「あの時、私は娘の結婚式で、両親として最も大切な役割を奪われようとしていた。」
娘の瞳が、医師の研修を終えて、結婚を報告してくれた時は、本当に嬉しかった。相手は望むという、瞳が研修している大学病院の院長の息子だと聞いた。私は一瞬、胸がざわついた。私たちのような普通の家庭と、大病院の院長一家では、あまりにも住む世界が違いすぎる。夫の高志も同じことを感じたのか、表情が曇った。
しかし、瞳は「望むはそんなことを気にする人じゃない」と力強く言った。娘の決めた相手だ。私たちが信じてあげなくてどうする。そう思って、その不安を胸の奥にしまい込んだ。
それが、地獄の始まりになるとは知らずに。
両家の顔合わせの日、相手の両親は約束の時間を10分過ぎても現れなかった。そして、現れた院長の正しと妻の麗子は、最初から私たちを見下す態度だった。待たせたことも謝らず、妻の麗子は私のスーパーでのパートの仕事を嘲り、正しは高志の工場での仕事を「社会の歯車」と侮辱した。夫婦で耐え忍ぶしかなかった。娘の幸せのためだと、自分の心に言い聞かせて。
それから、嫌がらせはエスカレートした。麗子からの嫌味な電話は日常茶飯事になり、呼び出された高級ホテルでは、値段を読み上げながら「あなた方には一生縁のない世界でしょうけど」と笑われた。正しは、恩着せがましく結婚式の費用を全て持つと言い、高志を呼びつけては説教を垂れた。
私たちの苦しみを知ってか知らずか、瞳は結婚式の準備に浮かれていた。実の両親が受ける屈辱に、まるで気づいていないようだった。私が不安を伝えても、「母さんたちの考えすぎよ」と一蹴されてしまった。
そして、結婚式の1週間前。最後の顔合わせの席で、正しは言い放った。
「当日はただの置き物になってもらいたい。スピーチは一切不要だ。親族紹介もこちらで済ませる。余計な口を開かないでもらいたい。それが、君たちの娘と我々の息子の結婚を認める唯一の条件だ。」
親としての存在価値を、完全に否定された瞬間だった。望むが泣きながら抗議したが、正しに「この結婚を破談にしたいのか」と脅され、黙り込んでしまった。
運命の結婚式当日。会場に案内された私たちの席は、一番後ろの小さなテーブルだった。メニュー表すらない、何も置かれていないテーブル。私たちだけが、そこにいるだけで場の空気を汚す存在のように扱われた。
披露宴が始まり、料理が運ばれてくる時間になっても、私たちのテーブルの前だけ、ウェイターは素通りしていく。他のテーブルには豪華な料理が並んでいるのに、私たちには一切、料理が出てこなかった。
そして、正しがワイングラスを片手に、私たちの席へと歩いてきた。その顔には、残酷な笑みが浮かんでいた。
「ああ、お前たちの分の料理は用意させてないんだよ。貧乏人の口には合わないだろう。」
その言葉が、会場に響き渡った。周りからは、嘲笑うような笑い声が漏れる。私は頭が真っ白になった。隣で高志が静かに立ち上がり、震える私の肩を抱いて言った。
「帰るか。」
うん。私は頷くことしかできなかった。私たちが席を立ち、出口へ向かおうとした時、今度は麗子が追い打ちをかけた。
「ほら、もうお帰り。貧乏人はさっさと帰れ帰れ。」
その言葉で、何かがプツンと切れた。もう、我慢の限界だった。私が振り返り、何か叫ぼうとした、その瞬間だった。
「お父様、お母様、いい加減にしてください。」
会場中に響き渡ったのは、怒りに震える、しかし聞き覚えのある声だった。声の主は、純白のウェディングドレスをまとった、私たちの娘、瞳だった。彼女は、鬼のような形相で義両親を睨みつけ、マイクを握りしめていた。
瞳は、私たちが受けた屈辱を、全て見ていたのだ。
「私はこの結婚を、今この場で取りやめにさせていただきます。」
その言葉に、会場は騒然となった。正しが怒鳴るが、瞳は怯まない。
「あなた方が今『貧乏人』だと見下している私の両親こそ、あなたが最も尊敬すべき人たちなのです。」
そう言って、瞳はドレスのポケットから、一枚の古い写真を取り出した。日に焼けた、若い男女が、紛争地域の子供たちに囲まれて微笑んでいる写真。若き日の、私と高志の写真だった。
「私の両親は、あなた方が『神の手を持つ伝説の外科医』と噂する高志先生と、その最高のパートナーであり『眠りの天使』と呼ばれた天才麻酔科医、彩佳先生です。」
会場は爆発したような騒ぎになった。正しと麗子は、顔面蒼白だった。瞳はさらに続ける。
「お父様、あなたが開業したこの大病院。その設立資金の大部分は、私の両親が設立に尽力した医療財団からの特別な援助があったからでしょう。」
正しは、崩れ落ちそうになっていた。瞳は最後に、私たちに深く頭を下げ、号泣した。
「お父さん、お母さん。私は幼い頃から全て知っていました。2人は私の最も尊敬している両親であり、医師です。それなのに、こんなことを見過ごそうとしてしまった。本当に申し訳ありませんでした。そして、望むさん、ごめんなさい。私はあなたと一緒になるつもりはありません。」
そう言って瞳がステージを降りようとした時、今まで呆然としていた望むが我に返って叫び、彼女の腕を掴んだ。
「待ってくれ、瞳。行かないでくれ。」
望むの目からは、大粒の涙が溢れていた。彼はようやく全てを理解したのだ。
結婚式はあっけなく終わり、その後のことはあまり覚えていない。ただ、心に重くのしかかっていた霧が、ゆっくりと晴れていくような感覚だけがあった。
数日後、望むと瞳が2人で、私たちの家を訪ねてきた。2人揃って、深く頭を下げた。望むは、両親の代わりに土下座し、謝罪した。そして、瞳は言った。
「お父さん、お母さん。私たち、あの人たちとは縁を切ります。私と望むさんで、ゼロから新しい人生を始めます。」
望むも、医師として、もう両親の言いなりにはならないと、強い意志のこもった目で宣言した。高志は、少し驚いた様子で、しかし、やがて深く頷いた。そして、若い頃に描いたという、理想の地域医療を形にするためのクリニックの設計図を、2人に託した。
「これは俺が昔描いた夢の設計図だ。もし君たちが本気なら、この夢を託したい。ただし、資金は貸し付けだ。いつか必ず、自分たちの力で返してくれ。」
瞳と望むは、涙を流しながら、力強く頷いた。
あれから数年。瞳と望むは、私たちの家の近くに、「光クリニック」という小さなクリニックを開業した。最新の設備こそないが、いつも患者さんの笑顔で溢れている。瞳は立派な医者になり、望むは患者から慕われる存在になっている。高志も時々クリニックを手伝いに行き、若い2人にアドバイスを送っている。
正しと麗子は、医療財団からの援助を打ち切られ、病院の経営は傾き、家族からも見捨てられて、遠い親戚の家を点々としていると聞いた。私はもう、彼らを憎んではいない。ただ、哀れな人たちだったと思うだけだ。
今、私たち夫婦の楽しみは、夕暮れの町を2人でゆっくりと散歩することだ。ある日、高志が私の手をそっと握りながら言った。
「彩佳、これからもずっと一緒に歩いていこうな。」
その手の温かさは、あの日、野戦病院のテントの中で初めて感じた温かさと同じだった。私は心からの笑顔で頷いた。
国籍や家柄、財産や名誉。そんなものは、人の価値を決めるものではない。本当の価値は、その人がどう生きてきたか、そして、どう生きようとしているか、その行動の中にこそ宿るのだ。



