「月に4万円の治療費なんて、うちには出せません」
病院から帰ってきたばかりで、コートも脱がないまま、私は嫁の里美の言葉に呆然と立ち尽くした。膝の軟骨がすり減っていて、このまま放置すれば歩行困難になる。月に4万円ほどの特殊な治療が必要だと言われたばかりだった。
「4万円ですって?そんなお金、今の生活のどこにあるんですか?お義母さんの年金でなんとかならないんですか」
年金は生活費として家に入れているし、残りはわずかしかない。息子の健一に相談してみると言っても、里美は「健一さんに言ったって無駄ですよ。住宅ローンに子供の教育費で、カツカツなんですから」と吐き捨てるように言った。私は何も言い返せず、胸の奥で何かが崩れ落ちる感覚に襲われた。
私は清子、66歳。息子夫婦と同居して5年になる。地方銀行の課長として35年間働き、夫に先立たれてからは女一人で息子を育て上げた。息子が結婚する時は退職金を崩して300万円を渡し、家を建てると言えば頭金として500万円を差し出した。孫の陸が生まれてからは保育園の送迎も家事も全部私が引き受けてきた。
感謝の言葉はいつからか消えていた。家事を押し付けるのが当たり前になり、私はただの便利な道具のように扱われるようになった。
翌朝もいつも通り5時に起きて台所に立った。家族分の朝食を作りながら、昨日のことは悪い夢だったのだと思いたかった。
「今日の夕飯、私の分いらないから。友達とディナーに行くので。あ、それと今日も陸のお迎えお願いしますね。残業になるかもしれないので」
里美はパジャマ姿のまま、まるで使用人に指示でもするかのように言った。健一は新聞を広げたまま何も言わない。孫の陸だけが無邪気な笑顔で「おばあちゃん、おはよう」と言ってくれた。
食卓には家族のために用意した焼き魚、味噌汁、サラダ、卵焼きが並んでいる。私の皿には昨晩の残りの冷えたご飯と具のない味噌汁だけがあった。
「あれ?お母さんのは?」
里美が私の手元を見て言った。私は「これで十分だから」と答えた。
「そうですか。まあ、年を取るとそんなには食べられないですもんね」
朝食を終え、陸を学校に送り出すと、掃除が始まる。リビング、各部屋、トイレ、お風呂場。膝が悲鳴をあげていても手を止めることは許されない。昼過ぎには「掃除が終わったら2階の窓拭きもしておいてください。あと庭の雑草も抜いておいてくださいね」と言われた。
今日は病院の予約があると言ったのに、聞いていないと取り合わない。本当は膝の治療に行きたかったが、言い出せる雰囲気ではなかった。
夕方、夕食の準備をしていると健一が帰宅した。「母さん、ちょっと話があるんだ」
もしかして、治療費のことを考え直してくれたのだろうか。私の心に淡い期待が浮かんだ。
「実はな、膝のこと聞いたよ。母さんには悪いんだけど、今はちょっと経済的に厳しいんだ。陸の塾代も上がったし、車の車検もあるし」
期待は一瞬にして打ち砕かれた。
「でも健一、私は今まであなたたちのために――」
「分かってるよ。母さんには感謝してる。でも今は本当に余裕がないんだ。里美だってパートで頑張ってくれてるし」
「里美さんは週3回のパートでしょう。私だって年金を入れているじゃない」
「それでも足りないんだよ。母さんも少しは我慢してくれよ」
私は言葉を失った。この子は私がこれまで援助してきた数百万円のことなど、すっかり忘れてしまったのだろうか。
その夜の夕食は、里美は結局帰ってこなかった。食卓には私が作った生姜焼きが並ぶが、私の皿だけ肉の量が明らかに少ない。良い部分は家族へ、残りを私が食べる。それがこの家の暗黙のルールになっていた。
「母さん、明日のことなんだけど」健一が言った。「会社の同僚が数人家に遊びに来るんだ。ちょっと片付けておいてもらえるかな?あと料理も頼むよ。6人分くらい」
「6人分もですか?」
「ああ。あ、でも母さんは2階の部屋にいてくれないかな?仕事の話もあるし、男同士で盛り上がりたいから」
私は黙って頷くしかなかった。
夜9時過ぎ、里美が帰宅した。「小母さん、お茶」
私は無言でお茶を入れ、里美の前に置いた。
「そういえば来週なんですけど、私の実家の母が泊まりに来るんです。小母さんは和室でね。あ、小母さんの部屋、ちょっと物が溢れてて汚いから片付けておいてくださいね」
客間というのは元々私の部屋だった。しかし、いつの間にか私は狭い6畳の和室に追いやられていた。
深夜、私は和室で一人、天井の染みを見つめていた。銀行員時代、私は誇りを持って働いていた。部下を指導し、顧客から感謝され、定年まで勤め上げて退職金も手にした。それが今はどうだろう。使用人以下の扱いを受け、医療費すら出してもらえない。食事は粗末で、居場所すら奪われていく――。
それから1週間後、健一の親戚が集まる法事があった。私も親族として参列した。会場は市内のホテルの宴会場で、親戚が20人ほど集まっていた。
「清子さん、お久しぶりです。健一ちゃんたちと一緒で幸せねえ」
健一の叔母にあたる女性が声をかけてくれたが、私は何と答えて良いかわからず曖昧に微笑むことしかできなかった。
会食が進む中、里美が親戚の女性たちと話し込んでいる声が聞こえてきた。
「里美さん、大変でしょう。お義母さんと同居なんて」
「本当ですよ。もう毎日がストレスで。正直、お荷物って感じなんですよね」
里美の声は、わざとかと思うほど大きかった。私の箸が止まった。
「でも、家事を手伝ってもらえるんじゃないの?」
「手伝うどころか、こっちが世話してるんですよ。料理も味付けが濃いし、掃除も雑でやり直さないといけないし」
それは真っ赤な嘘だった。私は毎日完璧に家事をこなしている。
「年金とかもらってるんでしょう?」
「それが全然。お義母さん、退職金も年金も全部自分の遊びに使っちゃったみたいで、今は私たちに寄生してるようなものなんです」
全身の血液が沸騰しそうになった。退職金の大半は、あなたたちの家の購入資金と結婚費用に消えたというのに。
「早く施設にでも入ってくれないかしら。正直、もう手に負えないんですよね」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で決定的な何かが切れた。
「あら、清子さん」
話の内容に気づいた叔母が気まずそうに私を見た。里美も振り返り、一瞬「しまった」という顔をしたが、すぐに開き直ったような表情に戻った。
「小母さん、お手洗いですか?」
まるで今の暴言などなかったかのような態度だった。私は無言で席を立ち、会場を出た。
廊下で健一を探した。きっと息子なら私の悔しさを分かってくれるはずだ。そう信じていた。
「健一」
「ああ、母さん。どうした?」
「ちょっと話があるの」
「え、今後にしてくれないかな?」
「大事な話なの」
私は健一を廊下の隅に引っ張っていった。
「さっき里美さんが親戚の前で私のことを――」
「ああ、聞こえてたよ。まあ、里美も疲れてるんだよ。酒の席の話だし。あまり気にするなよ」
「気にしないでって?私のことをお荷物だとか、寄生虫だとか言ったのよ」
「母さん、声が大きいよ」
健一は慌てて周囲を見回した。
「実際、大変なんだよ。里美だって仕事して家事して、母さんの面倒も見て――」
「面倒?私が家事を全部やってるじゃない」
「そりゃ多少はしてもらってるけど……同居は精神的に負担なんだよ」
「私は今まで――」
「分かってるって。感謝してるよ。でももう昔の話だろ」
昔の話。私が必死に働いて育て上げ、資金援助してきたことが、ただの過ぎ去った過去だと。
「母さん、正直に言うとな」
健一は声を潜めた。
「里美の言うことも分からなくはないんだ。これからもっと年を取ったら介護とか必要になるだろう。そうなったら本当に地獄だ。だから施設に入れとは言わないけど、選択肢として考えておいてもいいんじゃないか」
私は健一の顔をまじまじと見つめた。私が愛情を注いで育てた愛しい息子の顔。しかし、そこにあったのは厄介な老人を見る冷たい他人の目だった。
「わかりました」
私はそれだけ言い残し、健一から離れた。
会場に戻ると、里美は何食わぬ顔で談笑を続けていた。私は自分の席に戻り、震える手を押さえた。その時、私は静かに、しかし断固たる決意をした。
もうこの家族とは縁を切ろう。お荷物で寄生虫の老人は、この家には必要ないのだろう。ならば、私も私の人生を取り戻す時が来たのだと。
法事の帰り道、車の中で里美が言った。
「小母さん、さっきは聞こえちゃいましたね。ごめんなさいね」
その声には微塵も誠意がなかった。
「いいえ、本音が聞けてよかったです」
私は静かに答えた。心の中である計画を実行に移す準備をしながら。
法事から3日後、私は1つの行動を起こした。銀行員時代の同期で、現在は弁護士をしている南さんに連絡を取ったのだ。
「清子さん、お久しぶりです。どうされました?」
南さんの事務所は駅前のビルにあった。私は現在の状況を包み隠さず話した。治療費を拒否されたこと、家族からの非人道的な扱いについて。南さんは真剣な表情で聞いてくれた。
「清子さん、『世帯分離』という方法があります」
「世帯分離?」
「同じ住所に住んでいながら、住民票の世帯を別にする手続きです。世帯分離をすれば、あなたは独立した世帯主となり、収入が年金のみになるため非課税世帯として、医療費や介護費の負担が大幅に軽減される可能性があります」
「でも、息子たちには何か影響が?」
「正直に申し上げると、大きな影響があります。今まで清子さんが同じ世帯にいたことで、世帯全体の所得が低く計算され、様々な優遇を受けていたはずですから。それがなくなります」
私は少し考えたが、迷いはなかった。
「手続きをお願いできますか?」
「わかりました。全力でサポートします」
南さんの事務所を出た後、私はかつて務めていた銀行の本店に向かった。窓口にいたのは、かつての後輩である鈴木さんだった。
「先輩、定期預金がまだ2000万円そのまま残ってますね。さすがです」
「ええ。夫が亡くなった時の保険金と、私の退職金の残りを。これは健一たちには内緒にしてあるの」
実は私は、まさかの時のために夫の遺産と自分のへそくりを合わせた2000万円を別の口座で管理していたのだ。
「先輩、もっと良い運用商品がありますよ」
「いいえ、このままで。ただ、もし私に何かあった時の受け取り人を変更したいの」
私は受け取り人を健一ではなく、私の妹に変更する手続きを済ませた。私を粗末に扱う人間に、1円とも渡すつもりはない。
帰宅すると、里美がリビングでテレビを見ていた。
「小母さん、遅かったですね。どこに行ってたんですか?」
「ちょっと散歩に」
「ふん。夕飯の支度、早くしてくださいね」
里美は興味なさそうに視線をテレビに戻した。
その夜、私は寝室で必要な書類を整理した。年金手帳、健康保険証、印鑑――全てを小さなバッグにまとめた。
翌日、私は市役所へ向かった。
「世帯分離の手続きをしたいのですが」
「同居のご家族の同意は必要ないと聞きましたが」
「はい、ご本人様の意思だけで手続き可能です」
私は書類に記入し、提出した。手続きは明日には完了するという。市役所を出て、私は深く息を吸い込んだ。空がいつもより高く青く見えた。これは自分の人生を取り戻すための最初の一歩だ。
その日の午後、私は銀行時代の友人である田中に会った。田中は不動産関係の仕事をしており、以前から相談に乗ってもらっていた。
「清子さん、顔色が良くなったわね。覚悟を決めたからかしら。例のマンション、話をつけておいたわよ。駅から徒歩5分。病院もスーパーも近くて、家賃も手頃。1階だから日々の負担も少ないわ」
「ありがとう、田中さん。本当に助かるわ」
「遠慮しないで。清子さんには幸せになる権利があるんだから」
帰り道、私は決意を新たにした。明日世帯分離が完了したら、健一たちには事後報告で家を出よう。どうせ私の存在など、彼らは気に留めていないのだから。
夜、陸が私の部屋にやってきた。
「おばあちゃん、明日も学校まで送ってくれる?」
「ごめんね、陸。明日はちょっと用事があるの」
「そっか。残念」
陸の寂しそうな顔を見て胸が締め付けられたが、私は心を鬼にした。このままでは、私は本当に心も体も壊れてしまう。自分を守るためには、ここを離れるしかないのだ。
深夜、私は荷造りを始めた。衣類と最低限の日用品、そして夫との思い出のアルバム。これからの新しい人生に必要なものだけを選び抜いた。
準備は整った。
朝、私は家族が起きる前の早朝5時に家を出た。書き置きを1枚、リビングのテーブルに残して。
朝7時、いつもの時間に里美が起きてきた。私がいないことに気づくまで、そう時間はかからなかっただろう。その頃、私は田中さんが紹介してくれた新しいマンションに到着していた。日当たりが良く、清潔なワンルーム。
「清子さん。荷物はこれだけ?」
鍵を渡しに来てくれた大家さんが驚いていた。
「ええ。身軽になりたくて」
鍵を受け取った瞬間、私の携帯電話が激しく鳴り始めた。健一からだ。しかし、私は着信を無視し、電源を切った。
一方、家では大混乱が起きていた。
「健一さん、大変!お義母さんがいないの!」
里美が健一を叩き起こした。
「なんだよ、朝から。散歩でも行ってるんだろう」
「荷物もないの!部屋が、もぬけの殻なのよ!」
その時、陸が起きてきた。
「ママ、おばあちゃんは?学校、送ってくれるんでしょ?」
里美の顔色が青ざめた。
「えっと……おばあちゃんはちょっと旅行に……」
「じゃあ誰が送ってくれるの?僕、遅刻しちゃうよ」
里美は慌てて職場に連絡し、緊急の電話を入れまくった。
さらに、市役所から通知が届いたのはその数日後のことだった。
「な、何これ?」
封筒を開けた里美の手が震え始めた。保育料決定通知書だった。
「保育料が……月額8万円?」
今まで私の年金収入が少なかったため、世帯全体が低所得と見なされ保育料は無料だった。しかし世帯分離により、健一と里美の世帯収入だけで計算されることになり、本来の金額が請求されたのだ。
「どうしたんだ?」
「保育料が8万円になるって。なんで?」
2人は慌てて市役所に電話をかけた。そこで、さらなる衝撃の事実を知ることになる。児童手当の減額、住民税の増額。これまで受けていた様々な優遇措置が、私が世帯から抜けたことで全て消滅したのだ。
その時、郵便受けに私からの手紙が届いた。
――健一さん、里美さんへ。
私は世帯分離をし、この家を出て別居することにしました。今まで私が同居していたことで、あなたたちは低所得世帯として多くの恩恵を受けていましたね。保育料無料、手当の増額、税金の軽減。それらは全て、私がいたからです。
月4万円の医療費すら出せないと言われた時、私は悟りました。あなたたちにとって、私は金銭的なメリットを生む道具でしかなかったのだと。道具はもう壊れました。これからは自分自身のために生きます。
なお、これまで毎月こっそり支払っていた住宅ローンの補助10万円も、今月で終了します。元銀行員として計算しましたが、あなたたちの収入では生活破綻するのは目に見えています。でも、「余裕がない」のですから仕方ありませんね。
――
手紙を読んだ健一と里美は、血の気が引いて顔面蒼白になった。
「ローンの補助10万円……知らなかった。お母さんが払ってくれてたなんて」
健一も啞然としていた。急いで計算すると、保育料8万円、ローン補助の消滅で10万円、税負担の増加で約3万円。月々に換算して20万円以上の支出増になることが判明した。
「無理!うちの手取りじゃ絶対に払えない!」
里美がパニックを起こして叫んだ。
私はその頃、区役所で医療費助成の手続きを終えていた。単独世帯で年金収入のみとなったため、医療費の自己負担限度額が下がり、高額な治療費も月額数千円で済むことになった。これで膝の治療も気兼ねなく受けられる。
その日の夜から、健一の着信履歴は数十件を超えたが、私は一度も出なかった。留守番電話には悲痛な叫びが録音されていた。
「母さん、どこにいるんだ?話し合おう」
「小母さん、お願いします。戻ってきてください」
翌日、私は新しい生活をスタートさせた。午前中は病院でリハビリを受け、午後は近所の公園を散歩した。誰にも急かされず、誰の顔色も伺わない、自分だけの時間がそこにあった。
3日後、健一たちが私のマンションを突き止めた。銀行の鈴木さんを問い詰めたのだろう。インターホンが鳴り響いた。
「母さん、健一だ。開けてくれ」
私はインターホンの受話器を取った。
「何か御用ですか?」
「よかった……帰ってきてくれよ。話があるんだ」
「私はもう、あなたたちの世帯の人間ではありません」
「小母さん!」
里美の声も聞こえた。
「小母さん、私が悪かったです。謝りますから」
「何が悪かったのですか?」
「全部です。お荷物なんて言って、本当にごめんなさい」
「結構です。もう過ぎたことですから」
「小母さん、お金のことは何とかしますから」
私は思わず失笑してしまった。
「月4万円も出せないのに、20万円の赤字をどうにかできるのですか?」
「それは……」
里美が言葉に詰まった。
「小母さん。陸が、陸が寂しがってるんです」
里美は最後の切り札を出してきた。
「陸には気の毒ですが、『お荷物』の老人に孫の世話はできません」
私は一方的に通話を切った。その後も何度かチャイムが鳴らされたが、私は一切応じなかった。
1ヶ月後、健一から手紙が届いた。
――里美はフルタイムの正社員に転職したけれど、保育園の送迎で残業ができず、結局給料は以前と変わらない。住宅ローンの支払いが滞り始め、車を手放した。里美の実家に援助を頼んだが断られた。母さんがどれだけ僕たちを支えてくれていたか、今痛感している。本当にごめん。
――
私は手紙を読み終えると、静かにゴミ箱に捨てた。今更何を言われても、私の心は氷のように冷めたままだった。
世帯分離から3ヶ月が経った。私の新生活は想像以上に充実していた。朝は6時に起床し、隣の部屋に住む同年代の女性と挨拶を交わす。このマンションには、私と同じように自立した生活を楽しむ高齢者が何人か住んでおり、すぐに打ち解けた。
膝の治療も順調で、医師からは「手術の必要はない」と言われるほど回復した。
ある日、銀行時代の同僚たちとランチ会を開いた。
「清子さん、本当に生き生きしてるわね」
田中さんが嬉しそうに言った。
「自由って素晴らしいわ。自分のためだけに時間とお金を使えるなんて」
「そうよ。私たちの世代はもう十分家族に尽くしたんだから」
美味しい食事を自分のペースで味わう。そんな当たり前のことが、涙が出るほど幸せだった。
「そういえば、清子さん。市民センターで金融講座の講師を探してるんだけど、やってみない?高齢者向けの資産管理とか詐欺被害防止とか。元課長の知識があればぴったりよ」
私は少し考えた末、引き受けることにした。誰かの役に立ちたいという思いは、まだ私の中に残っていたのだ。
初めての講座の日、会場には30人ほどの方々が集まっていた。
「老後の資金管理で最も大切なのは、まず現状を正確に把握し、自分を守る術を知ることです」
私の言葉に、参加者は熱心にメモを取っていた。
講座の後、一人の女性が相談に来た。
「息子夫婦と同居しているんですが、お金のことで肩身が狭くて……」
私は自分の経験を踏まえ、力強くアドバイスした。
「大切なのは、経済的な自立と毅然とした態度です。同居していても、財布の紐は決して渡してはいけません」
感謝の言葉を言われた時、私は胸が熱くなった。こんな私でも、まだ社会の役に立てるのだと。
一方、健一の生活は崩壊の一途を辿っていたようだ。ある日、スーパーで特売品のワゴンを漁る里美の姿を見かけた。以前の華やかさは消え、髪はボサボサで、疲れきった老婆のような様子だった。
私に気づいた里美が、すがるように駆け寄ってきた。
「小母さん、こんにちは。お元気そうで……あの、一度だけでいいから、家に……」
「申し訳ありませんが、『荷物』が顔を出すのは迷惑でしょう」
「そんなことないです!お願いです、助けてください」
里美が私の腕を掴もうとしたが、私はさっと身をかわした。
「あの時のお荷物という言葉、一生忘れませんよ。お互い、自分の選んだ道を行きましょう」
私は毅然と言い放ち、その場を去った。
その夜、マンションの共有スペースで友人たちと持ち寄りパーティーがあった。笑い声が溢れる中、私は心から笑っていた。定期預金の2000万円には手をつけず、年金と講座の謝礼だけで十分に優雅な生活ができている。
数日後、弁護士の南さんから連絡があった。
「清子さん、健一さんが自己破産と住宅の任意売却を検討しているそうです」
私は驚かなかった。当然の報いだ。
「それで、清子さんに援助をお願いできないかと……」
「お断りします。私には関係のない話ですから」
「そうですか。わかりました。そのようにお伝えします」
電話を切った後、私は来月の予定を確認した。友人たちと行く温泉旅行の予約が入っている。かつて行きたくても行けなかった憧れの宿だ。
私は窓の外に広がる夕焼けを眺めた。
私が学んだこと。それは、理不尽な扱いに対して我慢する必要はないということ。そして、勇気を持って一歩踏み出せば、いつからでも人生はやり直せるということ。
もし今、同じような境遇で苦しんでいる方がいたら、どうか自分を一番大切にしてください。あなたの人生はあなただけのものです。誰にも奪う権利はありません。
私は今、本当に自由で幸せだ。これが私が選び取った、最高の人生なのだから。



