「無能な部下の出番か」
部長はニヤニヤと意地悪な顔でこちらを見ている。あの忌々しい表情は、2年前となんら変わっていない。
「それは事実無根のことです」
「事実無根?よくそんな無責任なことが言えるな」
その態度に、俺はつい感情的になっていた。ところが、俺たちの険悪なムードに気づいた重役が、席につくように促してきた。俺は我に返り、素直に着席することにした。部長もブツブツ言いながら自分の席に座る。
そして、俺の座席にある肩書きに気づいた瞬間、部長の顔色が一変した。
真っ青だ。
「ま、まさか……」
俺の名前は鈴木浩司。大学卒業後、広告会社の鮫島広告で働き始めて1年が経った頃、すべてが始まった。
元々大学在学中に自分で小さな広告業をやっていたことが評価され、入社した。しかし、それは表向きの理由だ。本当の入社理由は別にある。それは5歳年上の兄、優一の存在だった。
優一は同じ鮫島広告で働いている。新人1年目で社内MVPを取ってしまったほどの超エリートだ。「あの優一の弟なのだからきっと優秀に違いない」という期待のもとで採用されたのが、俺だった。周りの社員の期待の目線からも、その現実がひしひしと伝わってくる。正直やりづらいが、働きやすい環境で、おおよそ今の仕事には満足していた。
そんな状況で働いていたある日、突然、大きな案件が回ってきた。
「え、こんな大きなプロジェクト、俺でいいんですか?」
それはここ数年で急成長した海外企業の日本進出第一歩となるプロジェクトだった。予算額も大きいが、なにより国内外からの注目度が大きい。鮫島広告の評価に直結する重大な責任を背負っていた。成功すれば得るものも大きいが、失敗すれば地獄を見るのは明らかだ。
詳しく話を聞くと、その企業の社長がたまたま俺の担当した広告を見て気に入り、直々に指名してきたのだという。それは地味な広告だったが、自分でも気に入っていた作品だったので、俺は心底嬉しかった。
俺は考えた末、そのプロジェクトを引き受けることにした。自信があるかと聞かれれば疑問だが、自分の広告を評価してくれた社長の役に立ちたいと思ったのだ。
それからしばらくは、入社後最も忙しい日々が続いた。広告のイメージのすり合わせや、細部の制作が可能な業者探しなど、地味だが時間のかかる作業も多く、気づけば寝る暇もないほど働いていた。周りのチームメンバーから心配されるほどで、時には会社の休憩室で倒れるように眠ってしまうことも少なくなかった。
しかし、そんな俺の姿を見て、チームメンバーはより一層結束を固め、最後まで一緒に走りきることを決意してくれたらしい。俺自身は体はかなり疲弊していたはずだが、プロジェクトにかける情熱の方が上回り、不思議と疲れは感じなかった。
慌ただしい日々が1ヶ月以上続き、ついに俺たちの手がけた広告が世間に発表された。反響はものすごいものだった。即日ネットニュースにも取り上げられ、関連動画の再生回数は人気アイドルのPV並みだった。
自分たちの地道な作業の積み重ねが、今、多く人々の心を動かしている。そんな感動に満たされながら、俺は久々にゆっくりと眠った。これからもこんな日々が続けばどんなに幸せだろう。優秀な兄の弟として入社して気まずい思いをするのも、もう終わりだ。これからは自分の努力と実績で自信を持って仕事をしていける。
しかし、そんな幸福な気持ちに浸るのも長くは続かなかった。
ある日、俺は急に上司である部長に呼び出された。
「お前、無能だし、明日から来なくていいわ」
急な発言に、俺は事情を飲み込むことができなかった。俺が無能? まさか、つい先日大きなプロジェクトを成功させたばかりなのに。言葉を失って立ち尽くしている俺を、部長は見下すように見つめている。
「お前には失望したよ。プロジェクトを成功させて調子にでも乗っているのか。お得意様の水島企画との相談をすっぽかすなんて」
水島企画は確かに鮫島広告と長い付き合いのある有力企業だ。この秋から前任者の担当から俺に引き継いだばかりの取引先でもある。しかし、部長の言っている件については全く覚えがない。
俺は深呼吸をしてから、詳しい事情を聞くことにした。どうやら先ほど、水島企画の代表から激怒した様子で電話がかかってきたらしい。担当である俺と商談の予定を入れていたが、約束の時間になっても一向に現れる気配がないため、どういうことになっているのかという内容だったようだ。今後の対応次第では取引をやめるとも言っていたらしい。
俺は普段から先方との約束は必ず手帳に書き留めるようにしている。約束をしていたなら、絶対に手帳に書き忘れるわけがない。実際に手帳を確認してみたが、今日は午後からの会議の予定以外、空になっていた。
「何かの手違いではないか」と思い、俺は部長に抗議したが、全く聞き入れてもらえなかった。
「とにかくお前はもう首なんだよ。それでしか先方も納得しない」
嘘のような話だが、俺はその日のうちに正式に退職を言い渡され、首になってしまった。
挨拶もないまま首になった俺に、チームメンバーが連絡をくれた。事情を話すと、彼らは「浩司さんがそんなことをするはずがない」とかばってくれ、「何かあれば全面協力する」ことを約束してくれた。また、部長の横塚は嫉妬深く、自分よりも若手で活躍する社員がいると嫌がらせをして首にしてきた過去があるという驚きの事実も教えてくれた。
今まで首にされた社員の中には、裁判を起こして戦おうとする者もいたが、横塚は他の社員にも巧みに根回しをしてそれを許さなかったという。最終的にはみんな諦めて鮫島広告を去っていったとのことだ。
どのみち、これほど無茶苦茶な退職のさせ方をする鮫島広告には愛想が尽きていたところなんだ。この事実を聞いて、なおのこと鮫島広告に戻りたいという気持ちはなくなった。
俺は今までの経歴を生かして、もっとまともな会社に再就職することに決めた。そして狙いを定めたのが、日勝通信だった。規模的にも得意分野的にも鮫島広告のライバルにあたる企業だ。以前から日勝通信の作る広告にはセンスがあって光るものがあると感じていた俺は、迷わず応募することにした。
そしてすぐに採用通知が届いた。俺は鮫島広告での理不尽な首のことを忘れて、一心不乱に働いた。中途採用だったが、幸いなことに以前の業務内容とあまり変わりなく、俺はすぐに職場に馴染んだ。
日勝通信の社員は皆人当たりが良く、すぐに仲良くなった。また、広告への愛情も深く、細かな表現にこだわる点もとても共感できた。気づけば、帰り道の行きつけの店で、他社の広告についての批評やお互いのアイデアについて意見交換をすることが習慣になっていた。
そういった環境の中で、世の中を魅了する素晴らしい作品が誕生するのは、ごく自然なことだった。翌年の広告業界の優れた作品を決める祭典で、俺の所属するチームの作品は激励賞を取ったのだ。激励賞とは、最優秀賞や優秀賞には及ばないが、審査員によってその作品の素晴らしさが認められ、今後の期待も込められて送られる賞である。普段は正直に言ってあまり注目されない賞なのだが、今年は違った。
審査員の中の一人、有田早月が俺たちの作品を絶賛したのである。有田早月は、今や日本で一番人気のある若手女優だ。ドラマに加えてCMにも多く出演しており、おそらく日本国民で彼女を知らない人はいないだろう。彼女は自ら絵を描く芸術家でもあり、アートにも詳しい。彼女が俺たちの広告作品を見て、「他の作品にはないずば抜けたアート性を感じた」と述べたのである。
一夜にして俺たちの広告作品は有名になり、それに続くようにして日勝通信への広告オファーも一気に増えた。会社の業績も上がっていいことだらけだったのだが、そんな折、今でも鮫島広告で働いている兄の優一から連絡が入った。
「日勝通信でのお前の活躍が目立ち始めてから、横塚部長がお前の悪口を言いふらしてるんだよ」
数年前に退職した社員についてまでも悪口を言いふらすとは、どこまで性格が歪んでいるのか。しかも、噂の内容は「退職するまでは首を撤回しないと部長の家族に危害を加えると脅された」というものらしい。全くの事実無根な内容に、思わず笑いが出てしまうほどだ。部署が違う兄の耳にまで届いているのだから、相当派手に言いふらしているのだろう。
「全て部長の嘘だから、心配いらない」と言って、俺は電話を切った。
鮫島広告と日勝通信の経営統合が明らかになったのは、その数ヶ月後だった。新しい会社として発足するにあたり、入社後の実績が評価された俺は、ある役職につくことになった。「期待しているよ」と社長から直々に任命され、俺はそれまで以上に仕事に向き合った。
そして、新オフィスにて役職ポストの職員の顔合わせの日が訪れた。もちろん、横塚部長もその場に来ていた。俺を見つけると、すぐにやってきてこう言った。
「無能な部下の出番か。自分の取引先との約束も忘れちまう奴が、なんでここにいるんだ」
こいつ、新会社の顔合わせの場だぞ。何を考えているんだ? 周りの役職者たちからも「一体どういうことだ」という心の声が聞こえてくるようだ。部長は相変わらず、ニヤニヤと意地悪な顔でこちらを見ている。その表情には、2年前となんら変わっていない低劣な人間性がありとあらわれていた。
「それは事実無根のことです」
「事実無根? よくそんな無責任なことが言えるな」
部長は大げさにため息をついた。その忌々しい態度に、俺はつい感情的になっていた。
「あなたは今まで他の社員にもひどい扱いをしてきたそうじゃないですか?」
ここまでされるなら、こっちだって黙っていられない。どうせなら、重役の面前で今までの悪事を晒してやろうじゃないか。だが部長は「そんな証拠がどこにあるんだ」と知らん顔を決め込んでいる。そこへ、俺たちの険悪なムードに気づいた重役が「君たち、もう席につきたまえ」と促した。俺ははっと我に返り、確かにこの場で部長とやり合うのは賢明ではないと思い直し、素直に着席することにした。部長もブツブツ言いながら自分の席に座る。
そして、俺の座席にある肩書きに気づいた瞬間、部長は顔面蒼白になっていた。
「ま、まさか……」
俺の新しい役職は本部長。つまり、部長を取りまとめるポストだったのだ。これからは、俺が部長の上司になる。少し離れた席からも、部長が大量の汗をかいているのがわかる。その後、よほど堪えたのか、トイレに駆け込む始末。
無能な部下はどっちだ? 俺は心の中でそう問いかけた。一体これから部長はどんな態度で俺に接してくるのだろう。それを想像すると、おかしくてたまらなかった。
顔合わせが終了すると、部長は態度を一変させ、すり寄るように俺に話しかけてきた。
「以前から優秀だと思ってましたが、やはり昇進されましたか?」
俺は文字通り、開いた口が塞がらなかった。
「これからは俺がお前の上司だ。今までのことは絶対に忘れないからな。肝に命じておけ」
今までは部下として最低限の礼節を保っていた俺だが、これからは違う。調子に乗っている奴は、上司としてしっかりと管理しないといけない。俺の表情から凄みを感じ取ったのか、部長は逃げるようにしてその場を去っていった。
あんなに慌てて逃げて、事故にでも遭わないといいが……。案の定、左右の確認もせずに道路に飛び出した部長は、大型トラックにクラクションを鳴らされて飛び上がっていた。そして、誰かに見られていないかキョロキョロと周りを見渡し、俺の視線に気づくとぎょっとして、走っていってしまった。どこまで行っても、愚かな人間だ。
しかし、いつまでもくだらない部長のことばかり考えてもいられない。それから数日後、俺は本部長として新プロジェクトの最高責任者を任されることになった。それは、この夏にオープンする新規大型レジャーランドの広告だった。そして、何を隠そう起用タレントはあの有田早月。以前、俺たちの広告を絶賛し、世に広めてくれた特別な存在の女優である。
絶対に成功させたいという思いで、俺はがむしゃらに働いた。兄の優一とも初めて同じチームで仕事をすることになり、鈴木兄弟のコラボに社内からの期待も高まっていた。俺は兄弟で仕事ができる喜び、充実感に満ち溢れていた。
そんな時、意外な出来事が起きた。それは広告が発表される前日、打ち合わせが終了した後の出来事だった。兄の優一が真剣な表情で、頭を下げてきたのである。
「今まで、ごめん」
一瞬、俺は何のことか分からなかった。
「どうしたんだよ?」
詳しい事情を聞くと、兄はゆっくりと顔を上げた。
「横塚部長に嫌がらせを受けて首になった時、守ってやれなくて申し訳なかった」
話を聞くに、兄は同じ会社にいながら嫌がらせを受ける俺を守れなかったことが、ずっと心残りだったらしい。自分だけが鮫島広告に残り、周りから「心ない兄だ」と言われたこともあったという。
「そんなこと、気にしていないから大丈夫だよ」
俺がそう答えると、兄はこう続けた。
「だけど、こうしてまたお前と兄弟で大きな仕事ができたことを、本当に嬉しく思っているんだ。これは何かの縁だと思う。これからも、兄弟で仲良くやっていこう」
この数年辛かったのは、自分だけではなかったようだ。兄も人知れず思い悩んでいたのだろう。そして、明日はいよいよ俺たちの広告発表の日だ。そんな記念すべき日の前日に、こうして気持ちを通わせ合うことができてよかった。
「もちろん、これからもよろしくな」
俺たちは固い握手を交わした。
そして翌日、発表の場には多くのマスコミ報道人が押しかけていた。そこへ、豪華な着物姿の有田早月が登場した。歓声が上がる中、有田早月の艶やかな声が会場に響いた。
「この夏は、世界で一番忘れられない夏」
彼女のその一声で、会場全体にプロジェクションマッピングが施されると、その場にいた誰もが魅了された。会場が様々な色に染まるたび、集まった報道人からも思わず感嘆の声が漏れる。俺はその様子を見ながら、鮫島広告を首になってからの今までの努力が、全て報われていくのを感じた。
ここまで諦めないできてよかった。俺は天を仰ぐと、今日の素晴らしい出来事に心から感謝した。
翌日出社すると、デスクには大きな花束やギフトが山盛りになっていた。それは今までの俺の努力を見てくれた周りの社員からの祝福だった。中には、鮫島広告時代に一緒に働いたチームメンバーからの花束もあった。メッセージカードにはこう書いてある。
「浩司さん。いや、本部長、お帰りなさい。僕たちはずっと浩司さんのことを待っていました。これからも信じてついていきます」
俺はそれを読むと、オフィスの端で肩身を狭くしている横塚部長の元まで向かった。急に近づいてきた俺に恐れを感じて萎縮している部長。
「あの、この度はプロジェクトが成功して、誠におめでとうございます」
取ってつけたような挨拶の言葉を述べて、無理やり笑顔を作ろうとしている。俺は以前からはっきりさせたいと思っていたことのけりをつけることにした。
「確認したいことがあるんだけど、2年前、俺が先方との約束をすっぽかした件、今でも俺が悪かったと思っているか?」
部長はそれを聞くと縮み上がり、「滅相もございません」と頭を下げた。
「でも、俺はそのせいで首になったんだよな。無能だと罵倒されて。その時の上司は誰だったかな?」
ギロリと部長を睨みつけると、「すみません、ちょっとトイレに……」と姿を消してしまった。全く、本当に弱い奴だ。それでも、やっと部長に俺の無実を認めさせることができてよかった。
最近では、周りの社員も部長の性格にほとほと呆れ始め、いつの間にか俺の無実はみんなに知られることとなった。さらに、部長は何かしでかすたびに社員たちから冷たい視線を向けられるようになった。部長も薄々それに気づき始め、今更になって部下にすらごまをするというありさまだ。噂だが、俺の無実を証明するために、兄の優一もかなり裏で努力してくれていたようだ。「命をかけてでも弟を守りたい」と語っていたというから、さすがに照れ臭い。
いずれにしても、悪因は悪果を生むということだ。日頃の行いが自らの首を絞めるという事実に、部長も苦しんでいるだろう。今はまだ部長のポストにギリギリでしがみついているようだが、今後はどうなってしまうのか。
それから数ヶ月後、合併してから初めての人事移動が行われた。部長はそのずさんな仕事ぶりや卑怯な性格がバレて、平社員に降格になった。プライドを守りたい部長は、社長に土下座して人事移動の取り下げを懇願したそうだが、その努力も虚しく終わったのだという。諦めの悪い部長は、社長や重役の自宅に高価な贈り物を届けたりもしたそうだが、非常識な行いで余計に火に油を注ぐ状況になってしまった。
何をしても無駄だとようやく理解した部長は、無気力状態になり、出勤もままならない状態になってしまったそうだ。そしてついに、先日見かねた家族らの勧めで退職をしたようだ。家庭は火の車になり、家族中も最悪の状況になっていると、風の噂で聞いた。
一方、俺は本部長としての力量が認められ、担当する広告は毎回ヒットするようになっていた。会社の業績も上場し、社長からの評価も上昇中だ。なんと、最近では俺宛てに雑誌の取材やドキュメンタリー番組からのオファーも入るようになった。
「未来の広告業界を目指す若者に何か一言」と問いかけられ、俺は迷わずこう答えた。
「辛いことがあっても、諦めないでください。必ず見ていてくれる人がいます。嫌な奴がいても、決して負けないでください。必ず、正義は勝ちます」
仕事の方も順風満帆だが、私生活でもいいことが続いている。実は来週、結婚することが決まったのだ。そして、結婚相手はあの有田早月だ。俺の広告への情熱や仕事ぶりを見て、彼女の方からアプローチがあり、交際に発展した。まさか自分が国民的女優と結婚をするとは思わなかったが、兄を含めた家族も大いに喜んでくれている。
これからも、充実した日々が続きそうな予感に、俺は胸を躍らせている。



