棚が以前より開いていた。タッパーウェアがなくなっていたからだ。チャイムが鳴り、玄関を開けると、弓がいた。弓は千子の顔を見て、何かを言いかけて止めた。代わりに、ひろしが「ばあちゃん!」と言って靴を脱いだ。

三人で狭い部屋に入った。千子は麦茶を出した。弓が部屋の中を見渡して言った。「お母さん、痩せた」。千子は「そうね」と答えた。「ご飯、ちゃんと食べてる?」「節約していたから」。嘘ではなかった。弓の目が少し赤くなったが、泣かなかった。ひろしが畳の上でゴロゴロしていた。弓が言った。「弁護士さんのこと、決めてよかったと思う。お母さんらしくないけど」千子は「らしくない」の意味を考えた。自分で全部抱えてしまうのが「お母さんらしい」のだ。だから、今回はらしくなくて良かった。千子は何も言わなかった。でも、弓が自分のことをちゃんと見ていたということは分かった。

ひろしが「お腹空いた」と言った。千子は立ち上がり、財布の中の二千円を確認した。弓が来る前に、少し現金を用意しておいたのだ。近くの店で買っておいた蕎麦と卵、それから少しだけネギ。千子が「シンプルなものしか作れないけど」と言うと、弓が台所へ来た。「一緒に作ろうか」。二人で狭い台所に立った。弓は野菜を切り、千子は湯を沸かした。ひろしが台所の外から覗いていた。調理の間、二人はほとんど話さなかった。でも、沈黙が重くなかった。麺が茹で上がり、卵を解いてネギを散らした。三人でテーブルを囲んだ。ひろしは麺を勢いよく食べた。汁が少し飛んだ。弓が慌てて拭いた。千子はゆっくりと食べた。味は一人で食べる時と同じものだった。でも、同じではなかった。何かが違った。部屋の中の空気の密度が、一人でいる時と違った。

片付けの後、弓が台所の椅子に座った。千子も向いに座った。弓が言った。「お母さん、一つ聞いてもいい?」千子は頷いた。「なんで今まで、あんなに完璧にしてたの? 年金で暮らしてるって言い続けて、スーパーで働いてることも最初は言わなかったし、こんな大変なことになっても、電話一本してこなくて」

千子はその質問を自分でもずっと考えていた。答えは出ていた。でも、声に出したことはなかった。「格好悪くなりたくなかったから」。弓は静かに聞いていた。千子は続けた。「お父さんが死んでから、一人でちゃんとやっているところを見せていたかった。あなたに心配をかけたくなかった。近所の人に哀れに思われたくなかった。そういうことを、ずっと考えていた」

弓がゆっくりと言った。「それって、誰のためにやってたんだろうね」千子は答えなかった。弓は続けなかった。部屋の中が静かになった。千子はしばらくして、言った。「自分のためだったと思う」。弓が顔を上げた。千子は言葉を選びながら続けた。「きちんとしている自分を、自分が見ていたかった。それが崩れると、自分が何者か分からなくなる気がして。でも、最近、それがどんどん自分を苦しめていることに気づいた」。弓は何も言わなかった。でも、目が少し赤くなっていた。その時、ひろしが起き上がって言った。「ばあちゃん、またご飯食べに来ていい?」千子はひろしを見た。四歳の顔が、こちらをまっすぐ見ていた。「いいよ」。ひろしが「やった!」と言った。

八月の終わり、千子は引っ越しをした。引っ越し業者は使わなかった。弓と夫が二人で手伝いに来た。段ボール箱は十一個だった。弓が数えて「少ないね」と言った。千子は「そうね」と答えた。引っ越し先は、同じ市内の少し外れにある一Kの部屋。団地ではなく、古いマンションの一室だった。家賃は三万二千円。都市再生機構の支援住宅で、家賃は生活保護の住宅扶助で賄われる予定だった。部屋は団地より狭かった。台所と六畳の一間だけ。窓は東向きで、午前中だけ光が入った。

荷物を運び込みながら、弓が言った。「狭いけど、なんか綺麗な感じがするね」。夫も「落ち着いたら、また連絡してください」と礼儀正しく言った。千子は「ありがとうございます」と頭を下げた。二人が帰り際、弓が言った。「また来るから。来月、ひしも連れてくる」。千子は頷いた。ドアが閉まり、一人になった。千子は何も置かれていない部屋の真ん中に立った。まだ何もない。でも、何もないということは、何でも置けるということでもあった。千子は窓の方へ歩き、外を見た。駐車場が見えた。その向こうに低い建物が並んでいた。緑が少し見えた。さっきまでいた団地の景色とは違った。あそこには二十三年分の記憶があった。ここにはまだ、何もない。千子は流しに行き、水道を一度ひねった。水が出た。冷たかった。押入れを開けると、空だった。千子は段ボール箱を開けた。衣類が入っていた。畳んで、押入れの棚に重ねていった。食器を並べると、少しだけ部屋の様子が変わった。

日が傾いてきた頃、千子は部屋を出て、少し外を歩いた。知らない道だった。コンビニがあった。小さな食料品店があった。川があった。川沿いの道を少し歩いた。夕方の光が水面に当たって、橙色に揺れていた。千子は立ち止まり、川の水を見た。自分は今、何を失ったのか。口座の残高のほとんど。二十三年住んだ団地の部屋。近所での評判。体面。スーパーとホテルの仕事。百四十五万円の借金も、破産手続きによって消えていく。自分は今、何を持っているのか。新しい部屋。食器が二枚。豆腐と卵。娘がまた来ると言った言葉。ひろしがまたご飯食べに来ていいと言った声。そして、もう誰かに見られることを意識しなくていい、という名前のつかないしずかな自由。誰も来なかった。千子一人だった。それが、今は怖くなかった。

部屋に戻ると、残りの段ボール箱を開けた。アルバムが出てきた。捨てなかったものだ。弓が三歳の時、砂を握っている写真の表紙。千子はそれを棚の上に立てかけた。写真の中の千子が、こちらを向いて笑っていた。三十代の顔だった。最後に、タッパーウェアが入っていないことに気づいた。もう持っていなかった。半額弁当を買ったら、そのまま食べればいい。それだけのことだった。千子は段ボールを畳んで廊下に出し、部屋に戻った。窓を少し開けた。夜の空気が入ってきた。椅子に座り、手を膝の上に置いた。明日から、また何かが始まる。仕事はない。収入もまだない。生活保護の審査には時間がかかる。弁護士の手続きもまだ続いている。全部、これからだった。千子は今夜、初めて一人でいることが静かだと感じた。孤独ではあった。でも、それは以前の孤独とは違った。以前は体面を守りながら一人でいた。今は、体面を手放して一人でいた。その違いは誰かに説明するのは難しかったが、千子の胸の中ではっきりと感じた。窓から、夜の街の音が小さく聞こえた。車の音、遠くの電車の音、誰かの話し声。千子はその音を聞いていた。逃げていなかった。ただ、違う場所にいた。それが今の千子にできる、全部だった。

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