深夜の分娩室で、私は見慣れた声を聞いた。私の夫が、見知らぬ女性の手を握り「俺の妻なんだから」と囁いている。八時間もの間、私は看護師として立ち会いながら、夫が他の女に「愛してる」と伝える姿を、一度も私に言ったことのない言葉を、全て見せつけられていた。そして、その女性の本当の夫が現れた瞬間、私はマスクを外した。「初めまして。私は、健太の妻です。」夫の顔から血の気が引くのを見ながら、私は心の中で思…

深夜の分娩室で、私は見慣れた声を聞いた。私の夫が、見知らぬ女性の手を握り「俺の妻なんだから」と囁いている。八時間もの間、私は看護師として立ち会いながら、夫が他の女に「愛してる」と伝える姿を、一度も私に言ったことのない言葉を、全て見せつけられていた。そして、その女性の本当の夫が現れた瞬間、私はマスクを外した。「初めまして。私は、健太の妻です。」夫の顔から血の気が引くのを見ながら、私は心の中で思...

深夜の分娩室に響く声の主が、私の夫だと気づいた瞬間、血の気が引いた。

なぜ夫がここにいるのか。そしてなぜ、見知らぬ妊婦を励ましているのか。

看護師として冷静でいなければならないのに、頭が真っ白になった。夫が見知らぬ女性にかける優しい言葉を聞いて、胸が苦しくなる。私には一度も、そんな風に励ましてくれたことがないのに。

私は三十二歳で、総合病院の産科病棟に勤める看護師だ。結婚して三年が経つが、夫の健太との間には微妙な溝を感じ始めていた。健太は建築関係の営業マンで、出張が多い。最近は帰宅時間も遅くなることが増え、すれ違いの日々が続いていた。

私たち夫婦にとって一番の問題は子供のことだった。私は妊娠を望んでいるが、健太はその話題になると決まって仕事を理由に話をそらしてしまう。

「まだ仕事が安定しないから、もう少し貯金してから。」

そんな言葉を聞くたびに、心の奥に小さな苛立ちが積み重なっていく。毎日のように新しい命の誕生に立ち合いながら、自分の家庭では子供に恵まれない現実が、時として辛く感じられることもあった。

深夜二時を回った頃、救急車のサイレンが病院の静寂を破った。ナースステーションの電話が鳴り響き、同僚の田中さんが電話に出る。

「産科病棟です。はい。林さん妊婦さんの緊急搬送ですね。わかりました。すぐに準備します。」

緊急搬送される妊婦の対応は日常茶飯事だが、毎回緊張感が走る。自動ドアが開き、ストレッチャーに横たわる女性が運び込まれてきた。二十代後半と思われる女性は、陣痛の痛みに顔を歪めている。そして、その隣を必死についてくる男性の姿が目に入った瞬間、私の心臓は止まりそうになった。

健太だった。私の夫が見知らぬ女性の手を握りしめ、励ましの言葉をかけている。

「大丈夫だ、舞。もうすぐ病院に着く。俺がついてるから頑張れ。」

舞と呼ばれた女性は、健太の手を強く握り返していた。

「痛い。怖いよ、健ちゃん。」

その親しげな呼び方が、私の胸に鋭い痛みを走らせる。私は看護師としての職業意識で動揺を隠し、対応を続けた。分娩室への移動中、健太は一度も私の方を見ない。必死に舞を励ますことに集中していて、妻である私の存在など眼中にないようだった。

分娩室で医師による診察が始まると、健太は待合室で待つよう指示される。私は仕事を続けながら、健太の様子を盗み見していた。健太は待合室の椅子に座り、両手で顔を覆って祈るような仕草をしている。私が三年間の結婚生活で一度も見たことのない、深刻で必死な表情だった。

舞の陣痛は本格的ですぐに分娩が始まることがわかった。

「立会いの方を呼んでください。立会い出産を希望されているようですので。」

私は震える手で健太を呼びに行った。

「舞さんは大丈夫ですか?」

「はい、順調です。分娩室にどうぞ。」

健太は私を見たが、特に反応がない。もしかしたら看護師の一人としか認識していないのかもしれない。マスクとキャップで顔が隠れているとはいえ、三年間連れ添った妻を見分けられないとは。

分娩室で、健太は舞の手を握り、汗を拭き、水を飲ませ、まさに献身的な夫の姿を見せていた。

「頑張れ舞。俺がついてる。一人じゃないから。」

「ありがとう。健ちゃんがいてくれて本当に良かった。」

「当たり前だ。お前は俺の妻なんだから。」

健太の口から出たその言葉が、私の心を打ち砕いた。私こそが健太の妻なのに。健太は舞を妻と呼んでいる。陣痛が激しくなると、健太は必死になった。

「舞、俺を見て深呼吸だ。一緒にやろう。大丈夫。頑張れ。絶対に大丈夫だから。」

私は看護師として冷静に職務を遂行しながら、内心では嵐のような感情に襲われていた。怒り、悲しみ、裏切られた気持ち、そして何より混乱。健太がこれほど優しく、愛情深く女性を支える姿を見るのは初めてだった。私との結婚生活では、健太はいつも仕事を優先し、私のことを二の次にしていた。子供が欲しいと話しても、今は時期じゃないと言い続けていた健太が、他の女性の出産には何時間も立ち会っている。

分娩が進むにつれ、健太の愛情表現はより激しくなっていく。

「舞、本当によく頑張ってる。俺の一番大切な人だ。愛してる。」

「私も。愛してる、健ちゃん。」

その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが完全に壊れた。健太は私には一度も「愛してる」と言ったことがない。結婚式の誓いの言葉でさえ形式的で、心のこもらないものだった。それなのに、この女性には自然に愛の言葉を口にしている。

午前六時頃、舞の陣痛がピークに達した。

「もうすぐです。最後の踏ん張りですよ。」

「舞、最後だ。俺と一緒に頑張ろう。」

「うん。健ちゃんと一緒なら頑張れる。」

そして午前八時、ついに赤ちゃんが生まれた。産声が分娩室に響き渡る。

「元気な男の子ですよ。」

健太は涙を流しながら、舞の額にキスをした。

「ありがとう。よく頑張った。俺たちの子が生まれたんだ。」

「健ちゃん、私たちの赤ちゃん。」

「ああ、僕たちの愛の結晶だ。」

八時間に渡る長い出産劇を見続けた私は、心身共に限界に達していた。夫の裏切り、他の女性への深い愛情、そして私が望んでやまなかった子供が、他の女性との間に生まれた現実。全てが私を打ちのめしていた。

私は休憩時間を利用して、この異常な状況について考えを整理しようとする。ナースステーションの奥にある休憩室で、私は一人コーヒーを飲みながら現実と向き合った。健太は私には子供を作ることを拒み続けているのに、他の女性との間には子供ができている。その矛盾に、私の心は激しく動揺していた。

分娩室から戻ってきた田中さんが、私の様子を心配そうに見つめる。

「美沙さん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「ええ、少し疲れただけです。」

「今回の出産、立会いの男性がすごく熱心でしたね。あんなに必死になるなんて。」

「そうですね。」

私は表面的には冷静を装っていたが、内心では嵐がさらに強くなった。分娩室に戻ると、健太が舞の額の汗を優しく拭いていた。私が結婚生活で一度も受けたことのない、細やかで愛情に満ちた配慮だ。

「舞、水分補給だ。少しずつでいいから飲んで。」

「ありがとう、健ちゃん。あなたがくれるから安心する。」

「当然だ。俺の大切な人なんだから。」

大切な人?次から次へと、私が聞いたことのない言葉が続く。私との会話ではいつも事務的で、感情のこもらない返事ばかりだというのに。「今日の夕飯は?」「仕事疲れ様。」「おやすみ。」そんな形式的な言葉しかない夫婦関係だった。それなのに、舞に対しては自然に愛情表現ができている。

健太が舞に見せる愛情は、私が三年間の結婚生活で一度も受けたことのないものばかりだった。優しさ、思いやり、献身、そして無条件の愛。私が健太に求め続けていたものを、全て舞が受け取っていた。そして今、健太は父親としての喜びを爆発させている。私が何度も訴えた「父親になって欲しい」という願いを、舞が叶えていた。

しかし、この地獄のような時間はまだ序章に過ぎなかった。分娩室は喜びに包まれている。健太は生まれたばかりの赤ちゃんを見つめ、感動で声を震わせていた。

「本当に、本当に俺の子なんだな。こんなに小さくて、でも力強くて。」

「健ちゃん、ありがとう。あなたがいたから頑張れました。」

「俺こそありがとう。俺たちの子を産んでくれて。」

涙を流して喜び合っている二人に、医師が事務的な説明を始めた。

「お疲れ様でした。母体共に健康です。赤ちゃんは3200gの元気な男の子です。」

「3200gか。立派だな。」

健太は誇らしげに微笑んだ。まるで自分の功績であるかのように。

その時だ。分娩室のドアが勢いよく開いた。慌てて駆け込んできたのは、息を切らした男性。三十代前半と思われるその男性は、汗だくになりながら病院スタッフに声をかける。

「すみません。舞の夫です。妻は無事ですか?」

分娩室の空気が一瞬で凍りついた。健太の顔から血の気が引いて、手に持っていた舞の手をゆっくりと話した。

「え?」

健太の声は震えていた。理解が追いつかず、ただ呆然と新たに現れた男性を見つめている。

大輔と呼ばれた男性は、健太の存在など眼中になく医師に向かって続けた。

「出張先で連絡を受けて、すぐに飛んで帰ってきました。舞は大丈夫でしょうか?」

「え?ああ、えっと、お疲れ様でした。奥様も赤ちゃんも元気ですよ。」

「本当ですか?よかった。」

安心した表情を浮かべながら、大輔はベッドの舞に駆け寄った。

「舞、大変だったね。でも無事で良かった。」

舞は青ざめた顔で大輔を見上げる。

「だ、大輔、どうして……」

「どうしてって、君の出産なんだから。どこにいても駆けつけるのは夫として当然だろう。」

健太はその様子を呆然と見つめていた。口をパクパクと動かしているが、言葉が出てこないようだ。一方で、私はすでに数々の負の感情にさらされていたためか、この異常事態においても平静でいられた。冷静にこの状況を分析する。

ああ、そういうことか。そして今の状況が次第に鮮明になっていった。舞には本当の夫がいる。健太は不倫相手に過ぎない。そして舞は健太に「自分を妻だ」と偽っていたのだ。この呆れるしかない展開に、私は心の中で冷笑した。これはありえないくらいに複雑で、健太にとって屈辱的な状況だ。

「この方は?」

大輔が健太を指差して尋ねる。

「えっと、あの、えっと……」

医師は答えることができない。それはそうだ。夫と聞いていたのに、もう一人夫と名乗る別の男性が現れた。どう考えても修羅場であり、下手な発言をして騒動に巻き込まれたくなんてない。

「あ、あの、友人です。」

気まずい沈黙が流れる中、舞がそう言った。健太が愕然とした顔で舞を見る。

「友人?八時間も立ち会ってくれたんですか?ありがとうございます。」

この状況を何一つ理解していない大輔は、心から感謝した様子で健太に深々と頭を下げた。

「ゆ、友人さん、妻がお世話になりました。本当にありがとうございます。」

「い、いや……」

健太の声は震えていた。妻だと思っていた相手に本当の夫が現れ、いつの間にか夫から友人になった自分が、その夫に感謝されている。これほど皮肉で惨めな状況があるだろうか。私は心の中で健太に告げる。健太、これがあなたの現実よ。

大輔は赤ちゃんを抱き上げた。

「僕の子だ。本当に僕に似てる。舞、ありがとう。」

健太はその言葉を聞いて、さらに混乱した顔をする。自分の子だと思っていた赤ちゃんが、他人の子として扱われているのだから、当然だろう。

「君を一人で頑張らせてしまって、本当に申し訳なかった。でもこんなに素晴らしい子を産んでくれて。」

大輔は舞の額にキスをした。夫として、父親として当然の行為だった。しかし健太にとっては、愛する女性を他の男性に奪われる瞬間に他ならない。

「舞、これはどういうことだ?」

健太がようやく口を開いた。舞は慌てて健太を静止しようとする。

「健ちゃん、今は……健ちゃん。」

大輔が疑問の表情を浮かべた。

「随分親しい呼び方ですね。」

一瞬で空気が重くなった。嫌な沈黙が流れる中、私は看護師として、そして曲がりなりにも健太の妻として、この状況を整理する必要があると判断し口を開く。

「あの、確認させていただきますが、舞衣さんのご主人はどちらの方でしょうか?」

「僕です。結婚して二年になります。」

私は健太を見た。

「では、あちらの方は?」

健太は答えられずにいた。舞が慌てて答える。

「友人です。たまたま近くにいて、陣痛が始まった時に立ち会ってくれました。」

「そうですか。八時間も立ち会ってくださるなんて、とても親切な友人の方ですね。」

私の言葉には盛大な皮肉が込められている。

「本当にありがとうございます。僕が出張でいない時に妻を支えてくださって。」

大輔はもう一度健太に頭を下げた。疑問を抱いても、妻を疑ってはいない。きっととても優しくていい人なのだろう。人を疑うということを知らないのだ。

「い、いや、俺は……」

一方で健太と舞。この二人は一体何なのか。私が冷めた目を向ける中、二人の見苦しいやり取りは続く。何かを言いかけた健太を、舞が鋭い視線で静止した。

「健太さん、本当にありがとうございました。もう大丈夫ですから。」

さっきまで「健ちゃん」と甘い声で呼んでいたのに、今度は他人行儀の呼び方に変えた。健太の表情が苦痛に歪む。

「舞、俺たちの関係は?」

「関係って何ですか?友人以上でも以下でもありません。」

舞の冷たい声が分娩室に響いた。その瞬間、世界が崩壊したかのように健太の顔が真っ青になる。

「関係?何か僕の知らないことでもあるんですか?」

そんなただならぬ健太の様子に、さすがの大輔も不審感を募らせたようだ。不安そうな顔で私たちの顔をきょろきょろと見回した。緊張が高まる中、健太は虚ろな目で呟く。

「俺は……俺は一体何だったんだ?」

おそらく今の健太に、取り繕う余裕なんてない。それだけ今起こった出来事は、健太を絶望のどん底へと叩き落としていた。

「何って?さっきから友人って言っているでしょう。他に何があると言うんですか?大輔。」

「健太さん、本当にありがとうございました。でも、もう僕がいますから。お疲れでしょうし、お帰りになって結構ですよ。」

微笑を浮かべた大輔の優しさが、今は鋭い刃となって健太の心を切り裂く。健太は立ち尽くしたまま、どうすることもできずにいた。妻を裏切り、他の女性に溺れた結果がこれなのだ。当然ながら、全く同情する気にはならなかった。

「なんで……」

健太はショックのあまり放心状態になっている。大輔に帰るよう促されても動くことができず、その場に立ち尽くしていた。顔は蒼白で、目は虚ろで、まるで魂が抜けたような状態だ。

舞はそんな健太の様子を見て、これ以上はまずいと感じたのだろう。確かに、健太がこの状態で何を言い出すかわからない。舞は大輔に向かってお願いした。

「ごめんなさい、大輔。健太さん、なんだか調子が悪いみたいだから、何かスポーツドリンクでも買ってきてあげてくれない?」

大輔は舞のお願いを聞いて、すぐに立ち上がる。

「そうだね。長時間立ち会って疲れているだろうし。」

大輔は健太を気遣いながら病室を出ていく。その瞬間、舞の態度が一変した。

「健ちゃん、しっかりして!お願いだから今は何も言わないで。」

舞は慌てて健太の腕を掴んだ。

「舞、俺たちの関係は何だったんだ?大輔って誰だよ。」

舞は健太を必死になだめようとする。

「健ちゃん、私の気持ちは本当よ。あなたのことが好き。今は大輔がいるからごまかす必要があるの。分かって。」

舞は健太の手を握った。

「この子も本当はあなたの子よ。大輔とは半年以上関係がないんだもの。でも今は言えないの。」

「本当か?」

「本当よ。だからお願い。今は帰って、後で連絡するから。」

舞は甘い声で健太を説得しようとした。

「私たちの関係は特別なの。でも今は周りに気づかれるわけにはいかない。」

「舞……分かった。君を信じる。」

「ありがとう、健ちゃん。私はあなたを愛してる。」

健太は舞の言葉にすがりつくように頷く。しかしその穏やかな瞬間は長くは続かなかった。

「一体何の話だ?」

いつの間にか少しだけ開いてた病室のドア。その向こうに、呆然とした顔の大輔が立っていたのだ。

「大輔……ドリンクを買いに行ったはずじゃ……」

「財布を忘れて取りに戻って、そしたら二人の会話が聞こえて。」

どうやら大輔は、すべての言葉を聞いてしまったらしい。

「舞、今の話はどういうことなんだ?」

大輔が最初にこの病室に駆け込んできた時とは比較にならないくらい、分娩室の空気が冷たく凍りついた。舞の顔も真っ青になっている。

「大輔さんの子じゃない。そう言ってたよね。」

大輔の声は震えていた。当然だが、かなり深く傷つき、かつ混乱しているようだ。

「舞、僕たちは夫婦だよね。なぜあんなことを……」

「大輔、違うの。説明させて。」

しかし大輔は静かに医師の方を向いた。

「先生、この子はいつ頃妊娠したのか教えていただけませんか?」

「えっと、予定日から逆算しますと……正確に言いますと。」

医師は困惑しながらも答えた。

「予定日から計算すると受胎時期は約九ヶ月前です。」

大輔は静かに計算し始めた。

「九ヶ月前。それは僕が出張に行く直前の時期です。」

大輔は舞を見つめた。

「その時期、僕たちは確実に一緒に暮らしていた。うん……先生、医学的に間違いありませんか?」

「はい。経過と予定日から見て、受胎時期は約九ヶ月前で確実です。」

大輔は息をついた。

「つまり、確実に僕の子ということですね。」

その言葉に医師は困った顔をする。

「それは私には分かりかねますが……」

医師は答えられない。もし九ヶ月より前の段階で舞と健太が出会っていたのなら、健太の子供という可能性はまだ残っているのだから。だから私が医師に変わって口を開く。

「健太さんは、舞衣さんとはいつ頃からのお知り合いなんですか?」

「それは……」

「もしかして、ここ九ヶ月以内に出会われたのでしょうか?」

健太は答えに詰まった。どうやら図星のようだ。

「なるほど。だとすると、この赤ちゃんの父親は……」

私は大輔を見た。

「医学的に見て、確実に大輔さんですね。」

「そういうことになります。」

医師も私の言葉に同調して頷く。満足げな顔の大輔。愕然とした顔で舞を問い詰める健太。

「じゃあ、俺の子じゃないのか。君は俺に嘘をついていたのか?」

舞は答えることができなかった。大輔が静かに口を開く。

「健太さん、僕の妻との関係について説明していただけませんか?」

大輔の問いに、健太は口をパクパクと動かしたが言葉が出てこない。何も答えられない健太の代わりに、私が口を開いた。

「大輔さん、申し訳ございません。私の夫がご迷惑をおかけしました。」

分娩室の全員が困惑した表情を浮かべた。

「ど、どういう意味ですか?」

「え?」

「私の夫って……まさか。」

私はゆっくりとマスクを外す。

「初めまして、大輔さん。私は健太の妻、美沙です。」

分娩室に衝撃が走った。

「奥さんということは……」

「はい。この男性は私の夫です。そしてどうやら、舞衣さんと不適切な関係にあったようですね。」

「美沙、なぜここに?」

健太は私の姿を目にした瞬間、顔から血の気が引き、その場に凍り着いたように立ち尽くし、驚愕している。まるで時間が止まったかのように、目を見開いたままだ。

「なぜって、ここは私の職場よ。私は看護師として八時間、あなたたちの様子を見ていました。健太が舞衣さんを『俺の妻』と呼び、『愛してる』と言い、幸せだと涙を流すのを、全て見ていました。」

舞の顔が真っ青になった。大輔は事態を理解し始めていた。

「舞さんとは、不倫関係です。そして舞さんは健太に自分の子供だと嘘をついていたようですが。」

私は医師を見た。

「先生、医学的事実として、この赤ちゃんの父親は確実に大輔さんですよね。」

「はい。受胎時期から見て、間違いありません。」

私は健太を冷たく見つめた。

「健太、あなたは完全に騙されていたのよ。本当に情けないわね。」

そう言い放つ私に、健太はすがりつくように弁解を始めた。

「美沙、これは誤解だ……」

「誤解?八時間も他人の奥さんを『俺の妻』と呼んで励まし続けたのが誤解?私はあなたが舞衣さんに『愛してる』と言うのを聞きました。私には一度も言ったことのない言葉を。」

健太の顔が青ざめた。

「私はあなたが舞衣さんを『一番大切な人』と呼ぶのを聞きました。あなたが舞衣さんの体の汗を拭いてあげる姿も見ました。あの時、私は『官病』だったんです。あなたが舞衣さんに水を飲ませてあげる姿も見ました。あなたが舞衣さんの髪を撫でる姿も見ました。私たちが最後にスキンシップしたのはいつだったかしら。」

健太は答えることができなかった。一方で大輔は、妻の裏切りに深いショックを受けていた。

「君は僕を裏切っていたんだね。」

舞が慌てて弁解しようとした。

「違うの、昨日の迷いだったの。健太さんから無理やり迫ってきて。」

その言葉に健太は目を見開いて反論する。

「舞、何を言ってるんだ?君から誘ったじゃないか。」

「そんなことない。あなたが私を口説いたのよ。」

舞は完全に健太を切り捨てる方針に切り替えたようだ。見苦しい言い争いね。

「私は冷たく二人を見つめる。でも、どちらが誘ったかなんてどうでもいいことよ。大切なのは、健太があなたに見せた愛情が本物だったということ。」

「美沙、違う……」

「じゃあ、説明してもらいましょうか。健太が舞衣さんとの子供を『愛の結晶』と呼ぶのも聞きました。私との子供については『時期じゃない』と言い続けていたのに。仕事が大変でも、舞衣さんの出産には八時間も立ち会えるのね。」

健太は返す言葉がなかった。

「舞衣さんはあなたを都合のいい男として利用していただけよ。本当の夫が出張中だから寂しくて、あなたと関係を持っただけでしょう。そして妊娠が分かると、あなたに父親だと嘘をついて、出産まで面倒を見させた。」

「そんな……でも俺は舞を愛しているんだ。愛してる。」

私は呆れて肩を竦める。

「愛している女性に嘘を吐き続けていたのに?愛している女性の本当の夫が現れた瞬間、『友人』に格下げされたのに?」

健太は言葉を失った。

「これが愛なら、私たちの結婚は何だったのかしら。」

「もうやめてくれ。これ以上俺を攻めないでくれ。」

「あら、攻めてないわよ。ただ事実を整理しているだけです。健太が八時間も他人の奥さんの出産に立ち会って、『俺の妻』『愛してる』『幸せだ』と言い続けた事実。そして最後には、その女性に完全に裏切られたという事実。」

健太はがっくりと項垂れた。

「俺は……俺は何もかも間違っていた。」

健太はついに現実を受け入れた。

「舞、君は俺を利用していたんだ。」

「そうよ。だからもうこの関係は終わり。私には夫がいるし、あなたにも奥さんがいるんでしょ。」

吹っ切れたように、あるいは狂人のように舞が叫ぶ。それを聞いた健太が立ち上がり、ふらつく足で病室を出て行こうとした。その背中に、私は最後の言葉を投げかける。

「健太、お疲れ様。八時間も他人の家族のために頑張って。」

健太の肩が震えた。

「でも、いい経験になったでしょうね。父親がどんなものか体験できて。」

健太は振り返ることなく、廊下に消えていった。

ちなみに、舞と大輔は夫婦の問題を解決するため別室で話し合うことになったらしい。けれど私にはどうでもいいことだ。私は一人分娩室で後片付けをしながら、このドラマのような一時に思いを巡らせた。夫への恨みはもちろんあるけれど、愛していた人に実は夫がいて、自分は一時の慰め役に過ぎなかったことを知って絶望に叩き落とされた夫の顔を見たら、割とそんなことはどうでも良くなってしまった。

そんなことよりも、私の新しい人生に目を向けよう。久しぶりの一人だ。やりたいことは山ほどある。

新しい人生を踏み出すために私が最初にしたことは、健太に離婚届を差し出すことだった。

「慰謝料として五百万円を請求します。」

健太は何も反論せず、深く頭を下げた。

「本当にすみませんでした。君の言う通りにします。」

離婚協議は驚くほどスムーズに進んだ。健太が全面的に非を認めたからだ。

一方、大輔と舞の間には、あの夜の出来事以来、これまでにない深い対話が生まれていたようだ。分娩室で二人きりになった時、舞は静かに言ったらしい。

「私たち、もう一度やり直しましょう。」

大輔の目からは涙が溢れた。生まれたばかりの息子を抱きながら、彼は妻への感謝を改めて実感したのだろう。正直、私の感覚で言えば舞も相当な悪女だが、大輔が納得しているならそれでいいのだろう。それに、あの人のいい大輔のそばで、その優しさに触れていれば、いずれ彼女も健全な人間に変わるかもしれない。

ちなみに健太は転職活動を始めたようだ。今度は派手な営業系ではなく、地道に技術を積み重ねられる会社を選んだらしい。私を裏切った自分の行動を毎日反省しながら過ごしていると聞いている。

そして半年後の春、私は病院の廊下で偶然出会った小児科医とお付き合いするようになっていた。子供たちの命を救うことに情熱を注ぐ彼の姿勢に、深く共感したのだ。

「命って、とても尊いものですよね。」

彼の優しい微笑みに、私の心は静かに温かくなる。新しい人生への扉がそっと開かれた瞬間、それぞれが選んだ道でそれぞれの幸せを見つけようとしていた。

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