「お兄様は結婚式に絶対に来ないでください」…

「お兄様は結婚式に絶対に来ないでください」...

携帯の着信音で目が覚めた。休日の朝、ディスプレイに表示された名前を見て、まだ寝ぼけた頭で応答する。
「もしもし、兄さん。今日休みだよね」
弟のユウヤの声だった。
「うん。まだ寝てた」
洗面台に向かいながら、眠気まなこで話を聞いていると、突然の知らせが飛び込んできた。
「俺、結婚しようと思ってる相手がいるんだ。今度、兄さんに紹介したいんだ」
一気に目が覚めた。同時に、成長した弟が誇らしかった。

俺とユウヤは二人で助け合って生きてきた。母は俺たちが幼い頃に離婚し、一人で働きに出て俺たちを養ってくれていた。父のことはあまり記憶にない。
仕事で遅くなる母の代わりに、小学生だった俺は保育園に通っていたユウヤの世話をよくした。
「お兄ちゃん、ごめんね。また仕事に行ってくるから。夕ご飯はこれをチンして、ユウヤと二人で食べてね」
「わかった。じゃあ、お布団だけ出しといて。ユウヤ、ご飯の途中で眠くなっちゃうんだ」
そんな日々が続いていたある日、母は突然、祖父母の家へ行くと言い出し、俺たちを預けたまま二度と戻らなかった。
幼いユウヤは母がいないことが心細くて、夜になるたびに泣いていた。そんな時は絵本を読んだり、手を繋いで寝たりして気を紛らわせた。
「お母さんは、今日帰ってくる?」
そう聞かれるたびに胸が痛んで、「知らない」と答えるようになったのはいつからだっただろう。
祖父母は母のしたことに怒りながらも、俺たち兄弟を大切に愛情深く育ててくれた。毎日決まった時間に温かいご飯が用意されているだけで、俺は嬉しかったのを今でも覚えている。

もう母は帰ってこないのだと諦め始めた頃、俺は「弟を守るのは俺しかいない」と覚悟するようになった。ユウヤが小学校に上がり、近所のいじめっ子がちょっかいを出してきた時は、祖母がいつも使っていたほうきを思いっきり振り回して追い返した。
「こいつの兄ちゃん、やべえ。逃げろ」
俺が空手を習いたいと言い出したのも、強くなりたかったからだ。だが、田舎には通えるような教室がなかった。その代わりと言って祖父は休みの日に俺を釣りに連れて行ってくれた。
海を前に、自分がとてもちっぽけな存在だと感じ、ゆっくり釣りを垂らしていると、いつもせわしなく動いていた心が落ち着くような気がした。俺は釣りが好きになり、祖父の釣り仲間の日野さんとも仲良くなった。もしも父がいたら、これくらいの年なのかもしれない、と密かに思ったりもした。
「エイタは、将来なりたいものとか職業とかはある?」
釣りをしながら、中学生の俺に日野さんが聞いた。
「うーん。俺は普通のサラリーマンになって、弟とじいちゃんばあちゃんがもっと楽に暮らせるようにお金を稼ぎたいかな」
「お前はこの海みたいに大きな心を持っているから大丈夫だ。頑張りなさい」
その言葉に、俺はその後何度も助けられた。

高校生になってからも、お金を稼げるサラリーマンになれるよう勉強していた。そんなある日、祖母が倒れた。祖母が入院したと同時に、今度は祖父が倒れ、そのまま亡くなってしまった。葬儀は役所の人に事情を話し、小さな葬儀を行うことができた。
祖母が来られないことを知ったユウヤの提案で、二人で釣り場まで日野さんを探しに行った。祖父が亡くなったことを伝えると、急だったにも関わらず、日野さんは準備をして翌日の納骨に参列してくれた。
「エイタ、ごめんね。おばあちゃん、すぐ元気になるから」
祖父の葬儀にも参加できなかった祖母は、元気がなかった。
「病院でゆっくり直して。家のことは大丈夫。ユウヤも来年には中学生だよ」
「そうだね。じゃあ、必要なことはエイタに伝えておかなくちゃね」
そう言って祖母は、入院している間に家のことやお金のことなど、俺に詳しく教えてくれた。回復に向かっていると思った矢先、祖母の容態は急変し、息を引き取った。

俺は生活のために高校を中退して、建築現場で働くようになった。
「僕もアルバイトするよ」
中学生のユウヤが言い出した。
「中学生はアルバイトできないよ。勉強してな」
「新聞配達ならできるって調べた」
「大丈夫。ちゃんと稼いでるから心配すんな」
ユウヤには勉強して、いい学校に入って、将来仕事に困らないように大学にも行ってほしかった。そのためならどれだけ働いても構わないと思っていた。それを聞いてユウヤはようやく勉強に打ち込むようになり、名門高校へ入学し、順調に大学へと進んだ。そして今では一流企業で働いている。兄として本当に嬉しい限りだ。

次の休みの日、俺は緊張しつつ、ユウヤの婚約者の小島マユと対面した。ユウヤの社宅に彼女を連れてきたのだ。
「初めまして。ユウヤの兄の工藤です」
「どうぞ中へ上がってください」
彼女は一見すると大人しそうなお嬢さんだった。だが、少し話していると、彼女は突然口を開いた。
「お兄様、建築現場で働いているとおっしゃっていましたけれど、大学はどこを出ていらっしゃるんですか?」
「いや、俺は祖父や祖母が亡くなってからユウヤの親代わりみたいなもんで、高校を中退して働き始めたんです」
「それじゃあ、中卒ってことですか?」
「はい。元々ユウヤと違って勉強も好きじゃなかったですし、その延長で同じ仕事を続けてます」
「ユウヤさんのお兄様が中卒だなんて、聞いていませんでしたわ」
落胆した様子を隠さずに、マユはため息をついた。俺は学歴を諦めたことを今でも後悔していない。だが、中卒では社会が認めてくれないというのを痛いほど経験してきただけに、ここで弟に迷惑をかけてしまうかもしれないという不安がよぎった。
「私、ユウヤさんは優秀な方だから、お兄様も立派な職業についていらっしゃると勝手に思い込んでいました。でも違うようですね。立派な職業。今からそれを取り戻せというのは無理な話ですし、とりあえず私たちの幸せを邪魔しないでくださいね」
「そんなつもりありません。ユウヤには幸せになってもらいたいと思っています」
そう言うと、彼女は口元を少し上げ、愛想笑いをした。顔が引きつっているのが分かった。そこへユウヤが戻ってくると、彼女は再び静かになった。ユウヤはさっきの彼女の顔を知っているのだろうかと疑問に感じたが、どう伝えたらいいかわからなかった。

それからしばらくして正式に婚約が決まった。結婚式一週間前のことだ。知らない番号からの着信に出ると、電話の向こうから聞こえてきたのはマユの声だった。
「もしもし。先日はどうも。小島マユです。覚えていらっしゃいます?」
その話し方だけであの日の彼女を思い出し、少し嫌な気分が蘇った。
「もちろん覚えています。何かありましたか?」
「今日はちょっとお兄様にお願いがあってお電話しましたの」
「結婚式に何かサプライズするとか、俺にできることなら何でもどうぞ」
お願いだと聞いて気をよくした俺は、冗談混じりに言った。
「ええ、その結婚式なんですが、お兄様は欠席していただけないかしら?」
「え?ユウヤの唯一の親族なのに、結婚式に行かないなんて考えられないでしょ」
「ご存知ないかもしれませんが、私のお父様は銀行の役員なんです。元々、親戚やご両親がいない相手との式は反対されているの。だから今回は役者を何人か雇って出席させようと思っているんです」
「役者って?」
「偽物の家族や親戚を演じてもらえるサービスがあるんです。頼めば来てくれるらしいので、今回はそうしようと思ってます」
「それでユウヤは納得しているんですか?」
「納得も何も、結婚式は私のためのものですから。協力してって話すつもりです。なのでお兄様は、仕事が入ったとかなんとか適当に言って欠席してほしい。いえ、欠席してください」
「そんなのユウヤだって反対するはずです。俺だってお祝いしてあげたい」
「そうでもしないと、結婚式はあげさせてもらえないかもしれません。父に結婚を許してもらうのだって大変だったんです。お願いですから、これ以上邪魔しないでください」
「これから旦那になる相手の実の兄を、邪魔だと言うんですか?」
しばらく沈黙した電話の向こうから、小さなため息が聞こえた。
「どうして学歴も仕事も胸を張れないのに、堂々と式に来ようとするのか理解できません。正直、来られると恥ずかしいんですよ」
それだけ言い捨てて、電話が切れた。

俺は呆然としてしまった。だが、すぐに自分のことを初めて恥ずかしいと思った。確かに世間一般的に言えば、中卒の俺は大した人間ではない。しかも俺のせいで結婚を許してもらうのも大変だったようだ。ユウヤに恥をかかせてはいけない。それだけは避けたかった。
その後、俺は意を決して弟に連絡した。
「兄さん。そっちからかけてくるなんて珍しいね。どうしたの?」
「それが、今度の結婚式。どうしても抜けられない仕事が入ってしまって。本当に申し訳ないんだが、欠席させてもらうよ」
「え、どうして?この日は前から来られるように調整してくれてたじゃないか」
現場の責任者は滅多に休めない。その日は無理を言って調整してもらった。職場のみんなが「是非その日は行ってきて、弟さんにおめでとうと伝えて」と協力してくれたことを思い出し、込み上げてくるものがあった。
「無理なんだ。俺が責任者だから、抜けることができない」
「そっか。本当に残念だけど仕方ないね。でも、もし間に合うようだったら途中からでも来てよ。俺は兄さんに来て欲しいんだ」
「わかった。早く終わったら必ず駆けつける。改めておめでとう。ユウヤ」
「うん。ありがとう。必ずだよ」
電話を切ってしばらくはユウヤの真意を思い、涙が止まらなかった。こんな兄でも来てほしいと思ってくれていることが救いだった。俺はマユに潰された自尊心を、少しだけ取り戻せた気がした。

結婚式当日、特に行くところもなく家にいて悶々とするのが嫌で、久しぶりに釣りに出かけた。働くようになってからはほとんど行っていなかったが、昔から行っていた釣り場は決まっていた。ここなら職場の人間に会うこともない。
釣りを垂らし、懐かしい気持ちと同時に、やはり涙が溢れてきた。誰もいないのをいいことに、しばらくは好きなように泣いて、悔しさや寂しさを海に流してしまいたかった。
人知れず泣いていると、ふと気配を感じて振り向くと、見覚えのある人物が釣り道具を持ったまま佇んでいた。
「あ、日野さん」
俺は慌てて袖で涙を拭い、もう一度振り返った。日野さんは懐かしい笑顔を浮かべていた。
「ここに来るのも久しぶりだな。そんな捨て犬みたいな顔してどうした?」
「捨て犬ってひどいな」
俺は泣いているところを見られた恥ずかしさもあり、笑い泣きしながら、結婚式へ行けなかった一部始終を日野さんに話した。日野さんなら何でもないことのように俺の心を落ち着かせてくれる。そんな気がしていたからだった。
「それはひどい話だ。エイタは誰に恥じることのない立派な人間だよ。これは俺が一番よくわかっている」
「もう泣かないでよ」
「おい、エイタ。こんなところで泣いてる場合か。でも、俺が顔を出したらユウヤの幸せの邪魔になってしまう」
「一生に一度の結婚式に兄貴が来てくれない。弟がそれで本当に幸せになれるのか?ユウヤにとって、お前がその程度の存在のはずがないだろう。ユウヤは言ってくれていた。遅れてもいいから来てほしいと。行くべきだよ。ほら、行きなさい」
「日野さん、分かりました。行くよ」
誰でもない、弟のために。俺は急いで帰宅して身支度を整えた。日野さんの言葉の一つ一つが俺の背中を押してくれていた。

結婚式の会場にタクシーで到着すると、まだ控室に二人が待機していた。
「兄さん、間に合ったんだね。よかった」
ユウヤが喜ぶ横で、マユは急に不機嫌な顔になった。
「ちょっと困るわ。どうして来たのよ」
「どうして兄さんが来て困るんだ?」
「来れないって言ってたから、席を埋めるための人を呼んでるんだから、困るのよ」
きっと偽物の親戚ってやつなのだろう。入場の時間も迫り、マユはいつもよりイライラして焦っているように見えた。
「やっぱり今日はユウヤをお祝いしたかったんだ」
マユに向かって言うと、マユはついに怒り出した。
「お兄さん、約束が違うわよね。どうして言うことを聞いてくれないの?もう時間もないのに」
「だから、俺はユウヤの兄で」
「兄だから何?兄弟愛ってやつ?本当にうんざり。新郎の兄があんたみたいな中卒の人間だなんて、誰かに知られたらどうしてくれるの?」
マユはユウヤが見ているのにも関わらず怒鳴った。
「お父様に追い出してもらうから、そこを動かないで」
すると、控室のドアがバタンと乱暴に開き、マユの父親が慌てた様子で入ってきた。
「マユ、工藤さんというのはどの人だ?」
「ちょっと何?どうしたっていうの?お父様」
「今、うちの銀行の大口の取引先から、解約したいと突然連絡が来たらしくて、銀行はもうパニック状態なんだよ。話を聞いたところ、マユが工藤さんに対する失礼な態度を改めない限り、結婚式は中止すると言っているらしいんだ」
品性を疑うと、マユがきっと俺を睨む。
「お兄さん、何かしたの?SNSを使って評判を下げるようなことしたんじゃないの?」
「俺は何も知らない。何のことか分かりません」
俺の名前がどうして出てくるのか、全く見当がつかなかった。
「マユ、約束が違うって。まさか兄さんが急に来れなくなったのって、マユが来ないように仕組んだからなのか?」
「仕組んだなんて人聞きの悪い。私はただ言い訳を考えて」
彼女の言葉を遮って、俺は言った。
「恥ずかしい存在だと彼女に言われて、来ない決心をしたんだが、間違いに気づいて急いで来たんだ」
「ちょっと、マユ。兄さんに恥ずかしい存在だと言ったの?」
「そ、それはその、だって」
マユは言い訳をしようとしたが、言葉が続かなかった。そんな彼女にユウヤが強い口調で告げる。
「俺は兄さんに大学まで出してもらえたんだ。感謝してもしきれないっていうのに。兄さん、ごめん。本当にごめんなさい」
「ユウヤ、いいんだ。頭をあげてくれ」
ユウヤは頭をあげると、睨むようにマユを見た。
「マユ、この結婚はなかったことにさせてくれ。お父さん、それでいいですよね」
「それで許してもらえるのならば、私はそれで構わない」
「ちょ、ちょっと」
マユは何か言おうとしたが、マユの父親は出ていった。きっと銀行の対応に行くのだろう。こうして結婚式は、新郎新婦の入場もないまま解散となった。

ユウヤの話によると、マユは銀行の信用を失ったとして首になり、父親も処分を受けて他へ転勤になるらしい。マユはユウヤのところへ泣きついてきて、全て話したのだと言う。しかし、ユウヤはマユに全く未練がなかった。俺にしていたことを聞いて、彼女の本性が分かったことが大きかったようだ。彼女は同僚からもよく思われていなかったみたいで、大口の取引先からの連絡をきっかけに、他にもあることないこと悪い噂が立ってもう戻れる見込みはなくなったらしい。
「そうか。でも、結婚する前に本性が分かってよかったって思うことにしよう」
「うん。そうだね。それにしても、大口の取引先って気にならない?」
「うーん。確かに。俺のことを知っている大口って誰なんだろうな」
建築現場で働く俺に、銀行を揺さぶるほどの知人はいない。それが、実は一人だけ心当たりがある。
ユウヤは大口の取引先に当たりをつけて調べたところ、調べた中の一つの会社の会長の名前に見覚えがあると言う。
「じいちゃんのお葬式に来てくれた日野さん。下の名前、知ってる?」
「日野さん。確かじいちゃんが日野さんのことをマサって呼んでいた。時にはマサやん」
「そうだ。マサさんだと思う」
「ビンゴ。兄さん、結婚式のこと日野さんに話した?」
「ああ、したけど」
ユウヤがニヤニヤ笑って日野さんのことを教えてくれた。なんと日野さんは、銀行の取引先の大手企業の会長だったのだ。

次の休み、俺はまた釣りに出かけていった。急ぐ心とは裏腹に足はついてこなくて、転びそうになりながらもいつもの釣り場にたどり着いた。
「日野さん」
「おお。結婚式は無事に行けたか?」
いつもの場所で日野さんはニカッと笑って見せた。
「日野さん」
「エイタはこの間から戻りが良くないな。昔はそんなに泣き虫じゃなかったぞ」
「愚痴ったせいで迷惑かけてごめんなさい」
「何言ってるんだ。俺はお前の釣り仲間だろ。お前が思うように、ユウヤのことも俺は大事に思ってる。仲間を助けるのは当たり前だ。気にすんな。それに、釣りをする時は何も考えるな」
俺は頷いて日野さんの隣に座り、釣り糸を垂らした。

そんなことがあったことも遠い昔のように、忙しく働いていつもの日常に戻っていた。いや、戻ったのとは少し違う。俺の身の周りに変化が起こっていた。
「工藤さん、これ作りすぎちゃって。よかったら食べてください」
コンビニのおにぎりとお茶というつまらない昼食が、近頃華やかになった。最近入った事務の女の子が、何かと理由をつけてお弁当を作ってきてくれるようになったからだ。彼女は日野さんの孫娘で、昔日野さんに連れられて釣りをしに来た女の子がいたことを彼女に言われて、ぼんやり思い出した。
「私の初恋の人で、ずっと忘れられなかったんだよ。今思い出すなんてひどい」
そう言ってむくれていたが、次の瞬間には笑ってくれる。彼女のそんな明るさを好きになり、今では大切な存在になった。
ユウヤから久しぶりに電話がかかってきたのは、彼女ができたとメールで報告した夜だった。
「兄さんの彼女、今度紹介してよね。俺もその時彼女連れてくから」
どうやらユウヤにも新しい彼女ができたらしい。
祖父が教えてくれた釣りは、幼い頃俺の心を落ち着けてくれた。そして今では、大切な人とのつながりになった。今日の天気は晴れ。天気予報によれば、しばらくは晴れの日々が続くらしい。今週末のデートは、釣りに誘ってみるつもりだ。

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