「靴を脱げ。畳を濡らすな」——20年ぶりに会った姪っ子は、雨に濡れて、家を失い、持っていたのは割れたキャリーケースだけだった。68歳の俺の年金は月6万5千円。妹が死んだ。派遣を切られた。逃げ場のない26歳の姪が、頭を下げて俺の玄関に立っていた。1人分の食費すらギリギリだった俺は、計算が成り立たないことを知っていた。それでも、追い返せなかった。仕事も住む場所も失った姪を、2人で細々と食いつなぐ…

「靴を脱げ。畳を濡らすな」——20年ぶりに会った姪っ子は、雨に濡れて、家を失い、持っていたのは割れたキャリーケースだけだった。68歳の俺の年金は月6万5千円。妹が死んだ。派遣を切られた。逃げ場のない26歳の姪が、頭を下げて俺の玄関に立っていた。1人分の食費すらギリギリだった俺は、計算が成り立たないことを知っていた。それでも、追い返せなかった。仕事も住む場所も失った姪を、2人で細々と食いつなぐ...

6月の雨の夜、松崎秀夫はこたつの天板の上で小銭を数えていた。68歳、年金だけで暮らす彼にとって、今週の食費予算は3200円。豆腐ともやし、賞味期限間近の食パンを買えば2800円で収まる見込みだった。残りの400円は、何かあった時のために取っておく。それが彼の長年のやり方だった。

午後7時を少し回った頃、玄関の引き戸を叩く音がした。この団地に越してきて12年、夜に来客が来たことは一度もなかった。もう一度、遠慮がちに三度の音。秀夫は手を止め、スリッパを履いて玄関に向かった。

外に立っていたのは、傘も持たず、髪を額に張り付かせた若い女だった。右手には角の割れた安物のキャリーケース、左手には風に揺れるコンビニの袋。女は秀夫の顔を見るなり、90度に頭を下げた。

「突然の訪問、本当に申し訳ありません」

声が震えていた。秀夫はしばらく黙って、その顔を見つめた。記憶の中に、もっと幼い顔があった。長い時間をかけて、彼の記憶の中で輪郭が定まっていく。

「白川ナツキか」

はい、と女は答えた。26歳、秀夫の妹・瑠美の娘だった。最後に会ったのは、彼女がまだ6歳か7歳の頃。膝に乗せて、虫の本を読んでやった記憶がある。

「お母さんが…2ヶ月前に亡くなりました。すい臓の癌でした」

秀夫の体の中で、何かが静止した。妹が死んだ。悲しいとも、驚いたとも感じなかった。感じる場所そのものが、長い年月をかけて塞がれていた。

ナツキは続けた。派遣社員としてジムで働いていたが、先月突然契約を打ち切られた。アパートの家賃は翌月分まで払ったが、その後が続かない。保証人も見つからず、知り合いも誰も受け入れてくれなかった。母の遺品の中に、叔父の住所が書かれたメモが一枚あった。それだけが頼りだった。

秀夫は頭の中で数字を動かした。今月の年金は6万5千円。家賃が3万2千円、光熱費が1万2千円。食費に大半を使えば、月末には数百円しか残らない。そこに一人分の口が増えれば、計算は成り立たない。

しかし、同時に別のことも考えていた。妹の娘だ。血が繋がっている。人に物を頼むことを知らない人間が、90度に頭を下げて訪ねてきた。その重みが、秀夫には理解できた。

「もし難しいようであれば、近くのネットカフェで一晩過ごして、明日また別の場所を探します」

秀夫はナツキの顔を見た。

「靴を脱げ。畳を濡らすな」

そう言って、先に廊下を歩き始めた。

食事は質素だった。塩鮭の切り身を半分に切り、豆腐も半分に分け、麦を多く混ぜたご飯を茶碗に半分ずつよそった。椅子は一脚しかないので、秀夫は床に座布団を敷いてあぐらをかいた。二人はほとんど口を開かず、静かに食べた。

「明日からすぐに仕事を探します。ハローワークにも行きます。食費は、落ち着いたら必ず返します」

ナツキが言っても、秀夫は返事をしなかった。返す必要はないというつもりはなかった。ただ、実際に余裕がなかった。

洗い物を終え、秀夫はベランダに出てタバコに火をつけた。一日三本と決めている。この夜の一本が、唯一自分のために使う時間だった。ルミが死んだ。その事実を、今頃になって頭の中で転がしていた。2ヶ月前に死んだということは、自分は妹の死を全く知らなかったことになる。連絡を絶ったのは自分の方だった。文句を言う資格はない。分かっていた。

部屋に戻ると、隣の洋室から微かな物音がした。鼻をすするような音だった。一度だけ聞こえて、それきり止んだ。確かめる気にはなれなかった。確かめて、それからどうするという話だ。

二週間が経った。ナツキは毎朝スーツを着て出かけた。リサイクルショップで買ったらしい、袖の縫い目が少し歪んだスーツ。7回の面接を受けたが、全て落ちた。6回は書類選考で。7回目は面接まで進んだが、結果が出た夜、ナツキは夕食を半分残した。

「今日は、食欲がなくて」

秀夫は何も言わず、残りを食べた。

6月24日、木曜日の午後6時50分。秀夫は駅前のスーパーにいた。この店には20年以上通っている。午後7時は、半額シールを貼る時間だ。秀夫は乳製品コーナーで時間を潰し、いつものように惣菜コーナーへ向かった。豚のカツが一枚、残っている。手を伸ばした瞬間、隣に別の手が来た。70代の女性だった。秀夫は先に取った。言葉はなかった。先に手を伸ばした方が取る。それだけのことだった。

カゴにトレーを入れながら顔を上げると、通路の向こうにナツキが立っていた。目があった。秀夫は体が止まるのを感じた。ナツキの目は、カゴの中ではなく、秀夫の顔を見ていた。何が起きていたかは、理解していたはずだった。惣菜コーナーの前で、何人もの老人が同じ目的で集まっている。その中に、自分の叔父がいた。

秀夫はナツキから目をそらし、カゴを元の場所に戻した。豚カツのトレーも、中に入ったまま。外に出て、国道沿いの歩道を無目的に歩いた。誰かに見られた、その事実が、服の裏地に入り込んだ細かい砂のように消えなかった。

団地に戻ると、台所から何かの匂いがした。昆布だしの匂いだ。自分では使わないものだった。

「お帰りなさい。うどんを買ってきました。スーパーで半額のやつ。野菜も少し」

ナツキは静かに言った。さあ揚げは、秀夫の分に全部入っていた。うどんは柔らかく煮えて、夕方から歩き続けた後の体に染みた。

食べ終えて、ナツキが一言だけ言った。

「今日返事が来て、7社目もダメでした」

秀夫は、そうかと言った。それだけだった。

翌朝、ナツキは麦茶を飲みながら、昨日のことは何も触れずに言った。

「昨日スーパーで、見てしまいました。気にしないでください。当たり前のことだと思います。賢い買い物の仕方だと思います」

秀夫は台所に立ったまま背を向けて、そうしろとだけ言った。

その日の昼過ぎ、秀夫は郵便受けに一通の封筒を見つけた。クリーム色の厚みのある封筒。差出人の欄には、市の紋章が印刷されていた。中には、「市営住宅建替事業に伴う退去のお願いについて」と書かれた書類が入っていた。この団地は耐震基準を大幅に下回る構造的問題が判明し、今年度末で取り壊される。入居者は12月31日までに退去すること。今日は6月25日。残りは6ヶ月と1週間ほどだった。

秀夫はエレベーターに乗り、壁に背をつけた。この部屋に12年いた。ここが最後だと思っていた。年金だけで暮らしていくと決めた時、残りの人生を全部ここで過ごすつもりだった。それが崩れた。

夕食の後、秀夫はナツキにその書類を見せた。

「12月に出ないといけないんですね」

「ああ」

「市営住宅への申し込みはどうしますか」

秀夫は、収入の条件があると言った。自分の年金の額が範囲内かどうか。それと、お前の問題は別だ。ナツキは頷いた。

「私のことは私が考えます。おじさんに迷惑はかけません」

7月に入って、市役所で確認が取れた。秀夫の年金6万5千円は、市営住宅の入居資格となる月収の下限12万円を下回る。申し込み資格は得られない。ナツキも、収入のない状態では審査は非常に厳しいと言われた。

「別の方法を探す」

秀夫はそう言った。二人はそれぞれ別の角度から探した。ナツキは保証人不要の賃貸を探し、秀夫は昔馴染みの不動産屋を三軒回った。どこも「年金収入のみの高齢者への貸し出しは難しい」という言葉で終わった。

7月の第2週が終わる頃、ナツキがようやく仕事を見つけた。ホテルの客室清掃のパート。時給1050円、週5日・1日5時間。手取りで月に10万円に届かない程度の収入だった。

よかった、と秀夫は言った。

しかし、その翌週、郵便受けに一枚のチラシが入っていた。ピンク色の縁取りがされた薄い紙。『高齢者生活困窮者向け住宅支援 保証人不要 初期費用なしで入居可能 相談は無料です』という文字の下に、支援コーディネーター・黒田という名前があった。

ナツキは「一度話を聞いてみるだけ聞いてみたらどうですか」と言った。

翌週の水曜日、黒田という男が車で団地の前に来た。40代半ば、薄い灰色のスーツを着て、笑顔が最初から最後まで崩れない種類の人間だった。車で40分、工業地帯に近いエリアにある2階建てのアパートに着いた。外壁は薄茶色のモルタル塗りで亀裂が走り、外廊下の鉄骨には錆が浮いていた。部屋は6畳一間のワンルーム。以前の団地の半分以下の広さだった。

「静かな環境です」

黒田が言ったちょうどその時、近くの工場からプレス機の音が大きく響いた。

ファミリーレストランで書類の説明を受けた。家賃は月額3万5千円。ただし、管理費と生活支援費が別にかかると黒田は言った。

「合わせると月々の費用は6万円程度になります。お手元の年金とほぼ同額ですが、安心のためのサービスが全部含まれていますので、実質的にはお得なんです」

通帳と印鑑を預かれば、家賃の引き落としから光熱費の管理まで全部こちらでやります。残ったお金は、その都度お渡しします。

秀夫は契約書を見せてほしいと言った。A3の書類、三枚。文字が細かく、びっしりと書かれていた。秀夫は老眼鏡を持っていなかった。文字が滲んで、読めなかった。

「持ち帰って読むことはできますか」

黒田の表情が、一瞬だけ変わった。

「もちろんです。ただ、今週中にご返答をいただけると助かります。今この物件を希望されている方もいらっしゃって」

ナツキがテーブルの下で秀夫の袖をそっと引いた。秀夫はそれに気づいた。気づいた上で、黒田を見た。12月には今の部屋を出なければならない。不動産屋はどこも断った。市営住宅は資格がなかった。手元の時間は、どんどん短くなっていた。

「今日判断する」

秀夫は言った。ナツキが「おじさん」と小さく言った。秀夫はナツキを見なかった。

「今日ここで決める。ただし、通帳と印鑑を預けるのは家賃の引き落としのためだけだな。契約書には、そう明記されているな」

「はい。もちろんです。引き落とし以外の用途には使いません。それは契約書にも明記されています」

秀夫は契約書の三枚目、下の方の細かい字の段落を指さした。読もうとして、読めなかった。黒田が「そこは管理人に関する条項です。内容はご説明した通りです」と言った。

秀夫はしばらく書類を持ったまま動かなかった。頭の中に、雨の夜に玄関先で頭を下げたナツキの顔があった。あの夜から2ヶ月、ナツキは毎朝同じスーツを着て出かけた。7社に断られて、それでも翌朝また出かけた。12月にここを出なければならない。その時点でナツキに行き先がなければ、また同じことになる。

秀夫は契約書に名前を書き、印鑑を押した。

駐車場に戻り、黒田の車が走り去った後、ナツキが口を開いた。

「本当に良かったんですか。あの契約書、全部読めましたか?」

読めなかった、と秀夫は言った。

「じゃあ、なぜ…」

ナツキは最後まで言わなかった。秀夫も何も言わなかった。しばらく二人は黙っていた。

「帰るぞ」

バスに乗り、窓の外に工業地帯の景色が流れていく。煙突、フェンス、資材置き場。秀夫はその景色を見ながら、押した印鑑の感触を考えていた。正しい選択だったかどうかは、まだ分からなかった。ただ、選んだ。それだけだった。

団地の入り口が見えてきた。古い建物だった。何十年もここにある建物だった。あと5ヶ月もすれば壊される建物だった。

「来月からちゃんと働きます」

ナツキが隣で一言だけ言った。秀夫は正面を向いたまま、ああ、と言った。

10月31日、朝。秀夫はコンビニのATMで口座残高を確認した。年金6万5千円が振り込まれる日だった。家賃3万5千円、管理費特別徴収1万円、その次に見慣れない項目があった。生活支援サービス利用料1万5千円、設備保全協力金5千円。合計は6万5千円を超えていた。年金が全額引き落とされた上に、口座からさらに5千円が出ていた。手元に戻る現金は、0円。

秀夫は黒田に電話をかけた。黒田の声は明るかった。

「ああ、それはですね、入居後に自動的に適用されるサービスでして。契約書の別紙、三枚目の下段に記載がありますので、もう一度ご確認いただけますか? 設備保全は建物の維持管理費用で、生活支援は緊急時の対応費用です。どちらも入居者の方全員に適用されるもので、特別に請求しているわけではないんです」

電話を切った後、秀夫はコンビニのベンチに腰を下ろした。頭の中で計算した。家賃3万5千円、管理費1万円、生活支援1万5千円、設備保全5千円。合計6万5千円。年金と完全に一致する。一円も手元に残らない設計になっていた。食費も光熱費も、この金額の中には含まれていない。

黒田の言う通りだった。契約書の三枚目の下段。秀夫は記憶にある限り確認しようとしたが、あの字の小ささでは老眼鏡なしには読めなかった。読もうとしたが、読めなかった。黒田は、「読みましたか」とは確認しなかった。契約書を差し出して、判を求めた。秀夫は読んだつもりで押した。それが全てだった。

部屋に戻り、台所の棚を開けた。乾麺のそばが半袋、インスタントの味噌汁が三袋、缶詰が一缶。これだけあれば、一週間は食べられる。問題は、これが尽きた後だった。

ナツキに電話をかけた。ナツキも同じだった。給料が入ったが、引き落としで全部消えた。手元に残ったのは1000円台。ナツキの部屋も、同じ会社の物件だった。構造は秀夫のものとほぼ同じだった。

「今週の金曜日、市の相談窓口に行く。場所と時間を調べておいてくれ」

翌週、秀夫は市の福祉課に行ったが、担当者は週に二回しか在籍しておらず、その日は不在だった。木曜日に再度行き、相談担当者の男性は書類を読んだ後、「民事契約の範疇に入るため、行政が直接介入することは難しい」と言った。弁護士の無料相談を紹介できると言った。次の相談は、三週間後だった。

帰り道、秀夫はバスに乗らなかった。バス代を節約するためだった。1時間歩けば帰れる。

その週から、食事が変わった。朝はお茶と食パン一枚か何か少し。夜はご飯と何か一品。昼は食べなかった。ナツキには一日三食食べろと言った。自分は年寄りだから二食で足りる。そう言った。

11月も半ばになった頃、ナツキの様子が変わり始めた。顔色が青白くなり、顔の表情が痩せていった。

ある夜、ナツキが秀夫の部屋の玄関先で倒れかけた。立ったまま、片手が引き戸の枠を掴んでいた。

「ひでおさん…仕事から帰る途中で、急に足に力が入らなくなって」

秀夫は素早く外に出て、ナツキの腕を掴んだ。腕が軽かった。以前に比べて、明らかに細くなっていた。

昨日の朝から何も食べていない、とナツキは言った。お金がもうなくて。缶詰が切れて、買いに行けなくて。インスタント麺は残ってるんですけど、お湯を沸かす気力が出なくて。

秀夫は炊飯器を開けた。昨夜のご飯が半分残っていた。小さな鍋に水を張り、火にかけた。乾燥わかめと、最後の味噌汁の元を使った。ご飯を丼によそい、味噌汁を注いだ。おかずはなかった。

テーブルに座らせたナツキは、最初、丼を両手で持ったまま動かなかった。少しして一口飲んだ。それから、少し食べた。半分ほど食べた頃、少し顔色が戻ってきた。食べながら、ナツキが口を開いた。声が小さかった。自分でも驚いているような、聞いたことのない声の出し方だった。

「全部、自分のせいなんです。お母さんが死んで、仕事も全然うまくいかなくて、こんなところに引っ越して、お金も全部持って行かれて。全部自分のせいなのに、おじさんに頼ってばっかりで。もう、疲れました。本当に、疲れました」

ナツキは丼を置いた。テーブルの上で両手を重ね、その上に額をつけた。声は出ていなかった。肩が小さく動いていた。

秀夫はテーブルの向こう側から、ナツキの重なった手の上に自分の手を置いた。何も言わなかった。大丈夫だとも、頑張れとも言えなかった。大丈夫ではないし、頑張ってきたことは分かっていた。ただ、自分の手がナツキの手の上にある。それだけだった。

しばらく、二人はその格好でいた。やがてナツキが顔を上げた。目が赤かった。

「ごめんなさい」

秀夫は手を引き、立ち上がって台所に戻った。水を入れたコップを持ってきて、ナツキの前に置いた。飲め、と言った。

「今夜はここにいろ。うちに布団がある。お前の部屋まで戻るな。1人でいると、ろくなことを考える」

その夜、秀夫は和室のこたつの前に座ったまま、ナツキが洋室で眠るのを待った。眠ったことは、部屋の静けさで分かった。それから手帳を開き、今日の日付のページに一筆書いた。簡単な文字だったが、書きながら自分の中で何かが決まった感触があった。

『待てない』

弁護士の無料相談まで三週間。それまでナツキをこの状態に置いておくことはできない。やり方を変える必要がある。

翌朝、秀夫はナツキに言った。

「今日、市役所に行く。弁護士の相談は三週間後だが、それを待たずに福祉の窓口に直接行って話をする。お前も来い」

市役所に着いたのは7時50分。開庁時間の8時半まで、二人は入り口の前に並んだ。相談窓口に案内され、名札に「田中」と書かれた50代の女性担当者が、秀夫の話を最後まで聞いた。団地の退去通知、黒田の会社との契約、年金が全額引き落とされる現状、ナツキの状況。秀夫は感情を出さないように気をつけた。事実を伝えることが目的だった。

田中は書類を確認しながら、「今おっしゃった業者については、こちらでも把握しているものがいくつかあります」と言った。

「ただし、契約そのものが民事になりますので、行政が直接介入するには限界があります。ただ、預金通帳と印鑑を業者が管理しているという点については、場合によっては別の問題になり得ます。弁護士の先生に見ていただく価値は十分あります」

田中は、今週の金曜日に別のルートで法律相談の枠があると言った。市と連携している司法書士の方が来てくださる。そして、緊急小口資金という制度も教えてくれた。貸し付けにはなるが、今日申し込めば来週中に入金される可能性がある。

秀夫はナツキを見た。ナツキは、わずかに頷いた。

「申し込み書をください」

金曜日、司法書士の中村という60代の穏やかな男が、秀夫の話を遮らずに最後まで聞いた。

「これは、記録として残すべき案件だと思います」

中村は、内容証明郵便で業者に照会をかけるのが先決だと言った。文書の作成は無料。夏のことで、ナツキの分も同じ対応ができると言った。

それから三週間が過ぎた。黒田の会社から内容証明への返答は来なかった。しかし、返答がないこと自体が記録になり、中村が市の消費生活センターと連携して、黒田の会社が過去にも同様の苦情を受けていることを確認した。それが材料になり、行政が介入する根拠が生まれた。

田中から連絡があったのは11月の終わりだった。

「業者側が、通帳と印鑑を返還することに同意しました。全額ではないが、今後の引き落としについては本人管理に戻すことで合意した。預かり金については、免除する方向で話が進んでいます」

秀夫は電話を持ったまま、返事をするまでに少し間があった。

「わかりました。それだけだった」

12月になった。通帳と印鑑が戻ってきた。来月からは、引き落とし後にいくらか手元に残る計算になる。多くはないが、今まで一円も残らなかったのと、数千円でも残るのとでは、生活が違う。

ナツキも同じ週に通帳が戻った。そして、ナツキは連絡先の正社員募集に応募した。時給は下がるが、雇用が安定していることを選んだ。面接の結果は二日後に出た。

「採用でした。来月の給料が入ったら、都内の物件に引っ越します。会社の近くに家賃の安い物件を見つけました。今度はちゃんとした不動産屋で契約します」

秀夫は聞いていた。全部聞いて、それでいい、と言った。

「おじさんは、このまま今の部屋にいるんですか?」

「当分はここにいる。来年以降のことはまだ分からんが、とにかく今はここだ」

12月の中旬、ナツキが引っ越して最初の週末。秀夫は一人で夕食を食べた。スーパーの閉店近くに行き、半額シールの貼られたコロッケを一個、120円で買った。ためらわなかった。シールが貼られた時間に棚の前に立ち、他の客と並んで待ち、貼られた瞬間に手を伸ばした。それだけのことだった。誰かに見られていたかどうかは、関係なかった。

部屋に戻り、ご飯と味噌汁とコロッケ一個を食べた。テレビはつけなかった。静かな部屋で、ゆっくり食べた。食べ終わって茶碗を洗い、ベランダに出た。タバコを一本取り出し、火をつけた。

静かだった。タバコを半分ほど吸ったところで、ポケットの中の携帯電話が振動した。ナツキからのメッセージだった。

『おじさん、ちゃんと温かくしてね。来月、初給料入ったら焼肉食べに行こう。奢ります』

秀夫は画面を見た。しばらくそのまま見ていた。返信はしなかった。返し方が分からなかった。しかし、携帯を閉じる前に、もう一度だけ文章を読んだ。

タバコを灰皿で消した。部屋に戻り、携帯をテーブルの上に置いた。こたつの前に座った。こたつ布団は、まだ出していなかった。10月に出すと決めていたが、今年はそのまま忘れていた。来週出そう、と思った。

部屋は変わっていなかった。6畳一間、薄い壁、隣の物音が時々聞こえる部屋。年金は戻ってきたが、多くはない。来月も再来月も、この部屋で同じ計算を続ける。それは変わらない。

しかし、今夜の部屋は以前と少し違う感触があった。何が違うのかは、うまく言えなかった。静かさは同じだ。一人であることも同じだ。テーブルの上の携帯の画面はもう消えている。しかし、テーブルの上に携帯がある。その事実が、今夜はなんとなく違った。

秀夫は手帳を取り出した。今日の日付のページを開き、支出を書いた。

コロッケ 120円。以上。

手帳を閉じ、テーブルの上に置いたままにした。明かりを消すと、部屋はカーテン越しの薄明かりだけになった。秀夫は布団を敷き、横になった。天井を見た。シミはなかった。以前の団地の天井には12年間ずっと同じシミがあったが、この部屋の天井には何もない。最初来た時は白すぎて落ち着かなかったが、2ヶ月経った今はそれも慣れていた。

来月、ナツキは初給料で焼肉をごちそうすると言っていた。焼肉が好きかどうか。外で食事をするという習慣が、もう何年もなかった。いくらかかるか分からない。自分で払う分も持っていく必要があるかもしれない。事前に確認しておく必要がある。

そう考えながら、秀夫は目を閉じた。眠るまでの間、工場の方で一度、低い機械音がした。それからまた、静かになった。

松崎秀夫は、静かな部屋の中で眠りに着いた。

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