母のためを思って、と息子が言ったとき、私は背筋が凍る思いがした。二年ぶりの無沙汰の果てに、彼は見知らぬ男を連れて、私の家を売り、施設に入るよう迫ったのです。あの男の笑顔は、取引の前の顔だった。私は断り続けた。それでも、彼らは諦めなかった。ある日、息子が置き忘れたコートのポケットに、私宛の売買契約書と、千五百万円の借用書の写しを見つけました。息子は、私を言いくるめようとしていたのです。「お袋は…

母のためを思って、と息子が言ったとき、私は背筋が凍る思いがした。二年ぶりの無沙汰の果てに、彼は見知らぬ男を連れて、私の家を売り、施設に入るよう迫ったのです。あの男の笑顔は、取引の前の顔だった。私は断り続けた。それでも、彼らは諦めなかった。ある日、息子が置き忘れたコートのポケットに、私宛の売買契約書と、千五百万円の借用書の写しを見つけました。息子は、私を言いくるめようとしていたのです。「お袋は...

電話の向こうの声があまりにも明るすぎた。篠原千子は湯が沸くのを待ちながら、その違和感を反芻していた。二年間、一度も連絡がなかった息子。誕生日にも、盆にも、正月にも、無沙汰を決め込んでいた息子。その声が、妙に滑らかで、作ったように柔らかかった。千子には分かった。あの声は本物ではない。長年の商売で、頼み事の前の声というものを知り尽くしていた。

翌週、息子の尚弥が訪ねてきた。知らない男を連れて。「施設」の話だった。老後の生活設計を手伝っているという黒川と名乗る男は、千子の家が一人には広すぎると、孤独死の危険を語り、安心して暮らせる施設への入居を勧めた。尚弥はそれを、母のためだと、自分に言い聞かせるように繰り返した。

千子は、息子の視線が自分を避けているのを見た。黒川の笑顔が、慣れ慣れしく、底が知れないのを感じた。一時間ほどの訪問の後、二人が帰り、千子は縁側に残された尚弥のコートに気づいた。持ち上げた時、ポケットに違和感があった。出てきたのは、金融会社からの借用書の写しと、この家の売買契約書の草案だった。借金は千五百万円を超えていた。売却代金の三割が、黒川の会社への手数料として記され、入居先の施設の名前があった。それは、近所で噂になっていた、入居者への暴力事件を起こした施設と同名だった。

千子は書類を、元の通りに折りたたみ、ポケットの奥に戻した。顔色は変えなかった。だが、左手の指先が、細かく震えていた。

黒川への返答は、言葉少なに、電話で済ませた。
「私は、この家を売りません」
何度も繰り返すうちに、家のポストには、孤独死や認知症に関する記事のコピーが、毎朝届くようになった。夜中には、無言電話がかかってきた。息をひそめる音、小さな鳴き声のような録音。千子は毎回、静かに電話を切った。寝つけない夜が続いた。

七月の中旬、千子は激しい吐き気と胃の痛みで目が覚めた。吐いたものに、暗い赤が混じっていた。胃からの出血だと、千子は冷静に判断した。尚弥には連絡しなかった。入院という事実が、彼らに利用されると思った。タクシーを呼ばず、救急車を呼んだ。入院は三日間だった。「もう少し遅かったら」という医師の言葉を、千子は「そうですか」と受け流した。

退院して家に戻ると、鍵がかかっていなかった。玄関には、見覚えのある革靴とスニーカー。和室の引き戸を開けると、黒川が押入れの中を覗き込み、尚弥がタンスの前に立っていた。千子は、手の震えを隠そうともしなかった。
「誰に鍵を渡したの」
尚弥は、子供の頃の隠し場所から鍵を取り出した。千子はそれを奪い取るように受け取り、台所の包丁を取り出した。
「警察に電話する前に、出て行ってもらえますか」
その声は、平坦だった。二人は、何事もなかったかのように、しかし足早に去っていった。

千子は、すぐに区の地域包括支援センターに電話をかけ、生活状況の確認を依頼した。数日後、担当者が訪れ、千子の暮らしぶりを確認した。手帳の記録、薬の管理、自立した生活。担当者は「特に問題はない」と判断し、その記録を残してくれた。

そして九月、千子の予想通り、家庭裁判所から書類が届いた。尚弥が、成年後見の申し立てをしたという通知だった。千子は、図書館で調べた制度の仕組みを思い出した。本人の判断能力が明確であれば、申し立てが却下される可能性が高いこと。任意後見という制度があること。千子は、司法書士の佐々木に相談した。佐々木は、状況を整理し、日々の記録を続けること、調査に備えることを助言した。

調査官の訪問を受けた千子は、自分の生活を、淡々と、しかし明確に示した。日付、総理大臣の名前、家計の状況、薬の管理、すべてに淀みなく答えた。そして、息子の借金と、この家の売却が目的である可能性を、証拠の書類と共に伝えた。

十月、雨の降る夜更け、玄関のチャイムが鳴った。びしょ濡れになった尚弥が、立っていた。
「黒川さんに…やられた」
彼は、玄関の上がり框に座り込んだ。保全処分が却下された後、黒川が裏切った。手数料と作業費として三百万円を請求され、借金をしている会社に知らせると脅されたという。行く場所がなくて、ここに来たのだと言った。

千子は、何も言わずに古いタオルを渡し、雑炊を作った。尚弥は、黙って食べた。千子は、翌朝、佐々木に電話をした。尚弥も一緒に相談に連れて行くつもりだと。尚弥は、うなずいた。この数年、初めて親子が並んで歩いた。

十一月、尚弥に借金の整理を弁護士に依頼したという知らせが届いた。そして、黒川が住居侵入と脅迫の容疑で逮捕されたという知らせも。あの夜、千子は家の電気を消されたことに気づき、窓の鍵を外そうとする音を聞いた。警察に電話を入れ、暗闇の中でじっと息を潜めていた。窓から侵入してきた黒川を、懐中電灯で照らし出した。黒川は書類への署名を迫ったが、千子は動かなかった。警察のサイレンが近づき、黒川は窓から逃げ出そうとして、その場で確保された。

十二月、家庭裁判所から、尚弥が申し立てを取り下げたという通知が届いた。千子は、封筒を押入れにしまい、棚の上の夫の写真に向かって、小さく「終わりました」と呟いた。大晦日には、一人で年越しそばを茹でた。一月に入り、尚弥から手紙が届いた。簡潔な文面で、借金整理の進行と、謝罪の言葉が記されていた。千子は、返事を書いた。「手紙を受け取りました。報告してくれてありがとう。体に気をつけなさい。母より」。

数日後、千子はいつものように朝四時半に目が覚めた。台所でお茶を沸かし、窓辺の小さな鉢植えに水をやった。洗濯機を回し、干していると、冬の冷たい空気に、霜の匂いがした。新聞配達の男性が、自転車を止めて声をかけてきた。
「おはようございます。今日は冷えますね」
「そうですね。霜が降りてましたよ」
千子は、箒で玄関先を掃き続けた。台所に戻り、手帳を開いて今日の予定を確認した。水道光熱費と医療費、数字を足す。食費を切り詰めれば、今月も、なんとかやっていける。窓辺の多肉植物が、朝の光を受けていた。それは、昨日よりも少し鮮やかに見えた。千子は、湯のみを両手で包んだ。湯の温かさが、少しずつ覚めていく。それでも、最後まで飲んだ。

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