リビングに魔穂の冷たい声が響いたのは、引っ越してからまだ3日目のことでした。
「ねえ、同居は解消しよう」
私は手に持っていた湯のみを落としそうになりました。この瞬間まで、新しい生活に胸を躍らせていたのに。
「魔穂さん、今なんて……」
聞き返す私の声は震えていました。隣に座る息子の年明は、気まずそうに目をそらします。
「聞こえなかったんですか? 別々に暮らしましょうって言ったんです」
信じられませんでした。3,500万円。私の退職金と、亡き夫の遺産。人生のすべてを注ぎ込んで建てたこの家。同居が条件だったはずです。
「だって、同居するって約束でしょ!」
「そんなの、状況が変われば変わるものでしょう」
魔穂の言葉は、まるで他人事のように軽い。私の胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのがわかりました。
3ヶ月前、土下座までして援助を頼んできた2人。あの時の必死な姿は、すべて演技だったのでしょうか。
――裏切り。
その言葉が頭の中でぐるぐる回り始めました。
私の記憶は、3ヶ月前に遡ります。
「母さん、お願いがあるんだ」
珍しく神妙な顔をした年明が、魔穂と一緒に我が家を訪ねてきたのです。2人は揃って土下座をしました。
「お母さん、私たち、新築の家を建てたいと思っているんです。でも、資金が足りなくて」
魔穂の目には涙さえ浮かんでいました。息子夫婦の真剣な様子に、私の心は動きました。
「いくら必要なの?」
「3,500万円です。母さんが援助してくれるなら、必ず一緒に暮らします。老後の面倒も全部見ますから」
年明の言葉に、私は亡き夫が残してくれた遺産と、教師として働いて貯めた退職金のことを思い浮かべました。それは、私の人生そのものでした。
「本当に、ずっと一緒に暮らしてくれるのね?」
「もちろんです。お母さんと暮らせるなんて、私も嬉しいです」
魔穂の笑顔は、あの時は本物に見えました。
工事が始まってからも、2人は頻繁に顔を見せては、「母さんの部屋は日当たりの良い場所にしたよ」「キッチンも使いやすくした」と嬉しそうに報告してくれました。私は幸せでした。老後を1人で過ごす寂しさから解放され、家族と暮らせる。そう信じて、銀行で全財産を下ろす時も、少しの迷いもありませんでした。
なのに、今目の前にいる魔穂の顔は、まるで別人のように冷たいのです。
魔穂は足を組み直すと、まるで汚いものでも見るような目で私を見下ろしました。
「正直に言いますけど、お母さんとの同居なんて、最初から嫌だったんです」
心臓を掴みにされたような痛みが走りました。
「嫌だった……?」
「ええ、演技ですよ。お金が必要だったから、仕方なく頭を下げたんです。本当は、年寄りと一緒に暮らすなんて考えただけでもぞっとします」
――年寄り。
その言葉が、鋭い刃物のように私の心を切り裂きました。私はまだ68歳。現役時代は子供たちに慕われた教師でした。それなのに、まるでゴミのような扱いです。
「年明……あなたも、同じ気持ちなの?」
息子に助けを求めるように視線を向けましたが、帰ってきたのは冷たい言葉でした。
「母さん、現実を見てよ。僕たちには僕たちの生活があるんだ。それに、母さんの部屋は物置きとして使うことにしたから、早めに出て行ってもらえる?」
――物置き。
私のために用意したという、日当たりの良い部屋を物置きにする? でも、私のお金で建てた家よ。
「お金? あ、あれは贈与でしょ? もう僕たちのお金だよ」
「そうそう。お金はもらったから、もう済んだんですよ。お母さんは、もう用済みなんです」
――用済み。
この言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがプツンと切れる音がしました。
翌朝、私が自分の部屋に行くと、すでに私の荷物が廊下に積み上げられていました。魔穂が私物を勝手に運び出していたのです。
「何をしているの?」
「片付けですよ。邪魔なものは、早く処分しないと」
――邪魔なもの。
私の大切な思い出の品々を、彼女はそう呼びました。亡き夫との写真、息子の成長記録、教え子たちからもらった手紙。すべてが乱雑にダンボールに押し込まれています。
「これは私のものよ! 勝手に触らないで!」
「片付けを手伝ってあげたんですよ。ここは私たちの家なんですから、好きにさせてください」
魔穂は私を押しのけると、アルバムを無造作に放り投げました。その時、年明が階段を降りてきました。助けてくれると思った私が、甘かったのです。
「母さん、いつまでここにいるつもり? 早くアパートでも探したら?」
「アパート? 私に、どこへ行けというの?」
「それは母さんの問題でしょ? 僕たちには関係ない」
――関係ない。
28年間、愛情を注いで育てた息子の口から出た言葉とは思えませんでした。
夕方、魔穂の両親が訪ねてきました。魔穂は満面の笑顔で両親を迎え入れます。
「パパ、ママ、いらっしゃい。新居はどう? 素敵でしょ?」
「まあ、本当に立派なお家ね。魔穂も良いところに嫁いだわ」
魔穂の母親の言葉を聞いて、私は思わず口を挟みました。
「これは、私が3,500万円出して建てた家です」
すると、魔穂の父親が鼻で笑いました。
「まあまあ、お母さん、もう過去の話でしょ? これからは若い世代の時代ですから、大人しくしていた方がいいですよ」
その夜、私は自分の部屋だった場所の前で立ち尽くしていました。鍵が変えられ、中に入ることすらできません。
「情けないったらありゃしない。見苦しいわ」
廊下を通りかかった魔穂が、嫌味ったらしくつぶやきました。
「ねえ、年明、お母さんって少し認知症なんじゃない? さっきから同じこと繰り返してるし」
「そうかもね。困った人だよ、全く」
――認知症?
私の頭はしっかりしています。ただ、あまりの仕打ちに言葉を失っているだけなのに。
その時、魔穂が最後の一撃を加えてきました。
「あのさ、お母さん。はっきり言いますけど、お母さんみたいな役立たずと暮らすなら、3,500万円なんて安すぎますよ。やっと厄介払いができそうです」
――役立たず。厄介払い。
私は震える足で階段を降りました。もう、この家には私の居場所はありません。
でも、このまま黙って出ていくものですか? この屈辱は、必ず晴らしてやる。
その日の午後、私は法務局へ向かいました。せめて家の登記だけでも確認しておこうと思ったのです。3,500万円も出したのだから、共有名義になっているはずだという、かなり淡い希望を抱いていました。
登記簿を手にした瞬間、私の全身から血の気が引きました。所有者の欄には、年明と魔穂の名前だけ。私の名前は、どこにもありませんでした。
「これは、どういうこと?」
震える手で書類を見つめていると、あの日のことが鮮明に蘇ってきました。年明が「手続きは全部こっちでするから」と言って、私に何も説明せずに印鑑だけを押させたこと。今思えば、すべて計画的だったのです。
家に戻ると、年明がリビングでコーヒーを飲んでいました。
「年明。これはどういうことなの?」
登記簿を突きつけると、息子は涼しい顔で答えました。
「何って、普通のことでしょ? 若い世代が家を持つんだから、僕たちの名義にするのは当然だよ」
「でも、お金は私が出したのよ!」
「だから、それは贈与でしょ? 贈与税もきちんと払ったし、何の問題もない」
――贈与。
私は援助したつもりでしたが、法的には贈与として処理されていたのです。
「同居が条件だったはずよ!」
「そんな証拠が、どこにあるの?」
年明の言葉に、私は言葉を失いました。確かに、書面に約束を交わしたわけではありません。信じていた息子との間に、そんなものは必要ないと思っていたのです。
「第一、母さんがお金を出したって証拠もないでしょ? 振り込みは母さんの口座からだけど、それが家のためだったって、誰が証明できる?」
愕然としました。息子は、最初からすべてを計算していたのです。
その時、魔穂が買い物から帰ってきました。高級ブランドの紙袋をいくつも抱えています。
「まだいたんですか? アパート、まだ決めてないんですか?」
「魔穂さん、そのお金は何ですか?」
「私のお金です。文句ありますか? 私の老後の資金で、贅沢させてもらいます」
怒りで体が震えました。
「返してちょうだい! 私のお金を返して!」
「はあ? 何言ってるんですか、お母さん。頭、大丈夫ですか?」
魔穂は大げさに年明の方を向きました。
「ねえ、お母さん、完全におかしくなってない? 病院に連れて行った方がいいんじゃない?」
「そうだな。認知症の検査でも受けさせるか」
2人して、私を異常者扱いです。怒りのあまり、声を荒げました。
「私は正常よ! あなたたちこそ、詐欺師じゃない!」
すると、年明が冷たく言い放ちました。
「詐欺? 証拠もないのにそんなこと言ったら、名誉毀損で訴えるよ」
その瞬間、玄関のチャイムが鳴りました。魔穂が嬉しそうに扉を開けます。
「あ、パパ、ママ。今日はお友達も一緒なのね」
魔穂の両親と、その友人らしき数人が入ってきました。魔穂は得意げに家を案内し始めます。
「こちらが我が家です。3,500万円かけて建てた新築なんですよ」
「まあ、素晴らしい。魔穂ちゃんのご主人、相当なやり手なのね」
友人の1人が感心したように言いました。すると、魔穂の母親が自慢げに答えました。
「ええ、うちの娘は本当にいい所に嫁いだんです。こんな立派な家を建てられるなんて」
私はたまりかねて言いました。
「その3,500万円は、私が出したんです!」
一瞬、部屋が静まり返りました。魔穂の父親が咳払いをして言います。
「お母さん、見苦しいですよ。お金の話なんて、見苦しい」
「実を言って、何が悪いんです?」
すると、魔穂がさも哀れむような口調で言いました。
「すみません。お母さん、最近もの忘れがひどくて、自分が何を言ってるかも分からないみたいで」
「かわいそうに。お年寄りは大変ね」
友人たちの同情するような視線が、私に突き刺さります。まるで私が妄想を語る哀れな老人のような扱いです。
「私は嘘なんて言ってない!」
必死に訴えましたが、魔穂はあきれたようにため息をつきました。
「はい、はい。分かりましたから、お客様の前で恥ずかしい真似はやめてください」
そして、小声で付け加えました。
「こんな迷惑な人、早く追い出さないと」
客人たちが帰った後、年明が最後通告を突きつけてきました。
「母さん、明日までに出て行ってくれ。これ以上ここにいられると、近所にも恥ずかしい」
「私には、行く場所なんてないのよ」
「それは知らない。とにかく、この家から出ていって」
息子の目は、もう私を母親として見ていませんでした。ただの邪魔物を追い払おうとする、冷たい目でした。
その夜、私は近くのビジネスホテルに泊まりました。もう、あの家には一晩だって居たくなかったのです。狭い部屋のベッドに座り、震える手でスマートフォンを握りしめました。朝まで一睡もできず、ただ天井を見つめていました。68年の人生で、こんな屈辱を味わうとは思ってもいませんでした。
でも、このまま黙って引き下がるわけにはいきません。
翌朝、私は決意を固めて、弁護士事務所を訪ねました。
「藤崎様。詳しくお話を聞かせていただけますか?」
初老の弁護士、片山先生は優しい口調で私を迎えてくれました。私は震える声で、これまでの経緯をすべて話しました。3,500万円の援助、同居の約束、そして裏切り。話を終えると、片山先生は深くため息をつきました。
「残念ながら、このままでは法的に取り返すのは難しいですね。贈与として処理されている以上」
絶望的な気持ちになりかけた時、先生が続けました。
「ただ、同居が条件だったという証拠があれば、話は変わってきます。何か書面や録音などはありませんか?」
――書面。録音。
そんなもの、家族の間で用意できるはずがありません。
いや、待てよ。突然、あることを思い出しました。
「先生、もしかしたら……」
私は慌てて鞄の中を探りました。いつも持ち歩いている手帳の間に、1枚の紙が挟まっていました。
「これは、どうですか?」
それは、年明が書いた念書でした。
「母から3,500万円の援助を受ける代わりに、必ず同居し、老後の面倒を見ることを約束します」
という文面と、年明の署名と印鑑。
「なぜ、こんなものが?」
片山先生の問いに、私は思い出しながら答えました。
「実は、お金を渡す時、年明が自分から書いたんです。母さんに安心してもらいたいからって。まさか、本当に必要になるとは……」
先生の目が輝きました。
「これは素晴らしい証拠です。でも、もっと確実にするために、他にも何かありませんか?」
その時、私のスマートフォンが鳴りました。画面を見ると、教え子からのメッセージでした。
「先生、この前の同窓会の動画送りますね」
動画を開いて、私は息をのみました。1ヶ月前の同窓会で、年明と魔穂も顔を出していた時のものです。動画の中で、酔った年明が大声で話している場面がありました。
「母さんから3,500万もらって家を建てるんだ。もちろん同居が条件だけどね。老後は僕たちが面倒を見るって約束したから」
――これだ。
私は急いで、片山先生に動画を見せました。
「完璧です。これなら、詐欺罪での刑事告訴も可能です」
「詐欺……」
「最初から同居する意図がなかったのに、同居を条件に金銭を詐取した。立派な詐欺です」
希望の光が見えてきました。でも、まだ不安もあります。
「でも、相手は私の息子です。本当に訴えるなんて……」
片山先生は真剣な表情で言いました。
「藤崎さん。相手はあなたを家から追い出し、老後の資金を奪った。これは、親子だからと許される問題ではありません」
その通りでした。もう、情けは無用です。
先生はさらに続けました。
「民事では、贈与の取り消しを求めることができます。同居が条件だったのに、それが履行されていない。これは、詐欺による意思表示として取り消しが可能です」
「取り消したら、お金は返ってくるんですか?」
「はい。さらに、精神的苦痛に対する慰謝料も請求できます」
私は深呼吸をしました。ここまで来たら、もう後戻りはできません。
「先生、お願いします。すべて取り返したいんです」
片山先生は力強く頷きました。
「わかりました。まず、内容証明郵便を送ります。相手の出方を見て、誠意がなければ法的手段に出ましょう」
事務所を出る時、先生が言いました。
「藤崎さん、1つアドバイスです。相手は必ず泣きついてくるでしょう。その時、情に流されないでください」
「はい。もう2度と、騙されません」
私は固く決意しました。
その帰り道、年明から電話がかかってきました。
「母さん、どこにいるんだよ。近所の人に聞かれて恥ずかしいんだけど」
「それは、あなたが『出ていけ』って言ったんでしょ?」
私は冷静に答えました。
「なんだよ、その態度は」
「私にも、考えがあるの。じゃあね」
電話を切った後、久しぶりに心が軽くなりました。これから始まる戦い。もう、負ける気はしません。3,500万円と、私の尊厳を取り戻すまで。
3日後の朝、年明の家に内容証明郵便が届きました。私は近くのカフェで、片山先生からの連絡を待っていました。
午前10時。ついに電話が鳴りました。
「藤崎さん? 先方から連絡がありました。相当、慌てているようです」
予想通りでした。内容証明には、「詐欺罪での刑事告訴も辞さない」という文言が含まれていたのです。
1時間後、年明から電話がかかってきました。
「母さん、これは一体どういうことだ? 『詐欺』だって?」
「文字通りの意味よ。同居を条件に、3,500万円を騙し取ったんだから」
「騙し取った? 何を言ってるんだ?」
「証拠もあるし、動画の証拠もある。あなたが同窓会で自慢していた動画よ」
電話の向こうで、年明が息をのむ音が聞こえました。
「それは、酔った勢いで……」
「酔っていても、真実を話していたんでしょう? 同居が条件だって、はっきり言ってたわよね」
沈黙が流れました。そして、今度は魔穂の甲高い声が聞こえてきました。
「お母さん、今すぐこんなバカなことやめてください!」
「バカなこと? 自分の権利を主張することが?」
「権利? もうお金は渡したでしょ!」
「同居が条件だったのよ。それを3日で破ったんだから、詐欺でしょ?」
魔穂の声が震え始めました。
「そんな、刑事告訴なんて……夫が罪になったら……」
「そうね。詐欺なら執行猶予がついても、世間も会社も首になるでしょうね」
「そんな! 年明の人生が!」
「私の人生はどうなるの? 老後の資金をすべて奪われて」
「……お願い、やめてほしいなら、条件があるわ」
私は冷静に告げました。
「まず、3,500万円を全額返済すること。できなければ、家を売却して返済に当てること」
「そんなの無理です! この家は私たちのものなんですよ!」
「いいえ。詐欺で得たものは、あなたたちのものじゃないわ」
電話は、一方的に切れました。
その日の夕方、年明と魔穂が私の止まっているホテルに現れました。2人の顔は青ざめ、特に魔穂は泣きはらした目をしていました。
「母さん、話し合おう」
ロビーの隅で、年明が切り出しました。
「今更、何を話し合うの?」
「その告訴はやめてくれ。俺たちも、悪かったから」
「悪かった? それだけ?」
魔穂が口を挟みました。
「お母さん、私たちも言いすぎました。謝ります。本当にごめんなさい」
初めて見る魔穂の土下座。でも、もう遅いのです。
「謝罪なんていらないわ。お金を返して」
「でも、もう使っちゃって」
「何に使ったの?」
「株とか……魔穂の両親への援助とか」
――私の援助金で、魔穂さんの実家を援助していたの?
年明が頷きました。呆れて、言葉も出ません。
「じゃあ、家を売るしかないわね」
年明が慌てて言いました。
「待ってくれ! それは困る! 会社にも近いし、魔穂も気に入ってるし……」
「私だって、困ったのよ。追い出されて、行く場所もなくて」
沈黙が流れました。魔穂が震え声で言いました。
「お母さん、お願いです。なんとか許してください。これからは、本当に同居します」
「今更、もう信用できないわ」
「じゃあ、どうすれば……」
「簡単よ。家を売って、お金を返す。それだけ」
年明が土下座しそうな勢いで頭を下げました。
「母さん、お願いだ。刑事告訴だけは。会社も首になる……」
「今更『母さん』なんて呼ぶの? 『役立たず』で『厄介払い』でしょ?」
自分たちが言った言葉を返されて、2人は言葉を失いました。
「お母さん、お願いします」
魔穂が必死に呼びかけます。
「もう遅いのよ。『お荷物』は、必要ないんでしょ?」
「違います! あの時は、つい感情的になって……」
「感情的? 計画的でしょ。間違いなく」
翌日、片山先生の事務所で正式な話し合いが持たれました。年明側にも弁護士がついていましたが、こちらの証拠を見ると、勝ち目がないことを悟ったようです。
「依頼人たちは、すぐに3,500万円を用意することはできません」
相手の弁護士が言いました。
「では、家を売却していただくしかありませんね」
片山先生が答えました。
「ただし、告訴を取り下げる条件として、慰謝料100万円を上乗せしていただきます」
「200万!?」
魔穂が叫びました。
「精神的苦痛を考えれば、安いものです。ホテル代もかかっていますし。この条件が呑めないのであれば、刑事告訴を進めましょう。罪になれば、民事でも不利ですよ」
結局、年明たちは全面的に折れるしかありませんでした。和解書にサインする時、年明が恨めしそうに言いました。
「母さん、ここまでするなんて。実の息子なのに」
「実の母親を騙したのは、誰?」
「でも、家を失ったら、僕たちはどうなるんだ?」
「アパートでも借りたら? あなたが私に言ったように」
私は冷たく言い放ちました。魔穂が泣き崩れました。
「お母さん、私たち、これからどうやって生きていけば……」
「住宅ローンも組めないし……」
「それは、あなたたちの問題でしょ? 私には関係ない」
これも、あの日に言われた言葉でした。
「でも、私たち家族じゃ……」
「家族? 『もう家族じゃない』って言ったのは、誰?」
1ヶ月後、家は売却されました。3,500万円と慰謝料100万円が、私の口座に振り込まれました。
引き渡しの日、年明と魔穂は小さなトラックに荷物を積んでいました。みすぼらしいアパートへの引っ越しです。
「こんなことになるなんて……」
魔穂が小声でつぶやきました。私は静かに言いました。
「因果応報という言葉を知ってる? 自分がしたことは、必ず自分に帰ってくるのよ」
「お母さん、本当にもう許してくれないんですか?」
「許す? 騙した相手に許しを乞うの? おかしな話ね」
年明が最後に言いました。
「母さん、これで満足か? 息子を不幸にして」
「不幸にしたのは、あなたたち自身よ。私は自分の権利を取り戻しただけ。もう、2度と会わない」
「……それが、いいわ。お互いに」
トラックが走り去る姿を見送りながら、私は深呼吸をしました。――勝った。完全に勝ったのです。
3,500万円を取り戻し、さらに慰謝料まで。でも、息子を失った寂しさもありました。いえ、私が失ったのではありません。向こうが私を捨てたのです。お金で母親を捨てた報い。それを受けただけなのです。
家の売却から3ヶ月が経ちました。私は今、都心の便利な場所にあるDKのマンションで暮らしています。駅から徒歩5分、病院もスーパーも近く、老後を過ごすには理想的な環境です。
朝の光が差し込むリビングで、私はゆったりとコーヒーを飲んでいました。3,700万円。取り戻した3,500万円と慰謝料100万円は、私の口座に安全に保管されています。そのうち2,000万円でこのマンションを購入し、残りは老後の生活費として大切に運用しています。
「みどりさん、おはよう」
隣の部屋の加藤さんが、ベランダ越しに声をかけてくれました。同年代の彼女とは、すぐに親しくなりました。
「今日のヨガ教室、一緒に行く?」
「ええ、もちろん」
このマンションにはシニア向けのコミュニティが充実していて、ヨガ教室、料理教室、読書会など様々な活動があります。孤独とは無縁の生活です。
午後、私は近所のカフェでパソコンを開いていました。教師時代の経験を生かして、オンラインで子供たちに勉強を教えているのです。
「藤崎先生、今日もよろしくお願いします」
画面の向こうで、小学生の女の子が元気に手を振ってくれました。
「はい。今日も一緒に頑張りましょうね」
月に10万円ほどの収入ですが、年金と合わせれば十分な生活ができます。何より、必要とされている実感が嬉しいのです。
夕方、スマートフォンが鳴りました。見知らぬ番号からです。
「もしもし?」
「あの……みどりさん?」
聞き覚えのある声でした。魔穂の母親です。
「お久しぶりです。あの、魔穂から聞きました。大変なことになったそうで……」
「ええ、でも、すべて解決しましたから」
沈黙の後、彼女が言いました。
「実は、魔穂たちがうちにお金の無心に来て……でも、うちにも余裕がなくて」
――なるほど。そういうことか。
「それで、みどりさんに謝れば許してもらえるかもって、魔穂が……」
「もう終わったことです。でも、魔穂たちも反省してるみたいだし……」
「反省は結構ですが、私には関係ありません。自分たちで解決してください」
電話を切った後、少し複雑な気持ちになりました。でも、情に流されることはありません。
1週間後、偶然駅前で年明を見かけました。くたびれたスーツ姿で、疲れきった表情をしています。目が合いましたが、年明はすぐに視線をそらし、足早に去っていきました。
聞くところによると、魔穂とは離婚協議中だそうです。お互いに相手のせいにして、毎日喧嘩ばかりとか。
――お金がなくなったら、愛情もなくなったのね。
私は心の中でつぶやきました。
その日の夜、古い友人の和子から電話がありました。
「みどり、聞いたわよ。大変だったのね」
「ええ。でも、今は幸せよ」
「本当に? 強がりじゃない?」
「本当よ。見に来る?」
翌日、和子が訪ねてきました。
「まあ、素敵なマンション。全部自分で選んだの?」
「そうよ」
リビングでお茶を飲みながら、和子が言いました。
「でも、息子さんと縁を切ったなんて……」
「向こうが切ったのよ。私はただ、当然の権利を主張しただけ」
「恨みはないの?」
私は少し考えてから、答えました。
「恨みなんてないわ。あのまま我慢していたら、今頃路頭に迷っていたもの」
「強いのね」
「みどりは強くなったの。あの経験のおかげで」
和子が帰った後、私はベランダに出て夜景を眺めました。確かに、息子を失った寂しさはあります。でも、それ以上に得たものが大きいのです。自由、尊厳、そして自分の人生を自分で決める権利。
スマートフォンにメッセージが届きました。教え子の母親からです。
「先生のおかげで、娘が算数を好きになりました。本当にありがとうございます」
こういうメッセージを読むたびに、私は幸せを感じます。必要とされ、感謝される。これこそが、本当の生きがいです。
翌月、マンションの理事会で、私は福祉委員に選ばれました。
「藤崎さんは元教師だし、しっかりしてるから」
住民の皆さんの信頼が嬉しくて、積極的に活動を始めました。1人暮らしの高齢者の見守り、子育て世代のサポート、地域のイベント企画。忙しいけれど、充実した毎日です。
ある日、福祉活動で知り合った弁護士の中林さんが言いました。
「藤崎さんのケース、実は結構あるんですよ。子供に老後資金を騙し取られる高齢者」
「そうなんですか……」
「でも、藤崎さんみたいに戦って取り戻す人は少ない。皆さん、泣き寝入りです」
「それは、悔しいですね」
「だから、藤崎さんの経験を講演で話してもらえませんか? 同じ被害に遭っている人たちの励みになると思うんです」
私は快諾しました。自分の経験が、誰かの役に立つなら。
講演会の日、会場には多くの高齢者が集まっていました。
「私も息子夫婦を信じて、全財産を渡してしまいました。でも、藤崎さんのように戦う勇気がなくて……」
参加者の声を聞いて、私は確信しました。私の経験を伝えることには、大きな意味があると。
「皆さん、理不尽に屈する必要はありません。年齢は関係ない。正当な権利は、堂々と主張すべきです」
講演後、多くの人から感謝の言葉をいただきました。
「勇気をもらいました。私も、諦めません」
そんな声を聞くたびに、あの辛い経験にも意味があったのだと思えるのです。
今、私の人生は本当に充実しています。経済的な不安もなく、健康で、社会との繋がりもある。友人もでき、生きがいもある。あの時もし我慢していたら、息子夫婦の言いなりになっていたら、今頃私は惨めな老後を送っていたでしょう。
勇気を出して戦って、本当に良かった。
時々、年明のことを思い出します。もしかしたら、いつか心を入れ替えて謝罪に来るかもしれません。でも、それを期待しているわけではありません。私には私の人生があり、年明には年明の人生がある。それぞれが、自分の選択の結果を受け入れて生きていくしかないのです。
ただ、1つだけ確かなことがあります。人を騙したり裏切ったりすれば、必ずその報いを受ける。逆に、正しいことを貫けば、必ず道は開ける。これが68年生きてきた、私の確信です。
夕暮れ、私はマンションのバルコニーで夕日を眺めていました。オレンジ色の光が、町を優しく包んでいます。
――幸せだな。
心からそう思えることが、何より嬉しいのです。3,500万円を取り戻しただけでなく、自分の人生も取り戻した。それが、私の完全勝利なのです。



