休憩所の椅子に座った瞬間、あの聞き慣れたヒールの音がフロアに響いた。振り返ると、社長令嬢・伊藤さゆ子さんが鋭い目つきでこちらを睨んでいる。
「ちょっと、あんた何サボってんのよ。」
明日の商談に向けた資料をようやく仕上げ、一息ついたばかりだった。疲れた頭に容赦なく突き刺さる高い声に、ため息を飲み込んで答える。
「今、明日の商談に向けての急ぎの仕事が一段落したところです。すみません、すぐに戻ります。」
立ち上がろうとした俺に、さゆ子さんは勝ち気に顎を上げて言い放った。
「恰好つけないでよ。あんたなんてどうせ大した仕事してないんでしょ。あんたくらいの仕事、私にだってできるわよ。むしろあんたより効率よく仕上げられるわ。」
さすがに苛立ちが込み上げてきた。誰のせいでスケジュールが遅れたと思っているのか。遅れを取り戻すために、俺だけじゃなくチームのみんなが連日必死で頑張ってきたことを、この女は何も知らない。抑えきれない怒りを込めて、俺はそっけなく告げた。
「あなたには無理です。」
その瞬間、派手な化粧が施されたさゆ子さんの顔が、見る見るうちに赤く染まった。
「はあ?無理って何よ?あんた私が誰だか分かって言ってんの?高が課長の分際で、社長令嬢である私に盾つこうなんて、生意気にも程があるわ。」
目を吊り上げ、フロアに響き渡るような声でまくし立てる。さらに彼女は続けた。
「その商談、私がやるわ。だからあんたはもういらない。今日限りで首よ。」
あまりに突然の宣告に、俺は言葉を失った。いくらなんでも話が急すぎる。だが、目の前で睨んでいるさゆ子さんは本気のようだった。沈黙した俺を見て、彼女はさらに顔を赤くする。
「何よ、その態度。私にはできないって言うの?見てなさい。パパに言いつけたら、あんたの首なんてすぐに飛ばせるんだから。」
その無責任な言葉に、頭も体も疲れていた俺は、抗う気力を吸い取られてしまった。社長の娘という立場を傘に来て、やりたい放題のさゆ子さん。そして、そんな娘の状況を知りながら放置している伊藤社長。この会社はいつからこんな風になってしまったのだろう。俺は静かに目を伏せ、言葉少なに頷いた。
「分かりました。俺は会社を辞めます。それでは失礼します。」
そのまま俺は、長年勤めた会社をあっけなく去った。
翌日、自宅で家事をしていると、スマートフォンが立て続けに鳴る。見ると、伊藤社長からだった。電話に出るや否や、相手は開口一番怒鳴り声を上げた。
「何やってんだ!五十億の商談が白紙になるぞ!無断欠勤するな。すぐに出社しろ!」
乱暴に投げつけられた言葉に、俺は小さくため息をついた。実は今日、俺が同席するはずだった商談は、伊藤社長からの依頼でまとまった大型案件だったのだ。本来ならチームリーダーである俺が欠席するなどあり得ない話だが、昨日そのあり得ないことが起こってしまった。
「聞いてらっしゃいませんか?私、昨日付けで社長令嬢、あなたの娘さんに首にされたので、出社は無理です。」
冷静にそう告げると、電話の向こうから伊藤社長の困惑した声が響く。
「は?首?どういうことだ?」
だがその時、電話口に高い声が割って入った。
「パパ、言うの忘れてたけど、そいつ昨日私が首にしたの。でも心配しないで。今日の商談は私が仕切るから。だってそいつ生意気だし。言うこと聞かない社員はいらないでしょ。」
言わずもがな、さゆ子さんだ。彼女は父から電話を奪ったようで、勝ち誇った声でまくし立てる。
「ということで、あんたの首、今パパが承諾したわ。今日から無職よ。おめでとう。さっさと次の仕事でも探しなさい。」
楽しげにそう言うや、電話はすぐに切れてしまった。昨日の件に飽き足らず、一方的にこちらを傷つけようとする物言いに、今度こそ呆れ返った。
それから数週間が経った。ある日、再び伊藤社長から電話がかかってきた。
「今更なんだが、どうかもう一度会社に来てくれないか。」
かつては横柄な態度だった伊藤社長だが、今は平身低頭で頼むとまで言うものだから、こちらも「分かりました」と言うしかなく、その足でかつての勤務先へ向かった。
久しぶりに足を踏み入れたフロアは、なんだか空気が沈んでいて、社員の数自体も少なくなっているようだった。異変を感じつつ、社長室へ向かう。ノックして入室すると、そこには数週間前と比べてげっそりと痩せた伊藤社長と、父とは正反対に暢気な様子のさゆ子さんが待ち構えていた。
席に着くや否や、伊藤社長が深々と頭を下げた。
「目黒君、すまない。どうかこの会社に戻ってきてくれないか。」
突然の言葉に驚いていると、彼はポツポツと経緯を話し始めた。曰く、あの電話の後、さゆ子さんが意気揚々と商談に臨んだが、当然ながら説明はちぐはぐ。先方からの質問にも満足に答えられず、信用を失った上に商談はあえなく破談となったらしい。先方は、この会社のライバル会社へと取引を持っていってしまったという。
俺からすれば、まあそうだろうなと言うしかない。口先だけで何も知らないさゆ子さんがまともなプレゼンなどできるはずもない。そして、そんな娘の状態を知りながら、本当に商談を任せてしまった伊藤社長もどうかしているとしか思えなかった。五十億の商談だ。無事に契約を結べていれば、継続的な受注にも期待できたというのに。
何も言えない俺を前に、伊藤社長は力なく続ける。
「あの商談がなくなり、取引先からの信用も一気になくなってしまった。それに、君を首にしたと社内からの苦情が殺到してね。君を評価していた取引先からは、軒並み契約を切られたよ。本当にすまなかった。」
椅子から立ち上がり、伊藤社長が頭を深々と下げる。
「今更調子が良いことを言っているのは分かっている。だが、このままではこの会社は持たない。お願いします。どうか今一度、我が社へ戻ってきてください。」
汗を流しながら必死に頭を下げる父の横で、さゆ子さんが相変わらず暢気な声を上げた。
「ちょっとパパ、こんなやつに頭下げるなんてどうかしてるわ。てか、あんな商談の一つや二つなくなったって、また私がそれ以上の仕事を取ってきてあげるわよ。」
その根拠のない自信は一体どこから来るのか。もはや呆れるのを通り越して、俺はさゆ子さんを見つめた。だが、彼女の父であり会社のトップである伊藤社長は違ったらしい。事態がここまで深刻になっても緊張感のない娘に、さすがの親も堪忍袋の緒が切れたようで、青白かった顔を真っ赤にしながら唸るような怒鳴り声を上げる。
「いい加減にしろ!何も分かってないお前に、何ができると言うんだ!そもそもお前が勝手に彼を首にするから、こんなことになったんじゃないか!」
父の剣幕に気圧されたように、さゆ子さんがたじたじになる。もしかしたらこれまで彼女は、こうして父に怒られたことすらなかったのかもしれない。だが、気の強さだけは父譲りだったのか。一歩退いた後、さゆ子さんは父に負けじと声を張り上げる。
「何よ!パパがこんなやつに頼ってばかりいるから、会社が傾いたんじゃないの?それを全部私のせいにするとか信じられない!」
高い声が社長室にこだました、その時だった。ドンと大きな音を立てて、社長室の扉が勢いよく開かれた。なだれを打ったように入ってきたのは、開発部の社員たちだった。
「お、お前ら、なぜ?」
突然の出来事に伊藤親子と俺が驚く中、彼らが口を揃えて言う。
「社長の言う通りだ!口だけの飾り役員は今すぐ辞めろ!」
どうやら彼らは、今までのやり取りを聞いていたらしい。
「み、みんな、ちょっと落ち着け。」
思わず俺が創始を挟むと、「目黒さんはちょっと黙っててください」と逆に怒られてしまう始末。その間にも「辞めろ!辞めろ!」と詰め寄る社員たちに、さゆ子さんがついに絶叫する。
「あんたたち、誰に物を言ってるの?私はこの会社の社長令嬢よ!」
だが、娘のそんな叫び声は父によって遮られた。
「黙れ、さゆ子。お前は今日限りで首だ。」
「え?」
数日前、自分が俺に言い放ったことをそっくりそのまま父から返されて、さゆ子さんは戸惑ったように目を瞬かせる。
「え、ちょっとパパ、何言ってんの?首って私よ。私、パパの娘じゃないの?本当に何言ってんの?」
相手の正気を確かめるように話しかけるが、伊藤社長は断固として拒否した。
「何もクソもない。お前は今日でこの会社から出ていけ。どうせ大した仕事もしていないんだ。荷物の整理もすぐに済むだろう。」
そう言い放った伊藤社長は、ついで俺を見ると、なんとその場で土下座をしたのである。
「ちょっと伊藤社長!」
俺とさゆ子さんの悲鳴が重なる中、伊藤社長が口を開く。
「お願いだ、目黒君。この会社に戻ってくれ。」
すると、そんな自社の社長の姿に発破を掛けられたのか、社長室に雪崩れ込んできた社員たちも口々に懇願する。
「そうですよ!お願いです!目黒さん、戻ってきてください!目黒さんがいないと仕事が回らないんです!どうか俺らを助けると思って!」
同僚たちの視線に、やがて俺の視界もぼんやりと滲んでくる。みんな…あの時は見限られてしまったと思っていたこの会社だが、そうだ、俺には大事な仲間がいた。そのことを、俺は今ようやく思い出したのだった。俺には、ちゃんと居場所があるじゃないか。
「うん…ごめん、ごめんな、みんな。」
涙が込み上げて何度も小さく頷く俺を、同僚たちが駆け寄って抱きしめてくる。もみくちゃにされる俺の視線の先には、青い顔をしてフラフラと部屋を出ていくさゆ子さんと、彼女を支えるようにして後を追っていく伊藤社長の背中が、ちらりと映ったのだった。
後日、緊急役員会が開かれた。会社に混乱をもたらしたとして、正式にさゆ子さんの解雇が決定した。また、伊藤社長も娘の任命責任があるとして、自ら社長職を退任した。これを持って、伊藤親子は完全にこの会社から姿を消した。住んでいた家を売り、父の地元である田舎に引っ越して、ひっそりと暮らしているらしい。あんなことにはなったが、彼らにはどうか元気でいてほしいと心の中で祈った。
一方、俺はといえば、この頃何かと忙しい。いや、忙しいという一言では済まないほどの慌ただしさだ。なんと、会社の上層部とメインバンクの話し合いにより、この度俺が新たな社長として任命されたのである。その話を伝えられた時には、脳みそがひっくり返るかと思うくらい驚いた。俺が社長?冗談だろう。だが、もちろんそれは冗談ではなく、社内に向けて人事が発表されてからというもの、特に開発部の社員たちはお祭り騒ぎのようになった。何が何だか把握できないまま、俺は今日の就任式を迎えた。
混乱の中でも良いニュースはあった。俺が社長に就任すると社外に発表された後、離れていた取引先が続々と戻ってきてくれたのである。一連の出来事に対する謝罪と感謝を伝えに回る俺に、取引先は温かい励ましの言葉をかけてくれた。
朝から緊張しっぱなしの俺は、今、社内の係長以上を集めた会議室でマイクの前に立っている。そして、その場に立つ一人ひとりの顔をよく見回した。皆の目には、会社のこれからに対しての期待と不安が浮かんでいる。この場にいる社員、そしてカメラの前でこの光景を見守っている社員の生活が、自身の双肩にかかっていることを、俺はこの時初めて実感した。俺の人事は異例として受け止められたが、それでも今まで会社経営の経験すらない俺が社長を務めることに、何かと思うところはあるだろう。だが、それでも俺を信じてついてきてくれる社員が、まだこんなにもいてくれる。その責任の重さに、そして信頼の大きさに、俺は武者震いを覚えた。そうだ。引き受けたからには、しのごの言わずにやるしかない。そう腹を括り、俺は毅然と顔を上げ、社長としての第一歩を力強く踏み出したのだった。


